自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

誕生日に寄せて

2023年12月28日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方
今日で、古希プラス1歳  2023年⒓月28日
**************

働き盛りの頃(40代50代の頃ですが)、70代の自分なんて雲の上で、
想像つかなかったし・・・想像したこともなかったのですが・・・

このブログの左側(PCの場合)のプロフィール写真は去年の写真ですが、
若い頃より、筋肉以外に、メンタルの何かが、落ちたような気がします。

そういえば、50代半ばから、家族の介護と、数千万円の親の残した
借財の返済責任、が続き、昨年9月、介護していた夫を看取り、心身
余裕のない日常生活が15年間、続いていました。

当然、その間の”私”は、介護生活の中から生まれる諸問題、家族親類関係、
などに、煩い、悩み、執着して、悶々とすることが常でした。

今にして思えば、そういうときは、心がトゲトゲしくなっていて 無意識に、
多くの人達を傷つけるような諸語所業をしていたと思います。

🙇ごめんなさい・・・

それでも、自然治癒力セラピー協会のブログの掲載と、アートマセラピーを
施術してこられたのは、周囲の人たちの理解と愛情のおかげです。

そして、協会関係のお仕事は、もう一人の私(アートマ)の自覚を奮い起こし
活性化につながり、そのうえで指導霊の存在があったからこそ、続けられて
きたと思います。

そして、誕生日の一週間前から、悶々と悩むことの多い日常生活の中で、それを
超越して、カルマを消し、浄化させて、周囲と和と協調を生み出す、こんな”祈り”
が天から届きました。

悶々とするって、メンタル、スピリチュアルに見ると、どういうことか?
**************
①悶々と悩むときは、’自分は傷ついている’ と、自覚しています。

②’自分が傷つく’理由は、二つあります。
一つは、過去に傷つけた相手に対して、そのカルマ清算のためです。
もう一つは、自分の価値感や相手への期待に、相手が反した行為をした
とおもうときです。

③前者なら、これで、帳消しになったと考えて、相手にそれ以上の、怒り
を抱かないこと。

そうでないと、自分が新たに、また、カルマの種を撒いていくことになり、
堂々巡りで、傷つかせたり、傷ついたりの、関係が収拾できません。
************

心って、複雑なミルフィーユのように、折り重なった層になっています。
体験とともに、積み重なった感情が 地層のようです。

その心の層に、過去の価値感や、正義や、真理が折り重なってます。
それが、”今の自分の価値観”になってます。

それは、’これは、こうあるべきだ。’という、思い込みを、時として生み
出します。

そして、それにそぐわない、他者の行為や言葉には、期待を裏切られたと
同時に、ある種の怒りが生まれます。

その”怒り”が曲者です。
その怒りを、浄化しない限り、生まれ変わってもまた、同じようなことを
体験する(カルマ)を造るからです。
その怒りが、その人に、’傷ついた’という感情をもたらし、それがカルマの種
となるわけです。

では、そんな時、どうしたら良いのか?
それが、これからご紹介する、浄化の言葉です。

言葉の力で、自分の心の地層の中に埋もれている、エゴ的な価値観や正義感など
を取り払えば、本来の純粋な自分の心が現れます。

その時は、悶々と悩む自分では、なくなります。
むしろ、悩ませてくれて、ありがとう!と、愛念さえ、湧いてくるのです。
本当の自分の心は、愛 だからです。

その言葉とは・・・

”私は、平穏です。愛です。幸福です。これが、私の本質です。

私は、平和です。
平穏と愛とエネルギーパワーは、誰も、何も、私から奪い去る
ことはできません。

私は、平穏と愛と、生命力を、会う人と分かち合います。
それが私の本質です。

どんな状況でも、私は、平穏と、愛と、エネルギーをもって対処します。
だから、どんな状況でも、シンプルにことが進んでいきます。
それが、私だからです。


こうして、断言し続けることで、本当の自分(アートマ)になれます。
アートマを軸にして、日常生活を営めば、カルマ的妄想(古い過去の正義感や、
倫理観、思い込み的信念など)が、出る幕がなくなるのです

なぜって、そうしたものは、本来、実態のないものだからです。
実態のないもの、という意味は、死んだら、肉体とともに、葬り去られる
ものだからです。(ただし、カルマの種は生まれ変わって浄化されるまで、
残るでしょう。)

