自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ガンジス川とジャイナ教の文化に触れた旅

2018年11月17日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

2018年10月・11月インド滞在のまとめ  2018・11/17

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今回の旅。いくつかの思いがけない出来事がありました。

それぞれに印象が深く、アトランダムに想い出

振り返ってみたいと思います・ 

下の写真はガンジス川で、母の遺骨をインド古来の、

お釈迦様時代から続く死者の霊

弔う儀式を、行った時の写真です。

 

 

流しているのが、母の遺骨を包んだ白い布地です。

お経(般若心経など)をあげた後、流します。

そのあと、バナナの葉っぱの上に花びらと蝋

燭に灯をともし、流して精霊を癒しました。

 

 

目の前には対岸にお寺など、古い建物があります。

一番高い岡に建てられているのは、ハリドワールで

も有名な女神の寺院です。

朝九時でした。

4時にデリーをタクシーで出発して、4時間強乗り続け

8時間半にガンジス川聖地、ハリドワールに到着。

信じられないほど、人気のないガンジス河の水量は多く、

流れも速く、母の追善供養の儀式は20分足らずで

終わりました。 

目的を果たすと、そのまま、又デリーに引き返しました。

 

次の写真は、インド人に頼まれて、初めて自分のサリー

を友人の娘さんに着つけた時の写真です。 

彼女は人生2度目のサリー着用ということで、普段は

ジーンズで闊歩しているのに、この時は歩くのも少し

気遣いながら・・・

 

 

 

この彼女がカレッジの卒業式に、ぜひ来てほしいというので、

参列させてもらい、そのあと母親や親戚の人達ととったのが

以下の写真です。

 

 

向かって左から2番目が彼女です。

ガウンの下はインド伝統服ではなく、モダンなミニ

カートが、時代の変遷を感じます。

実は、彼女は、完全な菜食で殺生が禁止され、

空中の微生物を吸い込まないように、マスク

をする人がいるほど厳格な、ジャイナ教の出身です。 

つまり、姓が、ジェーンとつくのです。

このジェーンという名前が先祖代々、ジャイナ教徒

の教祖の血をひく証明です。

 

たまたま、卒業式から数日後、ジャイナ教徒に

とって、大切なお祭りの日にあたり、彼女の

家族から、一緒に夕飯を誘われました。 

ディナーを頂く前に、家族一同で、ジャイナ教の

テンプルに新しい服に着替えて詣でます。

にもぜひとお声をかけていただき、一緒に、

めての体験である、ジャイナ教のテンプル

に入らせてもらいました。黄金の寺院の模型が

飾られ、荘厳な雰囲気が漂っていました。(写真下)

 

 

このお寺でのお祈りが終わると、自宅に戻ると、家長が

サンスクリット語でジャイナ教のお経を唱え、家族全員

でお祈りする儀式が 最後に残っていました。

和気あいあいと 寺から戻り家族で団らんしていると、

その用意ができた家長のお経が始まりました。(下)

 

それぞれ、皆、絨毯の上に正座(印度の正座はアグラ)

し、一緒にチャンティングが始まりました。

さて、ヒンズー教徒にとって、年に一度の最大な祭り、

ディワリが11月7日にありました。

友人に誘われ街のにぎやかさを味わいに、近くの

マーケット(いわゆる商店街)に出かけました。

そこで、女性が、おめでたい時、結婚式やお祭

などに行う”ヘナ“を、手の甲にしてもらいました。

下の写真です。

 

 

ほぼ、完成まで25分、付けてもらった後、

シャワーはNG。翌朝までヘナしてもらった手は

そのままにして、自然にはがれるのを待つと、

次のように、くっきりと模様が現れました。(下)

 

 

さて、今回のインド旅の目的の中でも、最も肝心な 

ナダブラハム(音の真髄)を得ること、つまり、

インド古典音楽の成果は? 

