自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ヒマラヤ聖者エミール大師の奇跡(11)

2013年06月30日 | 健康と直結する”一元論”について

ケオスの訳は”霊的実存”         平成25年6月30日

******************

 

 著者はしがきから

わたしは、1894年に極東を訪れた11人の調査団の

一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるのを実際

見るために、大師がたの生活の中に親しく入り込むことを

許してくれた。

私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活と

教え”と題して、発表するが、そこに盛られた内容をそのまま

受け入れるか、否認するかは、読者の自由である。

大師が隊員の前で見せた、パンの創造も 氷の創造も 結局は、

宇宙の創造と同一、創造するために必要な根本原理は 一つだ

大師はいう。

それは,想念の中に潜在する'未発エネルギー'の操作、普遍

原質(*1)として蓄えられているものの発現の方法を知ること

であるという。

大師は言う。

 

愛する同胞たちよ。

初めに 言葉があり、言葉は神とともに在りました。

皆さんは このことが本当にお分りでしょうか?

この天地創造の初めには、後に形造られるべきものは、

みな、精神的普遍原質料(言い変えれば混沌~ケオス)の中に 

未顕の形 としてあったのです。

この言葉は 原語では、実存(Actuality) となっています。

ケオスと言う言葉は、誤って 混沌あるいは、相闘う状態の

意味に解されているが、本当の意味は、 明確にして創造的な

言葉として発声され、次第に具体的現実となって、 

顕現しようと常に待機している 深い霊的実存状態のことです。

神なる、大原理が 精神的普遍原質より、世界を創りだす際、

神は黙して、瞑想し給いたのです。

言い変えれば、神は理想的な世界を観じ給うたのです。

世界形成の素となる、原質をそのヴァイヴレーションが低下

するまで御心の中に 

把持し続け、しかる後、言葉を落とし給うたら、世界が現出した

のです。

 

或いはこう言い換えても良い。

神が或る精神的原型を観じ給うとき、世界形成に要する原質が

その中に流れ入り、この原型の上に 完全なる外形が出来上がった

と。“(78

 

以上が 神の宇宙創造の仕組みであり、私たち日常の中の創造も

これと変わらないことを 大師は次のように説明する。

 

“以上全部を、無限力の神が 如何に思いついたとしても、いくら

長い間、それを具体化しようと望み給うても明確なる言葉として

無形のエーテル(すなわち、普遍的原質)の中に、投入しなければ、

何一つとして創造は行われなかったであろうし、また、何一つとして 

可視的形態となるものもなかったでしょう。

 

このように、無限にして、全能なる創造主でさえ、その想念と

希望を目に見える形で結実、確立し、実存から秩序ある形

もたらすためには、在れ!’という、明確、積極的な言葉の発声が

必要だったのです。

 

故に、わたしどもも、何かの創造にあたっては、明確な手段を

とらなければならないのです。“(79

 

としたうえで、天国(今 ここにある実相の世界) について 

次のように語る。

 

天国には 物質というものは何一つ存在せず、すべては 霊 

のみであることを 知らなければなりません。

天国とは、完全なる 意識の状態、今此処、完全なる世界

あることを知らなければなりません。

それを受け入れることです。

そのような天国が 私どもの周りにあって、私どもの内なる目の

開くのを待っています。

 

その目を通して、私どもの肉体は光となる。それは太陽や月の光

ではなくて、実に父なる 神の光です。

父なる神は、私たちの存在の奥に、今、此処に、在る。物質性の

ものは、何一つとしてなく、すべては霊であることを知らねば

ならない。“(79

 

現象世界の本質世界を天国と 大師はいっているのであって、

われわれが死んでから行く世界という意味合いではないことは

明白だ。

今、此処 にある、その実相世界で創造が、行われるのだと、

大師はいう。

調査員は大師の言葉を次のように記している。

 

