ヴェーダの音楽と自然治癒力セラピー
************************************2017.7.10
今まで、自然治癒力について、いろいろ書かせていただきました。
セラピストの須田さんという見方が、日本では、協会関係の
人たちには一般的です。
私自身はセラピストである前に 15年住んだインドでは、
シターリストでした。
そして、その二つの顔の根幹に、不二一元説をもって、
生まれながらの虚弱体質とアトピー性皮膚炎を全快させた、
一人の真実を求め放浪する精神的旅人の素地があります。
実は、当協会のフェースブックには、海外の方がたまに、訪れています。
たぶん、spontaneous healing therapy japan という正式協会名称で
興味を持たれたのでしょう。
また、その中のおひとりからメールを協会公式メールアドレスにいただき、
“(記事)内容など、もう少し英語での情報がほしい”ということでありました。
そこで、今日は、この手元にある、インド時代、大学院に提出した
博士論文を元に、原稿を上げさせていただきます。
ここからそのまま、一部をリクエストに応じて、英文でフェースブック
に載せるためです
日本語訳もつけますので、お付き合いくださいませ。
ちなみに、私は、(インド国立)デリー大学大学院の芸術学部で古典音楽を主体に、
インドの伝統美学と日本の美学の比較研究をしていましたから、
直接、ご紹介する当時の原稿は、自然治癒力セラピーとは
関係ありません。
が、智慧のある読者の方ならお気づきと思いますが、実は、このインド古典音楽は
神にささげた聖なる楽曲であり、ヴェーダ哲学ときってはきれない関係があるのです。
そして、ヴェーダ哲学という、不二一元説を説く教えは、’形而上的癒し’=’spontaneous
healing ’とこれまた、切ってもきれない関係があることから 当協会の主旨に関係深い
ことをご理解していただけると思います
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Dr. S. N. Ghoshal says “When a realizer looks at the world, identical
to him, in monism of the Vedanta philosophy. The concept rests in
the very idea-I am nothing else, but verily He himself. Certain
school of Indian aesthetics calls in the Karupa-rasa, on the relish of
compassion.” He further mentions "almost all the major systems
and cults of Indian philosophy and religion believe more or less, in
the concept of Non-dualism.” (“Elements of Indian Aesthetic,
volume 1,P.11 by S.N.Ghoshal published by Chaukhambha
Orientalia, Delhi, 1978)
訳)S. N. Ghoshal博士は、述べている:悟った人の世間の観方は、
ヴェーダ哲学の不二一元的なそれである。
この概念は、‘自分自身は究極的には、神以外の何者でもない’という
ものだが、他の、インド宗教哲学のほとんどは、この信念、つまり、
一元的な概念を元にしていると言ってよいだろう。“
ここでは、ヴェーダ哲学はインド宗教哲学の基盤にその影響を多かれ
少なかれ、与えているというところがポイントです。
ところで’ヴェーダ’といつも簡単に4文字のカタカナで示しているこの
言葉をもう少し、専門的に、ここで、説明させていただきたい。
ヴェーダには4つのカテゴリーがある。リグヴェーダ(Rigveda)、
ヤジュルヴェーダ(Yajurveda)、サーマヴェーダ(Samaveda)、
アッタラヴァヴェーダAtharvaveda)と分けられる。
各ヴェーダは さらに、3つのパート、マントラ、ブラハマン、
そしてウパニシャッドと呼ばれるパートで構成されている。
その大概は、マントラ(Mantras)と呼ばれるパートは 讃美歌を
メインに、ブラハマン(Brahmanas)には、犠牲祭や祭りごとの
しきたり方法、その際唱える真言などの詳細、ウパニシャッド(Upanishads)
には、ヴェーダを締めくくる最後の章として、そのヴェーダの教えの
本質が記されている。
ヴェーダンタ(Vedanta)という言葉は比較的よく聞くが、これは、
ウパニシャッドをもともとは指す言葉だった。
私がブログの中で頻繁に使う、ヴェーダは、このウパニシャッド哲学
を指している。
ヒンズー教では、顔が像の神様や、舌を伸ばした女神様や、奇抜な
神様の世界をイメージしている方が多いと思うが、元々は、紀元前
数世紀には完成していた、これらの、ヴェーダ聖典を礎にしている
哲学的な宗教ともいえるのだ。
多くのインド人一般民衆は、ヴェーダ哲学などという理屈抜きで
それぞれが身近に感じる神様への憧憬で信仰心を膨らましているが、
カースト制度で先祖代々決められている階級の内、最も高いとされる、
ブラミン(僧侶)階級の人たち(現代では必ずしも、職業が、僧侶
とは限らない)や、高教育を受けた人たちは現代でも、ヴェーダ
に親しんでいることがうかがえる。
インド在住時代、様々なパーティーに呼ばれたが、彼らの間でも
普通の話題としてギータの中のクリシュナの言葉や、好きなフレーズ
