自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

今 が苦しいとき、意識を飛翔させてみて!

2024年09月30日 | 健康のための心の波動



こんなふうに・・・・😀😔 😊  

******************2024年10月1日


以下は、9年前に書かれた記事です。

今日、私はこれを読み直して、なぜか、気が楽になり
ました。

今、自分が考えたくなくても押し寄せてくる、様々な
この世の不幸や不条理、戦争や災害地からの慟哭の
想念の波を、どう受けたらよいのか、が、示唆されて
いたからです。

スピリチュアリズムについて、書いている時ですから、
これも、関係のある内容でしょう。

今、ここに、生前に、霊体の自分自身で想定した、
人生歴を 今ここで、なぞっていると考えられたら、
今、起きていることは、すべて起きるべきして起きて
いると、受容できる・・かもしれませんから。

受容してこそ、それに対峙する勇気や力も、湧いてくる
のですから・・

ご紹介させていただきます。


2015・10・8
**********************************

ここに、ある魂がいる。
指導霊でもある天使たちと、これから生まれる生の
設定を、決めている最中である。

この魂は、最後に天使たちから、‘次の生の死について’
選択を迫られる。

次回の人生予定では、こんな体験をしてみる?というように・・

たとえば、

自動車事故? 
コカインの過料摂取? 
失恋させた相手に殺される? 
ベランダから偶然に落ちてきた落下物にあたって死ぬ? 
溺死? それとも自殺?

人生テストに点数がつくとしたら、火あぶりの刑など、
苦しみが大きいほど、得点が加算されるという。
 
500点という加点があるので、火あぶりされたカタリ派
(1112世紀の黒魔術、いわゆる魔女)の多くが 輪廻転生の
サイクルを終わりにすることができました。” 
 
現代では、それに代わって冤罪など 
“無実の罪で電気椅子に掛けられた人”
癌患者で“全身に転移した場合は300点以上の加点になる
という。

これは物語上の話だが、実際、自ら命を絶つより、他者
を助けようとして殉死した魂は、加点が高いのも納得できる

語弊があるかもしれないが、広島長崎で犠牲になった人達も、
きっと、天国で極上の加点を与えられているような気が
してならない。

むごい原爆の犠牲になることで世界の人々に平和を、
核兵器放棄を、戦争反対の大きなメッセージを 後世に
ほぼ半永久的に、残してくれたからだ。
 
生命は永遠だと、賢者はとく。 

肉体は一瞬にして奪われてもそこから脱した瞬間 
生命は文字通り生きた命として違う形で
復活するという。

原爆の犠牲者の方達は 熱い地獄のような火の海から 
愛の手で天上に引き上げられる瞬間、

すでに苦しさは取り除かれ、安寧と、静けさと喜び
の中に 天使たちに誘われて天国に上っていくヴィジョンが
私の脳裏には、はっきり映る。
 
さて、話を基に戻すと、選択を迫られた“魂”は天使
にこう答える:

“わたしは加点はいらないから、さっさと死にたいですね。
夜寝付くときは生きていて、
朝おきたときこと切れているとか・・”

それに対して天使は

“残念だが、ドチュウ―さん(須田注:この魂の名前は 
ドチュウ―だった)あなたの現在の得点、マイナス230
ではそれほど快適な死を提供できません。

次回の生の 死に際はどちらかというと、暴力的な
ものにしかならない。

それも、あなたの描いた絵画作品に、何らかのオーラを
与えるものになるだろう“
 
ここで天使は一人の有名な画家の名前を出す。
ヴァン・ゴッホだ。

力強いタッチで原色に近い色を選び、点描したその絵は 
有名な“ひまわり”の作品をはじめとして、同じ印象派の
ルノワールやモネなどと、異なる“情熱”を示している。

彼は極めて多くの作品を残し、名前も世に出ないまま、
作品を、姉に託して死んだが、当時はほとんど評価されず、
姉も、がらくたをもらったぐらいしか思っていなかった
ようだ。

