自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

彼岸と宇宙意思と第七次元

2014年07月31日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

脳の閃光=大気圏の稲妻  2014・7・31

**************************

 

 

脳の働きに脳のシナブス回路と呼ばれるものがある。

専門ではないので詳述は避けるが、この回路は電流が

流れており、一種の閃光がみられると言う。(*1)

 

私たちが”考える”というとき、この”回路の中で反応

が起きているというのだ。


先回のブログでお話しした、宇宙の意識 という 

第7の意識共調するとき、頭の中の閃光は、大気圏で

起きている稲妻の光と本質的には変わらないとさえ

いわれている。

 

想像していただきたい。

宇宙にも “わたし” という感覚があり、それが、“想像

したり、“創造” のために 私たちが日常、考えるという 

同様の働きがあるということを。

 

前出のチョープラ博士は言う。

宇宙が考えるから、私たちも考える”と。


もう少し平べったく言えば、

“宇宙のもつ、意識が、私たちの中の意識に滲透している

という言い方もできるだろう。


つまり、宇宙の思考と 私たち本質の考える思考とは 

波動が同じであると チョープラ博士は考える。


宇宙の意識と我々の脳裏によぎる考えとの共通性って?


この場合の意識は昨日までの話しの中の言葉でいえば 

高次元 あるいは第五意識層以上の意識、自分の心を

コントロールできるという段階に至っている場合に

言えるのだろう。


その意識の中では 

 自分の周りに起きるすべては 一過性の現実に

とらわれる’小我’にどう対応すれば、高い意識を

維持できるかということを知っている。

 

例を言えば、

1)何も悩みのない人がいるとしたら、悩みが

無いのではなく、心に浮かぶ、くよくよした感情

に捉われない意識。


2)何も体の不調を気にしない人がいたら、その症状が

どうであれ、痛みや熱などの,不調と受け取られがちな

状況は 体の自然調整が働いていて、正常に戻る過程で

あると捉える意識。


3)他者に対して親切で、どんな相手でも苦手と思わず、

楽しくお付き合いできる人がいるとしたら、相手の欠点が

解らないからではなくて、自分自身の中で不満を 

プラス思考に持っていける意識。


4)悲しみがあるのに、笑顔を見せられる人がいるのなら、

全く悲しくないからではなく、どんなに悲しくても、感情は

一過性のものであり、雲のようなものだから 時とともに

消滅すると達観できる意識。


5)自分を誤解している人にも臆せず、変わらない友情を

示すことができる人がいたら、空気が読めないからでは

なくて、自分と相手が同じアートマの資質を共有して

いることを信じれる理解の深さ。


こうした意識を持つことによって、

自分の周りに起きるすべてを、一過性の現実として

受け流し、心のバランスを保ち、正常心を失わないだけ

の術(すべ)、言い換えれば、自分自身の一時的な

感情の声に、どう対応するかが解るのだと思う。

 

話しは飛ぶが、正夢と 呼ばれる夢がある。


夢で体験したことを 後日 現実に体験する。

そのからくりは、自分の強い想念で造りだした形を

取っていない世界が、現実世界に投影されて現実化

するのだという。


想念はエネルギー。 

エネルギーは力。


そのエネルギーと同質のものを引き寄せるという法則が

あるのなら、自分の周りを形成する、人や環境は、

自分の想念に引き寄せられてきているともいえる。


喩えれば、現実生活で、演じている舞台(環境設定)、

登場人物の所作には演出家がいる。 

その演出家こそが、自分自身の想念 ということだ。


芸術性を高め ロングランを続ける舞台とするためには、

自分の意識を 第一レベルか、第二レベルか、それとも、

第五、第七、どの次元に合わせるかによって、決まる

だろう。


その設定は 今の人生、監督である 自分自信で

選ぶしかない。

 

私は最近、誤解の連鎖 という体験を味わった。


ある人に、何を言っても真逆に近い意味合いで

とらえられるという体験だ。

誤解されていると思い、さらに、メールで訴えても、

理解を求めても、増々 ギャップが広がった。


そういう相手が、一人ではなかった。

数人の人達との間でこうしたことがほぼ、同時に

起きた。

弁明しようと思えば思うほど、事態が余計、こんがら

がった。


その、こんがらがった糸を、ほどこうと必死になれば

なるほど、さらなる言葉が必要になり、その説明に

対してまた誤解が広がるという、精神的にかなり辛辣な

体験であった。


誤解を説明して 相手にいくら理解してもらいたいと

あがいても、こういう時は、言葉はほとんど無力だった。


ここは、一度、理解を求め、押し切りたい心を引いて、

むきになりがちな姿勢をとどめて、冷静に”時と成り行き”

