自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

仏教(密教)とヨガとタントラ 「7」

2018年01月29日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

ヨガとサイババ師の教え  2018年1月29日

************************************** 

私が、このブログで、ヨガのことを話して、ヨガとは、”結ぶ” と

いう原語の意味があり、だから、絶対者あるいはアートマと直結することを

目的としている、と何度も書いているが、もしかしたら、唐突な結論に思える

読者も結構いらっしゃるのかもしれないと思った。

 

ヨガ の語源は サンスクリット語のyuji である。 

この言葉の音訳が漢字にあてはめて中国を経て日本に来た時、瑜伽(ゆが)という

言葉で現代まで残っている。

 

真言密教が ヨガの教えに影響を受けていることは、この宗派が別名、瑜伽派(ゆが

は)とか、瑜伽宗(ゆがしゅう)などと呼ばれていることからもうかがえる。

 

それでは、yuji のヨガの語源の意味は何であったのだろうか?

‘馬に馬具を付ける’、‘調整する’、‘合一する’、‘結ぶ’という意味合いがヴェーダの

ウパニシャッド(カタハ・ウパニシャッド)に出ている。

 

ここで馬に馬具をつける~というのは、単なる、文字通り、動物のウマに道具を

付けるという意味だけではない。

私の師、サティアサイババ師からこのように私は聞いている。

 

“人の心はウマのようである。馬は常に体のどこかが動いている。同様、人の心は

常に感情で揺れ動いている。”  

 

つまり、ウマというのは、ここでは人の心をさしていて、馬具というのは

その心を制御する、アンターカラナ(内面の道具)をさしている。

 

その前にというのはどういう要素で成り立っているかを、サイババ師は

ヴェーダの教えに基づき、次のような簡単な言葉で表現した。

 

“心は4つの側面からなっている。

①マナス~感情的に同様する思考過程の中における心、

 

②ブッディ(理知)~探求と正邪の分別過程に携わっている心、

 

③チッタ~記憶の倉庫の中で識別をしているときの心、

 

④アハムカーラ(自我)~活動の行為者として自己を意識している心。”

 

“英語のマンという人間を現す言葉の語源は マナス(感情に揺れる心)を

所有するものという本来の意味から来ている。”

 

先に述べたように、サイババ師は "カトカウパニシャッドには、身体は

ウマが引く馬車、諸感覚は馬、マナスは手綱に、理性(ブッディ)は

御者に喩えられる。

 

この意味は、心(マナス)が感覚と理知の中間にあるということだ。

マナス、通常の私たちの感覚によって動かされている心が、理知の命令に

従えば、馬(諸感覚)は統御され、馬車は難なく進んでいく。

 

反対に、マナス~手綱が、馬(諸感覚)の気まぐれに翻弄されると、

馬車の進むべき道は無視され阻害される。“

 

さらに、

“諸感覚に対して手綱をゆるめることを、ブラヴリッティ・マルガ(外側の道)

呼び、諸感覚を統制することをニヴリッティ・マルガ(内側の道)と呼ぶ” 

教えた。

 

こうして考えると、“‘馬に馬具を付ける’、‘調整する’、‘合一する’、‘結ぶ’

いう一連の意味合いが見えてきて、ヨガの意味合いが明確になってくるように

思う。

 

肉体の諸感覚に対して、統制をすることで、身心の調整をして、内側にある

ブッディ(理知。叡智)と結ばれる という意味合いになり、これがヨガの

意味ということなる。

 

叡智とは前回で書いたように、真理を知っている自分自身に帰結するための、

智慧をさすとしたら、それは、与えられたアートマ、神の資質を認識すると

いうことでもある。

 

だから、私が本編でたびたび使う、ヨガとは神の合一 という意味合いも、

感覚を制御するという所から始まり、それは、誰もがもつ、心の智慧、内面の叡智

にふりむくことから出発するのだろう。

ヨガの行 とは、その目的を果たすための手段といえそうだ。

 

 

 

 

 

