自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ギータの中のヨガ⑦~Jnana Vijnana Yogaha

2017年10月28日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

文献を通して得た知識から内なる体験を積むヨガ

*******************************2017・10・28

 

今までご紹介したバカヴァッド・ギータの中での

クリシュナ神とアルジュナの対話で

‘神との合一’を図るための手段(ヨガ)の様々な手法

や、心の制御のための、振り向け方をご紹介した。


今回は、私たち一般的に取り組みやすい方法、つまり、

本を読み、心的な体験をすることは、ヨガの手法の一つ

であり、それをお伝えしたい。


今日のタイトルの中にあるサンスクリット語の、

“Jnana”は、’真理と直結する知識’をさしている。

それを、読書から学び、理解すること、それが

Jnana Vijnana Yogaha“と呼ばれるヨガだ。


本の中で真理を学び、それを知識とする。

その知識を、心的体験に高揚させるまでには

さらに忍耐力と信念が必要だろう。

だから、クリシュナはギータの7章の1~3節で、

“After knowing this, there is nothing 

else left to be known. 

Once person among many thousands of 

people undertake the practice of embracing t

he Indweller.

Out of the many thousands who undertake 

this effort such, really one gets to know Me.”


=真理を読んで知って、これ以上、ほかに知ることはない

と確信できるものを把握する。


そうした人が何千人いても、実際、行動に移せる人は

ほんの一握りだ。

さらに行動を移した人が何千人いたとしても、私(神)

を本当に把握できる人はその中の一握りに過ぎない“

とアルジュナに言う。

 

神を把握できるということは?


それをアルジュナに次のようにわかりやすく

クリシュナは説く。


“Nature originates in Me and has eight-fold 

divisions-

earth, fire, wind, sky, mind, intelligence and ego. 

This is the lower aspect of nature. 

There is one aspect that is superior and 

different from this. It is the life-entity and 

the support of this phenomenal universe.  


Know that to be My Nature. 

Know that all beings originate from these 

two aspects of nature.”


= “自然の源は神である。

自然は8つの地球を構成する要素で作られる~

土、火、水、風、空、マインド、知性とエゴだ。


これは、自然の低い(物質的な)側面だ。 

これとは異なるもっと精妙な要素で作られている

側面がある。


それが、生命力であり、物質的現象的な宇宙を

支えているものである。

神の性質はまさにそれであることを知れ。


生きとし生けるものすべては、この二つの側面

から生じていることを知れ。”(7-4~7)

 

神とは、だから、高次元にいる、観念的な存在ではない。


肉体的働き、心臓の鼓動や肺による呼吸、血液の循環や

臓器の働き(物質的)であるとともに生命力そのもの、

目には見えないが、それらの機能を司っている力であり、

それこそ、神なのだ。


興味深いことに、クリシュナは、マインド、知識、

エゴ の人の心的機能すら、物質的(lower)な

枠組みに入れていることだ。

 

’マインド’は、mindのことだが、普通、心と訳す。 

Heart、つまり、ハートも、心 と訳す。

マインドとハートとはどう違うのだろう。


マインドとは、私の主観的解釈ではあるが、

知能や知性、あるいは、知識をともなって、行動判断

となす精神的機能だと思う。 


I do not mind とは、相手に ‘気にしませんか?’

と尋ねたときの’気にしませんよ’という答えだが、

詳しくみれば、“そういう条件でも状態でも、私の身心に

不都合はない”という意味で、“気にしません”と

答えるフレーズだ。


一方、ハートは、計算抜きの損得勘定なしの、

真心のようなものだろう。


heartful=ハートフル といえば 心のこもった

という意味だから、先のマインドとは少しニュアンス

が違う。

スピリチュアルな人という時、ハートの深さに比例

するような気がするがいかがだろうか?


