自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

シタールのグル、Ustad Shujaata Khan 師との出会い

2013年03月31日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

私のシタールの師 と 偉大なそのまた師 平成25年3月31日

********************************

下は私のグル Ustad Shujaata Khan師からいただいた写真、

ご自身の幼少時代、御父上のUstad Vilayat Khan師に自宅で

稽古をつけてもらっているときです。

ある人は、師 は必要ないという。

それぞれ、自分の中に、本来の自己(実相)があるから、

それが自分の師である、という。

それは、とてもリーズナブルな言葉に響く。

しかし、ほんとうにそうだろうか?


誰でも生まれてきたときは、傷つきやすい 小さな存在だった。 

保護され、養育され、いろいろ 教えられて 成長してきた。

子どもにとっての、最初の教師は母親だという。

次に、父親が 理性をもって、もう一面の”躾”をする。


夜道を歩くには、昔なら行燈‘あんどん)や 提灯(ちょうちん)

が必要だっただろう。 

今でも変わらない。

懐中電灯でもなければ、光りのない真っ暗な夜道は歩けないのと

同様、真の自分を見つけるために、手さぐりで目的地にたどり

着くまでに、手引きしてくれる人が必要なのかもしれない。


その 自分の足元を照らす光が、いわば、先生 の役目だと思う。

必ずしも、先生という名称は必要ないときもあるだろう。

伴侶だったり、友人だったり、先輩だったり、知らない間に、その人

に足元を照らしてもらっていたと気が付くこともあるかもしれない。

 

その写真の裏側には、グルジーの筆跡で、”With all my love to Fatima

(私のもスリム名)とあり、私の音楽があなたの心に末永く残りますように” 

とサイン入りで書かれています。

 

足元があかるければ、転ばずに、目的地に着く。

目的地は、本人が知っている。

目的地へ、行く方法も、本人が、選ぶ。

師との関係も同様だと思う。 

本人の中にすでに そこに到達するだけの、意思と資質はある。

ただ、無駄な時間を使って遠回りしたり、危険な目に合う必要も

ないだろう。

 

但し、歩む道が真理の道で 悟りが目的地であるのなら、

その道を歩んだ人、少なくても自分より遙かさきに

進んでいる人でなければ、正しい道しるべを示すことが

できない。

だから、真理の探究においては、誰にでも”師”に対応する

人が必要だというのがその理由である。

 

その、資質を、安全に引き出して、目的地へ行く助けをもらう、

それが、弟子の特権でもあるのかもしれない。

 

 

 

とはいっても、昨今は、いろいろな 先生がいる。

先生とは名ばかりで、生徒を傷つける先生もいるらしい。

国会議員や、予備校・習い事教師、医師も、みんな、先生と呼ばれる。

 

インドの、グルシシャパランパラ(伝統的師弟制度)

では、先生をグル、あるいは、グルジーと呼んだ。

 

 

グルは、本来、自ら弟子を探す~と言われている。

探す という言葉が妥当でなければ、

グル自身が 自分を受け入れる用意

のできた弟子を、自分のそばに呼ぶと言える。

 

”グルが弟子に近づく” というのは、その生徒が、

学びを受け入れる準備が整ったとき、生徒を 

自らの弟子として、目前に偶然必然にかからわず、

顕れて、受け入れる~という意味だ。

 

もちらん、傍からみていれば、弟子が、先生のところへ行って、

”自分に~を教えてください” という形をとる場合が多いだろうが、

この言葉の裏には、弟子が先生を選ぶことはできないという、

意味合いが含まれている。

 

古来の師弟制度は、ビジネスとは無縁であり、

ほんとうに教えたい生徒を選ぶ権利を持つのは、師であった。

師が“教えてあげる”といわなければ、どんなに、

弟子になりたいといっても、断られるか、その機会が与えられない

かどちらかだっただろう。

 

その考え方は、現代では 一般的ではないかもしれない。 

月謝をとって、何かを教えるというシステムの中では、

教えてもらうのは、月謝を払った側の、権利だと考えられているだろう。

 

