自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

生き通しの自己意識

2013年02月28日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 肉体への執着と無関心  平成25年2月28日

****************************

 

 

次の例は、交通事故で、突然の大きなショックを受けて、

混乱した意識で状況を受け止めた人の実例だ。

 

“2年前の19歳のとき。私は自分の車で友達といっしょに

帰宅するところだった。 

下町のあの交差点でいったん停止して、左右確認し、

交差点に入った途端、友達が悲鳴を上げました。

 

私の車に向かって突進してくる車のヘッドライトの光が、

目もくらむような明るさで飛び込んできたのだ。

恐ろしい音がしました。 私の車の片側が、めちゃめちゃ

になる音でした。

そして、一瞬のうちに、暗い四方を覆われた空間を

通り抜けていくような感じがしました。猛烈なスピードで。

 

それから私は、道路から5フィ-トぐらいの高さで、

私の車からは、5ヤードほど離れた場所を漂っていたの

です。 衝突の時のガシャーンという音が、こだまに

なって消えていくのが聞こえました。 

 

いろいろな人たちがかけよって、車を取り囲むのを私は

見ていました。私は、人垣の中のつぶれた、車の中にある、

自分の身体が見えたし、みんながその身体を引っ張り

だそうとしているのも見えました。 

車の中の私の両足はねじれていて、あたり一面、血の

海でした。“(例2)

 

大方の体験者はこのとき

“自分の身体に何が起こっているのだろう?” と 不思議な

感情で、傍観者のように見守ることが多いという。 

それは、自分自身が物理的肉体から遊離しているという認識

がなかなか もてないこと、死 と結び付けられないほど、自分

の意識が 明瞭であるというのがその理由だとムーア博士は

コメントしている。

 

以下の例は、医療関係者の、臨死体験である。 

“脊髄が非常に悪化して医者は私を入院させました。

ある朝、私は厚い霧にすっぽり包まれていました

そして、私は自分の身体から離れたのです。 

自分の肉体から抜け出したことがわかったとき、

漂っている感じでした。 

 

 

振り返ると、肉体がベッドに横たわっているのが

見えましたが、少しも、恐ろしいとは思いませんでした。 

たぶん私は、死にかかっているのだと思いました・・・略・・・

 

ちょっと、奇妙な話だと思いますが、看護学校では、学生が

死亡した時には、その身体を科学のために 学校に寄贈

しなければならないということを、厳しく教え込もうと

していました。

 

それで、わたしを蘇生させるための手当が始まるのを

見つめながら、私の身体が解剖用に使われるのは絶対に

嫌だと思い続けていました。“(実例3)

 

自分の身体というのは、平面では写真などで 確認できる。

しかし、全体の3次元の自分を、しげしげと観察する

機会は生きている間まずないだろう。 

その時、自分が自分の肉体を見て、どのように想うのか?

興味深いものである。

 

この手記を書いた看護婦は、自分の肉体が解剖にまわされる

ことに抗(あらが)う心湧いてきたと語り、次の医師は、

また、異なる想いを 自分の物理的肉体に抱いた。

引用する。

 

“自分が臨床的な死の状態に陥ったとき、ベッドの脇で、

自分の死体を見た。 

死体は灰色に変色していた。 

混乱しながら、必死になって、自分は今、何を為すべきか、

決定しようと試みた。ひどい不安が襲った。 

とりあえず、死体から離れようと思った。幼いころ、

祖父からお化けの話を聞いたことがあり、奇妙にも、その話を

想いだした。 

 

  

そして、‘死体のようなもののそばには、いたくない。

たとえ、それが自分の死体であっても‘と感じた。“(例4)

 

自分の肉体に執着をもつ看護婦、自分の死体に違和感と

嫌悪感を感じた医師、そして、まったく、死を宣告された

(つつある)物理的肉体に、無関心だったのが 次の手記を

書いた人だ。 

 

“心臓発作を起こした。

自分は間違いなく死ぬのだと思った。

私は、自分の肉体から抜け出し、暗闇の中をひっぱられ、

猛烈な速さで通り抜けた。 

でも、振り返って、自分の死体を見たりしなかった。

もちろん、そこにあることはわかっていた。 

見ようと思えば、見ることはできただろう。

 

