自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

輪廻・鳩・アートマセラピー(前)

2012年10月31日 | ペットロスの癒し

 

 10月31日2012年輪廻・鳩・アートマセラピー

 

印度ニューデリーの自宅で首が反対についた鳩に、

このセラピーを施したことがあります。

自分と息子以外に施した最初の体験でもあります。

当時、私はバルコニーに、植木をたくさん置いて、

野生の小鳥たちに餌を与えていました。

そのバルコニーに続く大きなガラス戸ごしに座って外を

見ながらシタールの練習をするのが私の日課でした。

そんな時に、こんなことが起こったのです。

当時の、日記から抜粋します。

 

200473

午後、ベランダに一羽の鳩が、小鳩を連れて

餌をついばみに来ていた。

親鳩はガラス越しに、2メートルほど、離れて、

私と対面していた。 

その眼はシタールを練習している私の眼をじーっと、

見つめていた。

鳩の眼というより、人の心の中まで読み取るような、

深い目線であった。  

数十秒丸い眼で私を見つめ、やおら羽ばたくと、

子供を残して飛びたってしまった。

 

残された哀れな小鳩は、母親を追うこともできず、

たちつくしていた。

茫然としているのは小鳩だけではなかった。 

私自身、えらいことになったと思った。 

その、小さな子鳩は、どこか、変形していた。

観察してみると、体の向きが首と反対になっていた。 

つまり、首が進行方向と反対に、ひねられていた。

其の顔は背中をみていて、くちばしも背中向きについている。 

餌すらついばむことができない。

唖然としたが、このまま、野良猫の餌食には したくない。

日本からわり箸を持ってきていてよかった。 

わり箸の先を削って親のくちばし代わりになるものを

つくることにした。

 200477

あの日から、私のセラピー施術特訓が始まっている。 

アートマセラピーを小鳩に試みる日々が続いている。

餌を食べることができない子鳩を、ひざの上で抱いて、

砕いた粟や、ひえなどの雑穀を、先端を平らに削った、

割りばしに乗せる。  

それを、子鳩のくちばしの中に突っ込むようにして与える。

子鳩の羽はすっかりそろっている。首さえまっすぐになれば

飛べるはずだ。

体全体に、気 を流してから、首に集中的に、流す。 

自分で 餌 を食べさせようとしても、くるくる体が

旋回してしまうから、これでは、絶対、自力では食べられない。

一箇所にジットしている時以外は 前に進もうとしても、

同じところで、こまのように回ってしまう。

 

クマールさん(注:ヴェランダやテラスの植木を世話する人) 

に、同じことを何度も繰り返して聞かされるのはたまらない。

彼は繰り返してこう報告するのだ:

奥さん、おもしろいよ‘ この鳩、ダンスしてますよ。 

と、何度も口にする。 

 

面白がって大声で報告してくれるが、一緒に笑うことも

できず、子鳩が、可哀想やら、やりきれない思いで聞き流す

毎日。 

クマールさん、この子は、好んで、くるくる回っている

のじゃないのよ!・・”と言いたいところだが・・

 

2004717

この、2週間、どこも外出せず、子鳩に、つきっきりで、

面倒を見ていた。 

15日ぶりに今日、始めて東京銀行へ行くため、外出した。

自分がまるで鳩になったような気分がして、いつもの私ではない。 

我ながら眼の動きや、首の回し方がいかにも、鳩っぽい感じ。 

この2週間、寝てもさめても、小鳩から眼を離すことが、

なかったからだろう。 

面白いことがある。

この数日、寝室の壁ランプの上に、鳩の幽霊を、まざまざと

目にしている。 

幻覚だと人はいう。 

しかし、今朝方も、その亡霊がいたので、冷静に私は、

観察した、

薄暗い霊妙な光の中で、確かに、ベッドの足元の壁掛け

ランプの上に、それはいた。

しらじらとした夜明けの光で、ボーっと鳩の姿が見え始める。 

壁には、影がしっかりと映っている。 

ランプの上で、忙しく羽の身づくろいをしている亡霊鳩は、

きちんと、その、シルエットを壁にも映し出していた。

何度、眼をつぶりなおしたり、開けてたりしてみても、

朝が完全に明けるまで、見えていた。

 

2004720

ランプの上で、羽づくろいする鳩の亡霊と、壁に映る影は、

本当に、幻影というのには、あまりにも、はっきりしている。

きっと、鳩にも守護霊があるのだろう。 

なぜなら、その幻影の下には、首が反対に向いている、

小鳩が休んでいる。 

小鳩の 守護霊は、小鳩が飛び立っていくまで、毎朝、

出没するのだろうか?

それにしても、いつ、首が真っ直ぐ固定できるのだろう?