現代では、億もつく単位で売買されるようになった
彼の絵は、数奇な運命をたどって天国にいるゴッホの目に
どう映っているのだろう。
 
天使はこうつぶやく

“ゴッホは良く描いた。多く悩み、苦しみ 死んでいった。

しかし彼は純粋な霊に戻り、苦しみの生で600点加点されて、
輪廻転生のサイクルを終わらせることができたのだよ。”
 
その真偽は もちろん、わからない。が、この言葉は、素直
に心に残る。

ゴッホは、狂気的に、自分の耳をそぎ落とした人だ。

たぶん、うつ状態から統合失調症的な精神状況で苦しみ、
悶々とした最後だったのだろう。

自画像をみると、鑑賞者を見つめぬく瞳には、深い湖の
暗さの中の鋭い閃光を感じるようだ。

余談だが、ゴッホは私の最も惹かれる画家のひとりだ。
 
オランダで、彼の作品を掲げた美術館を訪れ、ゴッホの
揺らぎ多いがゆえに求めた“光”が随所に輝く多くの作品に
触れ感動した。

この“光”こそ、モネやマネ、ルノワールの平和な光と異なる、
異色性をもつ、美と狂気の両極端を揺れ動く“人間の魂の幅”
を示したものだと感じた

だからこそ、多くの人たちを魅了することもうなずけた。

私たちは どんな人間でも、結局“光”を求めているのだ。

太陽の、月の、心の、そして本来の人間の細胞原子のミクロ
の世界にきらめく生命の光を。

その”光の点”を描き続け、それを見る人達に 生命と
生きていることを感じさせるエネルギーを与えてくれた
彼の功績は、確かに大きなものがあったのだと思う。
 
話がそれてしまったが、ドチュー氏は 結局 自殺”を
選択した。

カミソリでバスタブのぬるま湯で動脈を自ら切る~
という選択だ。

天使は次回の彼の人生の、シナリオの大筋を以下のように
まとめる;

では最後に。

あなたは次世で、女性として生まれ、

体力は 下、
美しさは 上、視力は 上、声質は 中、
カリスマ性は 特上、
ウイットは 下、
嘘つく才能は 上、
技術は 下(たとえば、洗濯機の操作が上手くない
とか運転が下手だとか)、
知性は 中、
誘惑能力は 上、
忍耐力は 下、
根気は 上、
料理才能は 下、
怒りっぽさは 上、
楽器演奏能力は 下、
ピストル射撃能力は 上、
スポーツ志向は 下、
出産願望は中、喧嘩の才能は 上、
泣き真似の才能は 上、
冒険志向は 下・・・“
 
 こうして、この魂が、次に生まれてきたときの性格や人生
を形成できる詳細な、設定がここで決められた。

こうしたことまで決める必然性はあるのかどうか・・・?

ちょうど、それは、演出家が、ドラマの登場人物の
役柄を設定するにあたり、明晰にその役柄を演じる
役者が演じやすいように、細かく‘実際存在しているが如く“
リアル性をだすために、描写設定をするのに似ている。

だから、今の、私たちの性格が、多少ひねくれていても、
欠点があっても嘆くのに値しないということかも
しれない。

反対に、相手が同様であっても、受け入れられるはずだ。

なぜなら、今の生を生きるにあたって、現世舞台を演じる
ための”人柄”まで 私たちが自ら、事前に設定してきたの
だから・・・

そうした設定によって、私たちの魂が、この現世で学ぶ
”何か”が、得られる条件なのだから。


さらに、この世で受ける試練や、苦しみ、不条理でも人の
ために為す行為への報復、などなど、戦争や災害を含め
無情にも、命を落としたように見えていても、そこには、
魂の加点があり、無駄死ではなく、その魂の次の新しい
人生設定に 必ず、影響を与えるものだとしたら?

