自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

意識の飛翔(5)宗教とスピリチュアリズムの違い

2024年10月15日 | 健康のための心の波動


癒し は宗教から来るか?----
*********************** 2024/10/15


 
病気などで苦しむ人に対して、
"癒しは この宗教から来るからぜひ入信を"
と薦められて、入信する場合が多いと聞く。

あるいは、”奇蹟”をかかげて、
”多くの人がこのように救われている”と
事例をあげて、勧誘する某宗教の信徒さんもいる。

実際、それらの奇蹟は起きているだろうし、
その信仰で、病が癒されたということも
有り得るだろう。

では、その癒しはどこから来たのだろう?

*************

癒し は、その宗教の教祖や、”特定の神或いは仏様”
恩寵として与えられると、考えられている。

たとえば、キリスト教徒が、ルルドの泉に巡礼に行き、
病を癒す。

ご神水の波動で、気を整える。

が、私は、究極の癒しは、個人の持つ、生命力の源泉から 
もたらされると思う。
そう、考える方向性を、スピリチュアリティと呼びたい。

では、スピリチュアリティーとは? 
宗教との違いは何だろう?


前者は 自分の深い内面にある、純粋な魂や
生命力への強い信頼、

後者は 特定の神や教祖に対しての深い信頼
をさすのだろう。


病や不幸が、信仰で改善されることはある。

それは、一見、教祖や神に対して、一途な祈りが、
通じて、治ったと映るだろう。

が、宗教は、きっかけに過ぎないと私は思う。

宗教は、本来、神頼みのために存在するのでない。

宗教で病が癒されたとしたら、人が人の本質である、
神聖で純粋な資質に、気が付き、到達するための、
手段だと思うからだ。

どんなケースでも、病の改善は、薬や信仰がきっかけ
になるにせよ、人の内側にみなぎる、生命力という
本当の癒しの元が、発動したからにほかならない。

自分の生命力を掘り下げると、どこにたどりつくの
だろう?

最終的に自己の本質、にたどりつくのだと思う。
自己の本質を探って行っても、生命力を掘り下げて
いっても、コインの裏表のように、両者は、同じもの
なのだから。


だとしたら、生命力の本領が発揮されないと、人は
病になるのだろうか?

ある意味、YESだろう。

生命力は、三次元に通用する、エゴ意識とは無関係
だから、意識を変えないと、生命力を駆使することは
難しい。


生かす力・・・これは、言葉を変えれば、”神の資質”
”宇宙の本質” ”生死に関係なく存在するエネルギー”
でもある。

だから、神を、どこかのお寺や神社の像に、置き換える
必要はない。

自分自身の、魂に鎮座している、”私自身”が、生命力
であり、神の資質であるのだから、自分自身の魂の
奥宮にある廟を、開ければ、神はそこに座している。

以前、ご紹介したように、合気道の創立者、植芝翁
は、それに関してこう話している: (*1)

”人間の真実は神そのものであるのに、
小我の想い(業や執念)に邪魔されて、その姿を
深く奥に隠しているのです”


このことは、善き宗教の本質に説かれていること
でもある:

”人は神なり”(ホツマツタヱー超古代神道)
”すべての人に仏性あり”(仏教)


それが本当に理解されるとき、意識の変容が起こり、
奇跡が起きる。

その人の、人生そのもの、環境、考え、主義すら
変えてしまう。

自分が”神”の資質を、受け継いでいる力強い、愛深い
存在だと、分かったその瞬間、その人の心は、次元を
超えた、飛躍超越をするからだ


自分の内外の世界の観方が変わる。

観方が変わると、創造的エネルギーが生まれる。

創造的エネルギーに合った環境をひきつける。



さなぎが蝶になるように、地下の芋虫のようなセミの
幼虫が数年後 地上に出て、羽化して、木で生命の
歌を詠い始めるように、三次元のエネルギー態が姿を変えて
異次元に飛翔して、精神の変容(トランスフォーメーション)
が可能になる。