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イランの旅(4)ペルシャ絨毯屋

2018年01月24日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

マーケットで久保田早紀の”異邦人”のイメージが・・・2018・1・24

*****************

 

最後にイランらしい風情あるマーケットの様子を

お伝えしたいと思う。旅のだいご味はその国の人々の

日常生活に漂う情緒を感じることが一つ。

 

そのために、私は、どこの国に行っても、水のあるところ、

川や海、と、マーケット(市場)には訪れるようにしている。 

日本にいると、デパートやスーパーマーケット、

コンビニストアが、どの町に住んでいても、見つけることが

できるが、アジアの国々ではそうでもなく、あえていえば、

築地市場のような雰囲気を持つ、生活全般用品を扱う

マーケット(市場)は、街にいくつかあり、その土地らしい

趣を漂わしている。

 

イランを訪れた際、端から端まで店をのぞきながら歩くと、

1時間はかかるだろうと思われた、ペルシャ風市場を歩いていると、

久保田早紀さんの歌った、異邦人のメロディーが頭の中に流れ

始めた。

 

アラビアの国々のマーケット、たとえば、アブダビや、ドバイ、

オマーンや、シリアなどの国々のバザールを訪れたことがあるが、

ペルシャマーケットも、モスリム文化の影響か、アラビア的な

雰囲気を醸し出す。

ただ、経済制裁がまだ続いていたり、外国からの旅行者が規制

されているせいか、市場の華やかさのわりには、人出は多く

なかった。

 

 

市場のアーケードを出ると、そばにはモスクが美しく光で色取られていた。

 

マーケットでは、下のかばん屋さんで、自家製だという主人の制作

したリュックを買った。

10年間の保証つきで、何かあったら、持ってきてくれれば直しますと

いうことだったが・・簡単に行けるところではないので、苦笑した。

 

途中お腹がすいたので、いかにも、イラン式のレストランで食事した。

 

下の写真の店はイラン名物のサフランショップ。 

サフランティーやサフランを 売っていた。

店はみな、とても清潔な感じがした。

 

マーケットそばからモスクを観る。

 

 

大昔の水道施設だそうだが、こういう設備をみると、当時の

ペルシャ文化の発展ぶりを彷彿とさせる。

 

マーケットを歩く筆者の後ろ姿・・

 

魅惑的な トルコブルーの磁器を売る店

 

ハイライトは ペルシャ絨毯の店だった。 

後学のために、蘊蓄(うんちく)を専門家から聞くために寄った

のだが、だんだんとその説明を聞くうち、絨毯のすばらしさに

魅せられていった。

 

化学塗料は使っておらず、自然材料で色染めし、踏めば踏むほど

艶が出てるとのこと。

イランの人は、ペルシャ絨毯は宝石同様、いつでも買った店で、

買った金額で、現金化できるので、品質良いものを、投資品として、

コレクションをしている人が多いとか・・ 

 

汚れても、専門店では綺麗に洗って、再び、同値段で販売するそうだ。

年々、職人が減ってきているので、絨毯の価値は決して将来減るもの

ではないということだった。

 

前のブログ内容で触れたように、イランの経済は、国際的に制裁

を受けているので、自由に貿易ができないため、こうした、素晴らしい

工芸品や絨毯が、日本に簡単に入ってくることは難しいのだろう。

 

インドに住んでいるとき、時々、裕福な友人の家でたまに、絹の

ペルシャ絨毯を見たことがあるが、なかなか、実際のペルシャ絨毯

は高価で普及はしていないようだった。

 

実際、1時間ほど、30枚ほどの絨毯を広げて、次々とその絨毯に

ついての、蘊蓄(うんちくく)を店主から聞いているうち、興味が

わいてきた。

クレジットカードも使えず、現金での支払いのみと聞いていたので、

カードは所持していなかった。

 

所持金が少なかったので、幸か不幸か、3畳ほどの魅惑された絨毯

の購入はあきらめたが、しかし、旅行鞄に入るほどの小さなペルシャ

絨毯を買って帰り、両親の仏壇の前に敷いた。

 