に 事の推移を任せてみるということが必要だと感じた。


宇宙意識とほど遠い、人の執念とエゴのからんだ糸に

意識ががんじがらめに縛られていくのがわかった。


宇宙意識にもどって 周囲を見るとき、壮大なスケール

で、天体がそれぞれの星の周期と軌道を守って動いて

いくように、身の回りも本来、バラバラのパズルの一片

が治まる場所にはめ込まれるように うまく展開して

いくはずなのだ。

 

あたかも、宇宙の意思が、存在する星それぞれの特性を

保ちながら、調和を保って ”宇宙の智慧”とともに

動いていることを、想いだした。

 

こんなに こんがらがったのは、相手のせいでは

なかった。

自分の 何かに固執したい習癖、自分流の観方を

相手に理解してもらいたい、という 相手への期待と、

自分のエゴの強さがその原因であることはわかって

いた。

 

エミール大師が調査団に述べていた言葉が

ここであてはまるだろう。


“何度もこうしてくださいと神に祈るのではなく、

自分の好ましい状態を祈ったら、あとは、神の意思に

任せていなさい。


考えすぎることなく、必要なタイミングで必要なことが

起きて、願いはかなうはずだから。“

 

宇宙の意思にまかせていれば、必ず、うまい具合にことは

運ぶという宇宙を貫く叡智への信頼を忘れてはいけないと

いうことでもあった。

 

そして、宇宙の意思こそ、第七の私たちの意識と

共通しているのだ。


だとしたら、為すべきことは一つ。

自分の意識の羅針盤の針をただして、物事の成り行きを 

静かに、見守ること。


すべては自分の心の反映鏡だから、自分の心をリラックス

して宇宙の軸の傾きに戻すこと。

 

チョープラ博士(前出)はそれについてこう語る。

“すべては意識の投影です。

‘人’という個別の存在は実存していません。

私たちが人と呼んでいるのは、一過性の行動パターン

として顕れている無限の意識の一部なのです。“

 

彼岸と宇宙意識)

日本人は、宇宙の意識を知っているから、

ご先祖様を祀り、大事にするのだろう。


顔を見たことのないご先祖様の墓前で、手を合わせる

ときでさえ、自分の命とつながっている一連の絆を

感じるものだ。


それは理屈ではなく、肉体は別々でも、代々の命を

受け継いで生きている、という実感でもあるのだろう。

 

生命の連鎖とつながりを大事にする日本民族は、

永遠に魂を受け継ぐという 神秘に満ちた宇宙の

営みを心の奥底で知っていたのだろう。

 

お彼岸、お盆 には、故郷に戻って、親類縁者と

一緒に家族の弔いを習わしは、他国にはない。

 

インドでは屍(しかばね)は プージャと称する

儀式がすむと、ガンジス川などの、聖域の河に

流されるのが常だ。


それが一番天国へ行く救われる道であると古代より

信じられている。

だから、墓という概念はなく、先祖に手を合わすという

習慣もない。

 

生命の循環と連鎖を敬い、

自然の中に散在している宇宙の意思を見出し、

一粒の露に、大海を想い、

一片の木片に数百年の年輪を重ねた大木を想像する。

 

高校野球で、惜しくも敗れた選手が甲子園の土を

一握り掴んで、故郷に記念として、持って帰るのも、

選手達の闘志みなぎる心が、甲子園のグランドの土に

反映していることを知っているのだろう。


こうして、土、水、風にいたるすべての自然の要素

に対して、日本人は宇宙の意思(神の創造力)を

見出してきた

 

 

 

覚者が最後にこう言った。

“癒しはまさに、そこから来る。

全体性を想いだし、命の連鎖に宇宙の意思

あるいは神性を見出すことから始まる。“

 

お盆と第七の意識、日本人の自然崇拝の意識、

命の連鎖を敬う心、

展開が支離滅裂になってしまったが 最大公約数が

そこにあることを感じる今日この頃だ。


最大公約数…たぶんそれは、日本人の持つ、全体性[和]

の協調意識や命の連鎖[先祖供養]を大切にしてきた、

無意識の宇宙意識につらなる第七意識の特性なの

かもしれない。

 *****************


 *1)

図1

ニューロンとシナプスの基本構造

(平成24年1月20日 科学技術振興機構(JST)作成)

頭の中の閃光に関して・・・・・

 

ニューロンは、樹状突起が広がる細胞体部分と、

そこから長く伸びる軸索とで構成され、

ほかのニューロンから受け取った情報を処理して、

ほかのニューロンに伝えていく。

シナプス部分では、神経伝達物質を使って情報を

ほかのニューロンに伝える。(東京大学 大学院薬学系研究科)

 

 

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観音経と第六、第七意識?

