ここほんと川西?フレンドリープラザ?観客400名、総立ち!
Reach Out And Touch リーダーのパットが歌いながら客席に降りてくる。「腕を伸ばそう、手を触れ合おう。」歌いながら差し伸べる手に群がる人々。客席を駆け下りて、彼女とのタッチを試みる観客達。もみくちゃになりながら、次々と差し出される手と触れ合いつつ進むパット。押し寄せる人々でもう動くこともできない。そのうちに、上手側の舞台と観客が身を乗り出してタッチし始めた。ホールが完全に一体になった瞬間。1時間半の優しく美しい歌声の後に出現したクライマックスだ。
TEGC(トータル・エクスペリエンス・ゴスペル・クワイア)の演奏会。もう、一曲目からノリノリだった。パットが歌詞を紹介し、一緒に歌うことを促す。待ってましたと歌い出す観客。最初はちょっと乗り損なった僕も、Down By The Riverside あたりでは、もう完全に乗せられちまった。風邪引いて声が出ないっていうのに、歌詞がよくわからないっていうのに、まるっきりお構いなしで、歌い、手を打ち、身体を揺すっていた。もちろん、立ってだよ。
こんなことってほんと珍しい。買って帰った彼らのDVD見ても、東京でだって、立ってんのちらほらだからね。ぎゅー詰めのライブハウスならともかく、演劇専用ゆったりスペースのプラザホールなのに、この盛り上がりだから。彼らの音楽に、聞く人たちを幸せにする力、心を浮き立たせる力が漲ってたってことだ。
ヤヒロ トモヒロさんのパーカッションも大きかった。ドラムとエレキベースにプラスだったから、これは強力。ラテン系のはじけるリズムで、全体を遊園地のような楽しく弾む景色に彩っていた。ゴスペルの重厚さとか、深刻さってものが上手に包み込まれて、とってもポップな仕上がりになっていた。
でも、観客の力も大きかった。米沢、川西のゴスペルグループのメンバーがたくさん詰めかけてたからね、のらないわけないよ。歌わないわけないよ。それと、プラザが続けてきたミニコンサートや歌声喫茶、音が鳴れば、リズムが刻み始めれば、すぐに歌い出す、踊り出すって条件反射になってる人たちがこれまた多い。それと、置農演劇部!彼らも負けずに突っ走ってたからね。こんな舞台と客席が一つになるコンサートが、こんな田舎町で突発する。いいよねえ。さすがだよねえ。
でもね、一緒に歌いながら、フラッピングしながら、跳ねてる高校生みながら、考えてたんだ。この一体感、どこから生まれてくるんだ?って。
「私はあなたのために歌う・・あなたは私のために歌う・・あなたは私の大切な人・・私はあなたの大切な人・・何故なら、神様の身体の一部分だから・・」
冷静に考えたら、この歌詞でそうは簡単に涙流せないんじゃない?自分が神様の一部だって思える日本人ってどれくらいいるだろう?私はあなたのために歌う、これくらいはいい。でも、あなたは私の大切な人って、恋人でもない人に向かってささやけるだろうか?
彼らが恥ずかしがることもなく、ストレートにこんな万人への愛を歌い上げることができるのも、神を心から信じ、敬愛し、賛美できるからなんだ。だから、ゴスペルを聴く時はいつだって、その強烈な信仰とどこまでも深い祈りの気持ちに圧倒されてしまう。また、その一途な思いに、たるんだ心と身体を引き締めたくてゴスペルを聴く。
でも、僕らは違う。万人への愛の世界に生きていない。すべてを投げ出す信仰の潔さとは縁遠い。僕らが見上げる彼方に神は存在しない。日本人が歌うゴスペルが心を打たないのも、言うまでもなくここに理由がある。
今回のコンサートは素晴らしい一体感を生み出した。でも、それはお互いの誤解を土台にして積み上げたものだ。ならば、その一体感に意味はないか?そうではない。僕たちは、手を差し伸べたいと願っている。手を触れ合いたいと念じている。あなたを大切な人と言い切りたいんだ。・・・・・・その思いの深さは、浅くなんかない。でも、身近に神を感じられない僕たちは、その思いだけを心に秘めて、黙している。
そして、昨夜、彼らの歌声が、彼らの呼びかけが、僕らの心の奥底にしっかりと響き渡った。愛する神のもとに届けようと心を込めた歌声が、僕らの魂を揺り動かした。僕らの中の秘めたる希求の思いに灯をともしたんだ。信仰の透明度の高さはある。でも、歌だから、音楽だから、ここまで深く感動し、激しく共鳴できたんだと思う。
結論はここでも、やっぱり音楽は偉大だ。