光あれと、神は言い給うたすると、その通りになった。

同じ方法で、‘空在れ’と言い給うと、その通りになった。

他の被造物もすべて同じ。 

創造とは、それぞれの形、理念をしっかり、意識の中に持ち続けてから、

言葉を発し給う。 

すると、理念が具象化する。人間の創造もそうであった。 

神はわが姿にかたどりて 造り、物皆の上に君臨せしめん”、

 

これが人間を創造するときの神の理念だった。それからという

もの、人間は善のみしか見なかった。

神から離れ、二元論に落ち込むまでの間は、すべてが善かった。

 

しかし、二元論に陥った人間は、自分の想念の創造力で、二つの物

を作り上げてしまった。

片や善、片や悪、反対物という理由は、二つある以上、それは相互

に相反することになるからだ。

人間に本来備わっている完全な力により、悪を見つめることに

よって、悪が造りだされてしまったのです。

もし、人間が悪を見なければ、悪は出現の力を与えられなかった

でしょう。

しかし、神の眼から見れば、天国は初めから、今、此処に、

そして常に在るのです

・・・略・・・

神は人間に対して、神同様に、自由、しかも、まったく神と同じ

やり方でこの創造力を 駆使することを期待し給うのだ。

 

そのやり方というのは、まず、必要なものを確かめ、その型

を意識の中に描き続け、そのうちで、理想的なものを観じ、

それから、‘すでに与えられたり、善し’と言葉に出して言うことです。

 

そうすると、心的普遍質料がその中に流れ行って、型の中身となり、

観じたとおりの善きものとなって、出現するのです。“ (80)

 

 

 

*1)

ここでいう創造の普遍的法則というのは、宇宙にある、究極の

質量を利用して創造をおこなうことを指している。

宇宙はいくつも階層、あるいは次元より成り立つ。

それらがいわば同心円を 形造り、次元階層を全く異に

しながら、高い階層は低い階層の世界に浸透している

という。

 

そうして、各界層毎に、その階層における、質料(原料)が

あまねく満ちており、その階層の一切の現象は同一質料に

よって、形成されている。

例えば、物質界には、物質という質料、原質が満ちている。

究極の質料は、あらゆる階層に偏在する。

これを普遍質料と呼び、この質料によって、パンの出現や、

氷の出現を大師は為したという。 

この創造の原理を、ここで、説明している。

 

引用箇所)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

  

 

Copyright : NPO Spontaneous Healing Therapy Japan: All Rights Reserved.

 

 

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ヒマラヤ聖者エミール大師の奇跡[10]

2013年06月29日 | 健康と直結する”一元論”について

創造力が破壊力と変わるとき  平成25年6月29日

***************************************************** 

 著者はしがきから

わたしは、1894年に極東を訪れた11人の調査団の

一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるのを

実際に見るために、大師がたの生活の中に親しく入り込む

ことを許してくれた。

私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活と

教え”と題して、発表するが、そこに盛られた内容をそのまま

受け入れるか、否認するかは、読者の自由である。

 

 

飢えそうな隊員たちに,イエスがガラリアで見せた奇跡と同様

手の中から パンを次々と出してテーブルの上に乗せて並べた

大師。

必要な数だけ出してしまうと、種パンとなった最後のバンが 

大師の手のひらの中から、消えかかりそうになっていた。

その現象を見ながら、大師は、このように説明した。

 

今、(消えたパンは)未発の形の中に潜在して、終日の再発現

を待っているのではないでしょうか。

それらはすべて、出発点の普遍原質(すなわち神)に返るのでは

ないでしょうか。

これが天より降りたる者は天にのぼらざるべからず’ということ

の意味ではないでしょうか。

 

見たところ、これという原因もないのに、氷ができたのを、

皆さんは少し前に目撃しました。

バンを創る場合にしてもそうです。

人類の福利になる限り、あるいはまた、法則に従って働く限り、

神がすべての人々にそうあって欲しいとお望みになるように、

表現するのである限り、私は法則を使用して、パンでも氷でも

造ることはできます。

 