2014年07月28日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

神人合一 にいたるまでの意識の変遷  2014・7・28

************************************

先回は第4・第5の意識までのお話しだった。

”意識”という言葉を使っているが、ここでは”精神的次元”

という言葉でも言い表せるかもしれない。

 

”自分はスピリチュアルだ”と 自称する人達は、大体、

第五次元を意識している人達だといわれる。


第六次元=第六意識につながると、すでに日常生活を

超越するところでの、直観力や感覚に慣れ親しむので、

周囲からは 理解され難く、変人として捉えられること

すらもあるかもしれない。

 

第五の意識状態と第六の意識状態との決定的違いとは?

それは、自らの内にある、”神性意識の目覚め”にあると

言われる。


ところが、神性意識に目覚めていると自負している人は案外、

意外な落とし穴にはまっている。

”小我”、つまり、エゴ意識がそう思わせているのか、

ほんとうに目覚めているのか?

わからない。

”小我”がそう思い込んでいるときは、単なる、自意識過剰。

 

だからむしろ、自分は何の変哲もない”普通人だ”と思い、

思われている人達の中に目覚めた人がいるというのも

道理あるかもしれない。

聖人のような意識を持って、当たり前に、普通の暮らしを

している人達の中に第七意識、神性意識に目覚めた人がいる。

神性意識に目覚めるということは理屈を知っている

ことではない。

自分の本質に、愛や赦しという神の資質そのものを

持っていることを知っている人、そして、その資質に

沿って生きる悦びを感じている人達。


それは自分が他者と違うと高慢になるのではなく、

他者より悟っていると思いあがるのでもなく、むしろ 

そうした神の資質は、他者にも身の回りの環境にある

すべてのモノにもあるのだから、互いに生かされている

という謙虚な心持で 充たされている人達だろう。

 

宇宙の意思を感じる”のが”第5の意識”であるのなら、

その宇宙の感性が自分のみならず、すべての中に

みなぎっていることを知って、実践生活を送ることが

第六の意識”の為せる技だろう。

 

好き嫌いや、優劣の判断や、善悪の診断を超えているから

常識的な価値判断はあまり、その人にとって、意味がなく、

有効性がない。


第六の意識の中では、総ての中に宇宙の巨大な広がりを感じ、

自分という枠を超えた時空の制限もない、壮大な広がりの中へ

意識を漂わし、その中に至福を味わう瞬間を体験する。

 

皆様は観音経を読まれたことがあるだろうか?

観音経には次のようなフレーズがある。

少し長いが引用すると、

 

”咒詛(しゅそ)諸の毒薬に身を害せんと欲られん者

彼の観音の力を念ぜば、還りて本人に著きなん

或いは悪羅刹、毒龍諸鬼等に遭わんに

彼の観音の力を念ぜば、時に悉く敢えて害せじ


若くは悪獣に囲繞(いじょう)せられて

利(と)き牙爪(げそう)の怖るべきあらんに

彼の観音の力を念ぜば、疾(と)く無辺の方に走りなん

元(正しくは虫偏)蛇(がんじゃ)及び蝮蝎

気毒(けどく)煙火の燃ゆるがごとくならんに

彼の観音の力を念ぜば、声に尋(つ)いで自ら回り去らん

雲雷鼓制(正しくは制の下に手)電し

雹(あられ)を降らし大雨を樹(正しくはサンズイ)

(そそ)がんに、彼の観音の力を念ぜば

応時(ただち)に消散することを得ん

衆生、困厄(こんやく)を被りて無量の苦、身を

逼(せ)めんに 観音妙智の力 能く世間の苦を救う

神通力を具足し、広く智の方便を修して

十方の諸の国土に、刹(くに)として身を現ぜざること無し

種々の諸の悪趣、地獄鬼畜生、生老病死の苦

以て漸く悉く滅せしむ


真観、清浄観、広大智慧観、悲観及び慈観あり

常に願い常に瞻仰(せんごう)すべし


無垢清浄の光ありて、慧日(えにち)は諸の闇を破し

能く災いの風火を伏して、普く明らかに世間を照らす

悲体の戒、雷震(らいしん)のごとく

慈意は妙なる大雲のごとく、甘露の法雨を樹(そそ)ぎ


煩悩の焔を滅除す、諍訟して官処を経

軍陣の中に怖畏せんに、彼の観音の力を念ぜば

衆の怨(あだ)悉く退散せん

妙音、観世音、梵音(ぼんのん)、海潮音


勝彼(しょうひ)世間音(せけんおん)あり

是の故に須(すべか)らく常に念ずべし”

