自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

般若心経を心に浮かべて クリシュナの言葉(2)

2016年07月30日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 mind と heart の違いと現世での安寧

***************************2016.7、30(2017.7.8 改訂)

インド神無料画像 に対する画像結果

 

“controlling the senses and enjoying 

the sense-objects without attraction 

or repulsion, the self-controlled person 

experiences the inner peace.

 All his miseries die in the inner peace. 

Soon, his mind becomes purified and 

establishes itself well in the inner peace.”

(2-64 ,65)

 

ここで 先回の続きで クリシュナはアルジュナに 

五官感覚が対象とするものと心の安寧の関係を話す

“五官(眼、耳、鼻、舌、意~げんじびぜっしんに~)

の世界で自己抑制し、それがもたらす対象の喜びに

浸ることなければ、心の安寧を得る。 


その心の奥にある平和の中にはすべての不幸も

消えてしまう。 

だから、その(肉体に所属する)心~mind~は

浄化され、内なる安寧の境地に安らぐのだ。”

********* 

般若心経で “無眼耳鼻舌意”と出てくる箇所ある。 


それは前からつながっていて、'空'の定義の最後に

述べられている。 

“空中 無色無受想行識”のあとに続く言葉だ。


空 の中には 物質はあるように見えて無い、

受ける想いも行動もそれに伴う認識も無い~

と定義したうえで、

出てくるのが“無眼耳鼻舌意”である。 


なぜなら、眼も耳も鼻も舌も意(こころ)も

ないのだから。。。ということは、

視たり、聞いたり、話したり、食べたり、

考えたりすることは実際は現象世界の

五感の感覚情報が基となり、創り上げられて

いるだけだから。


ここでクリシュナの上の言葉を読むと、この現象

世界、今生きているこの場で起こる様々な 

喜びに見える五官機能の誘惑を自己規制して、

その奥にある 真の喜びを探しなさいという

ことになる。 


その心の奥にある喜び、それが、心の安寧に

結びつくのだと。 

 

般若心経の最初の文言

“観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空”

というフレーズが思い浮かぶ。 


私は 観自在 という言葉を、自ら在る菩薩 

と考える。 

一般では ’観世音菩薩様’ が という主語を

当てているようだが、誰でも、真理(般若)を

求めるものは 実は’菩薩’であると考えられて

いる。 


だから、特定の菩薩ではなく、全対象の中で、

特に、”自在(自らの存在)を観る(内側から

追及していく)”修業をしている菩薩という意味に

あえて解釈したのだ。

 

般若は智慧、波羅はバラというサンスクリットの

漢字音訳だ。 

偉大なという意味だ。 


蜜多は [サンスクリット語のミイターの漢字音訳]

で、悟りの世界に行くということだ。 


簡単に言えば、上記の青線の般若心経のフレーズの

意味は、

悟りにつながる大いなる智慧を心の内に深く観じたとき

五蘊(五つの世界を創ったとされる元素、すなわち、

そら(空)、風、水、土、火、 という、ヒトの体に

転じた自然要素は、すべて、空であることを 

照見(しょうけん=明らかに理解した)した

ということになる。

 

ヴェーダ思想の、クリシュナの言葉でいえば、

五官機能の世界の喜びをコントロールして、 

内奥の神とつながる大いなる智慧に直結する 

真の自分に繋がれたということになる。


続いて

“All his miseries die in the inner peace. Soon, 

his mind becomes purified and establishes 

itself well in the inner peace.”

意味)心に安寧を見出したら、人の不幸はなくなる

彼の心は浄化され、心の平穏の中に新たに

確立されるからだ。


とクリシュナは述べているが、この言葉の行間の

意味について考えてみると、意味深い。


その般若(バンニャー=覚りを開く智慧)によって

もたらされる、心の内なる平穏の中にすべての

不幸は消滅するというが、実際、不幸は五官の機能

がもたらす、有る種の錯覚が造りだしているのだから、

本来あるように見えて無いものだと いうことになる。 


ということは、心奥底に存在する”安寧”こそ、本物の

実在で、 実在とは光のように 暗闇を照らし、

すべてを明らかにするものだ。


それと対比される、不安の元になっている不幸

とは、その実在の光の影にすぎず、

光が 五官で得た錯覚というスクリーンに当たり

そこに現れた影のような存在であるということも

言えるだろう。 


光が多く当たる部屋、置いてあるモノが少なければ

それだけ、光が多く当たり、光が安寧と平和の

シンボルとしたら、すでにそこには影は消滅して

いるのだ。 


こうして、その人は purify されると クリシュナ

はいう。 

Purifyという意味は浄化と訳したが、含蓄としては、

邪魔なマイナス要素が取り除かれていく過程をさす

のだろう。


喩えれば、部屋に置かれた、いらない家具が 

整理されていくのに似ている。


つまり、顛倒妄想という 五官機能の錯覚、

が取り除かれていくことを比喩している。  


こうして、purifyされていくことしか、本来の

心の落ち着きと安心という居場所をつくる方法

はないのだろう。 


よく言われるところの、物質やお金や地位が豊か

でも 心は飢餓状態であるという状況がつくられ

たり、それによって、平安を得たいと願っても 

むしろ、逆方向に、空回りする理由がそこに

あるのだろう。

 