 

昼間は野菜の竹かごを逆さにした中で、子鳩君の 

自力で餌を食べる訓練だ。 

午後、雨が降ってきたので、部屋の中にかごのまま鳩君

をいれて、数時間、外出した。 

網戸だけ、少し開けておいた。

 

数時間後、帰ってきて驚いた。私の部屋が動物園の檻(おり)

さながらだった。

数羽のすずめが部屋に入ってきて鳩の餌を食べていた。

リスが2匹、突然入ってきた人の気配に驚き、部屋から出よう

して、網戸を勢いよく、駆け上ったり 降りたりして、

パニクっていた。

見たことない野鳥までが鳩君のそばにいた。

”鳩君、君は人気者だねえ”と思わず声をかけた。

 

症状は、一進一退だ。 

ひとりで餌を食べられるようになったかと思うと、

数時間後には、また、首が逆を向いている。

そのたびに、がっくりして、希望を失いそうになる。

セラピーを初めてもう、3週間近く。  

ほんとに飛べるようになるのだろうか?と 不安がもたげる。

 

2004724

3週間目の今日。 

いつも通り、寝る前のひと時、鳩の体を左手で包み、右手で

手をかざし、”アートマの気” を流し続けた。

一進一退を繰り返しだ。

その実、本当に飛べるようになるのか、自信を失いそうになる。  

ようやく、首が前向きに固定されてきて、前を見ている時間

のほうが長くなったのは事実だ。

良くなったと喜べば、また、後ろに首がひっくり返っている

というサイクルの繰り返しだ。 

 

7月25日

待ちに待った瞬間はおもいがけず、今日やってきた。

あっけないものだった。 突然そのときは来た。 

 

・・・・・・(明日に続く)

           

 生きとし生けるもの、すべて私の顕現。

(宇宙を貫く”意思”の独り言)

                                                       

 

 

 

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ホーキング博士と神

2012年10月30日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

ホーキング博士とアートマエネルギー(2)2012年 10月30日(火)

   

 

10月28日(日曜日)、金魚鉢の金魚の眼にうつる、

私たちの世界と、リアリティーの話を、ホーキング博士の意見

お借りして、お話しした。

実は、ホーキング博士の考えは、キリスト教の教義に反するとして、

論議を醸し出している部分があるのだ。

例えば、博士は、著書 "The Grand Design”(2010年) で、

量子力学に重力の理論を結び合わせた研究成基づく結論として

 偶然の一致に見える現象を、神 なしでも、十分説明できる

宇宙の誕生においては、神の存在は不要である

 という大胆な説を提示したからだ。  


さらに、翌年には、

 人間の脳は 部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なす。

壊れた コンピューターにとって 天国も死後の世界もない。 

それらは闇を恐れる人の架空のおとぎ話だ

 と明言したために、宗教界に物議を呼んだ。


宇宙の誕生において神は必要ではないという博士の意見に関して、

皆様はどのように思われるだろうか? 


まず、神 の定義とは何なのだろう? 

”偶像崇拝” をイスラム教では禁止している。 

子供向けのイラスト入りのお話しの中でも、開祖モハメッドの挿絵は

常に、顔が無い。 

つまり、顔を描くことで、偶像崇拝の一歩にならないようにという 

配慮からである。

 

イスラム教に アッラーの神の像は存在しない。 

礼拝は、メッカの方向に向いて、頭を地にこすり付けて神への全幅の信頼と

帰依心を顕わす。 

祭儀には、牧師や僧侶は存在せず、イマームという、リーダーを置く。

神の前にはみな同等であり、かつ、人は、神のみを崇拝するべきであるからだ。 

よって、人間の造った木製や鉄製の銅像に額づくことは愚の骨頂だと 

イスラム教徒は言う。

 

一方、キリスト教やヒンズー教、仏教でも、イメージ(像)は寺院に置かれ、

人々の信仰の対象となっている。

それらの像に額づいているように見えているとき、誰も、その木でできた、

仏様や十字架のキリスト様が、命を持った存在と信じているわけでは

ないだろう。 

その像を通じて、普遍に存在しておられる、仏様やキリストさまの愛と

救いと慈悲の心に繋がり、私たちの心の奥にある、畏敬と愛を、呼び

覚ましているのである。

 

無形より有形の仏像を拝むことで、あがめるべき、無形の宇宙に満つる

永遠の存在に、焦点を合わせることが容易となる。

 

しかし、その像に命があると思っている人も、中にはおられるかもしれない。

そういう方達は、イスラム教が戒める偶像崇拝に陥る危険性があると

いえば、私は否定できない

 

話をもとに戻す。 

ホーキング博士が、このような偶像崇拝に見られる、狭義の神様という

意味でとらえているとしたら、確かに、宇宙の形成に神は必要ないかも

しれない。 


旧約聖書で見られるエホバの神、創世記の神がイギリス人の博士にとって、

神のイメージなのであろうか? 