’知識’というのは、クイズ番組で頂点にたつため

の総合的にしろ、専門的しろ、教科書や百科事典

で暗記できるような情報をいうのだろう。


最後の’エゴ’とは、自我のことであるが、

サンスクリット語ではアハンカーラと呼ばれ、

いわゆる、西欧文化のもとで発達した心理学で

いうところの、自我意識とは少し異なるように思う。


自我が強いというと、自己主張が強く、勝手な人の

特性のように、思われるがギータの中でのエゴは

それとは少しニュアンスが異なる。

否定的でも肯定的でもない。


つまり、身体を持っている私たちは、自分の体=私 

という当たり前の認識をしているが、その認識をする

自分が、アハンカーラだと考える。


だから、幽体や霊体になった魂にはアハンカーラは

ほとんどないだろう。


私たちの本質、神聖なる神性を‘自分’であると思えない

というのは、このアハンカーラを持つゆえんである。

なぜなら、自分は自分の身体の脳に私意識があると

信じさせているからだ。


違う面から見れば、むしろ、これは大切かもしれない。

アハンカーラが無ければ、身体維持のための本能的

ケアーさえ無関心になるかもしれない。


確かに、インドのヒマラヤに実在しているヨギ達の

多くは、アハンカーラを脱しようと修行して、

ひげも爪も伸び放題で、食事にも無関心だから、

ほぼ、やせ細っているのが共通していた。


さて、さらに続けてクリシュナは、神の特質を

アルジュナに説明している:

“I am the essence in water, the effulgence

 in the sun and the moon, the self-emanating 

sound, in the Vedas, the sound present in 

the sky, the vitality (adventure, aspiration 

and achievement-Poursha ) in man. 


I am the comforting smell of the earth, 

the light in the fire, the life-force of all beings 

and the penance in those performing penance.”


=“私は 水のエッセンスとして、太陽と月の輝きの中に、

自然発生の音(須田注-aumの音か?)ヴェーダ

(須田注-世界太古の聖典)の中に、ヴァイタリティ―そ

のもの(たとえば、冒険心、発奮し成し遂げる力~

つまりサンスクリット語のプルシェ~)、


私は心地よい大地の香り、火の灯り、生ける者の生命力、

悔い改める者の心の内に・・存在するもの” 

 

本を読み真理に関する情報を得ることは、ヨガの方法

の第一歩だろう。

そして、その中から自分が納得した真理の情報を、

自分の内に取り込み、自分のものとすること、それが第二歩。


そして、最終的には、神というのは、特別で限定された

存在ではなく、ありとあらゆるところに存在している、

その存在そのものであるということを、‘知る’こと、

‘感じる’ことに至るのだろう。

 

山, ヒマラヤ, 風景, Spitiバレー, ヒマチャル・プラデシュ, インド

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ギータの中のヨガ⑥~Sanyasa Yogaha

2017年10月23日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 

Embracing Divinity through Renunciation : 

世俗を捨てて神性を抱くヨガ

*****************************2017.10.23

 

無料写真自然風景 に対する画像結果

 

2017・8・14に同じタイトルで記事を投稿していた。


が、今回は少し違う角度から再度このヨガについて

みてみたい。

先回までの三回シリーズのタントリックエネルギーに

ついての記事を 書くにあたって、Aさんの訪問に

触発されたことを前書きに述べた。


Aさんはインド名だ。

イニシャルがAから始まる、このインド人女性の名前は、

彼女が所属していた教団のグル(師)から与えられた。

‘世俗を捨てた求道者’の証として、直弟子が与えらるもの

だった。

それを別名、サンヤシ名といった。 


俗世間にいても、下界的な欲望から離れて真理を探ろう

とする人をサンヤシとサンスクリット語で読んでいる。 


今日のテーマである、‘sanyasa yogaha’のサンヤシと

いう言葉は、その意味でもある。

***********

これはギータの第五章を中心に書かれている内容だが、

先回はその全般部分を訳してお伝えしたので、

今日はその後半部分に的を絞りたい。


アルジュナとクリシュナ神との対話で綴られている

ギータ、第5章11節の次のクリシュナ神の言葉から

始めさせていただきたい。


“In this world, God has not created the doers 

or the deeds or the connection between the two.”


意訳)この世の中に、神は行為者と行為の関係、

つまり、両者の間の因果関係というものをお創りには

なっていない~という。


私たちは、ごく普通に、‘悪いことをすれば、必ず、

その因果応報がある’という。

仏教などでは、因果応報の考えは 教えの重要な

柱の一つになっている。


しかしクリシュナは、それは、神とは関係ない 

自然界が造ったものだからとアルジュナに 

次のように説く。


“It is only nature that makes these happen. 

The Ruler of this world receives neither the merits

 nor the demerits of anyone.  

Ignorance veils the innate Wisdom, confuses and 

deludes all beings. 