はい、勿論。

幸いに、ありました。かつての、シタールの師匠と

特別レッスンをいただけました。

 

次回から、自然治癒力のお話です。 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

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16年間のデリーを離れる!、お世話になった方たちへ

2018年07月24日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

家も周りもお隣さんも、ペットの植木たちも・・・

さようなら/最後のセラピーを施術して・・・・・ 2018・7/24

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パール判事(下記内容関連写真)とその著書

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7月17日に帰国いたしました。


インドにいると、いつもながらの感想ですが、

心と体は比重が無くなり、みごとに計算された

自然の潮流の流れのなかに、無抵抗のまま流されて

いくように、考えてはいない方向に、ことが

運ばれていくという体験をします。


今回も例外ではなかったようです。

デリー滞在期間の3週間の間で、以下の事象が

つつがなく済んだのは、頭で組み立てることが

できないような展開があってのことでした。

 

1)

 "30年近く愛用した家具を日本に送る"ことができました。


15年(印度に定住していた時期)に、プラス13年

(インド根拠地がまだ残っていて、インドと日本を

親の介護の合間を見て、往復していた時期)の合計

28年の間、使っていたり、集めたりした、インドで

しか手に入らない家具、手製のベッドを含め、

いまどき、インドでも入手困難であろう、チーク材

の応接セットなどの大きな荷物の他、絵画などの

中小のモノは、日本で使うために、海外搬送すること

にしました。

 

専門家に頼んだとはいえ、私にとっては、大がかりな

引っ越し業務でした。

 

引っ越し数日前のごたごたした家の中。

あちこちに大きな鏡を置きましたので

これを外す前日です。

 

エアコン、カーテン、いす、ジェネレーターなど、

が映っています。

 

2)そのほかの家に残ったものの対応は、インド人の

知人達や 施設などへの寄付、日本製の電化製品は

その道に詳しいインド人友人が家に来てくれ、物色し、

ネットオークションなどにかけてくれることに

なりました。

 

3)お世話になったインド人の近隣のご家族、数カ所に、

数日がかりで、インド退去のご報告とお礼を兼ねて、

ご挨拶にいき、ランチをごちそうになりました。


バール家(下写真)でのランチは、ベンゴリマーケット

から仕入れた魚(ご主人の手で)を、

奥様がさばき、お嫁さんがマリネ―につけて、

奥様とお嫁さん二人で、最後の味付けをして、

貴女(須田)が食べて、”全員集合作業”ネ!と、

温かい笑顔で言われた、その家庭料理は格別でした。

 

以前、ご紹介しましたが、この家族は、日本に

縁ある方の子孫です。写真下)


かの、東京裁判で連合国の判事たちが、一斉に

日本軍幹部に死罪有罪を下したのに対し、唯一、

インド国代表判事として膨大な資料をまとめ、

無罪の判決処分を提出したパール判事の直系の

ご家族です。


私たち日本人にとっては、とても偉大で親しみの

あるパール判事(冒頭写真)は、ご家族にとっては

優しいおじいちゃま、だったようです。

 

 

 

よくこのブログに登場した、サントシ(真ん中)

と、向かって右端のボビー(13年前の運転手さん)。

 

皆様はご想像できないでしょうが、インフラが整備

されていないデリー市内を、電車や地下鉄で

気軽に移動ということは、デリーに住んでいても、

場所によっては不可能です。


私の住んでいる、南デリーの奥地から、一番近い、

地下鉄駅までは、混雑のひどいときは車で、

1時間ほどかかります。


もし、車の混雑がなければ、10分で走れる距離なのに!

