自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

好転反応は一見 悪化症状にもみえる・・

2014年11月28日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質

趣味も魂(こん)つめれば心筋梗塞の危険が・・・・2014・11・28

 

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昨今 社交ダンスを楽しむ人が増えてきたようだ。

テレビの画面でも女性芸人とTV局アナウンサー

という異色のカップルが

様々な社交ダンスの試合に参加して好成績を

果たす演技を披露して喝采を浴びているのを見た。

 

さて、姑(はは)のもとに 社交ダンス歴のある

クライアントさんが訪れたことがある。

著書(*1)から引用すると:

“肩関節から上腕へと気を放射すると、私の上背部と

前胸部に著しい締め付けが現れてきた。 

息苦しくて弾力がない、これでは医師の警告通りだと思った。

細心の注意をもって右腕を治療し、次に左腕に以降する。

左腕の懲りは右腕ほどではなかった。

全身的に治療したあとに、再び右腕に戻ると、

締め付けは少し緩んだが右腕の懲りは重症である。“

 

こうしてひととおり、治療が終わった後、

患者は姑(はは)に聞く。

“どこが悪いのですか?”

姑(はは)が 

“腕、特に右腕の懲りから来ています。”

と答えると、

“ダンスですよ”

とはっとしたように患者は答えた。

社交ダンスのことである。 

 

男性は常に右腕を水平の高さにして女性の肩を

抱くポジションを基本とする。

この姿勢を保つのは見ためよりはるかに、

難しいもので力もはいるのだろう。

その患者は”右腕の懲り”を指摘されてこう話した。

たしかに、体の不調を感じ始めたのは8年前より

ダンスを始めてからです。”

治療が功を奏したのだろう。

好転反応がみられるのだが、被施術者にとっては

熱やだるさ、下痢などの症状となるために、

不安になるらしい。

この患者さんも例外でなく 2~3日後に 

電話してきた。

“先日、治療を受けたあとから、両腕が痛みだし、

特に右腕が強く、家に帰りついた途端に動かす

こともできず、したがって食事もままならず、

翌日の昼ごろになって、通常の感覚に戻りました。 

ソファーに腰かけていると、まだ残っている腕

のけだるさが、昔ゴルフの猛練習をした後の

状態に似ていることに気がつきました。

改めて、引き連れ、つまりということがわかりました。“

 

幸いにこの患者さんは 治療が終わった当日、

帰る直前、姑(はは)から

“必ず治療の反応がでますよ

と言われていたので、”これがそうだろう”と思い、

体調が一見悪くなったように見えたものの、

むしろこれから自分の身体が良くなっていくという

ポジティブな考え方を強めたらしい。

3回目の治療を受けるころには、右腕の凝りからくる、

胸部の圧迫もだいぶ和らいだという。

こうして身体がリラックスしてきたのだが、

普通の患者さんは治療中、眠気に誘われて眠り込むこと

が多々あるのに このダンスを趣味としてきた

クライアントの男性だけは 決して施術中、眠らない。

 

普段から、軽い不眠症でもあった。

27~8年間 安定剤や強い睡眠薬を常用していた。

心臓の薬も併用していた。

その後、治療を続けて、全面的に心臓の薬を中止

することにした。

すると、胃の調子が快調になり、身体の調子が戻り

つつあった。

それから数年後、体のほぐれ、順気が整うにつれ、

この男性は姑(はは)の治療中

”初めてぐっすりと眠ることができた”と記されている。

ぐっすり眠るということ。

当たり前のようなことなのだが、脳機能が健康的

でないとなかなかそうもいかないことがあるらしい。

だから、この男性が施術中リラックスして、

熟睡したということは、いいかえれば脳が正常に

戻りつつあるということでもあった。

 

脳が正常になってくるにつれて、頭部の毛髪も

生え始めた。

この効果が見えてきたのは、治療を開始してから

4~5か月経ってから。

髪の生え際からちらほらと黒い毛が生えだした

というのだ。

頭頂に向かってごま塩に髪の毛の色が変化し、

さらに、3年もたつころはほとんど真っ白だった

頭髪は黒い頭髪に代わっていたという

 

