自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

エド宇宙飛行士のヴェーダの悟り

2018年08月22日 | 健康のための心の波動


特殊能力は誰にでもある~ 2018・8/22

********************************

(前書き)

読者の皆様、こんにちは。突然ですが、

(ウニヒピリシリーズの途中ですが・・・)

先ほど、昔の記事の推敲中に、以下の記事を読み、

新たな感動(自分が書いていながら、時々、

初めて読んだような感覚になることがあります!)

を覚えました。

今、ウニヒピリのこと、潜在意識の浄化 

という主題でお伝えしてきている最中ですが、

この昔のエド宇宙飛行士の言葉を読み、

改めて、それぞれのヒトの命の積み重ねて

きた、体験と感情の地層の厚さ

を実感した次第です。

時々、自分が鉱物的だと感じたり、植物

だった時の意識とか、他愛無い感覚が

よみがえることがある私でしたが、

自分の潜在意識の殆ど無限的時間の長さの

中で積み上げられてきた”何か”の重さを、

再び、自覚せしめられたようです。

 

**************************************************

 超能力開発研究をやめた飛行士  平成25年5月29日より

*********************************************

 アポロ司令・機械船 概念図 (NASA)アポロ司令機械船

 

元アポロ宇宙飛行士エドは超能力の研究を 続けていたが 

自主的に、やめるときがくる。

ところで、超能力ESP とは何だろう? 科学的ではなく、

どことなく胡散臭い言葉ではあるようだが、当時、最新の

物理学と科学の象徴的宇宙船で宇宙に飛び出していった、

エリートの”エド宇宙飛行士” の言葉を借りると

次のようになる。

”ESP は潜在的に 万人が持っている能力だ”

"サイコ・キネシス(念力)、心霊医療、予言などといった、

能力以外に、誰でも、日常生活で体験している超能力として、

次の体験をしたことは誰でも多かれ少なかれあるだろう。

・何かが閃くようにわかったとか、・念じ続けていることが 

普通の確立以上で実現するとか、・気持ちの持ちようで、 

病気が治るとか、・予感や虫の知らせなど・・それらもすべて

ESPと呼べる。"

冒頭に述べたように、エド が 超能力研究をやめた理由の

1つは、こうした現象をふまえ人間は それら特種能力を 

開発研究しなくても、すでに備わっているのがわかったから

とエドはいう。

超能力? その特殊と見える能力を持っている人と、持って

いない人、信じていない人の違いは何か? 単純な事だ。

ただ、その超能力が発現するために、”そういう能力を 

”想いだす” ことに努力するかしないかの違いだと、エドはいう。

 

想いだすということは、具体的にどうしたらよいのだろうか? 

それは、”本来の、自己の潜在的に秘めている精神性を求める” 

意識の中で可能になるとエドは続ける。

エドは、そうすれば、誰もが、潜在的な ESP能力を 自然に、

引き出すことができるだろうと考えた。

そのことを 彼は、インタビューの中で、以下のように語った;

 

超能力を扱うのには、まず、それにふさわしい精神の安定と

感性の安定を得ることが必要だ。 

心の中から、あらゆる日常的 世俗的雑念を 払いのけ、

さざ波一つない、森の中の静かな湖の水面のように、心を静寂

そのものにたもち、透明な安らぎを 得なければならない。” 

 

“精神を完全に浄化するのだ。精神を完全に浄化すれば、

研ぎ澄まされた鋭敏な感受性を持ちながら、それが外の世界から

いささかも乱されることがないという状態に入ることができる。

仏教でいう、ニルヴァーナ(サンスクリット語で悟りの境地)だ”

 

”そこまでいけば、人間が物質的存在ではなく、精神的存在で

あることが自然にわかる。

人間は物質レベルでは個別的存在だが、精神レベルでは互いに

統合されている。ESPの成立根拠はそこにある。”

 

