自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ガンジス河と三蔵法師と仏教経典  

2014年12月31日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

最大のヒンズー教の祭礼行事   2014・12・31

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もう今年もカウントダウンに入った。

正月を迎えるために大掃除や禊ぎなどをし、心身潔白に保つのは

日本人の文化のひとつかもしれない。


同様に、インドでの禊ぎといえば、ガンジス河に朝陽を浴びて

頭からつま先まで入ることで、罪が流されると信じられている。

そうした考えが基調となる最大の宗教行事の一つがクンバメラ

と呼ばれるお祭りだろう。

 

筆者は"癒しの森"主宰者のM.Nさんとクンバメラに行ったことがある。

大勢の信者たちや聖者がガンジス川の周りにひしめいて 行者たちの

長い行列を見送った思い出がある。

そのあとガンジス川で沐浴をした。

この祭りは古代からインドに伝わる宗教的祭典である。

聖なる土地、ハリドワール、アラハバード、ナシク、ウジェイン、の順に

三年毎に行われる。

 

ところで、ヨガナンダ師は1936年1月23日、アラハバードで行われた

クンバメラに出かけている。

その様子が興味深く、自著に記されている。


“200万の大群集はまさに言語に絶する壮観だった。

インドの国民には、どんなは日な田舎者にも、魂の価値や

俗世の絆を断ち切って魂のよりどころを求める僧侶や行者に対して、

生まれながらに敬意をいだく独特の気風がある。


確かに彼らの中にはいかさま師や偽善者もいる。

だがインドでは、この国に絶えず天の祝福をもたらしてくれる

ごく少数の真の聖者のために彼らのすべてを尊敬しているのだ。

 

最初の日は、ただもの珍しさに眼を見張りながら歩き回った。

何千人とうい人々が聖なrガンジス川の水に浸って罪の穢れを洗い、

清めている。


バラモンの僧侶たちは恭しく、礼拝の儀式を行っている、

沈黙のまま座っている隠者たちの足元には、捧げ物が

散らばっている。


像や美しく飾り付けた馬や、もったいぶった足取りのラクダが、

ぞろぞろと列をなして、進んでいくかと思うと、そのあとから、

金銀の錫杖や絹のビロードの上りを掲げた裸の行者たちの

風変わりな行列が続いて行く。“


腰布だけを身に着けて、静かに座っている小さな隠者の

一団もあった。

彼らは厚さや寒さをしのぐため、体に灰を塗り、額の中央には

霊眼を象徴して、白檀の練粉でくっきりと印をつけていた。


黄褐色の僧衣をまとい、竹の杖と度圧の椀を持った剃髪の

スワミ達の数は何千人とも知れなかった。


道行く彼らの顔にも、弟子たちと哲学的議論をまじわしている顔にも、

俗世を離れた物の静かな落ち着いた喜びが輝いている。


あちこちの樹の下には、安打神をとぐろに巻いて、頭の上に乗せている

行者たちが、かがり火を囲んで、座っている絵のような光景も見られた。


その中には長さ一メートル以上もあるひげを生やし、それを縮らせて

こぶのように結んでいるものもいる。


彼らは静かに瞑想したり、道行く群衆に祝福の手を差し伸べたりしていた。

乞食も通れば、象にのった マハラジャもいた。

派手なサリーまとって腕ワや足首飾りをチリンチリンと鳴らして歩いて行く

婦人たちも通れば、痩せた腕を高く頃テスクに掲げている托鉢僧や

瞑想用のひじつきを抱えている修行僧、内なる至福をしかつめらしい顔に

押し隠している謙遜な賢者たちも通っていく。


そして、それらの騒音を超えてひときわ高く、寺院の金が祭りの気分を

もりあげるように、ひっきりなしに鳴り響いていた。“(引用終わり)

 

筆者が10数年前に訪れたときと 半世紀も前のクンバメラの光景と

さして、変わっていないのが印象的だった。

インドでは まさしく、時が悠長に流れているのである。

 

さて、こうしたクンバメラの騒々しさから離れた庵にすむ聖者がいた。

スワミ・クリシュナナンダと呼ばれていた。

ヨガナンダ師はこの聖者を訪問する。

引用する。

クリシュナナンダは血色の好い、立派な容貌とひときわ盛り上がった

肩を持つスワミでその足元には よくてなずけられた、メスのライオン

(須田注;」ベンガルトラの事か?)が寄り添っていた。


このジャングルの猛獣は、スワミの霊的魅力に屈して肉類を全く食べずに

米飯とミルクを常食にしている。

しかもスワミはこの黄褐色の毛皮を付けた野獣に‘オーム’という

嬌のある唸り声を出すことを覚えこませ、‘猫のような信者’に

してしまった。“(引用終り)

 

ヨガナンダ師はこのスワミに放浪生活についていくつか質問する。

①    あなたは、冬でも他に着物を着ないのですか?