一針一針心をこめて織り上げた風情ある色合いを日本に帰って

楽しんでいるが、飽きの来ない味わいが 心を温めてくれている。

 

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イランの旅(3)~ 体験の大切さ

2018年01月19日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

一度、頭を空っぽにするとき~  2018年1月19日

*********************************

ある友人から私は、真理に対して、”原理主義者”だと

いわれます。

真理に対して、究極を求め続けているという意味らしい

のですが、何が、究極の真理かは、その人によって、

皆、違うということ。

 

だから、誰の意見でもなく、自分の体験に基づいて、

感じて、ストンと胸に落ちたことを大事にして

いくことが、自分にとっての、真理への一歩では

ないかと思うのです。

それを、今回のイラン旅で、深く感じたのでした。

 

 

 

イランの旅は短い滞在だったが、これまで殆ど知らなかった 

ペルシャの文化に接して、印象が大きく変わった。 

戦争などで歴史上、一度も占領下になったことのない、

イランの国民のおおらかで親しみある心を体験してきた。

 

イランに行く前、正直、イラクとイランのイメ―ジが

はっきりしないほど、イランに関する知識は貧弱だった。

”イランに行く”と知人にいうと、’大丈夫?’と皆、

不安そうに聞いた。

 

自分がそうであったように、一般的日本人のイランの

イメージは 国際紛争にかかわった、テロリストの存在する

国、国際社会から半ば締め出されている 危険な国という

ような 暗いものではないだろうか~と思う。

 

今回のイランの旅が終えた今 5年前に書いたブログ記事を

読み返した。それは、与えられた情報を整理してみよう・・・

のタイトルで 以下の記事がそれである。

イデオロギー・イメージ・モスリム 2012-09-27 13:34:17) 

 

少々長くなるが、皆さまにも共有していただけたら

と思うので、抜粋して、引用させていただく。

*************************

 イデオロギー・イメージ・モスリム 2012-09-27 13:34:17) より

 

”私事で恐縮であるが、自分自身、宗教への偏見をなくすために、

さまざまな宗教の門をくぐった

 

文字通り、くぐっただけの宗教もあれば、経堂にはいって、

経文(マントラ。祈りの言葉などのたとえ)を唱えた宗教も

あった。 中でもイスラム教は10年以上、お世話になった。 

心の支えにもなった。 

 

マダンの月には断食もした。モスリムしか入れない、

サウジアラビアのメッカへ巡礼へ行った。

 

イスラエルのエルサレムのモスク(ゴールデン・テンプル)

へ一人で行った。当時は今より、緊張は少ないとはいえ、

そのモスク周辺には、イスラエル兵による警備が厳重で、

私は一人の兵士に呼び止められ、パスポートの検閲が行われた。

 

なぜ、ゴールデンテンプルへ?と聞かれ、モスリマとして、

と答えても信じてもらえず、モスクのイマームが呼ばれ、彼の

判定にまかされた。

私は、そのイマームの前で、コーランの一節を唱えた。

その一説は、信者として必ず、祈りに使われるものだった。

そこで初めて、モスリマとして、兵士の前で承認され、モスク

への入室を許された。

 

Jame Mosque at Yazd,Iran

 

地下にある、キリスト所縁(ゆかり)の岩屋の部屋、そこで、

キリストが祈ったと記録されている場所にも訪れた。

 

 ある旅では、バチカン王国へ行き、ローマ法王の教会で

祈りを捧げ 隣で祈る信者の女性に抱擁され、歓迎を受けた。

 

15年間のインド滞在時代、ヒンズー教を学ぶ機会に恵まれた。 

ヴェーダ哲学を本源としているヒンズー教は、ある意味、

ガンジスのように、鷹揚でもあった。

その、ガンジス川で沐浴をして、シヴァ神に祈る人たちの心

と同化した。

 

クンバメラという、12年に一度の、ヒンズー教徒のお祭りにも

参加した。この祭りには、ヒマラヤから聖者たちも俗界に

降りてきて、聖者も求道者も、一体になって、お祭りを行う。 

 