 

様々な困難にはだかって、観音経を唱えれば、さまざまな

障害や災いからことごとく救われると お経は説く。


お唱えしながら、本当に 現代 かつ、今現在 

このように現実的に救われるのか?と半信半疑に

ならざる得ない難儀な状況が次々と描き出される。

それでも 観音様に祈れば身を守ってくださるという。

 

これはどういうことなのだろう?


第六、第七の意識とどう関係あるのだろう?

観音経 を通して、拡大された第6の意識が、ポイント

だと思う。

第六の意識の自分に 観音経の波動で気づかされる。

言霊=御経の波動は魂から唱えあげれば、必ずその人の心

に反響していく。

 

こうして、第六の次元の波動に 自分の心を置くことが

できれば、もはや、危険の中でも安全に守られ、

混沌とした世界の中に投げ出されても、

心の中の平安を見失うことなく、静寂の中での

直観を信じて、自然に身を守る行動がとれ、

難なく”存在(生)を維持できる”ということを

この御経は指示(さししめ)しているのだろう。


観音様という神性意識と波動を合わせる境地にいたれば、

観音経に書かれていることが絵空事ではなく、

奇蹟”のような ”実際の功徳”が信心を持った人の、

身の回りに起こり得るということなのだろう。

 

 そして、第七の意識に入ったとき、キリスト意識とも 

神性意識ともいわれる神人合体が起こる。


 統一意識に入るという表現もされる。

 この意識がヴェーダ哲学で言うところの、以下の説明に

合致するだろう。

 ”私はこの世界の中にいるのではなく、世界が私の中にある。

 私はこの身体の中にいるのではなく、身体が私の内にある。

 私は心の中にあるのではなく、心が私の外にある。

私が自分自身の中で創造を想念するとき、

身体と心と世界の創造が同時に起こるのだ。”


 以前、見えない世界の科学のジャンルでお話しに出た、

カプラ―博士も アインシュタインの共同研究者であった、

ジョン・ホーラーも、

 ”宇宙の存在は意識的な観察者がいるから成り立つ

と述べている。

 

 意識的な観察者、観察する人がいるから、

宇宙の星が存在する”というわけだ。

 

逆に言えば、”在り”と認める観察者がいなければ、

その創造物は 存在していないということになる。

 第七の意識に到達すると、こういうことが、明白に

理解されるのだろう。


 つまり意識が 創造に 直接関与し、 意識 が 

存在を貫いている純粋エネルギーであるということをだ。

この場合の意識は、第七意識、つまり、宇宙意識 

のことを指しているのだろう。

 宇宙意識こそが 言い換えれば”私という存在の源

(ルーツ)”でもあるといえないだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

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意識界の話:第4・第五とは?

2014年07月25日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

宇宙意識と超越意識~生かしあう生活     2014・7・25

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心理学者は次のように述べる。

私たちの3つの意識状態が、今の生活を支えているというのだ。

その3つの意識とは

起きている状態~目覚めて活動しているときの意識

夢を見ている状態~寝ているときに夢を見ているときの意識

眠っている状態~熟睡して 心身ともに安らいでいる状態

そして、4番目の意識状態というのがあり、この状態に意図的に

持っていくことは可能だという。

 

いわゆる瞑想しているとき、心の雑事に右往左往する

状態をいったん止めて、静寂の中に意識をもっていくとき、

4番目の意識状態に入るドアの前にたっている。

この意識状態に入ると、どのような変化が起こるのだろう?

