自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ヨガの大元=不二一元論のイロハ(2)

2021年02月27日 | 健康と直結する”一元論”について

不二一元論(ヴェーダ哲学)の身体のさまざまなその呼び方    

2021年2月27日

******************************************************************************

前書き)

ヨガの大元とは、ヨガ理論の基本という意味で、そこには

ヴェーダ哲学の不二一論説がある。

ヨガの語源はユージュナーというサンスクリット語で、

これは本来の自分の中にある神と、身体を持った自分の

意識を結びつけるというところから来ている。

 

インド古代からはヨガの熟練者をヨギと呼び、彼らはその

意味で、神と一体化する修行を積み、これが今言うところの

ヨガの本質となっている。

 

様々な身体のポーズをとるハタヨガが健康的体操のように

人気を博しているが色々な種類のヨガがあり、今、ここで

皆様がこうしたものを読んでいらっしゃるのも、

ギャーナヨガと呼ばれる真理知識を吸収するという、

ヨガの行法の一つである。

*****************

南インドのサイババ師は上の講義をするにあたって、歌うように、

ベーダの一節を唱えられた。

 

”あなたは肉と血と骨を束ねた身体ではない。

あなたは、また表現されない欲望でも表現された心でもない。

さらにあなたは、あなたの解放を邪魔する愚かな錯覚でもない。

あなたが自分の内部の力を認めさえすれば、あなたは”

永遠のパラ―トマン”である。”

(サティアサイババ)

 

ヨガの目的は自分の心身を清め、神との波動に限りなく近づき、

心には安寧を身体には健康を、心と身体には調和がとれた

関係をつくることにある。

言い変えれば、自分を聖化することだ。

ここでスワミ(サイババ師のこと)は人間は肉体だけでもなく、

感覚でもなく、知力でもなく、それらは私たちがまとっている

地球服の付属物だという。

誰も着ている服に翻弄される人はいないだろう。

服とか付属物はその持ち味を理解して活用するためにあるの

と同様に、私たちの身体もその意味を理解して使いこなさなければ

身体に振り回されることになってしまう。

 

身体の持ち味とは、何だろう?

身体のヴェーダ文献の中での呼び方はいくつかある。

今日はそれをご紹介したい。

 

まず、〝ダーヤティ・イティ・デーハ―”という呼び名。 

この意味は’燃えてしまうもの’ということ。

肉体は、死ねば燃やされるし、生きていても心配事や恋煩いで

心が燃焼されれば、身体も負のエネルギーを使うことになる。

そこでヨガをする人たち、特に賢者であるヨギは太古から

こう祈りを捧げていたという。

 

”ああ、このような当てにならない肉体に頼る代わりに、

主なる神ハーリー(ヴィシュヌ神のこと)の蓮華の御足の御元に

私を置き給え”と。

 

燃えて儚い身体の別名に”サリラ”という言葉がある。

”シリャテ・イティ・サリラハ”

とスワミは口にした。

その意味は

”朽ち果てることを免れないものはサリラと呼ばれる”

という意味で、これは、青年期の一番溌剌とした若さのはち切れんばかりの

肉体も、年を経て活力を失い病にかかり、足腰が曲がり、朽ち果てて

行くという、宿命を持っているのが、この肉体である~ということだ。

 サリラ、という朽ちる肉体もそれと真逆の言葉で呼ばれることがある。

それは”マンディール”という言葉、神殿という意味だ。

刻々と変化していく肉体は、”ジヴァ”(シヴァではなくジヴァ

あるのでご注意!)

と呼ばれる’個別の魂’を祀る神殿でもあるからだ。

つまり、この肉体は”神の宮”でもある。

アートマ(至高不変)と呼ばれる、神聖な自分が鎮座している寺院

いうことだ。

 

ジヴァはアートマの別名、だとしたら、その神殿の肉体を構築している

五臓六腑や器官は、大切に扱われるべきだろう。

大切に扱うということは、神殿に仕える巫女たちのように、清潔に

清らかに扱われてしかるべきということだ。

たとえば、’口’は良きことを語り、清らかな食べ物を口にして、

’手足’は善い行為をするために使われ、耳や目は、清らかなものを見たり

聞いたりして、善き思いで心を満たすことが、ジヴァを祀る宮殿(肉体)

仕える者たち(眼や耳などの五感器官)のお役目と言えるだろう。

 

スワミはこう私たちにアドヴァイスした。

”どんなことを為す前にも、いつも自分自身に次のように言って

聞かせなさい。

’私は個別のアートマンとしてこの身体に住んでいるブラフマン(神)

である。

そのようなものとして、私がこの行動をするのは正しいか正しくないか?’