私はこれまで、”傷つけられる”行為には、傷つける対象がいると心のどこかで、
思っていました。

でも、この祈りの言葉を日課にすることで、”傷つけられる”というのは、
ある意味、自虐行為に過ぎないのだということを知りました。

自分しか、自分を傷つけることはできない”と知りました。

さて、この宣言の祈りが、私への素晴らしい、守護霊からの誕生日プレゼント
でした。

とはいっても、肉体を持って生活する限り、沢山の価値観を持つ人たちと
出会う限り、これからも、まだまだ、執着や悩み、傷つくという状況は、
否めないでしょう。

そのたびに、この ’本来の私’を宣言する、祈り(祝詞)言葉を口に出して、
瞑想をすることにしましょう。

こうして、若さを保ち、エネルギーの新陳代謝がすすみ、自然治癒力も常に
働いていれば、健康が維持されて、愛情や、生命力を、周りの人達と共有
できる喜びも得れるのだと、思っています。







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2023年 クリスマスに寄せて

2023年12月25日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方
平和にクリスマスを迎えられることに感謝・・・・
2023年⒓月25日
 
********************
 
メリークリスマスと親しい友人からメールやラインが届きました。

日本のクリスマスは、イルミネーションとケンタッキーフライドチキン
の行列と、クリスマスセールのポスターと、仮装した巷のサンタクロース登場と、
プレゼント交換・・・などなどで、その楽しいムードを共有できそうです。
 
一方、知り合いのノルウェー人の知人の便りから、こんな感じの温かい
クリスマスが伝わりました。

”太陽が冬は少ないので、雪が降っても、ホワイトクリスマスとはいえず、
でも、ツリーと暖炉の元に家族友人が集まって、楽しくなごやかに、
心身ともに温かく、過ごせる最高の日です”
 
キリストの降誕を祝い、神に感謝をしながら、その日の幸せをかみしめている
風情;
私たち、日本人のクリスマスの共感とは、少し違うようです。

でも、’祭り’が 血を騒がせる、日本人先祖伝来の気質が、もしかしたら、
クリスマスシーズンを、日本的色で、盛り上がているのかもしれない・・
と思います。
 
それと、私たちの先祖伝来の寛容性・・・生まれて神社にお参りして、
結婚式は、教会で、最後の幕引きはお坊さんの読経の中で、が当たり前の社会
では、行事の宗教的意味は あまり関係ないのかもしれません。
 
さて、キリストはマリア様の処女懐胎と言われています。
インドの年齢不詳の、エミール大師は、それを認めています。
 
“さて、キリストの生まれた経緯はこうでした。

まず偉大なる母、マリアが 理念を覚知し、それが心
に抱き続けられて、魂という土壌の中に育まれ、一時、
そこにとどまり、やがて、完全なる長子、神のひとり子
なるキリストとして生まれました。

それから、女性の最良のものを与えられつつ、養育と保護を受け、
見守られつつ慈愛の下に少年期を経て、成人に達したわけです。

内在するキリスト(実相)が私たちすべてに、実現する
過程も、同じです。

まず、最初に、神の土壌、すなわち、
神のまします、中枢部に 理念が植えつけられ、完全なる
理念として、心の中に維持され、やがてついに、完全なる
神の子、即ち、キリスト意識として、現実に、生まれ出て
くるのです。“(41)(引用終わり)(*1)

生物学的に、これが可能なのかどうか?

論争はあり、というか、まず、ほとんどの人たちが不可能なこと、
と思うでしょう。

敬虔な信者たちも、聖書にそう書かれているから、それを疑わない
としているだけかもしれません。

引用した最後のバラグラフ、
”内在するキリスト(実相)が私たちすべてに、実現する
過程も、同じです。” 

これは、私たちが健康を欲し、幸せを願い、それを実現させる過程と
私は、同じだと思います。

ここでいう、”内在するキリスト”が、今、クリシュナシリーズで書いて
いるアートマ”のことであります。

自分自身の、壊そうとしても壊れない、本質の純粋性、その自覚と比例
して、身体にも、本来の自然治癒力が持つ、健全性が反映されていくの
でしょう。

その理由は、エミール大師のマリア処女懐胎の、”法則”と同じではない
でしょうか・・・

何かが成就する前には、”理念ありき”だからです。
理念という言葉は、信念、という意味でしょう。

次回そのあたりから、また、書かせていただきたいと思います。

皆さま、良い年末を、そして、佳き新年をお迎えください。



*1)
ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻
S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 
仲里誠吉訳 霞が関書房