”さらに進めば、人間のみならず、世界のすべてが、精神的には 

一体であることがわかるだろう。

超能力現象は、このスピリチュアル・ワンネス(spiritual oneness

の証明だ。

スピリチュアル・ワンネス(spiritual oneness)があるから、

スピリチャルな人間は、物理的手段によらず、外の世界と

コミュニュケートできる。”

 

”古代インドのヴェーダ(ウパニシャッド)に、

神は 鉱物の中では眠り、植物の中では目覚め、動物の中では歩き、

人間の中で思惟する’ という言葉がある。

万物の中に神がいる。

だから、万物はスピリチュアルには 一体なのだ。

しかし、神の 覚醒度は万物において、異なる。

だから、万物の 一体性 はなかなか、把握できない。”

 

”眠れる神をも 見ることができるようになるほど、

スピリチュアルになることができた人間のみが、この、

一体性を把握できる。

そして、十分に スピリチュアルになりえた人間には、

超能力がおのずから生まれる。” 

~ 以上(エド宇宙飛行士とのインタビュー引用文: 

”宇宙からの帰還" 立花 隆 著   

中央公論社  1994年版)

 

上記のエドの言葉、”神は 鉱物の中では眠り、植物の中では

目覚め、動物の中では歩き、人間の中で思惟する“ を、

私なりにこんな風に考えてみた。

”(今これを読んでくださっているあなた自身は)眠っているときは、

鉱物時代のあなたに戻り、眠りから覚めて、何となく、意識を

取り戻し始めているときは、植物時代のあなた

起き出して生活のために、動き回っているときは、

野生の動物時代のあなたであり、そして、今、スピリチュアルな

事を考えているときは、人間としてのあなた・・・ 

さらに、(付け加えさせていただくのなら)そのすべての

あなたには、神の命が宿っている”ということかもしれないし、

そうした潜在意識の諸々のなかで、地球上のすべての生き物とも、

空間を超えて、つながっているということ・・・古い記事を読み、

この、エドの言葉で私は改めて実感させられた。

 

後記) よく、化けの皮がはがれる~という言い方を聞きます。

ニュースで報道される、もろもろの、ヒトの引き起こす、悲惨な事件、

その犯人と言われる人は、人間の皮をかぶった、”動物”?なのでしょうか? 

いえいえ、それは動物に失礼かもしれません。

野生の動物は自分自身が生きるための糧を得るためで

それ以上の無駄な殺傷はしない・・・

動機が、”イライラするから”、とか、”無性に刃物を振り回したくなった”、

などという”心”は、一体、どこ(のその人の重ねてきた潜在意識地層の部分)

から来るのでしょう? 

戦争をするのも、人間だけですね。ヒトの凶暴性ですね。

これもまた、私たち一人ひとりが、心のどこかに、ほんのわずかと

いえども、体験や想いがないとは言えない・・・

・・・そんなことを考えているよりは、”光を当てます”、

自分の心に・・私なりの手段で。

何故?なぜ?を考えるより、そうして、”重い感情”の罠に

かかっていくより、’自分の’’今’のために、まず、私の心に

清めの言葉を投げかけます。

”今すぐ”というせっかちな期待や焦りをなくして・・

信じて・・ただ、ひたすらに・・ハイ。

 

 

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私とウニヒピリとの対話  (6)

2018年08月16日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

 

ヒューレン博士の考え方と“アートマ論   2018 8/16

******************************************

前書き)

ウニヒピリとの対話”について、詳しく書いていると、

ある特定の精神的集団(教団?)の後押しをしている

と勘違いする方たちがいるかもしれません。

今後もこのタイトルで、数回続く予定ですが、それは、

自己セラピーのエッセンスをご紹介したいという気持ち

からでもあります。

 

自己セラピーというのは、自分自身の本質を引き出す

ために、自分自身でするセラピー、誰の力に頼るでは

なく、誰の言葉に翻弄されるのでもなく・・・‘


過去のカルマにとらわれない、本来の自己の本領を発揮して、

満たされた心持で、フレッシュに今を生きよう’と いう

積極的であり、静謐的であり、もっとも落ち着いた自分

を取り戻すセラピーのことです。

 

