自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ギータの中のヨガ② Saankhya Yogaha”

2017年08月09日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

アートマの本質を知ることによって内在する神性と合一する

*****************************************2017/8/09

少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、実践方法、

いいかえると、神と一体になるための方法を クリシュナ

の言葉を借りて、これからシリーズで、 お伝えできればと

願う。 

ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する 

’Indwelling Entity',つまり、”内在する普遍の資質”、別名

アートマ のことである。


 誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達

は自覚していない。

自覚したとき、その人の人生は、心身ともに一変するだろう。

苦労を苦労と思わず、喜びの波に有頂天になることもなく、

淡々と、しかも、確実にゆるぎない信念が生まれて、変化

というより、変容するに違いない。 

自然治癒力、病気の本質やその原因も、自ずから、納得して

いただけると思う。

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今日のクリシュナの言葉はギータの2章にある。 

 

背景として、アルジュナが戦闘の場に出陣するに及んで、

敵方に属している、自分の親類や師匠などに歯向かい、刃

を向けることに、心が萎えていくのである。

クリシュナはそこで、アートマ という 心の主体的主

あるじ)、人間の神聖なる本性、内在する神 について

語り、結局、殺し殺されという行為ですら、敵陣の人たち

のアートマを破壊することはできないのだから、心を消沈

させる意味はないと教え諭す。 

それでも、闘うとしたら、ダルマ(正義)を後世の人たちに

身をもって示すという使命で行うだけだと、付け加えている。


何頁にも上る、2章に書かれたクリシュナの言葉の中から、

ヨガ~神との合一に関しての言葉を選んでここにご紹介したい。

 

 Look, my dear son of Kunthi! The senses touch the 

sense-objects, as per their nature. These sensory contacts 

give rise to the feelings of cold, heat, pleasure, misery etc. 

These feelings come and go, appear and disappear. 

They are transitory. 

My dear Bhaaratha! Develop fortitude. 

 Bear them, unconcerned! 

Arujuna, you are a man of excellences! Remember, he 

whom the pleasures and miseries of life do not disturb 

and  whose intelligence is firmly established in the

 constancy among the changes – only he can be blissful 

always. 

That which is not (the “seen”), can never be; that which is 

(the “seer”), can never not be. Those who have understood 

the Truth, experience the finality of these two observations. “ 

(2-14,15,16) 

訳)クンティの息子よ!(アルジュナの事)

感覚器官はそれぞれの性質によって、外部の対象の情報を

与える。

寒い、暑い、喜び、悲しみ、などの感覚はやってきては

消えていく。

常に変化している。

だから、アルジュナよ、不屈の精神を養え。感情・感覚に

左右されるな。

お前にはそれができるのだ。

覚えておくがよい。喜びや悲しみに流されない者は、そうした

変化の中で絶えず知性をゆるぎない状況に置いている、

ただただ、彼は、そうして、至福を味わうことができるのだ。

認識されないことは成立することはなく、認識する人は

そうならないということはない。

真理を理解したものは、この二つのものの観方の結末を体験

することができる。“

 

’不屈の精神’とは、困難に負けないとか、根期強く努力前進

していくという意味とは異なり、五感感覚の対象に、微動だ

せず、心の平安を揺るがされないための、自分の最も内なる

本性に対してのゆるぎない信念をさしている。


それは 信じる、ということ、固い信念をさし、こうで

あると信じたことに対して、移り変わる世の中の現象に

影響を受けることなく、その信念を貫き通すということに

通じる。

 

“That which is not (the “seen”), can never be; that 

which is(the “seer”), can never not be.” 