だが、神 とは一種の法則として顕れている場合がある。


物理学者はその法則を見つけようと努力している。 

しかし、すべての事象に共通する究極の絶対的な法則は未だに発見されて

いない。 

 

ここで、私が、ホーキング博士自身、ぜひ、証明していただきたいことを

考えた。

宇宙も人も、キリスト教では神が造ったとされている。 

人体は小宇宙という言葉もある。

博士は宇宙に神は存在しないと明言されるのなら、人間も宇宙の一部である

以上、偶然の副産物となるはずだ。

 

1) もし、宇宙が偶然性の創造であるとするならば、博士ご自身の体と心が、

偶然の一致で成り立っていることが証明できるだろうか?

2) もし、そうだとしたら、他者の人間の心身も、博士と同様、偶然の

一致であるということが証明できるだろうか?

3) 最後に、その双方の、偶然の一致には、”共通点” がないという

ことも、証明できるだろうか。

もし、共通点があるのならば、、偶然の一致ではなくなる可能性がある

のではないだろうか?

”人間誕生、組織の結合、それらの維持”、すべてが偶然の一致の積み重ね

であるのかどうか?

 

法則そのものが、神の意思 の顕れともとれる。 

意思 がなければ、何も生まれない。 

それは、私たちの生活の中でも同様だ。 

何かをこうしよう と心に決断すると、意思 になる。

 

意思 があって、いろいろ試行錯誤しながら、実現の努力をする。 

社会の発展もこのようにして遂げられてきたはずだ。

すべての存在・事象の裏には、そのいう意味で、意思 がある。

 

宇宙にも意思 があると私はその意味で思う。 

その意思 を、ある人たちは 神 と呼ぶ。 科学者は 法則 と呼ぶ。

メンテナンスの法則が無ければ、規律と調和は保てず、バラバラになり、

空中分解するだろう。


宇宙の均衡も含めて、人間の緻密な肉体の構造と自然治癒力なども同様だ。 

意思  があるから、肉体は無駄に風邪をひかない。病気にもならない。 

なぜなら、そこには、体の機能を正常に戻そうとする、私たち細胞の

持っている 意思 が 働くからだと思う。 


壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。

それらは闇を恐れる人の架空のおとぎ話だ」

 

この博士の意見には同感できるところもある。 天国も地獄もない。 

ただ、死後の世界もないというのは、どうなのだろう?

 

たぶん無いと思っている博士には、無いのだろう。 

深い眠りの状況のまま、幽体になっても、過ごしておられることだろう。

キリスト教・回教信者は、最後の審判の日まで死後眠り続けるという

教義を信じている。 

信念は実現するとの理どおり、私の霊界の友人(?)によると、そういう

方達はほんとうに肉体が無くても、あの世で、魂レベルで眠り続けている

という。

 

人間の脳はほんとうにコンピュータ以外の何物でもないのだろうか

コンピューターの方が、崩れた頭より 優れているということなのだろうか?

 

確かに、処刑される寸前の、イラクの独裁者サダム・フセインをテレビで

見たとき、そう感じた。

彼のかつての、威厳と自信に満ちた姿は、もはや、”壊される脳の前の彼”

の虚像 にしか過ぎなかった。

国際裁判という詭弁に満ちた政治の舞台裏で仕組まれた、壮絶な洗脳 

過程を想像した。

 

裁く方 も 裁かれる方(サダムフセイン)も、有罪だと洗脳されて、

まさに、彼の表情は、壊れたコンピュータのようだった。

人間はパワーと欲と名誉を欲している間は、一種のソフトを入れられた 

ロボットにも似て本来の心を脇において、ある意味、脳は精密な

コンピューターと変わりが無いのかもしれない。

 

それでも、私たちの心は、それらに毒されない、侵されない聖域を、

潜在的に守ろうとしている。

博士よ、あなたは、その 侵されない聖域 が何かおわかりだろうか?

聖域 においては、人間の本来の価値と意味が 秘められている。

その聖域の中に、生命力 がある。


博士よ、緻密なコンピューターの計算で、量子力学の最前線を駆使して、

生命力の結晶である、髪の毛一本創造することができるであろうか?

 

ips細胞という、画期的な発見を、 山中教授がされた。 

現在、その応用で、網膜の再生治療が可能になってきたという。 

これは、今の物理学の最前線だ。

しかし、ips細胞を、医療現場で一般的に使われるようになるまで、

5年も10年もかかるという。

ips細胞で造られた臓器を仮に人体に適用しても、その後、どういう 

リスク が生まれるのか? 