と常に反芻して自分自身に言い聞かせながら、行為をなすのだ。”と。

 

もう一つの身体の別名に”クシェトラ”という言葉がある。

クシェトラを知る者は”クシェトラジナ”と呼ばれる。

クシェトラそのものの意味は、”神聖な波動に満ちている聖地”を

意味して、印度で言えば、ヴァラナシやティルパティ、など

ガンジス川の流域や神々の寺院のある場所、日本でいえば、

奈良や京都の古き聖地に立つ寺院や神々に由来する山々などを指す。

この身体がクシェトラと呼ばれるのは、この肉体細胞の一つ一つ

が聖い想念や思念で満たされる場所でもあるからだ。

 

聖い想念で行動を起こすと、善行となる。

その善行をプーニャと呼び、反対に罪深いことをバーバと

サンスクリット語で言う。

つまり、このクシェトラ(肉体)の畑ではプーニャ(善行)の種をまき、

バーバ(罪)の種はまかないよう、細心の注意で心がける必要が

出てくる。

しかしその甲斐はあるというものだ。

なぜなら、善き想念の種は、畑で蒔く物質的な種と違い、不作と

いうことはあり得ないからだ。

良き想念の種を蒔けば良い結果が必ずもたらされるし、悪い想念の種

を蒔けば、それは自分で刈とらなければならない結果が生まれる。

 

こうしてスワミは身体のさまざまな呼び方を教えながら、善い想念

をいだくこと、

目と耳と口は宮殿(マンディール)の窓や入口にあたるわけだから、

善きものを見分けて、善き言葉を聞き、善きことのみを口に

するように教えた。

 

日光の東照宮の”見ざる、聴かざる、言わざる”の三匹の猿の彫刻は

あまりにも有名だがインドでもこの猿は何故か有名だ。

そしてスワミの言う、善きものを見分け、善き言葉を聞き、善きこと

のみ口にせよという教えはこの三匹の猿の彫刻の意味しているところ

だと、印度人から私は教わった。

 

さて、身体をアートマの宮として清浄に保つために、忘れてはいけない

ものがある。

食事だ。

次回は正しいヨガ行為者の食事とは何か?をお話ししたい。

ただし、口に入るものだけが食物とは限らない。

私たちの身体には少なくとも4つの入口(くち)がある。目、耳、鼻、

口でここから入って来るものを身体への食べ物とみなす。

なので、菜食主義を御薦める内容ではないということ・・

サットヴァ的なものを身体に入れて行くという内容になる。

 

 

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ヨガの大元=”不二一元論”のイロハ(1)

2021年02月20日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

序章   2021-2-20

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前書き)

ヨガの大元とは、ヨガ理論の基本という意味で、そこにはヴェーダ哲学の

不二一論説がある。

ヨガの語源はユージュナーというサンスクリット語で、これは本来の

自分の中にある神と、身体を持った自分の意識を結びつけるという

ところから来ている。

インド古代からはヨガの熟練者をヨギと呼び、彼らはその意味で

、神と一体化する修行を積み、これが今言うところのヨガとなっている。

様々な身体のポーズをとるハタヨガが健康的体操のように

人気を博しているが色々な種類のヨガがあり、今、ここで皆様が

こうしたものを読んでいらっしゃるのも、ギャーナヨガと呼ばれる

真理知識を吸収するという、ヨガの行法の一つである。

*************

昨年2020年の12月、富士山のガイドさんをしている方の

お宅でお茶を戴いた。

その際、サイババ師のことが話題に上った。

すでに師が天国に行かれて何年になるのだろう。

私はスワミ(と師のことを呼んでいた)が亡くなるその年に、

友人のRさんとご一緒にスワミの住むアシュラムに伺ってダルシャン

(スワミと直接会って祝福を得ること)を得ていた。

当時の日本では、その何年も前からテレビの特別企画で、サイババ師

の奇跡がマジックかどうか?という話がとりあげられていたり、

サイババ師は不二一元説を教える師というより、奇跡的行為の

好奇心が勝って、多くの人の興味を引いていたようだ。

 

