自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

がんと闘うなへの反論

2014年05月29日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

近藤誠医師への反論 2014・5.29

***************************

 

このブログで未だに反響ある記事が

近藤誠医師のご意見をご紹介したものだ。

”患者よ、がんと闘うな”という言葉を掲げて、

脚光を浴びた近藤医師に対して、多くのがん専門医は

反対意見を述べることなく沈黙を守っていた。

 

しかし、反対意見が全くないわけではない。

”患者よ、がんと闘うな”は近藤誠医師の自著は、

5か月で33万部の売り上げを超えたベストセラーだ。

それに対して反対意見を述べた一人、 

公衆衛生専門家、久道茂 東北大学医学部長[肩書きは当時のもの)

は、1995年まで厚生省(現在の厚生労働省)の研究班長を

務めていた。

その研究は、各種がん検診の共通問題に関する事項について

というもの。

さて、久道氏の主張を拠り所に、日本のがん検診は整えられた。

すなわち、がん検診で癌の早期発見、早期治療を推奨する

もので、大腸がんの検診は、久道氏が班長を務めた研究所の

結論を尊重して全国で始められるようになったという。

 

だから、久道氏は、”患者よ、勇気をもって、癌と闘え”と

題した3ページにわたる記事をサンデー毎日1996年7月28日号

に掲載し、近藤医師の意見に反対の立場をとった。

 

それを読んだ近藤医師が対談を申し込んだそうだ。

しかし、その働きかけに 久道氏は応ずることなく、この両者の

対話は実現できなかった。

 

ここで、反論した医師たちの意見と照らし合わせるために、

もう一度、近藤医師の論点をまとめてみたい。

 

1~ほとんどの癌には、手術は役にたたない

”ほとんど”といっているのは例外もありで、例えば、すい臓がんの

バイバス手術などの場合は効用を認めている。

現在 子宮頸がん、食道がん、膀胱がんなどは、

手術が優先されるところだが、放射線治療でも効果があがる

とされる場合の手術をさしているようだ。

癌にかかっていても、できるだけ、その臓器を残す方法をとることを

薦めているのが 近藤医師の特徴だ。

 

近藤医師が手術を提唱しない理由には 癌除去にともない

”D2手術”が行われる確率の多さを理由として挙げている。

D2手術とは胃の切除とともに、胃の周辺のリンパ節を第2群まで

切除するというものだ。

 

これに関しては、当時癌研病院外科の太田恵一郎医師より

反論があった。

”以前はD2手術を行う場合があったが、現在は、進行度に応じた

手術を心掛け、内視鏡で切除できる小さながんはそうしている。”

というものだ。

近藤医師の本が出版されてから、イギリスで胃癌のD2手術と

D1手術をくらべた、くじ引き試験の結果が報告されたという。

その結果、進行がんと早期がん双方対象の試験であったが

D2の手術死亡はD1の倍、前者6・5%に対し後者13%という

数字が出たという。

死亡率のみならず、合併症、後遺症の頻度も後者の方が

高く、将来的にD2の生存率がD1の生存率を上回ることは

ないという結論が出た。(*1) 

それでは具体的に近藤医師はどのように 胃癌に対して助言を

薦めているかといえば

”胃癌では転移は別として、原発病巣の治療には放射線は

向いていません。したがって、治療するとすれば、胃袋全部、

または、一部を取る手術か、胃袋そっくり残る内視鏡的治療

のどちらかということになります。

より根本的には、私はそのままにしておいても、それ以上育たない

胃癌や、育つスピードの遅い癌が多いのではないかという

疑問を持っています。

たとえば、手術を拒否したり、体力的に手術が無理な6人の

早期胃がん患者をそのままにして、一年ないし、

3年観察を続けても一人として、胃癌が増大しなかったという

報告があります。”(*2)

 

結局、手術するメリットより しないメリットのほうが大きいと

近藤医師は臨床的に結論づけている。

もし、どうしてもするというのなら内視鏡を使った

部分的切除を近藤医師は、薦めている。

 

