自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

宗教改革者ルターと近藤医学博士

2014年04月29日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

ルターの徒然なる感慨  2014・4・29

*****************************

基準値というのがある。


これが普通です、標準です、健康ですと判断するところの

数値だが、標準体重もその一つで、これ以上だと

健康的でないと決められている数値だ。


五木氏は 慶応大学病院の近藤誠医師との対談の中で

次のように語る。


”僕は一般に言われる、標準体重とは 美容体重のこと

だと主張しているのです。”


すると近藤医師は

”コレストロール値は体重と相関がありますが

日本人の調査では、通常だと高脂血症と診断されるぐらい

の値の人のほうが、長命だという結果がでています。


福井氏での大規模な調査でも、コレステロール値が

220~250と高い人が一番長生きをしていた、

痩せて抵抗力がなくなるより、少し太っているくらいの

ほうが健康的なのです。”

と応えている。

 

ここで基準値という一般的な話にうつるのだが、

近藤医師の持論 

基準値から逸脱しているからといって

それが直ちに異常だとはいえない

という話に展開する。

 

”職場で、定期健診を強制的に受けさせるのは、

個人の尊重を定めた憲法13条に違反する

とすら思います


”生活習慣病の多くは、老化現象の一部分裂ですが

生活習慣という語感は、ライフスタイルを改善すれば

予防できるというイメージを与え、人々をいたずらに

焦燥させている。


でも、たばこ以外の生活習慣の変更に予防効果が

あるという証拠は乏しいのです”

 

あくまで近藤医師の見解は 臨床観察に基づいている。


患者を観察していくうちに、”これまでのデータや医学的知見を

解析すると、かなり矛盾が見えて”くるようになったのだという。

その矛盾を堂々と公けに指摘する。


そうした、近藤医師の勇気ある言動は、五木氏をして

マルティン・ルター”のようだと言わしめるほどだ。 


現代の医学界に鋭い切り口を入れ、常識を覆すような

言動で議論を呼ぶ近藤医師を、カトリック教を批判して

プロテスタント派を造った宗教改革者であるルターに 

重ね合わせている五木氏。


波風や抵抗があったにもかかわらず、平然と

医学界の常識を破るような持論を展開する近藤医師にも

本音があった。


五木氏に次のように近藤医師は、語っている:

”1988年に文藝春秋に乳がんの 乳房温存療法の論考を

書いたのですが、そのとき、シミュレーションしたのです。


これは大学や医学界の姿勢に反する論だから、出世は講師どまり

だろうと。

その一方で、学問の自由があるなかでは 辞めさせられは

しないはずだ--とも踏んだんです。


孤独になるだろうと覚悟していましたが、世の中に

一人でも理解してくれる人がいれば、自分はその一人のために

発言しようと決めました。”

 

「95ヶ条の論題」が扉に貼られた教会

アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群

 

近藤医師が医学界のマルティンルター....?


話しは変わるが、マルティン・ルターといえば、

筆者は、2005年に ルターの生誕地アイスレーベンと

ヴィッテンベルクにあるルター博物館を 当時学生だった

息子と、訪れたことがある。


ヴィッテンベルクは95か条の論題が提示された、

ルターの宗教活動の上で改革の中心地と言われ 

ルターの業績を知るにはこの博物館を

見逃せない。 


特に印象に残った場所が ルターホールといわれる、

生前ルターが住居として使っている建物だが、博物館

として今は温存されている。


当時の修道僧の重々しい服や展示品や飾られ 宗教改革史の

ヴィデオ上映も行われている。

この場所には鮮明な記憶が今でもある。


階段を上って、2階の修道僧の服が展示されている

入り口で、文字通り足がすくんで一歩も踏み出せなくなった。

 

今でもよみがえる、理由のない、恐怖心に 一瞬 襲われた。

恐る恐る足を運んでみようとしたが、ルターの着用していた

重々しい僧侶の服を左手にして、もはや足は一歩も前に

進まなかった。


オカルト的な話だが、展示されていた遺品や家具の間から

亡霊の”声なき声”がのしかぶさってくるような圧力感と

存在感に圧倒され、恐怖心とともに、立ちすくんで

しまったのだ。


そこを通り抜けるのには、一足先に入って、すでに次室の

展示部屋に、どんどん進んで行ってしまった息子の名前を

大声で呼んで、戻ってきてもらうほかに手立てはなかった。


他に誰も部屋におらず、その立ちすくんでいた数分の

出来事は荘厳な雰囲気に包まれ、まるで当時に

タイムマシーンで連れ戻されたような不思議な

感覚もあった。


この場所は ルターの住んでいた家でもある。

主観的で恐縮だが、プロテスタントが生まれる時代

の背景やルター自身の苦悩と祈りのつまった、この空間は

ある意味、とても強いパワースポットであることも

確信できた。


次に向かったのが町の教会。

マルクト広場に寒い冬であったが、そびえるように

建っていた。

ここでルターは説教を行っていた。


カソリック教に反した、プロテスタントを生むルターの

宗教運動は 、ローマ法王に対する反逆ともとらえられる

ものだったろう。


五木氏は 近藤医学博士をルターに喩えているのも

現代の医学の常識に反旗を翻す、異端の医師という意味では

うなずける。

 

