自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ギータの中のヨガ⑤~Vibhuti Yogaha

2017年09月28日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 

神性具現化を通じて到達するヴィブーティ・ヨガとは  2017・9・28

***************************************************

 

自然写真無料 に対する画像結果

 

昨日、とあるところで、必然的偶然に、プッタパルティ(印度)

サイババ師の元に何度か足を運ばれ、サイババ師に個別に祝福

を受けた方にお会いした。 


サイババ師は、信者たちの目の前の空中で、その手を振って、

信者に、祝福の品を物質化して しばしば、渡された。

’とても巷で言う所の、手品などには見えなかった’ と彼はいう。


私と母が、ダルシャン(サイババ師と謁見する機会)を得た時、

サイババ師は往々、白くて少し香りある、灰 を出して、

’あなたに今必要だからと手のひらにサラサラと注いでくださった。 


その灰を 母の手のひらに 濯いでいただいてあげた。

’お母さんの健康のためのものだから、飲んだら?”と母に即した。

すると、周りの信者の指が、母の手のひらの中に伸びて、

少しでも分けてもらいたいとばかり、こちらの了解を得ぬまま、

つまんで、取っていく。


”早く口にしないと、みんなに取って行かれるわよ”と、私が

母に即すと、

”まるでフケのようで、こんなの飲めないわ、気持ち悪い”と 

母は、不遜なことを言いながら、一気に手のひらの灰を、

口に入れていたことを思い出す。


その灰を、ヴィブーティ と呼んでいる。 

神性が具現化されて、物質化したものを、指す言葉だ。 

今日のヨガの方法は、クリシュナの説く、この

ヴィブーティ―ヨガについて・・

***

クリシュナは言う;

The angels do not know my glory, The great rishis do not know

 it either.

天使たちは私の栄光を知らない。偉大なリシ達も同様だ。

 

I am the Primal Cause for the devas, the rishis and for everything 

else.

私は多くの神々が生まれる最大の引き金だ。神々のみならず、

リシ達、そしてあらゆるすべての存在の大本だ。

 

Among the all human beings, he who knows Me as the Lord of 

the world without beginning or birth is the one who has no 

delusions.

すべての人類の中で、“私”には生滅はなく、この世の支配者で

あることを知っている人には、迷妄はない。

 

He is freed from all sins.

その人はすべての罪から自由だ。

 

Intellect, wisdom, clarity, patience, control of the senses, 

control of the mind, pleasure, misery, birth, death, fear, 

absence of fear, non-violence, balanced mind-set,

 contentment, penance, charity, fame, infamy –

 all are born from My Mind and have My 

Divine Nature.

知性、賢さ、明晰性、忍耐力、感覚制御、心情制御、喜び、

悲しみ、生、死、恐れ、無恐、非暴力、心の調和、充足感、

悔い改め、慈善、名誉、不名誉-すべては、‘私の心’から生まれ、

‘私の聖なる資質’を持っている。

 

 He, who truly understands the divine effulgence and

 its unifying power n these manifestations, experiences

 unity in diversity and becomes established in that. 

There is no doubt about this.

(10-2 to 10-7)

真に、神性な眩い光と、それらを顕現する事象の中に

統一力を見出すものは、その光の中に自己を確立するだろう。

これに関しては一抹の疑問の余地はない。(10-2 から 10-7)

 

そのようにアルジュナに述べるクリシュナ。

自分はすべてのすべてであり 光としてあらゆる事象の中に

顕現されているという。


その範囲は、具体的対象のみならず、抽象的なもの、人の感情、

名誉や不名誉、恐れや悲しみ、喜びや均衡とれた心持ちなど、

良きにせよ、悪しきにせよ、すべてひっくるめて、神(クリシュナ)

の神聖なる心の表現でもあるという。


ここは、少し、反芻して考えてみたい箇所のような気がする。


 なぜなら、私たちは普通、良き事のみが神に属するものだと、

考えているにもかかわらず、人間の感情すべての中にさえ、

クリシュナが存在しているというのは どういうことだろうか?


負の思いやマイナス感情の中にさえ、存在するということなのか?。


悲しみや不幸にあって、多くの人たちは、そうした苦しい状況

におかれ、神に救いを求める。 

が、ここでは、クリシュナはそうは言わない。 


心情をコントロールするために神がいるのではなく、踏み外して、

失敗し、悔い改める以前の心の中にすら、神はいるのだという。


一つのイメージが浮かんだ。 

それは、巨大な仏様の手のひらの上で分別、無分別に行動

しているすべての人間の日常生活の中に生まれる感情や劇、

・・・ 喜劇やロマンス、ハッピーエンドの物語以外の、

悲劇や不条理劇、結局、どんなことをしていても、結局、

仏様の手のひらの上なのだから、ある意味、私たちは皆平等に

守られ、導かれている存在であるというイメージだ。


ここでクリシュナの言う、すべてに私は存在して、

顕現しているとは、そういうことなのではないかという気がする。


さらに、クリシュナは続ける:

 I am the origin for all Everything is born from Me and sustained 

by Meonly. Knowing this, the wise worship Me as present in all. 