こういう風にして、皆がパンや氷、いや、なんでもすべての

物が造れることは 結構なことであって、皆がそうできるところ

まで、皆さんも早く向上していかなければなりません。

イエスのように、われ、神の子なりと悟り、最高の法則、即ち、

神の絶対的法則を使用して、皆さんの必要とする事物、あるいは 

理想的状況を 心中に包蔵することで、それらを実現することが

可能です。

 

このことの中に、金儲け主義への隷従、その他、一切の奴隷状態

からの解放が暗示されているでしょう。

私のみるところでは、ここ数年もすれば、一切の奴隷化のうちでも、

金儲け主義への奴隷化が最大のものとなるでしょう。

もし今の状態で行くのなら、営利主義が人間を霊肉ともに支配し

ついには、営利行為自体 及び 営利行為に関心のある人々

自体が、消滅するほかない。

 

営利主義が 始めのうちは 或る高い霊的段階にあった(*1)

ことは疑いはないが、そのうち、物質主義が忍び込む勝因と

なって、遂には、本来の付随している創造力までも、破壊力

変えてしまうものです。

このような営利主義や制限作用が 私どもにのしかかっている

ということは、私どもがそれらの上に出ること、即ち克服しな

ければならないことを悟らしめつつあるのではないでしょうか。

 

 

 

わたしどもも、神の完全な御業をなすべきであること、私どもの

意識を実相(真我)意識にまで高めるべきことを悟るだけで、

それができるのではないでしょうか。“ 76)(77

 

エミール師のこの予言めいた言葉に注目したい。

今世紀が、人類史上でもっとも経済社会、金儲け社会、あるいは、

営利主義の発達した世界となるであろうということ。

そして、人間の霊肉ともに営利主義の従属状態を余儀なくされる

ことになるだろういうこと。

本来 精神的にも 肉体的にも助け合い、救助されるべき人たち

が、営利主義の犠牲になったり、不当な扱いをされたりしている

事実は、確かに、ニュースでも聞くし、実際、あるかもしれない。

 

たとえば、年金暮らしのお年寄りをターゲットに展開される、

悪質なビジネスや、公の仕事に着いている人たちが不当な賄賂

を受け取り、寄付金の多寡で その企業を優遇したりすること

など、その範囲は かなり広く見受けられる状況かもしれない。

 

 

 

”生きがいの創造”シリーズで高名な、飯田史彦氏は、

スピリチュアルなベストセラーのシリーズを書かれている。

しかし、肩書は 元福島大学教授、専攻分野は経済学である。

氏は、著作の中で 氏の指導霊の意見について、触れている。 

飯田氏の指導霊は、エミール師の預言同様の事柄を告げて、

これからの社会が進んでいく傾向が きわめて利潤追求の

世界である以上、経済学者として、世の中に出る方が人々に、

ご自身の主張を、人々が受け入れやすいと指導され

と書いておられる。

 

経済至上主義の中で、その分野の専門家ということなら、

氏の使命が遂行しやすいということだろうと 理解した。

つまり、経済社会の中で、精神世界と重複した部分で、

飯田元教授の世の中への使命(スピリチュアルな面での)

達成されるということであるのだろう。

 

エミール師は、営利主義も、それに突き進んでいる人たちも、

このままでは、消滅する運命にあるだろう~という。

これは、人間が、価値観の転換を行わない限り、人間に

与えられた創造力は 破壊力と方向を変えて自滅していく

だろうという予言でもある。

 

本著が書かれた当時、これほど、原子力兵器の脅威は感じら

れていなかっただろう。 

現在では、原子力核兵器のみならず、平和的活用と見えた、

原子力発電まで 核の脅威をもたらしている。

こうした、現代社会の背景にある、営利主義や人類存続を

脅かす驚異が・・・

 