次のポイントは

2~抗癌剤が有効なのは全体の一割に過ぎない

近藤医師は、このことは、抗がん剤の専門家以外は思いもよらない

だろうとコメントしている。

”抗がん剤で生存率が目覚ましく向上するものは、

小児急性白血病や悪性リンパ腫などわずかしかない。

肝がん、子宮がんなど、全体の9割を占める癌では、生存率の

向上も生存期間の延長も証明されていない。”

というのだ。

 

とはいうものの、まったく抗癌剤が効き目がないと

断定しているわけではなく、大腸がんでも抗癌剤で癌が縮小

する場合はあるにしても、延命効果や”生存率の向上の証明

とは直接関係がないというのだ。

 

厳密に言えば、癌が縮小すること=延命 であるかという

議論になってくるのだろうが、近藤医師は、抗がん剤が効く

という言葉の裏には、縮小することはあっても、延命に

つながるかどうかは疑わしいという言い方をしている。

”この錯覚、つまり、癌がなおる可能性があるということを

縮小するという意味と取り違えているので、日本では

ほとんどの患者が抗癌剤の使用に同意する”

状況をつくっていると近藤医師は言う。

 

この意見に対して反論に近いものもあった。

たとえば、元日赤医療センター外科部長竹中

文良氏は、”私自身、患者さんに経口抗がん剤は

使いません”としたうえで、

”ただし、近藤先生の’抗癌剤の全く効かない癌がある’

という断定は強すぎると思う”

という意見がその例だ。

 

近藤医師の着目点は、”誰かが延命するかもしれないのに

抗癌剤を使った全員については延命効果が認められない

といえるのかといえば、それは、副作用で寿命を縮めている

人がいるから” だという。

さらに、

”抗がん剤は毒薬の一種なので、たとえば、10人に抗がん剤を

使った場合、その全員に副作用による寿命短縮効果が生じます。

わずかな場合もあるが、全員が抗癌剤で命を縮めている

はずです。”とも言っている。

 

がんの成長が一時的に抑えられる、

他方、副作用がある、その真逆な抗癌剤の効果を足し引きすると

マイナスの効果の方が多いとするのが近藤医師の意見である。

それを追跡調査などでまとめて数字で表したものが

生存率曲線といわれるもので、胃癌や大腸がんの場合

無治療の場合の生存率曲線とほとんど差がない、という

治療研究の結果に基づいていると、近藤医師は語るのだ。

 

 

(*1) "Lancet",347巻995頁、1996年)

(*2)”Lncet" 2巻631頁、1988年

 

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アートマセラピーの効果

2014年05月26日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

体は固体ではなくてアートマエネルギー体      2014・5・26

**********************

 

私たちは、自分の肉体も固体と感じているけれど、

実態は、細胞、細胞の分子、分子の中の素粒子、

素粒子の中の巨大な空間、そして、

その空間に存在する、

生命力、アートマエネルギーから成り立っている

といえそうです。

~と先回ブログで書きました。

 

私たちが肉体を”固体の塊り”と思っていても、

原子の中を覗けば、

ほとんどが空間で占められて、そこにエネルギー

の波動体が

存在していることがすでに分かっています。

私たちの体だけではありません。

身の回りの眼に飛び込むものすべて、

物質といわれている

ものは原子で構成されているわけですから、

電子や原子核の距離などを考えると、空洞状態

であるのがモノの本質といえそうです。

ですから

そうであるということは、自分も、透明人間のように

どこにでもスルーできて不思議でないような気がします。

つまり、外部世界との境界線は無いのと同然なのです。 

なぜなら 空洞の中のエネルギーがこうした固体のような

錯覚を起こさせる物質の根源的実存だからです。

 

私たちの体の、細胞を細かく見て行けば、原子、電子 

そしてさらにおおいなる空間で占められている。

私たちの体は個体であるように、錯覚 しているけれど、

ほんとうは 透明人間のように、ゆるゆるとした実体

があって実体がないようなエネルギー体であると

想像することも可能かもしれません。

 

さらに、考えれば、私たちの周りの外部世界も 

その実 物質でできている

以上、物質の中に占める空間を考えれば、ほとんどが、

波動エネルギー体でできている といってもよいでしょう。

 

そう感じられるようになったとき、私たちは 

トランスフォーメーションしたという言い方をします。

つまり、意識の変容です。

見た目にには 何も変わっていないけれど、本当はものすごく

核心的なことが 心身に起きているのです。

大袈裟に聞こえるでしょうけれど、もし、変容 すると、

その人の周囲も

環境も、そのままでいて元のそれとはまったく異なったものに

なっていることに気が付くでしょう。

その変容施術が アートマセラピーの 目的の一つです。

フランス人のクライアントがいました。

その時まだ、協会を立ち上げてませんでしたから、

このセラピーの名前はありませんでした。

彼女は言いました。

”これはtransformation-therapyよ!”