私は、ベストを尽くして 人生を生きてきた自負があった。

そして、じぶんが置かれた新しい世界への興味のほうが、

自分の死体の確認より、強かったといえるだろう。

振り返って自分の死体をみることは、過去を振り返ること、

そう思った。“ (例5)

 

 

こうして、自分と言う意識をもって[例外もあるが)、

あの世へ移行すること、自分の肉体(物理的)に 

どんな、感慨を持つかは、人それぞれであることが、

ムーア博士のレポートから伺える。

 

続く・・・・ 

 

参考:

”かいま見た死後の世界” レイモンド・A・ムーディ・Jr. 

中山 善之訳 評論社 昭和58年

レイモンド博士について: 

バージニア大学、大学院で哲学専攻

1969年 哲学博士号取得、 3年間 

ノースキャロライナ東部の大学で教鞭をとる。

1972年 バージニア医学大学に入学。医学博士号を取得。 

1965年 死後の世界の体験談を

聞き、その後、死後の世界体験者に面接。 

特異な分野研究を行い今日に至る。

 

 

 

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肉体眼と霊眼

2013年02月27日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

 無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんに)           

平成25年2月27日

*********************

肉体の自分が私だ~と当たり前に 考えていた自分が、

肉体を見下ろしているわけだから、わたしは 

この横たわっている私の顔を持った、死体(肉体)

ではない” 

と このとき、自分の意識を持つもう一人の自分が 

自分であるということに、気がつくのだ。

 

ムーア博士はこの、脳神経と ”私という意識”、”肉体”

との関係を次のように説明する。

 

 

 

“私たちは 精神があることを承知している。 

大半の人間は、自分たちの 物理的 肉体 と 

自己 を同一視している。

だから、精神 という概念は、肉体 という概念より、

つかみどころがない。

 

肉体=自分と考えている人たちは、精神 といったところで 

終局的には、脳の中で生じる、電気的、および、化学的な

活動作用 であると考える。 

そして、脳 は物理的肉体の一部であると 当然、認識

している。

 

だから、多くの人間にとって、自分という ”物理的肉体”を

離れ、他の場所で”存在する”ということが、一体、どういう

ことなのか、想像することも不可能である。“

 

ここまでは昨日の内容の重複となる。

これを 挙げた理由は 以下のとおり。 

つまり、この、ムーア博士の言葉は、あの、般若心経の

言葉につながる。

 

”無眼耳鼻舌身意” 

目も、耳も、鼻も、舌も、この身も、しかも心

(”意”から生じる”想い”)も無いという意味だ。 

どういうことか?

 

(物質肉体)あるように見えているが、実際、自分の

意識の源なのか?

そうでないとしたら、、肉体は、意識(自分)とは

別物なのだ。意識(自分)には死はない。

しかし、肉体は、そこに、塊のように無力に無げだされ、

生命が無くなれば、死体 と呼ばれる。

だとしたら、肉体 は、(永遠に)存在するのかどうか?

と ムーア博士は暗黙に、私たちに問いかける。

 

般若心経の 無い に 反する 存在する とは、

永遠無窮の永遠の存在を意味している。

火に焼かれず、水に溺れず、切っても切れず、叩いても

変化ない、存在の存在 という意味だ。

 

私達が 自分の精神を、肉体と混同させている。 

肉体=精神(神経の化学作用)だと日頃、認識している。

神経の作用は脳で起こるから、脳は肉体である以上、私 

も肉体に属するというわけだ。

 

だが、いざ、肉体が死に瀕(ひん)しているとき、

疑似死体験をした患者は、自分の肉体の中にいない、自分 

と 今まで知らない自分意識、しかも、放逐されている、

昔、自分と思っていた肉体を、冷静に、観察している

ことに、混乱する。

 

”肉体の眼も耳も、五感機能は停止に近い状態の中で、

どうやって、こうして物理的肉体をみていられるのか?” 