”私どもにのしかかっているということは、私どもがそれら

の上に出ること、即ち克服しなければならないことを悟らしめ

つつあるのではないでしょうか。 

わたしどもも、神の完全な御業をなすべきであること、私ども

の意識を実相(真我)意識にまで高めるべきことを悟るだけで、

それができるのではないでしょうか。“ 

 

という、エミール師のこの言葉を噛みしめたい。

今、自分自身の自己認識を改め、自分自身に無意識にかけている

自己催眠を解くこと。

それが、”新しい時代の波” を迎え、このまま突き進んで後結果果、

”経済営利中心主義やそれにかかわった人たちの魂の消滅”という、

危機的状況を避けえる、方法の一つであることをエミール師は 

調査団に語り、それから半世紀過ぎた今、この忠告が生かされる

べきだと、つくづく感じる次第だ。

 

 

 *1)無限の発展力である、人間精神も、その歴史のはじめ

において、潜在し、休眠しているにすぎなかった。 

原始人間は、動物との闘争、人間相互の闘争を通じて、誤った

方向も含めてではあるが、知能が開発されていった。

商業の発達により、営利という行為によって、物質的豊かさ

を知り、同時に、地域別に、いろいろな知恵や文化開発

されたのであり、ある意味では、人間の無限の可能性の進展、

やがて、霊性への自覚へともつながる創造性の道のりが

あったともいえるだろう。

 

 

参考)

 ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 

全5巻

S54年6月5日第五版 

ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

  

 

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ヒマラヤ聖者エミール大師の奇跡(9)

2013年06月28日 | 健康と直結する”一元論”について

パンを手の中から次々と出す     平成25年6月28日

*************************************

著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた11人の

調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるのを

実際に見るために、大師がたの生活の中に,親しく入り

込むことを許してくれた。

 

 

 

”あなた方も私が為した業をするであろう。

これよりもなお、大きな業をするであろう” 

これはイエスの言葉である。

この”為した業”というのは、聖書に記されているお話しで、

イエスが、ガリレアでバンを割き、必要な人々のために

パンを創造した奇跡をさしている。

 

大師も、調査団隊員を前にして、同様のことを,行(おこな)

って見せた。

それは調査隊が 自然災害のため、一か所に留まらざる

得なくなり、食糧が尽き果てる直前の出来事だった。

エミール大師が来て このように言った。

 

“心配せんでもよろしい。

神は大小の如何を問わず、その被造物一切の世話を見給う

ものです。

私どもは神の被造物えはありませんか? 

ほら、ここに、56粒の麦粒、麦の種子があります。

これを植えることにしましょう。

これは、麦が欲しいと宣言したことになります。

そうすると、私は心の中で麦という穀物を形造ったことに

なる。

つまり、具象化するには、まず、心の中で描くという 

法則を成就したことになる。

したがって、そのうちに麦が生え出てくるでしょう。

しかし、大自然は 成長も展開も遅いものです。

その大自然が 麦を生やさせるために、長い根気のいる

過程がある。

でもそれを待つ必要があるでしょうか?

もし、そうなら、麦を手に入れるのに 長い間待たなけ

ればならない。 

しかし、何故、父なる神が、私どもに与えてくださった

もっと、高度の、もっと完全な法則を使わないの

でしょうか。 


ただ、そのために必要なものは、心を静め、心の中で

観ずること。

言い変えれば、その理想的状況を描くことです。

そうすると、きちんと手入れされて使用するばかりに

なっている麦が手にはいるのです。

もし、本物かどうか疑わしいのなら、それを集め、粉に

ひいて、パンにしてみるとよい“(72

 

 

 

そして、その種を蒔くと、あれよあれよと言う間に、

目の前に芽が出てきて伸び、手入れされた状況に

生長したのだ。

そして、それを集めて、パンを作ることができた。

エミール師は、言葉を続ける。

 