Always establishing themselves mentally in Me and hold on to

 Me as their life-refuge, they share My glories and stories among 

themselves.

私はすべての存在物の起源、私によって、すべては存在を保つ。


これを知り、すべての中に存在する私を、賢く崇めよ。

‘私’の中に自己を確立し、‘私’を命の避難所として私を固持して、

‘私’の栄光と物語を自分たちで分かち合うのだ。

 

Reveling in that, they are contented and peaceful.

そうしたことができるのなら、彼らは満たされた思いと

平穏の内にいるだろう。

 

They are firmly established in spiritual discipline and 

worship Me with devotion.

彼らは、スピリチュアル的自制と献身的な愛情で‘私’を礼拝する。

 

I give them the budidhi-Yoga(the strengthened practice 

of seeking and directing the mind to the Indweller with 

Wisdom and destroy the darkness of their ignorance

私はそうした人々に、ブッディ・ヨガ(智慧により、心を

掘り下げ、心の内在者を探す修行で、心の闇を歳破すること

ができるヨガをさすを与える。(10-8 ~ 10-11)

 

さて、それを聞いた、アルジュナは、クリシュナの意図はわかったが、

ありとあらゆる事象に光を見つけ出すという方法があるのなら、

知りたいと思う。


そこでこう、アルジュナは、クリシュナに問う: 

Tell me, what deep and sincere contemplation I must 

employ and how should I get to know you? 


And in which of these myriad manifestation around me 

should I look for you?


教えてください。

そのように深い心からの満足を得るために、私はどのようにして

(事象の中から)貴方(クリシュナ)を見出すことができる

のでしょうか?


そして、その現象から、私の周りのあなた(クリシュナ)の

数知れない顕現を探し出すことができるのでしょう?

 

 すると、クリシュナは答える。

 I am the sun shining with its rays…I am the moon. 

I am the Himalaya mountains. I am peepul tree among t

he trees. 


私は太陽だ。月だ、ヒマラヤの山々だ。森の中の菩提樹だ。

 

こうした説明を皮切りに、ありとあらゆる現象の中に現れた、

クリシュナ自身をアルジュナに描写して見せる。


神々を、牛を、ウマを、自然現象を例にとって、

アルジュナが知りたい、クリシュナ自身の顕現する現象は、

結局、私たちの世界に存在するすべての

事象に、人に、動物に、植物に、鉱物に及ぶことを、

クリシュナは語る。 

 

話は少し飛ぶが、日本古来の神道では、八百万の神と称して、

自然界すべてが神の顕現と考え、それぞれに神様の名前

がついた。 


同様、ヒンズー教の元となる、ヴェーダの教えの根本も、

神は一つであっても、その神は万物を生かしているのだから、

万物は神の現れととっているところは共通性があるようだ。 


クリシュナは自分自身を 太陽 にもたとえた。

よく使われる比喩であるが、太陽は、善人悪人問わず、

等しく、その光を降り注ぎ、 地球万物を育成する、

‘与えるだけの愛’の象徴とされる。


結局、神の愛 というのもこれに 似ているのだろう。

なぜ、人生は苦悩や悲しみに満ちているのか? 

神も仏もいないという人たちの心情はごもっともだが、

しかし、そうした不幸や悲しみを創り出しているのは、

神ではなく、私たち自身の‘歪み’なのだ。 


クリシュナのこの言葉に沿って考えれば、だからこそ、神は、

人のあらゆる感情でさえ、神聖な一面の現れなのだろう。 


そうした‘歪み’を均衡に持ってこようと、また、人は努力

しながら、前進できるのだろうから。 たとえ、遅々とした

歩みであっても・・・・


ヴィブーティヨガとは、だから、一瞬一瞬、今、ここに、

そして自分の心に相手の中に、自然の中に、喜びや悲しみの

感情の中に、クリシュナ=神=宇宙の生きる力を反射的に

感じるよう、意図的に心を訓練していくことから始まる

ような気がする。

 

自然写真無料 に対する画像結果自然写真無料 に対する画像結果

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唯脳論者飯田氏と自殺者の霊

2017年09月23日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

わけのわからない、輩(やから)たちは退散しろ! 2017.9.23

********************************************

 

飯田史彦氏の“生きがい論”シリーズの中でも、

私は特に、このエピソードに興味を持つ。 


今までにも何回か、ブログの引き合いでご紹介している

が、それは、先回書いた記事に出てくる自殺霊との

対話である。

 

先回の内容では、結局、飯田氏が恐れていたように、

心に語り掛けてくる声、その声が与えてくれる情報に

従って 誘導されるように、自殺霊の実家にたどり

着いたところまでご紹介した。

 