 
 
 
 
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なぜ、今、私たちの本質(アートマ)を知ることができないの?(2)

2023年12月24日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係
あの世に行って、”すべて良し”の意味    12月24日 2023年
**************

前回の続きです。
何故、アートマ意識を、娑婆世界に生きている私たちは、感じられないのか?
という疑問です。

ヴェーダでは、こう説明しています。
その理由は、肉体を持っている間は、この真実を見る眼が、二元論という常識
(二つの対照的な事象は存在するとする考え方)に、おおわれているからだと
いうのです。
 
ところが、肉体を去ったとき、誰にでも、忘れられた感覚が呼び戻される
ように、アートマ意識を体感します。
何故って、本当の自分の本髄は死後も継続して、残っているからです。

その時、あちらの世界の 光に満ちた愛の温かさと安寧を実感できるといいます。
私も、貴方も、それを体感しているのですが、この肉体を持っていると、まるで
記憶喪失のように、忘れ去られているだけですが・・・

このことは、体験者(死後の世界から戻った人たち)からも、聞いています。

さて、クリシュナが説くには、死んだ瞬間、その時、敵も味方も存在しないので、
相手も自分も光の中にいると、実感するそうです。

そして、肉体世界に生きていたときのそれぞれ、憎んだり、憎まれたりした
演じるべき役割をねぎらう気持ちになるといいます。

ギータの最後の最後、つまり、闘い終わってあの世に行った兵士たちが、役割
を地上で果たした同士として肩を抱き合うともいうシーンも描かれています。

次の場面は、アルジュナが闘いに挑み、へっぴり腰になり、弱気になっている
のでクリシュナが声をかけるところです;

”だから、アルジュナ、この闘いに従軍せよ。
或る者は、我々の実質が相手を殺し、殺されると思うが、それは真実を知ら
ないからだ。

我々の内奥に住む実質、これをthe Atoma(アートマ)とよぶが、殺されたり、
殺したりするものではない。

アートマは生まれたこともなく、死滅することもないから、〝無い”という
ことはない。

太古の昔より存在し、今この瞬間にも存在している。

たとえ肉体が殺されても、アートマの消滅はない以上、一体、誰が殺す者
で誰が殺される者になるのか?

われわれの本質は、この古くなった肉体を棄て新しい服(肉体)身に着け
ながら存在している。

武器によって破壊されるか?
火によって燃やされてしまうか?
水に湿ってしまうか? 
風によって乾いてしまうか?

この実質的存在は切られたり、焼き尽くされたり、ぬれたり、乾いたりはしない。 
破壊されることがないのだ。
常に存在し、あらゆるところに、確固として存在している。

五感感覚を超越しなければわからない。頭で理解するには無理がある。
何にしても、変化衰退、無常なものではないのだ。 
これを良く理解すれば、(戦いを前にして)意気消沈することもないだろう。“
21725) 

こうしてアートマという実態が少し、垣間見るように、クリシュナから
教えられます。
変化衰退、無常な世界に生きている、私たちには、この肉体的感覚で
捕らえることはできません。
でも、自分の中にある、アートマを見据える訓練を、日頃していれば、誰に
でも、その意識と共に、無常世界を生きることは可能なことです。

特に、健康増進したいかた、薬を減らしたい方、には、この内観をお薦め
いたします。
誰にでも死期はあります。
それまで、健康に生きていたい、ならば、自分のアートマを良く知ること、
が、一番の秘訣であるのだと思います。
そのあたりを、もう少し、詳しく、次回、お話させていただければと
思います。



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自然治癒力セラピーとアートマ意識の関係

2023年12月21日 | 健康と直結する”一元論”について
自分自身でできるアートマセラピー ・・2023年⒓月21日
ーーーーーーーーーーーーーーー
これから、御紹介するところは、ギータの2章です。 

