神性具現化を通じて到達するヴィブーティ・ヨガとは 2017・9・28
***************************************************
昨日、とあるところで、必然的偶然に、プッタパルティ(印度)
サイババ師の元に何度か足を運ばれ、サイババ師に個別に祝福
を受けた方にお会いした。
サイババ師は、信者たちの目の前の空中で、その手を振って、
信者に、祝福の品を物質化して しばしば、渡された。
’とても巷で言う所の、手品などには見えなかった’ と彼はいう。
私と母が、ダルシャン(サイババ師と謁見する機会)を得た時、
サイババ師は往々、白くて少し香りある、灰 を出して、
’あなたに今必要だから’と手のひらにサラサラと注いでくださった。
その灰を 母の手のひらに 濯いでいただいてあげた。
’お母さんの健康のためのものだから、飲んだら?”と母に即した。
すると、周りの信者の指が、母の手のひらの中に伸びて、
少しでも分けてもらいたいとばかり、こちらの了解を得ぬまま、
つまんで、取っていく。
”まるでフケのようで、こんなの飲めないわ、気持ち悪い”と
母は、不遜なことを言いながら、一気に手のひらの灰を、
口に入れていたことを思い出す。
その灰を、ヴィブーティ と呼んでいる。
神性が具現化されて、物質化したものを、指す言葉だ。
今日のヨガの方法は、クリシュナの説く、この
ヴィブーティ―ヨガについて・・
***
クリシュナは言う;
The angels do not know my glory, The great rishis do not know
it either.
天使たちは私の栄光を知らない。偉大なリシ達も同様だ。
I am the Primal Cause for the devas, the rishis and for everything
else.
私は多くの神々が生まれる最大の引き金だ。神々のみならず、
リシ達、そしてあらゆるすべての存在の大本だ。
Among the all human beings, he who knows Me as the Lord of
the world without beginning or birth is the one who has no
delusions.
すべての人類の中で、“私”には生滅はなく、この世の支配者で
あることを知っている人には、迷妄はない。
He is freed from all sins.
その人はすべての罪から自由だ。
Intellect, wisdom, clarity, patience, control of the senses,
control of the mind, pleasure, misery, birth, death, fear,
absence of fear, non-violence, balanced mind-set,
contentment, penance, charity, fame, infamy –
all are born from My Mind and have My
Divine Nature.
知性、賢さ、明晰性、忍耐力、感覚制御、心情制御、喜び、
悲しみ、生、死、恐れ、無恐、非暴力、心の調和、充足感、
悔い改め、慈善、名誉、不名誉-すべては、‘私の心’から生まれ、
‘私の聖なる資質’を持っている。
He, who truly understands the divine effulgence and
its unifying power n these manifestations, experiences
unity in diversity and becomes established in that.
There is no doubt about this.
(10-2 to 10-7)
真に、神性な眩い光と、それらを顕現する事象の中に
統一力を見出すものは、その光の中に自己を確立するだろう。
これに関しては一抹の疑問の余地はない。(10-2 から 10-7)
そのようにアルジュナに述べるクリシュナ。
自分はすべてのすべてであり 光としてあらゆる事象の中に
顕現されているという。
その範囲は、具体的対象のみならず、抽象的なもの、人の感情、
名誉や不名誉、恐れや悲しみ、喜びや均衡とれた心持ちなど、
良きにせよ、悪しきにせよ、すべてひっくるめて、神(クリシュナ)
の神聖なる心の表現でもあるという。
ここは、少し、反芻して考えてみたい箇所のような気がする。
なぜなら、私たちは普通、良き事のみが神に属するものだと、
考えているにもかかわらず、人間の感情すべての中にさえ、
クリシュナが存在しているというのは どういうことだろうか?
負の思いやマイナス感情の中にさえ、存在するということなのか?。
悲しみや不幸にあって、多くの人たちは、そうした苦しい状況
におかれ、神に救いを求める。
が、ここでは、クリシュナはそうは言わない。
心情をコントロールするために神がいるのではなく、踏み外して、
失敗し、悔い改める以前の心の中にすら、神はいるのだという。
一つのイメージが浮かんだ。
それは、巨大な仏様の手のひらの上で分別、無分別に行動
しているすべての人間の日常生活の中に生まれる感情や劇、
・・・ 喜劇やロマンス、ハッピーエンドの物語以外の、
悲劇や不条理劇、結局、どんなことをしていても、結局、
仏様の手のひらの上なのだから、ある意味、私たちは皆平等に
守られ、導かれている存在であるというイメージだ。
ここでクリシュナの言う、すべてに私は存在して、
顕現しているとは、そういうことなのではないかという気がする。
さらに、クリシュナは続ける:
I am the origin for all Everything is born from Me and sustained
by Meonly. Knowing this, the wise worship Me as present in all.
