ステージおきたま

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演劇の力だぁ!⑧:地域に飛び出す!

2007-05-25 22:34:49 | 演劇

 高校生→芝居→一生懸命→でも、下手→まっ、見てあげようって流れで見る人がほとんどだと思う。当然だよ。僕だって、そう思うもの。ところがね、置農演劇部の舞台を見た人の感想。「高校生の芝居とは思えない!」「高校生がここまでやるとは!」・・・アンケートの中に必ず見つかる言葉なんだ。

 いやいや、置農演劇部が上手だなんて思えない。そりゃそうだ、演劇初めてたかだか、2,3年だからね。しかも、見る方の経験だって極度に乏しい。芝居はおろか映画だってほとんど見ていない生徒達だから。

 でもね、下手は下手なりに、とこんとんやると、なにか見る人に伝わるものができてくるんだよ。役になりきるって言うか、役を無理矢理自分のものにしてしまうっていうか。冷静かつ批判的に見れば、なんだあの演技は、とか、発声が今一だ、とか、いろいろボロは見えてくる。でも、芝居の空間ってそんなしらーっとしたものじゃないんだな。高校生達の発散するエネルギーとかオーラとかが、ばんばん降りかかってくるから。また、演出もそれを狙って熱い舞台作りを目指すから、結局、見終わったあと、ほほーってことになるわけなんだと思う。

 今回の子どもミュージカル『”いただきます”見つけた!』も、公演するたびにじわじわと評判が広がりつつある。子どもの通う小学校の担任の先生に、公演してくれるように手紙を書いたお母さんとか、どこで聞きつけたのか、小学校の先生方の研修会で上演してほしいとか、小学校のPTA会長さんから上演の打診があったりとか、目標の10回公演もほぼ確実の勢いだ。

 高校生の一つのお芝居が、10回も公演したなんて、記録だし、本当に幸せなことだと思う。知り合いでもなんでもない大人達や小学生に見てもらいながら、部員達は役者として、さらには、人間として間違いなく成長している。演劇には、そんな凄い力があるし、地域や観客の視線には、それを育む偉大な力があるってことなんだ。

 高校演劇の可能性をだらだらと書き連ねてきたこのシリーズ『演劇の力だぁ!』もこれでお終いだ。最終回は、そのものずばり、

⑧地域に飛び出す

演劇は作るからには、見てもらわなければならない。せっかくの舞台を本校関係者のみに限るのはもったいない。多くの人に見てもらいたい。音楽ほど気軽にできるわけではないが、演劇も地域に出て行くことは大いに可能だ。子供達を対象にした子どもミュージカルはもう5年の実績を持つ。最近は、評価も定まり、来年の予約もいただくほどになっている。高校生の舞台などと馬鹿にはできない仕上がりだ。

今、地域社会は身近な文化芸術活動が貧弱だ。テレビやインターネットに頼れば見たい映画や聞きたい音楽を次々に手に入れることができる。その気軽さが、地域における地道な活動を停滞させている。

メディアがもたらすプロ作品の質は高い。スイッチの一押しで、レベルの高い作品が画面のすぐ向こうに広がる。そんな状況では、身の回りの文化芸術活動には目も届かず、足も向かない。自分は単なる享受者でありながら、地元の創作者を馬鹿にするといった滑稽な思い違いが広がってしまった。実際、創造活動は手間も暇も半端でない。そんな苦労をして未熟な作品を作る意味があるのか、ということだ。

しかし、地域の活動が高まらなければ、地域の衰退はますます進むに違いない。たとえ技術的には拙い面はあろうとも、その地の人々が精一杯作り上げたものには、メディア経由のプロ作品にはない力がある。特に生身の肉体が目前で演じる演劇にあっては、その存在感は決して捨てたものではない。ネームバリューやプロ信仰に毒されない子供達が置農子どもミュージカルに強く惹きつけられていることが何よりの証明であろう。

一方、部員達にとっても、地域に飛び出し、地域の人々の前で演じきることは、大きな自信につながる。公演を終え、多くの子供達に囲まれて記念写真を撮っている姿は、喜びに溢れ、満足感に浸りきっている。力を出し切って精一杯作れば、こんな凄い感動が待っている。素晴らしいことだ。この経験は、社会に出てからも地域活動を継続していこうとの意欲を高めることだろう。創ることの喜びを知り、感動を分かち合う素晴らしさを知った人間を多く生み出すこと、高校演劇にはまだまだ大きな可能性が秘められている。

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