自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ユングの曼荼羅観一考

2017年11月29日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

曼荼羅の数々 

******************************2017.11.29

 C.G.ユング氏の意見はこのブログで、以前、’曼荼羅と東洋思想への傾倒’

というユングの姿勢とともに少し話題にさせていただいた。

 

”人間心理と宗教‘”(*1)の中で、ユングは’近代心理学によって、

我々は個人的無意識は単なる上面にすぎず、その下には、

これとは全然性質を異にした基盤が横たわっていることを書いた。

この基盤が集合的無意識(kollektives unbewuβtes)である。’ 

とユングは述べているが、

集合的無意識 を 曼荼羅 に重ねて次のようにも、述べている。

 

” 無意識の研究によって、その存在が確認せられ当ている

もろもろの神話的モチーフはそれ自身としては、多元的構造を

もっているが、この多元的構造の極まるところは、重点を

中心部に置いた体系であり、これこそ、集合的無意識の中心、

あるいは、体質をなしている。 

近代心理学が挙げた成果とヨーガによる認識との間のこの

注意すべき一致からして、私は、この心的象徴の呼び名として、

’円‘を意味する、サンスクリット語の ’曼荼羅‘ の言葉を用いた“(以上)

 

曼荼羅(まんだら)はいろいろなモチーフがあるようだが、

インドで多くみかけたそれは、仏教曼荼羅の構図とは少し趣を

異にしていた。

ユングの言うように、一つの中心点があり、それが円形にさまざまな

デザインをもって、広がりを見せていく構図になっている。

 

たとえば、下のようなモチーフは、比較的インドで見られる図柄に思う。

このモチーフを元にして、その上を花びらで覆い、たとえば、

シタールの師匠の演奏会などには、会場入口に神聖な神へ捧げる

インド音楽の象徴をこめて、グルジーの奥様と一緒に この曼荼羅を

下地にして、バラの花びらを使い、演出したことを思い出す

 

曼荼羅無料イラスト に対する画像結果

 

ここで注目したいのは、ユングが述べているところの、

この曼荼羅のデザインの臍(へそ)にあたる、中心点だ。

中心点がなければ、曼荼羅は成立しない。 

重心は中心に集まり、さらに、その力は まんべんなく

周囲の模様にバランスよく振り分けられて、小さいサイズ

から大きいサイズまで描くことが可能だ。

この曼荼羅の中心点の意識、それを、”集合無意識の中心と体質” 

とユングは重ね合わせた。

我々の意識の奥底はこの無意識の集合意識で、繋がっているという。

この共通意識をさらに深めると、宗教的意識の根底となる、

他者一体意識・宇宙意識につながるのだろう。

曼荼羅を使って、瞑想の内に、その中心点を心の内面の深層に

あるに目をむけながら 奥に奥にと探っていく・・・それは、

インドでの瞑想法のひとつであるといえるだろう。

 

曼荼羅無料イラスト に対する画像結果曼荼羅無料イラスト に対する画像結果曼荼羅無料イラスト に対する画像結果

 

そこに行きつく、意識とその時感じるものは何か? 

そのような方法で、自分の現在意識と内奥の無意識の

中心点とが重なった時、

人は、自分の中に果てしない大きな距離を持つ二つの心の

存在を知るに違いない。

 

二元的世界に生きる、現実対応意識と、この深淵な曼荼羅の

中心点に象徴される宇宙意識の二つだ。 

両方とも、生きている今の自分には不可欠な意識であるのだろう

が、特に、後者の意識は大方の人たちは忘れて生きているし、

忘れていても、現実生活には支障がないのだから、当然かもしれない、。

 一方、仏教に曼荼羅が伝わると、少し様子が異なってくる。 

たとえば、密教の曼荼羅の概念は、その中に入って、“諸仏諸尊自受法楽の

るつぼの中に直参するという考え方に変わる。

だから、立方体、つまり、立体曼荼羅として、建物自体がすでに

曼荼羅であり、その中で修法を行う。 

 

ジャワのボロブドゥルの立体的曼荼羅は世界的に有名なようだ。

日本では、図絵として諸尊を平面的に、修行者の方に向くような

構図で描かれている。

有名な胎蔵界曼荼羅では、真ん中に中台八葉院が描かれ、その周りに、

釈迦院、金剛手院、持明院、観音院などが描かれ、さらに外枠を文殊院、

除蓋障院、地蔵院、などが取り巻き、下記のような曼荼羅となる。

  

