「中学生日記より」
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると すっかり喪失してしまっていた記憶が 断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。(コピペ文、再読無用)
その26 「田植え休み、結(ゆい)」
昭和31年6月4日(月)、天気 晴、
田植(え)休み
1、田植え
昼前(午前中) 川原
昼後(午後) じょんでん(十二田)、山田、苗代附近、
人足 12人、家 3人、正、
2、明日、昨明日(明後日)、オケヤ、
3、休み(田植え休み) 1週間、
M男の通っていた北陸の山村の1学年1クラスの小さな中学校では、当時、毎年、田植えのピーク時期に1週間、「田植え休み」と称して休校にしていた。生徒のほとんどが農家の子供であり、中学生ともなると、一人前の働き手に数えられていた時代、農業は 家族全員で営むのが当たり前の時代だったのだ。
さらに、「結(ゆい」という慣習がまだ残っていて、親戚や親しい間柄の家同士が、交互に人足として 手伝い合っていた時代でもあった。あらかじめ、田植えの順番の打ち合わせがされ、持ち回りで行っていたが、この日は、M男の家の田植えだったようだ。
人足 12人・・と書いてある。手伝いにきてくれた人の人数が12人ということだ。家、3人とは、父母とM男のことだと思う。午前中は 「川原の田んぼ」と呼んでいた堤防に接していた田んぼの田植え、午後は 「じょんでんの田んぼ、山田」等と呼んでいた棚田の田植えをしたようだ。
明日、明後日は オケヤ・・・と書いてある。オケヤとは M男の父親の実家(本家)の屋号で大農家、田植えも2日間掛かったようだ。
総勢15~16人ともなると、休憩時の接待(飲み物、お茶菓子類等の準備)や、昼食(味噌汁、おかず、おにぎり等の準備)に、裏方も大変で、M男の家では祖母が担っていたような気がする。苗の植え付けは手作業、腰を折って、辛い作業だったが、その大部分は 「女衆(おんなしゅう)」がしていて、お互いに大きな声でおしゃべりしながら、陽気で、和気藹々、賑やかな田植え風景だったことが思い出される。M男は 主に苗の束を運んでは 投げ入れる役割をしながら、女衆に混じって、誂われながら、並んで植え付けもしたが、辛抱強く、手慣れた女衆にはとうてい叶わなかった気がする。
昭和30年代頃の田植え風景
(ネットから拝借画像)
休憩時やお昼時、リヤカーで食べ物や飲み物を運ぶ風景
相互フォロワー登録している「気ままぶらぶら」たなのぶ様のパソコン画
ご本人のご了解を得て拝借している。
田植えの歌 (YouTubeから共有)
「田植えの歌」の「お百姓さんの歌」も、覚えてたいます。
あの頃は学校で、歌の時間に教えていたのでしょうか。そうでなければ、私が懐かしく思い出すはずがありません。
辛く悲しいこともあったのでしょうが、こうして思い出しますと、「古き良き昭和の日々です。」
M男君の日記も、私には過ぎ去った昔を思い出させます。
感謝しつつ拝読いたしました。
コメントいただき有難うございます。
私は経験がありませんが、このような時代だったんだと思います
ゆい:これで飛騨高山の屋根吹替で知った言葉です
そういえば、私が家の前のぼた山で遊んでいて
(お嬢様がそんなことをして‥‥?)と言われていました。
子供を背負って学校に来たお友達を助けていたような
記憶があります
胸がいっぱいになる記事?
でもいい時代だったかもしれませんね?
Mおさんは几帳面ですね:素晴らしい~~
コメントいただき有難うございます。