ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

言葉のイメージ、異なりダメージ!

2007-04-13 00:24:37 | 演劇

 ちょっともラップ風に韻を踏んで始めてみた。今日から、チンドン芝居の稽古が始まった。

 チンドンやるぞって、宣言したら、非難囂々、悲鳴飛び交い、悲惨な有様、大混乱!と、思いきや、菜の花座の面々、きゃーきゃー言いながらも、すんなり受け入れてくれた。どう考えたらいい?肝っ玉座ってる?役者根性お見事?それとも、課題の重さがわかっていない?う~ん、どれだろう?多分、全部たろうね。でもまあ、できません!とか、なんでさんなねの?って声が聞こえなかったのは、さすがだね。

 もっとも、クラリネット一から練習しなきゃならないメンバーは、やります、でも、宣伝美術と制作のサブは外してください、って泣きついてきた。まあ、それはそうかもしれない。もう、四六時中クラリネットに没頭してもらわなくちゃなんないから、この懇願は、認めよう。とんでもないこと始めちまったって気付くのは、来週か、再来週かな?

 さて、今日は最初の台本読み。さっそく、キャストを発表して、読んでもらった。唖然!呆然!愕然!憮然!おい、それ、違うぞ!どうしてそう読むの!元気良すぎ!幼すぎ!・・・掛けたいダメだしを堪えるのに苦労した。なんてつまらない台本なんだ、こんな本だったのか、僕が書いたのは、とほんとがっかりしてしまう。

 でも、これはいつものことなんだ。僕のイメージがこうも裏切られるって、どういことのなの?役者が下手なのか、セリフが適切でないのか。それはどっちでもないと思う。台本ってものの、本質なんだよ、きっと。いや、セリフの本質、大袈裟に言えば言葉の本質なんじゃないかな。

 僕がセリフを書くときは、イントネーション、声の強弱、微妙なニュアンス、込められた情緒なんてものを無意識のうちに感じながら書いている。ところが、書き留められたセリフには、その味付けが、さっぱり抜け落ちているんだ。インスタントラーメンで言えば、僕のイメージにあるセリフは、今リバイバル中の日清チキンラーメンで、実際に書かれたセリフは、現在主流の別製スープの生麺なんだってことだ。なに?意味わかんない?つまりぃ、チキンラーメンは、麺に旨味が絡めてあるってこと。だから、・・やめた。

 つまり、ことばってのは、生身の素材だってことなんだ。それに塩味、醤油味を付け、旨味を加え、香辛料をまぶしてみて、はじめて、芝居の言葉になる。生きた人間の言葉になる。そして、味付けの方法は数限りなくあって、それを仕切るのは、まずは、役者なんだな。役者には役者の好みがある。得意の味付けがある。役者が言葉を調理して出してくるから、料理になる。ところが、菜の花座の場合、この味付けが、僕の味付けと、かなり、隔たってるってことなんだ。あ~あ、まったくもう!何年も一緒にやってんだ、以心伝心、わかってくれよって泣きたくもなるが、まあ、仕方がない。この自由度が、芝居の醍醐味でもあるのだから。

 しかし、役者の数だけ板前がいたんじゃ、レストランはしっちゃかめっちゃかだ。そこで、演出の出番となる。まっ、総料理長ってところだね。いろんな役者の持ち味、得意技を取捨選択して、バランスの取れた一品へと仕上げていくってわけだ。

 さあさ、これから3ヶ月、料理長の腕前やいかに?作者のイメージにどこまで近づけることができるか。あるいは、役者たちの新しい趣向を取り込んで、さらに美味しい一皿に仕上げることができるのか、真剣勝負でござんすよ。皆の衆!

コメント
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