こうして社交ダンスを一生懸命練習して右腕に凝り

を貯めておいた結果、つまりや凝りが表面化して

体の不調になったと 姑(はは)はいう。

社交ダンスだけではないらしい。

たかが ゴルフの素振り程度と思っていても、

こうしたことが積み重なって つまりとなる場合

が多々ある。

そのつまりを解かないでいると、

後々”つまりの後遺症”が現れてくる~そうすると、

そこに、異常を感じるから何らかの病の不具合と

心配もでてくる。

 

その時医者にかかっても、対症療法を施されて一時的

に症状を抑え込まれるだろう。

しかし、その本当の原因をさかのぼって、治療されることは

まずないだろう。

 

ダンスに限らず、筋肉を必要以上にトレーニングした人たち、

例えば、バーベルやエキスパンダーなどを使いボディービル

をした人たちにも、

姑(はは)は次のように注意を促す。

それらの“運動による身体の酷使”が続くと、

“横隔膜があがり、両肩が盛り上がり、肩甲骨が高く

なるとともに、胸腔に圧迫を生じていて、

全身的に悪影響を与えている。”

と。

適宜な運動、散歩や柔軟体操は時には運動不足の

解消のために必要だとしても、

運動による身体の酷使は “寿命を短縮させる

一要因ともなる” という。

我が家でも、姑(はは)からは、孫の私の

息子には、幼いころより、

テニス、乗馬、陸上競技など余暇を利用して、

スポーツをすることは避けるようにと言われていた。

実際 姑(はは)のもとには運動の後遺症で

不調を覚える若者が治療に通っていた。

高校時代からバレーボール部で活躍。

回転レシーブや アタックを得意として大学時代

は選手を務めた。

姑(はは)のところに来たときには、アタックを

していた右腕の筋肉は弾力を失っていたという。 

まるで、触ると、丸太棒のような感触だったという。

右の手掌は皮膚は堅くなり、まるでグローブの様相だった。

バレーボールの後遺症は指にも見受けられた。

手の指は突き指をしたことのある関節が固く太く、

足の右ひざの関節は膨隆して変形。

ボールをアタックしたときに、

空中に一瞬飛び上がり身体をエビのように

そらせてボールを相手側に打ち込む。

それから、地上に降りるのだが、その時の

衝撃のために足の裏の指の付け根は

堅く凝っていた。

そのほかにも幼児のころ、ガラスを頭部で

突き破って隣の部屋にとびぬけたことが

あり、頭部打撲をしていた。

中学校に上がる前後、定かに時期は覚えていないが、

左眼にボールを強く当たった体験もあり、

疲れると左目が痛み、左頭部の偏頭痛も持っていた。

加えて過度の運動で筋肉、腱、靭帯が固く締まり、

肩甲骨と横隔膜があがっている。

そのため胸腔を圧迫。

すると、肺や心臓の機能がその運動範囲が狭まる

ため低下する。

呼吸が浅くなれば、血液循環や新陳代謝へ悪影響

を及ぼし、手足末端の冷えやほてりを感じる体になる。 

また、横隔膜があがると、胃が常時引っ張られるので 

胃の筋肉が上下に伸びて弾力を失いやすい。

弾力を失えば胃下垂になる。

背中側では、胸椎の第八あたりが、横隔膜の緊張で内側

へと引っ張られる。

そこで、第八胸椎と上下の椎骨(ついこつ)に歪みを

生じることも出てくる。

このように体は有機的につながっている。

このバレーボールの選手だった患者も、横隔膜の緊張を

ゆるめ、胸腔の圧迫を取り除くことから治療が始まり、

丸太棒のような右腕もやわらかい伸びた腕へと 

次第に変化していったと姑(はは)の記録にある。

 

 

 

 *1 ”ひきつれ・つまり 身体をほぐす” 文芸社文庫 2013

 

 

 

 

 

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秀真伝(ほつまつたえ)と日本書紀比較

2014年11月25日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

年月がたつとテニヲハも変わってくる   2014・11・25

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秀真伝(ほつまつたえ)は

自然治癒力とどう関係があるか?

