父の望む、最期を見届けられた・・・ 2021年1月31日
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父は、2007年6月、体調を崩し、病院に入院した。
2月から食が細くなり、食べ物を受け付けなくなっていた
以外には、特に日常生活に異常はなかった。
母方の叔母は、私のクライアントでもあり、アートマセラピー
の効力を十分に理解してくれていたが、父の不具合を知って、
次のようなアドヴァイスを私に電話でしてきた。
”ヤスヨちゃん、今まで お父さんは、あなたのセラピーで
事なきを得てきたけど、万が一、何かお父さんにあったら、
病院で診察を受けていないということで、警察が入って
ややこしくなるから、一度は病院に行った方が良いと思う”
という叔母の意見だった。
2005年当時 父は、腎不全で国立S病院で治療を受けていた。
”彦田さん、次に血尿があったら、即入院ですから”~と主治医に
言われていた。私がその時、たまたま、一時帰国をした。
実家に戻ると、父が血尿を出したばかりでY先生の忠告通り
入院する準備をしている最中だった。
私は大胆にも、自分のセラピーで父の腎不全を治したいと思った。
私は父にそのセラピーの概要を説明した。
すると、父は傍で心配する母をしり目に、私に任せることを、
決断すると、こう、母に話した。
”おれは、ヤスヨの手当(セラピー)に任すことにするよ。”
自ら受話器を取って、病院に電話をいれて、入院ベッドを
キャンセルした。
それから、約一月間の間、私は父の施術に必死だった。
毎日、体温、尿の量、色、回数、食餌内容、などなど、メモに
とりながら施術をした。
症状は、一進一退を繰り返していたが、確実に螺旋状の階段を
上る如く、結果は良くなっていった。
或るときは黄疸になった。本当に皮膚が黄色くなった。
或るときは、血尿の血の色が異常に濃くなった。
或るときは、食餌も細く、水分などの補給に心を配った。
あとは、父の神経が正常になるように、新陳代謝が活発化
するように、経絡の順気は気功を使って、注意深く整えた。
毎日数時間、父の体を言霊(祝詞やマントラ)で清め続けた。
こうして、父の生命力の強さのおかげで、自然治癒力は全開した。
セラピー開始後からひと月後、血尿はとまり、食欲は戻り、
途中で数日続いた黄疸も無事に乗り越えた。
私は主治医Y医師のことが気になった。そこで、検査入院を父に
薦めた。
もう父の身体は正常値を示すだろう。検査を受ければ完治したことを、
専門医に認めてもらえるだろう。
その時は、父は自信をもって、本格的な回復を実現できるだろう。
父は納得して、検査入院した。
初日は、ナースステーションに一番近い、重篤な患者の寝ている部屋
をあてがわれた。
検査の結果が出た。
主治医Y先生は、家族の目の前で首をかしげた。
そのレントゲン写真には、以前、父が通院中撮った写真に写っていた、
腎臓の結石まで 消えているのが不思議だといぶかしがった。
予想通り、検査結果の数値はそれぞれ、正常値になっていた。
こうして、入院数日後には父はナースステーションから一番遠い、
大部屋に移った。
しかし、2年後の同病院での入院時は状況は違っていた。
2007年、2月、私が実家に、一時帰国したおりのことだ。
父は食欲不振だった。何を食べても、砂を噛むように味が感じら
ないといい、食欲は薄れだんだんと痩せてきていた。
不思議なことに、その父を見たとき、私にはある種の運命的な
予感を感じざる得なかった。
そしてこのときばかりは、自分自身のセラピーの限界を感じた。
施術しても無駄だと、なぜか思った。
インドの師が教えてくれたように、その運命を受け入れるべき時は、
その運命を覆すような努力は無駄であるという言葉を実感で感じた。
父は2年前の回復を期待して、再び、私に、セラピーしてくれと言う。
その父に対して、無情にも出てきた言葉は、
”お父さん、私のセラピーでは今回は無理かもしれない”と、小さな声で
つぶやいた。
それから間もなく帰国した。父が固形食を受け付けなくなってきて
いたので、点滴だけでもうってもらいたいと、S病院への入院に
踏み切ったのは、6月だった。
主治医は 幸運にも、先回2005年の検査入院の主治医Y医師と知己
であるK医師であった。
2005年に冒頭のお話しの、腎臓病が完治した際の、”自然治癒的回復力”
は多少、医局で話題になったようで、今回も又、”自然治癒”的回復力を
重視したいという私の意向は、理解していただけた。
そこで、塩分と水分補給点滴’のみで、しばらく、入院しながら様子を
見ることになった。
父は、かろうじて、点滴で生命を保っているものの、ますます痩せてきた。
しかし、本人は、重篤な患者であるという自覚は全く無く、むしろ自分の
退院を信じていた。
6月に見舞いに行った私は、父が リハビリルームで生き生きと、歩いたり
階段を上ったりして、自主トレに頑張っている姿を見て、嬉しかった。
K主治医が 父のレントゲン検査結果を家族に、報告した。
驚いたことには、父の体のある部位に、”癌の可能性”があるという。
痩せ衰えた父の体力からみて、精密ながん検診は 消耗が激しく行えない
が、と言葉を濁した。
私と母に、”抗がん剤治療”を医師は、薦めてきた。さらに、その背景を
担当医師の本音として 躊躇しながら、次のように語った。
”病院としては、西洋治療を彦田さんは受けていないので、病院経営の
困難な状況の中では、自宅療養として退院をお勧めしてます。
処置を取らしてもらえれば、入院持続は可能です。
とりあえず、癌の可能性が高いということで、抗がん剤の治療を
受けていただきたい。”
私は その話を聞いて即答ができなかった。
もし、自分が日本に居住していたのなら、すぐにでも父を自宅に引き取り、
自宅療養に踏み切ったに違いなかった。
しかし当時、住民票がまだインドにあり、会社勤めをしていた。
自分が責任を持たなければならない、仕事や、インド人のスタッフたちが
待っていた。責任を放棄して、会社を見放してこのまま日本に居続けて
介護をすることは不可能に思えた。
かといって、母一人で、父の自宅療養で面倒を見てもらうことも難しかった
結局、苦汁を飲む気持ちで、私は次のように医師に答えた。
”父に直接、どのようにしたいか、本人の意見を先生から聞いてもらえますか?”