という 戸惑い だ。

般若心経は、そこで、われわれを諭す。

 

”だからこそ、肉体に属している、五感機能は、あるように

見えて、肉体の死と一緒に死滅する、一時的な仮の自分の姿” 

にすぎないと。

 

般若心経では、物質(色)の本質を、空(くう)と定義

している。色即是空 だ。ある有名な歌舞伎役者が 

最近 他界された。 

今日のニュースで、その弔いの式で 喪主の長男が、

故人の辞世の句を発表していた。

”色は空なり、空は色との 時なき世へ”。

空(くう)を”そら”と読まれていた。

 

空(そら)を観たら故人を偲んでいただきたい~と

言葉が辞世の句の後に続いた。

私は、この句の、空は、そら でなく、空(くう)と

言う意味ではないかと、いぶかしく感じた。

 

まさに、この偉大な歌舞伎役者は、自らの魂、意識が、

時限と次元を超えて、空(くう)の世界、命の本質

肉体を脱ぎ捨てて、旅立つことを、実感せられていた

のだろう。

 

話しはそれたが、空 (くう)の世界は、本質の世界だ。 

その本質が、この世( ”’くう’の中”=現象世界)では、

物(色)になって、表現される。

私たちの肉体も然りだ。五感の感覚器官(肉体に属す)

は、あるように見えているが、空の影”にすぎない。

 

だから、般若心経で、お釈迦様は、この世(空中=

現象世界)に見える、もろもろの、物質は、”無い” 

と喝破されているのだろう。

それでは”空”と呼ばれる物質の実態、本物は何だろう?

死 と宣告された人が、肉体から意識が飛び出して、

自分の肉体を見下ろしている、その感知する器官は 

決して、”肉体の眼” ではない。

肉体の眼はすでに、”肉体の死”とともに、その機能を

停止している。

 

それでは、”死んだ身体の眼”が本物か?

否、般若心経では、”無眼界乃至無意識界”、

と言っている。肉体の眼に見える世界だけでもなく、

意識(有る無いという)の世界すら無いという意味だ。

 

空 とは何ぞや? 般若心経のマントラに興味の

ある方達は多い。

空(くう) と 空中(くうちゅう)の二つの真理が、

般若心経の精髄だと思う。

 

インドのヴェーダ思想(仏教のおおもと)の中枢が、

この二極理解につきる。それこそ、一元思想 に

他ならない。

興味のあるかたはブログの”般若心経の扉”

(特に、”般若心経の空”、”空中”について)を開いて 

ご意見いただければ、幸いだ。

 

話がそれてしまうので、ここで、ピリオド。

一つ、いえることは、肉体の眼 というのは、私の眼 

であって、私の眼でないということだ。 

なぜなら、死んでも、自分の肉体を見ることができる

のなら、ほかにも、見る器官がある ということに

なるのだ。

死を宣告された患者が、その実例が述べられている。

 

心臓が悪くて入院していた時の事。仰向けに寝ている

のがつらくなり、うつ伏せになった途端、呼吸ができなく

なって、心臓が止まってしまいました。

 

その瞬間、看護婦たちは、‘コード・ピンク!’と

叫んでいるのが聞こえました。・・略・・

まさかと思うかもしれませんが、私は手すり

棒の間を通り抜けたようでした。 

そして、床に降りたのです。

 

それから、ゆっくりと上の方に上り始めました。

私は昇りながら、看護婦たちが大勢、病室に駆け

込んでくるのを見ていました。

看護婦たちは全部で12人くらいいたと思います。

私は担当医が病室に入ってくるのを見ました。

先生はここで何をしているのかしら?’と思いました。

私は電灯の上まで昇っていました。 電灯が横に、

はっきり見えたのです。

 

やがて、昇るのをやめて、天井すれすれのところを漂い

ながら、病室を見渡していました。

先生たちが私を蘇生させようとしているのを、私は

から見ていたのです。 

手足を伸ばした私の身体がベッドの上に横たわっている

のが、見えました。

 

ある看護婦が、私を蘇生させるために、口移しの人工

呼吸をしていました。私はその看護婦の後頭部を見つめて

いました。

看護婦たちは台車に乗せた機械を病室に運んできたのを

見ました。そして、私の胸にショックを与えました。

 

とたんに、私の身体全体が、ベッドの上で飛び上がる

のが見えました。私は、‘どうして、あんなに苦労している

のかしら? 私はもう、すっかり元気になったのに‘ と

思いました。“(例1)

 

続く・・・   

参考:

”かいま見た死後の世界” レイモンド・A・ムーディ・Jr. 