この変容が、古い常識を取っ払い、外部にも変革を与える
ことがある。

たとえば、今までの大いなる宗教の開祖たちも そういう
意味で、”変容”をとげて、 それまで存在していた既成宗教
を新しい宗教体系に変えてきた。

例えば、キリストは旧約聖書(ユダヤ教)の世界観から
トランスフォーメーションさせたキリスト教を開いた。

釈迦は、古代インドバラモン教を変容させて
仏教を開いた。

マホメッドは、当初は、旧約聖書のアブラハムを
コーランに登場させて、キリスト教と兄弟関係にあると
教えた。

が、其の後、自らの教えのアイデンティティを明確に
して、キリスト教とは完全に別な宗教である
イスラム教として、トランスフォーメーションさせた

この背景には、当初、マハメッドが岩屋にこもり、
トランス状態で様々な、言葉を受けた時、その伝え手が
キリスト教に登場する、有名な天使だったからである。


このように、現代も 多くの信者をもつ これらの 
世界的宗教は、当時の形骸化した既成の教えに 
新しい息吹を吹き込んで、その時代と場所に適した
教えに、古き教えを、変容させた。


現代はどうだろうか?

科学と精神主義との融合はあり得るのだろうか?

アインシュタインは、”精神性のない科学は傲慢になり、
科学のない精神性は おろかになりやすい” と
いうような意味の言葉を残している。

医学を例にとれば、心と肉体は二元化されてきた。

検査をすれば、それぞれの臓器や器官はそれぞれの
専門分野担当医師が行い、統括的な有機的な身体の
繫がりは、おろそかになっていた。

しかし、昨今は状況が変化してきた。

東洋的一元思想に影響を受け、心身一如を説く医学が
見直され始めた。

心と体は切り離して考えることは 難しいという
観方が受け入れられ、心療内科のように 心と病の関連性
に焦点を当てた 医療が、一般的になった。

創設者の、池見博士は、そういう意味で、西洋哲学と
東洋哲学を 融合させてトランスフォーメーションを果たした。

心身の関係を展開させ、心のバランスを整えて医療に実践した。


さて、話を戻すと、’宗教とスピリチュアリズム’の違いは
宗教では、”神頼み”という言葉があるように、ご利益を
求めるが、後者は、”精神の変容”を期待することは、
これまでの述べてきた通りだ。。

もっとも、精神が変容すれば、エネルギーが変るので、
期せずとも、ご利益は自然と得られる。

自分の欲するものや人、環境が、そのエネルギーに応じて
整うからだ。

スピリチュアリズムとは、そういう意味では、とても
現実的な 思いや願い事を実現させる手法のような気もする。 


*1)
昭和34年1月15日、鏡開きの日に合気道本部道場での講話




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今 が苦しいとき、こんなふうに、意識を・・・(2)