です。

結局、一日ハイヤーを頼むという形になります。

費用も時間も、かかるのが′デリーでの外出’です。

今はウーバーと呼ばれる、携帯電話で、近くを走って

いる無線タクシーを利用するのが、普通に

なってるようです。


携帯電話で予約して、15分ほど待てば、家の前から

乗っていくことができますが、現地の人のみが、

基本的には、携帯電話を持て、外国人には販売禁止

なので、当然、外国人の私には、この便利な代物を

利用するのは、無理でした。

 

4)シタール演奏家でインド古典音楽界のレジャンド

となった、私の師匠(Ustad Shujaat Khan) 

あちらの言葉では、グルジーといいますが、に改めて、

生徒として、授業を10年振りに受けました。

 

そして、インド古典音楽への火だねが残る、私の

心の献火台にを点燈していただきました。

習った曲目は、朝のラガ、ミヤキトリのアラブを

15分ほど、グルジーの眼の前で弾き、グルジーは、

その間、目をつぶって、聞いてくださいました。


この瞬間に、インド音楽の深さをもっと、極めよう

と心の火が、再び、ついたようでした。


師(グルジー)は 一通り、レッスンを終えた後、

こう最後に言われました、

”あと数か月後にあった時、このテクニックを

マスターしておきなさい”。

 

こんなにたくさんのことを、滞在中に無事にこなせた

ということは、信じられません。

こうして、古き家を去るにあたり、今度は新しい

拠点を探し始めた私でした。


なぜなら、近い将来、インド・デリーへ、シタール

勉学のために、再来するという予感が、日ましに強く

なったからです。


そして、奇妙な紆余曲折はありましたが、インドを

たつ一日前に、その部屋をゲットできました。

これは次回のブログで少し詳しくご報告できたら

と思います。

 

グルとのレッスン風景

 

5)一番懸念していた問題が残っていました。

それは、デリー市内を数回引っ越しするたびに、

新居に一緒に、連れて行った、私の家族でも

あった植木たち、現在は屋上のテラスに置いて

ある、たくさんのプラント鉢をどうするかと

いうことでした。


これも、最後の最後まで、飛行機にのる数時間前

まで、肉体労働して、奮闘しましたが、

どうにか解決することができました。

 

 

 

このサボテンは、夫がインドに赴任する前

から前任者の家の庭に代々あったものですから、

年齢はすでに、40歳以上と推定されます。

インド人はサボテンをあまり好みません。

その昔見たハリウッド映画の冒頭に、夫婦離婚

の前の伏線としてサボテンが映し出されました。

確かに、表面がとげとげしいこの植物は、

敷地内に置くと、家の中に’いさかいを生む’という

象徴のように扱われているようです。

私にとっては、外気からの”’いさかいの元”’に

立ち向かってくれた、平和を守る戦士のように

思えていましたが・・・

 

最後は彼らはととも重量がありすぎて、

4階から階段を降りられず、

見事な枝はほとんど刈り取られてしまいました。

それを見て、私は、声を出して号泣しました。

 

 

向かって左が、私の最もお気に入りの体長

2.5メートルの~です。

(名前がはっきりわかりません。

ヤシか棕櫚の一種でしょうか?)

 

クジャクたちが飛んできた、サルもあそびに

来た、屋上からの風景です。

この屋上テラスから見る、原野の拡がりは

本当に、インドらしい空気を部屋まで、

運んでくれました。


誰もが口をそろえていうことには、

デリー市内でこんなに緑に隣接している風景は

ここしか見られないという、言葉でした。

 

最後のご奉仕としての、アートマセラピー施術

追記です。皆様に、一言ご報告を忘れていました。


我がアパートの一階に住む、ベディ―夫人の

上階に住んでいる、チョードリ家の長女が

チフスにかかっていました。


当然、入院するのが普通のところですが、

ご両親のチョードリ夫妻は、アユールベーダ

の専門知識を持っており、かなり、危険性のある

(と一般的見解では思えますが)自宅療養に

踏み切っていました。


私が、お別れのご挨拶に伺ったおり、

そのことを聞かされ、アートマセラピー

のことを、お話するとぜひ、ぜひ、施術を

して欲しいと頼まれました。


ご両親が心配そうに見守るなか、インド出発

までの2日間、数時間、セラピーを行いました。

 