だとしたら、今の自分は、そうした設定してきた役柄を
演じながら、どこまで、自分の人生の使命を全うできるか・・

そこに集中するしかないだろう。

そして、すべての人たちが設定を変えて生まれてきている
以上、自分が理解できない、相手のハンディも欠点も、
負い目も長所も含めて、偏見や憎しみを、愛のある観方に
変えていくことが可能になるだろう。

結局、お互い様ななのだから・・・

それが、この劇の完成度を高める秘訣のような気がする。
 
 

引用部分 
 “タナノート” ベルナール ヴェルベール、
日本放送出版協会、1996


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とっつきやすいスピリチュアリズム;

2024年09月28日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係



世界的デザイナー コシノ姉妹の母上の言葉  2024/09/28
****************

二回に分けて、”チベットの死者の書”をほんの、触りの
触り部分のご紹介で終わったが、スピリチュアリズムの
触りでもあるように思う。

スピリチュアリズムとは何か?

私たちの持つ、潜在意識 現在意識、の二つの意識を超えた 
もう一つの意識が”触る”ところが、スピリチュアリズムと
いえそうである。

もう一つの意識とは、超越意識=super conciousness 
のこと。
この意識がスピリチュアルに興味ある人の特徴かもしれない。

なぜなら、その資質によって、イデオロギーや、宗教を超える
ことができるしエゴ意識=小我と大我意識 の使い分けが
自覚できるからだ。 

今まで、”これが自分である”と 思っていた意識は 
ほとんどの場合、小我 に属していたと気が付く。

だから、”自分と思っている自分を観ているもう一人の
自分” が 超越意識 と言えるだろう。
*****************

人が、娑婆世界でスピリチュアル的かどうかを
判断する場合、以下のような 指標がある:

・真の自我(大我)の自覚が芽生えているか?

・大我を観念的ではなく(現実生活に生かすように)
とらえているか?

・大我は完全円満調和のエネルギーであることを
感じているか?

・娑婆世界に見えるものの中で究極に残るものは、
大我に基づいた意識であることを信じられるか?