2024年10月03日 | 健康のための心の波動


体質も、環境も 性別も、生まれる前の私の選択
2024/10/03
*********

おはようございます。

前回(9月30日)の記事の補足です。

***********
指導霊でもある天使たちと、これから生まれる生の
設定を、決めている・・・

私たちの 霊魂-意識態 には、死はない。

輪廻転生、何度も何度も、この三次元の地球界に
生まれて来ている。

生まれてくる前、”子は親は選べない”という、通説とは、
真逆なことが、起きている。

私たちの意識態は、今度生まれるときの、人生設定を
選んでいるのだ。

生まれてくる ということは、まだ、地球界で人間服を
まとって行うべき ”何か” が残っているからだ。

この”何か”を、カルマと呼ぶ。

過去の人生の決算書で、帳尻があっていないところを、
補う。

バランスシートの数字がゼロになれば、カルマ清算は
クリアーになり、もう、生まれ変わりからは、卒業する。


よく、天才児とか神童と呼ばれる子供たちがいる。

実年齢は、5歳だが、一つ前の′生’年齢を加えると、
98歳かもしれない。

その生では、彼は、偉大な科学者、音楽家、小説家
舞踊家、エンジニア・・・であったのかもしれない。

つまり、過去生で、為しえた偉業をそのまま、
遺伝子の中に残して、生まれてくるケースである。


彼らの抜きんでた才能は、幼児から開花される。

あるいは、人生のどこかの地点で、何かのきっかけで、
それが世に知られる設定になっている。

生まれ持った才能を生かすのは、’世のため、人の為’、
だけに限らず、もしかしたら、本人が、’慢心にならず、
謙虚さを学ぶ’ための、プログラムのためかもしれない。


② 
人生テストに点数がつくとしたら、火あぶりの刑など、
苦しみが大きいほど、得点が加算される

’人生テスト’ ということは、言葉を変えれば、
”この三次元の物質的生活の中で、魂を高めるための、
試金石” といえるだろう。

火あぶり だけでなく、火事で焼死したり、原爆や
戦争の’劫火’ の中で、亡くなる肉体は、とてつもなく、
深い、浄化の洗礼を受けることができる。

なぜか、水死より、焼死のほうが、魂の昇華点数が高い。


次回の生の 死に際はどちらかというと、暴力的な
ものにしかならない。

死に際 の ”死に方” も、生まれる前に決めた
シナリオに書き添えられる。

以前、南インドの聖者の子孫の守る、”アガスティアの館”
へ、自分の運命の葉を開いてもらいに、デリーから
飛行機を乗り継ぎ、半日かけて出向いたことがある。

同席した友人の 運命の葉から、”家族に見守られながら
最期を迎える”という一節が、読み上げられた。

これは、順調に、特別の背反的行為を本人が選ばないで
生きている限り、こうした穏やかな、死を迎えるという
予言でもあった。

’暴力的な死に際’、というのは 具体的には、さまざまな
予測があるが、これも、それによって、本人の魂の負債の
消化に貢献するなら、いたしかたない。


体力は 下、
美しさは 上、視力は 上、声質は 中、
カリスマ性は 特上、
ウイットは 下、
嘘つく才能は 上、
技術は 下(たとえば、洗濯機の操作が上手くない
とか運転が下手だとか)、
知性は 中、
誘惑能力は 上、
忍耐力は 下、
根気は 上、・・・etc. 

これらの’性格や性質’ もまた、産声をあげる
ときにはすでに、自ら、選び、決定している。

これは、でも、過去生の自分の性質や性格と無縁かと
いえば、そうではない。

どんな性格も性質も、長所は短所に、短所は長所
になりえるのだから、過去生から引きずってきた
短所を、今生では、長所にさせるという課題も
あるのだろう。

あるいは、過去生で、’気が長く鷹揚’だった人が、
今生では、’気が短く、怒りやすい’性質を選んでくる
場合も、あり得るかもしれない。

こうして、様々な、性質・性格の人間を演じることで、
他者への理解を深めるという、課題をもうけているの
だろう。











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今 が苦しいとき、意識を飛翔させてみて!

2024年09月30日 | 健康のための心の波動



こんなふうに・・・・😀😔 😊  

******************2024年10月1日


以下は、9年前に書かれた記事です。

今日、私はこれを読み直して、なぜか、気が楽になり
ました。

今、自分が考えたくなくても押し寄せてくる、様々な
この世の不幸や不条理、戦争や災害地からの慟哭の
想念の波を、どう受けたらよいのか、が、示唆されて
いたからです。

スピリチュアリズムについて、書いている時ですから、
これも、関係のある内容でしょう。

今、ここに、生前に、霊体の自分自身で想定した、
人生歴を 今ここで、なぞっていると考えられたら、
今、起きていることは、すべて起きるべきして起きて
いると、受容できる・・かもしれませんから。

受容してこそ、それに対峙する勇気や力も、湧いてくる
のですから・・

ご紹介させていただきます。


2015・10・8
**********************************

ここに、ある魂がいる。
指導霊でもある天使たちと、これから生まれる生の
設定を、決めている最中である。

この魂は、最後に天使たちから、‘次の生の死について’
選択を迫られる。

次回の人生予定では、こんな体験をしてみる?というように・・

たとえば、

自動車事故? 
コカインの過料摂取? 
失恋させた相手に殺される? 
ベランダから偶然に落ちてきた落下物にあたって死ぬ? 
溺死? それとも自殺?