Always establishing themselves mentally in Me and hold on to
Me as their life-refuge, they share My glories and stories among
themselves.
私はすべての存在物の起源、私によって、すべては存在を保つ。
これを知り、すべての中に存在する私を、賢く崇めよ。
‘私’の中に自己を確立し、‘私’を命の避難所として私を固持して、
‘私’の栄光と物語を自分たちで分かち合うのだ。
Reveling in that, they are contented and peaceful.
そうしたことができるのなら、彼らは満たされた思いと
平穏の内にいるだろう。
They are firmly established in spiritual discipline and
worship Me with devotion.
彼らは、スピリチュアル的自制と献身的な愛情で‘私’を礼拝する。
I give them the budidhi-Yoga(the strengthened practice
of seeking and directing the mind to the Indweller with
Wisdom and destroy the darkness of their ignorance
私はそうした人々に、ブッディ・ヨガ(智慧により、心を
掘り下げ、心の内在者を探す修行で、心の闇を歳破すること
ができるヨガをさす)を与える。(10-8 ~ 10-11)
さて、それを聞いた、アルジュナは、クリシュナの意図はわかったが、
ありとあらゆる事象に光を見つけ出すという方法があるのなら、
知りたいと思う。
そこでこう、アルジュナは、クリシュナに問う:
Tell me, what deep and sincere contemplation I must
employ and how should I get to know you?
And in which of these myriad manifestation around me
should I look for you?
教えてください。
そのように深い心からの満足を得るために、私はどのようにして
(事象の中から)貴方(クリシュナ)を見出すことができる
のでしょうか?
そして、その現象から、私の周りのあなた(クリシュナ)の
数知れない顕現を探し出すことができるのでしょう?
すると、クリシュナは答える。
I am the sun shining with its rays…I am the moon.
I am the Himalaya mountains. I am peepul tree among t
he trees.
私は太陽だ。月だ、ヒマラヤの山々だ。森の中の菩提樹だ。
こうした説明を皮切りに、ありとあらゆる現象の中に現れた、
クリシュナ自身をアルジュナに描写して見せる。
神々を、牛を、ウマを、自然現象を例にとって、
アルジュナが知りたい、クリシュナ自身の顕現する現象は、
結局、私たちの世界に存在するすべての
事象に、人に、動物に、植物に、鉱物に及ぶことを、
クリシュナは語る。
話は少し飛ぶが、日本古来の神道では、八百万の神と称して、
自然界すべてが神の顕現と考え、それぞれに神様の名前
がついた。
同様、ヒンズー教の元となる、ヴェーダの教えの根本も、
神は一つであっても、その神は万物を生かしているのだから、
万物は神の現れととっているところは共通性があるようだ。
クリシュナは自分自身を 太陽 にもたとえた。
よく使われる比喩であるが、太陽は、善人悪人問わず、
等しく、その光を降り注ぎ、 地球万物を育成する、
‘与えるだけの愛’の象徴とされる。
結局、神の愛 というのもこれに 似ているのだろう。
なぜ、人生は苦悩や悲しみに満ちているのか?
神も仏もいないという人たちの心情はごもっともだが、
しかし、そうした不幸や悲しみを創り出しているのは、
神ではなく、私たち自身の‘歪み’なのだ。
クリシュナのこの言葉に沿って考えれば、だからこそ、神は、
人のあらゆる感情でさえ、神聖な一面の現れなのだろう。
そうした‘歪み’を均衡に持ってこようと、また、人は努力
しながら、前進できるのだろうから。 たとえ、遅々とした
歩みであっても・・・・
ヴィブーティヨガとは、だから、一瞬一瞬、今、ここに、
そして自分の心に相手の中に、自然の中に、喜びや悲しみの
感情の中に、クリシュナ=神=宇宙の生きる力を反射的に
感じるよう、意図的に心を訓練していくことから始まる
ような気がする。