ところが、徒弟制度というのは、グルの世話をしながら、見習いとして、

グルのそばで 日常的な世話をしながら、 その道の、奥義や

さまざまな技術・技巧、あるいは、考え方や真理へのアプローチを

習得していくというものだった。


だから、月謝とか金銭授受の関係は、インドの指定制度では

見られなかった。

バンコックのワットアルンは 暁の寺 といわれ、それを題名に、

三島由紀夫が小説を書いている。

三島が言ったのかどうか、わからないが、タイの寺に詣でるのは、

その寺の神様の招きがあって、可能になる、という考え方を

バンコク時代に聞いたことがある。 

インドでも同じような言い回しをする。

ある聖地に行くとき、

神様の招きがあれば、行くことができる、無ければ 行きたくても

願いはかなわないという。

 

同様に、グルに何かを習うとき、指南してもらうとき、グルの招き

(外からはわからないが) が必要だという意味では、

”招かれる”という発想は、似ているかもしれない。

 

さて、冒頭にかかげた写真の幼少のグルジーはその後、

インド古典音楽 シタールの世界のレジャンドになった。 

私は、グルからシタールの手引きだけではなく、人として、

謙虚に、思いやりをもって相手に期待をせず、自分の責務を

行うということを師の後ろ姿から学んだ。


そして、音に対しての鋭敏な耳と、音の裏にある本当の音

への聞こえない魂の耳を持つことを、その父上である、

ヴィラヤット・カーン師から教えていただいた。


シタールは大げさでなく私の人生を形作ってくれたものだと

言えるかもしれない。

 

 

 

 

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癒されています(進行形)

2013年03月30日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

インドの大地エネルギー 平成25年3月30日

*********************************

インドで書くブログはインドチックになってしまいそうだ。

これは、ガンジス川へ行く前に書いた記事なので、

若干、内容に、時間の前後があるがお許しいただきたい。

 

太古から 変わらず、発散してきたであろう、インドの大地の

エネルギー、それは、時には、非情のようで、それでいて、

この上もなく

豊かでやさしい、エネルギーであることは間違いがない。

そんな、エネルギー、地球の奥から湧き出るエネルギーを

確かに この身と心が、受け止めている実感がある。

 

そのエネルギーを受けると、常識を翻(くつがえ)すかの

ような、たぶん、エクセントリックな真情が 心の奥から

湧いてくる。

 

その 印度チックになった真情が、きっと、文章のどこか、隅々に

炸裂して ブログの内容を読んで、独断的、主観的に、感じられる方も

いるかもしれないと思う。

 

今回の完全なプライベートな旅の目的は、

敢えて言葉にはしたくない。

それは、心に おぼろげながら抱いている希望

のようなものであり、ただひたすら、言葉のいらない

世界に浸りたいという、渇望のようなものでもある。

ここに、到着して、数日たっている。

幸い、アパートの西側は、数十キロにわたる草原地帯が

広がっている、

政府が野生動物保護地域に指定しているため、住宅などの建造物は

一切 見渡らない。

視界に入るどこまでも、木と草木の 緑のじゅうたんが広がる。

住民たちでさえ、迷子になるといって、中に入ろうとしない。

実際は、蛇もいて、危険だからということかもしれない。

はるか、遠くに、大きな有名な寺院の一角が見え、南には、

コトブミナールの

世界一最古な石塔(世界遺産)が見える。

 

西のヴェランダ全開にして、ひがな、外を眺めているだけで、

日ごろの、こまごました、気遣いから解放されて、

あっという間に1日が過ぎてしまう。

 

こうして、数日間、外出せずに、部屋にこもっている。

インドの友人たちの、お食事やお茶の誘いも 魅力的だが、はるかに、

この一人の時間が貴重だし、理屈ぬきに、癒されている。 

 

水の効用を今回、改めて感じている。

東京の水道水は、、すぐ、手が荒れる。ゴム手袋を使っていた。 

ところが、ここにきて、毎日、食事の後片付けやら、洗濯やらで

水仕事をしているが、手に潤いがでてきた。

インドの、拙宅では、井戸水を使用している。

石灰が多く、飲み水には不適当だ。

沸騰させると、白い粉が、やかんにこびりつくほどだ。

しかし、シャワーを浴び、顔を洗い、食後の洗い物など、しているうちに、

手の皮膚は 活力を取り戻したかのように、ピンと張ってくれた。

 

先回、インドから帰国して数日後にアートマセラピーにきた、Mさんが、

”なんだか、若返りましたねえ・・20歳ぐらい違いますよ!