人生テストに点数がつくとしたら、火あぶりの刑など、
苦しみが大きいほど、得点が加算されるという。
 
500点という加点があるので、火あぶりされたカタリ派
(1112世紀の黒魔術、いわゆる魔女)の多くが 輪廻転生の
サイクルを終わりにすることができました。” 
 
現代では、それに代わって冤罪など 
“無実の罪で電気椅子に掛けられた人”
癌患者で“全身に転移した場合は300点以上の加点になる
という。

これは物語上の話だが、実際、自ら命を絶つより、他者
を助けようとして殉死した魂は、加点が高いのも納得できる

語弊があるかもしれないが、広島長崎で犠牲になった人達も、
きっと、天国で極上の加点を与えられているような気が
してならない。

むごい原爆の犠牲になることで世界の人々に平和を、
核兵器放棄を、戦争反対の大きなメッセージを 後世に
ほぼ半永久的に、残してくれたからだ。
 
生命は永遠だと、賢者はとく。 

肉体は一瞬にして奪われてもそこから脱した瞬間 
生命は文字通り生きた命として違う形で
復活するという。

原爆の犠牲者の方達は 熱い地獄のような火の海から 
愛の手で天上に引き上げられる瞬間、

すでに苦しさは取り除かれ、安寧と、静けさと喜び
の中に 天使たちに誘われて天国に上っていくヴィジョンが
私の脳裏には、はっきり映る。
 
さて、話を基に戻すと、選択を迫られた“魂”は天使
にこう答える:

“わたしは加点はいらないから、さっさと死にたいですね。
夜寝付くときは生きていて、
朝おきたときこと切れているとか・・”

それに対して天使は

“残念だが、ドチュウ―さん(須田注:この魂の名前は 
ドチュウ―だった)あなたの現在の得点、マイナス230
ではそれほど快適な死を提供できません。

次回の生の 死に際はどちらかというと、暴力的な
ものにしかならない。

それも、あなたの描いた絵画作品に、何らかのオーラを
与えるものになるだろう“
 
ここで天使は一人の有名な画家の名前を出す。
ヴァン・ゴッホだ。

力強いタッチで原色に近い色を選び、点描したその絵は 
有名な“ひまわり”の作品をはじめとして、同じ印象派の
ルノワールやモネなどと、異なる“情熱”を示している。

彼は極めて多くの作品を残し、名前も世に出ないまま、
作品を、姉に託して死んだが、当時はほとんど評価されず、
姉も、がらくたをもらったぐらいしか思っていなかった
ようだ。

現代では、億もつく単位で売買されるようになった
彼の絵は、数奇な運命をたどって天国にいるゴッホの目に
どう映っているのだろう。
 
天使はこうつぶやく

“ゴッホは良く描いた。多く悩み、苦しみ 死んでいった。

しかし彼は純粋な霊に戻り、苦しみの生で600点加点されて、
輪廻転生のサイクルを終わらせることができたのだよ。”
 
