図書館から借りていた、藤沢周平著、「海鳴り」(上)(下)(文春文庫)を、やっと、やっと、読み終えた。江戸時代、身を粉にして働き、一代で紙問屋を築き上げた商人が、妻とは心が通じず、跡取り息子は放蕩、「自分の人生、これで良かったのか」、老いを感じ始めた頃に出会った人妻に思いを寄せ、道ならぬ道へのめりこんで行くという筋書きの長編時代小説である。これまで読んだ藤沢周平の時代小説の多くは、下級武士ものであったり、市井ものであっても刀や匕首で斬り合う場面が登場しているが、本書は、最終章で、腕利きの岡っ引きを登場させ、ピリッと絞めているものの、物語全体に、武家や捕物の人物の登場一切無しで、刀や匕首で斬り合う場面も無し。とことん、江戸の紙問屋を中心とした商人の世界を描いている作品である。同時に、藤沢周平作品には珍しい、道ならぬ、ダブル不倫の物語であり、官能小説まがいの濡れ場も織り込まれており、いささか驚かせられた書である。
目次
(上巻)「白い胸」「闇の冷え」「見えない壁」「日の翳り」「崩れる音」
「夜の道」「取引」「暗い火花」「狙い撃ち」「凝視」
(下巻)「仄かな光」「裏切り」「おたね」「火の花」「遠い稲妻」「秋の声」
「破壊」「野の光景」
(解説)後藤正治
主な登場人物
小野屋新兵衛、おたき、幸助、おいと、喜八、倉吉、
おみね、庄吉、
丸子屋由之助、おこう、
塙屋彦助
兼蔵、おとし、
鶴来屋益吉、おたね
須川屋嘉助、森田屋重右衛門、万喜堂、
山科屋宗右衛門、佐太郎、
長兵衛、
おゆう、
常七、
表題の「海鳴り」は、新兵衛がまだ新助と言っていた若い頃、奉公先の商用で小田原に行った帰り道、海辺の街道で、一人心細く、怯えて聞いた海の音のことで、脳裏に焼き付いていて、新兵衛には不吉、不安を誘う音のこと、この物語にふさわしいのかも知れない。
不義密通は、死罪と決まっていた江戸時代、道ならぬ道に踏み込んでしまい、抜き差しならなくなり、商売も、妻子、世間も捨てて、駆け落ちする新兵衛とおこう。
「二人は立ちどまって、顔を見合った。ついでに固く手をにぎり合った。新兵衛は野を見た。日の下にひろがる冬枯れた野は、かって心に描き見た老年の光景におどろくほど似ていたが、胸をしめつけて来るさびしさはなかった。むしろ野は、あるがままに満ちたりて見えた。振り向いて新兵衛はそのことをおこうに言おうとした」(完)
後藤正治氏の解説によると、「海鳴り」の執筆を終えた後、藤沢周平氏は、当初、新兵衛とおこうを心中させることで結末をつけるつもりだったが、殺すにしのびなくなり、少し無理をして江戸から逃亡するという筋書きにした、と述懐されていたのだそうだ。
藤沢周平作品の多くで、氏独特の情景描写に引き込まれている類だが、本書もまた傑作であり、市井もの長編小説の代表作であると思ったところだ。
人生や老いをしみじみと考えさせられる
「日残りて、昏るるに 未だ遠し・・」
コメントいただき有難うございます。