症状は、熱があり、言葉を発するのも面倒

なほど、衰弱してベッドに横たわる彼女を見て、

決して軽い症状ではないことを知りました。

しかし、二日間の施術後、おかげ様で回復

を見ました。


胃の部分の凝りをほどいて欲しいという、

アユールベーダ流見解はもっともでしたが、

その凝りは、足のふくらはぎ内側とふくらはぎ

の凝り、身体左右の気流のアンバランス、

首と腕の順気の流れと関係あると答えると

不思議そうな顔をされました。


私自身の体験と信念に照らし合わせ、それらの

部位と体全体のバランスを整えるように

施術いたしました。

 

飛行場に向かう直前、再び、階下に挨拶に

行くと、病で臥せっていた、彼女自身が

ベッドから出て、飛び切りの笑顔でお別れの

挨拶を手を振りながらしてくれたときほど、

この最期のインド滞在期間の中で、嬉しかった

ことはありません。

 

 

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インドに居ます!’

2018年06月30日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

’ありがとう’と伝えたくて  ♫♫♪・・・・・

**************************2018・6/30

 

おはようございます。

今現在、私はインドにおります。

いよいよ、住み慣れたアパートを手放すことに

たしましたので、最後のお別れに来ています。

 

帰国は7月中旬すぎを予定しています。

その間、ブログはしばらくお休みさせていただきますが、

お許しください。

 

 

この部屋は、13年間、インド・ニューデリー生活における

最後の砦(インドでは、4回引っ越ししましたが・・・)でした。


窓の外に広がる動物保護地区の草原に目を癒され、

入居当時は舗装されていない建物前の道は、土で、草と野生の

匂いが溶け込んで、素朴な大気と大地の土の匂いがあり、

インドらしい陽性なエネルギーを存分に与えてくれた、

身も心も癒すことができた、最高の砦でした。

 有難う~~~~♫♫♪・・・・・

 

それから、もう一つ、私事ですが、今や、インド音楽、

シタール演奏家として、巨匠の1人となった、グルジーに、

10年振りにレッスンを受けてくることになりました。


10年ひと昔と言いますが、ひと昔前には、”忠実な弟子”

としてシタールの研鑽をしていた自分ですが、帰国してからは、

練習から遠ざかってましたので、今回、お会いして、師から、

匙(さじ)を投げられるか、はたまた、再び、インド音楽へ

の情熱が芽生えるのか? ~ 

 

というわけで、帰国までしばらくブログはお休みさせて

いただきますので、ご了承くださいませ。

 

 

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母なる女神と娘のセクシャルハラスメントへの対応

2018年06月10日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

ヴィシュヌデヴィとの縁はこのアパートをゲットする時からあった?

のかしら~の巻  

2018・6.10

*******************************************

 

 

これほど奥深まった地、高い峰を超え、昔は、多くの難関を

潜り抜けて到達できたであろう、標高2000メートル以上の

山の一角の岩屋の寺院になぜ、多くの人々が古代より訪れ、

信仰が絶えることなく、女神信仰のメッカになって

いるのだろうか?

 

色々な説が残っているようだが、一言でいえば、誰もがここに

参拝に来た折り、巡礼道の此処かしこに、目に見えぬ、“女神の力”