~答え)“着ません。

②    あなたは本をお持ちですか?

~答え)いいえ、人にものを尋ねられた時は記憶の中から答えます

③    ほかにはどんなことをするのですか?

答え)ガンジス川のほとりを散歩します

④    あなたが今お話しくださったことは聖典に在ることでしょうか、

それともあなたご自身の内的体験でしょうか?

~答え)半分は本からのもので、半分は自分で体験したことです。

 

 話が前後するが この質問の前に こんな会話を

同スワミはしている。


“わたし(スワミ)は物質的執着を断っている。

衣類の心配をすることなく食欲に駆られることはない。

料理された食べ物は一日おきに口にするだけだ。

物乞いもしなければ托鉢にも歩かない。


金銭のわずらわしさから解放されていて、銭も扱わなければ物

をたくわえることもなく、必要なものは常に神にゆだねている。


車に乗ることもなく、乗り物の心配もない。

執着を生じるのを避けるため、決して一か所に一週間以上とどまること

はない”(引用終り)

 

こうした聖者に匹敵する行者が多く参加するクンバメラは、

孫悟空が主人公の西遊記に出てくる、三蔵法師もご存知だったとみえる

三蔵法師は実在の人物である。


一方、クンバメラの歴史は古く、古代のマハバラータ物語にも登場する。

クンバメラと三蔵法師の間の接点が意外なところにあった。


中国からインドに向けて聖典を手にするために向かった三蔵法師は

紀元644年アラハバードで行われたクンバメラについて、書き

残している。


インド各地を旅行したことは知られているが、北部インドに行った際、

その王ハルシャはクンバメラで5年間の歳月貯めた財宝を

僧侶と巡礼者たちに喜捨した。


三蔵法師にも財宝を喜捨することを望んだハルシャ王の申し出を断り、

その代りに 法師が望んだのが宗教書の写本であったという。

それは657冊の経典であった。

 

こうして中国にインドから価値ある経典を持ち帰った三蔵法師であり、

其の後 朝鮮半島を経て日本に仏教が伝来し、これらの教典も

日本で読まれることができるようになった。


仏教伝来の背景と 太古からのインドの最大のお祭り、クンバメラを

訪れた三蔵法師の接点を考えると、とても興味深く覚える。

 

 

 

 

 

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2014年のX’マス:ローマ法王の過激な挨拶

2014年12月28日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

 ”心を石にするなかれ””上司を神とするなかれ”  2014・12・28

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 今年のクリスマス、慣例のローマ法王のクリスマスの言葉が

全世界に向けて流された。

Japan News のクリスマスの日の朝刊に。次のような

ニュースが掲載されていた。


”Vatican City (AP) on Dec.24th (12月24日AP通信 ヴァチカン市発)

Vatican watchers said they had never heard soch a powerful , 

violent speechfrom a pop~


(須田訳:ヴァチカン市民はこれほど、法王が力強く、過激なスピーチを

したことを聞いたことはないと言った)


Francis turned the traditional, genteel exchange of Christmas Greetings

into a public dressing down of the Curia, the central administration

 of the Holy See that governs the 1.2 billion strong Catholich Church.

(スダ注:法王は、伝統的な穏やかなくX’マスの挨拶の代わりに、

12億人の世界中のカソリック信者を統括している法王庁の役人の

実態を批判したのだ。)

He made clear that his plans for a radical reform of the structures 

of church power must be accompanied by an even more radical 

spiritual reform of the men involved.