中山 善之訳 評論社 昭和58年

レイモンド博士について: 

バージニア大学、大学院で哲学専攻

1969年 哲学博士号取得、 

3年間 ノースキャロライナ東部の大学で教鞭をとる。

1972年 バージニア医学大学に入学。医学博士号を取得。 

1965年 死後の世界の体験談を聞き、その後、

死後の世界体験者に面接。 

特異な分野研究を行い今日に至る。

  Copyright : NPO Spontaneous Healing Therapy Japan: All Rights Reserved.                                    

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脳神経で感知する私

2013年02月26日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

肉体を眺める自分  平成25年2月26日

***************************

死後体験をした人たちは、大きな唸る音とともに、

暗い空間を猛烈な速度でひっぱられていく感じを

体験している。

トンネル というのは 一つの形容で、その他にも、

通風筒、谷間、円筒、真空空間などの表現があるが、

いずれも、引っ張られる という感覚には変わりはない。

 

具体的事例を挙げてみたい。

 

あの体験をしたのは、少年のころです。

非常に強いショックを受けたので、忘れられません。

在る日の午後、身体の具合がひどく悪くなり、

病院に運ばれました。

医者たちは、麻酔で私を眠らせようとしました。 

あの当時、麻酔はエーテルを使っていました。

 

医者が、エーテルを浸した布を私の鼻にあてがった

とたん、これは、後で聞いたのですが、私の心臓は

停止してしまったのです。 

あの時の感じをそっくり表現するなら、最初に

ブルルルルーンという非常にリズミカルな音が

何度もして、長くて暗い場所を通り抜けていきました。

 

下水道のようでした。

私がそこを通り抜けている間、ずっとその音は

続いていました。“ (例1)

                                  

局部麻酔でアレルギー反応を起こして、呼吸停止

状態になった患者は、こう語る:

 

“真空の暗闇の中を、猛烈なスピードで通り抜けて

いきました。トンネルみたいなところです。

遊園地のローラー・コースターに乗っているみたいに、

そのトンネルのなかをものすごい、スピードで通り

抜けていたのです”(例2

 

暗くて狭い峡谷、通路、など表現は異なるが同様の

感覚で下に下にと落ちて行ったり、通り抜ける体験に

変わりない。交通事故に在って瀕死状態になった女性は、

次のように言う。

 

“完全な安らぎと静寂に包まれていて、不安は感じません

でした。自分がトンネルの中、そう、同心円のタイム

トンネルの中にいることに気がつきました“(例3)

 

    

  

漫画やアニメで、タイムトンネルという映像になじみ

深い私たちだ。もしかしたら、肉体の物理的死と同時に、

心(魂)は、タイムトンネルのような最新科学でも創り

えない、時間と空間を超越して、異次元にフォーメーション

させる空間を通り抜けるのかもしれない。

 

朝、起きるとき、ストンと高い所から落下しながら、

体がヒューっと風を切る感じで、目が覚めることが 

時々ある。

もし、夢 が ある学者の説のように、幽体が離脱

しているという状況であるのなら、”異次元から戻る”

という意味で、そういう空間を通っているのかもしれない。

 

 

 物理的肉体から離れる魂       

 

ムーア博士の 死後の体験モデルケースにもあるように、

トンネルを抜けたら、そこは、肉体と離れた場所だった~

というように、死後、ヒトは、自己の亡骸を見下ろして

いるもう一人の自分に気が付く。

 

それを、傍観者のように、意識をもって眺めている自分

は誰だ?と疑問に思う。

さっきまで、苦しんでいた自分を囲んで、医師が蘇生

を試みて、必死になっている。

家族が泣きながら、自分の名前を連呼している。

 

それらを、冷静に見ながら、‘私はここにいるのに、

なぜなのだろう?’と当惑するのだ。

肉体の自分が私だ~と当たり前に考えていた自分が、

肉体を見下ろしながら、やっと、“わたしは 私で

あるが、あの、肉体ではない” と 気がつくらしい。

 