つまり、彼女自身それを受けてからすっかり変容した

自覚が持てたというのです。

勿論彼女の人生も変わりました。

話しが飛ぶのでこの辺にして、 本題に戻ります。

変容の第一の意識変化は、まず、

”肉体の中に入っていると思っている自分の定義”を

変えることから始まるでしょう。

新しい“本当の自分の意識”への

トランスフォーメーションが必要です。

      

自分の新しい変容を通して、何が変わるのでしょう?

それは自分が広がった感覚です。

自分という枠がなくなって、透明人間になったと

いうことは、何処にでもスルーできるわけですから、

まるで 他者も他の生き物たちも、自分の

如くに理解できるようになるということかもしれません。

言い変えれば、自分がどこにでもいる~

       

あの木々の揺れている葉の中に、

それを動かしている、微妙な風の動きに、

風に誘われて舞っている蝶の中に、

蝶(ちょう)の止まる雄蕊(おしべ)や雌蕊(めしべ)の

花びらの中に、あらゆるところに自分を発見できるでしょう。 

自然の散策が大好きなあなた。

山登りで大自然を満喫しているあなた。

無意識にあなたはそのとき、透明人間に戻って

いるのでしょう。

現実的な下世話な世界から 心が、一歩離れれば、私たちは 

大自然の空気や大地や、そこで息づく花や虫、

動物や空と一緒に

肉体の中に閉じ込めていた自分を解放して、 境界線をはずして

いるのかもしれません。

何故って、私たちは 本来境界線のない 

命を生かすエネルギー体なのだから。 

どこにでも自由に風のように、流れて飛んで

いくことができるのですから。 

 

 境界線をつくってしまうもの。 

それが自分意識、梵語で、アハムカーラ と

呼んでいるものです。 

観察者であり、観察されるものであるという

二元的な観方をする意識そのものです。 

知性[知恵]がそれに加担するから、不幸な気分になって、

ついつい、相手を責めたり、理屈で非難や批判をして、

自分を責めたりもしてしまう。

空回り、悪循環、何も良いことは生まれません。

個人的範疇で住まなくなると、社会をせめて問題を 

一層、ややこしくさせているのです。 

本当は、自分の本質に返って、相手の本質 と 

一体化すれば問題と見えるものも、いつの間にか

問題でなくなる・・・

それが あなたの本質である愛 の仕業であり、

愛を根底におけば 結局、最終的には、周囲との

調和しかないやさしいまろやかな世界が実現する

はずなのに・・・・・

なかなかそうはいきませんね。

 

無智の自分を打ち破る とか、 

新しい自分を発見する という言葉は だから、

簡単にはいかないし、

不適当かもしれません。 

それができないから私たちはもがいているのですから。

だけど、お互い忘れないようにしましょう。

多様性の中に潜む一つの真実。

どんなに姿を変えても、例えば、母親が若い

美しいマリア様のようなイメージでも、皺(しわ)

に刻まれた老いた女性になっていても

私たちの心には 母という自分を育んでくれた

優しい母性愛が浮かぶでしょう。

 

どんなに姿を変えても変わらない本質がある。

だから、今の私たちがどんなに見えていても、

、ここに、もう、本当 の私の本質が存在

していることは忘れたくないのです。  

今、生きているということ、それは、私たちの

エネルギーが 宇宙規模の生命力のジェネレーター 

に つながっているということ、

つまり、ON 状態であることを想いだして

みたいのです。

 

 

 

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腸わたは、文字通り煮えくり返る?