“みなさんは、今、これを目前に見て、信じた。

今度は一層完全な法則を適用して、一層完全なるものを、

つまり、皆さんのちょうど望んでいる、パンを出そう

ではありませんか。

この完全、’皆さんならより、微妙なーとでも言いそうな、

法則(*1)適用して、私が自分のまさしく必要とする

もの、今は、パンを出すことができるのをお見せしよう。“

72

 

 

 

調査団たちが 茫然と立ち尽くしている中、大きなパン

が一つ、大師の手の中に顕れたという。

そして、次々と現れて、テーブルの上にエミール師が、

合計 40個のパン置いて並べた。

食べてみると、隊員たちは声を出して “確かに、おいしい”

味わって、食べた。

それを見て、さらにエミール師が言う。

 

 

 

これは催眠術ではない。現に皆さんの中で催眠術に

かかっていると 、思っている人は誰もいないはずです。

ここで 特にことわっておきたいことは、催眠術は一つ

しかないことです。

それは、人間には、神の完全なる御業を自ら成して、

自分の欲する事物を 創造することはできないと 信じ込む、

自己催眠だけである。

 

必要とすること自体に創造の意欲が働いているではありま

せんか。

しかるに、神の意思に反して実相を展開し、創造しようと

しないで、自分自身の小さな殻に閉じこもって、私には

できないなどと、自己催眠にかけ、ついには自分を神とは 

全く別の存在と信じ込んでしまう。“

 

と、エミール師が述べた後で、この“神の御業”のような

ことは、イエスが、

あなた方も私のする業をするであろう” 

と言った通り、誰でもできることであると大師はいう。

 

“人間が神の子として、実相において、神と同じく、

完全に、かつ、調和のうちに、創造し得るものであること

を示すことが、イエスの地上における本当の使命だった

のです。 

イエスが盲目の男に、シロアムの池で目を洗うように

命じたは(*2実はすべての人々の心の目を開こう

されたからではないか。

 

父なる神は、私ども人間が、神とまったく同様に想像

することを意図しているのだーということを示すために、

イエスを使わされたのであって、人間の実相がすべて、

キリストであることを認めることにより、

誰でもイエスと同じ完全な御業ができるようになって

いることを、総ての人は悟るべきでした。“

 

 

*1)

ここでいう創造の普遍的法則というのは、

宇宙にある、究極の質量を利用して

創造をおこなうことを指している。

宇宙はいくつも階層、あるいは次元より

成り立つ。

それらがいわば同心円を 形造り、

次元階層を全く異にしながら、高い階層は

低い階層の世界に浸透しているという。

 

そうして、各界層毎に、その階層における、

質料(原料)があまねく満ちており、

その階層の一切の現象は同一質料によって、

形成されている。

例えば、物質界には、物質という質料、

原質が満ちている。

究極の質料は、あらゆる階層に 

偏在する。

 

これを普遍質料と呼び、この質料によって、

パンの出現や、氷の出現を大師は為したという。 

この創造の原理を、大師は研究員たちに、

ここで、説明している。

 

*2) ヨハネ伝 9章1~11節

 

  

参考)

 ヒマラヤ聖者の生活研究―

自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 

ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

  

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ヒマラヤ聖者エミール大師の奇跡(8)

2013年06月27日 | 健康と直結する”一元論”について

誰にも来る再び生まれる時   平成25年6月27日

***********************************************

 

著者はしがきから

わたしは、1894年に極東を訪れた11人の調査団

の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに

接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるの

を実際に見るために、大師がたの生活の中に親しく

入り込むことを許してくれた。

********************

 

旅は 順調に続けられていた。

ある朝、日の暮れる前に、到着地に着くと、翌朝、

エミール大師が現れた。

その大師の語るお話しである。

 

皆さんに話をする場合、私が皆さんの言葉(英語)を

使うのは、私たちの信念の底にある、大いなる原理を、

少しでも多く、皆さんに判ってもらおう、

という気持ちから出ています。

総ての人が、一様に真理を正しく掴んでおれば、彼らは

その根源を同じくすることになりはしないでしょうか?

