自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

再度 ギータの解釈とヨガ

2017年07月30日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

神話のしめす意味   2017・7.30

***************************************

Murudeshwar, アラビア海, カルナタカ州, Gopuram

 

Bhagavad Gita (バカヴァッド ギータ)に関して シリーズ的に

まとまったものをご紹介したいと試みてきたが、みな中途半端で終わって

しまった。

それは、日常生活とかけ離れた異国の神話をお話することは、読者のニーズと

かみ合わないと解釈されているのではないかという一抹の懸念があったから

だろう。

が、一元論そのものを主体として、真理の生活の手引きとして、クリシュナが

アルジュナに戦場の戦車馬車(チャリオット)の馬上で、やさしく、かみ砕いて

教えるギータを、再び、違う角度からご紹介したいと今回は思った。


数日前にお話ししたように、究極の身心の癒し、それは、物質的なものの

影響で来るのではなく、形而上的、つまり、心の奥深いところからの’納得’

された真理によってもたらされると信じるからだ。 

それは、一元論的観方、すべては善であり、美であり、真理であるという

観方からしか生じえない。

 

ところで、皆様、神話というのは、本当にただの超古代のおとぎ話程度の

お話にすぎないのだろうか?

次の著名な人達の言葉をどう受け取ったらよいのだろう?

たとえばアーノルド・J・トインビー博士。 博士は、西欧中心の歴史観

でなく、イスラム、仏教、それに特殊な存在としての日本にも着目した

20世紀最大の歴史家の一人といわれる。

各文明国の発展を描いた『歴史の研究』(原著1934-1961年)は最も

しられている本であるが、トインビー博士は日本の伊勢神宮に訪れたときに 

しるした言葉が残っている。

それは、

「Here, in this holy place, I feel the underlying unity of all religions.」

「私は、ここ、聖地にあって、諸宗教の根源的統一性を感じます」

(情報源:人間と文明の行方 日本評論社 トインビー100年記念論集 

P-250~)

 

トインビー博士は、その国の神話を子供たちが12~13歳(小学校義務教育)で

学ばなかった国は例外なく滅んでいくという言葉も残している。 


神話の中に、深淵なる智慧やその国の民の歴史が込められていることで、

自国への愛国心を持ち、誇りとともに、他国への理解を生む下地が造られる

からだ。


自国の神話をその民から切り離すことで、自虐的価値観の素地をつくり、

他国の文化への必要以上の憧憬を起こさせ、自国文化の価値観への

不認識などが生じさせることができる。


結局、何世代か経つうちに、その国の精神的力や、アイデンティティー

意識は、失われていく。 

実際、敗戦後の日本では、日本人の個性と長所を徹底的に研究した、

アメリカの調査機関によって日本弱体化をはかるために、あるプログラム

を適用した。 


それが、WGIP(War Guilt Information Program)と呼ばれるプログラムで、

民主化の名目のもとに、日本人に神話を忘れさせ、神道の大和心、天なる道

という古来の精神文化に無関心にさせ、精神的中枢神経を抜かれる集団と

化すべき、GHQの長期戦略が、占領時代に開始されていたという事実は、

多くの、諸賢の警告の中に知るところである。

 

占領下の日本弱体化のためのプログラムが、長期的計画で(100年)仕掛けら

れたと聞いたが、現在にいたるまで、じわじわとまだ、その影響を及ぼして

いるのかもしれない。


嫁ぎ先の祖母は 賀川豊彦師に師事し、キリスト教を学んだ。

その折、師自ら、”古くから残されている書を大切に、もっと、読むべきである”

と語ったと聞いたことがある。


それは何か? 

祖母は、古事記やホツマツタエという、日本古来の書を指すのだと直観した

という。

 

神話は、その国の民の精神的遺産である。

日本には古事記、そして、現代の宗教本庁では正式に認められて

いないが、それよりさらに古い文献とされるホツマツタエ(秀真伝え)

が残されている。 


同様、インドには多くのまだ神話が残されていて、これから再度ご紹介する、


バカヴァッド ギータ は、単なる神話を超えて、現代のインド人の

あらゆる階層に受け入れられ、幼いころから教科書で教えられ、

道徳的・精神的よりどころとして、インド人の精神力の源になっている

きわめて古い歴史をもつ、‘聖なる書’と解されよう。

 

バカヴァッド ギータはシンプルに ギータとも呼ばれる。

ギータに展開されるクリシュナとアルジュナの会話の中から、

今回のシリーズはヨガに関するものを種類別にしてご紹介したい。


ヨガ とは、神と一体になることを意味するが、その方法は

さまざまである。

一般に、体操のように様々な体のポーズをとり、呼吸を支配しながら行う

ヨガはハタヨガであるが、他に献身を通して、智慧を獲得すること、

あるいは行動を通じてなど、それぞれにヨガの名前は異なる。


Saankha  Yogaha, Karma Yogaha, Jaana Sanyasa Yogaha, など、

順を追って、少しでも多くのヨガが示す、神と一体になるための方法を 

クリシュナの言葉を借りて、お伝えできればと願う。


ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する ’Indwelling Entity',

つまり、”内在する普遍の資質”、別名アートマ のことである。


誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達は自覚していない。

ヨガとは、その資質を思い出すことこそ、神との一体化の意味であると同時に

生活に即した方法で可能なことであるという。


アートマに心をむけたとき、健康も、自然と、発現するから面白い。

私自身の体験と、アートマセラピーの体験者の結果から、少なくとも、
それは、証明されている。


 