(須田注:法王は教会権力構造の過激な改革に対する計画を明確にし 

その改革は、これに携わる人々の過激なスピリチュアル改革によって

同時に、もたらされるべきだということを述べた”

 

さて、フランシスコ法王が語ったクリスマスのメッセ―ジのタイトルは

法王庁の病んでいる15の問題点” ということだった。

その病んでいる点は具体的に以下のような内容だった。

 

12月24日付の朝日新聞では

その15の問題点を以下のように日本語訳に置き換えていた

1) 自分たちが不滅で不可欠だという感覚

2) 働き過ぎ

3) 心が石のように頑固になっている

4) 計画しすぎる

5) 調和なく働くこと

6) 精神的な’認知症’ 

7) 張り合ったり虚飾に走っている

8) 存在の’統合失調症’

9) 陰口を言いあう。

10)上司の神格化

11)他者への無関心

12)お葬式のような深刻な顔

13)物欲

14)閉じられた’内輪’を優先

15)世俗的な利益を求め、ミエを張る

*******

まとめて、大きく分けると、3つのパーツにわけられるような気がする:


たとえば (1)、(3)、(4)、(6)、(8)、は心の内面の見直しを

促す言葉で(2)、 (5)、(9)、(10)、は働く意義や 組織内部

での心の持ちよう、(7)、(11)、(13)、(15)、は 欲得に

かられやすい人間のエゴに対する忠告ともいえる。

 

一番めの 自分たちが不滅で不可欠であるという認識 は 正しく

使われればむしろ、相手の中にその資質を認めることもできるわけ

だから、自然と相手を見る眼にも、謙虚さが伴うだろう。


それが悪く使われれば、自分のみ正しく、自らの反省や批判を

忘れてしまう想い上がりの高慢な妄想に取りつかれた人に

なってしまう。

 

4番目の 計画しすぎる事 に対する忠告は、人間所詮、

どんなに細密に計画たてても、自然災害や不可避な事態という

’計画の妨害’を予測することは不可能なことをさしている。


つまり、一生懸命、尽くして 天命を待つ式に、神のみぞ、

最期の完成と計画成就に恩恵を与えることができ、それがあって

計画が成就できるという認識も必要なのだろう。


キリスト教式に言えば”神の御心のままに為したまえ”という、

祈りの心に通じる。

神への信頼を持って、ことにあたれば、失敗してもよし、成功すれば

さらによしという心境になれるのだと思う。

 

法王のいう 精神的’認知症’とは何だろうか?

”神との出会いを忘れた人達”をさすらしい。

 

さらに存在の ’統合失調症’ という8番目に出てくる言葉の意味は?


存在そのものが、宙に浮いたような次元にいる人達、

現実の周りの人々や状況と向き合うことができない人達、

現場の状況を知らず、机に座って指示し、マニュアルを書く官僚の

ような現実を知らずに自分の独善的世界に浸っている人達、

をさすのだろうか?


法王庁の職員のみならず、多くの官僚機構型人間はこの類に

属するのだろうか?


それは3番目の、心が石のように頑固になる~というフレーズにも

つながりそうだ。

身の回りの人達の喜びをともに享受し悦び、悲しみをともに手をとり

励まし合う、そうした、他者の心の繊細な感情の襞(ひだ)に敏感に

なること、 だから、 (7)の張り合ったり、(9)の悪口を言い合ったり

11)の無関心を装ったりしないこと。


そういう人は組織人間になり、出世ばかり考えるようになる。

(10)の上司を神格化して、白くても、上司が”黒といえば黒”、

”赤といえば赤”というように、日和見主義の徹底化を自らに

課して良しとするのだろう。

 

これらの忠告は、全世界の人々へのメッセージであるとともに、

法王はバチカンの官僚主義的体質をこうした言葉で厳しく

批判したともいえる。


法王庁の体質改善を公にこうした言葉を投げかけながら、ローマ法王は

こう付け加えたそうだ。


”ニュースになるのは落ちたときだけ。だが、一人がおちれば、

教会全体が傷つく”

だから、法王は、

”聖職者とは飛行機のようなものだ”という。

 

本当にそうなのだろうか?