父逝去して、母のそばで暮らすために、日本に戻ってきて、

これまで知識の少なかった、天成神道の勉強を始めている。 

それは、古事記以前に書かれたとされる、秀真伝えの研究

姑にあたる須田麻沙子に師事して親しむことができた。

 

姑とともに、古神道にゆかりある場所を訪れたり、伊勢神宮

祝詞をあげ、念願の、熊野神社詣でも果たせた。

 

こうして私の真理探究欲は様々な聖地への巡礼となり、聖書、

コーラン、ダイヤモンド・スートラ(仏教・金剛経典) 

ヴェーダ哲学 などを 紐解くうちに 一つの結論に達した。

 

それは、すべての、宗教の真理と源は一つであるということ、

体験的認識の大切さであった。

話しを元にもどす。 

 

9・11事件(アメリカ国際ビル襲撃と報道される一連の事件)

以来、モスリムは、危険思想というレッテルが一層強く貼られ

ようだ。それ以来、モスリムゲリラを撤去するために、飛行場

での取り調べが強化された。

 

数年前、サンフランシスコ飛行場で、執拗に尋問を受けて

不快だったと、モスリム名を持つUCLAの先生が述懐された。

モスリムがそんなに危険なのかどうか? 

ゲリラはある特定の宗教を持っているのか? 

その話はまた、後日に譲りたい。

 

ここでは、モスリムの敬虔な家族を想いだすばかりだ。 

私は、イエメンの砂漠でベドウィンの家族と1日生活を

ともにした。

あの時感じた、彼らの友好的な穏やかな人柄と質素で平和な

暮らしぶりを、モスリムに偏見を持つ人たちにわかって

もらうのは難しいだろうと思った。

 

砂漠の砂の上に頭を下げて祈る姿は、ミレーの晩鐘の絵の中

の敬虔な農婦の祈りとよく似ていた。

体験してみることと、外からイメージで判断する格差がある

という一例である。

 

 Damavand Mountain

(イランの代表的な山、富士山にどことなく似ていた。)

 

根拠のないイメージは怖い。

情報を流す側の”やらせ”を含めて、イメージを作るプロが、

確かに 世間に存在しているからだ。

 

人工的に造られたイメージは、実際そこへ行ったり、

現地で生活すれば 覆(くつがえ)される程度のものだ。

 

それでも、イメージが膨らみすぎると民衆のパワーになる

から恐ろしい。イメージは想念だ。想念というのは伝染する。

 

その国の常識がその国のみ通用しないのも、

国民の想念が常識化するまで、膨らんでいるからだ。

そのために、その民衆のパワーを利用する政治家たちが

革命を起こしたり、戦争を煽ったりする。

 

私たちの周りには、情報が多いだけに、情報の選択も必要だ。

やみくもに情報を受け取っていると、知らず知らず、

ブレインコントロールされていることに、気が付かない。

相手を知り、その国の生活を味わえば、どこでも、だれでも、

基本的人権を保障されて、生き生きとした生活を送りたいと

願っていることがわかる。

 

理解と共感が生まれ、手を差し伸べたいという愛も生まれる。

政治がらみの情報にはどこか、流した側の意図が見える。

その意図を見破らないと、民衆パワーに飲み込まれる自分を

見つける。

そうならない前に、気が付いた人から、声を上げることも、

だから、必要だ。そうして、イメージを作るための意図ある

情報は、生活している人たちの心情は別のところにあると

いっても過言でない。

 

私たち一人一人が賢明に、情報の真実を確認しながら、

対象物や人を知ることの大切さを噛みしめたい。

イラン、古物商で品物を鑑賞

知れば知るほど、理解が深まる。

相違点、類似点含めて、互いへの尊重が生まれてくる。

自分と相手の共通点が見えてくると、共感が生まれる。 ”

 

