mind と heart の違いと現世での安寧
***************************2016.7、30(2017.7.8 改訂)
“controlling the senses and enjoying
the sense-objects without attraction
or repulsion, the self-controlled person
experiences the inner peace.
All his miseries die in the inner peace.
Soon, his mind becomes purified and
establishes itself well in the inner peace.”
(2-64 ,65)
ここで 先回の続きで クリシュナはアルジュナに
五官感覚が対象とするものと心の安寧の関係を話す
“五官(眼、耳、鼻、舌、意~げんじびぜっしんに~)
の世界で自己抑制し、それがもたらす対象の喜びに
浸ることなければ、心の安寧を得る。
その心の奥にある平和の中にはすべての不幸も
消えてしまう。
だから、その(肉体に所属する)心~mind~は
浄化され、内なる安寧の境地に安らぐのだ。”
*********
般若心経で “無眼耳鼻舌意”と出てくる箇所ある。
それは前からつながっていて、'空'の定義の最後に
述べられている。
“空中 無色無受想行識”のあとに続く言葉だ。
空 の中には 物質はあるように見えて無い、
受ける想いも行動もそれに伴う認識も無い~
と定義したうえで、
出てくるのが“無眼耳鼻舌意”である。
なぜなら、眼も耳も鼻も舌も意(こころ)も
ないのだから。。。ということは、
視たり、聞いたり、話したり、食べたり、
考えたりすることは実際は現象世界の
五感の感覚情報が基となり、創り上げられて
いるだけだから。
ここでクリシュナの上の言葉を読むと、この現象
世界、今生きているこの場で起こる様々な
喜びに見える五官機能の誘惑を自己規制して、
その奥にある 真の喜びを探しなさいという
ことになる。
その心の奥にある喜び、それが、心の安寧に
結びつくのだと。
般若心経の最初の文言、
“観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空”
というフレーズが思い浮かぶ。
私は 観自在 という言葉を、自ら在る菩薩
と考える。
一般では ’観世音菩薩様’ が という主語を
当てているようだが、誰でも、真理(般若)を
求めるものは 実は’菩薩’であると考えられて
いる。
だから、特定の菩薩ではなく、全対象の中で、
特に、”自在(自らの存在)を観る(内側から
追及していく)”修業をしている菩薩という意味に
あえて解釈したのだ。
般若は智慧、波羅はバラというサンスクリットの
漢字音訳だ。
偉大なという意味だ。
蜜多は [サンスクリット語のミイターの漢字音訳]
で、悟りの世界に行くということだ。
簡単に言えば、上記の青線の般若心経のフレーズの
意味は、
悟りにつながる大いなる智慧を心の内に深く観じたとき、
五蘊(五つの世界を創ったとされる元素、すなわち、
そら(空)、風、水、土、火、 という、ヒトの体に
転じた自然要素は、すべて、空であることを
照見(しょうけん=明らかに理解した)した
ということになる。
ヴェーダ思想の、クリシュナの言葉でいえば、
五官機能の世界の喜びをコントロールして、
内奥の神とつながる大いなる智慧に直結する
真の自分に繋がれたということになる。
続いて
“All his miseries die in the inner peace. Soon,
his mind becomes purified and establishes
itself well in the inner peace.”
意味)心に安寧を見出したら、人の不幸はなくなる
彼の心は浄化され、心の平穏の中に新たに
確立されるからだ。
とクリシュナは述べているが、この言葉の行間の
意味について考えてみると、意味深い。
その般若(バンニャー=覚りを開く智慧)によって
もたらされる、心の内なる平穏の中にすべての
不幸は消滅するというが、実際、不幸は五官の機能
がもたらす、有る種の錯覚が造りだしているのだから、
本来あるように見えて無いものだと いうことになる。
ということは、心奥底に存在する”安寧”こそ、本物の
実在で、 実在とは光のように 暗闇を照らし、
すべてを明らかにするものだ。
それと対比される、不安の元になっている不幸
とは、その実在の光の影にすぎず、
光が 五官で得た錯覚というスクリーンに当たり
そこに現れた影のような存在であるということも
言えるだろう。
光が多く当たる部屋、置いてあるモノが少なければ
それだけ、光が多く当たり、光が安寧と平和の
シンボルとしたら、すでにそこには影は消滅して
いるのだ。
こうして、その人は purify されると クリシュナ
はいう。
Purifyという意味は浄化と訳したが、含蓄としては、
邪魔なマイナス要素が取り除かれていく過程をさす
のだろう。
喩えれば、部屋に置かれた、いらない家具が
整理されていくのに似ている。
つまり、顛倒妄想という 五官機能の錯覚、
が取り除かれていくことを比喩している。
こうして、purifyされていくことしか、本来の
心の落ち着きと安心という居場所をつくる方法
はないのだろう。
よく言われるところの、物質やお金や地位が豊か
でも 心は飢餓状態であるという状況がつくられ
たり、それによって、平安を得たいと願っても
むしろ、逆方向に、空回りする理由がそこに
あるのだろう。
His mind という英語が 日本語で訳せば 彼の心
となる部分だ。
英語では 心には、少なくてもMind(マインド)と
heart(ハート)の二つの言葉がある。
前者は、頭で考える理性のある心の働き、
後者は 日本語でいうところの
“心のこもったおもてなし”のような 本来、
日本人が大切にする、心のイメージだ。
クリシュナの登場するギータは小ヴェーダと
いわれるが、膨大な聖なる文献ヴェーダ哲学の
中では 心はさらに分けられる。
それが、
アートマ、
アハンカーラ、
チッタ、
ブッディ、
マナス
と呼ばれるものだが、
アートマは神的資質の 空(くう)的な心、
宇宙意思とつながり、ここから、すべてが
生まれる。
アハンカーラは 自分は、物質的な存在であると
いうことと、
他者と自分の分別意識をもたせる心 の働きを持つ。
小我と訳す場合があるが、アートマを大我とすれば
エゴ意識のある小我かもしれない。
ブッディは 般若(バンニャー)というアートマ、
空に直結する智慧につながる心、
チッタは潜在意識の中で、これまで積まれてきた
多くの経験がすべて詰まって 事に及んだばあい、
この場合どうすべきかという反射的答えを出す心、
マナスは五官によってもろに影響を受ける、
感覚的な心ではあるが情操的である。
クリシュナは his mind が 心の平和と安寧
に定着するというと述べるが、
この場合の心は、現世で生きて行くときに知性や
経験を活用しながら働く心をさしていると思われる。
つまり、現世のシガラミを受けながらも、私たちは
自分の心の目をどこに向けて行くか、その心に沿った
行動が伴うかによって、心の安寧を得れるか否かが
決まるようだ。