His mind という英語が 日本語で訳せば 彼の心 

となる部分だ。 


英語では 心には、少なくてもMind(マインド)と 

heart(ハート)の二つの言葉がある。 

前者は、頭で考える理性のある心の働き、

後者は 日本語でいうところの 

“心のこもったおもてなし”のような 本来、

日本人が大切にする、心のイメージだ。 


クリシュナの登場するギータは小ヴェーダと

いわれるが、膨大な聖なる文献ヴェーダ哲学の

中では 心はさらに分けられる。 


それが、

アートマ、

アハンカーラ、

チッタ、

ブッディ、

マナス

と呼ばれるものだが、

アートマは神的資質の 空(くう)的な心、

宇宙意思とつながり、ここから、すべてが

生まれる。 


アハンカーラは 自分は、物質的な存在であると

いうことと、

他者と自分の分別意識をもたせる心 の働きを持つ。

小我と訳す場合があるが、アートマを大我とすれば

エゴ意識のある小我かもしれない。 


ブッディは 般若(バンニャー)というアートマ、

空に直結する智慧につながる心、

チッタは潜在意識の中で、これまで積まれてきた

多くの経験がすべて詰まって 事に及んだばあい、

この場合どうすべきかという反射的答えを出す心、

マナスは五官によってもろに影響を受ける、

感覚的な心ではあるが情操的である。

 

クリシュナは his mind が 心の平和と安寧

に定着するというと述べるが、

この場合の心は、現世で生きて行くときに知性や

経験を活用しながら働く心をさしていると思われる。 


つまり、現世のシガラミを受けながらも、私たちは 

自分の心の目をどこに向けて行くか、その心に沿った

行動が伴うかによって、心の安寧を得れるか否かが

決まるようだ。

 

 

 

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般若心経とクリシュナの言葉(1) 

2016年07月25日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

  

怒りと期待とテロリスト 

2016.7.25 (2017.9.8 改訂版)

*************************************

7月13日 お盆初日にご先祖様への迎え火を

焚いたお宅も多いだろう。

日本の寺ではこの日(もしくは前)に俗にいう

“おせがき”、施食会(せじきえ)を行う所が多いが 

その式で、必ず唱えられるお経の一つに 般若心経 

がある。


このお経は宗派を問わず、広く お唱えされているのも、

この短いお経の文言のなかにこそ、仏教の、あるいは、

真理の奥義がひそんでいるからだと思う。


意味はともかく、色即是空 空即是色 という

フレーズは 日本人の心の片隅に残っている。 


空(くう)という言葉の深淵な響きは 何となく、

日本人の文化に浸透しているので、誰もが

受け入れやすいことだろう。

 

印度のギータという書物の中で、クリシュナが、アルジュナ

に諭す言葉の中には 仏教の原点となっている

言葉が少なくない。 


お釈迦様が修行され、悟りにたどるまでは、当時の

インドはバラモン教が主体信仰だったから、仏教の

根っこには、インドの古代からの教えが、養分として

吸い上げられていると思う。

クリシュナは、ヒンズー教が確立される前、

お釈迦様が生まれる数千年前、

存在していたマトラ―国の王家の1人であり、

マトラーを流れるヤムナ川は、ガンジス川と並び、

クリシュナの伝説が残る 聖なる河でもある。


今日はそんなクリシュナの言葉を 

ギータ(ヴァカバッド・ギータ)から

ご紹介したい。


先回は“ムニ”と呼ばれる覚り人の定義の一つを

書いたが、その続きとなる。


“When a person focuses on an item (an object, 

a thought or whatever), he connects with it. 

This connection - sticking together – gives birth 

to desire. 

Desire leads to anger. Ager gives rise to confusion, 

and confusion to loss of understanding. 