 今日のタイトルに、少々大げさな言葉だが、”顛倒妄想”と

副題を添えたい。

転倒妄想 というのは、イランの旅を終えてから、自分が

持っていたこの国に対するイメ―ジがまさに、マスコミや

他者や本などの、自分以外の世界から与えらえた無意識の

それであったことを理解し 反対のイメージに偏っていた

自分の考え方に反省した言葉だ。

 

たぶん、自分の気が付いていないだけで、数々の’顛倒妄想’

的な想い込みを私はしているに違いないし、してきたかも

しれない。

 

とはいえ、この国の奥底には、きっと、それなりに不満不平が

渦巻いているのだろう。

現実に今年(平成30年)新年の1月3日の読売新聞には 

テヘランからの通信で、

 

”イランデモ 死者15人に” という見出しで、私が訪れた

イスファン地域近郊では、治安要員1人がデモ参加者に猟銃で

撃たれて死亡、1日は、テヘランなどの都市 20カ所でデモが

あったと報告されている

 

しかし、このデモ記事から2週間ほど前 私が訪れた時は 会う

人々は温和で、街を歩いていて何人もの人や小学生から

”Welcome to Iran"(イランにようこそ!)と声をかけられるほど、

友好的な国民性を感じていたのだから、不思議な気がする。

 

旅で、出会った人たちの平和な情緒や雰囲気が、イラン人の芯に

ある気質だと信じたい。

平和を愛する国民であることを、多くの人に、もっと、知って

ほしいと思う。

 

 数百年前に造られた 電気の無い時代に水圧を利用して

同じ高さの水が上がる噴水のある水路のある公園で。

 

今現在「1月14日午後6時】、NHKのニュースでイランの

デモは解除されたことを流していた。

インターネットでの規制をすべて解除する ということを

政府が同意したからだ。

 

実際、旅で親しく話す機会のあった、企業人は、インターネット

の規制について、’見るなと言われれば、見たくなるのが人間の

本性、もっと、自由をあたえるべきだ’とつぶやいていたことを

思い出した。

これは好ましいニュースかもしれない。

 

 

 

 

 

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イランの旅(2)アメリカには簡単に行けなくなったらしい

2018年01月14日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

現実とのギャップ、イラン人の友好的態度

********************************2018・1・15

 

ホテルでの朝食ー質素なナンとチーズ、サラダ、美味しい紅茶

 

今回の、イランへの旅では、短くても、印象に残る個性的な

場所をめぐることができた。

インド経由でイランに飛んだが、テヘラン空港に着いて

小一時間ほど待って、当局からもらったアライバルビザは、

パスポートにイランに行った痕跡を残していた。

 

それは、このパスポートが切れるまでは、日本人なら大使館

でヴィザをもらわなくてよいアメリカに、フリーヴィザでは

は行けなくなったということを意味していた。

 

さて、この旅で印象的に心に残った、イランの想い出は、

到着一日目のフラリと乗った地下鉄内での経験だ。

イランに到着して、一時的に休憩するためにとった、

ホテルに荷物を置いて、地下鉄でTabiyat Bridgeに、出かけた。 

 

          Tabiyat Bridgeから見た街の風景

 

地下鉄の雰囲気は欧米の歴史を感じる先進諸国の地下鉄と同様、

進んだシステム化したものだったが、異なるのは、地下通路内

清潔で、ごみが落ちておらず暗い感じがしなかった点だ。

 

この地下鉄では、とても印象的な体験をした。

女性用車両が、モスリムの国らしく、時間帯問わず、用意されて

いたが、自分は息子と共だったので、女性用は利用せず、

普通車両に乗った。

 

 

ドアが閉まって走り出して、5分しないうちに、近くの男性が

席をたって、私に座れとポーズをした。

女性で外人、一応、モスリマとして頭をスカーフで覆っていた

ので男性の体に触れることは好ましくないと判断されたのだろう。

 

’外国人のゲスト(私)に対して、そんな不愉快な想いをさせる

のは、失礼だ’という理由から、席を譲ったのだということは、

知人のイラン人の女性に後で聞いた。

 