(Shaktipeeths)を感じ取るからかもしれない。 


私自身、このそびえる山を、ジャムカシミール飛行場から現地に

いくまでのタクシーの中から発見したときは、正直、その険しさ

と標高にうなってしまった。


それまで、せいぜい高尾山を、遠足で上った思い出があるだけで、

体力的にも精神的にも、眼前にそびえる海抜2000メートルは

超えていそうな、の頂上を見て、その近くの寺院に上る自信

は砕けそうになっていた。


しかし、実際、上り始めて、4時間経過して、周りの空気が

希薄になるのを感じながら、頂上近くにいたとき、次の朝に

再度上りたいと思ったのだから、不思議だ。

”もう度、日を改めて上りなおそう

次回はサリー(印度女性の正式な服装)をまとって、女神

挨拶に出直そう”と考えていた事自体、すでに、

シャクティ(女神の力)の後押しがあった

証拠かもしれない。 


少し前に、このことは、詳しく、ブログに書かせて

いただいたので、簡単にお話させていただく。


現地に着いた翌日、一度目の登山を試みるが、山に入る

許可証、山に入っての数回の検閲、所持していた

携帯電話すら、ロッカーに預けなければならないといわれ、

そのロッカー待ち・・


すべてに長い行列の後ろに並ばざる得ないほどの、人だった。

それだけで、すでに相当のエネルギーが消費されて、肝心の、

参拝時には疲労感は限界に達していた。


道中、心の中に、声なき声が走った。

‘もう一度いらっしゃい。サリーを着て・・“という(女神からの?)

メッセージを、 心に受け取り、一日目の参拝を終えてホテルに

戻った。


私は、二度目の参拝の準備に向けて手順を整えていた。

そして、その2度目の登山。


一度めの巡礼と異なり、身体チェックや神殿拝観パス取得

の列に並ぶことなく、登頂まで、不必要なエネルギーや緊張を

費やさずに、スムースに事が運んだのは、女神のご招待ゆえ

と勝手に想像した。


こうして、聖なる岩屋の寺院に到着できた。

さらに、一般参詣者が、一息(ひといき)ほどの、短時間の

ダルシャン(女神に手を合わせ祈ること)が赦されている中、

私の番では、数分の時間をかけることが赦された。


その間、神官の説明やら、ご神体の拝観時間をいただくと

いう、特例となった


二度目の参拝で、こうして、聖なる岩屋の中の深淵な空気を

胸いっぱい吸い込めたことは、やはり、女神からの招待を

受けての巡礼かと、納得したものだった。


 

さて、今回の巡礼の旅では、まだ、話題に出ていなかったが、

実は、女神参拝をした後、もう一つの寺院を参拝した。


そこに立ち寄らなければ、女神からの真の功徳はないという。

バイローババ という本尊を祀る寺院。

彼は、聖者でもなく、むしろ、女神を追い回した、図太い神経
の不埒者である。

何故、ヴィシュヌデヴィを参拝したあと、神様でもない、

バイローババ の所に寄るのか?


そのお話を今日はさせていただきたい。

前のブログの続きとなるので、内容を理解していただくために、

できれば、前回を読んでから以下の続きをご覧いただければ幸いだ。

 *********

ラーマ皇子の予言どおり、ヴィシュヌナヴィの栄光は広く

遠くにまで及んだ。


人々は大勢、彼女の瞑想する岩屋に祝福を得るために群がっていた。

時は移り変わっていった。


ある時、ゴラクシ ナタ 師(Goraksh Nath ji)と呼ばれる

偉大なるヨギは、昔から伝えられてきたこの話の光景を

夢の中でありありと見た。


そして、今、ヴィシュヌナヴィは果して、高い霊的レベル

に到達しているのかどうか知りたいという好奇心に

駆り立てられた。


そこで、彼の一番弟子である、バイロン ナス(Bhairon Nath)

にその真相を探りに行かせた。


バイロンが洞窟に着くと、ヴィシュヌナヴィを密かに観察した。

すると、ヴィシュヌナヴィは、弓と矢を常に身に着け、そばには

猿たちや獰猛そうなライオンがいた。


バイロンはヴィシュヌナヴィを一目みて、この世のものでない

美しさに心を奪われた。


そして、良識を忘れ、自分の役目も忘れて、ヴィシュヌナヴィと

結ばれたいと強く願った。

 