私たちの現在意識の次元を超えて、現実生活からも超越した

心持を体験できるということでもある。

覚者は言う。

私たちは本来4番目の意識で 垣間見ることのできる純粋

な中道をいく魂の考えを 自我という色眼鏡を通して

外を観るから、さまざまな曲折した現実がそこに現れてくる

と。

この4番目の超越意識には、

時空もなく、因果関係という物質世界やこの地球の生活に見られる

束縛を この身は地上にいても感じることは無いという。

束縛が無いのだから、超越意識(超純粋意識、アートマ意識)が

そのまま反映された世界に住むことになる。

だから、”真の自由”を味わえるのだが、実際はエゴ意識が

立ちはだかってなかなか、第四意識に入り、超越意識が 現実に

そのまま投影されることがないので 中途半端な瞑想では、

人は悲しみ、苦しみ、矛盾にとまどいながら 感情に翻弄されて

生きざるを得ない。

このブログでも時々扱う言葉に宇宙意識というものがある。

他の言葉では、宇宙に満ちている生命とか、宇宙の大調和生とか、

統合性か、そう生かそうとする宇宙意思とか、 いろいろな

表現をしてきたと思う。

 

この宇宙意識は言葉を言い換えれば、第四の意識の延長線上

にある。

アートマ[魂)を垣間見るだけではなくその意識状態を

維持できる時間が長くなると、宇宙意識を体験することも

可能だ。


そんな意識に到達した人達がいるのだろうか?

はい、筆者が知る限り、ヒマラヤの大師たちや、ヨギ達は、

この意識に入って至福を味わっていると、思うのだ。


あるいは、聖人と言われる人達、キリストや 釈迦などは、

この宇宙意識に達し、人々とそれを共有するために、

いそしまれていたのだろう。

 

聖書には、キリストの言葉として、”我が国はこの世の国に

あらず”という言葉が残されているが、宇宙意識に満ちた

キリストの観る世界は、現象に捕らわれている人達が

創りあげる(た)権力的社会とは、まったく異なる世界を

さしていたのだろう。

 

瞑想はいつが一番効果的だろう?

朝起きたとき、夜寝る前のタイミングが 適した時間帯

と言えるだろう。

朝、まだ、第2、第3の意識の中を彷徨しているとき、

静かに坐して自分の魂の扉を開けて観る。

そうすることで、色眼鏡をかける以前の 至福の自分を

垣間見て、そこに波動をあわせることができるだろう。


こうした波動で一日をスタートすることが、そのまま、

制約ある世界に生きながら、意識は”中道”を保って日常生活

を送る手助けになるだろう。

 

寝る前に瞑想するのは、煩雑な事象で疲れた心に再び、

中道の心のバランスをとることによって、安眠と心身への

癒しにつながるに違いない。

 

自分の意識をコントロールするということ。

誰にでもできるのだが、たとえれば、打ちのめされそうな

悲しみや苦しみに直面したとき、難球としてグローブに

受け止めるキャッチャーのように、受け入れるという

ことだろう。


それをもっと、つき進めていけば、自分の生理機能や

健康状態を元気に維持するために 自己意識のコントロール

こそ、大切であるということになる。

心身一如だからだ。

 

第5意識は宇宙意識そのものだから、他者も自己も同じように、

生かそうとする愛以外の何物でもない。


心身は自分の意識が第5意識につながったとき、きっと、

”生かされている”という認識で静かな喜びに満たされる

だろう。

生かされるという意識は、そのまま自分自身が 

”生かす”という主体性意識に替わるから、生かせば生かせられる

という法則にのって、ますます順気がめぐり、新陳代謝も

活性化して、体の健康につながるだろう

一人でいるのが楽しいという人がいる。

孤独でも何とも感じない、かえって、人間関係の煩わしさ

がなくて良いという人もいる。


ところが 第四意識、第五意識にはいると、そういって

いられなくなる。

自分は一人では生きていけない。

生かされている存在だからこそ他者との共有する大きな力を

感じられる。


すべての事象は人間関係がからんで成り立つと実感する。

男性なら女性エネルギーが必要だし、女性なら男性エネルギー

が陰陽調和で必要であるだろう。

陰陽の力は自分の内にもあるが 善き人々とのつながり

の中でバランスをとることができる。

攻撃的だけではだめだし、守備の力が必要だ。

外に向かう勇気とともに、内に進む優しさが欲しい。

 

太陽が昼間活力を与えるが、月の満ち欠けによって、

生物のリズムが生まれる。

こうしてみると、他者との関係の大切さが身に染みる。

 

人を生かすこと~その人本来の魂が喜ぶように、

配慮しあ得る人間関係を広げたい。

生かしあう生活を送るためにも ときどき、第四の意識

に入って、”本当の自分”、”本当の相手” を認識すること

が大切なのだと思う。  

本来のその人が喜ぶことは何か? を知るために・・・・

 

 

 