ムーア博士はこの、”脳神経”で 感知する私という意識 

と、肉体を離れたとき感じる私 との関係を次のように

説明する。

 

“私たちは 精神 があることを承知している。 

大半の人間は、自分たち 物理的肉体 と

自己を同一視 している。だから、精神 という

概念は、肉体という概念より、つかみどころがない。

 

精神といったところで 終局的には、脳の中で

生じる、電気的、および、化学的な活動作用ある

と考える。 

 

そして、脳 は 物理的肉体 の一部であると認識

している。だから、多くの人間にとって、自分という

物理的肉体を離れ、他の場所で存在するということが、

一体、どういうことなのか、想像することも不可能

である。“

 

 続く・・・・・

参考:

”かいま見た死後の世界” レイモンド・A・ムーディ・Jr. 

中山 善之訳 評論社 昭和58年 

レイモンド博士について: 

バージニア大学、大学院で哲学専攻

1969年 哲学博士号取得、 

3年間 ノースキャロライナ東部の大学で教鞭をとる。

1972年 バージニア医学大学に入学。医学博士号を取得。 

1965年 死後の世界の体験談を

聞き、その後、死後の世界体験者に面接。 

特異な分野研究を行い今日に至る。

  Copyright : NPO Spontaneous Healing Therapy Japan: All Rights Reserved.

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死と平安

2013年02月25日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

死後・第一段階         平成25年2月25日                         

*******************

心の静けさと平穏

ムーア博士のレポートによると、多くの人が、死の体験

の最初の段階で、光をみたとか、高級霊の輝きに包まれた

とか、愛に満たされ、今まで味わったことのない心地

良さとかいう表現で、心の安らぎと静けさ を味わったと

している。


医師に死亡の宣告を受けたある患者(男性)は、体験を

次のように語る。

 

“暗い空間を漂っている感じがしました。 

そして、その時、今まで味わったことのないような

温かさを感じていたし、

最高に満ち足りた気分でした。

‘自分は本当に死んだのだ’と思っていたのを覚えて

います。“(例1)

 

さらに、心臓発作後、蘇生した女性はこういう。

 

“最高に素敵な気分になったのです。 

安らぎ、満足、すっかり、くつろいだ気分、それ以外

は何も感じませんでした。

心配の種がすっかり消え去ってしまったように

感じました。

‘なんて穏やかなのでしょう。少しも苦しくない’と密かに

想いました。“ (例2)

 

もう一つの事例としての体験談がある。

“孤独感と和やかな気分とが入り混じりました。 

快適な、素晴らしい感じでした。 私の心は平穏そのもの

でした。”(例3)

 

次の例はベトナム戦争で負傷し、‘死んだ’宣告を受けた、

ある男性は、銃弾に当たった瞬間に感じたことを

こう表現している。


“非常にほっとしました。 

痛みは全くありませんでした。

あんなにゆったりした気分になったのは初めてでした。

すっかりくつろいで、いい気分でした。“ (例4)

 

死は眠りの如し という表現を使うのなら、確かに、

平穏と安らぎを与えてくれるいう意味では,文字通り

そうかもしれない。


しかも、それは比喩ではなく、肉体的に死んだ人の意識
がその、安らぎを深く覚えるという、事実である。


が、死ねば楽になる~と、安易に想ってはいけないと 思う。

死には、老齢による、自然死や、運命的にきめられた寿命

全うする場合と、自ら命を絶つ場合がある。


後者の場合、ここに挙げられた症例のように、平穏な心持

になれるかといえば、そうでもないらしい。

 

それは、自ら命を絶つということは、たぶん、運命外

あるからだろう。 


命は 自分が出す力以上の 生命力によって、維持されて

いる以上、自分の力でどうするものでもないのだ。


それを、生かされている という言い方をして、生かされ

ている間は 、何か生きる意味がある~ととらえて、

前向きに生きようと、また、心を新たにもできる。

 

命を、自ら断つということは、この世にうまれてきた使命

を放棄すること。

その権限が 私たちにあるのか?という問いにつながる。


与えられている命ならば、この現世で生きている間は、

どんな状況にあるにしても 生き続けていくということが、

意味 があるのだろう。

 