主治医は了解して父にありのままを伝えた。
父は、”癌宣告”に驚きつつ、”病院に入ったからには、医師を絶対的に
信頼する”という 当初からのぶれることのない、生真面目は心情で、
”どんな対症療法でも受ける覚悟はついている”
と述べ、”よろしくお願いします” と言って、その医師に頭を下げた。
しかし、私の目の前で、本音が漏れた。
”おれは癌で死ぬのか・・”というポツリ独り言を漏らした。
その直後から、すぐ、抗がん剤が投与された。
父にとっては 肉体的より、精神的打撃のほうが大きかったように
見受けられた。
風邪薬も服用したことが無い父だった。ただ、”癌らしい”という
精密検査ができないままの判断と、入院するのには、医学的対処が不可欠
ということで、抗がん剤を身体に入れることを余儀なくされたのだった。
翌日、抗がん剤の副作用結果が出た。
父の心身はみるみる内に萎んでしまったかのようだった。
それはまるで、小さくてもしっかり咲いていた野草花が 湯をかけられて、
急に萎れたかのようだった。水槽で元気いっぱいに泳いでいた金魚が、
ほんの、一滴の不適当な薬剤を垂らされて一瞬のうちに水面上に浮かび、
白い腹を見せて息絶えてしまうようでもあった。
父は抗がん剤を一度打たれただけで、身体の中を回っていた”順気”が
一晩の内にひからびてしまった。医学的に言えば、内臓機能の数値が
一晩で半減したからだ。
リハビリを、一日も、欠かしたことが無かった父は、抗がん剤を受けた
次の日には、生きる意欲を亡くしたかのようにぐったりベッドに横たわり
本物の病人に化した。翌日から、医師は抗がん剤の投入を止めた。
私は、2月から7月までに、父の容態が気がかりで、4~5回ほど、
印度と日本を往復していた。交通費もエネルギーも大変だった。
思い出す。5月、まだ自宅にいた、父の容体が悪化したというので、
インドから駆け付けて、実家で父の介護を数日した。小康状態
で父は落ち着いた。
数日後には成田を出て、印度に深夜到着。
ところが、翌日、会社に出勤した朝に、”父が倒れた”という母からの
国際電話を受けて、再び、飛行機に飛び乗ってトンボ返りした。
こんなことが数回あって、遂に7月、入院中の父の容体悪化という
知らせて、印度をたち、病院に成田からはやる気持で、駆けつけた。
父は、弱り切り、ほとんど言葉を発することのない状況になっていた。
枕元にいる私の存在を認識した。すると、懇願するように、父は
絞り出すようなかすかな、かすれた声で訴えた。
”家に、帰りたい”
その父の意思を、私は慎重に真摯に、受け止めた。
印度の会社を辞める覚悟もできた。
人生の最期を迎えている、父に真正面から、その願いを聞き届けたい
と心に決めた。
どんなことをしても今度こそ、自宅療養に切り替えて、病院から
自宅に、移そうとその場で決意した。
すぐ、父が自宅に戻れるよう様々な手続きに取り掛かった。
自宅点滴のための資格者の確保、
ケアマネをつけて訪問診療の事務的手続き、
Y医師の自宅診療の同意などを済ませた。
そして、たった一日の抗がん剤投与から約1か月半後、骨と皮になった
父を、父が切望した愛する我が家に戻すことができた。
自宅療養をするに滞りのない体制を整え、母と二人三脚の父の
自宅ケアが始まった。
尿は管で直接、体外に排出できた。
便の排出の自覚は残っていたので、父は、手で示して教えた。
母がそのたびに、局部を消毒して清潔に保ち紙パンツを取り換えた。
点滴も時間通りにその資格者が来て水分補給は完璧だった。
何かあればいつでも呼んでくださいというY医師のご理解も
有り難かった。
自宅療養して1ヶ月月たらず、在る夏の明け方、私と母は父のベッドの
そばで、ウトウトしていた。その夜、軽く、唸っていた父の声が止まって
いた。一瞬のまどろみから覚めた目に、傷みもなく、苦しむことなく
眠るように、息を引き取った父がいた。
8月20日の明け方5時だった。