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アトピー時代、怒りが半端でなかった・・

2014年07月22日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方


光あり、ゆえに影ありきと、現実を受容  2014・7・22

*****************************

マイナス面があるからプラス面がわかるし、プラス面があれば、

そこにマイナス面も生まれる。

マイナス面を必要以上に取り上げて、自分を責める人がいる。

自分を責めるタイプの人は、一般的に完全主義者だ。


繊細であり、芸術的であり、かつ、神経質なところがあるから

アレルギーという形になって、抵抗力や反発力の心が体に現れと

心身症の診断で言われることも多い。

 

私自身もアトピー性湿疹で、頭、首、膝の内側、

肱(ひじ)の内側、などなど症状が 数十年続いた。 

痒くてたまらないから、赤くなるまでかきむしり、

ガサガサの肌は、いっこうに、良くなる気配もなく、それが

私にとっては、普通の肌となっていた。

10代を想いだすと、怒り それも自分への’赦し難き思い’が

半端ではなかったようだ。

その感性が、アトピー性皮膚炎を助長していたし、それが、原因
であったのかもしれない。

自殺も頭によぎるほど、自分はダメだと思い、鬱状態になったり、

悶々と自分の欠点を数え上げて、悩んでいたころは、症状は一番

頭の表皮に出た。

かさぶたが、できたが、それを掻いて取ると、中からジュクジュク
した汁がでてきて、頭を覆った。そして、固まれば、白いふけの
粉のようなものが、肩に無数に落ちた。。


当時の心境。

理想と現実のギャップに、自分を許すことができず、鏡をみて

自分の頬を平手打ちに思い切りたたいて、自己嫌悪にも陥いった

ことを思い出す。。


家族の誰もそんな私の影の部分は知らないだろう。


学校ではおとなしくて謙虚な生徒を演じていたし、

家庭では良い子を演じていた。

爆発しそうなほどの鬱屈した感情は中に籠って、

原因がわからない、頭痛と、吐き気に週に一度、保健室で

寝込む状態が3年間続き、医師に診てもらったところ、

自律神経失調症と診断された。


さらに、腎臓は機能が弱く、”遊走腎” と診断された。

その症状はというと、所定の所に腎臓が落ち着いておらず、

腎臓が勝手に、自律神経が行き届かないせいか、動くと

いうことだった。


そういうときの身体の反応は、尿漏れが起きたり、足が

むくんだり、耐久性がなく疲れやすかった。

遠足では、いつも一番びりをトボトボ歩き、運動会は

大嫌いだった

 

光りがあるから影がある。

頭でわかっていても心で納得できない分、余計イライラした。

真理の言葉を探し、宗教の門をたたき、哲学者の格言集を

読み漁ったのもこのころだった。

 

神を信じていても、自分の体に現れてくる不健康という、

その影が許せなかった。

時々ヒステリックになったり、感情的になって、家族に対して、

悪態をつくときもあった。


自分で抑えることができないほど、高ぶる感情の波を

持て余した。

 

こういう歳月はしばらく、たぶん、20年ほど、続いたが、

どうにかこうにか、自分の本質を静かに見つめるゆとりが

できたとき、その影をようやく、受け入れ始めた。

(追記・これは、今(2024年現在/推敲時)思うに、”魂”
レベルの過去生からしょってきたお荷物(カルマ)が、
思春期に、心身に、出てきていたのだと思う。

カルマ というのは、厄介だが、出してしまえば、生まれ
変われる。

生まれ変わるための浄化作用だと思って、受け入れていれば、
苦しさも違っていたかもしれない)

 

とは言っても、いまだに、自分の負の部分を見つめて、

打ちのめされるような悔悛の情にひたることもある。

こうして人生は流れていくのだ。

 

自然治癒力はどのような時に発動するのか?


それは 体も心も 十分に、”愛”に 充たされたときだろう。

愛というのはとても大きな言葉なので簡単に使われるし

曖昧に使われることもあるようだ。

 

愛に満たされるというのは、対象となる、人やモノ、動物や

状態、すべて、自分の身の回りの存在を、そのままで、

批判や審判なしに、受容するやさしい気持ちに満たされた

時だと思う。

 

それは自分自身に対しても同様で、

自分の長所、短所、それらは、すべて、対岸の土壌の質だ

とわきまえて 受け入れる。

そして、自分自身は河の流れの 水そのものなのだから、

こちらの岸に近づけば、長所のように見え

あちらの岸に水の流れが傾けば、短所のように

見えるだけだと、思えば気が楽だ。

所詮、短所も長所も 根源を同一にするものが

ほとんどなのだから。

 

 