 首をかしげる読者もいる

でしょう。

しかし、この秀真伝の研究を

姑が続けたおり、神意によって

神気法と名付けられた独自

の治療法が授けられたと

自著に綴っています。

そしてそのおかげで、

筆者のアートマセラピーも

姑(はは)は理解し、

セラピー協会立ち上げの際、

協会の主旨に賛同して、

理事のお一人にもなって

いただいています。

***************

 

”国の まほろば”という言葉は

先回のブログにも載せたように

日本書紀ですでに使われている。

 

最近‘まほろば’と書かれている

広告などを見るにつけて、

秀真伝の38綾の一節を想いだした。 

もともとは この38綾に出て

くる 国のまほ という言葉

が後世に伝え 記され、

日本書紀や古事記で

まほろば という言葉が

登場したと思われる。

姑(はは)は自著で次の

ように書いている。

 

”秀真伝を40年近く研究している

私の脳裏には、まほろば 

という言葉は一か所たりとも、

秀真伝には使われていない。

この綾は、12代景行天皇

諸国を行幸された折、

筑紫国の児湯県(こゆがた)

の丹裳野(にわの)において、

都の空を眺めた給いて、

御製を詠まれたとある。

年代は 天鈴(あすす)

804年、日代朝(ひしろちょう)

17年にあたる。

この歌の中に “まほろば” 

という言葉はなく、該当する

のが3行目“国の真穂” と

いう言葉だった。

 

“古事記”にはが現在三重県

亀山市に行かれた時 詠まれたと

ある。 

この歌にある まほろば の

意味であるが、まほ とは、

最も優れた国、または、優れた

良い所をさし、ろば は接尾語

と書かれている。

 

また、歌謡33は、秀真伝では

歌の冒頭に出てきていて、

歌謡32と並び替えてみれば、

秀真伝の歌と類似しているの

がわかる。

 

“日本書紀” では、景行天皇

京都(みやこ)を偲ばれて詠われた

ことになっている。

秀真伝は 天鈴暦(あすすこよみ

843年、12代景行天皇に、

大直根子(おおたたねこ)が 

命を受けて編纂。 

時の朝廷に献上されたものである。

 

古事記は、和銅5(42代 元明天皇)

が西暦712年、日本歴では1,372

に、太安麻呂(おおのやすまろ)

が朝廷に撰上されたものである。

 

日本書紀は 養老4年、44代 

元正天皇、西暦720年、

日本歴では1380年に舎人親王

(とねりしんのう)~天武天皇の皇子~

が撰上されたものである。”

 

以上の歴史的年代順に類推すると、

国のまほ という言葉を秀真伝が

使用していたのが、まほろば 

という言葉に変化したのでは

ないかと仮説する。

歌を詠んだ方の名前も秀真伝

の序文に、、第12代景行天皇

とあり、古事記には、倭建命

(やまとたける)とある。

秀真伝えが景行天皇の命を

受け朝廷に大直根子(おおたたねこ)

によって献上されたのが、天鈴暦

(あすすこよみ)843年であり、

その献上期に、大直根子命(

おおたたねこ)が

“今世に遺る家々の伝紀が

数多くあれども、その趣意は

別れ異なる故に、どの紀をもって、

真の紀とするか定めがたし”

と秀真伝の序に書き記している。

そして、その一例をあげている。

 

秀真伝26綾に、以下のお話しが

出てくる。

豊玉姫の乗った鴨船が 荒波に

破損し、豊玉姫は臣下とともに

渚に落ちてしまう。

溺れようとするとき、豊玉姫に

武勇の心(勇気ある心)が湧いてきて、

”渚の上を泳ぐ”。 

御腹の中には 子が宿り、

妊娠されていた姫は、果敢に

海原を泳ぎ切った。

その様をたとえて、”その泳ぐ

威力は 竜やみづちの泳ぐ

ようであり、お供の人たちも

豊玉姫の姿に力を得て、

添え泳ぎ、相互に助け合い、

磯に難なくたどりつく”

という行(くだり)が書かれている。

 

これを秀真伝以外の書では、

“船破れて、竜とみづちの力得て、

姫は竜の如く、供人はみづちの如し” 