エゴ意識は、感覚機能で 見えたり感じたりする
物質を ”認める意識” でもある。

どういうことかと言えば、小我の意識は 見たり聞いたり
して 脳に送られた対象を ”見えた通りに、存在する
と認めるということだ。

だから、自分の体も、病気も、お金も、美味しい料理も
”存在するもの”として認める。

が、スピリチュアルな観方を付き進めていくと、肉体次元
でそうは、感じていても、第三の眼が、それを砂上の存在
として、見つめていることを感じる。

第三の眼は、誰もが持っているのだが 超越意識と共に
開いていくようだ。


第三の眼は、知っている。
五感の感覚ほど疑わしいものはない~と。

現に今、地球はものすごいスピードで動いているにも
かかわらず、私たちの五官は、それを察知しない

感覚機能は結局のところ、本当の姿をつかむのには、
限界があるということすら わからない。

だからといって、感覚機能と、エゴ意識を軽視する
ことはできない。

なぜなら、五感の感性と、それをもとに生まれるエゴ
意識がなければ、地球上で普通の生活をするには、
支障があるだろうから。

同時に、普通の生活(生老病死と四苦八苦)の中で、
スピリチュアル的な人は、その感性を超越したいと願う。

なぜなら、生老病死より 不自由な状態が、恐怖と自分を
限定して執着に束縛する状態だと、知っているからだ。

その状態にいる限り、現世的な苦しみや悲しみ、絶望や
恐怖から自由になれないと、思うからだ。

本来の魂の姿に戻る事、それが、大我の自覚に変える事だと
スピリット(魂)は知っている。

誰もが、知っている。
なぜなら、誰もが、スピリットだから、本質は。

本来の魂を自覚するために、インドでは、古代から様々な
行があったが、現代にまで伝わる、ヨガ行は、今でも
ポピュラーといえそうだ。

ヨガには、以下のような種々の分類がある。

(1)  ハタヨガ =  

アサナと呼ばれる身体の体系化されたポーズを
とりながら行う。

目的は肉体浄化、コントロール、深い瞑想に
適した内面の整合化など。

(2)  カルマヨガ = 

結果にこだわることなく、
他者への奉仕を、自身のアートマに向き合いながら行う
行(ぎょう)。 

自分が成すのではなく、神のために、神に対して
行っているという意識を要求される。

(3)  マントラヨガ = 

ジャパ といわれる、数珠(じゅず)を数えながら、
一定の回数だけ、神の名前を唱えたり、マントラを
唱えたりして、自分の意識を自己の本質に近づけていく行

(4)  バクティ ヨガ = 

すべての創造物、
身の回りの物に神聖な愛を見出すよう献身的な
自己(小エゴ)の服従を心掛ける行

(5)  ギャーナヨガ = 

アートマの智慧を知り
自己の中の無智と無明から脱し、輪廻のサークル
からはずれられるよう、解脱を目的とした真の叡智
を身に着ける行

(6)  ラジャヨガ =

紀元前2世紀にはじめられたといわれる、ヨガの王道。

パタンジャリ聖人によって確立され、今まで述べてきた、
ほかのヨガのエッセンスをも含蓄した行
*****

スピリチュアルといわれる行は、数々あるが、たぶん、
上に書いたヨガの行法でも、無意識に、そうした意識を
日常生活に生かしている方は少なくないと思う。

最近、’徹子の部屋’にゲスト出演していた、コシノ ヒロコ
ジュンコ、ミチコの三名の、世界的デザイナーの言葉が
心に残った。

”うちのお母ちゃんは、ほんまに、聖書の言葉を大阪弁ふうに
いつもいっていた。
もらうより、上げる方が、うんと幸せだって・・・”

つまり、ヒト様から自分に何かを、してもらうことより、
ヒト様に、自分の方から、お役に立つように何かをすることが
本当の幸せだと、子供のころから教わってきたという。

これこそ、バクティヨガの手法でもあり、スピリチュアルな生き様
だと、心から思った。
それを守っていらっしゃる三人姉妹と、お見受けした。

コシノヒロコさんは、86歳というのに、特にお若い。

妹さんのジュンコさんも、ミチコさんも、同じく、活き活きと
80歳に近い年齢とは到底思えない。

まさに、ヨガを体得した、年齢を超越したヨギのようだと
しみじみ、そのお姿を拝見しながら感じた。



 
 

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今日のインスピレーション

2024年09月24日 | 今朝の”インスピレーション”




自然災害【地震・津波・洪水・山火事・火山噴火‥】

世界破滅を思わせる地域紛争の核使用危機‥の昨今を
生きる私たちへ。


*************9月24日(火)

多くの人達の想い・・
たとえば、
*こんなつらい世の中に、生きているのは何故?
*次々に、わが身に降りかかる不幸は何故?

災害復興といっても、そのさなかに、台風でつぶれた家
を目の前にして、どうする術もないとうなじを垂れる人達

ウクライナとロシアの戦争も、ニュースではマンネリ化
した感覚になり、当初の反感も、今は、核が使われ、
地球破滅のきっかけとなりはしないかという、恐怖感になる

それだけではない・・まかりとおる、不条理の数々・・

オリンピックでは、中東地域の戦争当事国のうち、
イスラエルだけ、参加可能?
何故?

アメリカ選挙にも、イスラエルの関連票が、結果を大きく
左右させるほど・・で、

傷ついて泣く幼児をかかえたアラブ女性と
親を失い慟哭するパレスチナの難民男性の映像・・

兵士も傷つき、一般人も巻き込まれ、慟哭と失望のほかに
何がそこにあるの?