アトピー性や、神経症、あるいは、鬱病の人にもっとも

効果的な言葉は何か?というと、精神学者が次の3つの

言葉を挙げた。


ぼちぼち、ほどほど、まあまあ


というような言葉だったと記憶している。

”ぼちぼち行きましょう、ゆっくり行きましょうよ。”

”ほどほどに、そんなに魂(こん)つめないで。”

”まあまあ、そんなところで良いでしょう。”

という具合に考えると、緩やかに、自分を見つめることが

確かにできそうだ。

 

完璧主義者、相手にどうみられるか気にしすぎる人、

迷惑は 絶対かけたくないという人、

急がなければ 何か損しそうと思う人、

何事も全力疾走しなければ気が済まない人、

こういう人達、いわゆる、善良で優秀といわれる人達が、

実は、うつ病になりやすいタイプであるという。

 

自分に対して、あるがままを受け入れる、そして、

自然に流れにそって、自分と思う資質が、変化していくの

見つめるゆとり、長い目て見ることが大切、そして、

それが、自分自身への愛の基本なのかもしれない。

 

そうすることで、自然治癒力が発動できる体制も 

整うだろう。

怒り、悲しみ、責める、攻撃的な心は、自然治癒力を

抑止する大きな力になってしまう。

ストレスの要因でもあり、病気の素にもなる。

 

ご自愛ください~と、だから、手紙の末文に書く言葉は、

的を得ている気がする。

自分を愛してください、自分を許容してください

自分を許してください、自分を裁かずに、自分を愛して

ください。

という意味合いがこの 短いあいさつ文に含まれている。

 

融通の利かない人。

一つの側面を観て、それがすべてを顕わしていると

勘違いしたり

他の面を否定してしまったり、一度こう言ったのだから、

それは何が何でも、替えることができないとかたくなに

なったり、すべてが変化し流れていくということをあまり、

認めたくない人。

 

もちろん、すべてが変化しても流れないものは在る。

確実にある。

自分の中に、ある。

ところがこの”核なる自分”を信じることができれば頑なに

なるどころか 周囲への理解も深まるだろう。

 

たとえば、あなたは会社では、部下であり、上司であり、

家庭では、夫(妻)であり、親であり、プライベートの時間

では、恋人であったり、幼なじみの友人であったりするだろう。


それぞれの立場立場があるから、人は その役割に相応した

態度をとる。 

態度も言葉づかいも、変化せざる得ないだろう。

状況によって、優しくなったり、頑固になったり、

声高になったり、様々な ”あなたの顔”が いろいろな

場面で、表現されていることだろう。

 

覚者はこのことをこう表現している。

”あなたは、自分の社会や家庭で演じている役割の

仮面をかぶったどれでもありません。

あなたは、永遠の魂、これらのたくさんの役割を 

演じているのをじっと見つめている 平穏の心持の

目撃者にすぎないのです”

 

自分自身の必要に応じた、演技を受容する。

時には失敗し、失態を演じるかもしれない。

それも許容する。

ほんとうの私は、”あ、また、失態を演じた”と観ている演出家で

あるはずだからだ。

同時に、そのとき、相手への 理解も生まれるだろう。

相手の一見、矛盾に満ちた態度、あるいは、下手な演技を、

”愛” をこめて観てあげられる。

そして 腹立つこと、イライラすることも減るに違いない。


それがアトピー湿疹をなおす一つの秘法であるような気がする。

私の体験からいけば、子供時代(11歳ぐらいまで)

のアトピー疾患は母親の ”失敗や現状を受け入れられない”

完全主義からくる、イライラ感が反映していることも

多いようだ。

 

 

 

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お盆の月に寄せて

2014年07月19日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

幸せの一つの定義   2014・7・19

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地方によっては7月にあるいは8月にお盆をする

ところがあるという。

彼岸 という言葉。

あちらの岸、そして、亡くなった人達のいる世界。

さらに、悟りの世界という意味もある。

お盆には、あの世にいるご先祖様たちへ思いを馳せ、

迎え火と送り火をたいて御魂を家におよびする。

それは、今生かされている命が

ご先祖様の命繋がりであることをもう一度思い出すために

大切な日本人の風習の一つとして守り伝えられる。

 

人間の命、生命、生き様は 人生という河のせせらぎの水

同様、幸せという岸にぶつかったり、不幸という岸に流れたり

して、過ぎゆく。

 

覚者は言う。

”どちらの岸部が良い悪いというわけではない。

どちらの岸にたどり着いても、そこに執着しようと

するのが、問題なのだ” と。

 