どのくらいの期間、正常に働き続けることができるのか? 

癌細胞に変化したり、いかなる道義的不都合が生じはしないか?

まだまだ 臨床的データは、これらの答えを出すまでにはいたらない。

さらに、長い年月をかけて、検証していく課題がたくさんある。

 

人間の体の不可思議さを解明することは時間がかかるだろう。

そうだとすれば、人間の頭脳を ”壊れたコンピューター” 

と結論づける前に、人間の体に潜む、底知れない能力を知る余地が、

もっとあるのではないだろうか?


そして、その能力は単なる、物質的な要素の偶然で生まれているのでは

ないということも含めて・・・

限りなく 物理学がその解明に近づいていくだろうという 予感もする。

 

 

 

  

 ホーキング博士へ、 アインシュタイン博士の言葉を・・・

”学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる。”

                              

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ミレの晩鐘

2012年10月29日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

祈りと当たり前の生活 

 

10月29日(月曜日)

 

 

 

ミレの”晩鐘” は、あまりにも有名だ。

1875年にミレが死去したき、この絵はまだ、世の中であまり、

評価されてはいなかった。

ミレが、40歳ぐらいの時に描いたこの絵に、彼は、自ら、

希望価格をつけた。2千フランだった。 

この絵は現在、どのくらいの価値があるのか知らない。 

おそらく億単位だろう。

 

ミレの謙虚な希望価格にも フランスでの買い手はつかず、

ベルギーの男爵が、引き取った。

この絵の価値が評価されてきたのは、ミレーの死後14年目といわれる。 

この時、オークションにかけられ、フランス政府とアメリカ人

との競り(せり)合いになった。

結局、アメリカ人のつけた価格で落とされ、この絵はアメリカ

へと渡る。 

そして、皮肉なことにアメリカでの入国時の関税が高くて、

支払が難しくなり、再び、フランスに送り返されて来て

しまったいう、いきさつがある。

 

ミレーの代表作は、このほかにも、”落穂ひろい(1857年)”、

”種まく人(1850年)”、”晩鐘(1857~1859年)”、

”古い塀(1862年ごろ)”が有名だ。

 

このうち、”種まく人” と ”古い塀” は 日本の

山梨美術館に陳列されている。 

さらに、興味深いことには、”古い塀” は山梨県が

1億8732万円で購入したという事実だ。

日本人が、ミレーの作品を、こよなく愛してきたことは、

この事実でもよくわか気がする。

岩波書店 の シンボルマークに、”種をまく人” が

使われていることをご存知の方も多いと思う。

 

私たちが先祖より引き継いでいる農耕民族の血の中で、

ミレーの描く、土の香りと 農民たちの勤勉な

生活、安寧に満ちた心の描写が、共感を呼んだに違いない。

 

この絵のテーマは実にシンプルで、ストレートに伝わってくる。

農夫、農婦、が静かに頭(こうべ)を垂れて、祈りを

捧げている。

後ろに描かれている塔は、教会の塔だ。

アンジェラスの鐘が聞こえているに違いない。

アンジェラスの鐘とは、カトリックの寺院が、明け方、昼、

黄昏時に鳴らす鐘の音をいうらしい。 

 

この絵の 今は、黄昏時だ。 

仕事を一段落させ家路に向かう前のひととき、仕事を無事

に終え、今日も一日生かされていることへの 

感謝の心が 静かに伝わってくる。 

ミレー自身、農夫の子として生まれた。 当時のフランスの

画壇の特徴は、花の絵や神話を題材にしたものが好まれたという。 

女性の裸体も好まれ、ミレーは生活のためにこれらの絵を、

描いたことがあるようだが、決して芸術的に彼の名前を

高めるまでには至らなかった。

  

”自分独自の絵” を志したミレーは、”農夫たちの当たり前の

生活” を、モチーフとして選んだ。

こうして描かれた ”晩鐘” の絵、地味でやや薄暗い色調の

キャンバスに描かれた二人の農夫たちは、

しかし、なかなか評価されなかった。

農夫の絵を、農耕の様子を、当たり前の田園風景を、しかも、

地味なトーンで描いた絵は、誰の目にもすぐ止まるもの

なかったのだろう。 

当時では、変哲のない、当たり前すぎる光景だったに違いない。

 

今、私たちの生活の中にも同様のことが言える・・・ので

はないかと、ミレーの絵を観ながらそう思った。

当たり前の、ありきたりの情景と無感動に過ぎ去る時間。

朝起きて、”今日は、雨だ”・2晴れだ”と気にかけて まず、

今日の天気を気にかけるだろう。 

主婦は洗濯、夫や子供は帰りの雨用具の心配、特に、

感慨もなく、朝の時間は過ぎて行く。

朝日の神々しさにも気が付かず、道端の季節の花に目をやる

余裕もなく、急ぎ早に 職場や学校へ向かう。

 