このブリッジに到着して橋を渡り、緑の多い、広大な敷地を

持つ公園を散策した。若者たちがカップルでデートしていたり、

女学生たちが楽しそうに話しをしている様子が、日本の公園

にいる若者たちと変わらない、和やかな雰囲気を醸し出していた。 

 

しかも、空気が、とても東洋的にウェットなのが、心地よかった。 

数年前に訪れた韓国の公園に似ていた。

イランにいるというより、12月の寒い東京郊外の散歩道を

楽しんでいるような、錯覚を覚えながら小道を散策した。 

ブリッジからは、ビル街が見渡され、モダンでしかも

しっとり落ち着いた雰囲気が楽しめた。

 

女学生たちが談笑しながら、向こう側から歩いてきた。 

異邦人である私たちに、さわやかな笑顔を向けて、通り

過ぎたかと思ったら、踵(きびす)を返して近寄ってきた。

 

”一緒に写真とっても良いですか?”と息子に尋ねた。 

頭は髪の毛が見えないように、隠しているが、服装は日本の

若い女の子たちと変わらず、表情も楽し気で、親睦的だった。

 

 

                   散歩道で

 

2時間ほど、ぶらぶらして、ホテルに戻るために帰りの地下鉄

に乗った。帰りの地下鉄内では、行きと同様 イラン人の

おもてなしの心を 行きの地下鉄内同様、追加体験した。

 

少々お年を召した男性が、私にまず、席を譲ってくれ、

隣りのさらにお年を召した男性が息子に席を譲った。

’ゲストなのだから、どうぞ、私の席に座ってください’ 

というおもてなしの心だという。 

その暖かいウェルカムのマナーに心を動かされた。

 

15分ほどの地下鉄の体験だったが、面白いことに、

いろいろな行商人が 揺れている車内通路で物販販売

を始めたのには驚かされた。 

 

その商品はさまざまで、男性用のベルトだったり、小さな

家電だったり、おもちゃだったり、立っている乗客の間を

巧みにすり抜けながら、少しでも、タイミングがあえば

揺れている車内の中で商品を広げ 商売を始めた。 

 

乗客たちの間を器用にすりぬけながら、大きな声で 掛け声

をかけながら、セールス販売をしていた。他(よそ)の地では

見かけたことのない、地下鉄車両内での、その商魂たくましさ

に可笑しくなったが、乗客たちは慣れたもので殆ど反応せず、

静かに、乗りあっていた。 

 

が、時たま行商人に声をかけて、商品を手にとったりしている

乗客がいるところを見るとなにがしかの利益は期待できるの

だろう。

 

息子が ’自分が席を譲らなければならないような人に譲られて

座るのは複雑な心境だ’ とつぶやきながら、譲られた席にかけた。 

知らない女性の体に触れては好ましくないモスリム社会の

しきたりから、私の隣に座っている男性でさえ、遠慮して息子

に席をゆずるのはイスラム社会のマナーが徹底しているからだろう。

 

デリーからテヘランの夜通しのフライトで疲れた体を、荷物を

預けたホテルでしばらく、横たえて半日の滞在時間が過ぎた。

夕方にチェックアウトの手続きをフロントでしていると、男性

スタッフが流暢な日本語で話しかけてきた。 

日本のアニメが大好きで、アニメを見ながら日本語を勉強した

という。

 

この日訪れた公園の雰囲気が東洋的だったのと同様、この日、

出会ったイラン人たちの

オーラは、やはり、東洋的な日本人にも共通する、遠慮がちで

慎み深さを感じられたのは、私だけではないようだ。

 

この国を訪れた、知りあいの日本人たち(インド在住の)は、

同様に口をそろえて、ランの旅の意外性の1つに、友好的で、

穏やかな国民性を挙げていることをつけ添えておきたい。 

その方たちからの話を聞いて、百聞は一見にしかず、一度、

まだ足を踏み入れたことのない、ペルシャ文化の中心国、

イランに行きたく思ったのも事実だ。

 

 

第一日目に数時間滞在したホテルのフロントスタッフと 記念写真。

 