などが口に出た。
クリシュナとアルジュナの会話で知られる、“バカヴァッド・ギータ”は
低学年から小学校で教えられ、慣れ親しむのだが、その内容は
’小規模なヴェーダ’と言われるほどだから、自然と、子供たちは、
”不二一元論”的なインド独自の哲学的考え方を習得していくよう
に見受けられる。
ある意味、インド人たちほど、寛容で懐が深い文化はなかなか、
そう、世界広しといえどもないような気がしたものだ。
それも、こうした教育の下地があるからかもしれない。
宗教的にも実に寛容である。
文化的にも、インド国内で20語ほどの公用語を認めているほどだから、
その文化は日本とくらべ、多種多様化しているといえるだろう。
インド滞在最後の数年間、研究者ヴィザから、就労ヴィザに切り替えて、
20代の若いエンジニアたちとともにIT企業で過ごしたが、彼らに
ヴェーダの事について聞くと、その場にいた、4人の20代前半の若者は、
この4つのヴェーダの名前を、すべて、日本語のカタカナで書いて、
私に示してくれたのには驚いた。
紀元前数世紀には、ヴェーダは確立されていたから、インド人の血の中に、
祖先から祖先へと受け継がれてきた精神的文化的遺産かもしれないと
その瞬間、思ったものだ。
例えば、日本の若者に、仏教の重要な経典は?と聞いても、4つすらすら
と答えられることは想像できないだろうし、神道の神様の名前は?
と聞かれても、戸惑うだろう。
日本の精神文化はインドと同様深いものがあるのに、こうした側面は
インドの若者の方が豊かなような気がした。
Indian ancient sage Lord Shankara (Shankaraacharya),Who is said
to have lived in India in the six century B.C., organized the monastic
order that has been honored in India from time immemorial. Lord
Shankara upheld the Vedanta philosophy and the non-dualism
philosophy is expressed in his Sanskrit chant. Here are few verses
from them, translated in Englsh.
訳)さて、このヴェーダの不二一元論を確実に普及したのが、
シャンカラアチャリア(Shankara acharya)である。紀元前6世紀の
聖人と言われる。
サンスクリット語のお経の中で、次のような内容を込めて、ヴェーダの
神髄を唱えていたようだ。
以下、英語で訳されたその詩の数行がある。
Mind, non intellect, nor ego, feeling,
Sky nor earth nor metals am I.
I am He, I am He. Blessed Spirit, I am He.!
No birth, no death, no caste have I.
Father, Mother, have I none.
I am He, I am He, Blessed Spirit, I am He.!
Beyond the flights of fancy, formless am I.
Permeating the limits of all life,
Bondage I do not fear, I am free, ever free,
I am He, I am He, Blessed Spirit, I am He.
(:”Autobiography of an Yogi” by Paramahansa Yogananda, P.222 )
訳
真の心とは、知性やエゴ、感情ではない。
大気の中や、土や金属から造られ(生まれ)たのではない、それが私。
私は神(創造主)、神は私、祝福に満たされた霊体、私が彼だ。
不生不滅の存在、カースト(社会的階級)に属さず
(物理的な)父や母はいない、
夢幻の世界を超えて、真の私には形はない。
息とし生けるものの命を満たし浸透しているもの。
束縛を恐れない、私は完全に自由だから。
私は彼、神だ、私は神、祝福に満たされた霊体、私が彼だ
ここでは神と訳したが、もっと深い言葉がありそうだ。
私はそれを、“the Substantial Existence in this world, the power which
penetrates the cosmos with love” と表現した。
”愛(繋げる要素)によって、宇宙を貫き繋げこの世に存在するものの
本質的存在“というように。
さて、インド古典芸能全般にわたり、芸術家がヒンズー教徒であっても、
イスラム教徒であっても、マイノリティーの宗教信者であっても、
なぜか、彼らの表現する芸術は、”神に捧げる“という大前提があり、
踊りや楽曲は特に、歴史的に太古の昔からそうした記録が残って
いることもあり、これは暗黙の了解だった。
そして、神に捧げる ということは、結局は演じる側も鑑賞する側も、
魂 でその芸術の神髄を表現し、鑑賞するということだった。
“Substantial Existence in this world, power which penetrates the
cosmos with love” ’宇宙を貫く愛の力、世の中の究極的実存の存在”
は、自分がインド芸術とかかわっている以上、常に模索している
対象だった。
そうこうして、自然治癒力とこの対象との関係、自己治癒とは?
などの疑問が常に頭の中を回り、巡り、今に至っているのだろう~
と思う。
(続く)
当時デリーにて;シタール演奏会