外では食事の用意が信者たちの手で進み、村中の人たちや

偉大なヨギ、ゴラクシとその信者を招いた宴会の準備が

できていた。


バイロンはヴィシュヌナヴィの心をつかむため、様々な

手法で、アプローチをするものの、それらの努力は

あわのように効果はなかった。


一方、執拗なバイロンの誘惑を拒み、ヴィシュヌナヴィは

山のに逃げ込もうと席をたった。 

バイロンは彼女の跡を追い続けた。


ヴィシュヌナヴィは、やっとのことで、多くの峰を

通り抜け、(現在神殿が置かれている)山中の岩屋に

姿を隠した

追い続けたバイロンは、最後の砦にまで姿を現すと、

女神(ヴィシュヌナヴィ、つまり現在のヴィシュヌデビ)

は、身を守るためには、彼を殺すほか手段はないと

追い詰められた。


洞窟の入り口で、女神は彼の首を打ち取った。

はねられたバイロンの首は、離れた丘の頂上に落ちて行った。 

 

命が切れる寸前、首の無いバイロンは気が付いた。

自分に与えられた役目を思い出した。


そして、師の命令を無視して、自分の欲望に我を忘れたことを

悔やみ、神に対し、赦しを乞いた。

その悲痛な後悔と、悔い改めたいというバイロンの祈りの

波動は、至高の女神(ヴァシュヌナヴィを生んだ女神たち)

にまで届いた。


女神たちは、哀れに想い、慈悲をもって、次のように

宣言した。


“女神を信じる者たちよ、あなたの願をかなえたければ、

女神の寺院に詣でた後はバイロンに会ってから

(バイロンが祀られた寺院を詣でてから)立ち去るがよい。

そうすることによって、あなたの巡礼の目的が完全に果たせる

ことだろう”


バイロンの寺院は、ビシュヌデヴィ寺院から、3キロほどさらに

登ったところにある。

その後は、ヴィシュヌデヴィ女神を参拝した後、多くの信者

たちは、バイロンの寺院に詣でるようになった。

 

方、ヴァシュヌナヴィはこのバイロンの事件以後は、

美しすぎる女性としての、人間の姿を葬ることにした。


そして、一つの黒い石を彼女の顔面に見立て、シンボルとする

ことで、魂は、半永久的に瞑想して至福の中に包まれている

という。 


その魂こそ、深淵で’オーム’と空気が震えて音を出している。 

岩屋の寺院の洞窟に 今でも満ちているかのようだ。

 

 

 ドルガ女神(ヴィシュヌデヴィ)は 必ず、ライオン、もしくは 

虎にまたがっています

 

後記)

さて、とりあえず、ここで私のインド旅巡礼手記は終わりです。

もう一つ 余談ですが、冗談のような名刺を古い鞄から、

つけました。

ヴィシュヌデヴィの名前の不動産会社の名刺です。

来月、いよいよ、インドのアパートの荷物を処分です。 

そのための、書類を整理していたら、当時の不動産屋さん

の名刺が出てきました。

この不動産屋を介して、今のアパートに住む事に

なったのでした。

その不動産屋の名前は、

vishunu navi property : sweety DiDiでした。

ブログ冒頭の写真)

”ヴィシュヌデビ女神不動産”です!sweety Didi とは、

優しく導いてくださる女神様 といったところでしょうか… 

この不動産の社長が ヴィシュヌデヴィの信奉者

であったようです。

色々なインドの聖地に、このアパートを拠点として

行きましたが、最後の巡礼の旅がヴィシュヌデヴィ寺

であったというのは何か不思議な因縁を感じます。


そして、1人で10年以上、このアパートに暮し、

母の介護で日本に帰国しても無人の部屋になったに

かかわらず、安全にこれまで、保たれてきたのは、

やはり、大きな力のお守りがあったような気がいたします。

 

  

ヴィシュヌデヴィ寺院のある、山の目の前の、

ホテルの前の窓から見えた、この参道の灯りの道は 

心の道しるべにも通じるものがあり、

印象が深いものでした。

 

 

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クリシュナ神とヴィシュヌデヴィ女神の関係は?