と 内容が変わってくる。

この例をとりあげて、

これは テニヲハの誤り と

大田根子(おおたたねこ)は

書いている。

このように、原本が長い年数

を経る間、保存のため書き写す

たびに、誤字を生じると

考えられる。

姑(はは)はさらに比較をした

うえで次のように述べる:

 

”誤字のみならず、5.7調の美しい

文体にも変化がみられる。

古事記、日本書紀ではこの御製

の歌の項を見る限り、

秀真伝の正確な5.7.調の

長歌体が崩れている。

まほろば という神秘的な

言葉の由来が、その原文と

なっている秀真伝えの

1節をくらべていただくことで、

変遷していく推移を理解して

いただけると思う。”

 

 

 

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秀真伝(ほつまつたえ)と古事記比較

2014年11月19日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

同記述内容を比較して   2014・11・19

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現代では古事記が神道のよりどころとなっていると聞く。

日本書紀や古事記が後世に伝わっている一方で 秀真伝

(ほつまつたえ)は ある時期から、隠ぺいされたように、

陽の眼をみることがなくなった。


古事記では天照大神は女神だが 秀真伝では 男神である。

したがって、大神の、家族構成や兄弟関係も古事記に記して

いるものとは 大幅に異なる。


話しが脱線するが、以前、私は神道関係の重要職について

いる方にセラピーを施したことがある。

その方は、かつて、その神社を行幸された昭和天皇に

付き添って、ご説明をするという重職を担ったことがある。

そして、その方は、秀真伝の存在をご存知だった。

姑(はは)がその研究をしていることを私が話すと、ある

神社のの御祀神について、姑に電話を通してたづねられた。


そして、姑の答えに、大きく頷いた。

しかし、現状は、古事記に則ったご祀神が、姑の答えた

ご祀神と異なっていたため、ご自身では直観的に、姑の答え

が正しいと感じても、ただ、現在の宗務庁の神道の柱が

確立している以上、そのことは、公にはできないと言われた。


古事記他、古文書とホツマツタヱでは細部にわたり、異なる

表現がされている。

たとえば、秀真伝38 には以下現代語で書き直してあるが

次の内容が記されている。

 

~ 御行幸の時、空を眺めて

歌を作ります~

 愛(は)しきよし                             

我家(わきべ)の方ゆ

雲居(くもい)立ち                         

雲は大和の

国の真穂(まほ)                             

また棚引くは

青垣の                                         

山も籠(こも)れる

山背(やましろ)は                         

生命(いのち)の全(まそ)よ

煙いせば                                         

 たたみこをもえ

くの山の                                         

 白檀(しらがし)が枝(え)を

髪華(うす)にさせ この子

 

 同様の内容が日本書紀には

以下のように記述されている。

 

2.日本書紀 

~ 天皇 京都(みやこ)を

偲びたまひて御歌読み宣はく~

 愛(いと)し きよし                                 

我家(わきべ)の方ゆ

雲居(くもい)たちくも                   

倭(やまと)は 国の

まほろま 

畳(たたな)づく                          

青垣(あおがき)

山籠(こも)れる                            

 倭(やまと)し麗

(うるわ)し

いのちの全(また)けむ

人は            

畳薦(たたみこも)

平群(へぐり)の山                         

白檀(しらがし)が枝を

髪華(うす)にさせ この子

 

古事記では以下のようだ。

3.    古事記

~倭券建命(やまとたけるの

みこと)が能焔野(のぼの)

に至ります時に、国偲びて

歌よみしたまひしく

 

倭(やまと)は                               

 国のまほろば

たたなづく                                    

青垣(あおがき)

(歌謡31

山籠(やまこも)れる                       

 倭(くわ)し、美(うるは)し

命の全(まそ)けむ人は                   

畳薦(たたみこも)

 

平群(ひらげ)の山の                     

熊白し(かまかし)が葉を

(歌謡32

髪華(うす)に挿せその子                       

 

国偲び歌 (歌謡33

はしけやし 

我家(わぎへ)の方よ 

雲居たち来も

 

和銅5712年 

大野安麻呂 1372

 

 同様の内容のはずが、徐々に時代の変遷とともに、文章が

変わってきている。

もし、秀真伝が最も古い文献だとしたら、時代がたつにつれ

言葉遣いや修飾詞なども洗練されてきているようにも

感じられる。


ちょうど、それは万葉集の素朴さと実直さが古今和歌集の

ような技巧的な歌へと変化していくのにも似ているようだ。


次回 この歌に関してもう少し掘り下げてみてみたい

 

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秀真伝(ほつまつたえ)と須田家

2014年11月16日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 りょうおばあ様の真理への探究心  2014・11・16

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秀真伝(ほつまつたえ)は自然治癒力とどう関係があるか?