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世界遺産:沖の島と八岐大蛇(やまたのおろち)

2017年07月25日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

ご祭神の宗像三女神 (むなかたさんにょしん)が弁天様に・・・undefined

*****************               2017.7.25

2017年7月、九州の宗像・沖ノ島が世界遺産として認められ

ニュースになった。


神宿る島 といわれ、いまだに女人禁制の島だ。

昭和39年神社本庁調査部の発行した、“神社名鑑”によると、

沖ノ島に祀られている神様は‘たごり姫’という女神である。

 

が、ホツマツタエ研究家である、姑(はは)、須田真紗子

によると、たごり姫は ’たけこ姫’ がなまって後世、そう

呼ばれるようになったのだろうということだ。

 

たけこ姫とはどなたか?

 

滋賀県 琵琶湖の中にある 竹生島(ちくぶじま)に祀られ、

現代の日本’ 3大弁財天’のおひとり、 たけこ姫のことである。

ほかの弁財天(注1)の、お二人は?といえば、*神奈川県

藤沢市の江の島神社に祀られている、弁財天と

*広島県宮島町の厳島神社におられる弁財天である。

 

ホツマツタエを紐解くと、この弁天様たちは 姉妹である。

以前ホツマツタエの項で、このお話を書いたが、この三人の

姫君たちは”宗像三女神(むなかたさんにょしん)”と呼ばれる。


父上は天照大神、母上は 天照大神の妃の一人、早子姫である。 

 

なぜ、宗像沖ノ島に縁ができたのか-というと、その背景に

不倫劇があった。


このドロドロ事件ドラマの ヒーローが、素戔嗚尊

(すさのおのみこと)

ヒロインは、三女神母上、早子姫である。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)といえば、天照大神の

弟君で、気性甚だしく荒れ、短気で狼藉者、天照大神の

正室の妹君が、スサノオの暴挙に驚き、躓き転び、自ら

命を落とすほどであった。


さすが、寛大で温和な兄君、天照大神でも、弟の、傍若無人

の振舞いに、素戔嗚尊から身を退けるために、天の岩戸に

お隠れになったほどであった。

 

一方、素戔嗚尊は 兄君の天照大神の側室、早子姫と密会

して、不倫の関係になる。


それを知った、天照大神の正室、せおりつ姫は 早子姫と

その妹の持子(もちこ)姫(この密会の手引きをした)、

そして三人の幼い、ハヤ子姫の姫君たち、いわゆる、

宗像三女神を、宮中からはるか遠い、九州の沖ノ島の近隣の

一画へ、流した。  

 

流された、早子姫達は、これまでの宮中生活から一転、

あまりの格差のある待遇に、不満を募らせ、怒りに狂った。


早子姫は、ついに、その怨念恨みが極限に達すると、大蛇

に変身して、出雲の国へと泳いで、拠点を移す。

その大蛇の姿こそ、八岐大蛇(やまたのおろち)であった。


一方、狼藉者のそしりを受け、宮中を追われ、菅笠(すげがさ)

で顔を隠し、出雲にたどり着いた、かつての恋人、素戔嗚尊は、

稲田姫を妻にめとる。 

稲田姫の老いた両親が泣いて語るのには、この地にいる、
八岐大蛇という大蛇が、人身御供を求めて、若い姫君を1人
又、ひとりと、食い続けているが、次はいよいよ自分の娘の
番になると嘆いた。

稲田姫を大蛇から、守って欲しいと、素戔嗚尊に助けを乞う
ので 助けた暁には、自分の妻にするという条件で承諾した
といういきさつがあった。


稲田姫に姿を変化させ、女装したスサノオ尊は、八岐大蛇

といよいよ対峙した。


大蛇に、酒を飲ませ、酔いつぶれたところを 草薙剣で打ち、

晴れて、稲田姫と結ばれた~が、この大蛇こそ、かつての恋人

の早子姫だったとは、なんと、皮肉なことだろう。

 

一方、早子姫の妹の持子姫は 同じく大蛇である九頭竜

(くずりゅう)に姿を変える。


九頭竜は、持子姫の魂を宿す大蛇であるが、現在は、

箱根神社や、長野の戸隠神社に祀られている。

 

 戸隠山に手力雄命(たじからおのみこと)

が 祀られているが、あまりに猛々しい九頭竜を 戸隠の

洞窟に閉じ込めた折り、手力雄命 自ら、九頭竜と化した

持子姫に、食(えさ)を与えながら面倒をみたとされる

話も残っている。

 