飛行機は高いところを飛んでいる。

勤勉家で こつこつと小さな糧を一日の糧としている蟻(あり)は、

飛行機を見上げてみることもできない。

逆もまた真なり。

 

多くの民衆は 国民は、毎日当たり前の小さな仕事を繰り返し

地道に、地味に、地を這うように生きている。


飛行機に乗っている聖職者では ヘリコプターに乗れる一部の

金持ちの人達しか 彼らと話し合えるゆとりはもてない。

 

地道に一歩一歩 大地を歩いている人にしか、蟻の存在を知ることは

できないのと同様、現実の生活を見たり聞いたり一緒に苦しんだり

喜んだりできる人達にしか、一般の人達、救いを求めている心身ともに

病んでいる人達の心を理解することはできない。

 

聖職者とは  本来 そうした努力をいとわない人達だと信じたい。


弱者や忘れかけられている人達をみつけて声をかけられる人。

僧侶や牧師、神父などの聖職者は本当はそういう方達であるはずだろう。

 法王のメッセージは そういう意味で、たぶん世界中の聖職者にも

もしかしたら ちょっと痛い言葉なのかもしれない、。

 

 

 

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護符(おまもり)の役目

2014年12月25日 | 健康のための心の波動

護符(お守り)の効果は?  2014.12.25

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あと一週間もしないうちに

多くの皆様は初もうでに行かれるだろう。

そして その神社でのお守りなどを購入され

新年の無事を願うことだろう。

 

そうしたお守り、実際、身に着けているだろうか?

神社仏閣で購入したものだけでなく いろいろな種類の

護符代わりの品があるかもしれない。

たとえば、

護符の代わりに肉親の形見の指輪をつけて

あの世から見守っていてくれる亡き人の守護を感じたり、

愛情を想いだして力づけられることもある。

 

さて、今日のお話しは 'あるヨギの自叙伝'に載っている

ヨガナンダ師の母親が預かっていた”護符”の不思議な話だ。

本文から抜粋すると、

“母の死後14か月たってから、私は母が私に重要な遺言を残して

いったことを知らされた。

それは、アナンタ(須田注:ヨガナンダの兄)

が母の臨終の枕元で書き取ったもので、母は、それを一年

たったのちに私に打ち明けるよう頼んだのだがあにが、それを

のびのびにしていたのである。


アナンタは母の選んだ娘と結婚するために、間もなく

バレイリーからカルカッタへたつことになっていたが、その

少し前の或る晩、私をそばに呼んだ。“

 

こうして兄は弟に、母親からの遺書を弟ヨガナンダ師に渡すのである。

それにはこう書かれてあった。


愛する我が子、ムクンダ(須田注:ヨガナンダ師の幼名)これから

私のいうことを最後の祝福と思って効いてください。“


“お前の誕生に引き続いて起こった数かずの不思議な出来事を

打ち明けるときがきました。

私はお前がまだ、私の腕に抱かれていた赤ん坊のころから、

お前の宿命的な道を知っていました。


そのころ私は、お前をベナレスのラヒリ・マハサヤ

(須田注:ヨガナンダ師の先生ユクテスワ師のグルで年齢不詳の

ヨギ・ヒマラヤのババジの愛弟子のところへ連れて行きました。

 

大師は座って瞑想にふけっておられましたが、私はそのとき、

大勢の弟子たちの陰になって、ほとんどその御姿をみることも

できませんでした。


私はお前の頭をなでながら、大師がお前にお気づきになって祝福を

与えてくださるようにと一所懸命に祈っていました。

 

私の祈りが頂点に達した頃、大師は眼をあけられて私を

手招きされました。

私は大師の足元に深くお辞儀をしました。

すると大師は、ひざの上にお前を抱きとって、額(ひたい)に

手をあてて、霊の洗礼を授けてくださいました。“

 

このとき、マハサヤ師は母にこう告げる。

若い、お母さん、あなたの息子さんはヨギになりますよ。

神と人との懸け橋になって、多くの魂を神の国に導いて行く

ことでしょう。”

 

母親の遺書にこう続きが記されていた:

“その後、私の生涯で、最も不思議な出来事がこの確信を、さらに

強めてくれたのです。


今、死の床にあって、この遺書を残すわけも、ほかならぬ

其のことのためです。

それは、私たちがパンジャブ州のラホールに居たときのことです。

私は一人の聖者の来訪を受けました“

 

その聖者はヨガナンダの母にこう告げる。


“お母さん、偉大な師たちは、あなたの地上における生涯が

もう残り少なくなり、この次の病気があなたの最後になる

ことを予言しておられます。


あなたにはある銀の護符を保管してもらうことになります。

私は、私の言うことが真実であることを証明するために、

その護符を今日お渡ししないで、明日、あなたが瞑想している

ときに、それをあなたの手の中に物質化してあげましょう。

 