通勤・通学電車の中では、朝だというのに、疲れ気味に

座っていても、何となく下を向いて目をつぶり、黙想状態。

前に老人が立っていても無関心。

夕方には帰宅。 もくもくと、夕食をとり、風呂に入り、

ビールの一杯で癒され、子供の寝息で ホットして、

一人の自分の時間に憩う。

寝床に入ってからは、”腰が痛い”、”ここが不調だ”、

”給料が安い”、”不当な扱いをされた”、

”子供が言うことを聞かない”、”進学に頭が痛い”などなど

・・・いろいろな想いが、改めて押し寄せる。

 

楽しみ、悲しみ、泣いたり、笑ったり、腹をたてたり、

たたされたり、イライラしたり、ホットしたり、

ロマンティックになったり・・・ 休日は、当たり前で

ありきたりの日常生活に、どこか刺激を得る方法

を考え日常の退屈さを紛らわす。 

 

だから、久しぶりに懐かしい友人たちと語り合い、飲みあい、

時には、家族同士で水入らずの旅行を楽しみ、時には、

リクリエーションやスポーツで、体を動かし時には、

ぶらり、気の向くまま自然の中で過ごしたり、こうした

気晴らしと刺激で 自分をリフレッシュさせて再び、

同じテンポの 当たり前の生活に戻っていく。

ああ、人生、良きかな、楽しきかな! 

但し・・・現代人の、当たり前すぎる日常の、どこに、

感動を覚える体験があるのかと、ふと、考える。

 

ミレーは、きっと、この絵を描きながら、農夫たちの、

当たり前すぎる日常の一場面に、新鮮な感動を

覚えていたに違いない。感動がなければ、絵 は生まれない。 

美 がなければ、絵にはならない。 

 

去年の東北の大震災の傷跡が癒えることなく、日々を

送っている方々が、いまだに、大勢おられる。

震災の後、ただ一人、家族の中で生き残った女性が、

泥の中から見つけた家族写真をかかえて、

佇んでいた姿をテレビで見て、心に焼きついた

その人は、記者に答えた。”今は、当たり前の生活、

それが欲しいだけです” 

その言葉に胸を打たれた。

 

人は贅沢な生き物である。 

与えられてしまうとそれを失うまで、その価値になかなか、

気が付こうとしない。 

”喉元(のどもと)過ぎれば熱さ忘れる” である。

当たり前の生活とはなんなのだろうか? 

今 自分が生きて与えられているものを感謝して受け止めながら、

この当たり前の生活を送っているのだろうか?

 

ミレーの晩鐘の主人公は イモ畑を耕すだけの、名もない、

貧しい、農夫たち。

しかし、ミレーは、彼らの”当たり前の生活”の中の、”祈り” に、

人間の尊い心情” を見出し感動を絵にした。

 

ミレーは、生存中、この絵が評価されず、大金を手に入れることも

なく、悲しんだのだろうか?

否、大金を手にできない彼だったからこそ、謙虚な面持ちで 

今与えられているわずかな、貴重な何かに、

感謝できる ことを知っていたのかもしれない。

本物の価値は、時を経て、初めて その代価を支払われるものだろう。

 

本物であるがゆえに、その時の世間的価値から、ずれていても、

その価値判断は、後世に譲らる。

そして、ミレーの絵は、普遍の価値を評価された。天国でミレー

はきっと、微笑んでいるに違いない。

この農夫の敬虔な祈りの心こそ、ミレーの心そのものであった

のだろうから。

毎日の中の変哲のない光景に、価値を見出したミレーの絵心の

底に、据えられた確かな目線と感謝の心。

 日常の当たり前の生活の中にひっそりと輝く、心の光 を 

しっかりと見据えたミレーは、真の誇り高い人生を送った、

先人の一人のような気がする。

 

          

 

 

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最新物理学に見る、リアリティーの認識

2012年10月28日 | 健康のための心の波動

  物理学の一元論 と 空   10月28日(日)

 *********************************

“金魚が見ている現実が、私たちの見ている現実とは異なるという

理由だけで、それがリアリティーに劣る断言できるだろうか?”