But, for those whose ignorance has been 

eliminated by their knowledge of The Self, 

their knowledge reveals the shining Self 

it self.”( 5-13 to 5-16)


訳)それ(因果関係)は自然にそうなる話だ。

この世界を治める神はそれによって、メリットも

デメリットも受け取らない。 


無知が智慧を覆い隠し、すべての存在を困惑させ

迷わせる。

が、自分自身(アートマ、または、大我)を知ることで、

その迷妄は打ち砕かれ、輝いた自己を復活させること

だろう。

 

因果応報、自業自得 という事実はあるが、それは、

神の御心の世界にあるものではないというのが、

このクリシュナの上の言葉の行間の意味だろう。


つまり、そうした、因果、原因と結果の二元的世界

の中で翻弄され、苦しみや悲しみの中で生きる人たち

ですら、本当の自己を知った時、その自然界の因果の

法則すら超越できるというのが、その意味だ。


だからこそ、自分自身の中心部、本来の我、迷妄のない

大我に向かってぶれることなく、焦点を定めよと

クリシュナは引き続き言う。


それが、唯一の輪廻転生の回数を少なくして、悟りに

至る道だというのだ。


かつ、そうしたとき、自分の周りのすべての、生きとし

生けるものに宿る本質は、神(Brahmanas)であること

が理解できる。


多様性をもって、Brahmanasは世界に様々な形状で

表れている。

例えば、犬や猫、牛にいたるまで本質の命の中にも、

Brahmanasが存在しているのだ。


多様性の中の唯一無二の存在、それが、Brahmanas 

であるとアルジュナにクリシュナは説く。

その観方を徹底して、強い信念として生きざまに

反映されるとき、その人はついに、Brahmanasと

一体となるだろう。


人生の目的?なぜ、人は生まれてきたのか? 


すべての人に言える共通事項、それは人が内在する神、

つまり、Brahmanasと一体感を味わうことだと

クリシュナは言う。

 

“Attaching to the Indweller and thereby detaching 

from the contacts of the external objects, he enjoys

 the never-decreasing bliss of the Indweller.”

訳) 内なる神にしっかりと離れずに居よ、

そして、それ以外の対象に心をつなげるな、

ならば、内なる神の祝福に常に満たされている

ことができようぞ。

 

それ以外の対象物(external objects)とは何か

を具体的にクリシュナはさらに続けて説明している。


それは、身体的五感感覚によって、得られる

快感ある喜び(pleasures and enjoyments that 

contacts with external sense-objects give)

のことだ。


具体的に云えば、当たり前の私たちが使っている、

嬉しく楽しく、愉快で幸せになる行動でもある。


例えば、美味しいものを食べた(味覚)ときの

幸せ感とか、感動的な映画を観たとき(視覚)の

後味の良さとか、お香やアロマなど(嗅覚)が

造る爽快感とか、好きな人のそばでくつろぐとき

の(触覚)安心感など、それらは、クリシュナ神

のいう、外からの感覚的刺激で得られる快感と

いうことのなるのだろうか? 

答えは‘Yes’だ。 


’そうした対象に心を留めるな’って?・・

それはちょっと、厳しいのではないですか?

クリシュナ神よ・・・とアルジュナが言ったか

どうかわからないが、・・なぜクリシュナ神が

そう教えるのかいえば、端的に次の言葉に

表されている。


“They all area the birth-place of misery and sadness, 

they all have a beginning and an end.” 

無料写真自然風景 に対する画像結果

つまり、”こうした快感的喜びは裏を返せば、

不幸や悲しみを生み出す世界に存在していて、

その快感には必ず、限りというものがあり、

終わりがくるからだ”


というのだ。 

ここでは、‘a beginning and an end” 

= はじめと終わり~

があるという言い方をしている。 

ということは、そうした快楽はその束の間の間は

心を満足させてくれているが、終わった時、

また再び得たいという欲望のとっかかりを造るだろう。 


それこそが、時として、人に、みじめさや悲しみを

与えるきっかけになるとクリシュナは言っているようだ。


ましてや人の欲望は尽きないという性質をもっている

ものなのだ。

もっともっと、美味しいものを発見したり、体験したい

という願いは、強くなるだろし、五感で得た満足感が

終わらないよう、人は、余暇に時間と労力や

お金を使って、求め続けることも時にはあるものだ。


それが‘悪い’という言葉はクリシュナ神は使っていない。


ただ、‘本来の自分を見つける喜び、から比べると、

感覚的快楽的刺激をベースにした幸福感は、一時の

気休め的なそれであるにすぎないということを

強調しているのである。


さらに、そうした身体の五感的満足を求める人ほど、

心理的に怒りや不充足感でアンバランスになりやすい

ということをクリシュナ神は指摘している。


Before discarding his body, he, who controls 

firmly the mental impulse that generates desire and 

anger, gets established with divinity. He indeed is

 the peaceful one. He is the yogi indeed.” 