と上のクリシュナの言葉の最後の節に出てくる言葉。

これは、禅問答のような言葉だ。 

See という言葉がキーワードだと思うが、これは単純

に見るというより、認識する(I see~わかった)という

ニュアンスだろう。 

つまり、the seen とは、認識されていること、その前に

notが付いているから、’認識されないこと’となる。 


認識するというのは、物事が成就するために’心の目で見る’

という意味がある。

だから、心の目できちんと見ていないことは、それが実現

することは難しいということだろう。


反対に、the seer 、つまり、認識する人 にとっては、

その人が認識したことは’そうならないということは無い’、

つまり、現実化する~ということだ


言い換えれば、認識を続けること、それと、信念を貫く

とは、ほとんど同義語かもしれない。

認識してはっきりと心の目でそれを見続けることが、実現の

一歩だからだ。 

そうすることによって、不動の心は造られ、どんな周りの

状況にも左右されずに、自分の思う所を現実に引き出すと

いう真理をクリシュナはアルジュナに教えた。

 

 次に、

“This indwelling entity the Atoma, neither kills nor gets

 killed. 

This entity never takes birth and never dies. It is never

 absent. 

Therefore, it is not something that makes its presence felt 

out of a sometime-absent situation. It has no birth, 

undergoes no change, is ancient and is always present. 

It is not killed when the body is killed. 

Purtha! 

He who knows this entity to be Indestructible, permanent, 

without birth and changeless, tell me, whom will be kill or 

who will he takes to be the killer? The indweller discards

 old, used-up clothes and don’s new clothes. Weapons do 

not destroy this entity. Fire does not burn this. Water does

 not wet this. 

Wind does not dry it. 

This entity cannot be cut, burnt, wetted or dried. 

 It is Indestructible, always present everywhere without 

movement and is well established. It is beyond the ability 

of the senses to perceive and of the mind to capture.

 It cannot be changed in anyway whatsoever.  

Therefore, understand it as such.

Do not be disheartened.”(2-17 to 2-25)

 

訳 心に住む神性、アートマは殺すことも殺される

こともない。

アートマは生まれたり死んだりすることはない。

存在しないということが無いのだ。つまり、ある時は

そこに在り、ある時は、そこに居ないということがない。

古代から現代にいたるまで、生まれることなく、変化

することなく存在している。

肉体が殺されても、アートマは殺されない。

変化することのない永久不滅の実在、それがアートマの

資質だとしたら、だれが一体殺し、誰が殺されるのか? 


内在するこの資質(アートマ)は古い服のように捨てられたり

しない。

武器でアートマを破壊できず、火で焼き尽くされたり、水に

ぬれたり、風に乾いたりするようなものではない。

傷つくことなく、自然の力に影響されることなく、あらゆる

ところに実在し、移動せずとも、よく秩序を保ち、人間の五感

を超えていて、心(mind)でとらえることはできない。

そういうものだと知るがよい。

ゆえに、心を落ち込ませることもなかろう。“

 

ここで初めて、アートマ という単語が出てくる。

簡単な比喩で、アートマの普遍性をクリシュナは

アルジュナに説く。

死と生の狭間(はざま)に置かれて、理不尽な殺戮を

余儀なくされていると感じている、不安げなアルジュナ

に対し、自分自身のアートマを自覚せよと、クリシュナ

は言う。


それは時を超えて、ただ“存在”している唯一の実体で

あることを、様々な角度で語り、アルジュナに理解を

求める。

 

ギータで描かれる クンティ家とその敵,ドリタラシタラ

(Dhritharashtra)家 の闘いは、この地球上の対照的価値観、

つまり、二元性の世界(二つの価値観のある世界)の象徴

である。 

アルジュナの属す、クンティ家は スピリチュアルな存在

として象徴的に暗示され、敵方は物質的な存在として

暗示される。

だから、双方の闘いは、聖と俗的象徴の闘い、あるいは、

神に従順な心と、それに相反する心の闘い、と言えるだろう。


賢者はこの闘いは、現代の私たちの心の中で毎秒起きて

いるものでもあると教える。 

それは、毎瞬、繰り広げられている、私たち一人ひとり

の心の中の、アートマと小さなエゴ(自我)の葛藤’こそが、

ギータの世界で象徴的に描かれているという。


第二章で説かれた、ヨガの名前は、サンキャ ヨガ。

アートマとは何か、理解すること、アートマの実在を自分

の心にも、闘う相手の心にも、見出すこと、感情に左右され

ない、アートマを見据える不屈な信念を養うことで、

神の心と一体になることが可能である、とする、ヨガ行為の

別名でもある。

 

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