 余談だが、アメリカへは最大の友好国の1つ、日本の国民は、

観光の場合、ヴィザなしで行ける。

が、イラン入国証印のあるパスポート保持者は、アメリカ

大使館を通して、ヴィザをもらう必要が生じるということだった。 

つまり、アメリカに気軽に入国できないわけで、イランに行った

理由や背景が調べられるということらしい。

その理由は、以下のような、アメリカとイランの歴史的関係を

背景にしているからだろう。

 

参考)なぜ 米国にフリーヴィザで行けなくなったかといえば、

以下のようなイランとアメリカの歴史がある。

(イランとアメリカの歴史的関係)

1.1979年4月のイスラム革命

 時に、革命政権がアメリカ政府に対して、

パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の  

関係 に変更し、パフラヴィーが私物化した財産を

イランに返還し、パフラヴィー元皇帝の身柄を

イランに引き渡すことを要求したが、カーター大統領

はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。

 

2.革命運動勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、

1979年11月にアメリカ大使館を占拠し大使館員を

人質にアメリカ政府に対する要求を継続した。

 

カーター大統領は1980年4月にイランに対する

国交断絶と経済制裁を実施した。

イスラム革命時以後の歴代のアメリカ議会・政府は、

イランを反米国家と認識し、イランに対する国交断絶・

経済制裁・敵視政策を継続している。

 

3.アメリカ政府は1984年にレーガン大統領が

イランをテロ支援国家と指定し、2008年現在まで

指定を継続している[35]

 

4.アメリカ政府は1995年にクリントン大統領が、

アメリカ企業に対してイランとの貿易・投資・金融の

禁止措置を実施した。

アメリカ議会は1996年にイランとリビアの石油・ガ

ス資源を開発する企業を制裁するイラン・リビア制裁法

[36] を可決してクリントン大統領が署名して成立し、

アメリカ議会は2001年と2006年にも制裁期間を延長

する法案を可決し、ブッシュ大統領が署名して成立し、

イランに対する制裁を継続中(リビアとは関係を

修復し制裁は解除した)である。

 

5.ブッシュ大統領は2002年の年頭教書でイランを

悪の枢軸と表現して批判した。

アメリカやイスラエルや国民の大部分がキリスト教徒

である国は、イスラエルの打倒を主張するヒズボッラー

ハマースイスラム過激派と認識し、イランが

ヒズボッラーやハマースを支援していると指摘している。

 

6.2008年1月、ブッシュ大統領は、クウェート、

バーレーン、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、

エジプトを訪問して、訪問諸国の政府に対して、

イランをテロ支援国家と認識して、国際的なイラン包囲網

への参加・協力を要請したが、いずれの訪問国の政府

もイランとの友好関係の形成を推進中であり、ブッシュ

大統領の要請に対して、いずれの訪問国の政府からも

賛同・協力は得られなかった。

 

7.2009年のイランの反アフマディーネジャード派の

大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していた

ことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、

大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパの

財団・機関が関与していた事実があったとして

「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)

を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに

対して公表し[37]、アメリカ政府もイランの体制を壊す

目的で工作していたと発表した。

(以上 ウィキペディアより抜粋)

 

 

 

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イランの旅(1)百聞は一見に如かず

2018年01月10日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

”私たちは、ステレオタイプの生活を当たり前に送っている?・・・”

*************************** 2018・1・10

 昨年12月 ほぼひと月前、私はイランへの小旅行をしました。 

ここで体験して感じたことをご報告したいと思います。

 ゾロアスター聖地の寺院で古式にのっとって祈るドライヴァーさん

 

イランから帰国して、数時間後、大切な知人の1人に充てた

メールが以下だ。

 

”数時間前、イランからインドに戻りました

 感慨深い旅でした。 

ゾロアスター教の聖地、2500メートルにある岩屋に、

教徒であるドライヴァーとモスリムの通訳ガイドと出かけました。 

 