そして、そういう’もっとも落ち着いて自分らしい自分’

であることが、内在する自然治癒力を自然発動させる

ジェネレーターの役目をするということです。


そのヒントを、“ウニヒピリとの対話” の中で見つけて

いただければ幸いです。

 

*****先回からの続きです。

①   あなたはいつだって、完全な存在です。“(130)

”イメージしてみてください。あなたは、いつでも大きな力と

繋がっています。

それゆえに完全な存在なのです。神聖なる存在があなたに限りない

愛を送ってくれているからです“(131)


いつでも大きな力と繋がっている~と言われても そうですか!と

ストンと信じられる人はそうそ多くないだろう。


大きな力って? 

繋がっているって? 

実感がなければ、大きな存在を考えたことがないのに、そう

いわれても・・・

私どもは、’つながっている’という言葉の代わりに、


’すべてにわたり完全な存在’こそが’私たちの本質にある’ 

という言い方をしている。

 

それがアートマとサンスクリット語で呼ばれる”人間の持つ、

本来の神性、本性”のことなのだが、宗教的には、”人間は

神の子である”という言い方もできるだろう。


諺(ことわざ)の中で、

”渡る世間は鬼ばかり”なのか”鬼はなし”なのか、疑問が出る。

どっちともとらえられるのが、現世界の状態。

 

とはいえ、”鬼とか、悪魔”というのは、神学的に言えば、

天使や天に上る魂が堕落して地上に落ちた存在なのだから、

元はといえば、これまた、本質的には天使の魂を持った、

天上に上がり損ねた存在、よって、天上界に縁があると

言えはしないだろうか?

 

しょせん、この世の中は、”二元の価値を常に持つ”

世界だ。 

裏があれば表があるように、どんな人や事物、事件や事象

の中に、常に、二元の価値が見て取れるだろう。

この世に生きている限り、天があれば地獄があり、神がいれば、

悪魔という存在が生み出されて仕方がないだろう。

 

しかし、この世を去れば、”高次元”に”魂”が行けば、

という意味では、完全なる世界、つまり、”一元の世界”に限りなく

近づいていくはずだから、その過程の中で、人は初めて、

”自分の神聖なる本性”を感じたり、考えたり、悟るということに

なるのかもしれない。

 

”バカは死ななきゃ治らない”~という古い言い草を思い出す。

死んだら治るのか? 否、肉体的死によって 必ずその

”悟りのプロセス”が意識されることだろう。 

むしろ、肉体的身体的に必要だった、時間や空間、様々な

常識や価値観などが、あの世では存在せず、霊的進化の道程で、

次々と、’真理’なるものが、目の前に突き付けられる形で、納得

したり、真実なこととして、飲み込まなければ

ならない体験が待っていると、私は信じている。

 

②   クリーニングしていれば、不幸な気分でいる家族や

友達の意識が次第に晴れ渡ってくるのを感じるでしょう。


その人が努力して明るさを取り戻すのではなく、その人

の心にかかっていたネガティブな想いが、霧が晴れるように、

自然に消えてなくなるのです。(132)

 

記憶をクリーニングすることで、超越意識が天上から直結した

聖なるパーフェクトな情報をインスピレーションという形

で潜在意識の力を借りて、現実意識に呼び起こす。


その時、雲が霧消(むしょう)するように、たちまち、

晴れ渡った、障りのない、おおらかな心持になることだろう。

 

”努力して”明るさを取り戻すことは、不可能だ。

なぜって、努力する裏には”私は明るくないから、明るく

なろう”という意識、

つまり、”明るくない”という事を受け入れて、認識として

持っていることになるから、そう認識している以上、明る

なろうと思っても、なかなか、明るくなれないのだ。

 