実際、今からもう、30年近く前に初めてサイババ師のアシュラムに、

印度の首都ニューデリーから飛行機やタクシーを乗り継いで

半日かけてたどり着いたとき、日本から来た信者さんたちが

20名ほどのグループを作っていたのが印象的だった。

皆、静かに、サイババ師の 講義を聞いていた。

サイババ師は講義でアートマという人間の本質を説いた。

その言葉を私は2012年に自然治癒力セラピー協会を立ち上げたとき

に正式な協会の名前として登録しようとした。

”アートマセラピー協会”と名前を付けた。

ところが、”アートマ”という言葉が当時はインターネットの索引検索

にも出てこなかったため、内閣府の担当部署から却下された。

その理由はアートマという”意味不明”な用語があるからといわれた。

ところが、昨今、印度の古典聖典のヴェーダやヨガスートラに

出てくる用語、アートマンとアートマなど、いろいろ

な人によって、解説されていたのには喜ばしい変化だと、嬉しく思った。

 

スワミ(サイババ師)は高等教育は受けていないのにかかわらず、

その講義には冒頭から美しいサンスクリット語のヴェーダの

フレーズが幾つも歌うように、スワミの口から語られた。

これから数回にわたり、私が学んだ、不二一元論説を、皆様と

一緒にシェアーしていけたらと願う。

それが自然治癒力の想念学的エネルギーの根本になっている

が、前にもお話ししたように、当時はまだ”アートマ”という言葉すら

意味不明の言葉として理解されない時代だったから、ブログに書く

こともためらわれた

が、今は世間が一転しているように思う。求道精神の高まりと

ヴェーダに対する興味、ヨガの実践者が増えて、真理への探究心が

深まってきているように思える。

さて、今日のお話しはブラフマンという言葉について・・・

 

①全宇宙は”ブラフマン”から出現した。そして、元の”ブラフマン”

に帰融するだろう。

”ブラフマン”の支配を超えた場所がはたして存在するだろうか? 

兄弟よ、純粋のサットヴァなるものを見よ!

 

このフレーズはスワミが美しく歌うように、講話の初めに語りかけ

聞かせる部分である。

ブラフマンというのは、正式には

サティアム・ジナナム・アナタンム・ブラムハと言う。 

ブラフマンはスワミはここでは固有の神をさすのではなく、

真理の存在”と語った。ブラフマンは永遠であり、真理であり、

変わらない普遍的な存在であることから、ヴェーダーンダ

哲学では、同義語とされている。

 

どんなに科学技術が発達して、人類の物質的進歩が著しく促進されても、

人間に内在している神性の尊厳が蝕まれているとスワミは嘆く。

学識があり、物質的に成功した人がインドでももてはやされて、

現代の社会のリーダーたちは、”真理”と”正義”を放棄した、学歴の

在る人たちによって占められつつあり、彼らは上辺は”国家を守る”

と言いながら、実はインドに害を及ぼしているとスワミは講義の中

で嘆いた。

 

人生の本来の目標、それらは4つある。4つのプルシャルダと呼ぶ。

それらはダルマ(正しい行為)、アルタ(富カーマ(欲望)そして

モクシャ(解脱解放)である。

人間の体でいえば、ダルマは足にあたり、モクシャは頭にあたる。

最終的にアルタやカーマなどの物質から解き放され解脱を得るために、

正しい道へ進んでいく足を持たなければならない。

 

スワミはここで聴衆の注意を喚起した。それは

”人は、アルタとカーマだけを渇望しているのでその結果、社会と

国家全体に無秩序と不安定を生み出す原因になっている”と。 

ダルマ(正しい行為)は忘れられ、真理への回帰は無視され、

人間性も健全に身体とともに成長することが難しい世の中になって

きているというのだ。

 

人間性の正常な成長にはサムスクリティ(文化)への理解が

必要だという。

サムスクリティの語源はサムスクリタムで、この意味は、

あらゆる物体を人間が使えるようにするために改善し

磨きをかける過程”というニュアンスがある。

喩えれば、稲を食卓に米として載せるまでの過程のようなもの。

刈った稲を束にして脱穀する。

それから米粒を

もみ殻から分離させる。

叩いたりウスにかけて玄米から皮を取り除く。小石や雑草の種子

など不要なものを取り除き米をきれいに洗う。

こうしたサムスクリティ(仕上げ)は人間の教育に当てはまると

スワミは語った。

生まれたままの状態から、内在の神聖な人間性を開花させるために、

学問的知識のほかに内面を、脱穀してもみ殻を取るが如く、

エゴや動物的資質などを取り除いていく作業が必要だと教えた。

 