手力雄命(たじからおのみこと)は巨漢で力持ちであった

ため、常人では手におえないほど、パワーの強い、九頭竜を 

戸隠の岩戸の中に閉じ込めておけたのであろう。

 

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さて、母親の真の姿を知った、三人の姫君たちはそれぞれ、

母親が大蛇であることを恥じつつも、大蛇の娘たちとして、

海を渡る術を知って、それぞれ、琵琶湖、厳島、江の島へと

り着いた。


そこで暮らし、天照大神の姫君として、まっとうな行いが

認められ、ゆえにそれぞれの神社に祀られたということで

ある。

 

因みに、三女神のお名前は、たけこ姫、たきこ姫、たなこ姫だ。


たけこ姫は琵琶湖に、

たきこ姫は江の島に、

たなこ姫は厳島に それぞれ祀られている。


宗像・沖ノ島では、沖ノ島にたけこ姫、大島に、たきこ姫、

田島にたなこ姫が祀られている。

 

この話をホツマツタエで読みながら、人間は爬虫類から

発展したとかいわれる巷の説当たらずとも遠からず

と思ったものだ。

 

レプリアン(レプティリアン)~爬虫類族または、

トカゲ族という言葉を知っている読者もおられるだろう。


BBCキャスターで、ジャーナリストだった

デヴィッドアイクが、数億年前に、地球人間は宇宙から

来たレプリアンによって、遺伝操作で創作された-

という人類創造論を発表した。

 

つまり、古代人にとっての各地で、神としてあがめられた

存在こそレプリアンだったという

 

その影響か、その言葉が世界的に広まると同時に、

恐竜映画(ジェラシック・パーク-Jurassic Park )

大ヒットし、ペットショップでは、トカゲやカメレオン

などの爬虫類が人気となった。


ホツマツタエの中では、こうした、宗像三女神の存在、

そして、姫たちは、天皇ゆかりの血筋であり、スサノオ

が築いた出雲の国の繁栄を支える、子孫の妻ともなっている

わけだから、顰蹙(ひんしゅく)を買うのを恐れずに

申し上げれば、レプリアン(爬虫類を先祖に持つ人間)

という考え方は、奇想天外でもないのかもしれない。

 

少なくとも、こうしたおどろおどろしい、蛇のような情念と

愛憎の感情は、ヒトは遺伝子の中に多かれ少なかれ持って

いるのかもしれない。

 

”人は神なり。神は人なり。”~という言葉は、ホツマツタエ

の中の一行である。


一方、私たちの心にすく、こうしたおどろおどろしい要素の

種は撒かれ、それを制してこそ、神としての本質が光ると

いうことかもしれない。

 

負の遺伝子に対する警鐘とも受け止められる 神代の時代

の一コマである。


***********

 注1) 弁財天というのは本来インドから伝わった神様である。

ラクシミ女神とサラスワティ女神の両女神の長所をとって、

日本で弁財天という形で祀られたのだろう。

ラクシミ女神は富の女神、サラスワティ女神は音曲、芸術、の女神だ。


弁財天をみると、琵琶(びわ)という楽器を持っている。 

琵琶(びわ)はインドの古典楽器、ビーナで、これが日本に来て

ビワになったという。 

サラスワティ女神は、やはり、常に、このビーナ楽器を携えている

ところから、弁財天は、ラクシミ女神とサラスワティ女神の

合体といえそうだ。

 

 

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University of Delhi 大学院で学んだこと(3)

2017年07月20日 | 健康と直結する”一元論”について

 

インド古典音楽とヴェーダの一元論との関係 2017.7.20

************************************************

 

前置き)今まで、自然治癒力について、いろいろ
書かせていただきました。
セラピストの須田さんという見方が、日本では、
協会関係の人たちには一般的です。
私自身はセラピストである前に 15年住んだ
インドでは、シターリストでした。
そして、その二つの顔の根幹に、不二一元説を
もって、生まれながらの虚弱体質と
アトピー性皮膚炎を全快させた一人の真実を
求め放浪する精神的旅人の
素地があります。
 
実は、当協会のフェースブックには、海外の方がたまに、
訪れています。
たぶん、spontaneous healing therapy japan 
という正式協会名称で興味を持たれたのでしょう。

また、その中のおひとりからメールを協会
公式メールアドレスにいただき、
“(投稿)内容など、もう少し英語での情報がほしい”
ということでありました。

そこで、今日は、この手元にある、インド時代、
大学院に提出した博士論文を元に、
原稿を上げさせていただきます。
ここからそのまま、一部をリクエストに応じて、
英文でフェースブックに載せるためです
日本語訳もつけますので、お付き合いくださいませ。

ちなみに、私は、インド古典芸術と日本の美学の
比較研究を(インド国立)デリー大学大学院の
芸術学部でインド古典音楽を主体に研究していまし
から、
直接、ご紹介する当時の原稿は、自然治癒力セラピー
とは関係ありません。 

が、智慧のある読者の方ならお気づきと思いますが、
実は、このインド古典音楽は
神にささげた聖なる楽曲であり、ヴェーダ哲学と
きってはきれない関係があるのです。

そして、ヴェーダ哲学という、不二一元説を説く
教えは、’形而上的癒し’=’spontaneous healing ’と
これまた、切ってもきれない関係があることから 
当協会の主旨に関係深い
ことをご理解していただけると思います
(以下、青字部分は論文中、他学者の意見の引用となります。)
**********************

****************************

Indian Classical Music and Non-dualistic Philosophy

******************************************

 

”Musical sound is produced by physical organ 

or instruments. 