こうした矛盾は多く存在する。

~になりたい、と努力するより、~にすでに私はそうなっている

だ、と確信して、前に進む方が、はるかに建設的結果が

得られるはずだ。


つまり、本来、晴れた空のように、軽やかで明るい心持の自分が

本当なのだと自覚して、あとは、不要な感情に翻弄されること

なく、湧いてきた想いを浄化しながら、励めばよいという

ことなのだろう。

 

ちなみに、ヒューレン博士の浄化方法は、”I love you"と

言い続けることだ。

ほかの言葉もあるのだが、もっぱら博士はこの言葉を

使用していると伺った。


自分がまだ20代初頭のころ、人間神の子無限力 という言葉

を繰り返していた時期があった。

インドの、シルディババ(サイババの前身と言われる)は、常に、

”アッラーマーリック”と言い続けてた。

 

シルディババはイスラム教徒であったので、意味としては、

”アッラーの神が私の主人”という意味だ。


私という小さな自我意識はない、この体は、宇宙の神(アッラー)

の意思によって、動かされ使われている~という徹底した自覚を

持つための、シルディババの、瞬間時、唱えている、マントラ

だった。

 

小さな自我意識、潜在意識の生み出す感情や意思は、

アッラーが自分をお使いになっているご主人様だと

意識変容することで、消えた。

そして、神の僕(しもべ)として、忠実に何をすべきか、

瞬間瞬間、の言葉を唱えながら、身と心を大きな自我

託していたのだ。


③   この世界におこることはすべて繋がっています。

あなたが記憶の中で悪い印象をもっていることがあると、

その記憶がネガティブな想いとなってくない方向に作用し、

結果として他人に対しての言動も攻撃的になってしまいます。

 

逆にあなたの心が穏やかな波、澄み渡った空のような状態で

あれば、あなたが発想する想いもポジティヴなものとなり、

その想いを受け取る相手もポジティヴな気持ちになる。


そうした想いが巡り巡って再び、あなたのところにもたらされます。(135)

 

すべてがつながっている。~ という認識。このことを、

地球の人の25%が、そう自覚したとき、戦争や汚染問題、

虐待や差別などが、静かに、自然に、跡かたなく消えていく

ことだろうと思う。

 

チベットポン教の教えでも、’人の心の本質は、澄み渡った

空のような状態’だと説く。

晴れ渡った、曇りのない、大きな空のような心こそ、人の本来の

心持の姿だ。


それは、”お釈迦様の像は笑っているのでも微笑んでいるの

でもなく、正も不もない、安穏な状態に浸っているのだ”

と言った達人の言葉を思い出す。

 

私たちは楽しい時は声をたてて笑い、悲しい時は声を上げて、

泣く。

楽しい時、可笑しいとき、高揚するほど、晴れ晴れしい人生の

舞台の上でも、ハムレットの悲劇のヒーローのような悲しみ

の慟哭の中にいるにしても、少し、角度を変えて、深い自分の

心を見ることができれば、それは、安穏で平穏の中、

はたから見れば微笑んでいるがごとくに静かに、

自分の揺れ動く感情とは無関係に、平安で、その大きな空に

溶け込んでいるかのようだ。 

 

************

 

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 私とウニヒピリとの対話 (5)

2018年08月09日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

自然治癒力との関係   2018・8/09

************************************************************

 前書き)

”ウニヒピリとの対話”について、詳しく書いていると、

ある特定の精神的集団(教団?)の後押しをして

いると勘違いする方たちがいるかもしれません。


今後もこのタイトルで、数回続く予定ですが、

それは、自己セラピーのエッセンスをご紹介したい

という気持ちからでもあります。

 

自己セラピーというのは、自分自身の本質を引き出す

ために、自分が自分に施すセラピー、誰の力に頼るの

ではなく、誰の言葉に翻弄されるのでもなく・・・


‘過去のカルマにとらわれない、本来の自己の本領を発揮

して、満たされた心持で、フレッシュに今を生きよう’と 

いう積極的であり、静謐的な自分、自分が一番居心地が

良い心持を知り、もっとも落ち着いた自分を取り戻す

セラピーのことです。

 