 

 私たちは 普遍心~Universal Mind~、即ち、神において、

一つではないでしょうか?

私たちは、すべて一つの家族ではないでしょうか? 

総ての子らは、この地上に生まれたすべての子供は、

その種族や信条はどうであろうと、この大家族の一員では

ないでしょうか?”

 

さらに、大師は言葉を続ける。

 イエスが ‘我はドアー(須田注: 扉、入り口の意味)で

ある と言われたのは、各人の魂の中にある I AM

(神我=われ神なりという実相)こそ、神の偉大なる 

生命 と 力 とに等しく、各人が、それを、具象化

する入口として、イエスが来て各人が、それに、気が

付くことを、言い表したのです。

 

 

この I AM が、現れ出る方法は ただ一つあるだけで、

それは、考え、想念・言葉・行為 によるということです。

この I AM、即ち 神なる、実相、(力、本質、智慧)

は 意識 だけによって、形 が与えられている。 

このゆえに、大師キリストは、汝の信ずるが如く 

汝になれ’ と 言い給い、また、

信ずるものには、すべてのことが可能である’ 

と言われたのです。

 

わたしたちは、今や、神が力、本質、智慧として、

霊的な言葉で言い変えれば、智慧、愛、真理 として

魂の中にあり、意識によって、具象化し、表現される

ことを知りました。(*1)

さて、意識は神の無限なる心の中にあり、意識が人間

であります。

その意識は 人間の心の中に持ち続けている観念、

あるいは信念によって、決定される。

 

わたしどもの、形体がやがては、老い死滅するのは、

自分が神の霊とは別のものであると 信じ込んでいる

ためです。

形体は常に、神の霊とは 別のものであると

信じ込んでいるためです。


神の霊こそ、すべてであり、形体は常に、神の愛が 

刻一刻と神自身の心を 表現しつつあると分かれば、

霊より生まれるもの、霊より来るものは霊であること

わかるでしょう

 

このような意識を通して、次に啓示される偉大なる

真理は、人間一人ひとりが神の心の産物である、

したがって、人間一人ひとりが 神の心の中で完全

なる想念として描かれている、ということであります


だから、わたしどもは、何も自分のことを とやかく

考え煩う必要はない。

わたしどもは、すでに神の完全なる心の中で、

完全なる存在として、完全に考えられ、描かれて

いるのです。

 

こう悟ることによって、私たちは 神の心に触れ、

神が私たちのために、既に描かれたことを、私たちも

再び、描くことができるのです。

 

 

これがイエスのいわゆる、再び、生まれる という

ことです。

これは沈黙がもたらす偉大なる贈り物です。

なぜなら、神の心に接することによって、私たちは神

心で考えることができ、間違って’思い込んでいるイメージ

自分’ではなく、’実相の自分自身’ を知ることが

できるからです 

 

私たちは正念によって、神の心に接し、真のすがたを

表すことができる。

しかし、イメージが完全であろうと、不完全であろうと、

その本質は 完全なる神の力、原質、智慧である


私どもが変えたいと望むのは イメージの実相では

なく、実相が摂っている姿(イメージ)なのです

(*2)

 

 

それは、心を 再び新しくすることにより、または、

不完全な考え方より、完全な考え方への切り替え、

人間的な考え方より、神の考え方に切り替えること

によってできます。

 沈黙、即ち、我の心を鎮めることが、如何に等しく

重大であることか。

 

 

我の心が静まったとき、初めてわたしたちは

義(正しく使うことrighteousness=right-use-ness)

太陽が癒しをその翼にもたらして昇る~ことを知る

でしょう

あたかも、日光が暗黒に満ちた部屋に充ち溢れるように、

神の心が意識の中に、充ち溢れます。

 