五木氏が”最近の医療は病気を見ても人をみていない~

と思います”と言えば


近藤医師は 

”病気だけを見ようとするから薬漬けの医療になる”

と応える。

 

薬、たとえば、抗がん剤でもその使い方は”人を観る”ことから

はじめるべきだというのだろう。


”抗がん剤だって、すべてのがんに対して悪いわけでは

ありません。

たとえば、子どもの急性白血病や悪性リンパ腫などの

リンパ系、白血球系のがんは良く治る。

ところが普通の臓器の癌、胃癌 肺がん 乳がんと

いったものは抗癌剤では治らないのです。

薬が癌細胞と正常細胞を区別できないから。”

ということらしい。

 

早期がん発見、早期手術で助かると言われていた癌治療も

近藤医師の持論によって、疑問符がおかれた。


”抗がん剤は、細胞毒で一種の発がん物質だから、それを

使うことで、癌の性質が悪くなることも有り得ます。


ただ手術の場合は、癌細胞自体は病巣にメスが

入ったからといって、、性質は変わらないのです。


しかし、手術することで、これまで癌細胞

とある程度仲よく付き合ってきた正常細胞

までが傷つくから、術後にがんがワッと広がる

のではないでしょうか?”

という。


癌は放っておくのが一番と言う、近藤医師の

見解もこれに基づいている。

お医者様の見解はさまざまだ。

病院によっても 診断が異なる場合は多々ある。


一般的でない 常識はずれな見解は時として、さまざまな

圧力を受けるだろう。

それは、ちょうど ルターが受けたそのものと同様だろう。

信じて、自分が信念を持って、善かれと思うことを

実行する勇気、人頼み、医者頼みではなく、自分の体

は自分で守る という気概は患者自身、忘れない事が

大切だと思う。

 

 

 

 

引用箇所)文藝春秋 2014年一月臨時増刊号

 

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ポカンとすること~臍下丹田~腹式呼吸

2014年04月27日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

ポカンとする意義  2014・4・26

****************************

 

少々古い話で恐縮だが、昨年暮れから今年の正月にかけて

要介護3の母のデーケア―が年末正月休みに入った。

実家に戻った私は、実母と、2週間共に生活した。

 

暮れから元旦にかけて 海外にいてバラバラに,年を迎えた

我が家の家族は、1月7日から10日間バンコクで集合して

家族が顔をそろえて、実母ともども過ごすことにした。

去年の暮あたりから、ニュースでは、タイでの政情不安が

報じられ、民衆を巻き込んで デモなどが繰り広げられ

いるニュースが日本にも伝わっていた。

 

これまでの経験から、日本での報道は現地の実際の状況と

異なる場合が往々にして多かった。

やはり、バンコクに着いてみると、確かに、目の前の道路で

デモ行進に遭遇したりしたが、それほどの緊張感は感じられ

なかった。

むしろ、母の健康状態のほうが心配といえば心配だった。

 

担当医師からは いつ脳梗塞や、くも膜下出血がおきても

おかしくないと、数年前に太鼓判を押されて以来の母

渡航となったからだ。 

実際、出発前、高血圧で210を記録していた。気にしていたら

とても海外旅行は無理なのだが、車いすを利用したり現地

ではタクシーで移動するなど、こころがけて、どうにかこう

にか無事に旅を終えることができて、ホットした。

 

そして、帰国した翌日。

町田市主催のNPO祭り”街カフェ”の準備日を中一日おいて、

1月19日の本番を迎え、皆様のご協力を得て、楽しいひと時を

過ごすことができたと思う。そうこうして、2月になり、

昨年12月後半からの張りつめた忙しい日々の中、”ポカン

する時間”が必要だと感じた。

 

ところで、”ポカンとする”というのは面白い表現だ。

何かリラックスしようとか、意識の抑圧を取り去るとか、無心

になろうとか、’~状態にしよう’ という目的意思があるわけ

ではく、ただただ、心を放ちさるのみの状態をこういう

らしい。

 

考えているようで、考えず、見ているようで見ておらず、

聞いているようで聞いていない。五感の働きを一時ストップ

させて、雑念にさえ煩わされず滞りのない状態に心と体を置く~

といったことらしい。

 

人は誰しも一人になりたいと思う時がある。

いろいろな理由があるけれど、ポカンとしたいからというのも

十分な理由のような気がする。別の言い回しに ”気が抜ける” 

という言葉がある。緊張と弛緩の、後者の時の心持だ。

気を抜いてもいいタイミングがわからなければ気を張るタイミ

ングもわからないだろう。

 

ポカンとするのが大切なのは、緊張をほどくと同時に心身が

み、休息を与えることができるからだろう。ポカンとするのは

だから、一人でいるときに限る。

 