首をかしげる読者もいるでしょう。

しかし、この秀真伝の研究を姑が続けたおり、神意によって

神気法を姑(はは)が取得できたと自著に綴っています。

そしてそのおかげで、私自身のアートマセラピーも姑(はは)の

理解とつながり、セラピー協会立ち上げの際、協会の主旨に賛同

していただき、理事のお一人にもなっていただいています。

(姑は、家族ですが、真理においては尊敬する先輩としてあえて

敬語を使用しました)

 ***************

 我が学び 

細谷川(ほそたにかわ)

の水なれど、

流れ流れて 

ほつま大洋(おおうみ)             

須田りょう

 

私が嫁いだ時、お元気だった大姑様、それが 

りょう様だった。

若いころから真理を究明するため 様々な道をたどって

たどりついた文献が秀真伝であったと聞いている。


須田家と秀真伝研究の関わり合いは、りょう様の時代に

さかのぼるのだ。

 

りょうおばあ様と長女にあたる姑(はは)は、秀真伝

(ほつまつたえ)をもっと深く勉強したいという願いから、

昭和44年、6月、当時の秀真伝研究の第一人者、

松本善之助先生に師事することになった。


友人たちを招いて毎月2度ほど、松本先生を囲んで自宅で

勉強会が始まった。

それは一年半ほど続いたが、その後、姑(はは)は、国家

試験を取って治療師として仕事をする傍ら、秀真伝の研究

に没頭していく。

 

姑(はは)は、秀真伝との出会いから、13年間という

年月をかけて、丹念に秀真伝えのオシデ(古代文字で書かれた

原著)と対訳(40綾全綾)を記し、それをさらに、9回推敲

を重ねた。

 

そうこうしているなか、”手に負えない”秀真伝の難解な

部分にも遭遇していた。

それらの疑問を説くための 出会いが訪れる。


それは、秀真伝を守ってこられた小笠原家の代表者のかたが

須田家に訪問されたことだった。

昭和584月、小笠原通当(道正)様のひ孫にあたる小笠原

長清様より姑(はは)は お電話をいただいたという。


その用件は、ウエツフミの大家 吾郷清彦先生に小笠原様が

連絡を取られ、お会いしたいとお電話したところ、

吾郷先生から、

ここまで(島根県在住)来るのは遠いでしょう。 

横浜にホツマツタヱの研究をしている、須田正子さんが

いるから・・・”と 姑(はは)を紹介されたという。

 

かくして4月中旬、小笠原氏と姑(はは)は面識を持つ。

そして、この時、互いの研究資料の交換をしている。


姑(はは)は語る。

ともに、5人の方たちがいらっしゃり、私のつたない

研究原稿を求められ、この機会にいただいた、何冊かの資料

は私の研究にとって得難い貴重なものだった”と。

 

得難い資料というのは、何をさしているかというと、

四国・伊予宇和島仙台藩(伊達正宗の側室の男子が初代藩主)

の家老職であった、小笠原長弘氏とその甥の小笠原長武氏の

”秀真解説文”だった。


姑はのちに語っている。

“小笠原長武氏の秀真伝大訳を念入りに検討させていただき、

おかげさまで私の研究の三分の二が、形作られたのです。”

 

其の後、姑(はは)は嫁の私を連れて琵琶湖 西北の神社

を訪れた。

その理由は、その神社の御蔵深くに眠っていたといわれる、

虫食いだらけの秀真伝が発見され、それを拝見するためだった。

この秀真伝は新人物往来社で製本され、姑(はは)は買い

求めた。


姑(はは)は言う。

“この秀真伝の特徴は、オシデの横に格調高い漢文の訳

書かれていることでその漢文のおかげで難解で、まだ解決

していない箇所の解釈が進みました。“

 