2014年05月23日 | 健康のための心の波動

免疫細胞も感情・知性を持つ  2014・5・23

**********************************

先回、人の意識は 細胞原子の中に見られる、相当な割合の

”空間”に 非物質のエネルギー体として存在しているのでは

ないだろうかというお話しをさせていただいた。


このエネルギーの空間を、科学者は 知性の場 とか 

統一場 とか呼んでいるようだ。


その”空間”は 空っぽな空間ではなくて、非物質的ではあるけれど

エネルギーが充満していて、しかも、そのエネルギーには知性が

あるという。

 

私たちは”考える”。これは脳の働きだと単純に言う。

”海馬”と呼ばれる脳の箇所が記憶を司り、年とともに脳が

委縮するから、物忘れも多くなることを知っている。


しかし、もし、原子の間の空間エネルギー、に私たちの

意識の根源があるという観方をしたらどうだろう?

脳の働きの説明が、もっとわかりやすくなりそうだ。


感情が湧く、いろいろ浮かぶアイデアを整理して考えて、

意思決定して行動する。

感覚、願望、本能、衝動、アイデア、などなどこうした心が

脳に与える刺激によって、脳の中で、 神経ペプチドという

化学物質がつくられる。


これによって、脳細胞はお互いに情報を伝達している。

脳が”考える力”を持っているといわれるのも、脳細胞

の表面にある化学物質伝達子で情報が交換されているからだ。


神経ペプチドを生成して、ほかの脳細胞の受容体

こうして、脳の中で、”考える””情報伝達”の循環が行われている

科学者は言う。

 

だから、体は 決して物質的なものではない。

こう考えていくと、意識の場と呼ばれる、大いなる体内の

空間で 考え、感じ、それらが体の細胞分子隅々まで、

伝わって、統一された体を構成しているともいえる。

 

考えたことは、化学物質伝達子の受容体と形を変えて、

体の隅々に影響を与えている。

心臓にも胃腸にも、腸や肝臓などの器官でさえも、こうした脳の

神経ペプチドと同質の化学物質を生成している。


人が考えたときに脳が造りだすものと同等なエネルギー変容体だ。

 

日常生活で、私たちはふつうに、”胸が(ある種の感情で)一杯で

言葉が出ない”とか、心は悦びではち切れそう”とか、

”はらわた(腸)が怒りで煮えくり返りそうだ”とか表現する。


五臓六腑にこうした 私たちの感情を翻訳できる化学物質を

製造できる力があるとしたら、まさに文字通り、言葉で

比喩のように表現したことが 実際、体の中で起きている

言えるだろう。


胸(心臓)も、はらわた(腸)も、私たちの感情が反映されて

悦びで一杯になったり 怒りで煮えくり返ったりしているわけだ。


心臓や大腸の細胞原子の空間に、私たちが気が付かない間に

心で感じた感情伝達が行われて彼ら(体の器官)の言葉

(ある種の化学物質)に翻訳されて私たちの想いが理解されている

あるいは、浸透しているということになる。

 

英語では 直観する ということを I get ’gut feeling’!

という。

このgut は、腹の底 という意味だ。

 

実は 腹の底 というのは スピリチュアル的にいっても

重要なポイントであることは、皆様合点がいくことと思う。

あの、臍下丹田(せいかたんでん)のあるところだ。


ここから来たフィーリング、それは 瞑想などして、体の重心

がここに置かれ、脳波がきわめて安定した状態の時に訪れる

”平安の中からのメッセージ”ともいえだろう。


だから、直観が時にして、くどくどと頭で考えた結論より、

正しく、ふさわしいことを含んでいることを、多くの人が

体験している。


直観に従って・・・それで 大きな事故から逃れた人もいるはずだ。

直観に従って、出かけた処、運命の人と出会うこともあったはずだ。

 

考える体 のもう一つの例は 免疫システムだろう。

免疫システムとは 循環神経システムで、体の中を巡っている。


前出の チョープラ博士はこのシステムについて次のように

述べている。

免疫細胞はそれ自身の概念や知性、感情、意識をもった

小さな存在です。”


だからこそ、体内の友好的バクテリアと非友好的バクテリア

を識別して、発がん物質と無害な化学物質を見分けたりする

というのだ。

免疫細胞は、記憶も持っている。


初めて遭遇するバクテリアに対しても、免疫細胞は、人類が

歴史的に以前遭遇したであろう、その記憶を呼び起こして、

そのバクテリアに対して正確な抗体を造りだそうとするに

違いない。

 