心身統一にかかせない、集中力を養うために臍下丹田(せいか

たんでん)に力を入れることがよく言われる。

臍下丹田とは 臍の下約、指一本、2~3cmほどの下部に

あたる。腹式呼吸も このポイントに意識を合わせて行う。

体が全部 緩めば、背骨が崩れ、腹に力も入らない。

かといって、腹を力めばよいのかというと、むやみに力を

入れても、苦しくなるものだ。

 

臍下丹田に力を集中している武道の達人のみぞおちを触って

みると ここは緩んでいる。

臍下丹田に力をいれることは、力むことではなくここに、

心を置いて、精神集中統一をはかるようにするという意味

らしい。実際 テレビの実験で見た記憶があるが、臍下丹田

に意識を集中している武道家は、持ち上げようとしても

持ち上がらない。安定して地に足がついているような状況

になっている。

 

気学的にいっても、それは理想的状態で自然治癒力が一番

高まる、健康的な状態であるといえるだろう。気がこの臍下

丹田の集中から離れれば離れるほど不安定感がでてきて、

軽くなり、持ち上げられてしまうことになる。

 

実際の体重は変わっていないのだが、気の重心が下にある

ほど、重み感は増す。背中に負ぶっていた赤子の息子が

泣き止んで 眠ってしまうとその重みが肩にぐっと、くい

込む様に感じられたりする体験は子育ての時に、味わった。

それも赤ん坊の重心が下に下がって、体重計の重さとは

異なる、生命力の重さのような ”体感” でしかわから

ない質料感がますからだろう。

 

頭の方に気があがっていくと、興奮しやすくなったり、

考えすぎたり、ノイローゼになったり、字のとおり

頭にきた状態になる。そんなときは ポカンとする

ことはまず無理だ。だから、ポカンとしたいとき、

それは、気をどこに置いておくか?という答えがここ

にある。

 

ゆっくり呼吸をし深く呼吸をして気を臍下丹田に集中

するように置く。そして、ただ休む。

自発的に何かをしようという ”気” が起こるまで

静かに休む。その”気”が起こらないのに、無理して何か

をしようとするから余計ストレスがたまり、糸がこんがら

がって絡んでしまい、解きようがなくなるまで、無理に

無理を重ねることに鈍感になり、ますます、疲れる悪

循環に陥ってしまう。 

 

ポカンとするというのは結局 体の気の流れを自然の健康

な通常な状態に戻すためには不可欠ということ、そして、

その時こそ、腹式呼吸をして臍下丹田に意識を集中しなが

ら、余計なことは考えずにゆっくり休むことに限るという

ことが大切だということだろうか・・・

もう一つは自発性を大事にすること。自発的に、その気に

なることが一番健康的な動き方。

 

様々な健康法も、他者から押し付けられてしなければ

ならないとか体が疲れているのに、しなければいけないと

いう強迫観念で行っているのなら、その効果はどうなの

だろう。

 

本当にそれをして楽しい、それを食べて体が喜んでいる、

心が嬉しい、と感じればこそ、自然治癒力も高まり新陳

代謝がすすむものだ。

自発的に行う ということは、気もちが 乗って行える

かどうか ということだろう。

気もちが乗るとは、気 が動くこと。 気が動くとは、

順気が滞っていない人にとって、その人の体と心が欲する

ことだから、無理なく楽しく行えるのだろう。 

 

そして、順気を滞らせないために、ポカンとする時間は

必要なのだと思う。 こうして、疲れた心と体の順気が

流れれば、自然と気持ちが乗ることが見つかるだろうし、

その時に行動に移すことで、充実した結果が伴うのだろう.

 

 

 

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日本と他国の”見せる”意識比較

2014年04月25日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

国際化~自分の尺度と人の物差し     2014・4・25

************************************

 

日本では なるべく自分の意見は聞かれなければ話さない。

ましてや、プライベートなことはあまり話題にしない。

親しくなる前に こうした個人的話題を展開すると、

相手は戸惑うかもしれない~と 友人が教えてくれた。

土足で部屋に入って来られるような、ちょっと、押しの強い、

自己意識の高い 付き合いづらい人 という印象を

持たせてしまうからという。

 

筆者がインドで15年間、生活する間に これとはほぼ

反対の生活習慣を身に着けた。

自己アピールをしたりされたり、

家族構成を 初対面で聞かれたり、

どの住宅地に住んでいるか いきなり住所を

訊ねられたり、そして、やましいことが無い限り、

こういう質問に笑顔で答えたものだった。

インドではこういう質問で自分の立ち位置を知り

適切な応対ができると考えられている。

まず、年を聞くのも、自分より目上ならば

言葉づかいも丁寧に、目下ならそれ相応にする

ことがお互いのコミュニケーションを円滑にさせる

手始めの一歩ということになる。

 

カースト制度の影響が、いまだに残っている地域や

印度人の集団の中で、相手の属している

社会的クラスを知るというコミュニケーションの一歩が

あったようだ。

例えば、上記に挙げた数問の質問で、相手がどの

クラス(カースト)に所属しているか、経済的状況はどうか、

したがって、付き合っても大丈夫か?信用できるか?