そして、そういう’もっとも落ち着いて自分らしい自分’で

存在するることが、実は内在する自然治癒力を,自然発動

させるジェネレーター(発動機)の役目をするといえます。


だとしたら、どんな方法にせよ、自己セラピーとして、

これから紹介する方法は,そのためのエッセンスが

含まれているということで、ご紹介する価値があると

判断するわけです。

 

そのヒントを、今、続けて書いている、“ウニヒピリとの対話” 

の中で見つけていただければ幸いです。

********

ヒューレン博士の主張を数回にわたって、ご紹介している。


自然治癒力の本源を私は、博士の本を読んでいて、

インスピレーションゲームのように、次々に想念が

展開していく中で、心にストンと落ちていく。


それは以下のように。

 

①ウニヒピリとの会話で得るものは、体と心のバランス 

= ②特に、心のケアー=ケアーされて、ストレスを

ためない 


③ストレスって? どこから来ているか?

=④過去の自分自身の生きざまの中でクリアーしないで、

残っている膨大な記憶(カルマ的エネルギー)から 

=⓹だから、これらを清算する 

=⑥そのたまった、記憶から 今の感情(怒り。悲しみ。

喜び・不満・不安)が出現している 


=⓻感情? 

それは、ウニヒピリというインナーチャイルド的存在

の意識の領分 

=⑧その意識の領分に、”今の私”の意識が、目を向け、

常に心を配ることでクリーニングする

⑨それがウニヒピリのケアー 


⑩それによって、超越意識という聖なる宇宙意識

と連結している意識(超越意識)からの、満たされた情報、

が現在意識に届けられる 

⑪その超越意識の世界は、ストレスとは無縁の世界

(聖なる宇宙意識の光、明るい曇りなき心境)に、

今、生きることができるから。


=⑫ その意識のまま、今を生きることができたら、

そしたら、自分の体がそれに呼応して、自然治癒力を十分

発揮するから、健康体が維持できる

= ⑬ いいかえれば、生命力が体の隅々に浸透した、

エネルギイッシュな身体が(本来の人間の体)となる


といった具合に、私の頭の中のインスピレーションゲームが

進行する。

 

***以下、博士の言葉を引用。

桃色線部分

 

①   まず、自分自身のケア。 

次に考えるべき存在は、家族です。 

そのほかの人はその後、考えてください。(106)

 

自分自身のケアができない人が、どのように、他者をケアーが

できるか? 


’自分のケア’という意味がわからず、他者のケアをできるのか?


このことは、私自身、母の介護で痛いほど勉強したつもりだ。

自分が倒れてしまっては、どのように母の介護が継続

できるのか? 


それは肉体的の問題だけではなく、精神的に自分が明るく

毎日を過ごせることなくして、母のメンタルをどのように、

明るくキープできるのか?ということ。 


自分がまず、健康になる、明るくなる、そのために、自分自身を

まず最初にケアーする。


~ 利己的に聞こえるかもしれないが、”安定した自分”という、

確固たる大黒柱なくして、”人生の家”を設計することは、

柱のない家を建てるに等しい。

 

博士はここで、自分自身の潜在意識(ウニヒビリ)との

関係を愛情関係をもって保てなければ、他者に対しても

癒しを与えることはできないと言う。


ウニヒピリこそ、潜在意識に溜まった、記憶の消去に

携わることができる当事者だから。


そうして、記憶が消去されるにつれ、自分自身の”超越意識、

潜在意識、現在意識”の関係性を理解して、バランスを

保っていくことが自然にできるようになる。

 

それが、”自分を慈しむ”という意味であり、自分が

変わると同時に、身近な家族も、自然と、自分の周りで、

よりよく変化していくことがわかるに違いない。

 

仏教でいうところの、唯心諸元(ゆいしんしょげん)、

つまり、自分の心が変われば、諸々(もろもろ)