とは ホーキング博士の言葉である。

 

光りが、水中に入るときの湾曲の屈折度、さらに、丸ガラスカーブ

よって、ガラス越しに見える ”飼い主の生活空間” は、かなり歪んだ

ものとして 金魚の眼には、映っているはずだ。

もし、人間界の世界を ”リアリティー” とした時、金魚鉢からみる世界は、

そのように歪んで見えているため、リアリティーからかけ離れていると

いえるのだろうか?・・・というのが、博士の疑問だ。


博士自身は、“私たちも又、歪んだレンズを通して世界を見ながら生きている

かもしれない“ という

 

我々の目で見ている映像は金魚が丸い金魚鉢を通してみるゆがんだ映像と、

本質的には、あまり変わらないのではないかと博士はいう。

  

その理由は、人間の感覚機能を一種の測定装置に例えると、

 人間は測定装置としては粗雑” だからだと、いうことになる。

 

物質は電子や光子でできているが、もちろん、肉体の眼に観察される

ことは不可能だ。

電子という最少微単位の実態も、実は謎がまだまだ多いのだ。 

細胞の中に広がる、電子と電子の間の空間は、私たちの予想を超えて、

大きな割合を占めている。 

簡単な喩えだが、運動会で使う、大きな玉ころがしの玉を電子核とすれば、

そこから10メートル離れた地点に、水滴を一滴垂らしたものが電子の

大きさになる。

 

その10メートルの空間は、電子の質量と比べると、はるかに広がりをもつ

スペースといえる。

個体は固いというイメージがあるが、実際は廣い空間が占めていることを

考えると、念力などで物質を曲げたりするのも理にかなう。

 

その空間に波動が流れるからだ。

電子が細胞を形成している。 

実は、人間が直接、感知できない 何らかのエネルギー体が、我々の細胞を

貫いている。

そのエネルギー体は、生命のエネルギー波動ともいえる。


それを自然治癒力セラピー協会ではヴェーダ哲学から”アートマ”

という本来の人間の生命力と純粋エネルギーの言葉と組み合わせて、

”アートマエネルギー”と呼ぶ。

 

一つ一つの電子、細胞、細胞組織、肉体を有機的につなぎ合わせている、

活力の源、大生命力のエネルギーをさしている

   

ニュートンが、引力の法則を発見して以来、打ち立てられた古典物理学の

理念は、量子理論が現代物理学主流となる今、変えられた。


以前の、“人間の外部世界は一定の法則の元に、確固として実存している“  

から ”粒子としての物質が波動性を持つ” ために、観察者の意思(波動体)

もその物質の波動体に影響を与えることもある” いう考えかたに

変化してきているのだ。

 

”波動性”、この言葉の持つ意味は大きい。 

気 (life-prana) の存在を知っている人たちには、物質が波動性を持つと

いうことは、物理的証明以前に、臨床的現場で証明され、知っていた。 

波動そのものが、気 の伝達方法であり、気 の形状でもあったのだ。


言葉も波動、電磁波も波動、そして、細胞の電子という最少の物質も

波動性をもって存在しているのだ。

 

だから、その物質の粒子状の波動を変えてあげれば、状態も変わる

という理屈になる。

経絡や経脈という東洋的気の理論が生まれてくるのも、肉体の細胞が

電子の粒子波動を持っているが故だ。

 

”確固たる実存”という言葉も古い言い回しに聞こえる。 

現代物理学では、波動性 に大きな焦点があてられてきたからだ。

現象世界の実存とは、物質が、波動の顕れである以上、確固たるもの

とは言い難い。

 

この量子論に多少なりとも影響を与えたといわれる、“反実在論” 

1960年代に、登場していた。

アメリカの心理学者Timothy Leary 氏が提唱して、その後の物理学

にも影響を与えてきたといわれる。


”反実在論”とは、 “現実に関する概念はその現実と認識する人の心によって、

変わりうる” という現代物理学の根底に通じるものだった。

 

現実の認識 は、”粗雑な装置” と博士が定義した 人間の感覚機能 

から得た情報が脳に送られて起こる。

認識すると、想念が生まれ、想念と感情が結びついて、menntal activity, 

心の動き(波動)が、活発化する。 

心の波動が”現実の現象”を引き寄せるので、唯心所現 という法則を持つ、

東洋的実在論にも、結びついていく。


この現象は常住ではなく、儚い夢の世界に似ているということから、

量子論の考え方が、東洋的神秘主義に近いという物理学者もいる。 

たとえば、プリッチョフ・カプラ博士は 名著”タオ自然学”で、こう述べる。     

 

現代の原子物理学は、東洋の神秘家が「実在」について抱いた

直観的見方と、非常によく似た「実在」の見方へと私たちを導いている。

量子物理学から生まれてきた「実在」の像は、相互に関連し合った

宇宙的な蜘蛛の網のようなものであって、そこでは、観察者である

人間は常に現象の参与者である。

素粒子レベルの世界像は、非常に東洋的で、また神秘的なものになっている。


時間と空間は連続体となり、物質とエネルギーは相互に変化し、

観察者と観察されるものは、互いに作用し合ってしまうのだ”