今日は、その間の 自殺霊と向き合っているとき

の飯田氏の葛藤を少しお話したい。


飯田氏は当時唯脳論者、神も霊の存在も信じておらず、

こうした幻覚幻聴が始まったのは、或る日、高熱を

出して、一晩寝込んだ時以来のことなので

その後遺症ぐらいに思っていた。

 

さて、飯田氏に話しかけてきた自殺霊は、恋愛の成就

が妨げられたことが原因で、自殺した男性の霊だった。 

 

両親は自殺した息子の本当の原因を隠し、事故であると

周りに語っていた。 

そして、自殺の原因が恋愛にあることを知らない両親

は、息子の働いていた会社の労働条件の不当扱いに

よるものと思い込み、会社を訴えようとしていた。 

 

息子の自殺霊は、あの世とこの世の中間を漂いながら、

両親の悲しみと誤解を取り除かない限り、自分は

浮かばれないと感じていた。


なぜなら、両親が会社を訴えることで さらなる、

複雑なカルマを 両親に課すことになるからだ。 


自分が魂意識として両親の傍らにいることを飯田氏を

通じて知らせたかったのだ。

 

その目的で、話しかけてきたこの自殺者の霊と

対話をしながら、半信半疑のまま、飯田氏は次のように

考えて 矢継ぎ早に霊が心痛める質問をしたという:

 

その時の私には,自分の脳の中から‘、彼’に代表される,

‘おかしなものたち’をまとめて追い出したいという

願望しかありませんでした。” 

 

そこで、飯田氏は 自殺霊にこう言い放つ、

そもそも、あなたが自殺して、ご両親を裏切ったん

でしょう?” 


“そもそも、ご両親をそんな目に合わせたのは(須田注:

息子をなくした悲しみ大きく、さらに次なるカルマを

作ってしまう両親の姿に、自殺霊は 責任を感じて

‘救い出したい’と飯田氏に話した後の会話)

あなた自身じゃないですか!”

 

“なんか言ったらどうですか?”

とたたみかけるように、自殺霊に言うと、


“その時、私の心がぶるぶると激しく振動するのが

わかりました。 


‘彼’の魂が持つ、いいようのないほど、強くて深い罪悪感と

後悔の念が直接に伝わってきたのです。” 

 

こうして、飯田氏は自殺霊の悲しみの深さを感じると

ともに、頭がガンガンと痛んできた。

そして、決心せざるを得なかった。

 

“この頭の痛みから逃れるためには、‘彼’を救うしかない。 

この痛みは、‘彼’の痛みなんだから”

 

話は前後するが、なぜ、その自殺霊は、飯田氏に、

的を絞ったのか?


自殺霊が言うには、 寂しくて、光を求めてさまよって

いたら、一つの灯りのように見えたものがあったので、

あのう’ と話しかけたという。

それが、光に見えたのは、飯田氏だったという。

 

飯田氏は聞く:

なぜ、その光に話しかけたら、僕だったんでしょうね?”


霊:“自分にはわかりませんが、・・きっと、それが

あなたのお役目なんじゃないでしょうか?”

 

“使命です。・・暗闇でさまよう魂たちを、光にいざなう

こと・・

それが、あなたの使命であるに違いありません・

少なくても、自分にとっての光は、あなただったんです

から”

 

この一件のあと、飯田氏は、これまでの唯脳論を捨て、

その使命を自覚したかのようだ。


その後、見えない体を持つ 霊体の悲痛の願いを

聞き届け、日本中を飛び回り、多くの霊とその家族を

助けることになる。

 

しかし、当時は、まだ懐疑的だった飯田氏は、自殺霊に

次のように言う。


“それにしても、僕はまだ、20歳の大学生ですよ

・・略・・

魂みたいなものの存在なんて、まったく信じて

いないのです!” 

 

さらに、

“魂なんて存在するはずがない。そんなこと非科学的だ。

バカバカしい。” 


“あなたは、幻にすぎない。

あなたは、僕の脳が創作した、幻影なのだ。 

魂など、存在するはずはない。冗談もいい加減に

してくれ!”

 

と 頭に血が昇ったようになって、”切れた”ように叫んだ。


一方、霊は飯田氏に 自分の置かれている状況を 

どのように話したのか? 

 

まとめてみると:

真っ暗闇の中で、自分が犯してしまった罪をひたすらに

反省している。

 

② そこは、非常に寂しいところだが、‘愛に満ちている’

 

③  愛’という言葉が不適切なら、‘感謝の念’と‘確信’がある。

絶望のなどん底にいても、‘確かなる希望’をあたえてくれる

‘何か’が存在し それを‘愛’と感じる

 

④ 真っ暗闇の中に 贖罪のために、身を落として

(両親を悲しませるという最大の罪の一つを犯したこと

を言う)

猛反省して、‘自分は誰かに愛されている’という確信が

できた

 

⑤ 誰から?愛されているかといえば、‘すべて’に愛され

ている、

自分自身を含んだあらゆる存在が自分を愛してくれている

 