大きな唸る音

昨日、ムーア博士が、死後体験者の共通項としてつくった

モデルストーリーの中に、耳障りな大きな音 という

言葉があった。


その音は、死の宣告を受けたとき、あるいは、死に瀕して

いる時、ゴーッという、トンネルを抜けるような音に

喩えられている。


次の手記は、腹部切開の手術で20分間 仮死状態になった

男性の体験だ。

 “私は、頭の中で、ものすごく嫌な、ブンブン唸るような音が

聞こえた。

ひどく不安になった。“(例1)

 

意識不明に陥ったある女性は、その時聞こえた音をこう表現

している:

“響き渡るような、大きな音でした。唸るような音でした。

めまいを起こしたような気分になりました。“(例2)

 

唸るような音に反して、心地良い優しい音だったと語る

体験者もいる。

病院に運び込まれた時点で、すでに死亡していると宣告

され、その後蘇生した、男性は、死んでいた時に聞こえた

音をこう表現する。


“ずっと、遠くで、チリンチリンと鳴っている音が聞こえ

ました。 

風に乗ってくるような音、日本の風鈴のような感じでした。“ 

(例3)

 

いずれにしても、耳鳴りのような音、カチカチという大きな

音、ごうごうと唸るような音、ドシンと物がぶつかった

ような音、風のようなヒュウヒュウという音、など、

さまざまな表現があるようだ。

                                        続く ・・・    

                   

参考: 

”かいま見た死後の世界” レイモンド・A・ムーディ・Jr. 中山 善之訳 評論社 昭和58年

レイモンド博士について: 

バージニア大学、大学院で哲学専攻 

1969年 哲学博士号取得、 3年間 ノースキャロライナ東部の大学で教鞭をとる。 

1972年 バージニア医学大学に入学。医学博士号を取得。 

1965年 死後の世界の体験談を 聞き、その後、死後の

世界体験者に面接。 特異な分野研究を行い今日に至る。

 

  Copyright : NPO Spontaneous Healing Therapy Japan: All Rights Reserved.

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臨死体験共通要素

2013年02月24日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

死後世界のモデル  平成25年2月24日  

**********************

 

 

ムーア博士が医療現場で体験した、患者の臨死体験には、

すべての体験に”共通した要素” が いくつか、みられる

いう。

 

その要素を取り入れて次のような、”死後世界体験記” 

一例として挙げられている。

共通した要素を、起きた順でたどると~

(1)担当の医師からの 死を宣告 

 

(2)長くて暗いトンネルを急速で、通過するような感覚。 

耳鳴りの音や唸る音が、聞こえる。

 

       

(3)トンネルを抜けると、突然、自分の物理的肉体から、

抜け出した自覚 。

 

(4)傍観者のような、もう一人の自分。自分の物理的肉体

を見下ろして、医師たちが物理的肉体を蘇生させるべく、

手を施しているのを観察している。 

混乱する

 

(5)今、自分の体の自覚ある自分は、先ほど抜け出した

物理的肉体とは異質であることに気が付く。

 

(6)今、ここにいる自分に会いに来てくれている人たち

(亡くなった)に気がつく。と同時に、光のように輝く、

暖かい、愛に満ちた存在が現れた。仮に 光の生命 と呼ぶ

 

(7)光りの生命 は 自分の一生を総括する質問を

投げかける。その時、自分の一生に起きた事柄が一瞬のうちに 

目の前にパノラマ写真の連写で再生。

 

(8)自分 が 現世と来世の境目に来ていることを知る。 

現世に戻らなければとわかっているが、光の生命

出会ってから、安らぎと愛に圧倒されて、このまま

ここに留まっていたい誘惑

 

(9)私の意識は再び、自分自身の物理的肉体と

 同一化(蘇生)

 

蘇生した後の変化として:

 

(10)想像を絶するこの体験は 適切に表現する言葉

もなく、人に語っても、一笑に付され、だれにも報告

する気持ちは二度とおきなかった

 