5-22~24)

訳)そうした五感の欲求を求める心、怒りや欲望を

あおる衝動をコントロールすれば、そこに神の資質

が得られていく。 

  

その人は、心の平安を得て、真のヨギになるのだ。“

ヨギとは、下界の欲望を捨てた人とは、こういうものだと、

この章でクリシュナは述べている。

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Spirituality(スピリチュアルティー)に日本人は悪い印象?

2017年10月18日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 楽にスピリチュアルな生き方を受け入れられる考え方があるかも・・・ 

2017・10・17

***************************************************************

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ある会合でこんな話しで盛り上がった。

それは ’スピリチュアリティ’という言葉の日本人の
受け止め方についてだった。

この言葉をあまり、公な場では、使いたくないと
考える理由は、日本人にはこの言葉はあまり、
好感度をもって受け取られていない文化的背景
にあると、T大学のM先生は考えていらした。


アメリカM大学の先生、H先生も、その話に加わって、
“それは、テレビ番組で、霊能者と称する人がこの言葉を
用いて、一種の神秘主義的というか、オカルト的な
意味合いで視聴者が解釈し、そのままそのニュアンスが
全般に広がっていった感がある“ 

と 賛同して、 本来のスピリチュアルの意味合いが 
日本の社会では一般的に理解されていない現状を認めた。


私自身はその番組はインドで暮らしていたころだったので、
見たことは無かった。

少なくても、あちらではむしろ、この言葉は、物質至上主義
と対照的な意味合いで使われ、肯定的なニュアンスを
含んでいたように思う。

印度の太古より、現代に通じる、ヒマラヤのヨギ達に象徴される、
スピリチュアリティ―を追及する求道者たちの、この言葉
に対する反応はとても深いものがある。


今日は少しそれを皆様にご紹介しようと思う。

Shrirum Sharma (シャルマ)Achariya は、
現代のヨギの一人ある。


ヒマラヤで修行し、その麓の地、ガンジス川の岸辺に
アシュラム(道場)を開き、多くの修行者が、短期間なり
長期間なり、都合に合わせて様々な瞑想の行を
中心に世界中から集っている。


私も、何度かその地に訪れ、ご指導をいただいた。
今では、創設者シャルマジは幽体となり、肉体を
脱いでしまわれたが、多くの弟子たちが忠実に、
シャルマジの残した教えを継承している。


さて、シャルマジはその著書*(1)で
スピリチュアリティについて次のように、語っている:

Evolution of the soul is always show and gradual.
It takes time and needs endurance coupled
with persistent efforts.



One must not lose his patience if it takes a
few rebirths to cleanse up the evil sanskars
(intrinsic impressions in the inner self)
accumulated over in the previous births
traversing through ’84 lack yonis’(numerous
life forms).


一行目に、‘魂を変えようしても、それはゆっくりと
少しずつ変化が現れるものであって 時間がかかるものだ。‘
と述べている。

だからこそ、“
忍耐とたゆみない努力”が必要とされるという。

第二節のはじめでは、時間がかかるものというその単位は、
~時間というものではなく、‘何度も生まれ変わる’ほどの
覚悟が必要だという。 


そうして、心の中にインプットされた悪が浄化される。 
その悪はどのぐらいの間に積もり積もったものか?
シャルマジは‘’
84 lack yonis’(numerous life forms).’
と表現している。


途方もない時間だ。

数知れない生態系の中を何度も生まれては死に、微生物から
植物、動物、人間にと輪廻を遂げてきての、地球が
たぶん創生された時代からのお話のように伺える。

私たちの魂は初めから人間だったとは限らない~と
インドでは考える。


私自身も、今の私の意識のはじめは”鉱石”だった
ような気がすると以前ブログに書いたことがある。


石、植物、動物、昆虫、?? 