⑥    このことは、そちら(肉体の世界)で生きている間は

理解できなかった。


体を離れてから、ようやく、‘すべて’を理解できた・・・、

まるで、ただ、忘れてしまっていたことを思い出した’ように。(以上)

 

私(たち)は”霊魂とか魂は‘ある’、意識は‘生きとおしである’、

’‘すでに アートマでは、すべて悟っているが、この世で忘れ

ているだけ’、


存在するものは、すべて有機的につながっていて、しかも、

愛で繋がっている’とか・・そうしたことを、頭では理解

しているような気になっている。

 

しかし、こうして、飯田氏のやり取りの中に表現されると、

罪深いとされた、自殺霊でさえ、”自分はすべてから愛されて

いる”という実感を抱くほど 、一元の世界(時間・空間を

超越して、物質の無い世界)では愛に満たされているの

かもしれない。

 

’その愛を分け隔てなく与える存在’を人は‘神’と呼ぶの

かもしれない。

だとすれば、‘神’とは文字であらわした観念や象形ではない。

 

実際に いつも微笑み、すべてを包み込むような優しさで

誰をも抱きとる愛に満ちたエネルギーを発している、

振動として表現される、空気のようなものなのかもしれない。 

 

空気と違う所は、その‘優しさ’には 意思と想念があると

いうこと。


だから、気ままに、ある時は現れ、ある時は消えるような

自然現象的なものではない。

 

自殺霊が語る言葉、’自分が肉体を持っていて生きていた時は

忘れていた感覚’というのは、だから、あの世もこの世も

同様に、そうした愛で包まれた世界であることを、今、

思い出すことによって、感じ取ることが可能だという

ことかもしれない。

 

実相の世界、実存の世界と、夢のような儚い現実の

この世の世界と、重なり合っているのだろう。


この自殺霊が、肉体を失って思い出した、本来の愛

に包まれている自分を、この瞬間の今に、わたし達も

自覚することはできるし、それができれば、

至福を味わうことができるだろう。

 

結局、今の今、自分の意識をどちらの方向に向けるか?

それが 至福に通じる、幸せの境地を味わえるか否かの、

カギのような気もする。

 

  無料インド画像 に対する画像結果

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唯脳論者と不可思議体験

2017年09月18日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

唯脳論者の方へのメッセージ

******************************2017.9.18

 グリーティング カード, Gnome, 花, 庭

貴方は唯脳論者ですか?


唯脳論者というのは・・・

すべての自分が認識するものは、脳内の化学的反応である~

 

だから、文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、

心など人のあらゆる営みは脳という器官の構造に対応

しているという考え方。”

とウイキペディアには簡単な説明がある。

 

なぜ、このような質問をしたのかというと、これまで木内氏の

臨死体験の記事を二つ続けて投稿させていただいているからだ。


唯脳論者の方の反応は、たぶん、

“だから、何?

すべてここに書かれている事は、体験というより、

木内氏の頭で作り出したことではない?”

というものだろう。


自然治癒力の発動のために、いろいろなアプローチ

からお話させていただいているが、霊 とか、

不思議な現象 という話題に関しては

 

唯脳論の方は、

“脳の仕業(しわざ)”と結論付けすることから、創作物語か 

幻影のようなもので、あり得るわけがない”と否定観で見る。 


前置きはこのくらいにして、本題に入りたい。 

今日 ご紹介するのは、ベストセラー “生きがい論”シリーズ 

生み出した 飯田史彦氏の、体験記である。

 

当時、飯田氏は唯脳論者だった。


死後の世界とか幽霊とかいう話は、毛頭受け付けるはずも

なかった。

それが、なぜ、次のような、‘魂を救う3つの仮説’をたてる

学者になったのか? 

 

簡単にその仮説をご紹介すると、


①   人間はトランスパーソナルな(物質としての自分を

超えた精神的な)存在であり、その意味で、人間の生命

は永遠である。(死後生仮説)

 

②   人間の本質は、肉体に宿っている(につながっている)

意識体  (sprit, soul)であり、修行の場(学校)で

ある物質世界を訪れては、生と死を繰り返しながら、

成長している。(生まれ変わり仮説)

 

③   人生とは、死 病気 人間関係などの様々な試練

や経験を通じて学び、成長するための学校(修行の機会)

であり、自分自身で計画した、問題集である。

 

したがって、人生で直面するすべての事象には,

意味や価値があり、すべての体験は予定通りに順調な

学びの課程なのである。(ライフレッスン仮説)

 

唯脳論者だった飯田氏がどのようなきっかけで、

スピリチュアル的仮説を、世の中に発表するまでの

変化を遂げたのだろう?

