85歳で現役!の女性起業家 「女だてらに」突き破り「お金では買えない財産」を増やす
85歳でなお会社経営の第一線で活躍している女性がいる。「女性が発信するメディア」を掲げ、国内初の電話情報サービスを1969年に起業したダイヤル・サービス(東京・千代田)の今野由梨社長だ。電話秘書サービスを皮切りにその後は育児相談などに注力。昨今は時代のニーズに即応しセクハラやパワハラ、企業のコンプライアンス(法令順守)や新型コロナウイルスにまつわる悩みにも耳を傾ける。自らの起業体験を踏まえ、後進にも支援の手を積極的に差し伸べ、「ベンチャーの母」とも「国境なきお母さん」とも呼ばれ、国内外の多くの人たちから慕われている。今野社長が振り返る過去50年と、これからとは――。
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「よくぞ言ってくれました」。日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議会で2021年2月、女性蔑視発言をした東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の前会長、森喜朗元首相に対する今野社長のコメントだ。もちろん功罪複雑な思いも込めてである。
元首相の発言は国内だけでなく、海外からも非難を浴びた。日本の遅れた現状がはからずも露呈したが、だからこそ「改善に向け今こそ本気で動き出す大きなきっかけ」と期待するからに他ならない。
「男性優位の社会の中で長年、私は変人扱いされながら格闘してきた。この50年で多少の変化の兆しは感じるが、元首相の発言は市井の人間とは比べものにならないほどインパクトが大きい」と考えるからだ。
■「女だてらに」の半世紀
「『女だてらに』という言葉に付きまとわれた半世紀だった」と今野さんはこれまでを振り返る。1936(昭和11)年、6人姉妹の次女として三重県桑名市で生まれた。9歳の時、米軍のB29爆撃機が投下した大量の焼夷(しょうい)弾による空襲を体験、死の恐怖を体験した。
東京の大学に何としても進学する――。今とは違い当時はまだ女性が大学へ、しかも上京してまで行くことがなかなか認められない時代だった。にもかかわらず、今野さんを突き動かしたのは、あの戦争体験の悲惨さを何としても米国に直接、訴えるという強い意思だった。
それでも両親の猛反対に合う。何とか説き伏せ、東京の津田塾大学のみ受験を許され、一発勝負で合格したが、今度は「仕送りはなし」といわれてしまう。国と県の奨学金制度を利用し、ようやく上京・進学の夢をかなえたが、その際も東京大学に合格したクラスメートの男子の母親に「公的な奨学金は将来、国を担う人材が利用すべきもの」と奨学金の権利の譲渡を強く迫られるというオマケが付いた。「分かりました。(奨学金を)もらうべき人がもらった、といつかご理解いただけるように致しますので」。これまであまたの「女だてらに」の壁に直面してきた今野さんだが、一番発奮したのは「この時」と明かす。