 

その世界は Timothy Leary 氏の言うように、それぞれ個人の

認識によって、現実のとらえ方が異なるから、多種多様の現実世界の

真実が生まれる。 

現象世界には無数の価値観が存在することになる。 

 

なぜなら、ホーキング博士は

“これによると私たちが知る世界は感覚データを原料に人間の心が

作り上げた物であり、私たちの脳の解釈によって形作られている” 

からであるというのだ。 

 

この言葉を言い換えれば、自分が認識しているから存在を造り、

認識しなければ、存在しないということにもなる。 

 

これが ヴェーダ哲学でいう、

“現象世界は、マーヤー(幻想・妄想世界)” であり、 “夢のまた夢” 

と、いわれるところに共通する認識だ。

 

一元論では、現象世界は、ホーキング博士の言う ”心の作り上げた世界” 

であり、ヴェーダ的に言えば、”マーヤーの世界”ということになる。 

 

肉眼で見るものは、常にある条件のもとで、そう見えるのであって、

条件が変われば見えるものも変わる。

言い換えれば、因果関係に左右されて現れたり消えたりする世界である。

現代物理学の潮流は、観察する人の想念によって、事象も変化する”

というところまでたどりついた。

 

”気”というエネルギーの存在が物理学的にいつか実証される日も

遠くないだろう。

物質を物質で調整する時代は、古典的時代といわれる時が来るだろう。

テレパシーや アートマエネルギーで、波動操作が行われ、弱った細胞

の波動を変えることで、健康細胞にすることが常識となる時代が、

きっと来ると密かに確信している。

 

その時は、まさに 

”至為(しい)は為す無く、至言は言を去り、至射は射る事無し” の名言が、

たり前に理解され、そのような技が主流となる時代でもあることだろう。

 

 

 

       

 

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黒魔術の体験 (後) カーリー神とドゥルガ女神

2012年10月27日 | 健康のための心の波動

インド時代の最後の修行;呪われた念の怖さと避ける方法   

2012年10月27日(土曜日) 

  

前篇では、私の霊的修行の中でも、インド時代の最後に起きた事件

を取り上げている。

タントラの僧侶の目の前で、カーリー女神がわが身に乗り移って、自分も

話すことなどできない、サンスクリット語で、僧に喝を入れて、僧の身に

つけていた金具の、太いチェーンをか細い私の腕で、振り回して、僧以外の

周りにいた弟子たちが、部屋の隅のほうに、散るほど、異様な事態が起きた。

そして、その数日後、護符を持ってきた、この、僧侶(墓場の修験者)

に対して、ドゥルガ女神に念を込めた私が、慇懃無礼に”お帰りください” と

僧と一向を、ドアを開けて、追い出すということになった。


タントラの師の怒りは、帰宅後、尋常ではなく、収まりようがなく、弟子
たちが私の身を案じた…その後のお話です。
*******************  

僧侶の弟子である、Aさんの話だと、帰宅後、私の振舞に対する、師の怒りが

収まらず、私を、ののしり、ただでは済まないといわんばかりに、呪いまで

かけている様子に、まわりの弟子達が、

”そんなに罵しらないでください。 

そんなに怒られては、先生の、お体に障ります。

そして、マダム(私のこと)が死んでしまいます” 

と 懇願したほどだという。

 

翌朝から、師の怒りは私に届いて、私の身体に異変を感じた。

兆候は、明け方に起きた。黒猫が明け方、私の部屋にどこからともなく

現れて、胸部にドスンと飛び乗り、異様な泣き声を出して、私を起こした。
そして、ベッドの周囲に、臭い粘液を多量に残して、去って行った。

この黒猫事件から、私の身体が動かなくなった。

勿論、原因は察しがついた。師の憤りと、その勢いでかけられた呪詛のせいだ。                                                    その日はどうしても、会社に、出勤しなくてはならない日だった。 