の現象が、すべて変わるという教えに通じる。


自然治癒力を考えたとき、これと似たようなことが

言えると思う。


自然治癒力は、天が、私たちに生まれながらにして与えた、

大いなる癒しの力である。


この力がしぼんで発揮できないとしたら、現在意識が、

’私は体が弱いから” とか、もう、年だから” とか

”こういう症状が出ているのは医学書にこう書いてあるから、

という病に、違いない” と自分で断定するか、

”この症状は次にこういう症状につながり、大事に至る

可能性があるに違いない” などなどの、外部からの

情報に右往左往しながら、自然治癒力の発動に、’待った’を

かけてしまうからだ。

 

私たちは、二つの船底に、左右の両足をかけることは

できない。


心も同様で、外の情報につながり、流されるか、

自分の内なる情報に耳を研ぎ澄ませて、従うか

のどちらかしかない。 


ホ・オポノポノ風に、そのことを置き換えれば、

”自分の内なるインスピレーションを信じるか?” 

それとも、

”過去からの記憶に流されるか?”のどちらしかないという

ことになる。

 

②   あなたの潜在意識を問題としてとらえるのでは

なく、人生最大のパートナーだと考えてみて欲しい。

(104)

 

 二人三脚のようなものか? 

今、心に湧くいろいろな想いや感情は、潜在意識が

投げかけている、過去の情報(記憶)によるものだと、

理解すれば、まず、その記憶をクリーン化すればよい。


つまり、母親が、幼い子供が駄々をこねたときに、そっと、

抱き上げ、背中をたたき、抱きしめてあげて、

落ち着かせてあげるように、その感情を受け入れ、


”ありがとう、こんな気持ちになるのは、過去の何

かの記憶のせいね。

見せてくれてありがとう。浄化させてもらいます。”

と潜在意識に語り掛ける。

 

まさに、ウニヒピリと今の自分の意識とは、パートナーの

ような関係かもしれない。


互いによくなるためには互いにいたわり、理解し

あわなければならない。


③   心と体はつながっています。

病気は記憶にすぎないのです。(105)

 

 健康上に潜在意識のメモリーが表れたとき、病気

として映る~という、


ヒューレン博士の言葉。

この観方は、自然治癒力セラピー協会の観方と重なる。


自分自身が半生に体験してきた、アトピー性湿疹や

うつ病、心臓弁膜症や腎臓病、白血病にきわめて

近い癌や、もろもろの身心の不調和の裏には、冷静に

見透かしてみると、当時の精神的背景として、ドロドロしい

情念や怒り、嫉妬や憤怒などが渦巻いていたのを知る。

 

④   ウニヒビリ(潜在意識)はあなたに早く、

クリーニングして楽になってほしいので、

問題となっている記憶をどんどんあなたに見せてくれて

います。(108)

 

どんどん見せてくれる~と博士は言う。


”そんなに問題はない”とおっしゃる方もいるだろう。

今が楽しくて幸せな気分で高揚している人もいるに

違いない。


ところが、まさに、その幸せで高揚している気分すら、

クリーニングする必要があると博士は、いう。

 

その理由としては、それをクリーニングすることで、

愛が憎しみに代わったり、喜びが悲しみに代わったり、

嬉しさが嫉妬に代わったりという、二元性ある感情の

持つ落とし穴にはまらないように~できるからだ。

 

**************

 

 

 

 