Through its physical vibration is sometime 

regarded as a material reality which is perceived 

by the sensory organs.”


ここで、インド古典音楽を通じて、ヴェーダの

一元論的哲学との結びつきに話題が変わる。

上の部分を訳すると


“音楽的な響きは、体の機構(声帯など)か、

楽器を通して生まれる。 

ここで生まれる物理的な波動は 我々五感感覚機能

に翻訳されて、物質的に存在するという認識が

なされる。”

としたうえで、

“According to the Vedic Philosophy, however, 

music is not mere concept that exists outside 

the Infinite Being.

訳) 

ヴェーダ哲学によれば、音楽は無限なる存在の

外枠にある概念ではない。


と五感の感覚で表現される音楽、特に、古代古典

インド音楽に対して、ヴェーダ哲学教えの枠の外に

でるものではないとここでいう。

 

つまり、先回お話したように、古代インドでは、

音楽は神に捧げる、聖なる魂的な波動であり、

単純に、楽しみや気分高揚の手段ではないと

みなされてきた。

 

In this regards, Dr.S.N.Ghoshal Sastri says about it

“Sound and sense is based on the duel-non-dualistic 

theory, and letter A to Z are considered the visible 

form of the invisible sound. 


The poet Kalidasa worshipped the eternally united 

duality of Vak(sound) and artha(sense) as

 to the parent of the Universe. 


Sound and Sense are virtually the first manifestations

 of the unevolved whole. … 


The scholastic school of Indian aesthetics relish it 

as Two-in-One, or the eternally united parents of the

 Universe, symbolized in ‘Uma Mahesvara’.

訳) 

この点に関して S.N.Ghoshal Sastri博士は次のように

述べている:


“音と感覚は 不二一元論説への闘いをベースにしている

ようだ。

それは、AからZまでの視覚でとらえる文字が、

視覚でとらえられない音という形で表されるように。


詩人Kalidasaは、Vak(音)と、artha(感覚)の二元性

を統一した宇宙の生みの両親として、崇拝していた。


音と感覚は、実質的な‘Unevolved whole’

(変容なき統一体)の物質化したものである。 


インドの美学の一派 スコラスティック派はこれを、

two-in-one(二物合体)、もしくは、

´ウマ(女神)マヘーシュワラ(シヴァ神)

’に象徴される、宇宙の生みの親の永久的結合と呼ぶ。

 

余談だが、ここでいう宇宙創造の造は、陰陽の結合

であり、それが、ウマ女神とシヴァ神に象徴されている。


日本の超古代神話 “ほつま伝え”でも、宇宙創造は

陰陽の考え方が根底にあり、キリスト教などの

一神(いっしん)的な宇宙創造とは異にしている。


東洋的な思想や哲学の原点に陰陽論が欠かせないのは、

このあたりからすでに、端を発しているのかも

しれないなどど思う。 


一元論、つまり、二者は存在しない、ヴェーダ哲学に 

two in one という例外を認めているところは興味深い。


否、むしろ、一元的な見方をするがゆえに

two in one どころではなく 、thousand in one という

表現も可能かもしれない。


二つが一つではなく、千も一つ、万も一つ、

無限数も結局は一つのOne 

に帰結すると考えるところが、一元論の特性だ。

私たちの体と心は一つ、あなたと私も一つ、だけ

ではなく、無数の森羅万象と私も一つ、無数の

他者と私も一つ、ということなのだ。


砕ける波のさざ波を数えれば限界が無いが、

そのさざ波を生んでいる海は一つだし、惑星の

数は限りないが、その惑星を包んでいる宇宙空間は

一つであるのと同様かもしれない。

 

さて、冒頭の音楽とヴェーダの関係に戻ると、

Another aspect of Dual-non―dualistic relation 

between man and the Omnipresent Being can 

be seen in devotional music. 


The devotional music is a statement of surrender

 and dedication to the Real Being. 


The important point is that through music people 

seek for realization and enlightenment.

 They expect a spiritual union with the Omni Present,

 dedicating music with devotional heart and 

pure love to Universal consciousness.” 