今年、姑の刊行した秀真伝は、このように、長い年月を

かけて完成したものだった。

先人先達たちの解釈を始め、姑(はは)は 大いに参考

にした文献として下記の論文や研究を挙げている。

 

①平成593日発行/新人往来社/秀真伝

②滋賀県高島郡安曇川町 大字西万木(よろき)の

日吉神社(ご祭神 ニニギネの尊) 御輿蔵奥深く

埋もれていた ”天・地・人”それぞれ各8冊、計24冊

原典著者は 大田田根子命(おおたたねこのみこと)/ 

漢記筆録は 和仁估(わにこ)安聡(やすとし)氏 。

 

話しは一転するが、姑の実母、りょう様は 若いとき、

クリスチャンの賀川豊彦先生に師事していた。

そのとき、賀川先生がおっしゃったという、

”何千年昔より、伝えられた書籍を読むことが大切である”と。

賀川先生の指している本は 聖書の事だろうか?


しかし、何千年昔に書かれ伝えられた日本に残る書物、

それは、秀真伝のことと姑(はは)は語った。

秀真伝には、日本の文化の原点・ルーツが記され、

さらに、人として生きるべき道が 伝えられ ただの神話

ではないという。


むしろ、超古代史としてとらえ、この太古の書物を読むと、

それらのことが、実感として伝わるのである。

噛みしめて読むと、日本人として生まれたことの意味

深さも感じられるに違いない。

日本にいると井戸の中の蛙のごとく、他国での日本の

評価は、なかなか 実感で、わからない。

大方の国では日本は”いにしえの文化”を保持する 正直で

勤勉な国民として尊敬されている。

実際、私がインドに居た15年の間、常にこのような 

リスペクトの感情を 身近なインド人たちから感じられた。


秀真伝を今、私たちが読めば、きっと、眠っていた

日本人のアイデンティティー、和と平和を愛する国民性の

遺伝子的背景を知ることができるだろう。

さらに、これから、もっと、世界が必要とするであろう、

日本人の世界への貢献の意味も理解できるだろうと思う。

 

 

 

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菜食と米の薦め~陽と陰の気から

2014年11月13日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 健康食について大神の詔(みことのり)    2014・11・13

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先回から引き続いて秀真伝から、神代の食生活健康法

について ご紹介したい。

 

以下の記載を転じると:

諸民(もろたみ)も よく聞け

常の食物は 稲菜(ぞろ)は

さいわい(幸い)

鱗魚 次なる鳥は火が勝ちて 

ほとんどまかる(死る)

灯(ともしび)の 掻き立て油

減る如く 火勝ち命の

膏(あぶら)減る 誤りみて

(三声)の肉(しし)食めば 

肉凝り縮み虚(そら)肥えて  

身の膏(あぶら)減り

け(気)も枯れて、やがて

死(まか)るぞ、

二月(ふたつき)中  

スズシロ食えよ

二声肉(ふてしし)は 

食えば生きても

腐り臭(くさ)神と仲絶え

忌み小屋に 三年(みとせ)

スズシロ

白髭(しらひげ)も ハシカミ

含みて垢濯げ(そそげ)やや

人となる

 

この原文を現代風にいいかえると、

“人々の常食とするものは 稲と野菜が最も良い。

次には鱗(うろこ)のある魚が良い。

鳥は火(陽気)の気が強すぎて、短命になる。


例えば灯油を掻き立てると早く燃え尽きる如く、

邪火が強すぎて生命の膏(あぶら)が減る。

誤って、三声、つまり三つの音声で呼ばれる獣、

例えば、狐、たぬき、うさぎ、羊など)を食すると、

血と筋肉が凝り、縮む。 


健康的でない太り方をして、生命の膏(あぶら)を消耗

させ、気は枯れ、死にいたる。

誤って食した場合、その害を取り除くために、二か月半

の間すずしろ、つまり、大根を食べること。


もし、二音の獣、(たとえば、うし、うま、いぬ、しか、等)