神聖な人間性の中でも特に〝愛”の尊さを説いた。

そして愛ある行為を実行するためには、ダルマを守ることに

通じると言った。

ダルマとはある慣習や形式を守って正しい行いをしていくという

意味だけではなく、もっと広義にとらえられた。

つまり、想念と言葉と行為の調和、一致である。想いだけでは

ダルマは果たせられない、想いがあっても、それが言葉と裏腹

であればダルマは成立しない。

想いと言葉で表現しても、それを行動に移せなければ、ダルマ

にはならないのだ。

この三つの要素をトリカラナ(行動のための三つの道具)と呼び、

ダルマを成す人の三つのトリカラナは純粋性と調和がとられて

いることが第一条件とされた。

 

真理、ダルマ、その次に大切な言葉がアートマである。

ブラフマンとアートマは同義語である。それはアートマは不変

であるから。肉体が滅びても滅びないもの。

自分は誰か?何者か?エゴか?肉体の意識とは何か?

アートマ意識とは何か?

人は神なり、とヴェーダ哲学では説く。それなら、なぜ、こんなに

現象では人間は、不完全なのか?

アートマの自覚で生きるためにどうしたら良いのか?・・・

スワミはその後の講義でそれを説く。

 

この序章の最後に、スワミはインドに残る精神遺産を

次の三つの言葉にまとめた。

それは、”カルマ(普遍的義務)”ヨーガ”(心を制御して神と融合すると)、

ティアガ”(現世の執着を断つこと)。

つまり、カルマの遂行を現世の執着をはがしながら、神と融合

することによって行う資質のある国民性が印度人の特性と賛美した。

これは、決してインドだけの話ではなく、私たちすべて、地球人

として生まれたこの星の上での生活の中で、そうした性質を実現して

行く目標でもあるのだと思った。

 

 

 

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癌細胞の意義と極道の道

2021年02月12日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

極道と遊佐 学氏のリーチアウト         2020.2/12

************************************************

 

興味あるドキュメント番組だった。 

ノンフィクション番組、そこにで、実名で登場した遊佐 学氏

元極道の彼が、今は、救いの手を差し伸べる側に立った。


何度か刑務所に服役した彼だったが、同じような経歴を持ち

出所して、当たり前の人生を生きようとしている同胞たちに、

温かく手を差し伸べていく姿を追っていた。 


刑務所から出てまた元の生活に戻らないよう、自立できるように

20代の若者から60代の年配者まで、情熱を持って、真摯に社会復帰

を助けるテーマのドキュメントだった。

2週にわたり、日曜日昼間にフジ系のチャンネルで放映された。

このブログ執筆時は令和2年11月1日

 

このドキュメントに感動を覚えたのは、誰でも無垢で

生まれてきたにもかかわらず、成長過程で家庭環境や教育影響から、

覚せい剤を覚え、極道の道という歪んだ生活に入って行ってしまう人

を追い、実際そうした道を歩んで更生した遊佐 学氏が彼らに、

理解と愛の手を精いっぱい差し伸べている姿だった。

 

唐突な発想に、このドキュメントは私の考えを飛躍させた。

それは、まだ10代の若者が、そうした道に入っていく姿は、

健康な細胞が、癌細胞へと変化していく様と重なったからだ。


ある意味、”癌細胞”は反社会的なこうした人たち

喩えられるのかもしれない。


大半の人たちは、社会ルールを守りつつ、自己制御しているが、

反社会的と非難される人たちは、社会になかなか適応できず、

そうした仲間同士で固まってしまう。

そして、暴力団などの餌食になるという場合があるからだ。

そうして 次第に、心身が麻薬などの薬に侵されて行ってしまう。

 

癌細胞も同様、普通の細胞と違い、自分の行動を制御できない。

だから、臓器をはみ出してもさらに増殖していける。 


規則正しく、分化し、成長しようとする細胞は、ES細胞

といわれ一般的な自己抑制できる人達と似ている。

一方、癌細胞は社会的規範を破り、周囲に迷惑を与える

厄介な人たちのように、”困った細胞”である。

 

癌細胞と、極道の道と、その意義ということに関して、

山中教授の万能細胞のお話を少し、させていただきたい。


IPS細胞という有り難い細胞が造られるとき、癌細胞になる

過程と、とても似た段階を経るということだ。

そして、紙一重の違いで、有益な細胞になるか癌細胞になるか、

その所がとても微妙であることが明確になった。

             

 2012年、京都大学IPS細胞研究所所長の山中伸弥教授は 

IPS細胞の開発により、皮膚の細胞に、4つの遺伝子を

導入させることで、万能細胞と同じ働きを確立した。

 

万能細胞は、生物の胎児期という発生過程でしか存在しない

もので、ES細胞と呼ばれ、これが生長とともに、神経や皮膚、

消化器などの臓器へと分化していく。

 

胎児期の段階で、ES細胞を取り出すためには、これまでは

胎児を傷つける可能性が問題とされたが、山中教授のIPS細胞

の開発により、万能細胞と同じ働きを即す方法がわかった。

結果、この研究が、倫理的問題の一つをクリアーして

より深めることが可能になった。

 

話を戻すと、無法者に喩えられた癌細胞の遺伝子が、

山中教授のIPS細胞開発初期で、使用された4つの遺伝子の

一つに含まれていた、という驚くべき事実があるという。


どういうことなのか?