 

それは、大学生時代のある体験が根底にあった。

ある日、突然、不可思議な体験に直面した。 

 

イメージとしては、心に’情報の入った箱’が届き、

それを開けると、声やヴィジョンとして、鮮明に

飯田氏の心に 翻訳され、時には映像として、

映ったという。

 

一番最初の体験は、ある男性の姿なき声 “あのう・・”

という心でキャッチした声から始まった。それを人は

幽霊の声と呼ぶのだろう。 

 

話しているうちに、その男の人は自殺霊だという

ことがわかったからである。

 

飯田氏は本の中でこう述べている(*1)

 

“私はがちがちの唯脳論者でしたから、当然ながら、

幽霊の存在など全く信じていませんでした。

すべての不思議な現象は脳の仕業にすぎないと、

思い込んでいたのす。”

 

幻想、幻覚は、脳の支障と考えた飯田氏は近くの医院に行き、

診察してもらう。

しかし、検査後、医者は、”何も悪いことはないから、

心身症ではないか“という。 

 

体験した幻覚・幻聴をいくら説明しても、わかって

もらえそうな医師はおらず、大きな病院で検査を受ける

ことを勧められた。

 

しかし、飯田氏は、大きな病院に行けば、

精神病を宣告される“か

”脳の手術を勧められるか“

の、どちらかと判断し、


”貧乏学生でしたから、これ以上の騒ぎになって、高額の

医療費がかかってしまうのが一番怖かったのです“ 

という理由で、不思議な現象には不可解さを残しながら

そのままでいた。

 

先の話に戻ると、その自殺霊が語り掛けてきた時、飯田氏は

自問自答しながら 分析する。

その声の主は、中性的、個性を感じられながら、気味の

悪い感じはなかった。

 

①   自分の脳が生み出す幻覚ならば、どうして、

自分の脳がそれまで抱いていたはずの、(霊は)暗くて、

気持ちの悪い、怖い物 というイメージをヴィジョン化

した幽霊ではないのか

 

②   その霊の語る言葉や行動は、“独自の意思を持ちながら、

言動している”ということ。 

だから、“実感としては、私(飯田氏)とは全く別の存在だ”

という感覚があった”こと。

 

③   その霊の語り口は、普段 飯田氏が使っているものとは

違った言葉使いをした。

例えば、“自分は”というような一人称は、使ったことのない

飯田氏は,本当に この会話は、自分の脳が作り出している

のかと疑問を持ったという。

 

ついに、飯田氏の信念を変えてしまうような極め付きの

出来事は以下の状況で起こった。 

 

その霊は、自分の残してきた親に、飯田氏を通して

メッセージを伝えてほしいと懇願した。 


そこで、その自殺霊は、’情報の箱’を次々に、飯田氏の心に

送ってきた。

とにかく、必死に、飯田氏を親に会わせようと努力したのだ。

霊は、実家の地図のヴィジョンを飯田氏の心に浮かばせた。

こうして、飯田氏を誘導していった。

 

ついに、飯田氏も、その気になった。

霊の言葉を半信半疑ながら、信じ始めたのだ。


そこで、霊が導くまま、飯田氏の心のヴィジョンに出てきた

通りの家の前に 飯田氏がたどり着いた。

飯田氏は当時を振り返って言う:


“私は恐れていることが、現実になって、身震いして

しまいました。 

もう驚くというレベルの問題ではなく、ただただ‘畏怖’

の念を感じたこと覚えています。

 

なぜなら、それは、まさに私がそれまで抱いていた

‘唯脳論’がガラガラと崩れて、まったく異なる

宇宙観・人間観・人生観が表れた瞬間だったからです。

 

私は恐れていました。 

彼が示す地図の通りに進んで、彼が見せるビジョン

通りの家が表れてしまうことを・・

 

なぜなら、それらは、私が全く知らない情報であり、

もしも、彼が私の脳の別人格だとすれば、‘(自分の脳の)彼’ 

が知るはずの無い情報だったからです。”

 

とりあえず、今日のお話はここまで・・

次回に続きます。

 

 

 *1) ”生きがいの創造”Ⅱ PHP研究所 2005年

 ファンタジー, 風景, ホイール, 空, 自然, 神秘的な, おとぎ話

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三つのケア:どうしたら癒される?

2017年09月13日 | 介護と自然治癒力

 

メンタルケアとスピリチュアルケアの違いと意味

***********************************2017. 9。13

  

クリシュナとアルジュナの会話(ギータ)から、

ヨガ(神と一体になる方法)の分類をして、ブログでご紹介していたが、

翌日の解析データをみると、皆様の反応が薄いのがわかる。

テレビ番組の視聴率ではないので、閲覧数を気にする必要はないのだが、

皆様のニーズにあまり、適していないかも・・と思わざるを得ない。

そこで、話題を少し変えて気分転換のつもりで、数回、木内氏の臨死体験

の話などをご紹介したが、翌日、トップページを開けてくださった数は

アップしている。

 

今日も横道にそれて、皆様と考えてみたい話題を提供させていただけたら

と思う。 今日のテーマは、“人生で人が必要とする、ケアとは何か?” 