ここでは、自然治癒力セラピー協会で施術している、セラピーの名前、
”アートマセラピー”の元になった、”アートマ”について、語られてます。

何故、”アートマセラピー”と名付けたのかといえば、施術中、アートマ意識 
を相手に投影させることが基本になっているからです。

そうすることで、同波動は響きあうので、クライアントの本来、持っている
完全性、つまり、アートマ意識が、(無意識に)引き出されます。

人は、誰でもアートマ意識で 心身ともに、つながっています。
だから、相手とつながったとき、その人の、身体の滞っている箇所が、
私の身体に 凝りや痛みとして投影されます。

そこに順追って、順気を当てていくと、相手の全身の気の流れが整われ、
ほとんどの方たちは、終了後、”軽くなった” ”息が楽になった”
”それまでの痛みが消えた” と感想を述べてくれます。

アートマとはサンスクリット語で、紀元前数千年に、記された、ヴェーダの
中の、”人間の純なる本性”を意味しています。
詳しく書くと、本題からそれますが、不二一元論が、ヴェーダの根底にあり、
あらゆる存在物は、人を含め、神であるという、徹底的な唯善質を説きます。

ですから、私は徹底的に、施術中は、相手の完全性、つまり、健康である
今を心で、念視しています。
これが、相手からアートマ性の波動を引き出す、方法です。
そして、自分自身で解くときも、同様の心持でセラピーを行えば’自己セラピー’
が可能になるはずです。

さて、小ヴェーダといわれる、’ギータ’の主人公のクリシュナが、アートマに
ついて、たびたび、アルジュナに語っています。
今日から二回ほど、そのテーマで書きたいと思います。

以前にもお話したように、アルジュナは、敵陣に向かう直前まで 自分の
尊敬する師や親類縁者に刃向かうことに、罪悪感を感じ 戦う意欲を失って
いました。

そんな彼に、騎馬車に同乗した、クリシュナは、このように言葉を
かけて、アルジュナの勇気を奮い起させました。
 
“This indwelling entity the Atoma, neither kills nor gets killed. 
This entity never takes birth and never dies. 
It is never absent. 
Therefore, it is not something that makes its presence felt 
out of a sometime-absent situation. 

It has no birth, undergoes no change, is ancient and is
 always present. 
It is not killed when the body is killed. 
Purtha! 
He who knows this entity to be Indestructible, permanent, 
without birth and changeless, tell me, whom will be kill or 
who will he takes to be the killer? 

The indweller discards old,
 used-up clothes and don’s new clothes. Weapons do not 
destroy this entity. Fire does not burn this. 
Water does not wet this. 
Wind does not dry it. 

This entity cannot be cut, burnt, wetted or dried. 
 It is Indestructible, always presenteverywhere without 
movement and is well established.

 It is beyond the ability of the senses to perceive and of 
the mind to capture. It cannot be changed in anyway 
whatsoever.  

Therefore, understand it as such.
Do not be disheartened.”
(2-17 to 2-25)
 
訳)人の心に住む神性、アートマは、殺すことも殺されることもない。
そして、生まれたり死んだりすることはない。

存在しないということが、無いのだ。
つまり、ある時はそこに在り、ある時は、そこに居ないという
ことがない。

古代から現代にいたるまで、生まれることなく、変化することなく
存在している(註:個人意識(アイデンティティ)ある魂のようなもの)。
肉体が殺されても、アートマは殺されない。

変化することのない永久不滅の実在、それがアートマの資質だと
したら、だれが一体、殺し、誰が殺されるのか? 

内在するこの資質(アートマ)は、古い服のように捨てられたりしない。
武器でアートマを破壊できず、火で焼き尽くされたり、水にぬれたり、
風に乾いたりするようなものではない。

傷つくことなく、自然の力に影響されることなく、あらゆるところに
実在し、移動せずとも、よく秩序を保ち、人間の五感を超えていて、
心(mind)でとらえることはできない。

そういうものだと知るがよい。
ゆえに、(アルジュナよ、戦うことに)心を落ち込ませることもなかろう。“
須田訳)
 
闘いは、現象における兵士の義務ではあるが 敵にも、味方にも、
本来すべての人間に備わっているアートマを見据えたら、そこには、
勝者も敗者もない” 断言するのです。

戦場で、肉体が殺されたと見えたその瞬、実は、生きとおしの魂の意識が復活
します。
死んだと思った自分は肉体より剥離して、生き通しの命を知る・・・わけです。
これが、アートマという不滅の魂でもあります。