あなたは死ぬとき、それを長男のアナンタに渡して、一年間、

彼に保管してもらってから次男(須田注:ヨガナンダ師のこと)に

手渡すように言いつけなさい。


ムクンダは、偉い師たちからその護符の意味を教えられ、

理解するようになるでしょう。

その護符は彼があらゆる世俗的欲望を棄てて、ひたすら神の探究に

専念する用意ができたとき手渡さなければなりません。


護符は数年間、彼の手元にあってその目的を果たすと

消えてしまいます。

どんな場所に隠しておいても、それは元あったところに戻って

しまいます。“

 

翌日の晩、母が手を組んで瞑想していると、その言葉通りに

銀の護符が手の中に物質化された。

眼を閉じて瞑想していた最中、手のひらに冷たい滑らかな

感触があった。

 

“私はその護符を今日まで、2年以上の間、大切に守り

続けていました。

けれども、今それをアナンタの保管にゆだねます。

どうか私のために、悲しまないでください。“


兄の手にゆだねられた護符はついに、母親の遺書とともに、

兄の手から、ヨガナンダ師に渡された。

その時の様子をこう回想している。


護符を受け取ったとき、私は強い光の炎に包まれた。

すると眠っていた様々な記憶が一時に蘇ってきた。


丸い形をした古風で風変わりな護符の表面には、

サンスクリットの文字が一面に刻んであった。

私はそれが私を目に見えないところから導いてくれる、

私の過去世の師たちから送られたものであることを理解した。


護符の文字には、さらに深い意味があったが、その内容を

他人にもらすことは差し控えなければならない。“

 

護符にもお役目の期間や目的があるらしい。

その護符の役目が終わるときがきた。

其の後 その護符を大事に身に着けていたヨガナンダ師だが

あるとき忽然とその護符が消えているのに気が付く。

鎖は首にかかっていたが、護符だけが消えていたのだ。

 

“この護符が のちに、私の生涯の深刻な苦悩のさなかに

消えてなくなったこと、そして、そのことが我が師との

巡り合いの前触れになったいきさつになった。“

 

さて私事で恐縮だが、筆者の父は気学に凝っていて、

四柱推命などを合わせて良い方角や家相を、人一倍気にかけていた。


宝石の純粋なパワーを信じ、“五黄”という星をもっているので、

護符替わりに、黄色の石を探してくれるよう、当時、印度に

居住していた私に頼んできた。


石の中でも、ダイアモンドの堅さは、ぴか一であったが、その次に

堅固さと価値を誇る宝石としては、サファイアだった。


珍しい黄色いサファイアは、主にスリランカから採取されて

いると聞くが、父に指輪に加工して持っていくと、サイズが

少し小さく、小指にしか入らなかった。


父はしかし、喜んで、無くなる直前まで、その石を身に着けていた。

しかし、葬式の前夜、指からはずされ、大切に私は保管した。


葬式が終わってから、母がその指輪を形見として残しておきたい

と保管した場所から指輪を取ってくるよう恃んだ。


ところが・・・そこには無かった。

もしかしたら

この指輪は父の護符の役目をしていたのだろう。


父の肉体的要素が自然に還ったあと、役目をはたして物質界から

消えたのかもしれない。

父の死後8年たったいまだに、そのイエローサファイアの指輪が

どこにも見当たらず、保管場所の勘違いとはどうしても

思えないのだ。

 

 

 

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アインシュタインとバラの花の聖者

2014年12月19日 | 健康のための心の波動

 奇蹟に隠された見えない世界の科学     2014・4・19

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サンピエトロ寺院のドームを原子の大きさとしたら?