胎蔵界曼荼羅絵図

正直なところ、私にはちんぷんかんぷんな絵図であり、その下には

右から不動明王、降三世明王、般若菩薩、大威徳明王、勝三世明王

が描かれているのだが、どのように、瞑想で活用するのか、

想像がつかない。

 

 曼荼羅無料イラスト に対する画像結果

少し、曼荼羅から離れるが、ヨギの行う、瞑想の印度のルーツは

シヴァ神にあるとされ、シヴァはヒマラヤのカイラス山(今は中国領)

で瞑想を続けていらっしゃる~と信じられている。 

多くのヨガの行者はそのため、高度3000メートル以上の山々が

連なるヒマラヤ山脈に籠り、過酷な環境の中で瞑想を中心と

した修行を現代も続けている。

 

一方、仏教として日本に伝わったヨガの瞑想法を源におく、

日本の座禅法は、インドのそれと比べると、少々異なるところが

あるようだが、以下の行は、ヨガの瞑想目的と一貫性があるよう

思えるのでご紹介したい。

 

それは、密教の五相成身観 のことだ。

密教経典に載せられているのだが、その大約としては

 ”自心を軽く霧のかかった月輪と観想し、次第に、その霧は

晴れて明朗な月輪が表れる。

 その月輪の中に金剛蓮華(こんごうれんげ)を観じ、

自らが金剛蓮華の光の中に一体となるを見て、その光の輪が

拡がり行く様を観想する。 

すると、その光ますます、輝きを増して大宇宙の法界と一体で

あるということを感じる、そののち、次第にその光の輪を狭め、

今ここに坐業している、

自分自身こそが、金剛不壊の身である光と一体であるというこ

とを認識する“という瞑想法である。

 

どこが、ヨガの瞑想と共通かといえば、自分自身のアートマ、

つまり、実相身が、宇宙を生かす大波動であるということを

悟ることが、究極の目的であることは、

インド教(ヒンズー教の大本にある、ヴェーダの教え)と

日本密教の教えの中に生きていることが、この瞑想法から

感じ取れる気がする。

   

 

 

注 (1) 浜川祥枝訳、日本経文社

 

 

 

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本来の 命を賭した瞑想とは?

2017年11月23日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

   

 仏教(密教)とヨガとタントラ 「4」  2017.11.23***********************************

 

 

先回のブログ仏教(密教)とヨガとタントラ「3」 の内容の終わりは

瞑想あるいは、定(じょう)についてだった。

インドでは現在でも、サマーディという言葉が生き生きと今も、

日常生活に残っている。

 

サマーディとは、深い瞑想の中に深淵な自分の本質、神性の大我と

一体化して悟りを得ることをさす。


分の知人の義理の父上は長年、人里離れた洞窟に籠られて

瞑想に終始し、最終的に、”サマーディの中に、悟りを得て、

そのままの姿勢で、天界に行かれた”

という話を、聞いた。

 

人里から離れたその場所へ向かうために、飛行機に乗って、現地を訪れ、

その何とも言えない空気に感銘を受けた。 

あちらでは、日本でいうところの座禅はヒンズー教徒にとっては日常的で

あることは確かなようだ。

 

一昨年、自宅でお手伝いしてくれているサントシさんとともに、

17時間かけて車で出かけたヒマラの麓にある修行所。


到着してそのまま、瞑想の行の時間に入ったが、彼女は、ほかの

行者たちとともに瞑想をはじめ、30分ほど、微動だにしなかった。


この現場を共有して、やはり、インドの人たちとっては、庶民でも

僧侶でも 日常の中に瞑想するという行為は、実に日常的である

ということがわかったような気がした。

 

日本の密教には、結跏趺坐(けっかふざ)、繁華座(はんかざ)、

薩結趺坐(さけつふざ)、などなど、何種類もその名を留める

行法があるのだが、目的によって、使い分けられてきた。

 

大日経 によると、‘蓮座は息災法に、吉祥座は増益法に 賢座は敬愛法に、

用いる’とあるが、現代にいたって、すでに多くの座法が名目だけに

とどまっていると聞いた。


とすれば、座法の名前はのこっていても、使われなくなり、残されている

説明が現実に、その座法を現代に復元するまでの詳細な記述がないと

いうこともある。

 

例えば、大日経 に吉祥座(きっしょうざ)についての記述はあるものの、

“吉祥座とは、右の脚を左の腿(もも)の上に着けるを、名付けて吉祥座

となすなり”といった程度の説明で深い意味合いがわからない。 


右足を左足にどの程度の深さで付けるのか、バランスはどうであるか、

などの詳細は実地で行う場合、指導者によって、多少の違いがあっても

不思議ではないだろう。

 