人の身体を 生体、と呼ぶ理由はここにある。

まさに生きている(知性、感情、記憶などを持つ)

細胞原子が統括して精巧な役割分担をそれぞれ担いながら、

完全体、健康体を維持するよう頑張っている パートナー

でもあるからだ。


チョープラ博士はこのことを次のような言葉で語る:

 

あなたは 絶対的に精巧な薬局を体内に持っています。

それをどのように呼ぶかはあなたに任せますが、体は

それを必要なときに、適切な臓器に、最適量の薬を生成し、

副作用が全くなく、かつ、そのパッケージにはすべての

指示内容が書かれているのです。


この能力は深淵な体の知性を証明しています。

実にあなたの体は知性の場なのです。”

 

真の直観は頭からは来ない。

私たちの知能の成果というより、静かな安寧の心持に帰って

いるとき、フト、脳裏に浮かんでくるものだ。

人は安心した境地を求める。

 

イライラして眠れなければ、精神安定剤を飲む人も

いるかもしれない。

これが効き目があるとしたら、製薬会社の研究室で

安寧で安定した心持を脳波で分析して、限りなく近い波動を

出す化学物質を造りだすからだ。


実際、最近の研究では、体が精神安定剤に似た物質を

造りだしていることもわかってきたという。

 

体自ら作る精神安定剤と、化学物質(薬)の安定剤との

違いは何かといえば、副作用が後者ではあるということ

だろう。

 

私たちの体が知性をもっているというのなら

私たち自身の心で 安寧の気持ちになることを心掛けて

体がそれを受け止めて、体に良い作用を促すよう協力

してあげたい。

 

例えば、副腎腺では 心が恐怖をもって不安を感じて

いると、その影響で’ビクビク分子’を造りだし、それが

導火線になって、体中の細胞がビクビク分子を造りだして、

体が恐怖感を覚えるといわれている。


その反対に、愉快爽快、朗らかに対処しているとき、

一番の体へのご褒美になって、体はそのお礼にパワフルな

抗癌剤やアンチエイジ剤、さらに、免疫調整剤を造るという

仕組みになっている。


ここでも 病は気から という言葉が科学的にも説明

がつくように思う。

 

 

 

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体は一年で98%の原子を入れ替えるということ

2014年05月20日 | 健康のための心の波動

  自分の意識の場所はどこ?     2014、5,20

********************

 

人は自分の体を”固体”だと捉えていますが、ほんとうにそうでしょうか?

今、ここに、生きているということ、それは、心と体が

刻々と変化し、エネルギー体として動いているということです。

 

それは、私たちのエネルギーが 宇宙規模の生命力のジェネレーター 

に つながっているということ、

具体的に言えば、一回の呼吸で何億個の原子を吸い込み、

生命力(宇宙に満ちている生かす力)が 私たちの心臓細胞や脳細胞、

多くの内臓器官などに循環して、それらを、生成・維持しているわけです。

息を吐くときは逆に、生命力の知性によって、私たちの体に不要となった

細胞組織のカスなどを体外に排出してくれています。

 

ある研究(波動性同位元素研究)では、

体は1年未満で体内の98%の原子を入れ替える。

これは5日毎に 胃腸内壁 をつくり、1か月毎に 皮膚 をつくり、6週間毎に 肝臓 をつくり、

3か月毎に 新しい 骨格 をつくるということです。” 

 

さらに、DNAについて、こう発表しています。

何億年もの 進化の記憶を保持する遺伝子物質である DNAでさえ、6週間前と同じではない 

 

にもかかわらず、私たちは この身体を自分だと表現します。

物質的な体こそ、自分 であると信じているとしたらその物質的体の本質はなんなのでしょう?