などと 私をみて、不思議がっていたのは、

もしかしたら、この水のせいかもしれないと、ふっと、感じる。

このエネルギーを沸かせている大地の中を流れている自然水、

そのものなのだ。

大地の数十メートルの下を掘って、ポンプで吸い上げている、

恵みの水だ。 

 

荒れて くたびれた皮膚をしていた手の甲は 水の力でなんとか 

張りをとりもどしたが、

心はどうやって、活力をとりもどすのだろう?

 

自分の心の師が、南インドで亡くなられて、1年以上すぎた。

今回の旅で、少し落ち着いた中で、その葬儀などの、一部始終を 記録ヴィデオで

知ることができた。

 

ヒンズー式に行われているのかと思ったら、仏教のお坊さんたちが

お経をあげ、イスラム教のイマームがコーランの一節を唱えた。

さらに、シーク教徒の弔いの言葉が続いていた。

そして、キリスト教の司祭が、聖書の中の言葉を読み上げていた。

 

師(スワミ)は、ヴェーダの真髄、エカム・サット(万教帰一)を

信条にされて、私たちに説いた。 

宗教という壁はない、本来の真理は一つだからというのが、

その意味だ。

どんな 教えも 印度大地のエネルギーのように、共通した真理が

深い水脈のごとく、流れているのだ~とスワミは教えてくださった。

 

その言葉を文字通り証明するかのように、葬儀はさまざまな宗教の

長が弔いに訪れ、それぞれの方法で、スワミの遺体の前で

儀式が行われていた。

続く              

 

              コトブミナールの入り口の門(世界遺産)

 

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バカバッドギータとヨガ

2013年03月29日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

ヨガの科学  平成25年3月29日

**************************

The Ganges

筆者は 今 インドのガンジス川の流域にいる。


たぶん、これが発表されるころは、そこで、しばしの

エネルギーの補充を試みているだろう。

ヨガというのは、その言葉の知名度に反比例して、

そのものの意義を知る人少ないかもしれない。


本来のヨガの目的は、いろいろな言い方があるとは思うが、

簡単にいえば、新陳代謝を高めて、老廃物を体外に排出する

とともに、生命エネルギーを新鮮な酸素から蓄え、脳や

脊髄中枢に活力を与える。

呼吸法と 深く関連しているのは、このためである。

 

バカヴァッド・ギータ4章23節で クリシュナ神は、

ヨガについて述べる:

“吸う息を吐く息に提供し、吐く息を吸う息に、提供すること

によって、ヨギはこれら二者、吐く息と吸う息を調和させる。 

こうして、人は、心臓からプラーナを解放し、生命力を自己の

支配下に置く

 

プラーナはlife force と英語で訳され、生命を保持するための

エネルギーを指す。

吸う息と 吐く息の中和、もしくは 調和 とは どういうことか?


なかなか、紙面では説明できがたい。

筆者もまだ修行中の身なので、詳細はお伝えできない。

言えることは、呼吸の静止法と深く連動しているということだ。

といっても、むやにに苦しくなるまで、肺に 息をためる事でもない。

 

 

もう一つのクリシュナ神のヨガに対する言明は、5章 27~28節の

言葉に見られる。

“至高の目標を求めつつ、視線を内なる眉間の一点に固定し、

鼻孔と肺の内を流れるプラーナとアパ―ナの均衡した交互の流れを 

抑止せよ。

それによって、下界の刺激を断ち、感覚と理知の働きを制し、

我欲と恐怖と怒りを 追放せる瞑想の達人は、永遠の解放

を得るだろう“

 

ギータの中で 引き続いて引用すると、次の言葉がある。

このヨガの方法は、クリシュナ神から後継者に伝えられていく・、

その一人が、マヌ法典を記した立法者 マヌで、マヌは、

イクシュワクという日系武家王朝の始祖に教えたという。

(4章1~2節)

 

ヨガのサンスクリット語の本来の意味は神との合一である。

肉体感覚とその感覚に支配されている外的世界をたちきり、

自分の中にある実存と一体になることで、この目的が果たされる。

 

最初の神と一体化している状態が サビカルパ・サマーディといわれ、

意識は宇宙霊の中に入る。 

 

ヨギによっては、肉体から生命力が去ったようになるので、

硬直化したりするが、肉体の意識がなくなるわけではないという。

次の段階は、ニルピカルバ・サマーディと言われる段階で、

この段階に至ると、肉体の硬直はなく、神との交流ができるように

なるといわれている。

日常生活の妨げもなく、外からみていては、その人がその状態に

はいっているのか否かは見分けがつかないという。

 

 プラーナ、生命エネルギーは、
 
ヨギたちの意思の力によって、身体中に循環させられる。

その方法は、脊髄の中枢である6つの神経叢延髄、脛骨、胸骨、

腰椎、仙骨、尾骨に沿って行われる。 

アートマセラピーでも、この順序で 調整が行われるのは、

その理由からだ。

 

これらの中枢は、霊的な促進と非常な密接な関係を持ち、

脊髄の周囲に、30秒間のエネルギー(プラーナ)の蓄積は、

何もしないときと比べ、はるかな霊的進化をもたらすという。

 

話がそれるが、占星術の12星座と人の身体の関連性を考えると、

アガスティアの葉で預言されたような、天体の運行が人の内外

[真体と霊体]に及ぼす影響も無縁でない。

 

1年も12の月にわけられ、12年という歳月は、自然進化の周期

と一致するという。

干支も12あるし、還暦も12年が5回繰り返され、2度目の再生

といわれる所以がここにある。

 

話を本題に戻す。

呼吸とヨガ法との密接な関連性はクリシュナ神の

言葉によっても明らかだが、修行が深まるとともに、呼吸自体、

肉体のサバイヴのための、必要不可欠という観方から解放される。

 

つまり、夢の中で活躍する自分の意識には

呼吸の意識が無いのと同様、肉体の肺が行う

呼吸もある意味、心の働きによる、呼吸 へと切り替わる。

呼吸は精神修養の手段としてコントロールされるべきものへ

と変わる。

 

以前 内田医師の生命医療現場のご紹介をしたときにも、

呼吸法を利用されて、患者の心と身体に効果を上げている

実例があった。

恐怖、怒り、情欲で興奮する人の呼吸は荒くなるし、

集中力が高まり 何か、緻密な行動にとりかかる寸前の人

呼吸は、きわめて遅くなる。

 

 

 

人間の寿命と呼吸の数と関係があると言われて久しい。

たしかに、ウミガメのような寿命のある動物と比べると、

前者が1分間に平均4回であるのに対し、人は、18回程度

といわれる。

猿は32回といわれ、その動作が常に落ち着きのないことは

みてのとおりだ。

 

呼吸して酸素をとりいれ、ヨガで、それをプラーナに還る。

睡眠中人は、無意識にこれを行っている。

身体と心がリラックスして、余分なストレスや身体の運動

がないため、プラーナは脊髄中枢に補給されていく。

こうして、寝ることによって、人は活力を取り戻している。

 

聖者は寝ることはない と、インドでよく聴く話だ。

自分の師がベッドで寝ているのをみたことが無いと、

知人から聞いた。

それは、寝る必要がないからだ。

寝なくても、十分にプラーナを蓄える術を、ヨガ術を

心得ているからだ。

筆者のような凡人はガンジス川のプラーナに充ちた領域で

瞑想をしなければ、こうしたプラーナを無意識に、ヨギのように、

巧みに脊髄中枢にためていくことは困難だろう。


とは言っても、ただ、黙って目をとじているだけでは、

心は感覚器官に引っ張られるだけだ。

瞑想中、揺れ動く想念に乱されることがないようになるためには、

ヨギの技法が必要となるだろう。

 

インドのヒマラヤに人知れず、存在するヨギたちは、そうしたヨギ

の技法をマスターして、想念や意思、感情を 肉体的レベル

から解き放ち、心を常に脊髄中枢の超意識レベルにおいて

いるという。 

彼らは、過去のカルマに影響を受けず、新たなカルマを創る

こともない。

 

ギータ6章46節に、クリシュナ神はこれらの ヨギたちを賞賛

して次のようにいう。

“ヨギは肉体を解放する苦行僧よりまさり、

哲学の悟りの道や戒行の道を歩む修行者よりまさっている。 

されば、アルジュナよ、汝もヨギになれ”

The Ganges in Varanasi

  

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ホーリー祭り・真っ只中

2013年03月28日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

起源は魔除け 平成25年3月28日

***************************

今、筆者はインドのデリーの片隅にいます。

 

もう少し早く、デリー脱出を試みるつもりでしたが、

昨日と今日と、(26日・27日)と ホーリー祭りの真っただ中で

春の祭典のおかげで、足止め状態です。

色かけ祭りとして、有名で、この日、ぶらーっと歩いていれば、

そこかしこから、色つきの水鉄砲の水が飛んでくる可能性がある

わけです。

 まさに 前の家の屋上で 水鉄砲を構えている男の子

しかも、一度 衣服につくと、なかなか落ちない、染料を使っていると聞くと、

おとなしく、お祭りが終わるまでは家にいた方がいいということに

なります。

もともと、このお祭りの起源が、日本の節分と同様、鬼は外 スタイル の

悪霊払いにあったことは、今日 知りました。

 

というのも、今日 未明にかけての夢が 何十年もみていないほど、

目覚めの悪い夢だったからです。

それは、あまりにも、はっきりして

一度目をさましても、まだ 体中がけだるい、夢の続きを味わって

いたほどでした。 

何気なく、ホーリー祭りの由来を調べていたら、もともとは、悪魔祓いと

関係していることがわかりました。

その夢と、このホーリー祭の 起源と、こじつけて考えると、納得が

いくものでした。

 

その夢というのは、筆者が、ある、男に追いかけられ、逃げても

逃げても、あっという間においつかれる。

執拗に、追いかけてくる様が迫力があり、必死で夢の中で逃げているのです。

しかも、なぜか、日本の仏壇がある部屋が、光景にちらつき、

その男は 私の亡くなった伯父の顔にも似ているようでした。

こうして、追いかけられて、とうとう、男に、つかまってしまいました。

その男が自分の頭に食らいつくような

仕草で、私の長い前髪をその歯でむしりとるかのように、抜いていくという

奇妙な夢でした。

いろいろな人が 救出に集まりますが、なかなか、思うように

いきません。

夢の結末は、一人の美人が現れて、その男が、その美女を見るや否や、

方向転換して、

その美女に、話しかけようと 近づいていく その 隙に、

逃げ切るようにして、

私はまた、逃亡するという 物語でした。

 

26日夜は、所によっては、七夕祀りのように、いろいろなお祓い

を願う札とともに、その木と御札を、焼いて悪霊祓いをすると聞いています。

 

もしかしたら、その悪霊祓いで 祓われてきた 男の亡霊だったのでしょうか?

私の心に、くすぶる、マイナス思考やエネルギーを感知して、

このホーリーの夜を彷徨っていた悪霊が、私の睡眠の合間に悪戯したのかも

しれません。(・・・・・)

 

こうして、今27日、穏やかな、一日、子供たちの、色水を掛け合う

楽しそうな声や、楽隊が演奏する、太鼓の音などが、にぎやかに

朝から響き渡っています。

色を付けた水を 掛け合うようになったのは、本来 悪魔にかける

ものだったようです。

それが、いつのまにか、春の豊作を祈願する祭りとかぶさって、楽しく、

お互いに 掛け合って、楽しむ行事に変化してきたようです。

 

春 といっても、ほんの一瞬。

4月・5月は、デリーでも、一番暑い月といわれます。

すぐに 夏がくる、そんな、デリ―の今日この頃です。

 

次のURは ホーリー祭りの情景を描いた、YOU Tubeのヴィデオ

です。http://www.youtube.com/watch?v=yPTlfa5LYYE&feature=player_embedded#t=44s

興味のある方はご覧ください。

もう、顔も服も 真赤ですね! (3/27/朝10時@デリー)

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サーマヴェーダと波動

2013年03月27日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

インド古典音楽の直観直覚  平成25年3月27日

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Saraswati sits on the bank of a river,
 holds a book and beads, and plays music 
on Veena,

 

直観・直覚 とは何か?

それは 心が 無心になったとき、その静けさの中に 自然に顕れる

魂の声だ。


人の心は、マナス といわれる、情感に揺れ動く心の性質のために、

動揺することが多い。

動揺は、ある意味、この直観の経路への妨害波動になる。

心は、さまざまな波動を通す、一種の精妙な生体のラジオ装置にも 

似ている。

電波の周波数があったものをキャッチするように、心も、

その時の想念の波動によって、受け取る質が違うということになる。

 

 

私たちは、日常生活の中で、波となって、押し寄せる、想念波動

への意識は コントロールしやすい。

一方、異次元の想念波動や、宇宙規模の想念波動に対して、

あまり、意識も薄く 無防備になりがち かもしれない。

しかし、インドの聖者が言うように、宇宙にはあらゆる想念が 

時間と空間を越えて振動しているのだ。

生きている人のみならず、死んだ人の想念も 空間の中に、

行きかっていることは、飯田教授の体験(ブログ:H.25/3月13~20日参照)

容易に伺える。


そうした種々様々な波動の中に、神とつながる波動も 

実在している。

否、真理の波動のみが 実際は実存しているのだが、

空間と時間の中で屈折して、そうした雑念と渾然一体に

なってしまっているのかもしれない。

 

ヨギたちは、テレビが発明される以前から、

直観に従い、心を澄ませることにより、他者の考えや状況を瞬時に

自分の心に映し出してきた。

その直観・直覚こそ、神につながる 波動の道への切符だからこそ、

その研ぎ澄まされた能力を、ヨガ の修行で身につけていった。

 

 

自分は 15年間のインド生活で、古典音楽を通して、こうした、

神と直観的に結ばれる 波動 に ひきつけられてきた。

インド古典音楽は、ヴェーダの時代に残された、

サーマヴェーダの世界最古といわれる、音楽理論が 基盤にある。

 

サラスワティ女神は、智慧の女神であり、ヴィ―ナの奏者。

この女神は、日本に伝わり、後世、弁天様となり、琵琶を手にもつ、

仏教の女神となった。

クリシュナ神は フルートを片手に持ち、その音色で、マーヤー

幻想の世界)に溺れる人たちの心を救い出そうとした。

 

シヴァ神は、リズムを生み出し、そのリズムは宇宙のダンスとして、

創造の前の破壊、古いものへの打開という役目を果たして

いるという。

こうした、インドの神話から、わかるように、神々と音楽とは、

重要な関連をもっている。

ヴェーダの音楽理論は、その、神々の音楽に、人間の五感と能力が

少しでも近づくことができるように、外枠を 整える 役目を

果たした。

 

少し、専門的になるが、そのヴェーダにはすでに、下記の決まりごと

が記されている。

インド古典音楽は6つの基本的な旋律のグループ(ラーガ)について。

それぞれ、四季に合わせて、さらに、演奏される時間帯も 細かく、

決められている。

ラーガの基本的な旋律は、100以上の旋律に分かれている。

その分け方は、宇宙の太陽と月が大気に及ぼす影響、大自然の

季節の波動、に合わせての 決められている。

 