山中教授は立花隆氏との対談で次のように語っている。

(“立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む”)

 

“IPS細胞を作る過程でもやはり癌が起こる過程、

プロセスと本当に重複している。 

よく似ている。

本当に紙一重と強く感じています。 

だから、両極端の細胞のように思われ有るのですが、

実際は、本当によく似ている。 

同じものの、表と裏をみているんじゃないかと

思えるくらいですから。”

 

“結局、再生能力というのは、ガンになるのと紙一重だと

思うのです。

だから、高い再生能力を持っているということは、

その生物の足がくれたら、確かに足が生えてくるかも

しれないが、同時にガンがすごくできやすいと

言うことなんじゃないかと・・・“(引用終わり)

 

IPS細胞ができる過程と、ガン細胞ができる過程とは

紙一重ぐらいの相違しかないと言う。

言い変えれば、再生能力を高く持つということは癌になりやすい、

という言葉の裏返しかもしれない。

 

IPSの治療が期待されている反面、臨床応用に足踏みする

理由の一つが、この“がん化”の問題だという。


万能細胞と、がん細胞がコイン裏と表のようによく似ている

としても、決定的に異なることは、万能細胞の遺伝子は

正常に分化する過程で、全体的に調和をもって行われるのに

対してがん細胞の遺伝子には異常があるため、それが

できないということだ。

 

正常な万能細胞遺伝子によって、体内のさまざまな臓器に

分化していったはずが、分化とは真逆に、また、胎児期の

未分化の細胞に戻って行こうとするのががん細胞の特徴と

いえる。

 

ところが、冒頭に述べたような 暴走族の副総長や

歌舞伎町のやくざであった、遊佐 学氏が刑務所から出て、

突然、まわりが讃嘆するような社会的貢献を始めた

のは、極道の道を歩いた人ほど、ある意味、とても良い人

になる可能性があるということなのだろう。


これは、ガン細胞も、元来の正常な細胞に戻ることが可能だ

という科学的事実と似ている。

 

先ほどの立花隆氏との対談で、山中教授はこういう。

“がん細胞は、不死化したらそのままだったのですけども、

ハーバードの先生のお仕事で、がん細胞であっても、違う細胞、

万能細胞に替えられることが分かったんです。


遺伝子の傷、遺伝子の異常というのは、変わらないのですが、

その遺伝子異常があるにもかかわらず、4つの遺伝子を入れると、

違う種類の細胞に変わるということが示されたのです。“(引用終わり)

 

つまり、ガン細胞も変わることが可能ということ。

その厄介な細胞が、再生力を持つ、万能細胞に替えられる

ことができるというのは画期的なことだ。

4つの遺伝子を入れることで、万能細胞に変わり得るという。

 

この最新科学と、遊佐 学氏の話の共通項は一つ。

誰もが避けたい”ガン細胞”も、扱い方では”再生細胞”に

変化するように、どんなに悪人極道人でも、人間生まれた

時の純なる無垢なる“神の子”という資質を発揮できると

ことだろう。 

 

どんなにアウトロー的な生き方をしてきた極道人でも、

それまでの自分が嘘だったように、まるで。それまでは

悪夢をみていたように、新しい人生の局面が広がると

いうことだ。


新しい舞台の幕があがる。

遊佐 学氏の地道な元極道の人たちに社会的援助を

差し伸べる姿は、IPSのまさに再生細胞と同じように、

触れた人たちの心を緩やかに変えて行く、大きな力が

あると感じた。

 

 

 

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自然治癒力が出る人、出ない人?

2021年02月06日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

症状を上手に活用すること・・恐怖心に勝つこと・ 2021年2月6日

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前回、父の癌宣告の反応について書かせていただいた。

宣告を受けるまでは、父は、退院できると確信して希望を持って、リハビリに

精を出していた。

それは、それまで何度か危機的状況があったのだが自己治癒力を信じて、

実際に改善にいたっていたからだった。

 

”ガンで死ぬのだ”と父がそう想い、その言葉を口に出した時、自然治癒力も

しぼんでしまった。

自然治癒力を発揮するにはどのような想念の背景があるのだろうか? 