イランの地で最も古いこの信仰にドライヴァーは尊敬を示し、

ドライヴァーが祈りを捧げているそばで、ともに、異教の聖地で

祈る姿が印象的でした。

 

インドでは、一般のムスリムは観光客をヒンズーの聖地を

案内しても、寺院でともに祈る事は考えられません。

 

この私の頭にかかった火は、寺院ができてから数百年間 絶やしたことのない聖火です。

 

シーク教徒も然りで、ヒンズー寺院に足を踏み入れる事は一生涯まず、

ないでしょう。

そういう環境の中にいた私にとって、イランの国の平和な静かな

雰囲気に感銘をうけたと同時に 一般の人々のこうした、宗教への

慣用性、しかも、モスリム教の国でありながらという点で、再び 

スピリチュアリティーという言葉を考えさせられました。  

 

ホテルで朝食のテーブルをともにした30代の一人旅のモスリムの

女性が、インドの話題になったとき、ヒンズー教のマントラを

口ずさみ、ヨガの講師の資格をとり、モスリムたちにヨガを教えて

いるという話を聴いたときは、正直、嬉しい驚きでした。 

 

その彼女と・・・

 

ヨガはヴェーダのセオリーを理解することでより深いものになる

事を彼女は知っていました。 

そして、すべての宗教はそれとして、認め、スピリチュアリティー

を深めるためには、ヨガを選んだという、てらいのない、彼女の

意見に、さらに驚かされました。

 

モスリムであることと、ヒンズー教の奥義を学ぶ事は矛盾しない

という態度でした。この彼女の意見に私は勇気を得ました。

シーア派のモスリム国の中で、こうした意見は特別かと思いました

が、自分と出会ったイラン人たちはスピリチュアルという観点で、

独特の慣用性を持っている様に感じられました。 

 

彼女が教えるヨガのモスリムの生徒たちには、ヒンズー教の奥義

までは話していないが、しかし、自分はそれをスピリチュアリズム

としてとらえ、もっと深めていきたいという彼女の態度にも共感

覚えました。

 

私【須田】と同波長であると 初めて挨拶を交わしたとき感じた

そうです。宇宙の意思で 同波長の人同士はどんなに遠く離れて

いても、必ず、出会うと、信じているそうです。

神の意思 という言葉の代わりに 宇宙の意思という言葉を使って

いるのも興味深く思いました。

 

30代の旅行会社の社長の女性に、これに関する質問をすると、

”宗教に生きているのではなく、宗教は人間として、より良い

人間となるため必要なのだから、イスラム教だけに固執はしない。

 

自分はその人が何教を信じているかではなく、その人の人間性

の深さが大切だと思う” と自然体で話す姿は、爽やかでした。

 

他にも、イスラム教徒のガイドはアルメニアン人たちのカトリック

の教会へ案内してくれましたが、モスク建築様式が見られ、

キリストの受難の絵柄の下には、ペルシャ調のモスクに施されて

るペイントが描かれ文化が双方溶け合っているようで 印象

でした。

今回の旅は 百聞は一見にしかず の意味を納得するもの

でした。

自分の目でみて聞いて、肌で感じる、心を動かされる、そうした

要素は、本や他者の意見に左右されるべきものではないことを

実感しました。

そして、世界は、ある種のプロパガンダの力で本当のことを

ゆがめて世界中の人たちに印象づけることが可能だということも。。。

 

何故なら、イランは最も恐るべきテロリストが存在すると、

アメリカのマスコミでは伝えていますが、あの国ほど、平和な

オーラを持つ国は、今まで訪れた、30カ国近い国々でなかった

からです

 

個人的で新鮮な感動でしたが共有してくださるかと思い、一筆

いたしました。読み流していただければ幸いです。”

と、知り合いにイランへ行った折の感想をメールで送った。

そして、その方からのお返事に次の言葉が印象に残った。

 

”私たちはとても狭いところで、それもステレオタイプ的に

物事を判断し、生き方さえ狭めているのではないかと、

須田さんのメールを読んで思いました。”

 

 イランの古代都市 イスファハーンの風景

 

 

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