あちゃぁぁぁ!予想当たっちまったぜ。
上演前、菜の花座の芝居終わったらお客さんどっと帰ったりして、なんて軽口叩いてたら、その通り、ごそっといくななっちまったよ、観客。
さすがに年寄りには目の毒の舞台だったな。
なんせ、選別されて抹殺されるってストーリーだから、気分害して帰った人も少なくなかったろうさ。
わかってたことなんだ、一般受けする芝居じゃないってことは。
じゃ、なんで強行したんだ?
それはねぇ、地方の、田舎の予定調和信仰が我慢ならなかったからなんだ。家族の絆や地域の伝統の力なんてものが、盲目的に信頼されてる現実、めっちゃいたたまれないんだ。ほんとは様々問題抱えてるのにないことにしてしまう、田舎のなあなあ力!
違うだろ、今、そんな安穏な状況にないだろ、この国は。
急激に人口を減らし、貧困層は急増中、暮らしの水準ばかりか人権意識も女性の地位も報道の自由もほとんどの社会的指標が世界の最底辺に落ち込んで張り付いたまんまなんだぜ。地方の衰退は目を覆うほどってやつだ。
いっくら地方都市の芸文祭だからって、お祭り礼賛、地域名産の賞賛だけが未来の姿として描かれちゃまずいだろが。
と、大いに気負って、真っ暗近未来を提示してみたわけだ。
その意図は公演終わった今も正しいと思っている。
が、弱いんだよなぁ、軟弱なのよ、俺。
途中帰ってしまったお年寄りたちに悪いことしたって頭下げてる自分がいるわけよ。せっかく演劇に機会を与えてくれた米沢芸文に申し訳ないことしたって、罪の意識感じたりしてるわけよ。
うーん、もう少し描き方に工夫はできたんじゃないか?夢も希望もないどん詰まりじゃなく、微かでも突破口をしめせればよかったんじゃないのか?
笑いを組み込んであるから、どす黒い舞台も灰色程度には明度を上げられるって、思惑違いだったなぁ。高齢者に受ける笑いのポイントを完全に外してたんだ。
今回の2つの作品、『明後日のジジババ』と『いのちの明日』は、11月の菜の花座定期公演でも再演するつもりなんだが、菜の花座のご贔屓さんも高齢者多いからなぁ。
失敗とわかった部分は手直ししてもいいんじゃないのか。全体のトーンは変わらなくても、どこかほんのりとした後味が残るような作品に改変してもいいのかもしれない、なぁんて、弱気の虫がうごめいている。
さて、どこをどう変えたら、途中退席を阻止できるか?
上演順を最後に持ってくりゃいいんじゃないか、ってそれ違うだろ!
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