 

バラの花の香りを生み出す聖者のお話しは先回させていただいた。

その中でどのようにしてバラの香りをつけられるか

という理由をヨガナンダ師は簡単に著書の中で述べていた。

 

“人間が感じる視聴臭覚・味覚・触覚のいろいろの感覚的刺激は

電子と陽子の多種多様な波動によって作り出される。


この波動の変化は、原子よりも一段次元の高い、プラーナと呼ばれる

精妙な生命エネルギー(これは知性を有するエネルギーでそれぞれの

感覚に相応する観念を内包している)の波動の変化に応じて

決まるのである。


ガンダ・ババは在るヨガの技法を用いて 自分自身をこのプラーナ

に同調させ、プラーナに直接はたらきかけて、その波動を構成しなおす

ことによって、目的の物や匂いを物質化することができたので

ある。”(引用終り)

                       ”

この一行には

見えない科学の世界の法則がさりげなく述べられている。


”あるヨギの自叙伝”が書かれてすでに半世紀ほどたった現在、

ヨガナンダ師の生きていた当時とはくらべものにならないほど

ここで述べられている電子と陽子の多種多様な波動 等、

量子学で解明されるミクロの世界は より深く解明され知られてきた。

 

それも そのスピードは速い。

筆者の大学生の頃は教室では

“中心にある原子核を野球のボールに喩えると

原子核よりも小さな遠視が周回する軌道は野球場の外周に匹敵するほど

離れている“と教わった。


これは 

“すべての物体は原子で構成されていて、原子の中心には原子核があり、

その周囲を電子が衛星のように回っている“という ラザフォードの説

を基にしていているが、すでに今では古典的なモデルとなって

しまっている。

 

その後、原子の重量の大部分を占める原子核の質量は、10万分の一

と言われ、研究が進むにつれ、素粒子がさらに詳細に分析された。


2014年秋現在では、原子核は原子全体の”1兆分の一”にしか

ならないと言われる。


〇を並べてみると、以前は”0.00001%”が原子核の原子に占める

重量だったのが、現在の量子学では”0.000000000001%”に

過ぎないとういうわけだ。

 

実際のわれわれの眼で見える物に置き換えて、これを喩えると、

原子をイタリアにあるローマ・サンピエトロ寺院のドームの

きさとすれば、原子核の大きさはどのぐらいになるだろう?


ドームは直径34m、周囲100mある。

すると、中心にある”原子核”は”塩粒程度の大きさに過ぎない。


そのまわりをまわっている”電子”といえば、舞い上がって見える

埃(ほこり)”程度の存在になってしまう。

 

ここで自然治癒力的にこのことを見てみると、私たちが肉体に

備わっている五感の感覚機能の働きを再確認させられる。


私たちの認識している肉体は、”物体=固い物質”という常識である。

これほど、細胞を構成する原子、原子の核と電子との空間が

大きいものとすると、私たちの身体組織そのものは スカスカ

であるといえそうだ。


すると、五感の感覚機能で固体であると感じているこの認識は

科学的にみれば、錯覚以外のなにものでもないということになる。


物体は原子で構成され、原子の中身はスカスカな空間であるからだ。

 

こうした現代の科学的成果を踏まえると、

偉大なる聖者やヨギが起こすさまざまな、奇跡的行為の秘密が 

科学的に実証される日もそう遠くないと感じられる。

 

冒頭のヨガナンダ師の言葉にあるように、この空間のエネルギーを

統括して意識的に組み直すことができれば、


空間のエネルギーを自由に意思想念(聖者のエネルギー)で変えて”、

自由自在に花の香りを創りだしたり、

あるいは、肉体を瞬間移動させたり、

齢1000歳を超えても若々しい姿でいることができる”

ということになる。

 

空間には、そういう意味でエネルギーが満ちているともいえるだろう。


覚者は知っている。

そのエネルギーこそ、”物資の本体であり、われわれ人間も含めて

すべての被造物、あるいは、地上の存在物の実在の相(すがた)

であるということを。

 

自然治癒力も、このエネルギーがなせる賜物だ。

現代の西洋医学を中心とする、人間は物質であり、病状が現れれば、

機械を修理するようにその箇所だけの不具合を油をさしたり、

ネジを交換したりして治すことが本筋だとする考え方は、肉体=物質

という事実に成り立つ。


しかし、そうでないことが証明されれば、”エネルギー本質論”に

立ち返るならば、そのような療法自体は、根本的に見直される

ことになるだろう。


矛盾に満ちているといえよう。

それが効果あるとしたら、それも結局は、医師と患者の信頼関係、

周囲の人々の”愛やいたわり”、など目に見えない要素(プラスエネルギー)

さらに、”感謝”と”受容”といった患者の心も大いにプラスに関係して

いるに違いない。


あるいは、

その人がいかなる状況でも”この世での使命”が残っていれば どのような

状況に置かれていても“生かされる”だろう。

 