Unable to understand, he loses his discrimination 

and perishes “ (2-64,65)

 

いきなり、空 という概念は、ここにはない。 

その前段階の説明部分だ。

上のクリシュナの言葉を 少々 般若心経で

使われている言葉に置き換えて訳して

みるとわかりやすい。

 

“人が 対象物に焦点を合わすと、それが、

モノにしろ、考え方にしろ)、その対象と同化する。 


この関係、つまり、執着が 欲望を生み出す。 

欲望は怒りを生み、怒りは顛倒妄想 を膨らませ、

顛倒妄想が般若(サンスクリット語のバンニャーの

漢字音訳で、バンニャーは悟りにつながる智慧)

を理解することを、困難にさせる。 

そして、人は認識力を失い、死んでいく。”

 

人は、心の中で対象物に想いを注いだとき、

その注がれた対象に対して 多かれ少なかれ 

執着が生まれる下地がつくられる。 


ここでは connect という英語で訳されている

から、その想いには、ケアーや愛情、大切である

という感情が含まれているのだろう。 


対象は ヒトやモノとは限らず、信条や、教義、

主義などにもあてはまる。


昨今のイスラム国のテロ活動は インドのお隣、

人種としては戦前まではインド国であった、印度

ベンガル州の イスラム教徒が多く住むパキスタンの

高級レストランでの乱射事件で日本人が7人も

殺害された。


彼らのテロ活動は、一般的なつつましいイスラム教徒

たちからみれば やはり我々同様に、不可解で 

イスラム教に対して悪いイメージを世界に与えていると

批判的に感じる信者たちがほとんどであること

は事実だ。  

 

ここでの行為は、クリシュナの言葉でいえば 

過激的・破壊的思想をテロリスト達は、自分自身

と同化させてしまっていたほど、信じていたので、

その信念は 大きなエネルギーを含み、

“怒りを生む” 最たる状況まで膨らんでいたの

だろう。


“こうでなければならない。”という信条が強ければ

強いほど、そのようになるべきという願望は 

一種の欲望となり、そうならない場合、

たとえば、’穏健に話しあう’という選択がとれなくなる。


さらに、その不満は、嵩じて、その国の社会的システム

を壊すほかないと思うほどの”怒り”が生まれる。


心理学的に言っても、怒りというのは 

“自分の期待にそぐわない” 時に生じるものだ。 

本人は、無意識でも、相手はこう出るだろうと期待

していたところ、そうでなかったとき、失望ととも

怒りが生まれたという経験は多くの人が

もっているだろう。


八つ当たりするときは、そんな心持になっているはずだ。

思惑どおりコトが運ばないとき、そういう時は重なる

もので、ついつい、“なんで、そうなるの?!”と

不満の感情を内に抑え、周囲の人には 

イライラした言葉使いで物言うときはない

だろうか?


家族に対して、友人に対して・・・所詮、怒りとか 

怒る とか、腹立たしい という感情の原因は、

自分の期待に逸れたという裏返しのことが多いのだ。


怒りは、ここで、クリシュナは述べていないが、

悲しみや憎しみ、などの マイナスの感情の

連鎖となる。 


般若心経では そうした、感情を、妄想と呼び、

心の平穏からどんどん引き離す性質から、

顛倒妄想(てんどうもうそう)と詠っている。


その要素になっているのは、執着、期待、怒り、

思い込み、不安、等の感情が 連鎖的につながっていて

執着は人生につまずいて、転ぶ、(顛倒)要因とされる。

 

クリシュナは このフレーズの最後でこう述べている。

・he loses his discrimination and perishes


認識を失い、死に至る と訳したが、本当はもっと

含蓄のある言葉だ。 


Discriminationという英語は 何が正しくて、

何が偽物かというものを見分けることをいう。 

自分とは? 

本来の素晴らしい自分とは? 

自信と活気と、プラスの思考に満ちた自分とは? 

と問いかけ続け、一歩立ち止まり、間をおいて、

冷静になれば、事が大きくならないはずだ。


顛倒妄想 に翻弄され、本来の自分を見失った

まま生きていると、最後は、perish~滅びる。

Perish とは 不幸な死を意味する。 


顛倒妄想に翻弄されてわけのわからないまま 

肉体の死を迎える。


とすれば、 この英語のもつ他の意味、消滅する 

という意訳をあてはめた方が死ぬという訳より 

ぴったりするのかもしれない。


その人は自分を見失ったまま、放浪することに

なるだろう。 

自分の本来の居場所の消滅、本来の自分らしい

プラスな生き方の消滅ともいえる。

 

般若心経でも だから、“無色無受想行識”と念を

おしている。

私たちが肉体の五感で受け取るわずかな情報を

そのまま信じて、行動することなかれ。 

なぜなら、そのような、五感認識でとらえられる、

物質(五官で認識するモノやそれで構成される世界)