残念ながら、クリシュナが述べているように、この娑婆の世界に生きている身は
肉体的感覚で、このアートマを感じえないので、その存在を気が付いていない
のです。

次回へと、そのあたりから、何故、生きている間に、このアートマ意識を、自覚
できないかというところから、書かせていただきます。





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自然治癒力とアートマと、クリシュナの関係

2023年12月18日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

健康とアートマ 2023年⒓月18日
*********************************************
数回にわたり、ギータのお話を書いています。
体調を良くしたい、風邪をひきたくない、自然治癒力を理解したいと、
それぞれの目的で、このブログを開けてくださっている方たち・・

インドの神様の昔話は、関係ない・・と思わないでください。
特に”アートマ”のお話・・
実は、これが、私が、人間界でいうところの、老年にあたる現在まで
薬も飲まず、自然治癒力で、活動的に、元気に、過ごしていられる、
大きな秘訣なのですから・・・

でも、しかたありません。
日常の中で常住不滅な、アートマの存在を自覚することは、数千年前から、
現代にいたるまで、なかなか難しいものだからです。

紀元前5千年前に、クリシュナはアルジュナに応えた言葉がそれを物語って
います。

“真に内在する本来の自己、つまりアートマを不思議な想いで見る人もいる。

不思議な想いで語り、その言葉を不思議な想いで聞く人もいる。
が、誰も、それを本当に知っているものはいない。

アルジュナよ、アートマと呼ばれる、総ての人に宿る真の体の居住者は
死なないのだ。

だから、汝も、肉体に所属する事項に関して、心を破られる思いをすることは
ないのだよ。”(ギータ 2章29~30節)


この言葉は、現代にも まさに、通用すると思います。

アートマと聞いても、ほとんどの方たちは‘自分には関係のない、’観念’として、
興味ないものをしまう引き出しに、放り込むでしょう。

でも、私には、それが、”自然治癒力”を発揮させ、心身ともに、健全で、若く
いられるための、現実的で、一番大切な、“薬”に思えるのです。

まぜかといえば、アートマを知ることで、心が”わずらわしさ”から飛躍できる
からです。
飛躍できれば、心は、解放されて、そこで、身体は、自由になり、本来の治癒
(免疫力など)が活性化するのです。

誰でも、多かれ少なかれ、問題をかかえ、”わずらわしさ”に、心をひきつけられ
悶々としているものです。

周囲の状況、他人の言葉や態度、仕事やその環境の不具合などに、五感(肉体
的感覚)は敏感に反応し続けています。

でも、肉体を越えた、アートマに意識を持っていけば、そんな煩わしさも、
サーフィンのときの波のように、ゲレンデの急滑降の道のように、スポーツ的
なチャレンジ対象とするような、余裕を持った、違う観方ができるでしょう。

自然治癒力は、本来、人に備わった、生命力の発露です。
そして、生命力は、人の本然(ほんねん)である、アートマが支配していると
いっても過言ではないから、アートマ意識を持つことで、生命力が活性化して
身体の不調も自然(知らない間)に改善され、心も前向きになるわけです。

ギータは、実は、アートマ世界と、現象(肉体)世界の象徴的闘いのお話です。

盲目の王、ドゥリタラシタラが登場します。 
この王は、眼が見えない分、他の感覚器官が発達して、この世の楽しさと
快楽に傾倒しました。
この王の一族と対峙する、アルジュナ軍。

アルジュナが属する、パンドゥ家、のPANDUはサンスクリット語のPANDから
来ていて、“白い、純潔な”を意味してます。 
クリシュナは、アルジュナの純粋で、クリシュナにすべての統御を全宅する心に
応えて、共に戦う騎馬車に乗り込み、彼の、御者を務めたのでした。

“私たちの人生もこれと同じようもののだ”とギータは暗黙に教えています。

人生行路の馬車を操っているのは“クリシュナ“であり、クリシュナこそ、
アートマの象徴でもあるからです。

アートマを知り、理解して、自分の中の、アートマ意識に、託するとき、
人生行路は、最も、自分に適した道を選びながら、進んでいくことでしょう。
五感(肉体的な現象世界)に右往左往して、悶々としながら、回り道したり、
迷い込んだりせずに、すむでしょう。

そして、何より、心身健全に、楽しく、明るく、前向きに、進む自信が
生まれるのだと思います。


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