いえいえ、まだまだ、ニュースに取り上げられないほど
沢山の緊張した武力紛争が、数知れず、この星の上には。

そんなことは、”自分とは関係ない”と言っている人たちへ。

本当に関係ないと感じられますか?


肉眼には見えない、恐怖と苦しみと悲しみが、そうした人たち
から、音波のように、周波数をもって、間断なく、波のように
押し寄せてきている毎日・・

それは、知る知らざるにかかわらず、誰もが、心に受け止め
いる 周波数のはず。

平和な日本にいても、心のどこかで、落ち着かず、
理由なく不安で、わけなく恐怖心をいだいて、余計な心配
が とめどなく湧いてくる時ってないですか?

たまに、一人になったとき、その静けさに向き合うことが
怖いと感じたことないですか?

・・それも、世界中から”ヘルプ!”を求める人達の、どうしよう
もない、逃れらない狭い場所で、弾丸を避ける余地がない恐怖

母親と子供の、分かれの悲鳴の周波数が、届いているからだと
したら?

つまり、彼らの、やるせない無力感の中の苦しさに、繫がって
私たちの心が、共鳴しているのかもしれません。



その反動でしょうか?

TV番組 や、情報誌に満載されている、’ご当地グルメ’や、
’しょくレポ’’の氾濫。

それだけで、もう、満腹でゲップが出そう・・・

食感を刺激させ、食べたくないのに食べ続ける、うつ的
ストレス発散の個人的方法が、社会的に、こうして、
活用されているのかもしれません。

その証拠に、一日のニュース番組以外のどのチャンネルを
ひねっても、”グルメ紹介番組” ばかり・・。

人々が、”自分とは関係はない”と思って、生活を送っている
以上、当然、政治にも、反映されないでしょう。

地球規模で、日本の立ち位置を見定めることは、あまり、
必要ないこと

税率引き下げ、経済強化、女性の地位向上、助成金など、
口にでる 実生活的公約は、かの、安倍首相のアベノミクス
の公約と、其の後の、日本の経済発展を考えると、また、
絵に描いた餅になるのかな?


先にのべたような、地球に、今起きている非人道的な
血で血を洗う現実と、
自分とは、”関係ない”と美食に舌鼓を打つ、一見平和な、
”ひととき”の謳歌は、イル―ジョン=illusion のような
気がしてくる・・



私たちは何のために存在しているのか?

だからといって、特に、何か、大きなこと たとえば、
革命や人々を啓蒙することなどのためではないだろう。

以下の会話がそれを象徴しているような気がする:


D: それでは、この世の中に、存在理由のない人
などいないのでしょうか?

C: 誰ひとりいない・・生きていればそれが愛の証明だ・


ピンクの言葉、これが、本来の私たちの姿。
生きていれば、それが、愛の証明~それが 自然体のわたしたち。

その言葉をかみしめると、
本当にかみしめたいと思うのですが、

できれば、会ったことのない、悲しみと苦しみの声を
どこかで、あげている人たちの心を、想うだけでも
意味がありそう・・

想うとき、少しの、’平安の想い’を、混ぜて発信すると、
意義がありそう・・

慟哭している人たちはもちろん、

まず、狂気に満ちた闘いを支持している国の指導者たちへ、

自分の知る限りの愛”の想いを 彼らに届けたいと願うだけ
でも、何かが、違ってきそう・・

たとえ、それが、ほんのわずかな周波数の微力なものでも、
自分の発信した想いは、そこに、到達するはずだから。

それが”祈り”というものだろう。


一人ひとりの、その”祈り”が、必ず、この星の将来を
決めていくような気がします。

だから、美食グルメを楽しむ余裕がある人達は、その
”平和”な”今”を感謝しながら、

そうした”愛”の想いを、
”関係ない”と思われる人々にほんのわずかでも、
むけてみませんか?