は 無い のと等しく、真に存在していない

(刹那的な存在)のだから。


対象や現象から受ける感覚器官から翻訳される

情報を信じて、妄想を生むなかれ。


妄想は、執着を生みやすいのだから、

執着がどこかにある心持が、高まっての

行動は慎むべし。


妄想・執着などが、心の原動力(主体)となって

人が動いている限り、行為の結果は、プラスの実

を結ぶことはなく 熟していない美味しくない実が

なるだけだ。 


そのような、うらなりの果実は市場に出される前に

捨てられてしまうのと同様 妄想に支えられていた

対象や結果は、存在していたように見えていただけ

の 刹那的存在物に過ぎない。

 

妄想は究極的に実在しないものなのだ~という意味

は、そういうプロセスにのせて考えると、

わかりやすいと思う。

 

クリシュナは、このことを行間に含ませて、次の

言葉を続けて行くのである。

 

続~

 

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”muni“(サンスクリット語で大覚者の意味)はどういう人

2016年07月21日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 

結果を求めないということ   2016・7・21

**********************************

クリシュナはアルジュナに言う。

“自分のとるべき行動を成せ。

ただし、結果を求めるな。結果を求めるために 

行動を起こすのではなく 

なすべきことを為して、結果を待つ。 


愛するアルジュナよ、総てにおいて行動する基盤

にこの考え方を徹底しなさい。 


結果に執着するなかれ。

そうすれば勝っても負けても、汝の心に平和を維持

することができるだろう。


そうして得られた心の安寧こそ、真の意味で

神とつながるということなのだ、 


結果を求めずしてなされる善き行いは

報酬や期待する結果を予期して行う

ことより、はるかに、勝っている。”

 

私たちは資本主義経済社会にいるから、

働きとそれに見合う報酬は当たり前。

労働代価は当然伴うもので、近代社会となって、

生活は様々な発明によって、

便利に快適になってきている。 


先般、スイスで、一律に生活保障として20万円余

を国民に保障するかどうかの国民投票が行われた

が、働かない人たちに保障する意味がないという

ことで却下された。 


自由に働けば働いただけ、賃金が多くなる方が

人の働き甲斐が増して競争力と

技術力の進歩が在るのだろう。


一方、そうした 労働=報酬、サーヴィス=対価

という仕組社会で、何か行動する前にそれに

見合う結果(報酬)を要求することが 実は 

心の安寧を深い所で得ることができない

ジレンマになってくることがある~というのが

今日のクリシュナのお話し。 

 

そういう社会に 不適応を感じる人たちも

決して少なくは無いのだろう。

不適応を感ずれば、ストレスとなって体に響く。


鬱病や成人病といわれる病も心の抱える、

抑圧されたストレスから来ている

ことは近年、提唱されているところだ。

 

ここで、クリシュナはアルジュナに 何かを

行う時、その、“結果を求めるな”と言う。 


戦国時代の武将たちのように、戦(いくさ)に

勝って、領土や石(こく)数を主君から増やして

もらうことを期待して闘うことは 筋が違うと

クリシュナは言っているのだろうか?

現代には;そぐわない教えだと反論する人も

いるかもしれない。

 

その意味は、“自分の心の良心(神の声)に

行いを捧げる” 気持ちで どんな小さな行動でも

誠意とともに行う~

ということが本来のクリシュナの言う意味だ。


そういう心持であれば、どんな結果を伴うと

しても、それこそが唯一 自分の心の安寧(あんねい)

と平和をもたらすのだとクリシュナは言う。


それは、決して闘いの場だけの事ではなく、

職場や家庭の中でも、どんな仕事をする時でも、

“相手の中に住む、神に奉仕させていただく”

と意識するだけで、同じことをしていても

心のこもった、愛のある、相手に喜ばれる、

意味あるものに代わるに違いない。 


“こうしたら、こういう結果が 得られる”と

考えて行うとしたら、たとえそれがほんの一瞬の

期待であっても、どこか、欺瞞的で自己満足的な、

偽善になる恐れがあるのだろう。

 

無心で自己の為すべきところの事を責任もって

遂行する~これが、クリシュナの言う

結果を求めるな”いう意味なのだろう。

 

世捨て人という言葉がある。 

是は、世の中をななめに構えてみている

人の事だけではない。 

世の中の現世的な価値観にあまり、束縛される

ことなく、自分の内側にある“本当の自分の声

と対話しながら、生きている人をも指す。 


そういう人たちは平凡な人として、たぶん大勢、

国の内外を問わず、生きている。 


時々、身を挺して、相手を助けようと 自ら

犠牲になって命を落としたり、殉職したり、

利害抜きに災害で苦しむ人たちに手を差し

伸べたり 社会の片隅に存在している。

そういう人こそ、”結果を求めない”人として、

頭が下がる思いだ。

 

“The learned, doing their work with a firmly 

established  attitude of giving  up attachment

 to the result of their work, get released from 

the bondage of birth 

(第2章47~53の一節]