また、我の心の中に、神の普遍心が滲透していくのは、

ちょうど、締め切られていた 室内の長く淀み 

穢れていた空気の中に、莫大な量の空気が滲透して

いくようなものです。“(6066

 

******************************************

 

*1) でエミール師が語っているところは、今まで 

出てきた言葉で言えば唯心所現 の法則と言い換える

ことができると思う。

意識によって、具象化し、表現される ということは、

私たちが何を思うか、何をしたいか、何をビジョン化

するかなどの、心の意識行為によって、現実に

それらの状況が造りだされるという法則だ。

*2)

”私たちは正念によって、神の心に接し、真のすがた

を表すことができる。

しかし、イメージが完全であろうと、不完全であろう

と、”その本質は 完全なる神の力、原質、智慧である。

私どもが変えたいと望むのは イメージの実相ではなく、

実相が摂っている姿(イメージ)なので。”

という師の言葉にイメージの実相 と、この現実世界に

表れている、状態、つまり、実相が表すイメージ

違いが語られている。 

 

私たちが留意するべき点は、イメージ(像)の

中での曖昧な実相観念ではなく、

神の心に即した我々本来の姿であるとエミール大師はいう。

言い換えれば、

実相をベースにして、それが 顕現するところの 

イメージを心に置くということだろう。

 

それは、私たちのイメージする力の強弱の問題ではなく、

正念、つまり、本気でそれを求めたときに、必然的に

気が付くものであり、すべての人にすでに備わって

いるからこそ、現実に顕現されるタイミングを待って

いるだけといえるだろう。

 

 

参考)

 ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

 

Copyright : NPO Spontaneous Healing Therapy Japan: All Rights Reserved.

 

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ヒマラヤ聖者エミール大師の奇跡(7)

2013年06月26日 | 健康と直結する”一元論”について

石をパンに変える力は万人が持っている・・平成25年6月26日

*******************************

 

著者はしがきから

わたしが1894年に極東を訪れた11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるのを実際に見る

ために、大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許してくれた。

 *************

大師は続けて語る: 

”もし、人が自分よりも優れた第三者~実は自分自身~を知るよう

になったら、彼を私室に招き入れ戸を閉めるがよい。

そうすれば、そのもの~すなわち自分自身~が最も、危険な敵で

あることがわかると同時に、その敵の克服の仕方もわかるでしょう。

 

即ち、自分の真我が分る。自分に最も忠実な友、最も賢明な教師、

最も、安全な忠告者が、実はまた、自分自身であることがわかる。

 

沈黙の中に祭壇があり、神こそ、その祭壇の上なる不尽の火、

一切の美と力との根源であり、それが本当の自分自身であること

を知るでしょう。

 

神は沈黙の最も深き所にまします。

聖なるものの中でも、もっとも 聖なるものが 我が内にいます。

我が望みは すべて神の心の中にあり、その故に、我が望みは

そのままに神の望みでもある。

神と我々は、実は一つであるのに、(ちょうど、魂と肉体との

関係のように)、これまで 別のものと思ってきたのは実は 

心で 勝手に、そう思い込んでいたのです。

 

神は天地に充ち満ちてあり給う。

沈黙の中に ヤコブに 示されたのは この大いなる暗示でした。

その時までは彼は 物質性という石の上に寝ていたのです。(*1

神の啓示が ぱっと 大きくひらめいたとき、外なるものは、

内なる像の表出にしかすぎないことを 彼は悟りました。

その感動のあまりの叫びが・・・ 

 

誠にも主即ち法則~は此処~地上乃至肉体~に在しますに、われ、

そを知らざりき。

こは、神の舎(みあらか)そのものにして、天に到る門なり‘でした。

 

人はすべてヤコブの如く、天に到る、真の門は、彼自身の意識で

あることを悟るでしょう。

 

 

私たちは皆、ヤコブが霊視した 意識(心)という梯子を上って、

初めて至高の聖なる場所に入ることができるのです。

 

その梯子に上り、自分が 一切万物の 核心の中に在り、見えると

見えざるとを問わず、遍在する神の中において、万物と一体であり、

万物が光り、万物が遍在者によって 成り出たものであることを

知らねばなりません。

 

 

そのヴィジョンの中で、彼ヤコブは地より、天に到る梯子を

見せられ、天使たちがその上を上り下りする~すなわち

神の想念(idea)が神霊より、形相へ下り、また上る、のを

見たのです。

 

これは 聖なる心に蔵された観念が形相となる微妙な 顕現法則 

を悟ったときに、イエスが感じた啓示同じものでした。

 

この啓示によって、イエスは すべて形相はそれにつながりのある

意識を変えれば 形相も変えることができるという真理を直ちに

悟ったのでした。

 

イエスに対する最初の誘惑は、石の形をパンに変えることでした。

しかし、この神の顕現法則の啓示とともに、イエスは他の目に

見える形あるものと同じように、石にしても普遍的心質

Universal Mind Substance)、即ち、神より来るものであり、

石自身が神のみ心が形となって、現れた物である一方、欲しくは

あるけれど、いまだ形となって現れていないものは、まだ、この

心的普遍質の中にとどまっていて、それが 創造、即ち、形を

とって、現れ、すべての欲望を満たしてやろうとする態勢にあること

を把握したのでした(*2)

 

たとえば、パンが欲しいということは、パンや その他何であれ、

必要なものを作る 素材が無限に手近にあるのであって、石が

そうであったのと まったく同じように、パンにしても作られ

得るものです。

 

人間が善きことを望めば、それはすべて神の望みです。

故に、私どもは、周囲を取り巻く、普遍的神質Universal God

 Substanceの中にすでに、無限の供給を得ており、すべての

望みを満たしてくれるのです。

 

 

私どもの為すべきことは、神が私たちのために、すでに作り給うて

あるものの使用法を学ぶだけです。

 

神は 人間があるゆる制限より解放され‘豊かにして自由’となることを

望み給うからです。神は人間に対してそう意思し給うのです。”

****************

*1) 創世記28章、10

*2) 大師はここで、抽象的ではあるが、物質を違う物質に

変えたり、欲しいと思うのものを現実化させたりする、その神妙

法則を大まかに語っている。

 

”あるヨギの自叙伝”の作者、ヨガナンダ師は、自身の師の

そのまた師である、ラヒリ・マハサヤ師のエピソードを、

著書に綴っている。

今生で、再び、魂の師である、ヒマラヤの聖者ババジに出会い、

過去生を想いだし、最期の、カルマ、(残された欲望の種を含む、

ラヒリ師の想念)を消すために、ババジが壮大なファンタジー

の世界をヒマラヤの一画に造りだす。

 それは、ラヒリ師が、まだ、心の奥底にあった現世の物質への執着、

断ち切るために必要だったのだ。

 

何かといえば、絢爛豪華な宮殿を自分の物としてみたいという、

隠れた密かな願いだった。そこで、ババジはヒマラヤの洞窟を、

豪華な、宮殿へと変容させる。

 

著書の中では、実際、ラヒリ師が触る、壁に使われている宝石の

数々、そこでいただく晩餐の銀の食器など、夢うつつの世界では

なく、まさに、現実として、体験させられる様子が描かれている。

 

そして その饗宴を心から感動して、(驚愕とともに)ラヒリ師が

楽しむと、一瞬のうちに美しい宮殿は雲散霧消して、岩のゴロゴロ

した、瞑想に使っていたいつもの洞窟に戻る

 

この変換のテクニックを、ババジは、ヨガナンダ師の著書の中で

語っている。

やはり、エミール大師と同様のことを、ラヒリ師に示唆していた.

こうして出現させた物質は一瞬のうちに、心の法則を使って、

顕わすことが可能だし、また、消滅させることも意思の力で自由

である~と。

 

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参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

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