その真偽は もちろん、わからない。が、この言葉は、素直
に心に残る。

ゴッホは、狂気的に、自分の耳をそぎ落とした人だ。

たぶん、うつ状態から統合失調症的な精神状況で苦しみ、
悶々とした最後だったのだろう。

自画像をみると、鑑賞者を見つめぬく瞳には、深い湖の
暗さの中の鋭い閃光を感じるようだ。

余談だが、ゴッホは私の最も惹かれる画家のひとりだ。
 
オランダで、彼の作品を掲げた美術館を訪れ、ゴッホの
揺らぎ多いがゆえに求めた“光”が随所に輝く多くの作品に
触れ感動した。

この“光”こそ、モネやマネ、ルノワールの平和な光と異なる、
異色性をもつ、美と狂気の両極端を揺れ動く“人間の魂の幅”
を示したものだと感じた

だからこそ、多くの人たちを魅了することもうなずけた。

私たちは どんな人間でも、結局“光”を求めているのだ。

太陽の、月の、心の、そして本来の人間の細胞原子のミクロ
の世界にきらめく生命の光を。

その”光の点”を描き続け、それを見る人達に 生命と
生きていることを感じさせるエネルギーを与えてくれた
彼の功績は、確かに大きなものがあったのだと思う。
 
話がそれてしまったが、ドチュー氏は 結局 自殺”を
選択した。

カミソリでバスタブのぬるま湯で動脈を自ら切る~
という選択だ。

天使は次回の彼の人生の、シナリオの大筋を以下のように
まとめる;

では最後に。

あなたは次世で、女性として生まれ、

体力は 下、
美しさは 上、視力は 上、声質は 中、
カリスマ性は 特上、
ウイットは 下、
嘘つく才能は 上、
技術は 下(たとえば、洗濯機の操作が上手くない
とか運転が下手だとか)、
知性は 中、
誘惑能力は 上、
忍耐力は 下、
根気は 上、
料理才能は 下、
怒りっぽさは 上、
楽器演奏能力は 下、
ピストル射撃能力は 上、
スポーツ志向は 下、
出産願望は中、喧嘩の才能は 上、
泣き真似の才能は 上、
冒険志向は 下・・・“
 
 こうして、この魂が、次に生まれてきたときの性格や人生
を形成できる詳細な、設定がここで決められた。

こうしたことまで決める必然性はあるのかどうか・・・?

ちょうど、それは、演出家が、ドラマの登場人物の
役柄を設定するにあたり、明晰にその役柄を演じる
役者が演じやすいように、細かく‘実際存在しているが如く“
リアル性をだすために、描写設定をするのに似ている。

だから、今の、私たちの性格が、多少ひねくれていても、
欠点があっても嘆くのに値しないということかも
しれない。

反対に、相手が同様であっても、受け入れられるはずだ。

なぜなら、今の生を生きるにあたって、現世舞台を演じる
ための”人柄”まで 私たちが自ら、事前に設定してきたの
だから・・・

そうした設定によって、私たちの魂が、この現世で学ぶ
”何か”が、得られる条件なのだから。


さらに、この世で受ける試練や、苦しみ、不条理でも人の
ために為す行為への報復、などなど、戦争や災害を含め
無情にも、命を落としたように見えていても、そこには、
魂の加点があり、無駄死ではなく、その魂の次の新しい
人生設定に 必ず、影響を与えるものだとしたら?

だとしたら、今の自分は、そうした設定してきた役柄を
演じながら、どこまで、自分の人生の使命を全うできるか・・

そこに集中するしかないだろう。

そして、すべての人たちが設定を変えて生まれてきている
以上、自分が理解できない、相手のハンディも欠点も、
負い目も長所も含めて、偏見や憎しみを、愛のある観方に
変えていくことが可能になるだろう。

結局、お互い様ななのだから・・・

それが、この劇の完成度を高める秘訣のような気がする。
 
 

