2016年の作品。バラナシはヒンドゥー教の聖地で、
ヒンドゥー教徒であればここで死にたいと思う場所である。
タイトルはムンバイからバラナシへ向かう列車の名前。
生と死について考える作品である。
バラナシに行かれた人は感じると思うが、
ヒンドゥー教徒として生まれ落ちてから死ぬまでの一生が、
ガンジス河と一緒に流れている。そこでは生まれる事も、
生きる事も、死ぬ事も特別な事ではない日常が存在する。
<ストーリー>
ムンバイのチャットラパティ・シヴァジ・ターミナス駅、
バラナシへ向かう列車にクリシュナカント(ダルシャン・
ジャリワラ)が乗り込む。席に座ると向い側の男が話かけてくる。
男は下車する時「スーラト(グジャラート州)で食事をしなかった
者は天国へは行けない。」と言う言い伝えがあると言い残す。
インド人は話好きなので知らない相手にも話しかけてくる。
こう言うのが本当にうっとうしいのである。
クリシュナカントは末期の結腸癌で余命2ヶ月弱を宣告されていた。
子供たちに遺書をしたため死に場所を求め一人でバラナシへ向かう。
末期の結腸癌なら血便も出るし気づきそうだけど・・・。
バラナシに着きムクティ・バワンへ行きたいと告げると、
一人のサイクル・リキシャ夫が語りかける。1ヶ月か?2ヶ月か?
ラフィック(ヴィヴェック・シン)は経験からクリシュナカントが
死に場所を求めて来た事に気づいていた。
ムクティ・バワンはバラナシで死を待つ人々が滞在する場所である、
ヒンディー語で「自由の館」と言う名前で、
人生の苦痛や悩みから解き放されると言う意味である。
あてがわれた部屋は住人が出て行ったままであった。
出て行く=あの世に行くであるから、そのままである。
クリシュナカントは掃除をし祈祷をして眠りにつく。
裕福なビジネスマンであった彼であるが、
ここでは死を待つ一人の男である。
翌朝、嘆き悲しむ声で目を覚ます。前日、家族と一緒だった老人が
天に召されていた。ガートの壁に書いてある言葉。
नंगे तन पैदा हुए थे खाली हाथ।
कर्म रहना है सदा मानव के साथ।
裸で生まれた、空っぽの手で
業は存在する 全ての人間と一緒に
担いで運ばれる遺体に付き添い火葬場に行く。
儀式を見つめるクリシュナカントに子供の僧侶が話かける。
死ぬ事を恐れる必要はない、肉体は滅んでも精神は死なない。
子供は独りで暮らしていると言う。
クリシュナカントは死を待ちながら毎日ガートを歩き、
施しをしたり人々を助けて回る。自分も腹痛にみまわれながら、
ムクティ・バワンの人々の世話し30日が過ぎて行く。
ムクティ・バワンはホテルではないので1ヶ月以上滞在する人は、
出て行かねばならず、クリシュナカントはラフィックの紹介で
カラリヤパット(インドの格闘技)の道場に住み込む。
ラフィックとも友好関係を築きながらクリシュナカントは、
子供に勉強を教えたりして余生を送り、1年が経ったある日、
新聞を見て自分の会社が閉鎖の危機にある事を知る。
バラナシで新しい人生を送っていたクリシュナカントだが、
苦労して大きくした会社の事が気になりムンバイへ戻る事にする。
列車に乗ったクリシュナカントの脳裏にバラナシでの出来事が、
走馬灯のように浮かんでくる。そして来るときの列車の男の言葉を
思い出す。「スーラトで食事をしなかった者は天国へは行けない。」
クリシュナカントはスーラトで下車し駅前の食堂へ行こうとする。
そこへトラックが突っ込んで来てクリシュナカントは死んでしまう。
食堂に書かれた言葉。「スーラトで食事をして、バラナシで死のう。」
非常に興味深い映画だった。バラナシ観光をしなくとも、
観光した気持ちになるし、ヒンドゥー教徒の死生観、
死ぬ場所を求めてバラナシにたどり着いた人の気持ちも解る。
最後はそう来たか、と思ったけど。食事をしてから死ぬのかと
思ったら食事できなかったのは残念だぁ。もしもだけど、
ムンバイに戻らなかったら、スーラトで途中下車しなかったら、
あのままバラナシで楽しく暮らせたかもしれない。
スーラトは行った事がないけれど、まだ死にたくないからなぁ。