本当に魂といっても、様々な形で、この世に生まれ 
意識を重ね、体験を積み上げ、輪廻転生の輪(サイクル)
から逸脱できる’大覚の智慧’を持つことができる、と、
考えられているのだ。

印度の大師は よくこういう話をする。 
それは、私たちが今‘人間’というフォームで現世に
生を受けて、それは、ほぼ、考えたら奇跡に
等しいのだと。


その意義をよく考えてほしいと。 
漠然と過ごすにはあまりにも、もったいない、
奇跡であるのだから、今こそ ‘自分の魂’は?
と内面を見つめてほしいと。


なぜなら、それができるのは、人間の‘特権’だからだ。

人間として生まれてきた‘特権’として、そうした
抽象的で哲学的で、宇宙や大自然との関係、人が
人らしく生きる意味、愛とは、智慧とは、無私とは、
奉仕とは、などなどを考えることができるチャンス
なのだから~と。

さて、シャルマジの話に戻ると、そうして、自分自身
の中に積み重ねられてきた‘悪’を浄化するために、
輪廻転生を繰り返して、私たちは今ここに生きているが、
それほど、魂の質を上質に替えることは、時間が
かかる作業であり、真摯な努力と忍耐が必要だと
いうのだ。

これが
彼の言う、スピリチュアリティ―である。


つまり、魂を昇華させ、より高い次元へと変容させること、
その一連の、心の流れと意識をこう呼んでいるのだろう。


印度の大師達は、だから、霊的なことを
スピリチュアリティ―とは 決していわない。


霊視や霊能者、霊的にまつわる、お清めやお祓い、
幽霊と意思疎通したり、空間から物質を出したり、
物を瞬間移動させたり、そういうことと、
スピリチュアリティとは一線がひかれる話である。 

スピリチュアリティ―とは、シャルマジが上記で
述べているように、いかに魂を本質的に
変革させて高次元に高めていくか~その関連で使
われる言葉なのだ。


その意味では、時としては、宗教者はスピリチュアルな
探究者と言えるだろう。 

神を求める真摯な求道者や、神と一体になろうと
修行するヨギ達は言うまでもない。

しかし、最近、私はシャルマジのおっしゃるご意見と
少し違う考え方をしていることに気が付いた。


スピリチュアルに生きるというのは、もっと、
自然体なのではないか?ということだ。

気張らなくても、気張っても、人の本質は、
ある一定の聖なる神の資質と智慧を
兼ね備えた魂の投影されたものだと思うからだ。 

それに努力して近づこうというより、それを
思い出すためにはどうしたらよいかと
いうアプローチをしている限り、力まず、
自然体でゴールに近づくことができる
のではないか?

確かに、数知れない生まれ変わりを余儀なくされる
人の魂も存在するだろう。

が、時間というのは、この世のもの。 
もし、その人が‘解脱したい’ と願ったとき
には、それは半分以上成就したものだと思う。 


そう願うときが、どの次元においてであっても、だ。 
幽体時でも霊体時でも、あるいは、地球上で肉体を
もって生きているときでも、その人が発願したとき、
すでにゴールは見えているのだという気がする。


解脱にはある意味時間があって、ないようなものだ。 
解脱は 瞬時の次元の超越でもある。

ある意味、その時は 一瞬のうちに変容ができるのだと思う。

変容を遂げた人には、時間は存在しない。 
多くのヨギ達が極めて長寿を持っていることを
考えれば、それは事実だろう。 


最も、彼らはほとんど、下界に降りてこないから、
知る人ぞ知る存在であるようだ。 

なん百年も生きているヨギは現代でも実存するのだ。

話を戻すと、そうした遠回りをした人は、つまり、
いろいろな生を生まれ変わってきた人は単に、そうした、
さまざまな体験をしたかったからだと考えることは
できないだろうか?


往々にして、苦しみや悲しみに満ちた人生が
多いのかもしれない。

が、気を楽にして考えれば、彼らがその体験を望んだから、
体験の場を創り出し、ある意味楽しみながら、その時間を
享受したと考えたほうが、自然だ。

苦しみに満ちていても、それはそれで、やはり、私たちの
潜在意識の奥底で願っていたことなのだろう。

その苦しみがあったからこそ、次のステージが来ることを、
私たちは知っているのだ。


それは時が過ぎてみれば その苦しみや悲しみを
通り抜けてきた意味 や意義がわかるときが来るのだろう。


だから、本当は ‘その人のその魂が’体験したかった‘ 
というのが ゴールに遠回りした理由なのだろう。

そう考えると、単に私たちがスピリチュアルに生きる
ためには、そう(スピリチュアルに)生きよう という
発心があれば、それで良いのだという気がする。 


勿論 満足する段階にいたるまでは、時間はかかるように
見えるだろう。

が、すでに、私たちは、もう、スピリチュアルに
生きている存在なのである~
無意識であるにせよ・・・
と信じている。


*1~”What is spirituality?"
Gayatriteerth Shantikunj, Haridwar ,2010


 


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月はスピリチュアルのシンボル的意味があるようです。

 

 

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