”今、与えられている”という実感・・・2019年11月11日
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”故に、心配、不安、不信を以てではなく、
自分の必要なものは、
すでに自分のものとなっていると知り、
歓び、晴れ晴れとした
感謝の心を以て 己自らの魂深く沈着する
ことです。”
“自分の必要なものは、すでに自分のものと
なっていると”・・・・・・・・・・
このフレーズを読んで、心の目が覚めた。
私の心の陰に潜む “満たされない” 空虚な
感情に蓋をしてくれた。
“あたりまえのこと”の繰り返しが毎日の
ルーティーン。
次第に、感動が薄れ、惰性が生まれがち。
惰性が霧のように、毎日の日課の中に漂い
始めると、“今” が“ぼーっとかすむ”ような、
うつろな感覚になってくる。
ところで、一人で時間を過ごすことが得意な人と、
そうでない人がいるようだ。
」一人でいても、何かすることを次々と
見つけられる人は、退屈がない。
次々と見つけられるためには、生き生きとして
いるだけのエネルギーと好奇心が必要だ。
生き生きさが次第に薄れて、それも、
“当たり前のこと”になってきたら、この
フレーズを想いだせばよいと思った。
“自分に必要なものは、すでに自分のものに
なっている”~
一人で時間を過ごすことが不得意な人は、
自分と向かい合うことが苦手なのかもしれない。
さびしがり屋さんかもしれない。
“自分に必要なものは、すでに自分のものに
なっている”
~というフレーズがそういう人たちにとって、
どう効果的か定かではないけど、少なくても
”他者”にそれを、期待したり、頼ったりするより
”自分の中にすべてある”と思うことで、自分で
この言葉の中には、”人と比べることもない”、
”他人と自分が必要なものは違う”
というニュアンスもある。
”あの人にはxxがあってうらやましい”~と
思うこともないのだろう。
その ’XX’ は、羨むにたる素晴らしいもの
かもしれないが、今の自分には、必要がない
のかもしれない。
その代わりに、あの人が持っていない’##’
が与えられていることを、探せば必ずある。
それは、必ずしも、物質 とは限らない。
友人や知人、知識や信念、家族や親友、
趣味やお稽古事、すべて、日常生活を彩る
そうした一つ一つの、存在が心の豊かさを
“縁”があったから、とよく使っている言葉・・
“縁” があったから その人も、この人も、
彼も彼女も、ペットも、服も食べ物も、住まいも、
仕事も、自然と、自分の世界に入ってきた。
“自分に必要なものは、すでに自分のものに
なっている” と当たり前の生活の中で、
いや、もっと、単純にこの言葉を味わいたい。
“自分に、必要なものはすでに自分のものに
なっている”、
“当たり前” であったと思っていたものが、
本当は、“与えられている” ものかもしれない。
人の巡り合いも、偶然が重なって可能になる、
とすれば、
“与えられた”ものといえるし、”健康で当たり前”
が、
本当は、“当たり前” と呼ぶのには、とても貴重
なものかもしれない。