などの答えを(独断的とはいえ)引き出すことができてしまう。

 

たとえば、家族構成を聞かれれば、必ず、

”ご主人の努めている会社は?”、

”お子さんの通う学校は?”

の質問になる。

外資系の会社か?ホワイトカラーかブルーカラーか?で

大体の収入を予測する。

子どもの通う学校が、公立の学校か? 私立か?で

経済的状況を判断する。

 

印度人の親たちは義務教育は、私立でと考えている。

公立は、公務員の先生であるから、適当な教え方で

適当な収入を得ることができる安易な教育の場という

考え方がいまだにあって、優秀な子どもや親が裕福な

子どもたちは必ずと言ってよいほど、私立に入る。

公立と比べてその学費などはかなり高額になるから

中流以上の家庭でないと、入学してもその維持や教育費

などが大変で通わせるのはなかなか難しい。

 

 

住んでいる場所を答えれば、外人居住地区(高級住宅地)か

治安の良い住宅地か、脱税で有名な地域か、スラム的な貧民層

が住んでいる場所に近いところか、政府官僚の人達の一画か

などなど、かなりの情報が入手できる。

”どこに住んでらっしゃるの?”

この質問は必ず、といっていいほど初対面で聞かれる。

 

如何にも裕福なマダム然とした初対面の女性から

身に着けているサリーを誉められて、

”どこの店でお買いになったの?”

と聞かれた。

さらに

おいくらだったの?” と 単刀直入に

聞かれることもある。

これは、ドイツ大使館主催イベント会場での

一コマだったが、こうした単刀直入な質問には、

良識ある日本人は、応えるにも、戸惑いを覚えるだろう。

 

見せるより、気がついてもらう。

これが 日本人の間のコミュニケーションでは大切

だとわかってきた。

ところが、インドも、西洋の国々でも、気づいてもらう

より、見せることが大切だと教えられる。

見せない限りは 他人は、気づくこともないだろうし、

気づこうという気持ちもないからだろう。

 

筆者の親しいインドの友人にこういわれたときは

正直ショックだった。

”私をよりよく理解してもらいたいから云々・・”

と話を切り出したとき、

”誰も あなたのことを理解したいと思っていないわ”

だから、甘い期待を捨てて、自分を表現していくほかない

という意味合いがこもっていた。

誰も他人を理解するための特別な思考時間をもつことはない。

自分で自分の気持ちを表現して できるだけ

わかってもらうと努力する以外、理解しあうということは

ないのだということを暗示していた。

 

私たちは 日本人の良い面はいろいろな機会で

聞いたり読んだりして ”日本人はそういうものだ”という

当たり前の意識を持っているだろう。

たとえば、日本人は、誠実、正直、勤勉で、気配りが

自然にできるものだといった 社会的通念のようなものだ。

私たちはわかっている、

でも、海外に行けばその物差しが異なるから、

一つの思いやりの仕草が、気配りだと感じてもらえないことが多い。

それがまた些細な誤解を生むこともある。

 

こうした、日本人の長所を積極的に”見せる”となると、なかなか難しい。

外国を相手に、苦手な言葉で自分たちの想いをわかってもらうのは

もっと難しくなる。

 

多様性の文化や言葉が日常交叉していることに慣れている

印度やヨーロッパの人たち、対照的に、単一文化国家と

して異質な価値はあまり慣れていない日本民族。

物言えば唇寒し~という言葉が公然と使われる国。

自己表現されなければ、存在感がなくなってしまう異国。

 

誠実、勤勉、努力家という日本人のイメージは好印象と

して受け入れられている反面、何を考えているか

わからないという批評も聞く。

イエスマン、何でも ”はい”と答えるのだが、実際は

本音が違う~だから、日本人の’yes'はどう理解して

いいかわからないと言われる。

 

国際的な子供たちを育成するという目的で

英語が小学校から導入されるという。

国際的というのはどういうことなのだろう?

いろいろな物差しを持てること。

価値観を一定化しないでその国々の文化を背景とした

観方を理解しようとする態度を養うこと。

日本の素晴らしい精神文化を反映して、国際的に

貢献することはどういうことかを考えてみる事、

など、国際化と一口に言っても、その意味合いは深いと思う。

 

英語を話せることは国際化の大切な要素だが、それだけ

が国際人の条件ではない。

人と人とのかかわり、助け合い、それを国際的に広げよう

とする気持ちを養うこともその一つだろう。

 

先日3月11日は、あの大震災の三年目の記念日だった。 

多くの犠牲者やご家族への応援・支援・復興への

日本中からの厚い想いが、被災地の方達へ向けられていた。

これだけ団結した想いで日本中が一つになれるということは

この震災の前は、誰も予想できなかっただろう。

 

国際化というのは、言葉を変えれば、これだけ結束できる

日本人の優しい想いのエネルギーを 異文化圏にもっと、広げる努力を

していくことも含まれるのだろう。

 