今日の体は、三か月たてば、細胞が入れ替わっているのですから、

自分と呼べる実態はないということになってしまいます。

 

医学博士ディーパック・チョープラ博士は次のように述べています。(*1)

”量子物理学によると、この世界は一つの根底

である知性の場(*2)で構成されており、

その知性の場は宇宙の無限の多様性として現れています。”

 

”知性の場が主観的に経験されたものが’心’であり、客観的

に経験されたものが’物質的な世界’です。

心と物質は別別の存在ではなく、心と物質は本質的には

同じものです。”

 

私たちは心が自分だという。そして、この体も自分だという。

これは、もっと緻密な表現をするのなら

”わたしが自分だと思っている存在が物理的にどこに位置しているか

を知っている。

つまり、’私”という意識が存在する場所はこの身体のどこか、あるいは

その周辺の限りなく近いところにあることを知っている。

ということではないでしょうか?

 

チョープラ博士はこのことを次のように言っています:

 

”あなたは、自分のことを五感によって、時空の中に位置づけることができる’体’だと

考えているかもしれません。

しかし、体 はその時空の中では、実際、境界線を持たない、目に見えない振動の場 なのです。

ですから、ほんとうの貴方は自分が認識している姿ではなく、物理的肉体でもない。”

 

根源的な自分とは?という大きな質問に、ここで博士は立ち返るのです。 

私たちは、自分という意識はあるが、体は、最新の物理学で証明されているように、振動の場、

エネルギーの波動でつくられているというわけです。

 

エネルギーの波動の 場 は、物理学的に言うのなら、体を構成する原子には巨大な空間があり、

そこに散在している、点 と不規則な電気の放電が見られるだけというのです。

 

その点の周りを回転している粒子を レプトン、クウォーク、

中間子などと呼んでいて、それらの粒子は”固定化された物質”としての存在ではないということは

証明されています。

では”根源的な自分とは何なのか?と問えば、これらの粒子、

巨大な空虚の中に存在している情報とエネルギーの変動の場”チョープラ博士は言っています。

 

私たちの体と宇宙にあるすべての 物 がこうした 粒子、つまり、

波動体 で、存在していることがわかったら?

日常生活の中で、とてつもない意識変革がもたらされるでしょう。

他者の苦しみは自分の苦しみであることが、実感されるでしょう。

自分たちの利益のためには環境汚染や自然破壊を辞さない企業なども、

そのことが人間の運命に左右することもわかるでしょう。

 

パワーポリティックスで核開発や軍事力強化に真剣な大国は、

ほんとうの核軍縮の意味を考え始めるでしょう。

そして本当の、平和と安寧の生活とは何か?その実現のために

何をすべきかがはっきり見えてくるにちがいありません。

 

波動であるエネルギー体が大きな空間の中に

渦をまくように回転しながら創造と維持を生み出している結果が

私たちの身体であり、私たちの意識であるとしたら?

私たちの意識の場 はどこにあるのでしょう?

宇宙間に存在する生物、物質、つまり原子で構成

されている”モノ”は、境界線のある固体的物質ではなく、

大きな空間に満たされています。

その原子の中にある、巨大な割合の空間には、

生命力という”命を生かす知性”が存在していると考えられます。

私たちの意識の根源もそこにあるのではないかと思います。

 

皆さんはお聞きになったことがあると思います。

猿が遠く離れた島でイモを洗うと、その知恵が広がって違う場所でも猿たちが教えなくても、

イモを洗うようになるという話。

ある枠を超えて意識(エネルギー波動)が空間に満ちるとその意識が伝播して、

地球規模で影響を与えるという話。

それらはこうした、知性の場を 動物や生物を含め、私たち一人ひとりが

共有している、という証でもあるのでしょう。

 

今まで信じていたこの身体が流星のような電気の放電粒子で造られている原子の塊であること、

その粒子と粒子の間は大きな虚空であるが広がっていること。

 

この体がエネルギー体として常に変化している波動体であるというのなら、

”私”と呼ぶのはどの範囲のことをいうのでしょう? 

 

空(くう)と呼ばれるスペースの中に電子粒子が回転しています。

そのほとんと 空っぽな領域(スペース)こそが、実は私たちの存在する場所である、

あるいは、意識が広がっている場であるということはできないでしょうか?