そして、薬や二義的なものに頼って治ったとしても、結局は 

それらの物質や方法が、本人の”生命力よ自然治癒力への導火線”

となったといっても言い過ぎではないと思う。


結局は本人の中にある生命力しか、自己を癒すことはできないからだ。

とはいうものの、こうした考え方に違和感を覚える方もいるだろう。

 

かの有名なアインシュタインのお話しをここで思い出す。

それは”すべて存在する物、人間もふくめ”、

“すべて質量あるものは、遍く、膨大なエネルギーに変換される”

と証明した。 

          

その方程式が E=mc2[二乗] だ。 

m=エネルギー、m=質量、c=光速)


アインシュタインの功績は、粒子とエネルギーは分かちがたく

渾然一体”であることを証明したことだろう。

 

エネルギーが変われば、その原子の粒子も変わる。

否、エネルギーを変えるから、その原子を変えることもできる

ともいえるだろう。


想念も、エネルギーだ。

もし、それが証明されれば、肉体=物質で堅い固体であるという

常識を基盤とした、現代の医療そのものは根底から見直される

時が必ず来るだろう。


心には力がある。

いいかえれば心で作り出される想念には力があり、それは、

エネルギーにほかならない。


先のアインシュタインの方程式でいえば、エネルギーは

質量をもつ物に変換できる ということがここでもあてはまる。


つまり、健康な想念は健康な体を造る と言い変えることが こ

の方程式を応用的に考えていけば、できるのだと思う。

 

 

 

 参考図書)”見えない世界の科学が医療を変える” 

長堀 優著 でくのぼう出版 2013年

 

 

 

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香りを創りだす聖者

2014年12月16日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

人生の前半後半におくべき目標とは?・・・ 2014・12・16

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様々な能力をもつ聖者を訪れた話は"あるヨギの自叙伝"の中で

語られている。

若きヨガナンダ師は、友人アラカナンダから、“香りの聖者”の話を聞いだ。

その友人の言葉に興味をそそられる。


ちょうどお祭りのときだったが、僕はバードワンのガンダババの

家へ行った。

ほかにも、百人ばかりの客が家にいた。皆がこのヨギは

どんなものでも空気中から自由に引き出すことができると

いうので、僕は笑いながら、季節外れの オレンジを出して

ほしいとババに頼んだのだ。


すると、目の前のバナナの葉に置いてあったチャパティ(印度のパン)

が、みるみる一斉にぷっと膨れ上がってきた。

そのパンを手に取って、割って見た。


すると、中には皮をむいたオレンジが入っていたのだ。

恐る恐る、ぼくはその果実を口にしてみたのだが、まぎれもなく

本物の果物、オレンジだった。“

という話だ。

 

その話を聞いて、ヨガナンダ師は興味をいだき、このババを訪ねた。

そして以下の会話をした。

 

ババ: あなたは何をお望みかな?(入ってきたヨガナンダ師の顔を

見つめながら)どんな香りでも出してあげよう。

ヨガナンダ師: 何のために?

ババ: 思いのままに香りをつくる奇跡的経験のために

ヨガナンダ師: 神をそんなことに利用するのですか?

ババ: 神も香りを造っておられる

ヨガナンダ師: しかし、神は花の香りを新鮮な間味わえるよう

もろい花びらという器(うつわ)とともに御つくりになった。

聖者よ、あなたは花も作り出せるのですか?“

ババ: ええ、しかし、普通は香りだけです。

ヨガナンダ師: それでは香水会社はつぶれてしまいますね

ババ: いえいえ、人の商売の邪魔はしない。 神の力を立証

するだけだ。

ヨガナンダ師: どうして?今更?

神はいたるところで、あらゆるものに奇跡を現しているでは

ないですか

ババ: そうです。 

しかし、われわれも神の無限の創造力の一端を現すべきだ。

ヨガナンダ師: 実際、その奇跡の術を習得するのにどのくらい

かかったのですか?

ババ: 12年。

ヨガナンダ師: 香りをわざわざ霊的な方法で造るために、12年も

かけたのですか。

花やへ行けばわずか数ルピー(注・現在1ルピー2.5円)で味わえるのに。

随分無駄な話ではないですか?