(11)この体験は、自分自身の其の後の生きること

への影響を与えた。 死 への考え方、とくに、生と死 

とのアプローチに影響を与えた

                                                      ムーディ―博士は 一般的な、臨死体験をした人の

体験として 上記の話を挙げているが、完全に同じ内容は

無いという。 

しかし、手術中、肉体的に死にきわめて近い状況に陥った

データを持つ人でもこれらの体験を 全く覚えていない、

あるいは、してはいない と答えた人もいる

 

臨死体験の時間の長さや、物理的肉体のダメージの深さ

によっても、共通する要素の数は不特定に異なるとも

博士は報告している。

 

 

 

それでは、博士のいうところの”、共通する要素” を 

もう少し詳しく見ていきたい。

 

(1)言葉では表現できない ということ。

モデル例の(10)にあるように、適切に表現する言葉

はない、

と多くの体験者は語る。その理由として、ある体験者は、

’私が知っている三次元の言葉では言い表せないから’という。 

 

あの世界は ’明らかに 三次元の世界ではなかった’

付け加えている。それは、時間と空間への認識が、三次元の

世界行われるような感覚とは違うということだろう。

 

たとえば、自分の生きてきた足跡を、人生のスクリーン

に瞬時に見せられたり、光の生命と言葉なき、言葉で対話

したり、送ってきた人生の問いかけをされたり、

この世界で感じる、時間 がもはや、通用する世界では

ないということだろう。

 

(2)医師の 死の宣告 が聞こえる;

ムーディー博士は 担当医師やその場に居合わせた人

たちが、自分の物理的肉体へ死 の宣告をしているのを

聞いていたという体験者が非常に多いと語る。

ここに その、体験をした女性の手記がある。 

 

”…私はひどい薬品アレルギーです。 

テストの結果、何の反応も現れなかったので、

治療が行われました。 

でも、実際にその薬を使ったとたん、私の体の機能が

停止してしまったのです。

 

治療担当の医師が電話のところへ向かい、ダイヤル

を回している音がはっきりと聞こえました。 

そして、主治医の ジェームズ博士にこう言いました。

’ジェームズ博士、あなたの患者を殺してしまいました。

マーチン夫人のことです。

 

私は自分が死んでいないことがわかっていました。 

体を動かして、先生たちにそれを知らせようと思った

のですが、そうは、できませんでした。”(実例1)

 

他の例は心臓発作で死の境に言った人に話だ。

”突然、締め付けられるような胸の痛みに襲われました。

私が倒れる音を聞きつけた、主人と友人が駆けつけました。

私は真っ暗な闇の中にいました。その闇のかなたから、

’発作だ!今度はダメだ!’という主人の声が聞こえました。

それを聞いて私は、’そうね、今度はダメだわ’と自覚

しました。

 

これらの事例の報告で思い出したことがある。

それは、亡くなった と言われる人の枕元で、

決して相続のことや、親せき間の問題など、生前の人

が心配していた、軋轢ある話を持ち出さないこと、

それは、死者を悲しませるから という話だ。

 

亡くなったといわれても、実際、こうした、生き帰った

人の話を聞くと、心 という領域で、話しの内容を、

理解していることがわかる。

肉体はすでに、仮死状態に陥っていても、心 で聴く

ことができるというのは、肉体の耳ともう一つの耳が

私たちには備わっているということではないか? 

と思う。

               

普段は、もう一つの 耳の存在を感じることがない

にしても、実在しているのだろう。

現象界の音だけでなく、心に聞こえる声目の前の風景

でなく、心に映るイメージの世界。

 

言葉に出さなくても心に湧いてくる想い、それらは

確実に、今も存在して 活動しているけで私たちは 

なかなかそれに 気が付かない。

 

 

 

参考:

”かいま見た死後の世界” レイモンド・A・ムーディ・Jr. 

中山 善之訳 評論社 昭和58年

レイモンド博士について: バージニア大学、

大学院で哲学専攻

1969年 哲学博士号取得、 

3年間 ノースキャロライナ東部の大学で教鞭をとる。

1972年 バージニア医学大学に入学。

医学博士号を取得。 

1965年 死後の世界の体験談を聞き、その後、

死後の世界体験者に面接。 特異な分野研究を行い

今日に至る。

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