まさに 空(くう)から 意識が動き、意識がエネルギーとなって創造が生まれる~

ということかもしれません。

 

続く~

 

 注1) ”Power、Freedom,And Grace” Amber-Allen Pu lishing,Inc.  2006

注2)  知性の場~物理量が空間的に分布している場所をその”物理量の場”という。 

知性が分布していう場所とも考えられる。

 

 

                                      

 

 

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大我と自然治癒、肉体と小我

2014年05月17日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

 真の癒し一考    2014.5.17

********************************

本来、癒されるということは

自分自身の中にある安寧で平和な心の領域に

帰ることをいうのでしょう。

その領域をアートマと呼ぶのなら、アートマセラピーは、

自分自身のアートマに復帰するための自然に還るセラピー

といえそうです。

 

もし、アートマを今ここに、復元できたら何が

おきるでしょう。

まず、願望 が叶い始めます。

それは 偶然の一致を装って訪れるでしょう。

偶然は何で起きるのでしょう?

それは”意思や願望”が 波動で”生きている”からです。 

波動 が同じ波動を呼ぶのです。  

 

私たちが今住んでいる世界は ”二元の価値観 ”

を持っている世界です。 

当たり前のように、この二つの対比される価値観

を私たちは日ごろ何気なく使って物事を判断して

います。

”良い・悪い” とか、”美しい・醜い” とか

”好き・嫌い”といった、対立した価値観 が私たちの周りに

あふれています。

もちろん、”幸せと不幸”というのもその例にもれません。

二つの価値観には絶対性がないから、今日 美しく

見えていたものでもしばらくすると、醜く見えたり、

その反対もあるわけです。

だから、”今日は、幸せ” と喜んでいても、明日は 

”不幸” が来るかもしれない。

人は”この幸せ”が永遠に続くとは限らないことを知っています。

それだからこそ、いつまでも変わらない幸せを

求めるのでしょう。

 

いつまでも変わらない、ほんとうの幸せ?

それはいったいあるのでしょうか?

あります。

どこに?

本当の自分自身の中に。

 

本当の自分の姿を知るということは

それは 悟りを開く という言葉が使われているようです。

ただし、頭で考え、理屈を述べたり、評論家や学者の

ように、理論で、”悟り”を説明できることと、 

自分自身を知り、

その中に至福を感じて充たされる境地に入ることとは

雲泥の違いがあるでしょう。

後者の人こそ、悟りを開いた人といえるのでしょう。

 

そのために、何か特別な修行をしなければならないと

一般には考えられています。

修行をする時間がないから、神社仏閣などのパワースポット

と呼ばれているところに行く人もいます。

滝に打たれたり、火のついた薪の上を歩く本格的な修行を

する人達もいます。

断食して瞑想三昧の境地に浸ることもその手段の一つと

言われています。

ところか、そういうことと”悟り”とは、あまり、関係の

ないことだと思うのです。

なぜなら、自分自身の本質はもう、自分の中にありますし、

その”本質”=アートマ も、早く、気がついてくれるの

を待っているだけなのですから。

 

深い意識の中で眠っている自分自身を呼び出せばよいだけ。

愛と呼べるその自分の本質の糸口をひっぱって、引き出すだけ。

手始めに何をどうしたらよいのでしょうか? 

 

それを考えるのが自然治癒力セラピー協会の目的であり、

人それぞれ、人生が異なるのですから、いろいろな手段が

あって当然でしょう。

 

自然治癒力セラピー協会と名前を付けたのは、

自然治癒力を開発することで、このほんとうの

自分に気が付くことができると考えているからです。

自然治癒力 というのは、アートマ(真の自己・実相)の波動が

心身を揺るがしたとき、”自然に”あるいは、

”自発的(スポンテニアス)に” 発動します。

 

持病が軽くなった、

難病が治った、

肩こりがいつの間にか消えていた、

気分が爽快で人にやさしくなってきた、

イライラ感がいつの間にかなくなった、

家族が円満になった

などなど、こうした癒しの効果が、出てくるとしたらそれは、

自然治癒力の発動とともに、その治癒力の根源のエネルギー

がアートマから流れて体と心に循環しているのに

相違ないのです。

 

 

幸せを求める私たちは、反対に不幸や苦労を味わいたくない。

ところが、神様は平等ですから、誰にでもそれ相応の

人生の難関や苦難があるというものです。

ですが、或る人にとっては、波乗りのように、得意なスポーツか

ゲームのように、楽しみながら乗り越えてしまう。

一方、その波に押しつぶされそうになって、人生の海におぼれて

しまいそうに、もがいている人もいるのです。

この違いは、どこから来るのでしょう?