2018年06月05日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

私が今回訪れた、”トリクタ“の丘を、古代の文献から見る               

2018・6・5

 

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 ドルガ(ヴィシュヌデヴィ)

 

先回の記事に出てきた“Trikuta”トリクタ“という丘の名前は、

紀元前5千年の書ともいわれるヴェーダ書の、”リグヴェーダ“

(Rigveda)の中にすでに記述されている。


その箇所は、シヴァ神への祀り方、祭典、儀式などを書いた章

で触れられているのだが、これを見ても、”トリクタ“という丘で、

祭儀的慣習的行事が行われ、すでに古代からシヴァ神の祭儀が

民間の間で行われていたことがわかる。

 

”女神信仰”はヴェーダの中では明記されていないが、ヴェーダに

次いでインドで古い聖典といわれる、マハバラータ(the epic 

Mahabharat)には登場する。


この物語は、ブログでも何度か取り上げているので、ご記憶の

ある方たちも多いと思うが、クリシュナ神とアルジュナとの

対話でなるギータといわれる小物語が入っている、壮大な

インド古代歴史物語である。

 

どこに、女神信仰と、”トリクタ“という丘に関連した事象が

でてきているかといえば、主人公のパンダヴァ兄弟の陣頭にたつ、

アルジュナが闘いに際して、祈りを捧げる場面にあった。


アルジュナは 彼とともに戦うクリシュナ神から、

アドヴァイスを受ける。

それは、母なる女神に勝利を願い、祈りを捧げるように

というクリシュナのアドヴァイスを受けて、次のようにアルジュナ

呼び掛けたのだ;


JambookatakChityaishuNityamSannihitalaye’。

このサンスクリット語を、現代的に言えば、

you who always dwell in the temple on the slope

 of the mountain in Jamboo“、


つまり、ジャム―の山の傾斜面にある寺院に鎮座します、

女神よ!”ということになる。 

 

     クリシュナとラーダ          

フルートを吹いている神様のモチーフはクリシュナ神

 

ここでは、サンスクリット語で、“Jamboo”という発音

になっているが、おそらく、現在呼ばれている地名“Jammu”

の起源だろう。


ジャム―(カシミール)と現代では呼び方が多少変化している。


”トリクタ“という丘のそば、コル コンドリ(Kol Kandoli)

という地名の場所に、パンダヴァ兄達は、母なる女神の

信仰を礎として、初めて寺院を建立した。


祀られているのは、勝利を祈ったとされる‘母なる女神’。

その場所から、”トリクタ“の丘にある、現在のヴィシュヌマタ

女神の聖なる洞窟寺院を眺めることができる。 


勝利の女神、つまり、先のブログに挙げた、三女神のことだろう。

そして、その女神達から、女神たちのシャクティの象徴として、

生まれた、ヴィシュヌマタ女神の洞窟寺院が、コルコンドリ

から眺められるというのは、女神たちの関係性を象徴して

いるようだ。

 

余談だが、コルコンドリの丘は、5つの突起した大きな岩で

できているといわれる。

(私はまだ、現場を見ていないのでイメージがわかないので

恐縮だが・・)


その5つの岩は、クリシュナ神率いる、アルジュナの兄弟、

つまり、5人のパンダヴァ兄弟の頭を示唆しているという。


そういえば、ヴィシュヌデヴィ女神の岩屋の神殿の中に

祀られた女神の象徴(シンボル)も それぞれ、小さな

黒い石が置かれていた。


日本古代では、自然のものすべて、特に石に関しては、

霊体としてみる慣習があったようだが、インドでも同様の

形態が古代インドに存在していたというのがとても興味深く

映った。


例えば、日本の奈良の三輪山の大神(おおみわ)神社の

ご神体といわれる奥の院の、聖なるご神体のある場所には

大きな岩がゴロゴロと無造作に自然の有り様のまま、

置かれ、その周囲は しめ縄で世間との境界を

分けられていたのが印象的だった。


そのことを彷彿とさせる、女神信仰の現場でもあった。

 

 

 

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