訳)

一元論的であり、二つの対象をもつ関係、つまり、

人間と永劫的な存在、との関係は、聖なる音楽の内

に見られる。


神に捧げる賛歌でもある聖なる音楽は、 人間からの

真なる存在に対する全面降伏と捧げる気持ちの

表現である。


大切なことは、人は、こうした音楽を通して、

悟りの境地に達することを模索し続けてきたと

いうことだ。


至高なる存在とのスピリチュアルな繫がりを、

宇宙意識への敬虔なる心と

純粋愛をもって、期していることだ。

 

インドで庶民に支えられている宗教には、バジャン

と呼ばれる讃美歌は古くから存在していた。 


古典音楽ではまだ楽器が発明される前から、

ドゥルパッドと呼ばれる形式で、崇高なるこうした

宇宙意識への人の意識が交わる極点を模索されていた。


後世、本来は、音楽を禁じているモスリム教が

インドに伝わったとき、スーフィー派と称される宗派が

インドでは広まり、キルタンと呼ばれる

一種の讃美歌が造られ、信者に歌われた。


上の節での真意は、こういうことだろう。

“When a man achieves beauty of music he fulfils 

the ambition to be one with the Supreme Bliss. 


In other words, ‘duality in non duality’ is also 

achieved because ‘ he and He’(duality)  becomes 

one(non-duality)at that moment.

訳)

人が 音楽の美を達成したとき、最高級の至福に

満たされたいという要求は満たされる。


それは、言い換えれば、‘一元性の中の二元性’が、

実現したということだ。

なぜなら、その時、‘その人と神’という二元的区別は

一元の中でなくなり、両者は一体になるからだ。

 

すべては神の現れであると聖者は言う。

インドの古典音楽の美学にとっても、同じことが

言えるだろう。 

We may say the beauty of Indian classical music 

manifest is He alone.” 


インド古典音楽の美とは、’神’の具象化したものと言えるだろう。

 

   

当時デリーにての演奏会で・・

 

 

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Univ.of Delhi 大学院で学んだこと(2)

2017年07月15日 | 健康と直結する”一元論”について

 

ヴェーダの中でみる アートマとは?苦行は意味がない?  

2017・7・15

***********************************

 

前置き)今まで、自然治癒力について、いろいろ

書かせていただきました。

セラピストの須田さんという見方が、日本では、

協会関係の人たちには一般的です。

私自身はセラピストである前に 15年住んだ

インドでは、シターリストでした。

そして、その二つの顔の根幹に、不二一元説を

もって、生まれながらの虚弱体質と

アトピー性皮膚炎を全快させた一人の真実を

求め放浪する精神的旅人の

素地があります。

 

実は、当協会のフェースブックには、海外の方がたまに、

訪れています。

たぶん、spontaneous healing therapy japan 

という正式協会名称で興味を持たれたのでしょう。


また、その中のおひとりからメールを協会

公式メールアドレスにいただき、

“(投稿)内容など、もう少し英語での情報がほしい”

ということでありました。


そこで、今日は、この手元にある、インド時代、

大学院に提出した博士論文を元に、

原稿を上げさせていただきます。

ここからそのまま、一部をリクエストに応じて、

英文でフェースブックに載せるためです

日本語訳もつけますので、お付き合いくださいませ。


ちなみに、私は、インド古典芸術と日本の美学の

比較研究を(インド国立)デリー大学大学院の

芸術学部でインド古典音楽を主体に研究していまし

から、

直接、ご紹介する当時の原稿は、自然治癒力セラピー

とは関係ありません。 


が、智慧のある読者の方ならお気づきと思いますが、

実は、このインド古典音楽は

神にささげた聖なる楽曲であり、ヴェーダ哲学と

きってはきれない関係があるのです。


そして、ヴェーダ哲学という、不二一元説を説く

教えは、’形而上的癒し’=’spontaneous healing ’と

これまた、切ってもきれない関係があることから 

当協会の主旨に関係深い

ことをご理解していただけると思います

(以下、青字部分は論文中、他学者の意見の引用となります。)

**********************

 

In Vedic philosophy, we see that eternal is 

here and eternal itself is the Real Being. 

Other thing comes from Maya, or illusion. 


The outstanding musicologist in 16th century

 Sarangdeva called this eternal Being as Brahman 

or Nada Brahaman.


Brahaman according to Vedic philosophy,

 is a reality and the appearance of Brahaman is 

capable of being realized by man with 

real knowledge, which is beyond any phenomena.


This knowledge belongs to spirit coming from 

the recognition of Atma

the Substantial Existence or Real Being in man’s heart)

以上~デリー大学卒業論文から~

訳)

ヴェーダ哲学では、永遠なる存在は常にここにありというが、

その永遠なる存在こそ、実存的実在だ。


その他の現象はすべてMaya(夢幻)であり、錯覚(五感的)

だと教える。

16世紀の著名な音楽学者である、サラングデヴァは、

この永遠なる存在を、ブラハマン、もしくは、

ナーダ・ブラフマンと呼んだ。

(須田注:’ナーダ”とは、音楽的な音 を指す、サンスクリット語)


ヴェーダ哲学では、ブラフマンは実存であり、

それを知るためには、現象を超えた真の叡智をもって

でしか把握できないとされた。 


この真の叡智はどこから来るか?