私は、前日に不当な扱いをされて怒っている僧侶(黒魔術師でもある)からの 
強い重い呪いの波動を感じるとともに、この呪術の波動を祓うことに集中した。

幸いに、真言の修行は、多少積んでいる。
この状況下で、古神道の さすさつづ歌 という、魔性を払いのける祝詞を
選んだ。
 
朝7時から、11時まで、4時間の間、ずっと、黒魔術師 からの、波動を突っぱ

ねるために、祝詞の波動でわが身を守り続けた。

何とか数時間後、まだ立つことができないほどだったが這うようにして 

会社へ向かった。

車の中で、運転するAさんは、私に、心配そうに言葉をかけた。

”マダム自ら、先生と会って、謝罪をしたほうが、ご自分の

ためではないでしょうか?”と アドヴァイスをしてくれた。

”それはできない。”と私は、即答した。


黒魔術に屈するほど、柔(やわ)な ”私” ではない ~ という、

’ドゥルガ’(インドの女神)の果敢な声が胸の内に 聞こえたような気が

したからだった。

体が今まで味わったことがないほど、だるくて、起こすことも

ままならなかった。

会社に着いて、アポがあった要人と会うと、その後は机に伏していた。

ところが、その日の午後、会社にいたAさんのもとに、連絡が入った。

奥さんに異変が起こった知らせだった。 

その日、私がヤットの思いで、出社した時間と、ほぼ 同時刻、

Aさんの奥さんが 自宅で 石段から転げ落ちるという事故にあったという

知らせだった。


彼女は、石の階段の一番上から転がり落ちて、子宮から出血。 

出血が甚だしく、、病院に緊急入院したという由だった。

Aさんは、飛ぶようにして自宅に戻った。

それを聞いた私も、再び、会社から、必死で祈った。 

以前、数回、奥さんとは、お茶の時間に、おもてなしを受けたことがある。

幼い二人の子供たちの顔も浮かんだ。


次の朝、Aさんから 奥さんの状況についての、連絡がはいった。

”昨晩、スダマダムが夢に出てきて、’もうすぐ、楽になるから、

がんばって’ と励ましてくれたそうです。 

そしたら、体がずいぶん回復してきて、夕方には 退院予定です” 

という朗報だった。

 

アニメ漫画なら描写できるだろう。 

赤く熱く燃えたぎった、怒りと呪いの念は、火のボールのように、

投げられ、相手に届く。

相手がそれを、かわしたり、受け止めなければ、また、送り手に戻る。 

戻れば、さらに、強い念で投げ返されるので、怒りで膨らんだボールは、

罪のない、関係者や、近親者にあたってしまう場合がある。 

霊的に無防備な人に当たりやすい。たとえば、子供や病人などである。

 

今回の標的はAさんの家族、奥さんだった。 

彼は、僧侶を師と仰ぎ、会社では雇い主の私のとの関係性もあり、その間で、

双方に一番身近な人だった。

師の私の礼を欠いた振舞に対する怒りは、それが怨念となって 呪詛とともに

私に投げられたが、私自身の防御となった、言霊で、はじき返された。

そこで、今度は弟子のAさんの家族に その外れ玉は、飛んで行った。

 

奥さんが退院できるというニュースで、ほっとしたのもつかの間だった。 


次の朝、5時に、私の携帯電話が鳴った。

再び、Aさんからだった。奥さんは夕べ退院しているはずだった。 

しかし・・・


今度は、Aさんの義理の弟に、その燃える怒りの玉が命中してしまったという。

若い弟は、心臓麻痺で、すでにこと切れたという。

その晩(妻が退院した日)、Aさんの弟が、仕事から帰ってきて、自宅で

くつろぎ、普通にしていたという。 

ところが、朝 3 時に、突然、苦しみだした。 

そして、心臓発作が起きて、そのまま息をひきとったという悲しい結末

だった。元気な20代の若者だった。

 

先ほど、黒猫事件のことを少し書いた。少し補足させていただきたい。




朝、メイドさんが来て、部屋を見て驚いていた。 

ベッドの上にも下にも、汚物はテンテンと残っていた。

こうしてこの話しは 思わぬ結末で、The End を迎える。


それから二年後、しばらく親の介護で空けていたインドの家に戻った。
そのとき、私に、Aさんから、彼の師の死が伝えられた。

怒りの炎と呪いの念の武器は、結局、自分のところに戻ったとき、自分
を傷つけるという形になったのだろうか・・・

呪われたり、呪ったりは、御法度である。

こうした体験をした私には、心の出す波動の強さを人一倍感じている。

特に、マイナスの波動を出すことだけでも、ためらう何かがある。

マイナス波動とは、ヒトを呪うことだけではない。
消極的で否定的な言葉や、想いは、マイナスの波動を持っている。

こうしたマイナス想念 には 光り を と私は考える。

言い換えれば、怒りに怒りを、憎しみに憎しみで対抗しても何も

生まれないし、それを昇華させるためには、愛と光の言葉(念)

を放出するほか手段はない。


影は、光が当たれば、消える。 

黒魔術や、生き霊の念、そして日常何気なく、言葉にする消極的想念や

恨みや憎しみ、非難や嫉妬などは、影でしかない。

光を当てれば、どんな闇も、光によって、照らされるほかない。



 

 ピンクの薔薇の花びら…ピンクは私達の愛のオーラの色と言われています。 

   

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