ということ。

 

1.physical  care~肉体のケアー

ケア とは、痛みの緩和や 病の治療、精神的なストレスの軽減処置や

人生相談などのような、悩み解決援助など、さまざまなところで

使われる言葉だと思う。

自然治癒力 も、ケアのための一つの手段であるし、他にも、

人はそれぞれ納得した方法で、処置を行っているようだ。

病院などでの、医療技術を使っての、身体的ケアは physical care

(フィジカルケア)と一般に呼んでいる。

 

2. mental care~精神的なケアー

精神的悩みの解決やストレス緩和のためのカウンセリングなどは

mental care (メンタルケア)という。

母が認知症に認定されたとき、どう向き合うべきかと、具体的に

ケア・マネージャーさんから、言葉の選び方などを教えていただいた。

母が理不尽の事を要求しても、否定的言葉はあまり用いないこと、

言っていることは辻褄(つじつま)が合わなくても、肯定的に

対応すること、それが基本だった。

私が癌手術を行うとき、当時の担当医は、必要以上に“大丈夫ですよ”

という言葉を投げかけてくれた。 

それがかえって、当時の私にとって、不自然な気がして、

“本当に大丈夫かしら”と一抹の不安を抱かせた思い出がある。

しかし、タイミングよくつかわれる“大丈夫”という言葉は、

きっと、最大の励ましの言葉の一つなことは確かだ。

 

カウンセラーをしている友人に、メンタルケアの特質を聞いてみた。

”自分と相手の信頼関係を築くこと。

それから、相手が安心していろいろなことを話し出してくれたら、

ひたすら、相槌(あいづち)を打って、聞いてあげることかしら。

“ という。 

不安を抱えている人は、その不安を吐き出したい。

孤独感に打ちひしがれている人はなおさら、寄り添ってくれる人を

無意識に求めている。

話を聞くということは、誰かが自分の気持ちを共有してくれている~

という思いにつながるだけでも、ずいぶん、励ましになるものだろう。

怒りや嫉妬で心のバランスを崩している人は、話の中に、そうした

負の感情を出していくうちに、重かった心の引き出しの整理がつく

ということもあるらしい。

カウンセラーが意見を言って、相手を混乱させたり、相手の引き出しが

余計重くなっては逆効果だ。 

とにかく、人は、自分の話を聞いてもらいたがっているものだ。

アドヴァイスは、相手から意見を求められた時や、相手の話をより一層

奥深く引き出せそうなタイミングに 手短にすることが秘訣のようだ。 

相手の心の引き出しがいっぱいの時は、アドヴァイスしていても

聞く素振りをしているかもしれないが、本当のところ、耳は上の空だ。

聞き上手で向き合えば、相手が自分のぺースで話を進めるうちに、

自然と、納得する答えが浮かんだりするときがあるらしい。

相手の”心の中”に見つかった答えは、納得している答えだから、

次のステップ、行動に移ることは容易だろう。

プラスの方向に転換していく、ステップでもあるだろう。

 

3.spiritual care~霊的ケア

最後に一番難しいケア、それは、spiritual care(スピリチュアル・ケ

ア)といえる。

このケアは、人生最後に差し掛かり、死を恐怖する人たち、

自殺を繰り返し、生きる意義を失っている人たち、

信仰生活に絶望した人たち、などと、かなり深く、心の源まで掘り下げる

必要があるのだろう。

そのため、セラピストには、生命と死、生きる目的と意義、神と人間、

死後の世界、宗教的知識などが、カウンセリングにあたり、

要求されると思う。

死を目前に意識しているxx子さんに、

“死んだら、灰になって、おしまいでしょう?”と聞かれたとき、

“いえ、あなたの意識は 死んでもちゃんと残っていることが、いろいろ

な研究で報告されているし、蝶になって肉体という蛹(さなぎ)から

飛んでいくのに似ているのです。

意識は、今のxx子さんと同じように、死後もあるんですよ。”と 

自信をもって 説明できることはそう簡単ではないと思う。

“あなただって、今、生きていて、死んだ体験をしたわけでは

ないのに、なぜ、わかるの?” と聞かれるたら?。

そうしたら、いくつかの、臨死体験をした人達の話などの知識があれば、

いろいろな例を示してあげられることと思う。

 

生きる意味を失っている人には、‘生きている“こととは?と

基本的な疑問にともに立ち返って考えることも手かもしれない。

大概、そういう人は、自分自身の価値を否定的にみているものだから、

そこを受け入れたうえで 次のような話に展じることはいかがだろうか?