といえば、アートマ(人間の心の中の神性とつながる

部分、つまり、究極的実在に対応する自分)を自覚する

精神に属していると言える。

 ****

ここで、アートマという言葉が登場する。

当協会のアートマセラピーというのは、

このアートマからとった。

アートマは誰にでも備わる資質であり、

それに直接働きかけるセラピーという意味合いで

アートマセラピーと造語した。


上の英文を簡単にまとめれば、アートマと呼ばれる

人間の本性によって、夢のような儚い現象の奥にある 

変わらない真理をつかむことで 

ブラフマと呼ばれる存在を認識できる。


また、(古典)音楽の音とは、ナーダ・ブラフマと

呼ばれ、ブラフマと並んで唯一無二の実質的存在だと

サラングデヴァは後世に伝えた~と

いうことになる。 

 

これに関連してDr.John.S.Hislop は次のように述べる; 

Dr. John.S.Hislop defined the atma or real being 

as ‘the soul which is the one infinite consciousness”. 


He further says,

“Accepting to advaita (non-dualism in Vedic philosophy) 

where we get confused and carried away is in

our failures to understand the role of Being Eternal,

 it must already be here. 


Since universal life, universal consciousness is eternal-

never beginning, never ending – then it must already 

be here. 


It does not have to be achieved. 

There is no difference between bondage and liberation,

 between being bound and not being bound.” 

(“Seeking Divinity” P.196~7)

訳) 

ジョン ヒスロップ博士はアートマを定義して、

“無限なる意識と同質の魂の気質”という。

さらに、続けて“アドヴェイタ(ヴェーダ哲学の一元論説)

を受け入れてみると、永遠なる存在 の働きを理解するに

あたり、我々の落ち度により、混乱し、遠ざかる要因がある。 


事実は、永遠なる存在 は今、ここにあるということなのだ。

なぜなら、宇宙を貫く生命、宇宙を貫く意識は永遠だからだ、

死もなく生まれることもない、不生不滅だからだ。


ならば、永遠なる存在は、今、ここに存在するということ

になる。

それは、努力して得るものではない。

束縛と自由の間には違いは無い。

束縛されているか、束縛されていないかという間にも、

差は無いのだ。”

 

このヒスロップ博士の言葉は当時、執着の強さという

問題に悩んでいた私にとっては目から鱗(うろこ)

だった。 


私という存在は もともと、自由で、束縛されない

存在だし、執着もないのだ~と気づけと博士は 

上の言葉から私たちに、促す。


が、執着にしがみつく自分や、その葛藤があるように

見えているとしたら、それは、まだ、本当の永遠の存在、

自分の中のアートマに “気が付いていない” だけだ

と確信に満ちた言葉で説得をする。 


古来から人は執着を断ち切り、悟りに至るために、

様々な肉体的負荷を与えながらの修行をし続けてきた。


荒行や断食や、滝行など、瞑想三昧で、時には、

世間と孤立して修行する目的は、すべて、この、

“悟りを得るため”であったはずだが、

それは、無用だと、ヒスロップ博士は、言うのだ。


単に、今、心が、内側の現象の奥の、文字通り、

奥の院 に鎮座する、静かな、平和な、’自分’に気が

付けばよい、そちらに、振りむけば、

それがすなわち、’悟り’の道の一歩だと、言うのだ。

 

たぶん、そうなのだろう。

そう、誰もが、本当は、もう、すでに、今、このままで、

パーフェクトなのだ。


その理由は、永遠なる存在といわれる、生命に

満ちた魂は、不生不滅、生まれたり滅したり

(死んで消える)ことはあり得ないはずだし、

”あってある”ものだから その生命が自分に

流れているということは、そういうことになるのだ。


ただ、もし、いろいろ束縛されているとしたら、

それは、次の理由からだと引き続き、ヒスロップ博士は言う:


The world is made of illusion caused 

by sensory organs. 

The Substantial Being is the eternal universal

 Consciousness, therefore , here exists no duality, 

but only one truth is there that 

‘I am Hem and He is I’” 

訳)

この世界は、五感の錯覚で織り成される錯覚の世界

でもある。 

本質的実在は宇宙を貫く意識であるから、本来は

二元的価値観は存在しない。

あるとすれば、一つの真実、‘私(本質的実在)は

神で、神(本質的実在)は私’ だけだ。”

 

この考え方が実は、インド・ウパニシャッド哲学の

中枢に来るものだ。


”Eternal Being is here, because there is no reality 

except Brahaman, never beginning and never ending, 

which is the reality of the Indian Upanishads.”