日本人はアジアに位置していてアジアではないと アジア人同胞たちに

評されたことがあった。

いつも アメリカや西欧に目が向けられているから

というのがその背景にあった。

たとえば、難民の問題。

ミャンマーやチベットから流出した、難民達の苦悩など

筆者を含めて 興味を持って語られることもなかった。

日本のメディアで話題にとりあげることも多くはなく、

状況を知る機会そのものが なかったように思う。

関心がないのではなく、事実を知るチャンスがないという

ことなのかもしれない。

事実を知らせようと努力することも、ある意味、知ってもらおうと

声をあげることに通じる。

 

国際化というのは、違う尺度の物差しを心にもっていること。、

異文化の対応に対して、それに見合った尺度の定規を当てはめる

能力、そして選んだあと、相手の立ち位置にたって理解を深め

行動に移せることなのだと思う。

そのためには ”気づいてもらう”まで待つことうより、

声をあげて、相手に気づいてもらえるよう、何を考えているか

見せる意気込みも 大切なのかもしれない。

いまだに このこことは、筆者も自分自身への大きな課題の一つとして

認識する昨今だ。

 

 

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路上生活者に禿頭なし

2014年04月23日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 近藤医師と五木氏の対談                    2014・4・23

*******************************

 

以前 ヴログで近藤誠医学博士の”がんとは闘うな

という姿勢についてご紹介させていただいた。

 

さかのぼること、9年前、文藝春秋 2005年2月号に

すでに近藤医師は自論を発表して 作家五木寛氏と

対談している。

その対談内容は示唆に富んでいて興味深い。

  

五木氏は 治療について

”火事になってから、消火器を買いに走るようなもの”と

喩えている。

五木氏の喩えの意味とおり、

治療する前に、養生して、病気にならないよう心掛ける

ことが大切なことは言うまでもない。

そもそも、病院での治療というのは症状を抑えることに

主眼をおいている。

五木氏は 自身の著書、”養生の実技” という本の中で、

病院は病気の巣である。 できるだけ近づかない方が良い”

と書いているそうだが、この言葉に同意して近藤医師も

”私も 痛くも苦しくもないときは病院に来ない方が良いと・・・”

と応えている。

当時、すでに近藤医師は ”患者よ、がんと闘うな”とタイトルを

つけた著書を出版して、健康に関する常識に疑問を提示している。

たとえば、

”一般の人は定期健診を受けるのが健康のためになる

と思っているでしょう。

でも、定期健診が健康に有効だとするデータ的根拠は

まったくありません。 それどころか、反対の調査結果が出ている。”

と 自説を裏付ける具体的例を数字をもって、

五木氏に説明している。

 

さらに近藤医師は

”病気があっても気づかないまま終わることは少なくない

のだから、病を暴き出さない方がいい。

ところが医療関係者たちはそれでは商売あがったりです。

だから健康診断だ、人間ドッグだ、といって、早期発見を

奨励する。 

検査して異常を見つけたらそれに病名をつけ、治療する

というシステムが創りあげられてしまった。”

とも述べている。

 

検査して異常を見つけたらそれに病名をつけ、

治療するというシステム・・・・?

 

五木氏は言う。

”どこか、不具合を残し、改善された感を与えている限り

患者は完治するまで通うことになる。

そうでなければ、彼らの商売は上がったりとなるだろう”

 

確かに、良心的な医師なら薬が必要な時以外は不必要と

言ってくれるだろうし、必要以上の種類も出すことはない。

ましてや、学会に発表する新薬の効能のデータのために、患者に

実験的に投与してみることは良識に反しているといえるかも

しれない。

 

本物の治療家は どのような治療やセラピーにしても、最終的に

本来その人に備わる治癒力が発揮できるように導く。

最終的には 本人に備わった自然治癒力で 自力で更生

できることがベストであると知っている。

しかし、患者あってのビジネスであれば、皆 健康になったら

商売あがったりということを五木氏は ゴルフのレッスンに喩えて

意見している。

”ゴルフのレッスンプロは球筋を直すのに、根本的な指導は

しないと聞きますね。 

少し振りを変えると、’真っ直ぐになった’

生徒は喜ぶけど、2か月たてば、もとに戻るようになっているという”

と笑う。

  

二人の話しは”清潔好きな日本人”というテーマに変わる。

驚いたことに 五木氏はシャンプーを春夏秋冬に一度ずつしか

しないらしい。

だから、ご自身の髪の毛はふさふさと豊かなだと分析する。

”路上生活者に禿頭なし”、清潔にしすぎないことが頭髪

にとって、善いことなのだという自論を述べている。

 

近藤医師はそれに対し

なるほど。 結局、今の日本人の清潔好きが

さまざまな病気を招いているんですよね。

人間の体の免疫状態は、自然界の汚いもの、寄生虫や

細菌などに触れながら成熟してくのです。

きれいなものばかり囲まれていると、免疫系が成熟

しない。

その結果としてあらわれているのがアトピーなどの

アレルギーではないかといわれている。” 