”生かされている“ ということは、何か必ずその意味があること。

あなたが、存在していることだけで、きっと、誰かの役にたっている

ということ。 そういうことは、時間が経ないとなかなか、自覚する

ことは無理かもしれないということ。

誰も、生まれるときは、この人生での課題を知っていること。

この世に落とされた瞬間、魂の記憶は消えるようだが、その課題を

果たすまでは、次のステップに望めないこと。

などなど、いろいろな角度から、話し合うことが可能かもしれない。

 

マザーテレサが、インド、カルカッタの 死に行く人のために

開設した’死の家’の現場で、路上で死にかけている人が収容された

とき、その人に、語り掛けている言葉があった。

それは、

“あなたの存在は大きいのですよ。

私だって、あなたと会えたおかげでこうして、

あなたの生きてきた素晴らしさを感じられ、一緒に神様の愛を共有

できるのですから。

誰にでも無駄の人生なんてなかったのですよ。”と。

こうした対応をするためには、セラピスト自身が、生きる苦悩や

悲しみの中に 生かされているという意識や、その喜びとともに、

自分にも他人にも常に微笑むことのできる’ゆとり’ を心に

持っていることが、大切なのだろう。 

 

自分を許さないで、どうして、他人を赦せるだろう? 

自分を愛さないで、どうして 他人を愛せるのだろう? 

他人を赦せず、愛せない人が、どうして、相手をケアできるのだろう?

言葉を換えれば、スピリチュアルケアのセラピストはまず、

自分自身がすでに救われている’価値ある存在’であるという自覚、

その自覚が深まれば、相手も本来、救われている存在であることが

わかるだろう。

ならば、今、絶望の淵にあっても、必ず、変容することが

可能だと、長い目で相手の本質性を、信頼することができるはずだし、

その信頼は、きっと、本当の意味での’祈り’となり、少しずつでも変容を

可能にさせることだろう。

 

 

 無料インド神 イラスト に対する画像結果無料インド神 イラスト に対する画像結果無料インド神 イラスト に対する画像結果

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木内鶴彦氏の臨死体験 ②

2017年09月08日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 

木内氏が宇宙の大想念に一体化したとき・・・さまざまな死後観

************************************2017・9・8

 天国無料画像 に対する画像結果

木内氏は心臓が止まるときも意識していた。

“‘あっ、心臓が止まった‘その後’息ができない‘と感じて

いるのですが、痛みも苦しみもありません”(P.85)

と書いている。


いわゆる心肺停止、しかし、意識は連続した状態で存在して

いるのに気づくのである。

これは興味深い証言だと思う。


私たちは、死んでも、アートマは死なない とブログで何度と

なく書いていても、死ななくては本当のところはわからないと、

誰もが思うところだからだ。


木内氏のように、臨死体験をした人達の書記を読む限りでは、

このように、医師が“ご臨終です”と、自分の横たわる肉体の周り

を囲む家族たちに告げていても、自分という意識は消えていない

ので、“私はここにいるわよ”と家族に呼び掛けたり、(故人が

霊魂として意識を持ち)自分は肉体的に死んだという自覚を持てず

に、困惑するといった場面が良く出てくる。

 

霊魂的存在意識に変容した、木内氏は時空を超えた移動ができる

魂状態を体験する。


“私は考えるだけで、空間を瞬時に移動することができるように

なっていた。”(P.88)


移動するだけでなく、瞬時に、生きている家族の身体に入り込んで、

その人の言葉として語らせたり、その人をその気にさせたりする

ということもできると書いている。


例えば、元福島大学教授の飯田史彦氏の”生きがいの創造Ⅱ”

(*1)には次のようなご自身の体験談が書かれている。

 

”私は、’彼’(須田注:自殺した霊で、飯田氏を自分の自殺場所

の自宅に導かれ、自殺霊の父親にいきなり 飯田氏の本意と異なり

話しかける際の話)に向かって、’なんてこと言わせるのだ。 

やめてくれ!’と訴えていました。 


私には ’彼’が私の口を勝手に使ってその言葉を言わせているのが、

よくわかっていたからです。 


’彼’にそんな能力があるとは、私も驚きましたがとりあえず、それ

どころではありません。

ですが、’彼’が、私の別の人格だとすれば、私の口を使うことが

できるのは、自然なことでした。”

 

因みに、飯田氏はこうした特別の霊能力を持っていると

気づく前までは完璧に近い唯脳論者だったと語っている。 


霊的なことは、すべて自分の脳が作り出したことだと信じていたから、

こうした’霊からの語り掛け’が伝達されると、精神病の一種と思い、

病院に通ったという。

 

話を元に戻すと、木内氏の言う”時空を超えて瞬時に移動できるよう

になった”という状況は、次のような話を連想させる。


それは、よく聞く話だが、故人が亡くなったほぼ同時間に、肉体の無い

その人が挨拶に来た~という話だ。


実家の母は、親しかった一番上の姉(私の叔母)が亡くなった日、

”あら、清姉さんがタクシーに乗って家の前まで来ているわ。

今、降りるところ。”

とつぶやいて、周りの家族に注意を促した。

が、そこには、誰もいなかった。


母も、我に返ったように、”今確かに、姉さんがそこまで来ていたのだけど

とキツネにつままれた顔をしていた。 

そのあと、確かに叔母の訃報を受けた。

 