ババ: 花の香りは花が枯れると死んでしまう。

ヨガナンダ師: あなたの香りも肉体の死とともに消えてしまう。

そのような肉体的感覚しか喜ばないものを、どうして私が望みましょう

ババ: あなたの話は気に入った。 祝福を与えよう。

 

こうして、好きな花の香りをプレゼントされた。


ガンダババから “何の香りが好きか?”と、聞かれ、即座に

“バラ” と答えると、

“そうなるように”と言うや否や、直接体に触れることなく、1メートル

離れて座っている、ヨガナンダ師の手のひらから強烈なバラの匂い

漂ってきた。

聖者の家からの帰宅途中 ヨガナンダ師は、姉、ウマに出会う。


彼女は そのバラの花の香りに気が付いた。

どうしたの、ムクンダ。急におしゃれになったのね。香水などつけて。

素的なバラの匂い、でも、妙にきつい香ね。” と声をかけたのだ。


この会話で、香り は第三者もわかるほどのものであり、

催眠術をかけられ、勘違いの香りがあるという意識の結果ではなく、

他人にも歴然とわかる匂いであることが立証された。


しかし この体験を回想して、ヨガナンダ師は次のような感慨を

著書に記している。

“人間が感じる視聴臭覚・味覚・触覚のいろいろの感覚的刺激は

電子と陽子の多種多様な波動によって作り出される。


この波動の変化は原子よりも一段次元の高い、プラーナと呼ばれる

精妙な生命エネルギー(これは知性を有するエネルギーでそれぞれの

感覚に相応する観念を内包している)の波動の変化に応じて

決まるのである。


ガンダ・ババは在るヨガの技法を用いて 自分自身を

このプラーナに同調させ、プラーナに直接はたらきかけて

その波動を構成しなおすことによって、

目的の物や匂いを物質化することができたのである。


したがって、彼が作り出した香りや果物や、その他の奇跡的現象は

現実の波動として実際に物質化されたもので、催眠術の場合の

施術者が単に自分の内部に作り出す波動とは異なる本物だった。“

(引用終り)

 

としたうえで

“とはいっても、香りの聖者が演じたような奇跡は、見世物としては

面白いが魂の救いを目指すうえからは何の価値もない。


それは単なる遊びであって、真剣な神の探究の道からはおよそ

外れたものなのだ。

特殊な能力をいたずらに誇示することは

真の大師たちがみな戒めておられるところである。”(引用終り)

 

ペルシャの神秘家、アプー・サイドは 奇跡的能力を自慢する回教徒の

行者に次のような言葉を残している。


“水の中に居られるからといって、蛙とどこが違うのか。

空を飛ぶことなら、からすや禿鷹もやすやすとやっている。


悪魔は東洋と西洋に同時に出没する。

まことの人間とは人と交わって常に正しさを失わず、

日常の俗事を果たしながら絶えず神を忘れない人を言う。“(引用終り)

 

第二のヴェーダと言われる、バカバッドギータ・3章4~8節には

次のような言葉がある。


“人は、一切の行為を放棄して、因果の法則から解放されようと

しても不可能だ。

また、単に世俗的生活を放棄して解脱に至ろうとするのも不可能だ。


人は己を構成する本質から発する衝動によって、行為することを

余儀なくされているから、一時たりとも、何もしない状態でいる

ことはできない。


肉体的動作を強制しても、なお感覚の対象に心を迷わせるものは

偽善者と同様だ。


しかし、心によって、感覚を制御し、一切の執着を離れて行ずる

ものははるかに優れている。

汝、与えられた義務を果たせ。行為は無行為に勝る。


人は一切の行為を放棄しようとすれば、己の肉体を維持する

こともできない。“

(引用終り)

 

行為、活動こそ、人間の本性であり、怠惰の中には人間の本性

を生かすことはできないということだろう。


そして“瞬時も神を忘れることなくその日々の行為、仕事を

実行する”ことこそ、上記ギータのいうところの、“心によって、

感覚を制御し、“与えられた義務を果たす”

ことの中枢に在る心なのだろう。


人生前半は 教育と家庭生活にその行為の中心があり、

人生後半は思索と瞑想の行為の時期だと、ヴェ―ダの中では教える。


まさに、奇跡を起こしたり、人を驚かせるヨガの術を習得する前に、

こうした“行為”の完結を目指すことが何より、人としての価値である

ことをヨガナンダ師は示唆しているような気がする。

 

 

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