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今を新生して生きよう~昨日の記事の追記

2018年08月02日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質

その方法は無数に   2018・8/02

*******************************

皆様 おはようございます。昨日に引き続き、ウニヒピリとの対話(

4)の追考と補足です。

今を新生しよう! というのが、今日のタイトルです。

”ウニヒピリとの対話”について、詳しく書いていると、ある特定の

精神的集団(教団?)の後押しをしていると勘違いする方たちが

いるかもしれません。


これまで、今後も数回続けて、その事を書き続けますが、それは、

自己セラピーのエッセンスをご紹介したいという気持ちからでも

あります。


自己セラピーというのは、‘過去のカルマにとらわれない、自分として、

今を生きよう’という積極的であり、静謐的であり、落ち着いた自分を

取り戻すことであり、そして、自然治癒力を発動する身心状態を

維持が期待できる自分へのケアです。


そして、その方法は無数にあります。無数というのは、ある人が、

‘過去のトラウマや、自分を無意識に操縦している過去から培って

きた価値観と(@^^)/~~~バイバイしよう)と決断したときから、

その人なりのやり方が必ず、あるからです。

 

それは、私が想像することができません。その方法はたぶん、

多岐にわたるでしょう。

たとえば、読書、旅行、映画鑑賞、美術鑑賞、寺院参拝、讃美歌や

バジャンをうたう、尊敬する精神的師の本を熟読する、瞑想する、

走る、ゴルフをする、・・・ 


無数にあるというのは、過去にとらわれない自分でいたいと

努力している人の数だけ自己セラピーの方法は、あると思うからです。

しかも、同じ人でも、年代や環境によって、また、異なる場合がある・・

そういう柔軟性のあるものです。 


が、エッセンスは一つです。 今を生きる、生ききる という意識、

そして、過去にとらわれていた、“恐怖”や、”思い込み” ~こうなる

はずだ~、という無意識の領域のドロドロしたものを、すこしずつ、

粗大ごみに出すように、捨てていこうという決意です。


 きっと、すでに皆様は、その方法を模索しておられるでしょう。

良いと思ったら、それを、徹底的に続けてみてくださいね。 

あきらめずに。

それが同時に、あなた独自の、自己への”セラピー施術”につながって

いくかもしれないのですから。

 

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ウニヒピリとは?記憶とは?の補足

2018年08月01日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

昨日の記事をもっと具体的に・・2018 8/1

******************************

抽象的な言葉の羅列では、真意は伝わらない。

昨日挙げたブログ記事の“記憶”という意味について、

具体的な話から補足させていただきたい。

私自身の主観的考え方を混ぜないためにも、引き続き、

引用文章を元に、進めていきたい。

 

平良アイリーンさんは、ホ・オポノポノの本を多く

翻訳しておられるし、最も、ヒューレン博士の身近に

おられるスタッフの1人と思う。

そして、最も、忠実に、記憶に対するクリーン を

日常行い続けているかたの御1人だろう。

 

その方の文章から拾ってみると、こんな、場面にアイリーンさんが、

自分の中のウニヒピリに気づかされ、クリーンをする

ということがわかる。

****

①   結婚してからはとくに、私が体験する夫に対する

気持ちをクリーニングしています。


たとえば、‘夫が会社でもっと高く評価されてほしい’と

いう気持ちが湧いた時には、‘夫に向けて’クリーニング

するのではなく、その気持ちを自分の中でクリーニング

します。

 

なんで夫を評価してもらいたいと思うのかといえば、

結局、‘正しく評価されていない’ということに対する、

‘悔しい気持ち’が私の中にあるからです。 

その気持ちは、私がもともと持っている感情で、夫のもの

ではありませんよね。


‘くやしい’という体験をウニヒピリが私にみせて

くれているからです。(以上引用)

 

ここでは‘夫’が主語であるが、‘私’に置き換えても、

‘自分の子供’に置き換えても、すべてに当てはまるケース

だろう。


“夫が会社でもっと高く評価されてほしい’という気持ち“

という感情を対象にしているが、それは、どんな感情、

良きにせよ、悪しきにせよ、湧いてくる感情に置き換える

ことができるだろう。

 

たとえば、自分とは、価値観が違うと思うことを、

家族の1人が行っているとする。

卑近な例を上げさせていただこう。息子が東京に家を借りること

になったが、給料の三分の一が、家賃に充当できれば、

生活に支障はないと、私自身のこれまでの体験から

わかっているのだが、息子はそうではなかった。

 

そのあたりの生活感覚が私と違い、給料の半分以上も

する贅沢な部屋を見つけてきた。

喉元まで、いろいろな意見が出そうになったが、こらえた。


アイリーンさんの言葉を思い出したからだ。

なぜ、私が今、そのことを息子に伝える必要があると

思っているのだろうか? 