話は 先回①に書いた、‘ひずみ’に戻る。

木内氏は、物理に精通している人の観察眼で、短い臨死体験の間に、

宇宙創造の原理を垣間見たと書いている。


“時空を自由自在に動き回れることがわかると、私の好奇心はさらに

大きく膨らんでいきました。


宇宙の始まりを確かめたいという衝動にかられました。

天文学を学んだものなら、誰しも一度は考えること、それは、

宇宙の始まりは本当にビッグバンなのかということです。


私が見た宇宙の始まり、それはとても神秘的な情景でした。

宇宙の始まりはビッグバンではなく、宇宙は一つの‘ひずみ’から

始まっていたのです。“(P.95)

 

これを具体的に言うとどういうことかというと、少し長いが引用すると;


“ひずみによって、生まれたエネルギーの流れは渦をつくり、

それによって、空間に漂う塵(ちり)が凝縮し、物質が作り

出されます。 


物質といっても、始めは元素のように、ごく小さな塊です。 

渦の中で最初にできた元素は水素でした。

これは物質といっても形をもたない、ガスのような状態です。 


そのガス状の元素が自重によって、引き合ったり、反発したりしながら、

さらに大きな塊へと成長していきます。


そして、極限まで成長した塊はやがて自重に耐えかねて、

大爆発を起こします。 

その大爆発こそがビッグバンとされているもののようです。


大爆発が起きたことによって、ヘリウムやリチウムといった

新たな元素が生まれます。

それらが爆発によってできた、新たな渦の影響の中で、

星という大きな塊にまで成長していきます。” (P.96)

 

‘エネルギーの流れは渦をつくり’という木内氏の言葉は、

らせん状のあるいは、巻のような形状を持ちながら生じる

エネルギーの集約を意味するのだろう。


生命のエネルギーの形状は 言い換えれば、らせん階段のような、

竜巻のようなあるいは、渦潮(うずしお)や、朝顔などのつる草の、

上へ延びよう動きのような形状だと、私は思う。

                       

物質は空間から生まれた~とは、賢者の言葉でもある。

くしくも あの世に、一時的に移行した木内氏の観察と重なる。


厳密にいえば、物質は物質から生まれたのではなく、空間の中で

らせん状に回転するエネルギーから生じた。

それは、宇宙の創生でも 私たちの体でも、すべて生きとし生けるもの

の中に流れるエネルギーとして、共通しているものだろう。


これは、しかし、目に見える物質の話だけではない。

私たちが、無意識に意識的に、絶えず、感じたり考えたりして

排出している想念エネルギーも同様のことが言える。


その想念も、もとはと言えば、宇宙の想念、木内氏の言う

‘膨大な意識’につながる。

 

’ひずみ’とそこから発生するエネルギーの流れが 物質を形成して

きたとしたら、私たちも’自分の創造的想念’で、自分の人生に

出会う体験の一つ一つ、そしてまた、物質的現象の一コマを

創り出しているのだろう。

 

最後に木内氏はつぶやく;

“膨大な意識と一体になってわかった。それはとても退屈な世界だと

いうことだ。”(P.100 )

 

この感想は、木内氏が、臨死体験で自分の魂が宇宙に広がる時に

感じた感覚と、自分が宇宙意識の中で広がっていき、最後に

一体化した時の感想だ。


自分という意識はあっても、それは他者と一体であり、かつ、もっと

引き延ばされていくと、”大いなる意識”の一部であるという感覚でも

ある。


その時は、この三次元の地球で生きているほどの 思いの”多様性”や、

”感情の起伏”を味わうことはあまりないらしい。

 

魂それぞれ、臨死体験をした折の、感想は、異なるようだ。

愛と光の中で、暖かい包まれた感覚(宇宙意識に包まれている)

という人、死んだあとの、満たされた安堵感に浸り、そこから、

離れたくないという人、平穏すぎて退屈だという人、 死後世界

の冒険という体験から遠ざかりたくない人、などなど、・・・・

さまざまなようだ。

 

 天国無料画像 に対する画像結果天国無料画像 に対する画像結果

 

 

引用部分)『生き方は星空が教えてくれる』 

サンマーク出版、2003年4月


注1)”生きがいの創造Ⅱ” PHP研究所 2005年


注2)木内鶴彦氏の略歴[編集]

1990年3月16日 - チェルニス・木内・中村彗星(1990b)発見。

990年7月16日 - 土屋・木内彗星(1990i)発見。

1991年1月7日 - メトカーフ・ブリューイントン彗星発見。

1992年9月27日 - スイフト・タットル彗星再発見。

1993年 - 北海道の北見観測所で円舘金と渡辺和郎が発見した

小惑星 (5481) が「木内」  (Kiuchi) と命名される。

1997年 - TBS「いのちの響」に出演

2001年 - 6月公開の映画 STEREO FUTURE 

(製作・配給=東北新社 監督:中野裕之)に出演

2004年 - 長野県北佐久郡望月町(現長野県佐久市)に、

北八ヶ岳第一天文台を開設。

2010年 - 「東久邇宮文化褒賞」受賞 彗星探査,環境保護活動、

炭素化炉システム、 太古の水の開発が評価された

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする