第4章 「巣鴨の家」
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正月気分もおさまり、よく晴れて風も無く、陽射しが温かく感じる日だった。くには、盥(たらい)に汲んだ井戸水で、せっせと洗濯に精を出していたところだったが、通りの板塀から、ひょっこり顔を覗かせた入江綾子が、
「くにさん、ちょっと、いい?」と、言いながら入ってきた。
千代子と同い歳の女の子がいたこともあって、ここ、巣鴨に引っ越してきてから直ぐに親しくなり、互いに行き来するようになっていた、近所の資産家の入江淳一郎の妻である。
くにより、2~3歳は若く、気さくで、誰とでもおしゃべりする女性だったが、人当たりの良いくにとは、特に馬が合ったようで、お互いに、「くにさん」「綾子さん」と呼び合う仲になっていたのだ。
「今日は、だいぶ、あったかくて、助かるねー、」
「何しろ、洗濯物、たまってしまってさあ・・・」
「玄関の横の梅、ちょっと、蕾、膨らんできたんじゃなーい」
洗濯は、まだ終わってはいなかったが、くには、手を休め、綾子を家の中へ招き入れ、いつものように茶を入れると・・・、
「実はねえ、くにさん、ウチの人がさー、知り合いから聞いてきた話なんだけどさー、掃除とか、洗濯とか、食事の世話とかしてくれるおばさん、探しているっていう人、いるんだってさー・・・」
「詳しいことは分かんないけど、どうも、金物問屋のご隠居の家でねえ、駒込らしんだよ。駒込なら、近いしさー・・・」
「住み込みでなくってもいいって、言ってるようだしさー、くにさん、どうかしらねー、・・・」
くには、前の年の秋に、この巣鴨の家に引っ越してきてから直ぐにも、本格的に仕事を探し始めていて、あちらこちらに声を掛けていたのだった。くにと千代子、母娘の事情を知って、いろいろ心配してくれる人がいたが、尋常小学校高学年の千代子を一人、放っておく分けにはいかず、やはり、限られた時間の仕事となると、なかなか難しく、千代子が、学校を卒業するまでは、無理かなあ等と思い始めていたのだった。
「わたしなんかでも、務まりそうなのかしらね」
綾子がもってきてくれた話に、なんとなく気乗りしてしまったくに、
「せっかく、旦那さんが心配して、もってきてくれた話、うかがってみようかしらん」
「綾子さん、旦那さんに、その方の住所とか名前、聞いてもらうよう、お願いして下さいな」等と応じ、綾子は綾子で、くに、千代子、母娘には、なんとしてもお節介を焼く気になっていた。
その数日後の昼過ぎ、綾子が、夫の淳一郎が知り合いから聞き込んできた、家事手伝いをするおばさんを探しているというお宅の情報を知らせにやってきた。そのお宅は、松本善蔵、良重という老夫婦の家で、駒込の駅から歩いて5~6分に有るのだという。善蔵は、2年前まで、浅草で金物問屋を営んでいたが息子に譲り、隠居暮らしをしていたが、今年の正月、妻の良重が足を悪くし、思うように家事を熟せなくなってしまい、急遽、お手伝いさんを探しているということのようだった。
「ウチの人、くにさんのこと、知り合いに話したんで、多分、その松本さんの方に連絡してくれていると思うよ」、
綾子から急かされたくには、その翌日、早速、駒込の松本善蔵邸を訪ねたのだった。
どっしりした造りの邸宅で、訪いをいれると妻の良重が玄関に出てきた。足を引きずっていたが、品の良いおっとりした女性で、くには 第一印象、好感を抱いたのだった。予め、話が通じていたのだろう、すんなり迎え入れられ、座敷に通され、夫の善蔵とも型通りの挨拶を交わしたが、細かいことに拘らない鷹揚な人柄のように見え、くには、たちまち、この家の家事手伝いを、やる気になってしまったのだった。
さらに、働く時間も、きっちり定めること無しで、食事の支度、片付け、掃除、洗濯等さえ、きっちりしてもらえれば、それで良いこと、くにと千代子の事情も聞き知っていて、子連れで通ってもらっても一向に構わない等、くににとっては、願っても無い条件が揃っていて、くには、一も二もなく、「よろしくお願いします」と、頭を下げるのだった。善蔵・良重夫婦も、くにの人柄を感じ取ってくれ、大いに好感を持ったようで、
「明日からでも、お願いしますよ」と、歓迎されたのだった。
特別、準備するものも無く、くには、その翌日から、駒込に通い始めた。他人様の暮らしの中に入り込み、家事をするには、気遣いも必要、馴れるまでは、相当な時間は掛かるものだが、若い頃から、女中奉公等していたくににとっては、その辺の心得は十分に有り、料理の腕も素人とは言えず、善蔵、良重夫婦は、くにの働き振りに感心するばかりだった。
千代子を、出来るだけ一人にしたくないくには、千代子の登校時間、下校時間、休日、朝、昼、夕、時間を調節しながら、時々は、千代子を連れて、松本邸へ通ったのだが、善蔵、良重夫婦にとっては、女の子が時々家に居る暮らしが楽しみになり、千代子を孫のように可愛がってくれるのだった。
ある日、くにが千代子を連れて、松本邸で出向き、家事をしていた時、良重の姪だという日出典子という来客が有り、くには、引き合わされた。典子は、くにより1歳歳上で、夫と共に、吾妻橋の近くでメリヤス下着等の縫製業を営んでいるという、サバサバ、如才ない、江戸っ子気質の女性だった。
情に厚い典子は、年齢もほとんど同じくにが、養女の千代子を連れて、叔母の家で、家事手伝いの仕事に通っていることに、すごく同情を感じたようで、積極的に話掛け、打ち解けて、旧知の友達のように、接してくれたのだった。月に3度は、松本邸に立ち寄っているという典子、くにと顔を合わす度に、親しくおしゃべりするようになり、
「今度、ウチに、遊びに来なさいよ」等と 言われる仲になった。
善蔵、良重夫婦には、そんな、くにと典子の関係が、仲の良い娘姉妹のようにも見え、温かく見守る風であった。
やがて、3月になり、千代子は、転校してわずか数ヶ月の尋常小学校を卒業することになったが、担任の先生や同級生と馴染む間もな無しで、感慨は薄いものだった。千代子は、晩年になって、その卒業した小学校のことが、ほとんど記憶に無いことに気がつくのだった。
(つづく)