クリシュナの言葉訳)

こうして結果への執着を棄て、自らの仕事を遂行

する者が、この世のしがらみから解放される。“

 

ヴェーダの教えではこの考え方は重要だ。

ヴェーダ哲学では、 人生の根本的目標は神と自己

との同一化、もしくは、神との一体化であるから 

いかなる執着も、その妨げとなる。 

 

自分を守ること、家族を守ること、財産を守ること、

健康を守ること、名誉を守ること、守ることが

多くて、それらへの執着を棄てることは、

責任を持っているからこそ、難しいと思うのが

良識というものだ。

 

クリシュナの言葉は、空回りするエンジンの

ような実現性の薄い響きを持つように聞こえる

人が多いだろう。


ヴェーダ哲学では、僧侶などの特別な人生を歩む

以外の人達へ、人生の4段階を認め、子供たちが

独立し、親から離れ、ある程度 生活の基盤が

できたならあとは 世捨て人のように、

“最後の人生の目的”を想いだし寧の境地を求めて、

生きることが推奨される。 


富も性欲も、家族の繁栄も、勉学と並んで 推奨

されるそれぞれの時期がある。

 

昨今、日本でも、退職後、田舎暮らしと称して、

都会を離れ、自給自足生活をしながら、自然の

中で老後を送る人たちが少なくないと聞く。 


まさに、そういう人たちは、平和な環境に自然

の中で、安寧ある暮らしを求めて、ある意味、

最後の人生の段階を 有意義に構築しているような

気がする。

 

ここで結果を求めるなと教えられたアルジュナは

クリシュナに質問する。

“ケイシャバ!(クリシュナの別名)。 

どのようにしたら、そうした確固たる智慧、

内なる本当の自分につながる

ことができるのですか? 

そういう賢者はどのような様相をしていますか? 

歩き方も異なりますか?”

(2章54節)

 

以下はクリシュナの答え:

“小我の持つ欲望から離れ、内在する真の

自己の喜ばしい存在感を体感した者が‘自己の内在

と固く結ばれた者’と呼ばれる。 


その時、彼は不幸に落ち込むこともなく、

現世的な快楽を求めることも無くなる。 

自然と無執着になるのだ。


恐れや 怒りから解放され 確実に智慧を備えた

‘ムニ(muni)’と呼ばれる存在となる。”

 

そのムニはどのような人をさすのか?。

“何処にいてもその無執着は変化ない。 

人生の場面で、遭遇する喜び事や悲しむべきこと

に左右され 快不快を感じることはない。

彼の智慧は彼の心に浸透しているから。 


亀が甲羅の中に手足を隠してしまうように、

彼の心は、五感の感覚機能で感じる対象から

切り離されているようなものだ。 


そこには対象と五官感覚は存在しても、ムニが

自らの意識を引き離した時、

存在していないかのように

どこかへ吹き飛んで行ってしまうかのように、

彼に影響を与えることは無いのだ。 


彼は、真の自分自身の内在者との連結感を

味わっているだけだ。

その感じこそ、総ての外界の魅力的な対象物

をも意味がないものと感じさせるのだ。”

(2章55~59)

 

若いときは、勉学時期を終え、子供をもうけ、

学を与え、そのための富を蓄え 

そして 夫婦二人になったとき、あるいは

人生一人になったとき、静かな環境で自分自身を

観想しながら本当の自分を見つめる、~ 


これが先ほど述べた人生最後の段階として

理想的と 印度では考えられていた。


少なくても 高齢化社会になり、平均寿命が

延びている今、退職しても十分そうした時間は

とれそうである。

 


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ハリーポッターとクリシュナとの共通性 ~ 後編

2016年07月15日 | 健康のための心の波動

言葉は魔法    2016・7・15

***********************

タッチ, 神様, ギフト, 救済, 友情, 激励, 父子

 

前回の続きから=

森に入ると、死の覚悟ができたハリーは 

それまで 手にしていた 

“命の再生”と書かれたの小さな入れ物を 

こじ開けた。 


中から小さな虫のようなものが出てきた。

それが彼の体につくと、突如、亡くなった

母親や父親、など数人が

彼を取り囲んでいるのが見えた。


その取り込みの中から、ハリーの母は

懐かしそうにハリーを見て言う。

いつも私たちはあなたの傍にいたわ。” 


ハリーは尋ねる。 

“死ぬときはつらいの? 苦しいの?” 

守護霊のひとりが答える。 

“眠りに入る瞬間より短いよ。” 

ハリーはこうした力強い、母を含む、守護霊たちに

懇願する

“(これから死のうとする)ぼくの傍にいてね。”

 

+++++

 その続き~

森の奥には黒の世界の首領と家来たちが 

今か今かとハリーを待ち構えている。 

ハリーが現れた。 


ハリーが一人に対し、悪魔の仲間たちが大勢

見守る中、首領との闘いはアッと言う間に

終わったかのようだった。 


ハリーは首領の放つ、魔法の矢の閃光に

撃たれて死んだように体を横たえた。 

しかし、その実、彼の魂は天上に上っていた。 

瞬間のうちに、たぶん、臨死体験をしていたのだろう。

 

天上をさまよう、ハリーの眼前に、尊敬する、

すでに亡くなっている長老の師が現れる。 

師はハリーの勇敢さを称え、状況を説明しようとするが、

ハリーはなかなか合点がいかない。 


“先生、今、お話ししていることや起きている

ことは、自分の頭の中で造ったものなのですか? 

それとも、本当に現実のこととして起こって

いるのですか?”


師は答える。

そりゃあ、もちろん、ハリー、お前の頭の中で

起きていることだよ。”


そして意味ありげに付け加えた。

だが、それが現実ではないとは言えないがな・・”


“先生、だとしたら、私は戻らなければならない。

あの大蛇も生きている。あの首領を倒していない。 

みんなのために戻らなければ。”


その時、小さな醜い赤子で瀕死の形相で苦しそうに、

うごめいている得体の知れない知らない生き物が

ハリーの眼に入った。


あれは先生、なんですか?” と聞くハリーに

あれだけは、我々も助けてあげることはできない

と先生は答えた。 


その得体のしれない、その赤子の姿こそ、実は、

悪魔の首領の一部であった。

母親を殺そうと戦ったとき、母の傍に寝かされて

いた赤子のハリーの魂に、くっついていた悪魔の

分霊は、ハリーの身体が臨死状態にあって、ともに

天界にきたのだった。


首領はハリーを殺すことで、自分の一部も同時に、

葬(ほうむ)ったのだ。

 

その分霊が死の世界に来たことで、ハリーは 

真にハリー自身に戻った。

穢れ~業(カルマ)が取れたのだった。

********

その意味では、クリシュナの言う、一元の世界に、

ハリーは帰ったのだった。 

自分自身、本当の自分、穢れのない、真の力

を発揮できるハリー自身になったのだ。 


そんなハリーに長老は話しかける:

さあ、お前が選択できるのだ。 

ここは駅のようなものだから、どの列車に

乗るかはお前が選択できる。”


ハリーは再び、母・尊敬する長老の師・母

を守り続け 悪魔に忠誠を誓うように見えていた

元の師らの仇を撃つために、多くの友人たちが

犠牲になった魔法学校を守るために、

真の自分に返った今、地上に戻ることを

決意した。

 

其の頃、現象界では 森の中で悪魔たちに

囲まれ 倒れている死体と化したハリーが 

無言で息なく横たわっていた。 

臨死である。 


気を失ってはいたものの、今こそ、新しく生まれ

変わったハリーの生命は、天上での体験を得て、

肉体に戻ろうとしている矢先でもあった。


そんなハリーを死んだと思い込んだ、

悪魔の首領は満足気に、意気揚々とハリーの

(一時的な)亡きがらを捕虜の大男にかつがせて、

殆ど、悪魔との闘いで 壊滅状態になった

魔法学校の人々の前に顕れる。


悪魔の統領は声を上げる;

“見るが良い。ハリーは死んだ。 

さあ、私の基(もと)へ来い、来ないやつは皆殺しだ。”

どよめく学校関係者たち。 


息絶えたハリーを見て、悲しむ生徒たち。


一人の生徒がよろよろと立ちあがり、決死の覚悟

で悪魔の首領に立ち向かう。


“何を言いたいのかね?” と その生徒に、

からかうように問う悪の首領に、

その学生は果敢に言葉で挑む。


ハリーの体は死んだかもしれない。

しかし、彼の魂は此処に生きている。”

と自分の胸を指し示す。


肉体は滅びても、多くのお前に殺された友人

たちとともに、みんな、この心に生きているんだ。”

その時だった。 


この勇気ある生徒の言葉の波動の力を受けたように、

ハリーは大男の腕の中で、突然目を覚まし、

完全に生き返り、立ち上がり、周囲を驚かす。


そして渾身の力を振りしぼって、友人仲間と

ともに、悪魔と大蛇とに、最後の闘いに挑むと

いう設定だった。

********


コトバの波動、それは、魔法でもあった、

長老も語っていた。“人を殺すも生かすも言葉だ。” 

これは現代も生きている魔法だろう。 


目に見えないが、一番確実に我々の行動を導く

指針の波動である。


自分で、だから、絶えず、善い波動 プラスの

波動を無言の言葉で胸に語りかけていることは

周囲の様々な負の波動に対して自分を守ること

でもある。


自分の周囲を矢のように飛び交っている様々な

念の波動、特に、マイナス波動を防御する、

防波堤になることだろう。

 

そして、長老の魂は、臨死体験の時にハリーに言う。

“憐れむべき者は死者ではない。

生きている者だ。

それも、愛を知らずに生きているものこそ、

憐れむべき存在だ、ハリー“

 

ヒトは死を恐れるが、結局、眠るより速い一瞬

のうちに幽体となって別の世界で生きること。


生命は不滅であるということ。

悪は結局、あの世(幽界)では あの醜い悶え

苦しむ赤子のように実体のないこと。 


愛に生きた者だけが、幽界では その愛と勇気の

分だけの、パワー[生命力]と活力を

感じられること。


ハリーポッターは 悪の分霊を一掃するために 

果敢に、自らの死を選んだ。


私たちにとっても、死というのはそういう

役目をもっているかもしれないということ。 

いろいろな意味で生まれ変わりを意味すると

いうこと。 


私たちが悪の分霊を受けているとき、あるいは、

自業(じごう)として積み重ねてきた悪を一層する

ためには、この肉体の死をもって、それを

清算する必要が時には、あるのだろう。


いわゆる 自業自得(じごうじとく)、文字通り、

その言葉の意味通りだ。


クリシュナの話と一見かけ離れた、ハリーポッター

の世界のようだが、共通項はあるような気がする。 


悪魔と闘う、ハリーポッターの話は、

”クルックシェトラ(クリシュナとアルジュナが敵と

闘った広場の場所)の闘い”のイギリス版である。


愛のために、それが この闘いの共通する意義

のようだ。 

人々を救うために、より良い世界をつくるために・・・

大きな愛の存在がそこにある。 


果敢に戦う。死を恐れない。

これこそ、クリシュナがアルジュナに説き

聞かせていたことでもある。

本来、死はないのだから。 


身体を失っても、万が一負けても、永遠に

人々の心に生きることができ、

アルジュナの魂も永遠に名誉とともに 

幽界に行くことができると 

クリシュナは 戦場に挑む前に 知人恩人たちを

”殺す”ことを、恐れるアルジュナに説いた。


それではクリシュナは このハリーポッターの

世界では誰だったのだろう?

ハリーか?


否、ハリーを導く、彼の勇気と良心そのもの

だったのだろう。


それを象徴するように、ハリーはこの首領を

倒して、首領の使っていた“世界一強い魔法の棒”

を手にする。 


ハリーの親友はつぶやく。

“どうしよう。

何でも無敵になるこの棒を手にして、これから

僕たちはどうしたらよいのだろう。” 


ハリーは冷静に その棒を 二つに折って、

谷間に投げ捨てた。

魔法の棒、不敵の棒、そんなのは必要ない。


もっと強いものを彼は彼自身の中に見出していた

のだろう。

私たち誰もの心に、クリシュナは生きて存在して

いるとギータで述べている。


この放映されたハリーポッターの映画を見て

どこかでそれがつながった。


人が持つ愛と勇気を、 無意識にこの映画は 

観る人の潜在意識の中に奮い立たせる・・・


たぶん、そこがハリーポッターの勇敢さに 

多くのファンを掴む理由の一つかもしれないとも

思った。 


この映画に流れていたテーマは、古代から現代に

通じる人間が探し求めてきた、”普遍性”への答えだから。

 

 

 

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ハリーポッターとクリシュナ神の共通性(前)

2016年07月11日 | 健康のための心の波動

 

***********************************************

勇気と愛と良心に従ったハリー・ポッターが

人の心を打つ 2016・7・11

******************

イギリスは心霊科学が盛んな国と聞いていた。

そのイギリス生まれのハリーポッターシリーズの

息の長さの秘密。


それを垣間見たような映画の地上波放映が

6月24日にあった。 

イギリスのみならず、西洋諸国のスピリチュアルな

世界に興味ある人たちの中には、印度に来て 

ギータの講座を受けたり、バカヴァッド・ギータ

の英訳を読んでいるとも聞いていた。 


私がインドで暮らしていた頃、オランダから

パ二ラ・ラ・ラオさんという友人の父上が拙宅を

訪問、古代インド聖地ヴァラナシからの

帰りで、そこでギータの講習会に参加したと

語った。

 

余談だが、パ二ラは当時、オランダの放送局で

ニュースキャスターをしていて、

印度南部に取材に来た折、わざわざ自由時間に

飛行機でデリーの拙宅に会いに来てくれたこと

があった。


それから数年後、私がオランダに遊びにいったとき、

結婚して坊やが授かった彼女に会いに行った。 

話を戻すと、彼女の父上はギータの中のクリシュナの

教えは非常に西洋人の彼にとっても、興味あること

だと当時語った。


オランダでこうした草の根的なクリシュナ研究が

進んでいて、心霊学会では有名な英国では、

ハリー・ポッターの作品が生まれる下地があっても

おかしくないと感じたのも、そんな昔のことを

思い出したからだ。 

 

そんな折、ハリーポッターシリーズのたぶん最終編

にあたる映画をテレビで見て、印象的だった。 

あまり、このシリーズ映画を見ていないので、

毎回登場していたであろう、レギュラー登場人物に

詳しくないが、内容をご存じのかたも多いだろう。


途中からTVをつけてみた場面、それは、

ハリーが最終的に倒さなければならない悪魔の首領

(名前は忘れた)と巨大なニシキヘビだか、ガラガラ蛇

か定かではないが、大蛇を常に横にはべらせて 

黒の世界に君臨している“のっぺらぼう”の顔をした

悪魔の首領との決闘場面だった。


そこへ向かうときハリーは 彼自身の誕生の

場面からの回想碌のヴィジョンを見せられる。


そのヴィジョンは ハリーに悪の頭領と闘うこと、

そして、その時訪れるであろう、ハリーの死が

映っていた。


ヴィジョンの中に、彼の母が、悪の首領に

殺される場面や、ハリーの尊敬する学校の長老の

師が なぜ、母を守ろうとしたハリーの元教師に

よって殺されなければならなかったかの理由を知る。


さらに、その際 長老が元師に語った言葉、

ハリーが生まれてきた背景や、幼い赤子のハリーの前

で母が死を目前に語った言葉、

長老を殺すことになった魔法学校の元師が、ずーっと、

ハリーの母を守ろうとしていた背景、


何よりも、ハリー自身、

その黒い世界の悪の首領の“分霊箱”であったという

衝撃的な事実が明らかになった。 

 

今は亡き長老の師は その魔術で見せられる、

ヴィジョン回想録の中で次のように、明言した;


“ハリーは、しかるべき時に死ななければならない。 

悪の首領(今、森で対決しようとしている)に

殺されてこそ意味があるのだ。 


ハリーの心の一部に、そやつの心の片鱗が住みついている。

だから、ハリーは蛇の言葉がわかるし、意思疎通

できるのだ”

 

その言葉の意味の大きさと道理を、ハリーはこのとき、

はっきり、心に受け止めたのだった。


親友たちが止めるのをふりきり、こうした

一連のヴィジョンを見てから自らの死を覚悟した

リーは森へ向かう。

+++++++++

 

ここまで見て、この脚本を書いた人の心霊的智慧

の想像力の豊かさに感銘を受けた。


さらに、何故、ギータを思い出したのかも

自分なりにその回答は出た。


ハリーは 正当な正義に貫かれた魔法伝統を

悪魔から守ることのできる代表者だった。 

それはクリシュナの智慧によって勇気づけられ、

正義のために戦うアルジュナの姿と重なった。 


かつ、ハリーは自分自身が持つ恐るべき

生誕時の秘密を知る。 

母親が、悪魔の頭領に命を絶たれんとするとき、

何かの刺激で破片となって空中に浮遊した

その悪魔のエネルギーが 母親のそばで寝ていた

赤子のハリーの魂に、同化したというヴィジョン

こそ、それであった。 


ハリーは、正義を貫く正当な魔法使いの権威を

持った青年であると同時に、悪魔の心もどこかで

わかる波動を宿していたのだ。 


これはクリシュナがアルジュナに説くところの、

私たち人間として生まれた時に持つ

定めの”二元性”だ。 


誰にでも、善と悪、美と醜、などの極端な価値観

が心の奥底に秘められているものなのだ。


悪を見ず、善を見ろ、悪を語らず、善を語れ、

悪を聞かず、善を聴け!


という 見ざる聞かざる言わざるの あの

猿の彫刻が我々に忠告を発するのも、こうした

人間の嵯峨(さが)に対してだろう。  


悪は本来存在しないもの、光の影にすぎない~

光を見なさい、とクリシュナはアルジュナに語る。


ハリーも自分は死ぬのだ という覚悟を抱き 

死への恐れを多少持ちつつ、果敢に悪の当主を

倒すには、自分も死ななければならないことを知る。 


そうでなければ、善き魔法が使える 善良な者たち

の世界が滅びてしまうからだ。

 

その森に入っていくと さらに、物語は

ドラマティックな展開となり、

ギータの世界をまた、彷彿を思い出させる

シーンが出てくる。


後編に続く~

 ++++++++++

 

不滅, 魂, 不死, 精神的です, 霊性, 神様, 信念, 男, 電源, 作成

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