としたうえでシャンプーの話題に戻る。

”人間にとって皮脂は大切です。

犬猫をあまり洗いすぎると皮膚病になるといいます。

体を石鹸で洗う、髪をシャンプーするというのも、

実は体の抵抗力をそぎ落としているのかもしれません”

と述べている。

 

そういわれると、確かに、筆者の身近にも石鹸をつかなわい

人達は見かけられる。

神気法を生み出し 未だに現役で仕事を続けている、

米寿に近い姑は、入浴時に石鹸は使わない。

筆者の母も 年の割には 皺(しわ)も少なく、肌の艶もよいと

思うが、洗顔石鹸は使わず、焼酎とかんきつ類の

しぼり汁を自己流で混ぜあわせで 化粧水と

洗顔水を兼ねて 何十年も愛用している。

 

筆者自身は、インドの昔ながらのアユールベーダの

粉末粉で、洗顔している。

洗髪に関しては、成分はよくわからないがちっとも泡立たないが

しかし、洗い心地が実にすっきりしている。

シャンプー時も、 植物の粉末をインド時代使っていた。

 

健康志向から石鹸に気を付けている人は多い。

先日、シャボン玉石けんの工場が、テレビで紹介された。

工場で職人が、大きな窯(かま)に入れられた、

ドロドロした液体を人差し指ですくって味見していた。

聞くところによると、こうして、石鹸の不具合を

舌で味わいながらチェックしているという。

自然素材石鹸だから 有害性は少なく、舌で判断するのが

一番確実な方法だと、社長が説明を添えていた。

その放映後、とても興味を覚えたので、近所の大手の

ドラッグストアーに足を運んだ。

ところが、予想に反し、数軒回って聞いてみたが、

見つけられなかった。

需要が特定の人達に絞られるためなのか、自然素材で

コストが他商品よりかかるためなのか、まだ

一般受けされているようではなかった。

石鹸やシャンプーは直接体に触れるものだからこそ、

安全で自然の材料に近い素材で作られたものを

選びたいと思っている人はたくさんいるだろうけれど、

購入できる場が限られているのは残念なことだ。

頭皮は顔面皮膚につながっている。

顔面洗顔には多くの人たちが男女問わず、気を遣うのに

頭皮洗顔にはそれほど、頓着がないようなのも

面白いと感じた。

 

 

 

 参考] 文藝春秋 2014年1月号臨時増刊号

 

 

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永瀬先生を偲ぶ~アカデミー俳優の演じる映画のキーパーソンとして

2014年04月19日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

かつての敵は今の友~贖罪がもたらした愛~    

2014・4・19

************************************

前書き)この記事は直接、自然治癒力セラピー協会とは

関係がありません。

ただ、この記事の中の 永瀬隆先生は、私ども夫婦に

大きな影響を及ぼし、世界の平和、異文化の理解、

戦争の空しさ、人間の素晴らしさなどを、身を以て示して

くださったことで、皆様にぜひ、ご紹介させて戴きたい

と思い、この記事をあげました。

  

永瀬先生を演じた俳優真田氏                     

 

この映画は1995年 ’エスクァイア’誌で、ノンフィクション大賞

受賞したエリック・ローマクスの自叙伝”The Railway Man"

をべ―スにしている。


イギリスで75万部が売れベストセラーとなり、英国において、

戦後の傷跡にどれだけ多くの達が関心を持っていたかを

うかがわせる。

 

死の鉄道と言われた タイメン鉄道建設には6万2千人の

イギリス軍など連合軍の捕虜たちと、それ以上のアジア人

労務者たちが携わった。


”鉄道の枕木一本に一人の命がかかっていた”といわれる

ほど、枕木の一本ごとに一人の命が犠牲になったことで知られ、

過酷で不当な労働を課せられ、1万5千人の捕虜たちが

亡くなった。

 

捕虜たちの痩せこけた姿(当時、捕虜だった、ローリング氏の筆による)

 

当時の捕虜で戦争画家となったレオ・ローリング氏(*1)

は自らの著書で

”病気で死ぬというより、十分な休養や栄養を与えられず、

過酷な労働によって、死に至るケースが多かった”

と記している。


そこで行われた拷問は、”真実を吐かせるため” のそれではなく、

”罪を罰するため”のそれでもなかったようだ。


敢えて言えば、 ”いたぶるための拷問”だったといえよう。

そこには人間性のかけらもない、非情なものであったことが、

ローリング氏の記述(画家であった、彼の自筆の絵も含め)

や、”レイルウェイ~運命の旅路”の映画から、うかがい知り得る。

 

コレラ、マラリヤ、その他熱帯性潰瘍などで死の寸前の病人

対して、ローリング氏は、わずかでも人間の情を感じられる

心遣いがあれば、日本軍に対して、こうも憎しみが募ることも

なかっただろうと語り、以下のようなエピソードを挙げる。

 

”病めるもの、負傷した者から先にジャングルの木々の伐採

へ行け!” 