そのことを少し考えてみたい。

 

1)”症状の活用”という意味を知る

自然治癒力が出るときは、当然、治癒すべき異変が体に起きている時だ。 

身体の五官で症状をその異変を自覚したときは、”何か病気になったかも

しれない”と感じる。

早期発見が大切だと、主治医に相談したり、検査をしたりするのが普通

かもしれない。

ところが、自然治癒力に頼ろうとする人は、このとき少し違う角度で考える。

”病気にかかりそう、かかったかな?”と思う代わりに、そ症状が出たと

いうこと=自然治癒力にエンジンがかかったと考える。

 

たとえば、風邪の症状一つとっても”自然治癒力”を使って治そうとする人と、

そうでない人との反応は違う。

前者は、顕れた症状の熱や咳などをむしろ歓迎する。熱や咳、痰や腹下しさえ、

自然治癒力にいよる浄化作用だと受け取ることができるからだ。

それはそれまでの体験による場合が多いだろう。

少なくとも恐怖(どうなっていくのだろう?増々悪化したらどうしよう?)

の意識はそこにはない。

 

症状によって、身体の中の”つまり”部分がほぐれ、気の流れも、スムースになる

ために体が自然活動してくれていると理解できる。

そのため、熱や咳、などの症状を抑え込もうとせず、むしろ、安心してその症状

が身体の外に、だしきれるように、症状を受け入れるのだ。 

 

一方、後者、つまり、自然治癒力と現れている”病的な症状”を結び付けて

考えない人の場合、は症状が出ると動揺する。

不安がますからだ。そのため、熱が上がってきたり、咳が激しくなってきたら、

まず、症状を抑える処置をとる。

対症療法として、薬をとり症状が治まれば、風邪も良くなったと安堵する

それで良いではないかと反論する方たちもいるだろう。

それで満足できない理由が次のように、自然治癒力を頼りとする人にはある。

 

同じように症状が無い状態に持っていく、つまり、快癒したように見えた風邪でも、

自然治癒力を頼った人と西洋医学の薬で症状を抑えた人との間に、ある違いがある。

前者の身体はしなやかに順気が回るようになるが、後者はまだ、詰まりが解けて

いない体質のためその後遺症がどこかに出てくる可能性があるということだ。

 

薬で一時的に抑えても、また機会があれば同じような症状が出てきたりするのは、

根本が改善されていないからだろう。

自然治癒力で身体を変容させると、さらに強靭な免疫や代謝組織が蘇(よみがえ)

るので、根本が改善され再発はない。

体が変わるからだ。

言い換えれば身体は健康になる術(すべ)を知っているから病になる~とも

いえる。その症状が改善されることで身体はより一層、元気になれる、これが、

”症状の活用”と呼ぶことである。

 

但し、対症療法で毎回、体の症状を押さえ続けていると、こんがらがった毛糸

の束を解くときのように、一筋なわでは簡単に健全な体に戻ることが難しくなる。

そのために、いきなり、ドンと正真正銘の”病”に向き合うことがあるかもしれない。

あるいは、そうならないように、病になる前に、五臓六腑に症状として出てくる

こともあるだろう。

こうして、複雑な症状になればなるほど西洋医学の助けを人は多く選択して

いくのが普通だ。

 

アートマセラピーやほかの代替えセラピーは、整体や気功が基になっているようだ。

どれも、目的は、体の凝りやつまりといわれる、順気の経路にある障害を取り除くこと

にあるが、薬で抑えて取り除かないままでいると、或る年月を経て、地層のよう

堆積されていく。

気がついたときは、こんがらがった毛糸同様、簡単にはそれが解けないほど固くなり、

身体の臓器や器官に影響を与え”病”となって発症する。

それはまるで、思わぬ時に、詰まった水道管の水が劣化して薄くなった

導管部分を突き破って、炸裂するように、体も詰まって弱くなった箇所から

”長年の間、溜めこまれた凝り”を排出しようとして

想いがけないときに、自覚症状となって体に現れたりするリスクが前者と

比べてあるのだろう。

 

それは、成人病であったり、心身症であったり、脳梗塞であったすること

があるかもしれない。

以前ブログで”風邪を上手に乗り切る人は、脳梗塞になりにくい”ということ

を取り上げた。

風邪の症状は ある意味、自然治癒のプロセスが 始まったこと意味している。

だから、上手に風邪をひけば、体は以前にもまして柔軟に活性化される。

風邪は早めに直せといわれるが、治りがけのほうが肝腎で、それは真の回復は、

上手に症状をだしきれるかどうかにかかっているからだ。

 

上手に症状を出し切ったとき、体質は改善されている。

大晦日の大掃除のように、体も時として、不純物を放下し体調を整える。 

それが季節の変わりめにひく”風邪”であったりする。

 

[2]”恐怖に勝つ”という意味

誰もが、風邪をひけば、重くならないよう手を講じることを考える。

無意識の中に、考えている。症状が悪化してくると、恐怖心も 湧いてくる。

この恐怖心というのは”くせ者”だ。

この感情は多くの無数の他者の潜在意識に積み上げられてきた

人類意識の中にある、”恐れの反映”であることが多い。恐怖心は集合的意識が

作り上げたものといえるだろう。

 

症状が悪化することはある意味、免疫力が働いて熱が出たり、咳き込んだりして、

身体の生命力(プラーナ)の流れを潤滑にするために、詰まっている細胞の中を

開こうとするから頭痛や腹痛などがひきおこされている~という。

頭痛や熱などで不安が湧いてきたとき、反対にそう信じられると、恐怖心を

克服して改善をみることができる。

いわゆる、自然治癒力がそのようなメンタル状態の時に活発化される。

この考え方は、キリスト教科学の創始者である、エディ夫人も同様で、

自著で次のように語っている。

 

”Science reverses the false testimony of the physical senses,

and by this reversal mortals arrive at the fundamental facts of being."

 

セラピー協会訳)科学(法則)は、肉体的感覚の誤った証言を返す、

そして逆転に返すことで人は、存在の基本的事実に到達する。(以上)

 

ここでの”科学(法則)”という言い回し、これは”近代科学”をさしているのではなく、

クリスチャンサイアンスの サイアンス(科学)を指している。 

つまり、”肉体が感知する感覚をひっくり返す”ことで”死にゆく運命”である私たちは、

”存在の本当の事実”に到達するとエディ夫人は言うのだ。

 

恐怖心は、肉体が感知する感覚の一つだろう。 

それを一度ひっくり返してみると、むしろ恐怖心の裏にある、厳然たる”存在”を

知ることになる。

その存在こそ、自然治癒力を発動させる私たちの持つ”本来の生命”の力だとも

いえるだろう。

 

彼女は健康とその論理について、私たちの本質である、実相の心=生命力の根源 

との関係を踏まえてこう語る:

 

”Health is not a condition of matter,but of Mind; nor can the material senses bear 

reliable testimony on the subject of health. 

The Science of Mind-healing shows it to be impossible for aught but Mind to testifytruly

 or to exhibit the real status of man.Therefore the divine rinciple of Science, reversing 

the testimonyof the physical senses, reversing the testimony of the physical senses, 

reveals man as harmoniously existent in Truth, which is the only basis of health;

and thus Sciencedenies all disease,heals the sick, overthrows false evidence,

 and refutes materialistic logic."     

         

 協会訳)健康は物質の状態ではなく、実相の心(Mind)

そのままの顕現状態である。

物質的感覚は健康の問題に信頼すべき証言を与えることはできない。

真の心以外には この癒しの法則を証言することも、人の真なる(健康なる)状態を

顕わすこともできない。

だから、この科学(法則)の聖なる原理は、肉体的感覚のもたらす言葉を

逆手にとり人は、真理と大調和の中に存在していること、そしてその自覚こそ、

健康の礎であり、病は実存しないという、この法則の基を 明らかにした上で、

唯物的論理を 否定する。

これにより、病は癒され、物質的虚言は除かれ、唯物的理論は遠ざかる。(以上)

 

難しい表現をしているが、痰的に言えば、肉体的な症状の苦痛は本当の意味で

真実を伝えていないということ。

先に(1)で書いたように、症状は本来の生命力が今活躍し始めて健康に体を

持って行こうとしている反応だ~と考えて、逆さにその痛みに対する解釈ができる。

 

さらに、それを信じられた人は、本当の健康がどういうものか身をもって

体験できるだろう。

つまり、自分の身体のエネルギーを想念(信念)コントロールしながら、

”身体は物質である”という一般常識や恐怖心を飛び越えることができる、

とエディー夫人は自らの体験から教えている。

 

 

参考引用)

Science and Health With Key to the Scriptures

by Mary Baker Eddy

published by The First Church of Christ, Scientest,

in Boston, Massachusetts, U.S.A, 1982 edition

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父の癌宣告と死のあとで、

2021年02月01日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

近藤博士のセコンドオピニオン  2021年2月1日

************************** 

果たして、ほんとうに父は、癌であったのか? 