ほんの、数秒でも・・
毎日、すこしずつ・・

一緒に、是非、気の向いたときに、発信していきませんか?
アットランダムに
気軽に、
でも、必ず、届くという確信で・・

生きているのですから・・

最後に一言・・

”愛って、どういうことでしょうか?”

その答え:

”人をいとしく思う、その気持ちのさらに奥にあるもの・・

誰もが持っていて、人とともに分かちあって、創造して
いくもの・・温かいもの・・・”
 






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チベットの死者の書より(2)死にいくときに思う言葉

2024年09月20日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム


私事で恐縮ですが、9月19日は 夫の三回忌にあたります。
彼が無事に”天の本宮”にたどり着き、活き活きとしている
ことを確信しながら・・仏教での亡き人の弔いの言葉を
読み直しました。

今日は、誰でも来る”死”の寸前に、祈る言葉・・

”おー 今や 私に死の瞬間のバルドが明らかになって
くる時!

魅惑や切望、並びに、俗界のあらゆる物事への執着を
捨て、

私が輝き 啓発する教えの空間の中に入ってゆきます
ように。

私が生まれざる天の空間の中へと、私自身を溶かし込む
ことができますように。

血と肉でつくられたこの体を手放すときがやってきた

私が、永遠ではなく幻覚的存在であるこの体を、
認識しますように”


前回の記事に関連している箇所は、最後の行です。

”私が、永遠ではなく幻覚的存在であるこの体を、
認識しますように”


死にゆくとき、この体は、永遠でないこと、生きている
間の幻覚的な錯覚的な、存在物であったこと、
それを認識して、はじめて、霊魂として自己を見つめる
ことができるわけです。

それができないと、自分の肉体は目の前に横たわっている
のに、こうして、”私”意識のある、自分がここにいるという
ことに、戸惑いと、混乱を起こすでしょう。

”私は死んではいない”と、まだ、この世に未練を残すことも
あるのかもしれません。

時々、耳にする’地縛霊’などというのも、そうした、この世に
執着をもって、あの世へ、移行できない、霊魂の姿なの
かもしれませんから。

あの世へ行けば あの世での修行があります。

私が輝き 啓発する教えの空間の中に入って”いくことで、
また、新たな、次元での自分が、活き活きと、学びを続けて
いくことができるのでしょう。



引用箇所)
”チベットの使者の書”(バルド ソドル)
S56 
訳編者 おおえ まさのり
講談社
















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チベット死者の書より(1)

2024年09月16日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)




エゴ意識と病   2024/09/16
******************

久しぶりに最近読み直した本は、チベット密教の名著、
”チベット死者の書” です。

私事で恐縮ですが、9月19日は 夫の三回忌にあたります。
彼が無事に”天の本宮”にたどり着き、活き活きとしている
ことを確信しながら・・仏教での亡き人の弔いの言葉を
読み直しました。

’死者のための書’と思いきや、現象界に現在、生きている
人間が この世にいながらにして、極楽浄土へ行ける法
を知れるような気がしました

それは、どの念(想い)によって、曼荼羅の中心層
織りなす、極楽浄土に 意識が移行できるかを 
説いている章です。

瞑想 しながら、次のように 念じるとあります。
 
私は、今まで 時のない時、永劫の間、
夢幻の沼地を 彷徨ってきたとは
なんと、嘆かわしいことだろう。

今までに、大我 の意識を悟って、ブッダフッド
(光明の境地)に解放されていないとは、
なんと痛々しいことだろうか!
 