訳)

永遠なる存在が常にここにいる、それはブラフマン以外

のリアリティーは存在しないからだ。

始めなく、終わりなく、これこそ、インド

ウパニシャッド哲学のリアリティーでもある。

*****

続く・・・・

  

当時デリーにて;シタール演奏会



 

 

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Univ. of Delhi 大学院で学んだこと(1)

2017年07月10日 | 健康と直結する”一元論”について

ヴェーダの音楽と自然治癒力セラピー

************************************2017.7.10

今まで、自然治癒力について、いろいろ書かせていただきました。

セラピストの須田さんという見方が、日本では、協会関係の

人たちには一般的です。


私自身はセラピストである前に 15年住んだインドでは、

シターリストでした。

そして、その二つの顔の根幹に、不二一元説をもって、

生まれながらの虚弱体質とアトピー性皮膚炎を全快させた、

一人の真実を求め放浪する精神的旅人の素地があります。

 

実は、当協会のフェースブックには、海外の方がたまに、

訪れています。

たぶん、spontaneous healing therapy japan という

正式協会名称で興味を持たれたのでしょう。


また、その中のおひとりからメールを協会公式

メールアドレスにいただき、

“(記事)内容など、もう少し英語での情報がほしい”

ということでありました。


そこで、今日は、この手元にある、インド時代、

大学院に提出した博士論文を元に、原稿を上げさせて

いただきます。

ここからそのまま、一部をリクエストに応じて、

英文でフェースブックに載せるためです

日本語訳もつけますので、お付き合いくださいませ。


ちなみに、私は、(インド国立)デリー大学大学院の

芸術学部で古典音楽を主体に、インドの伝統美学と

日本の美学の比較研究をしていましたから、

直接、ご紹介する当時の原稿は、自然治癒力セラピーとは

関係ありません。 


が、智慧のある読者の方ならお気づきと思いますが、

実は、このインド古典音楽は神にささげた聖なる楽曲で

あり、ヴェーダ哲学ときってはきれない関係があるのです。


そして、ヴェーダ哲学という、不二一元説を説く教えは、

’形而上的癒し’=’spontaneous healing ’とこれまた、

切ってもきれない関係があることから 当協会の主旨に

関係深いことをご理解していただけると思います

******************** 

Dr. S. N. Ghoshal says 

“When a realizer looks at the world, identical to him,

 in monism of the Vedanta philosophy. 

The concept rests in the very idea-I am nothing else,

 but verily He himself. 

Certain school of Indian aesthetics calls in the 

Karupa-rasa, on the relish of compassion.” 


He further mentions 

"almost all the major systems and cults of Indian 

philosophy and religion believe more or less, in 

the concept of Non-dualism.” 

(“Elements of Indian Aesthetic, volume 1,P.11

 by S.N.Ghoshal published by Chaukhambha 

Orientalia, Delhi, 1978)


訳)S. N. Ghoshal博士は、述べている:

悟った人の世間の観方は、ヴェーダ哲学の不二一元的な

それである。 

この概念は、‘自分自身は究極的には、神以外の何者

でもない’というものだが、他の、インド宗教哲学の

ほとんどは、この信念、つまり、一元的な概念を

元にしていると言ってよいだろう。“

 

ここでは、ヴェーダ哲学はインド宗教哲学の基盤に

その影響を多かれ少なかれ、与えているというところ

がポイントです。


ところで’ヴェーダ’といつも簡単に4文字のカタカナ

で示しているこの言葉をもう少し、専門的に、ここで、

説明させていただきたい。


ヴェーダには4つのカテゴリーがある。

リグヴェーダ(Rigveda)、

ヤジュルヴェーダ(Yajurveda)、

サーマヴェーダ(Samaveda)、

アッタラヴァヴェーダAtharvaveda)

と分けられる。

 

各ヴェーダは さらに、3つのパート、マントラ

ブラハマン、そしてウパニシャッドと呼ばれる

パートで構成されている。


マントラ(Mantras)と呼ばれるパートは 讃美歌を

メインに、ブラハマン(Brahmanas)には、

犠牲祭や祭りごとのしきたり方法、そして、その際

唱える真言などの詳細、ウパニシャッド(Upanishads

には、ヴェーダを締めくくる最後の章として、その

ヴェーダの教えの本質が記されている。


ヴェーダンタ(Vedanta)という言葉は比較的よく

聞くが、これは、ウパニシャッドを、もともとは指す

言葉だった。

 

私がブログの中で頻繁に使う、ヴェーダは、この

ウパニシャッド哲学を指している。


ヒンズー教では、顔が像の神様や、舌を伸ばした

女神様や、奇抜な神様の世界をイメージしている方

が多いと思うが、元々は、紀元前数世紀には

完成していた、これらの、ヴェーダ聖典を礎に

している 哲学的な宗教ともいえるのだ。 


多くのインド人一般民衆は、ヴェーダ哲学などという

理屈は抜きで、それぞれが身近に感じる神様への憧憬

で信仰心を膨らましているが、

カースト制度で先祖代々決められている階級の内、

最も高いとされる、ブラミン(僧侶)階級の人たち

(現代では必ずしも、職業が、僧侶とは限らない)や、

高教育を受けた人たちは現代でも、ヴェーダ

に親しんでいることがうかがえる。


インド在住時代、様々なパーティーに呼ばれたが、

彼らの間でも、普通の話題としてギータの中の

クリシュナの言葉や、好きなフレーズなどが口に出た。


クリシュナとアルジュナの会話で知られる、

“バカヴァッド・ギータ”は 低学年から小学校で

教えられ、慣れ親しむのだが、その内容は

’小規模なヴェーダ’ と言われるほどだから、自然と、

子供たちは、”不二一元論”的なインド独自の哲学的

考え方を習得していくように見受けられる。


ある意味、インド人たちほど、寛容で懐が深い文化

はなかなか、そう、世界広しといえどもないような

気がしたものだ。 


それも、こうした教育の下地があるからかもしれない。 

宗教的にも実に寛容である。 

文化的にも、インド国内で20語ほどの公用語を認めて

いるほどだから、その文化は日本とくらべ、多種

多様化しているといえるだろう。

 

インド滞在最後の数年間、研究者ヴィザから、

就労ヴィザに切り替えて、20代の若いエンジニアたち

とともにIT企業で過ごしたが、彼らにヴェーダの事に

ついて聞くと、その場にいた、4人の20代前半の若者は、

この4つのヴェーダの名前を、すべて、日本語の

カタカナで書いて、私に示してくれたのには驚いた。


紀元前数世紀には、ヴェーダは確立されていたから、

インド人の血の中に、祖先から祖先へと受け継がれて

きた精神的文化的遺産かもしれないと

その瞬間、思ったものだ。


例えば、日本の若者に、仏教の重要な経典は?と

聞いても、4つすらすらと答えられることは、

想像できないだろうし、神道の神様の名前は?

と聞かれても、戸惑うだろう。 


日本の精神文化はインドと同様深いものがあるのに、

こうした側面はインドの若者の方が豊かなような

気がした。

 

Indian ancient sage Lord Shankara (Shankaraacharya),

Who is said to have lived in India in the six century B.C., 

organized the monastic order that has been honored

 in India from time immemorial. 


Lord Shankara upheld the Vedanta philosophy and t

he non-dualism philosophy is expressed in his Sanskrit

 chant. Here are few verses from them, translated in Englsh.

 訳)さて、このヴェーダの不二一元論を確実に普及したのが、

シャンカラアチャリア(Shankara acharya)である。

紀元前6世紀の聖人と言われる。

サンスクリット語のお経の中で、次のような内容を込めて、

ヴェーダの神髄を唱えていたようだ。

以下、英語で訳されたその詩の数行がある。

 

Mind, non intellect, nor ego, feeling,

Sky nor earth nor metals am I.

I am He, I am He. Blessed Spirit, I am He.!

No birth, no death, no caste have I.

Father, Mother, have I none.


I am He, I am He, Blessed Spirit, I am He.!

Beyond the flights of fancy, formless am I. 

Permeating the limits of all life,

Bondage I do not fear, I am free, ever free,


I am He, I am He, Blessed Spirit, I am He.

(:”Autobiography of an Yogi” by Paramahansa Yogananda, P.222 )

真の心とは、知性やエゴ、感情ではない。

大気の中や、土や金属から造られ(生まれ)たので

はない、それが私。


私は神(創造主)、神は私、祝福に満たされた霊体、

私が彼だ。


不生不滅の存在、カースト(社会的階級)に属さず

(物理的な)父や母はいない、


夢幻の世界を超えて、真の私には形はない。

息とし生けるものの命を満たし浸透しているもの。

束縛を恐れない、私は完全に自由だから。

私は彼、神だ、私は神、祝福に満たされた霊体、

私が彼だ

 

ここでは神と訳したが、もっと深い言葉がありそうだ。


私はそれを、

“the Substantial Existence in this world, the  power 

which penetrates the cosmos with love” と表現した。


”愛(繋げる要素)によって、宇宙を貫き繋げ、この世に

存在するものの本質的存在“というように。 


さて、インド古典芸能全般にわたり、芸術家が

ヒンズー教徒であっても、イスラム教徒であっても、

マイノリティーの宗教信者であっても、

なぜか、彼らの表現する芸術は、”神に捧げる“という

大前提があり、踊りや楽曲は特に、歴史的に太古の昔

からそうした記録が残っていることもあり、これは

暗黙の了解だった。


そして、神に捧げる ということは、結局は演じる

側も鑑賞する側も、魂 でその芸術の神髄を表現し、

鑑賞するということだった。


Substantial Existence in this world,

 power which penetrates the cosmos with love” 


’宇宙を貫く愛の力、世の中の究極的実存の存在” 

は、自分がインド芸術とかかわっている以上、常に模索

している対象だった。


そうこうして、自然治癒力とこの対象との関係、自己治癒とは? 


などの疑問が常に頭の中を回り、巡り、今に至っているのだろう~

と思う。

 (続く)

 

 

当時デリーにて;シタール演奏会

 

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