癌宣告は必要だったのだろうか?

慶応大学病院の近藤医師は、”癌だ”と、医師に宣言されても、

気にすることないと著書で述べている。

しかし、父にとっては、それは死刑宣告のようなものだった。

生きる意欲を剥ぐのには一番強い、言葉だった。

 

近藤医師は、温存療法という、切らないで、癌の部位を

”ほっとく”療法を薦め、これまでの癌への常識に新しい見解

を示している。

 

私がもう少しこれらの情報を得ていれば、又、癌に対する違う

観方を父に話してあげられたのかもしれない。

例えば、癌は早期発見が大事というが、近藤医師は こう主張する。

 

”本物の癌ならそれ以前に血液にのって、あちこちに転移しています。

0.1ミリでも転移する脳直があるほど、癌細胞は強力です。

分子生物学の研究が進んで、’癌は当初から転移する能力がある。

がんが大きくなってから、転移するという説は間違い’と判明

しています。

 

今の医学でどんなに、早期にがんを発見できても、直径1センチ

前後になっている。

そのとき すでに癌細胞は最低でも10億個に増えて、とっくに、

転移もし終えています。

世間でいう、早期がんは癌の一生の中では熟年に差し掛かって

いるんです。”

 

しかし、人の寿命はあるのだろう。もし、こうしたことを父が理解

したとしても、癌に対して恐怖心をある程度払拭できたとしていても、

運命的寿命というのは、あるのかもしれないと思う。

が、まだ寿命に達していない若い方たちには以下のような近藤医師の

言葉は、勇気を与えられるだろう。

 

癌病巣には 直径1mmの時点で、約100万個の癌細胞があるという。


さらに、本物の癌なら、それ以前にすでに血液に乗って、あちこちに

転移しているはずだという。

なぜなら0.1mmの癌細胞でも、転移するには十分な力を持っている

からだ。近藤医師は臨床データをあげてこれをさらに裏付けて言う。

 

”胃癌を手術しなかった、患者の生存率の複数のデータで、

抗がん剤を使った人、免疫療法をした人、の5年生存率はどちらも

20%以下”としたうえで、”治療を何もしなかった人のほうが

はるかに長生きで、50%” という数字を出していると発表している。

 

近藤医師は乳がんの専門家である。

”僕の経験でも、他病院で組織や細胞の検査をして、’乳がんです。

乳房を切除します’と言われて、相談に来た人の標本を取り寄せ、

病理医に再度診断してもらうと、’良性’に変更されることが

しょっちゅうあります”

と著書に述べているが、20年前は日本での乳がん手術の1割以上、

年間2千人が良性なのに、乳房が切除されていたと推定されて

いたらしい。

 

MRIや精密検査のデータに基づくことがない所見を基に、

癌宣告を受けた父の、”それから”を今、振返り、つくづく、

’お医者さんへの全面お任せ主義’は、できたら避けるべき

ことだと感じている。

 

一方では、 ’自分の身は自分で守れる’という良い意味の

自己中心主義を貫くことも大切だと思う。

が、切羽詰まったところ、西洋医学にしか頼ることができない

場合もあるだろう。

その時は、セコンドオピニオンを求めたりして、自分自身が納得

できる処置を講じるということが”自分の身を守る”一歩かもしれない。

 

癌宣告、余命宣告を受けても、家族も本人も、冷静に受け止め、

データや一般論とは異なる展開も実際存在するという実例を知り、

改めて自分の生命力を信じながら心安静に、少しでも長い余命に

転じることも可能だということだ

 

もちろん、運命的な寿命、いわゆる天命も存在するのだろう。

いわば、自分で自分の体を、天命まで如何に健康に保っていくか・・・

それが一番肝心なところだが、”心身一如”であることを知れば、

おのずから、その時々の対応は、病の裏にある、本当の原因を知る

ことで、対応できていけるだろう。

 

健康への目の付け所は、少なくても他人(医師)任せにするのでは

なく、”心と体”の関係を知り、自分自身が行う”内見”という、

日頃の訓練にかかってきているようにも思える。

 

 

 

引用箇所) ”医者に殺されない47の心得” 

近藤誠著 2013、 株)アスコム

 

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