と 日本軍の兵士は、無情に命令し、

”邪魔者でしかない、そいつらから天国に行かせてやるのだ”

と 日本軍の軍曹が叫ぶ。

 

まさに、捕虜たちは、奴隷同様。

奴隷以下だったかもしれない。

奴隷は人間としてみなされるが、彼らは’犬畜生’の扱いを

受けていたと感じていたからだ。

 

若き誇り高い知性にあふれた、イギリス軍戦士たちは、

心身ともにずたずたにされ、人間以下の尊厳の無い仕打ちを

受けながら アイデンティティーすらも失っていく。


こうした、日々を克明に ローリング氏はわずかな素材を

生かして命がけで記録絵に残した。

 

映画の中で、ローマクス氏役のアカデミー賞俳優

コリン・ファースは、妻にも語り得ぬ苦悶のカンチャナブリ

での思い出と、そこで受けた悪夢のようなフラッシュバック

体験で、戦後数十年の間、苦しみ続けた。


それは、日常生活の中で、妻をも巻き込むほど不安定な情緒

で悶々とする 不安定な精神状態に陥った、日常生活の

一コマを事に演じている。

 

 

強制労働所に向かう、カンチャナブリに着いた英国兵士

 

ローマクス氏同様、タイメン鉄道で友人たちの死と、自らの

生と死の境を毎日、見続けてきたローリング氏は次のように

言う。

 ”私自身、あらゆるものを神の意思として、受け入れ生活

するのは、ただ敗北と絶望、つまり死につながるだけである

という実例を数限りなく見ている。

 

多くの友人たちは別に致命的でもない病気で死んでいる。

かれらは、自己の意志力を信じられなったので、死ぬ前に

すでに屈服してしまっていた。


そして、生きながらえた者は、かたくなにも、全力をあげて、

生に執着して苦悶しながらも、病苦と闘った人である。”

 

ローリング氏にとって、生きるとは

”精神をいかにしてコントロールするか”ということだった。

 

  

パトリシア夫人

 

パトリシア・ローマクス夫人は、この映画のために来日。

4月11日付の朝日新聞夕刊で ジャーナリスト鳥越俊太郎氏

との対談で次のように述べた。

 

”日本の方々、特に若い方達にこの映画をとおして、過去の

ことを きちんと知ってほしいと願います。


何が起きたのか、どうして起きたのかを学ぶことで、

これから戦争が起こらないように繰り返さないように

前に向かって進んでいけるでしょうから。”


鳥越氏は、

”人は戦争で人を殺したり、拷問したりという非常に残酷な

面をもっているにもかかわらず、憎しみあった人達が

赦しあうという崇高な面も持っている。


それが私たち人間だということ・・と語る。

 

ローリング氏の絵~”隣の男は死んでいる・・私に彼の分もくれ”


鳥越氏の述べる、”崇高さ”を、元連合軍捕虜の日本人に

対する憎しみの心から引き出したのが 永瀬先生の

苦しみぬいた”謝罪の念”だった。

 

戦後の永瀬先生の戦後の人生は、日本軍とともに 通訳

として、自らがかかわった、捕虜への非人道的行いへの

謝罪表明だった。

同時に、心からの、謝罪を彼らに発信しながら、

憎しみから友情”を芽生えさせる活動にすべてを捧げた。

 

永瀬氏の功は国際的にも認められた。

平成17年、読売国際協力賞を受けた。


これは国連に貢献した緒方貞氏についでの、受賞になった。

しかし、先生にとって、そのような国際的栄誉も、それほどの

大きな意味をもつものではなかったようだ。 

 

通訳として戦争にかかわったにせよ、虐待現場にいた日本人

一人として、まだ戦後の処理が終わっていないことを痛感し

続けていたからだ。

 

   

自ら建立した平和寺院で冥福を祈る永瀬先生の後ろ姿

 

永瀬先生の贖罪の深さは、カンチャナブリにある、連合軍

兵士たちの墓地への慰問や、自ら、その魂の鎮魂のために

建てた寺院へ、タイ訪問 135回という数字に裏付けられて

いる。


その寺院建立に際し、キリスト教信者だった先生は頭を

剃髪し、仏教国のタイ国に立てる寺院ために、仏門に入り

僧侶の資格をとった。


こうして、上記写真にある、本尊を安置して、カンチャナブリ

のクワイ河の鉄橋のそばに小さなお寺(平和寺院)を建立した。

 

この寺院で、大戦時、連合国捕虜たち、アジア人労務者たちの 

鉄道建設時病や拷問で亡くなった御魂を祀った。


何故、そこに建てられたのか、お聞きしたら、仏教国で、信仰

深いタイ人は仏像の姿を見ただけでも、通りすがりにでも、

手を合わせてくれるだろう~から、と答えた。


ここなら、観光客や地元の人達が多く、往来もあるので、

必ず、誰かが、毎日、手を合わせてくれ、それが、鎮魂に

つながるからとも、おっしゃった。

 

先生のモットーは ”自分の行為は自分で責任を取る”、

して、”与えられた恩には感謝を持って報いる”という

二つであった。


タイ人の子供たちへの奨学金制度を設けたのは、当時

タイ人が捕虜や日本人兵士たちに温情をかけて、世話を

焼いてくれたことへの恩を忘れないため、またその

感謝の顕れだとも、言われた

 