大学院の パフォーマンス(試験)でも、その試験の時間帯に

合わせて ラーガは 慎重に 選ばなければならなかった。

時として、試験の予定が伸びたとき、用意していた時間帯の

ラーガが、その時間帯と合わないこともある。

そのため、それに合ったラーガの、選択肢がなければ、

それだけでも大きな 減点となった。

 

インド古典音楽では、西洋音階の ドレミソラシド 

の7音以外に、それぞれの音階の間に微妙な 半音より

小さい音が いくつか存在する。

それを シュルティ と呼び、これは、1オクターブに 

22個 存在した。

ラーガによって 微妙にシュルティを引き出すことができる

演奏家が、達人とされた。

 

リズムも重要な要素だ。

シヴァ神の 生み出す そのリズムは、16拍子、10拍子、

12拍子など、多々存在した。

自分は 数種類のリズムしか、演奏ができない、

新参者だったが、 理論上では120種類の ターラといわれる、

拍子の取り方があるといわれる。

  

サーマヴェーダ の聖典には、インド音楽が、もともと、神に

ささげる 音楽から出発したことが明記されている。

現代でも、古典音楽演奏家は、その音楽を 魂で弾く という

ことを、徹底して教わる。 

西洋のオーケストラ音楽とは対照的に、インド古典音楽は、

個人の音楽に終始する。

主観的であるからこそ、表現が豊かで 、自分自身が 

その音楽の粋(すい)に没頭してこそ、醍醐味が、聴衆に

伝わると、教えられた。 

テクニックも大切だが、まず、演奏する人が心から 直覚直観を

研ぎ澄ませ、自ら、その境地を楽しむことが必要だと、師から

何度か注意された。

筆者のグルのお父様 ヴィラヤット・カーン師は、演奏会で 

聴衆に向かって、こうおっしゃった。

“私の音楽は、皆様、眼をつぶってお聞きください。

魂で聞いてほしいからです。“

 

インド古典音楽の演奏に待ったなしだ。  

というのも、基本旋律以外には 楽譜は 存在しない。 

あえて言えば、ジャズのように、ほとんどが、即興だ。 

ラブ という静かなリズムのない 最初のパートは、そのラーガ

の真髄を、聞いている人たちに届ける。

ここでは全く、楽譜はない。

同じ奏者でも 全く同じには、二度と弾けないだろう。

アラブは、その ラーガのエッセンスを表現する。

最初のフレーズを聞いただけで、聴衆は、何のラーガか聞き分ける。

 

そこには、22個ある シュルティの微妙な使い方なども、

吟味されている。

アラブの次に、ガッツといわれる、旋律部分に移行し、テンポと

リズムが加わる。

ここで初めて、タブラ(インドの太鼓)奏者が登場する。

さまざまな、即興曲がここで披露される。

勿論、タブラの拍子と、合体して、隙間が無いくらいに、見事

に重なると、ますます、その演奏の魅力が増して、聴衆は

ひきつけられていく。

 

最後に ジャラ という 特殊な装飾的なひき方に変わって、

クライマックスを迎え 曲の終了となる。

(以上、シタールリサイタルの場合)

直観の音選びとテンポの連続が、インド古典音楽の 絶妙な

面白さかもしれない。

波動の選び方、テンポの創り方、すべて、主観的な美的感覚は

奏者にゆだねられる。

 

このような インド古典音楽波動に 文字通り、毎日 浸り

ながら15年のインド生活を送った。

そして、神への波動 という言葉は、抽象論で観念的ではない

ことを、インド古典音楽を通じて、体感したような気がしている。                 


Murti of Saraswati for puja in Kolkata
Devanagariसरस्वती
Sanskrit TransliterationSaraswatī
AffiliationDevi (Tridevi)
AbodeBrahmapura
MantraOm Aim Sarasvatyai Svāhā
ConsortBrahma
Mountswan, Hansa Bird, and often peacock

以上表はWikipediaより

 

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