引用部分 
 “タナノート” ベルナール ヴェルベール、
日本放送出版協会、1996


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状況に振り回される虚しさが作る症例②

2024年08月26日 | 健康のための心の波動


自分って何?自分軸を見失いそうになったときの行動
8/26/2024
*************************

ごく普通の現代人の日常で、心の真の要求に目を閉じて
”隠れ蓑(みの)的” に、余暇を楽しむことを、池見博士
は指摘していた。

つまり、自由な時間ができたとき、人は、自分の内側に
目を向けるのではなく、外側に目を向けて楽しみを探す
ということだ。

誰でも、人は、本質的な自己を求める” という。

その時点で、心の内側に、目を向ける。

が、それは、決して楽しいことではなく、自分の嫌な
に向き合うことだから、煩わしい、面倒なことでも
ある。

ならば、嫌な自分を忘れ、気になることも、忘れるために、
レクリエーションの時間に、好きなことをして、気分転換
をはかろう~それが普通だ。

が、”自分の内側を見つめる”・・・それが、池見博士の
療養法”セルフコントロール”にもつながっていくという。

そして、その、アプローチを余儀なくされることは、 
長い人生、誰にでもあるという。

共通していえることは、老若男女を問わず、たとえば、
ふっと、何か、心寂しさを感じるとき・・・


経済的にも家庭的にも安定しているのに、声をたてて
笑っている時の、心の裏側によぎる、理由なく、満たされ
ない想いに気づかされるとき・・

 
”自分のほんとうの資質は?・・自分をヒトに合わせて生きる
のは疲れた”

”生きる目的は?・・周りの期待に背いても、自分らしく
生きられる強さがあるだろうか・・・”
  
・・・人は、毎日、仕事や家事に追われ、そんなことが
頭をよぎっても、日常生活の中では、ルーティーンを
こなすことで精いっぱいだ。

だからこそ、レクリエーションの時間を大切に、日頃の
”疲れ” と ”ストレス”を発散して、また、普段の生活
の難儀さを進むエネルギーを得たいと思う。
 
しかし・・リクリエーションで活力を取り戻しても、それは
一時的なこと・・・わかっていても、内面に感じている
自分のほんとうに知りたい疑問” には、触れずに、ふたを
して置こう・・・と、目をつぶる。

自分を見失っている限り、時折、頭をもたげる”虚しさ”は 
一時的に忘れられても、必ず、再び、頭をもたげるだろう。

それが積もり積もって、いくと、どうなるだろう?

心療内科第一人者の、池見博士はそんな状態の患者の
症例の一つを 例に出す:

“何かを食べていると、そのような心の苛立ちと
空しさを、ごまかせることに気がついてくる。 

やがては、食物を喉まで詰め込まないと落ち着
かなくなる。

ひどくなると、食べては吐くという繰り返しになる。 

病的になっていく場合も、その根源には、心に
満たされない何かがあるからだ” 
 
”心に満たされない何か”を抱えたままにしておくと、
病的な症状があらわれるという。

さらに、こうした ”本当の自分の心の声”に蓋をしたとき
以下のような病の原因にもなるという。

いくつか、ご紹介したい。
 

1.  胃潰瘍 ~ 

“何のための事業なのか?”という意味を考えずに
事業欲、物質欲だけが独走して、胃潰瘍の再発
繰り返している患者がいた。 

幼児期に家が没落して、祖母から人生の出世コースを
行くように、厳しく、言い聞かされてきた。 

今でも、その患者の心に、祖母の叱咤激励の声が心に、
響いているという。

その患者は、際限なく事業の手を広げたために
(祖母の教えを守って)家庭を顧みる時間が少なくなり、
子供たちは非行にはしり、妻は忍従一筋の、冷たい家庭
しか築くことはできなかった。

家庭を顧みる余裕がなかったことが、最大の原因だった。
そんな自分自身の心の調和を図ることで、症状はだいぶ
和らいだ。
 
                              
2.  慢性下痢 ~ 

アメリカに留学した学生。

医師は患者の下痢を神経性の下痢と診断したが、
本人は、納得がいかないという。

友人たちも多くでき、学校も面白く、恋人ともうまく
いっているという、

環境適応が十分にできていて、神経的になることは
何もないともいう、

しかし、結局、慢性の下痢は、適応すぎることによる
“不適応と診断された。

日本と異なる、アメリカの文化に対して、せっかちに
表面的に適応しようとしたあまり、本当の自己(内面)
の本質を忘れ、無理した外的適応による“不適応”が
症状の原因と判断された
 