 

まさに、”戦争がもたらした悲劇”の一つ、として、片づけ

られようとしている個々の捕虜に対しての責任を、

戦争に関わったものとして ”自分で責任を取る”~と、

言う姿勢を貫いた先生だった。


生涯、その目的のために、一人で黙々と行動に移された。

そのために、イギリス元連合軍捕虜の方達を日本に招待して、

贖罪し、憎しみを消して和合ある人間関係を構築しようと

奔走された人生でもあった。

上に挙げた、画家で捕虜として、日本軍からの拷問を体験した、
レオ・ローリング氏も 先生に日本に招かれた一人だ。

当時、岡山で私も、共に、穏やかに当時を語る氏の話を
伺った。

 

国家とは二つの側面を持つ。

権力機構としての国家、政府であり、もう一つは国民共同体

としての国家。

前者は英語ではstateと呼ばれ、後者はnationと呼ばれる。

 

永瀬先生は、stateとしての当時の日本国家(政府)の過ちを

個人として自覚し、そこにできた人間と人間の間の溝を

埋めようと人生をかけられた。


戦争が残した心の奥の深い傷が癒えるためには 憎しみ

を愛に変えることしか方法はなかったのだ。

それを実現することが、永瀬先生の人生の唯一の目標でも

あった。

 

永瀬先生の意思を次世代に引き継ぐために、記念館の

構想が、現実にタイのカンチャナブリで動き出している。


平和基金の責任者も満田康弘氏(*2)に引き継がれた。

満田氏は、永瀬先生の活動を1994年から取材して、

ドキュメンタリー番組として多く発表している。


それを本にまとめて、”クワイ河に虹をかけた男”という

タイトルで出版されている。

  

憎しみから愛へ~ 言葉では平坦だが、その道のりは

長く、一生をかけて到達できる人もいれば、そうでない

場合もあるかもしれない。


戦争にかかわることのなかった私たちにとっても、愛を主体

に生きるということは、共通した、崇高なテーマであること
には変わりはないだろう。

長瀬先生は、それを、自ら、身をもって、言葉ではなくその
背中で、指し示してくれた人であったと思う。

 

 

*1)レオ・ローリング (1918~?)

英国バーミンガム生まれ。

第二次世界大戦では英国各地に駐屯中、

戦場の画家として腕をふるった。


粘土や植物の汁を使い、シンガポールで捕虜になったとき、

中将ルイス・ヒース卿から将来戦争犯罪裁判の証拠として

記録として戦争絵画を残すよう私的に命じられ、

ジャングル収容所で病身だったときに描かれた。


完成した絵は、古いストーブのパイプで自作した容器

に入れて、ベッドの下、地中にうずめて隠した。


1945年終戦後、何回か英国各地で展覧会が開催された。

戦争のための慈善事業に賛助して出品されたとき、2万ポンド

の募金が集まった。


1958年 リバプールのラッセル卿が”武士道の騎士たち”を発刊。

その際、ローリング氏の絵を8ページにわたって掲載。


1964年、ようやく、戦中から崩していた健康も戻り、

講演活動も始める。 BBC英国放送協会を通じて、放送もされ

コレクションの競売が行われ、絵画の多くは、英国戦争博物館に

よって、買い取られた。

 

*2) 満田康弘 

1984年株式会社瀬戸内海放送(KSB)入社。

主に、報道、制作部門でニュース取材や番組制作い携わる。

日本民間放送連盟賞受賞など、ドキュメンタリー番組で

受賞多数。                                   

永瀬 隆氏のドキュメンタリー取材を通して、まとめられた

”クワイ河に虹をかけた男”著者。

梨の木舎、2011年

 

参考書)

”泰麺鉄道の奴隷たち”("And The Dawn Came Up Like Thunder")  

 レオ・ローリングズ絵と文  永瀬隆訳  

発行所:青山英語学院 昭和55年

 

 

永瀬 隆 (ながせ たかし)氏について)

1918~2011]1943年タイメン鉄道造作戦要員として

タイ国駐屯軍司令部に充用。

1964年からタイ巡礼を始める。以後毎年行う

1965年、タイからの留学生受け入れ開始

1976年、クワイ河鉄橋で元連合軍捕虜と初めての和解の再会を果たす

1986年、クワイ河平和寺院建立、クワイ河平和基金設立

1991年、ロマクス・パトリシア夫人から手紙を受け取る

1993年、ロマクス氏と再会

1995年、クワイ河鉄橋で第二回目の元捕虜たちとの再会

2002年、英国政府から特別感謝状授与

2005年 読売国際協力賞受賞

2006年、クワイ河鉄橋付近にタイ人有志による永瀬氏の銅像完成。

2008年、山陽新聞賞受賞

2009年、最期の巡礼に妻桂子さんと出かける。その年9月

最愛の奥様他界。

2011年 永瀬隆氏  死去

 

 

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