これらの瞑想するときの座法は実は、ヴェーダのウパニシャッドに詳しく

述べられている。

 

たとえば、吉祥座は原語では、“svastika-a”, 牛口座は、”gomukha-a”, 

蓮華座、“Padma-a” 獅子座は、“sinha-a”, 解脱座は”mukta-a” など、

他にもいくつかの座法がインドの最古の聖典、ヴェーダの中に記述

されている。

 

つまり、これらの座法はヴェーダの中に述べられる真理とその真理を

摂取して、解脱することを目標としている以上、本来は、ヴェーダの

述べている真理を理解することが 瞑想で得るべき本来の智慧で

あるということでもあるのだろう。

 

日本における瞑想については、残念ながら私は実際に寺で体験をした

ことはないのでわからないが、メディアで伝えられる高僧や座法の意味

などを聞く限りでは、日本風瞑想観、あるいは日本仏教的瞑想法

仏教伝来14世紀を経て、変化しているような気がしてならない。

 

先日、テレビで脳外科権威者と高僧との間で、瞑想で得るべきものは

何かという議論がされていた。


中道の精神’ ‘身心のバランス’ ‘息や体に圧力を加えず、自然体の中で

得れる無の境地’ どを得る というような結論に至っていて、

何となく聞いていてわかったようなわからないような、曖昧な表現の

多さに、ちょうど、痒いところに手が届かない、今一つの欲求不満が

残った。

 

その一つの理由としては、仏様の生きておられた時代の”瞑想”を念頭に

置くと、現代日本の飽食次代の”悟り”の切り口さに生ぬるさを感じたから

かもしれない。 

 

釈迦世尊は6年間、骨と皮にやせ細るまで瞑想に自分を捧げた。

それは‘悟り’を得るためだった。

その‘悟り’の境地を得るための手段としての行法である瞑想とは、

命を賭した、

気迫の迫る、生か死かという、ギリギリのところで座禅を組まれていた

状況は、現代のインドに16年居た私にとっては、当時の生きるための

環境を考えたとき、容易に想像できる。 

そのような気迫籠った座禅は、もしかしたら、すでに、現在では忘れ

去られた過去の様式になっているのかもしれない。

 

その当時のお釈迦様の悟りに対する、熱意と信念の一片を彷彿とさせる

ことは、現代ではなかなか、無理な話だろう。

 

このTV番組で語られる”座禅と悟り”、”瞑想で得るもの”という課題は、

平成の世の”平和で物質的に恵まれた時代”における、おおらかな’瞑想’の

主観が、主軸に伝わってきて、私が想像するところの、本来の瞑想と

ギャップが取り残されたような感が残ったのだと思う。

 

その最後の悟りを得るために、お釈迦様が、瞑想されるために籠った

岩屋を私は訪れた。

仏様は、あの、高く切り立った洞窟の中で、骨と皮にやせ細って、

それでも、黙々と観想を続けられた。 


なぜ? 悟りを得るためである。 

悟りとは? 

それは言葉で言うにはあまりにも、単純で、しかし、深淵すぎて、心で体得

する以外に手はないものでもあるだろう。

 

調和とか、バランスをとる~ための、そんな、柔軟体操のようなヨガに似た

自己満足の代物ではなかっはずだ。 

 

’悟り’を得るか、得ずば、’死を’~の覚悟で臨まれた6年間の釈迦の瞑想修行

であった。 


そして、釈迦ご本人は、バラモン教、つまり、ヴェーダの中の真理を、

しかと理解されつつ、現実の肉体を持った”我が身”がそれを”具現化”

せんがための”壮絶な修行”だったはずだ。

 

しかし、当時にも、楽をして悟りを得んとする僧たちもいたようだ。

なぜなら、お釈迦様がこうして、身体を張って、真の悟りを開く

決意をした背景には、当時の、バラモン僧侶たちの形式だけ、

上辺だけの式典重視のバラモン教の普及があったからだ。

 

バラモン教の背景にある、ヴェーダ哲学の形式解釈を良しとせず、

主流勢力ある僧侶団と離れて、1人で、孤独に、心の赴くままに、

生命をかけた、を重ねられていたのだと現地を尋ね、

その岩屋を観て、私は、なぜか実感を得た。

 

  

小高い釈尊苦行の岩屋の跡地に建てられた寺院に座って(上)      

その眼下に広がる草原の景色(下)

 

瞑想とは本来 そのような気迫せまるものであったに違いない。

自分の中を掘り下げ、さらに、掘り進み、自我を否定し、さらに、

まだ残る自分を表面に浮きだたせて、その小自我の持つ想いや識別や、

感情を捨離し、さらに、残りの一片たりとも、小自我の存在を妥協せず、

自己と向き合い、大我の自分と一体になろうとする、壮絶な自己との

闘いであったはずだ。

 

 

 

 

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自然治癒力セラピー協会の主観的支柱

2017年11月17日 | 協会ホームページ

 

釈迦牟尼が6年の苦行を経て地上生活の一歩を歩いた風景を目の前にして

2017・11・17

*********************************************

皆様、こんにちは。

以下の記事は今から5年前に書かれたものです。

今、2017年11月17日、10:15AMに各欄に一行ずつ補足させていただきました)

 

時々、古い記事を推敲するために開けるのですが、この記事を

見つけたときは、私自身少し感動しました。 


それはブログを書いている私は、肉体的メンタル要素を離れた、

深い心、つまり、私自身が自分のアートマとつながっているからでしょう。

 

こうして、5年前の自分の書いた記事の内容は、今現在の自分に、

鼓舞を与えることができるのもそうした理由からでしょう。

 

心が、揺れているとき、古いブログを開けてみるときがあります。

何かに揺さぶられている、現在意識のメンタルな状態を落ち着かせる

ために、’揺れている今の私’にとって、効果があるようです・

 

 

今年2月に訪れた、印度UP州 お釈迦様が6年苦行された岩やの僧院前で・・・

眼下には仏様が布教を始めるために降りられた、ブッダガヤ周辺の広大な

平野が広がっていました。(下記写真参考)

*************************************

11月4日(日曜日)    2012          

そのⅠ) 

幸せと、 偶然の一致は正比例します。 

願望 が叶うことが 偶然の一致ような形 であなたに訪れるからです。

偶然 が起こるのは、意思や願望が 波動で生きているからです。 

波動 が同じ波動を呼ぶのです。偶然の一致がプラスに動いていくと、

それが幸運と呼ばれたり、幸せをもたらせる出来事になったりする

のでしょう。 

     

その2) 

でも、幸せ というのはまだ、現象世界のお話しです。 

私たちが今いる世界は 二元の価値観 を持っている世界です。 

”良い・悪い” とか、”美・醜” などの対立した価値観 があり、

この現象界を、相対的二元論の世界とも、呼んでいます。

”今日は、幸せ” といえば、明日は ”不幸” が来るかもしれない。

いつまでも変わらない、ほんとうの幸せ?

それは、”本当の自分の姿” を知ることで得る”何か”と 言える

でしょうか・・・


なぜ、そうなのか? 

といえば、世界の大きな宗教の元祖も、私の学んだインドの

大師たちも、’本当の自分の姿’を知ることが、’本当の自由を得る’

ことだと喝破し、最終的なその修行の段階のゴールに、それを

目標として置いているからです。


その時には、幸せ という言葉は必要なくなるでしょう。 

なぜなら、いつも、その感情にあふれているからです。

 

その3) 

本当の自分の姿を知るということは、何かをしたり どこかに行ったり

(修行の意味)する必要はない かもしれません。

自分の中に 誰でも 本来、心の奥に、持っているのが、

本当の自分ですから、特別に肉体を痛める修行をする必要はない

ということでしょう。


仏様も洞窟で骨と皮にやせ細るまで悟りのための苦行を

なさいましたが、ある時、’それは必要ない’と思い立ち、下界、

大衆の世界に、お戻りになったのです。

 

”思い出せば” いいだけの お話しではないでしょうか?

深い意識の中でそれを”再発見”するだけのお話しです。 

本当の自分の資質を、サンスクリット語で、アートマ・Atma 

と呼びます。  

自分の心にある、仏性、神性 と同義語です。 

 

その4) 

自然治癒力 というのは、アートマ(真の自己・実相) という光り輝く

自己内在する力によっておこります。 

すべての 癒し と トランスフォーメーション(変容)の源 が 

アートマです。 

 

その5)  

苦厄(くやく)の原因は何でしょう?

それは、”自分が肉体と同一である” とみなしていること。 

その ”一過性の物・事” への ”執着” 。 

そして、一過性の 実在しないものへの ”恐れ” だと、

大覚者は言います。

だから、 ”私は誰ですか? 私の体は 誰のものですか?” 

と 振返ることがポイントだといいます。  

   

その6) 

例えば、自分の 肉体 の定義 をしてみてください。 

自分のものだと思う 理由 も考えてみてください。 

肉体を構成している材料は、宇宙に存在する物質なのに、それらは 

あなたの物だと、いえるのでしょうか?

 

その7) 

自分の意識と肉体の関係はどうでしょう? 

”自分という意識”は アハムカーラ(小さな限定自我意識)です。

自分と肉体を 同一体 と感じるのは、この、アハムカーラ が、

私たちの心と肉体を’覆(おお)っている’からです。

”自分はこの肉体の中にある。たとえば、心臓も、太陽神経チャクラも、

脳も、肉体の中にあるから 肉体が自分だ” と思い込ませて

いるからです。

 

その8) 

物質(肉体の五感で感じられる)世界は、私たちが感覚を信じることで、

できている錯覚の世界です。 

たとえば、私たちは 震度3程度 の地震を体で感じることはで

きるけれど、地球が 時速何千マイルの勢いで移動 している

ことを感じられません。 

あなたの目の前の物は すべて原子でできていること。 

原子は素粒子でできていること。 

素粒子は巨大な空のスペースをぐるぐる回っていることなど、

私たちの感覚では、つかめません。

そんな、ぎこちない、能力 しか 私たちの五感は持ち合わせて

いないのに、感覚で得た情報が、すべて真実だと、どうして、

信じることができるのでしょう?

 

その9) 

哲学者が言う ”社会的規約の催眠状態” とはこのことです。 

感覚器官で 身の回りのエネルギー体を 物質的構造、色、

音に変換してしまいます。

こうして、妄想の現実を創り上げてます。 

 

(その八) で書いたように、

物質を構成している素粒子の間の 空間の廣さ を考えると、

物質は固体で 凍結した状態だと信じていることが、そもそも、

幻想に近い錯覚です。 

こうして、私たちは、 真の自分(アートマ)の智慧で 

物事を見るのを忘れて、催眠状態の中で生きています。

 

その10) 

般若心経でいうところの ”知恵” と ”智慧”の違い、

ベーダでいうところの、”マーヤの知恵” と ”アートマの智慧”

の違い知恵は、五感を信頼するがために、肉体の眼で見えないもの・

聞こえないもの・臭いのないもの・味わえないもの・

触れる事ができないものは、存在として認めないことを基盤に、

私たちの常識を創り上げます。

      

つまり、その非存在を 合理化して、存在するように組み立てる 

常識の中の知恵を、”現世の知恵” と呼びます。 

 バンニャー(般若)の ”真理を観る智慧” や、アートマの智慧

とは異なるものです。

 

その11) 

波長や波動は 五感の感覚でとらえられません。 

私たちが関知できる、色ですら、光の波長の断片に過ぎません。

同様、肉体も固体と感じているけれど、実態は、細胞、細胞の分子、

分子の中の素粒子、素粒子の中の巨大な空間、そして、

空間の中のアートマエネルギーから成り立っています。

私たちがエネルギーの波動体であるということは、喩えれば、

透明人間のように外部世界との境界線は無いのです。 


外部世界も その実 波動エネルギー体でできている からです。 

 

その12) 

そう感じられるようになるためには、私という ”肉体自分の意識”から、

新しい自分の意識へのトランスフォーメーションが必要です。

      

自分の新しい変容を通して、自分がどこにでもいる~という感じが

つかめます。 

たとえば、あの木々の揺れている葉の中に、それを動かしている、

微妙な風の動きに、風に誘われて舞っている蝶の中に、蝶の止まる

雄蕊や雌蕊の中に、あらゆるところに自分を発見できるでしょう。

  

何故って、私は 境界線のない 命を生かすエネルギー体なのだから。 

そのエネルギー体は小さな自分だけの特別仕様ではないはず。

存在しているすべての人に植物に動物に流れる同一の力・・・

      

その13) 

 境界線をつくってしまうもの。 それが自分意識、サンスクリット語

でいうところの、ハムカーラ です。 

      

観察者であり、観察されるものであるという二元的な観方をする

主体です。 

知性がそれに加担して、理屈で非難や批判をして、

自分を責め、相手を責め、社会をせめて問題を ややこしく

させていくのです。 

      

本当は、自分の本質エネルギー体を自覚すれば、相手の本質と

同一体化することがその瞬間できるはずだから、相手に優しく

なれるでしょう。 

その時、相手も変わるのです。

 

変容(transformation)はこうして自分に相手に、そしてかかわるすべての

対象に対して連鎖していく・・・のでしょう

調和しかない世界が実現するはずなのに・・・・・

*

******追敲です。 誰かからの声なき声で、(1)の項で

 

幸せと、 偶然の一致は正比例します。 

偶然の一致は、悪い事にもあり得るという意見をいただきました。

確かにそうでした。 悪い偶然の一致 は負の連鎖ですね。

その時は、たぶん、’受け入れる’ ことで次のステップが

生まれるような気がします。

私自身、負の連鎖の新婚時代、身体的には顔と背中、腕と胸

に発疹が数年間続き、うつ病のように、家から一歩も出られず、

昼間も雨戸を閉めて真っ暗にして、横になっている毎日が続きました。


そんなとき、夫に”今を、受け入れることだよ”と言われて、

はっとしたことがありました。 


’今’を受け入れないと、’イライラ’感だけが高まって、冷静に次のステージに

向かうための積極的な心にもなれないことがわかりました。 

それからは、以前以上に、無言で常に心の中で、当時知っていいた

唯一の言霊、’人間神の子、無限力’ を唱え続け、必ず、変容

(トランスフォーメーション)=常識的な考え方の次元を超えて、

本当の自分(今いう所の、アートマ)に 代わる と信じ続けて

自分を見つめてきた結果が、今の私の環境と自分自身のようです。


負の連鎖が続いているときは、まず、それを通りすがるのを、なるべく

嵐が通り過ぎ行くように、客観的に見つめて、次の新展開が必ず、

来ることを信じて、前向きに受け入れていくのが、有効な

手段のような気がします

 

 

 

上の写真の私が見つめている位置からはこのような広大な農耕地が

広がっていました。

釈迦牟尼も、苦行の無意味さを知り、荒野に降り立つときに見た、

同じ風景だと想像すると感慨深いものがありました。

 

 

 

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三昧耶":定(じょう)と、空海の教え

2017年11月12日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 仏教(密教)とインドバラモン教の影響  2017・11・12

********************************************************

  

仏様の悟られた場所に建てられた寺院内

 

知人に僧侶の方が何人かいる。

従弟には、関西のお寺の長男もいる。

日本の僧侶たちと比べて、タイ仏教のお坊さんは

かなり戒律が徹底している。

たとえば、あちらでは、僧侶は結婚はできず、

女性と同席することもはばかれるなど、また、飲酒は

もちろん肉食は禁じられているというように、私生活の

制限は日本の僧侶より大きいようだ。


タイやスリランカ、あるいは、チベット密教(私が訪れたのは

ブータンの地であったが)のお坊さんは、托鉢して一日に二食、

小遣い金などの余剰な金銭は持たず、交通機関のバスや電車の

中で、女性がいれば、触れ合うほどの距離には近づかない。

万が一、そういう状況になっても周囲が気を使って、社会全体

僧侶の守るべき戒律を協力しているようにも見受けられた。

 

聞くところによると、それは、釈尊以来の戒律だという。 

不浄観・白骨観・数息観といわれる伝統的な瞑想を行うための、

その精神的、身体的下地が掟を守ることで作られているのだろう。

 

 その寺院で早朝の行に向かう僧侶

 

ところで、密教独自の戒を見ると、ヴェーダ哲学から明らかに影響を 

受けたと思われるサーマヤ戒(samaya)がある。 


サーマヤとは、サンスクリット語で‘等しい’という意味を持つのだが、

この戒定の意味は、‘衆生は生来、仏と等しい神聖な存在である’という

自覚を持つための戒である。 

 

サーマヤ というこの言葉を、日本に入った仏教では、漢字の

当て字を使って、"三昧耶"と記している。 


この教えを見る限り、人間の神聖な資質をアートマと呼び、

その本来の資質に目覚めることが、大覚 であるとする

ヴェーダ哲学と共通しているようだ。

 

空海は、‘三昧耶仏戒儀’の中で、次のようにその大覚を得る

ための定めを規定している。

 

1~ 正法を捨てて、邪行を起こしてはいけない定め。“ 

いわく、如来の一切の正義は、皆まさに修行し、受持し、読誦すべし。

・・もし、一法に随って(したがって)も棄拾の心を生じ、及び、

邪行を起こせば第一の波羅夷(はらい)なり

 

2~ 菩提心を捨離してはならない定め。 

“菩提心は菩薩の万行なり。・・・もし、菩提心を喪失すれば、

これを第二の波羅夷(はらい)を犯すと名づく。

 

3~一切の法において出し惜しみをしてはいけない定め 

“もし、与えざれば、三宝物を盗むに同じ、ことさらに犯すは

第三の波羅夷(はらい)なり。

 

4~不饒益(ふにょうやく)の行を衆生に行ってはならない

“菩薩は四摂(よんしょう)を修行して あまねく一切の衆生を摂して、

道に入るの因縁をなすべし。

しかるに今、かえって衆生に道をさまたぐるの因縁を起こして饒益

(にょうやく)を捨てんや。

ことさらに犯すや第四の波羅夷なり。


***************

小乗仏教でいうところの、4つの波羅夷(はらい)とは、

犯すと僧院を追われ、僧の資格を失う最大の罪とされる 

殺生・盗み・邪淫・妄語をさす。


大乗仏教では、これらは懺悔し、罰を受ければ赦されるという。 

むしろ、上記に挙げた、4つの波羅夷(はらい)を犯さないよう、

密教では教える。


平易に言えば、

一つ目は、正しい法を心して学ぶこと、

二つ目は、菩提心を捨ててはならないこと、

三つ目は、法(真理の道を説く教え)は、自己と社会のために出し

惜しみせず、活用すること、

4つ目は、法を学び、広く大衆を救うために、それを実践することで、

間違っても、衆生が道に入ろうとすることを妨げてはならない、

ということ戒律としてしめしている。

 

これらの4つの務めを正しく行うことは、密教を学ぶ菩薩には、

最も大切なミッションでもあるということだろう。


このポイントは、空海大師が、特に両部大経に付け加えられたと

される重要な四重禁戒とされるが、後世なぜか、それが抜けて、

現在に至っているという話である。

 

波羅夷(はらい)とは 漢字の音読み当て字であり、原語

サンスクリット語には“parajika” と発音されている。

 

定めとは‘さだめ’と読むと、戒定 の ‘~してはならない’と

いう掟(おきて)のように使われるが、これを、定 =じょう 

と読むと、意味が異なる。


お釈迦様は菩提樹の木の下で、瞑想されて、悟りを開いたという話は

有名だが、この悟りに直結する深い瞑想行を、定(じょう)と仏教では

呼んでいる。

 

サンスクリット語でいうところの、“samadhi” = サマーディ と

いうのは、深い深い境地に届くほどの精神集中でなされる

座禅状態を指している。

インドでは、ヨギが肉体を瞑想の形状のまま、脱いで、霊体に

移行するとき、‘サマーディに入った’という言い方をしていた。

 

日本に伝わった仏教の中で、特に、このサマーディを中核に

置いているのは禅宗であろう。


他の宗派、例えば、浄土宗では、南無阿弥陀仏、日蓮宗では、

南無妙法蓮華経を唱えること勤行(ごんぎょう)が主体となっている

はずである。

 

真言密教ではどうかといえば、インド哲学の影響を受けた一面として、

やはり、この定(じょう)を基本に次のような行法がある。

 

“密教行法の基本構造は、まず、澄み切った満月の輪を胸中に観じて、

その月の輪の中に種々の梵字の深淵な字義を観じ、その梵字が変じて、

三昧耶形となり、さらに、三昧耶形が変じて仏や菩薩のお姿になるという 

転成方法を使い、仏と入我我入しながら、仏と一体になる”

という満月観である。

 

梵字の深淵な字義 とここにあるのは、阿字観の阿のサンスクリット

文字などを指すのだろう。


最も、インドでは、定(じょう)をいくつか習ったが、この

サンスクリット語による観は、日本独特のように見受けられた。

 

 

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大日如来のルーツは、梵天

2017年11月07日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 

 仏教(密教)とヨガとタントラ 「2」 2017・11・07

*****************************************

 ヨガというのは、神との合一という意味合いがあり、

それを最終ゴールとした、

古代インドから伝わる様々な方法を総称してそう呼んでいる。

だから、ハタヨガに代表される、特別な体位を取って呼吸を行う

世間一般的なイメージのヨガだけが、ヨガではなく、

何種類ものヨガがあることをこれまでお伝えしてきた。 

無料写真iインド風景 に対する画像結果

 

そのヨガの道場の一つとして知られる ガンジス河の岸辺に立つ、

ハリドワールのあるアシュラムで1週間の’沈黙の独行’をしたとき、

早朝必ず、アシュラムに集う者たちが一つの所に集まって、行う

行が、護摩法だった。


日本では仏教の、特に密教の護摩法として取り入れられ、

その薪(たきぎ)にくべられた燃え盛る火の勢いは、叡智ある火

とみなされ、薪を煩悩と捉えて煩悩を叡智の火で焼き尽くす‘

という意味合いになった。


言い換えれば、煩悩のくすぶる火種を否定するのではなく、

その火だねを、叡智の火に同化させることで、昇華、あるいは、

転換させる。

その目的は、その人自らの波動を高め天地の柱のように、永遠に

向かってそそりたつような、内に潜む自らの神性な力(大我)

に気づかせる役目を 護摩法は持っているからだ。


そもそも、インドでは、火の神はアグニと呼ばれ、私が、

そのアシュラムで行った護摩法では、アグニの力を借りて、

香木を燃やして勢いよく燃え盛った火の上に、香りを放つお香の

粉をそれにかけて、聖なるマントラを唱え、心身浄化を図った。

 

 

欲望を昇華させる護摩法だが、欲望あるからこそ、上昇志向の意欲

を人は持つことができるとも解釈できる。 


真言密教では、その考え方を受けて、‘理趣経’の一節に、

〝欲箭(せん)清浄の句、これ菩薩の位なり・・愛清浄の句、これ、

菩薩の位なり“


という言葉があるが、欲でも愛でも、それが悟りのバリアになると

したら、それに捉えられ、足をすくわれた人間の嵯峨によるのだろう。

捉えられるという執着の箍(たが)を外すべく、密教瞑想法が

生み出されたという。

 

だから、欲望はどんな欲望でも、低次元とか高次元とかという

類別は無い。

良くも悪くもないのだ

“欲こそ、菩薩の願になる”と真言密教では考えられているのは、

インドにおけるタントリズムと同様だ。 

 

先回のブログ内容に書いたように、シャクティズムというシヴァ派

のタントラの一派では、性的な体操や瞑想に加え、セックスを

神聖なものとして扱う。

まるで、それは宗教儀式の一つでもあるかのように、実際、

古代ヒンズー寺院では、その寺院に使える巫女がカーリー女神の名代と

して、信者を相手にするということもあったようだ。

 

日本の真言密教では、そこまでのタントラの教えの発展はなかった

ようだが、インドでは、カーリー神と夫シヴァ神との間の性的な力こそ、

シヴァ神の‘ 過去の破壊’ というお役目の原動力になったもの

して、深い信仰を得ているようだ。

 

 

 

仏教とヨガの共通の‘神’としての対象は?

ヨガはバラモン教時代、それが、現代にいたるとヒンズー教として

最古の瞑想法の形として今も受け継がれているが、仏教に、

大日如来と呼ばれる、‘神様’を皆様は耳にしたことがある

かもしれない。

 

真言宗では、最大の力ある神様とされて、仏壇の中にお祀りして

いるが、この大日如来の本源は、梵天(ぼんてん)と称される神様

であることをご存じだろうか? 


ヒンズー教では、梵天は天地創造の神、ブラフマンにあたる。 

三位一体といわれる、創造、維持、破壊 の三神が、ブラフマン、

ヴィシュヌ、シヴァ の三神である。 


ちなみにクリシュナ神はヴィシュヌ神の化身と言われ、仏陀も

ヴィシュヌ神の化身の1人となっている。 


ゆえに、仏教はヒンズー教の一派であるという無言の了解を

しているインド人が少なくない

もっとも、学者によっては、仏教を開いた仏陀と、ヴィシュヌ神

の生まれ変わりと信じられるブッダと同一人物ではないという

人もいる。


さて、その他にも、毘沙門天やら七福神やら、大黒様やら、

先回述べたお不動様まで、インド伝来のゆかりの神様たちが、

こうして、日本の仏教において、ヨガの行者たちが最も敬愛

する神様たちを知ってか知らずか、お祀りしていることが興味深い。

 

空海はこの大日如来が、自己のアートマ(本質的神性自我)で

あることを大覚されていて、次のような言葉を残している。


我はすなわち、法界、我はすなわち法身、我はすなわち、

大日如来・・・(‘吽(うん)字義’より)。


この空海の悟りは、何度もこのブログで引き合いに出される、

世界最古の聖典 ヴェーダの奥義と匹敵する。 


つまり、私たちは一人ひとり 何度も生まれ変わりながら、

神の資質を持った、自分の本質であるアートマ知るという

最終ゴールに到達するために、今、生きている。

そのために、体を与えられて二元の価値観に引っ張られながら、

物理的精神的に執着からくる欲望に引っ張られつつ生きて 苦悶と

闘っているのが、人間である。


同時にこの教えは 般若心経の数百文字に示されている

真理のエッセンスにも匹敵する。

 

真言宗を確立した空海の、‘真言’の意味は、サンスクリット語では 

‘mantra’マントラと呼ばれ、呪文とも訳される。


が、空海がここで、あえて、’真言‘という言葉を使ったのは、

真理の言葉、という意味合いもふくまれていたのだろう。


その意味では、般若心経は、まさに、真言であり、‘般若心経秘鍵’

で、空海は、


“真言は不思議なり、観読すれば無明を除く、一字に千里を含み、

即身に法如を証す


と書いていることからも伺い知れることかもしれない。

 

無料写真iインド神 に対する画像結果

 

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