出世する前の達人は、手塚治虫氏のように、6畳一間

のアパートの一室で、それ相応の生活を受け入れていた

ものなのに・・・

 

なぜ?という想いと、貯金するという地道な考え方が、

あまり価値観を持たない息子の金銭感覚などに、‘自分と違う’

ということだけで、不快さや心配、不安定な想いを伝えて

どうなるというのか?と考えた。


彼自身が体験しながら、それなりの生活感覚を身に

つけていくのだろうと、彼を信頼して、様子をみていても

よいのではないのか? 

 

母親という立場から、自分の考え方を教育という形で

押し付けていた時期はもう終わったのだ。 

今、心から、うだうだ湧いてくる感情は、これこそ、過去

からの彼と私の‘記憶’の中ためこまれた、意識が、

そのまま表出しているのだろうと、ヒューレン博士式に

考えた。

 

協会(自然治癒力セラピー協会)式に私なりの言葉で

置き換えれば、今の意識、感情に押し流された

ように発する言葉は、これからは控えて、瞑想している自分、

静かな自分、その心持を自覚しながら行動したいと

思ったものだ。

 

先ほどの言葉に返るが、‘良きにせよ悪しきにせよ、クリーン

する’という中の、‘良きにつけ’という意味だ。

アイリーンさんは次のように述べている:

 

“夫にたいして、この人は本当に優しい人だ~と思ったら、

そこをクリーニングするんです。

人にはいろんな面がありますよね。それを認めていない

というのか、ほんの、一面しか見ないで、‘こういう人’って

判断してことは多いと思います。


もしかしたら、私は夫に対して、‘誠実でやさしい、まじめな人で

あるべき’という呪いをかけているのかもしれません。

そうしたら、彼は本当の彼らしくいられませんよね。”

 

いかがだろう? 

呪いをかけている~というのは、少々きつい言葉に聞こえるが、

‘こうあってほしい’‘こうあるべきだ’‘そうに違いない’

という限定した思い込みや羨望が心にある限り(記憶として)、

人に対しても、今起きている事柄にたいしても、良いとみえる

ことさえ、バイアスの眼鏡をかけてみているということが

あるのだろう。

 

ヒューレン博士自身、アイリーンさんに対して、結婚する際の、

‘彼が好き’という気持ちに、こんなアドヴァイスを与えて

いる。

 

“好きと思う気持ちは、とにかく、クリーニング

してください。~ 

と(ヒューレン博士から)言われていたのです。


対象は、人でも場所でもなんでもです。

初めはそれが難しかった。

‘好きな気持ちの何をクリーニングすればいいの?’

と思いました。


でも今はすごくわかります。

私の夫はすごく誠実でまじめなところが好きだとおもって

いたのに、今は、逆にその好きな部分を‘つまらない、

まじめすぎて堅苦しい’とおもったりするんですよ、

勝手です。”

 

そう、心の感情は勝手だから、だから、どんな感情も、特に、

好きとか、良いとか、嬉しいとかいう感情に、クリーニング

をかける必要が出てくるのだろう。


私なりの言葉でいえば、‘感情とは、好きの半面が嫌い、

愛するの半面が憎い、良いの半面が嫌だ というように、

二元的、反価値的なものを常に持っているから、

中庸な気持ちでいられるためにそれ(湧き出る感情)を

浄化する(フィルターにかける)必要があるという事だ

と思う。

 

 

引用部分:”はじめてのウニヒピリ” 

イハレアカラ・ヒューレン、カマイリ・ラファエロヴィッチ

株式会社宝島 発行、2015年

 

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