執着するというのは、その岸から離れたくないといって

しがみつく幼子のようなものだ。

どんなに楽しいひと時も、いつかは手放さなければ

ならない。

反対に どんなに苦しいひと時も過ぎてみれば、

笑い話で語り合うこともできるときがくるだろう。

今、この手にあるもの。

一つ一つ、掌(てのひら)から取り出して並べてみると

結構、たくさんのものを握っていることに気が付く。

健康、家族、趣味、旅行、車、家、衣服、名誉、名声、

地位、評判、実績、学歴、宝石、旅行、信頼 などなど。

今興味あること、興味あったこと、それを支えてくれる

仲間や家族、忘れていた人とのつながり、数え上げれば

きりがない。

 

筆者は6月の梅雨の時期、みなさんがジメジメして・・・と

呟くのを耳に挟んでインドの猛暑を想いだしていた。

冷房も扇風機もいらない、ひんやりとした雨の後の

夕風を受けて、もし、この時期のインドにいたなら、これは避暑地

の風に匹敵するだろうと 快く感じていた。

そして、梅雨明け宣言が出て、お日様がギラギラと日中

顏を出す。

洗濯物が思う存分乾く季節、

人々は  ”熱い暑い。熱中症になりそうだ” と つぶやく。

日照時間の少ない北欧やイギリスの人達は、少しでも太陽が出れば

庭でも公園でも、恥ずかしげなく水着姿になって、太陽からビタミンD

を浴びるという話を聞いたことがある。

冷暑であれば、農作物にも被害が出る。

天気ひとつでも、角度を変えてみれば不満も感謝に代わりそうだ。

 

筆者の叔母は80歳を過ぎて、心臓弁膜症の手術を2度も

受けてそれでもとても元気で若々しい。

叔母は手術してから”生かされている”という意味合いを理屈ぬきに

味わうことができたようだ。

 

何を観ても、新鮮で、有り難く、今はただただ、自分の中にある

安寧の境地に、”幸福感”とともに漂っていることが、喜びだという。

先日お見舞いに伺ったが、マンションの裏山に散策に行って

河のそばに降りてきた鹿と出くわしたり、蛍の光に心を和ませたり、

朝明けの小鳥のさえずりに 小さな双眼鏡を片手に小鳥の様子を観察

しながら朝食をいただくのが この上なく充たされた気分だと

語っていた。

 

”あれがこう、これがああ、と理屈を言っているうちは

まだまだ、本物ではないのよ。”

と ポツリと言う叔母の顔に漂う優しい笑みが印象的だった。

 

覚者は言う。

あなたは海です。

だとすれば、自分を漂う一過性の波と同化したり、

一滴の海水と同一視する必要があるでしょうか?

あなたは 常に変化し続ける こうした海の現象や行動とは

無関係なはずです。

なぜなら、あなたは 海を構成している”海水”に込められた

その性質そのものなのですから。

この性質は 海上がどんなに荒れても、波が変化しても、

変わらないものなのです。”

 

叔母が自分の生かされている命を慈しみながら 感謝の

毎日を送っている中に、誰からも侵入されたくない 幸福の境地が

あるというのももっともだろう。

その”海の一つの原子の資質”そのものに匹敵する 生命力を

叔母は自らの過酷な手術を2度も体験して感じ取ったに違いない。

理屈ではなく、実感として叔母の掌の中にあるということを知っている

に違いない。

叔母の心にある、内なる平和、お見舞いに伺って、むしろ癒しを

頂いたのは、私のほうだったかもしれない。

 

手の中にないものを求めるから進歩がある~という人もいた。

満足ばかりしていては、技術の進歩も社会の向上も有り得ないと。

さてさて、どうなのだろう?

原子爆弾をつくるウラ二ウムの発見は 原子力というとてつもない

パワーの開発につながった。

そして、同時に震災で露見した思わぬ大事故の可能性で原発に対する

意見も様々だ。

確かに、進歩と退歩を繰り返しながら歴史は動いてきているのだろう。

 

プラスとマイナス、陰陽、

二元性世界は、促進力とブレーキを効かせながら

進んできている。

 

インドの諺で ”うまれつき盲人の人は光を体験していないから、

闇を知ることはない”、というのがある。

光りと闇を体験するからこそ、手のひらにある、今の大切な所有物を

感謝を持って、味わうことができるのだろう。

そういう意味では、人間が満足を知らない動物であるという性質を

与えられているのも、一理あるのかも、しれない。

 

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