の肉を食べると、体臭が強くなる。

その害を最小にするため、神との断絶を余儀なくして

三年の間、忌小屋に入って、大根、ねぎ、生姜(しょうが)

食することによって、身の穢れを除くこと。

そうすれば、ようやく清浄な人体に近い体となる。”

 

菜食主義の人は多い。

なぜ?と聞くと、宗教的に禁じられていると答え以外に

そのほうが、心にも体にも、気持ちがよいということを 

体感と体験で知っているからという答えも聞かれる。

 

さて、この秀真伝の言葉の中で、

肉食を忌む理由として、血肉凝り縮む”をあげている。

これは、肉食によって、”血管や筋肉を通る、気の流れ

がとどこおり、収縮する”ことをいう。


それがなぜ、体に害を与えるかと言えば、引き連れやつまりと

いう気の滞りの原因が体の他の箇所に、支障をもたらす原因

ともなるからだ。

体はすべてつながりあっている。東洋医学を見ても分るように、

あるいは近頃はやりの足裏マッサージにしても、指一本の部位

といえども、脳神経につながっているから、左右10本の指の中

どの指のどの箇所が揉まれて痛いかを知れば、体のどこが

弱くなっているかを専門家は知ることもできる。

 

”長寿の方の中には肉食を薦めている人も知っている”

と言う方もいるだろう。

しかし、もし、こういう方達が菜食だったら、短命だった

のだろうか?

むしろ、肉体のみならず、スピリチュアル体といわれる

幽体の素成分を浄め、肉体なきあと(死後)も、すみやかに、

次元の高い世界へと移行できるにちがいない。

 

秀真伝を編纂した姑(はは)は、”現代病やストレス病と

いわれる、原因があまりよくわからない症状も、凝り固

まっている体の部位に順気を流すことで改善される”

と著書の中で述べている。

 

秀真伝えには、まだ、このお話しの続きがある。

それはこの詔(みことのり)は天照大神が発せられたのだが 

信濃の国を守る諏訪の神が次のように大神に奏上する。

大神、信濃の国はとりわけ寒さが厳しいため、民は鳥肉を

食して寒さを防いでいます。

鳥肉を食することのお赦しをいただきたい。”


そこで、天照大御神は改めて制度を見直された。

それは、

“魚は人に合うものが40種類あるが、これを一度食べる

ときは、三日間はスズナを食し、水鳥を食すたびに、

21日間はスズシロ(大根)とスズナによって、邪火を

消すこと。 

他の鳥獣を食することは戒める。

誤って 獣肉を食したら、血肉穢れるがために、まかる

(死ぬ)とき、その魂しいは苦しみ迷い、同気相求める

ことから、鳥獣に生まれ変わることもあり得る“

と教示された。

 

何故、稲と野菜が理想的な食物かといえば、秀真伝え

には以下のように記されている。

“稲は日(太陽)の種にして、菜は月の種である。

菊は日と月をもって生じるが故にその匂いは芳しく、

人の両眼は日と月に配するため、菊を食すれば目の玉

が明らかになる。

これは菊と日月と同気を感じることによるのである。

人と神と同気を感じ、相求める。“


つまり、稲~米と 野菜はそれぞれ 太陽(陽の気)

と月(陰の気)からできているので両方いただくことで

陰陽の気を補い、さらに、食用菊は、双方の気を持って

いるのでそれを食することで視力が明らかになる効用を

持っているというのだ。

 

このことから菊が皇室の御紋章になっているという説も

ある。

私たちは寿司を好む。

魚を主体とした寿司には必ず、生姜が付け合せでついてくる。

味噌汁にはネギ、そして、たびたび大根おろしなどで、サバ

などの焼き魚をいただく。


薬味(やくみ)=薬の味 と言われるだけあって、

古代の常食の中にもこの記述がみられることが興味深い。 

私は これまで、30か国以上の国を旅し その国固有の

料理をいただいてているが、このような 類(たぐい)の

薬味を付け加えいただく、国民食には出会ったことがない。

 

私たちの現代の食生活の中にも、”日本古来ゆかりの

食生活”の智慧と伝統が今でも こんなところにに、

垣間見られるような気がする

 

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