3,アルコール依存症~

妻であり母である50代前後の女性。

2年間 特別な施設にはいって、禁酒のためのトレーニング
を受けていたという。

ひとまず、状況も落ち着き退院してきたものの、やはり、
味醂やら料理酒、アルコールの入っている身近にある
調味料まで口にしたくなるという。

一口飲むと、もう止まらない。
せっかく、禁酒ができたはずなのに・・と再び
お酒に手を出したその女性に、その理由を問うと、
”さみしい。むなしい”という答えが返ってきた。

お酒が私の聞き役をしてくれるの・・そんな言葉も出た。

病的になっていく場合もその根源には、心に満たされない
何かがあるからだ” 

という池見博士の言葉は、アルコール依存症の人達にも
言える、
******************


”心に満たされない何か” は 何か??

”心が満たされない”・・その”心”は、誰の心?
答え~自分の(私の)心

”自分”は何をしたら、満たされるの?”
答え~XXXXXXX

XXXXは 人それぞれ、異なるし、正解はないだろう。

少なくても、自分は何をしたら、本当に満たされるのか?

それを、ゆっくりと、瞑想でもしながら、自問自答する
ことも 有意義かもしれない。

”本当に満たされる”、それは、一時的な気晴らしや、
現実逃避ではなく、”これさえあれば、満足だ”という
自分の心からの願いが満たされている時だろう。

それも、時が移れば、変わっていくかもしれない。

変わっていくのが当たり前だろうし、その時々の
本当に満たされる と思う事を追求していけば、
ついには、”本当に満たされる”ものが何か、わかる
だろう。

ただし、真摯に追及の手を緩めない事・・
それは、自分の心の奥へ奥へと、掘り続けられるから。

その井戸の源泉のような、枯れない地下水(生命力)
の大本にたどりついたとき、”その人の満足”が、何か?
・・・が、現実に顕れ、自分の欲する状態を、ぶれること
なく見つめることができるだろう




******************* 
*    池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう)博士について:
(大正4年(1915年)612 - 平成11年(1999年)625日)
 日本の心身医学、心療内科の基礎を築いた草分け的な日本の医学者。

旧制福岡中学(現福岡県立福岡高等学校)、九州帝国大学医学部卒業。
 戦後、アメリカの医学が日本に流入した際、心身医学の存在を知る。

 昭和27年(1952年)にはアメリカミネソタ州のに留学し、帰国後、
日野原重明、三浦岱栄らと共に昭和35年(1960年)日本心身医学会
を設立し、初代理事長になる。

 翌昭和36年(1961年)九州大学に国内最初に設立された
精神身体医学研究施設(現在の心療内科に当たる)教授に就任し、
内科疾患を中心に、心と体の相関関係に注目した診療方法を体系化
実用化に尽力した。

 九州大学医学部名誉教授、自律訓練法国際委員会名誉委員長、
日本心身医学会名誉理事長、
 国際心身医学会理事長、 日本交流分析学会名誉理事長などを歴任。

書に「心療内科」、「セルフコントロールの医学」などがある。
 平成11年(1999年)625日肺炎のため、福岡市内の病院で死去。
84歳。 
 
参考)
 ”セルフ・コントロールの医学” s・57年9月1日 日本放送出版協会
 
 
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神経症 と 育児背景 

2024年06月30日 | 健康のための心の波動


池見博士と自然治癒力セラピー協会の考え方の接点(1) 2024年6月30日
*******************************************

今日から数回にわたり、池見博士の診療の指針と
自然治癒力セラピーの健康へのアプローチとの、
接点を考えたい。

前置き)
池見博士は、私の知る限り、最も尊敬する医師である。

自分の最期は、(一般的な西洋医術では自分は納得
できないし)、(解剖に回されたり警察に引き渡されたり
する手間がないように)(さらに、家族への説得のために)
心身医療に特化した池見博士のような医師に
ご協力いただいて、自宅で静かに息をひきとれたら理想的
思っていた。

心療内科を日本で設立された博士は、すでに天国
へ旅立たれた。

心療内科は、その後、各病院で増設されていったようだ。

創立者の池見博士のような、極めて、スピリチュアル的
(あえて、この言葉を使うが)で、心理学的な奥深さと
医科的専門知識を兼ね備えた、達人を、私は知らない。
今日のお話は、博士が特有に分類した”人の心”について・・

******************
池見博士は、人の心を、三つのパートで呼んでいる。

イ)P(parent) = 親の心

~理想や良心を司る心、
周囲への思いやり、
 
Pの二面性:
①無条件の愛に近い、母親的なP
②正義に反した事への批判、叱責、処罰を行う、
父親的要素のP
  
ロ)A(adult)=大人の心
~主体的自我で、創造的な営みを司る。 
現実的適応と、個性に即した自己表現を行う。

ハ)C(child)=子供の心

~・本能的な欲求や、感情を含み、生命活動を司る。
そのための二つの基本的原理、ホメオスターシス*と、
ふれあいを求める

・愛情を繋げる役目、順応的な自分。
-------------

池見博士は、病状を分析して、その原因は、人の心に
起因することを知り、上にあげた、三つ心のパーツの、
バランスや、家庭環境での影響を吟味して、心療的に
そして西洋医学の内科的に、治療をすすめた

(私たちも、自分自身で、この三つのパーツを理解して、
バランスを取るための、コントロールができれば、症状の
緩和や、日常の健康管理も、可能になるだろう。

なぜなら、調和した心の波動こそが、自然治癒力を発動
させるエネルギーだからと、この協会では考えるから。)

たとえば、とても神経質な人がいる。

イライラや不安が、強いため、ストレスに弱い、胃腸が、
常に不調だ。

こうした症状の患者に対して、池見博士は次のような所見
を述べる;

”赤子や幼児期の初期に、親から十分にスキンシップを
与えられていない子供たちは、成長してから団体の中に
なかなか溶け込めない。

友人をつくることが苦手で、対人恐怖症になったり、一人で
パソコンが唯一の遊び相手となる。 

ゲームに興じたり、常にパソコンをにらめっこしていることで、
何となく、安心する。

その結果、自分の順応できる周囲が狭まり、必要以上に外部
の刺激(対人関係を含む)に神経質になりがちだ。

また、相手との協調性がないため、どのように対人関係
をこなすか、わからないまま大人になって、社会生活に
なかなか馴染めない人達は、少なくない”


さらに、神経症が嵩じた発達障害と言われる人たちは、
”職場でうつ病になりやすい。
共通している環境は、幼児期の、母親とのふれあいが
少ない。” 

これは、一世代の問題には留まらない。
なぜなら、そうした子供が大人になり、家庭をもったとき
その影響は、次の世代の子供たちにも、波及するからだ。

”そういう、子供が母になったとき、自分の赤子にも、
愛情を感じられず、育児の最中、イライラ感を募らせて、
育児拒否や家庭内暴力(子供に対して)が 起きたりする。

という、ケースが少なくないからだ。

この例でわかることは、”親から十分にスキンシップを与
えられていない子供”は、上の表でいう、Pの部分が
欠落している。

サルの実験でもこれは証明されたが、乳幼児期に親との
スキンシップが十分に与えられた場合と比べて、
成長ホルモンの分泌が悪く、成長して精神の安定度が、
低いということになる。

では、神経質症的な要素が、こうした原因からできたと
分かった場合はどうしたら良いのだろう?
それは、また、後程、池見博士流の方法をご紹介したい
と思う。

続く・・・


参考)
”セルフ・コントロールの医学” 池見酉次郎s・57年9月1日 日本放送出版協会
”ストレス健康法” S.50 池見酉次郎 ㈱潮文社
”セルフコントロールー交流分析の実際” 池見酉次郎 杉田峰康 2007年創元社
”続心療内科” 池見酉次郎 1973年 中央公論社
”心療内科” 池見酉次郎 1963年 中央公論社





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