この夢幻の妄想が 私に吐き気を催させ、
怖がらせ、病気にさせてきた。

今こそ、そこから 逃げ出る準備が整った。 

私は、ブッダ・アミターバ(阿弥陀如来)
足元のハスの花の間から 奇蹟的に、幸福な
西方浄土に生まれるように、努めんと欲する。
**

こうして、その浄土への想いを一心不乱に、
集中することで、その願いは必ず、成就されると
書かれています。

それとともに、日頃の大切な心持は、次のように、
’生まれる寸前の意識’の大切さとして、次のように、
書かれています。
 
 子宮の入り口を選択するとき、誤りがあるかも
しれない。

カルマの力のために良い子宮が悪く見え 
悪い子宮が 良く見えたりするかもしれない。  

そのような誤りはありうる。

子宮が良く見えても、眩惑されるな。

それが悪く見えても、反発を抱くな。

反発は眩惑だ、
あるいは、避けたい願望 
入りたい願望から自由であること。

完全に公平な心境にあることが 最も深淵な
心の統括技術である。
**

 
”子宮の入り口に入る”というのは、私たちが霊魂で
肉体を持つ前に、どの女性を母にするか、と決めるとき
の話です。

そのとき、

”反発は眩惑だ、
あるいは、避けたい願望 
入りたい願望から自由であること。”

”完全に公平な心境にあることが 最も深淵な
心の統括技術である。”

とあるように、反発や、魅惑に引き付けられる
ことは、偏った価値観があるからなので、
完全に 公平な心境をもって、しかるべき
”子宮”を選になさい、と、注意しています。

ここでいう ”子宮” というのは、文字通りですが、
読み方によっては、この世に生まれてきた後
なんの対象でも、自分が選ぼうとする時の、”新しい世界” 
をさすこともできるように思います。

どこの学校に入ろうか?
どのジャンルを選ぼうか?
職業でも、人間関係でも、選んで、自分がかかわる時は
ちょうど、霊魂が肉体を選ぶ(子宮に入る)ようのと同様
のような気がするのです。

その選択が正しいかどうか?

それは、その時の心持が、”完全に公平な心境”であるか
否か?ということなのかもしれません。

思い込みや、習癖による好き嫌いや、偏見、恐れなどを
取り除いた、透明な心で、あるかどうか?という
内省も必要でしょう。

さて、最初の引用箇所にもどります:

今までに、大我 の意識を悟って、ブッダフッド
(光明の境地)に解放されていないとは、
なんと痛々しいことだろうか!
 
この夢幻の妄想が 私に吐き気を催させ、
怖がらせ、病気にさせてきた。”


大我(たいが)とは、小我(しょうが)の反対語です。
小我は、エゴ意識です。

エゴ意識は、”自分が、自分は、自分の、自分を”という
”自分”意識ですが、これは、限定された”自分”です。
肉体意識でもあります。

肉体が消えれば、このエゴ意識も消えます。
その代わり、”大我意識”が、残ります。(個性を持ちながら)

一方 ”大我”は、他者と自分がつながっている一体感を
知った、’限定のない自分意識’です。

この意識は、悟りにつながります。
ここでは、”光明の境地” という言葉を使っています。

この意識に到達すると、解放感を得ると、ここでは
言っています。

”自由意識”のことです。

本当の自由とは、好きなことが思うようにできることで
なくて、小さな我の限定された意識から、羽ばたいて
文字通り、エゴ意識に特有の、執着や偏見、負の感情
から解放されることだからです。

”この夢幻の妄想が 私に吐き気を催させ、
怖がらせ、病気にさせてきた”

自分が限られた存在で、肉体の死滅とともに消滅する
小我(エゴ)だと信じていること(妄想)が、
執着や偏見、負の感情などを助長させていきます。

エゴ意識は、恐怖を生み出して、その恐怖心が病気を
作る・・・という、一つの心と身体のメカニズムが
ここにあります。

この言葉は、まさに、病の本質をついている言葉だと
思うのです。

チベット密教によって書かれている本ですが、真実の
本質は、何教であっても、変るものではありません。

日本語にもありますね。”病は気から”と。
その世界を、仏教的に述べているわけです。



引用箇所)
”チベットの使者の書”(バルド ソドル)
S56 
訳編者 おおえ まさのり
講談社






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