 

それは、自分への評価です。

自分を弱い人間だ、意気地のない何をしても失敗ばかり、

誰も自分を愛していない、人は自分の失敗すら気にも

留めないだろうし、

自分の失敗を嘲笑っている人もいるに違いないなどと、

考えている人には、なかなかサーフインゲームのような 

楽しく”挑戦”するゆとりはないでしょう。

反対に、自分の本質が、”神性~アートマ”であり、

どんなことでも、

小さな自分がするのではなく必ず、自分を生かしてくれる

大生命の力が自分に応援していてくれる~と

知っている人は、なかなか、へこたれないものです。

 

だから 覚者はこうした困難に遭遇したときの人

それぞれの反応の違いの根本は、

”一過性の 実在しないもの”への ”恐れ”に対する

強弱の違いだと言うのです。

自分自身を信じていれば、恐れは少なく、信じられない分だけ

恐れが強まるというのです。

 

 

ちょっとした出来事に対しても、

恐れと不安が押し寄せて しまうと、人はパニック

になりやすい。

 

”アートマ” という自分の”実相”に気づけば、

必ず、どんなことでも乗り越えられるという

自信を失うことはない。

アートマは神性、それは、小さな体の中の自分ではなく、

宇宙を貫く大生命の力が自分に流れている、と

信じるからです。

だから、 

”私は誰ですか? 私の体は 誰のものですか?” と 

折に触れて、内面の自分に問いかけることが、大切だと

思うのです。

 

立ち向かうべき困難も 頂上を制覇するために、

乗り越えなければならない峠(とうげ)くらいの

気持ちで客観的に見つめることができるでしょう。

 

ハクション!とくしゃみをすると人は

”あら、風邪ひいたかな” と 反射的に感じる。

感じるというより、一種の恐れが伴う。

そんなとき、日頃から、

私は、風邪をひいて、寝込んでしまうような存在ではない。

ガンに侵されて ひしがれるような生命ではない。~と

体に言い聞かせていれば、

”自分の生命力が今、くしゃみをして、肺や気管支のつまりを

吹き飛ばしてくれたのだ”~と感じることも自然と

できるでしょう。

 

筆者も”癌”だと、言われました。

そして、病室の外で、(筆者の背後で)医師が夫に

余命の宣告したことがあるようです。

(私は直接医者から聞いていません)

 

当時、”腫瘍”があるということで、摘出したばかり

でした。

私は自分自身にこう言い聞かせ続けました。

”あなたは 癌に侵されているその肉体そのものですか?”

”熱でだるさに耐えられないと感じているのは体ですか?”

肉体が私?

そんなわけがない。

二つの価値観で揺れ動く心 がわたし?

それも違う。

私なんか、あるようでないのです。

だって、髪の毛一本自分で作ったのではないのだから。

としたらこれは借り物の肉体。

つまり、私と意識する”私”はどこか別な存在なのだ、

腫瘍でもなんでも、悪いものをもう切り取ったのだから、

私の体は円満完全の神性の心の反映を映し出す

波動体として今、再起するほかない・・・・

 

自分の体、と言う言葉を、普段 私たちは使います。

体を、自分のものだと思う 理由 も考えてみると

もっとわかりやすいかもしれません。

 

肉体を構成している材料は、もともと、宇宙に存在する

物質なのに、それらは本来、ほんとうに、 自分の物 だと、

いえるのか?ということです。

私たちは この体を 自分の意思で創り上げたのでしょうか?

母親の胎内で自分が設計して 自分がその材料を調達して、

創作したものでない以上、やはり、この体も借り物だという

ことなのでしょう。

だとすれば、体が自分であるというのはどこか違うような

気がします。

人生ハイウェイを走るレンタカーがこの身体なら、

その操縦者こそが自分であるからです。

ですから、

その”自分”が何者かというのを、問い続ける~これが悟りの

一歩だと覚者は教えています。

 

 

 

 

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