自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

アメリカの建国精神とスピリチュアリズム(1)

2025年02月01日 | 健康のための心の波動


合衆国の象徴絵柄の示す“真理”とは?
******************

上の絵柄は、合衆国一ドル紙幣の裏の絵です。
図案は、1931年にルーズベルトによるもの
ですが、この、ハクトウワシが国鳥に
選ばれたのは、1782年 ですから、独立宣言
をした数年後の、ことです。

胸に紋章を当てた鷲(わし)が羽を広げ、
口には、”E Pluribus Union" とラテン語で
表記されたリボンを口にくわえています。


この鷲は、13枚の尾羽と 右足に13の果実を
つけた13枚の葉の、小枝を握り、左足は、
13本の矢を握っています。

頭上には、丸い雲の中に13の星が輝いてます。

ここに、スピリチュアル的な意味が感じられ
ます。

その理由が以下です;


まず、ここに描かれている””という鳥は、
鳥類の王でもあり、人の心や感情の中でも
最も、崇高な”神的魂の実相”を象徴している
と言われます。

キリスト教的には、聖ヨハネのシンボル
でもあります。

歴史的には、最初の草案では、
鷲 の代わりに、不死を表す、不死鳥
フェニックスが使われてたようです。


次に、13という数字は、古代の聖徒に
とっての、神聖な数であること。

合衆国が13の州に分れているというのも
その理由でしょう。

そして、最初に書いた、鷲がくわえている
リボンに書かれた、ラテン語の文字の
意味は、

”多より一”(たよりいち)であること・・・

”多より一” というのは、インド古典聖典の
ヴェーダの真理である、
”一即多” (いっそくた)の意味にも
重なります。


一即多 というのは、一つの起源(神)から、
すべてが有り、多くの異なる形態の万物も
元に帰れば 一 に帰結する・・という 
一元論的発想 です。

一者(神)が、多者を通じて、現れ、
一者は、多者によって、成り、多者のために
存在する

という意味が、
神と人との関係でも同様であることから、
スピリチュアル的な言葉と解釈されます。


さて、コロンブスが 当時、海図にもない、
新しい大陸を スペインから船出して、見つけ
たのは、
”地球が丸い”という 彼の強い信念から
でした。

この強い信念と勇気と決断力を持った、
コロンブスを信じて、乗船したメイフラワー号の
人々は、

新天地を探して、キリスト教を彼らの流儀で、
礼拝する自由を、求めて海上を進みました。


そして、ついに、1776年、独立宣言を経て、
自由を勝ち取り

上記のような、崇高な を国鳥として、
選び、その建国理念の象徴としました。


ところで、今、新しい大統領が、
”アメリカを かつてのアメリカのような
偉大な国にする
とスローガンを発表しています。

偉大な国・・・

それが建国以来、実現したのは、
鷲に象徴される、
理念あっての結果でした。

建国以来、アメリカが 当初の建国精神を
忘れない限り、神の心に沿った繁栄が約束
された国であったに違いない・・・


当時のフロンティア精神に富んだ 勇気と
信仰深い、建国精神を国民一人一人が
思い出したとき、また、偉大なアメリカが
復活するかもしれない・・ と思うのです。


つづく・・・




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”自分"を知ること;未来の状況の最良の”種”(ヴァイブレーション③)

2024年11月11日 | 健康のための心の波動



’今の状況’は過去の想いの結果・’今の想い’は、未来の状況の種
*****************

病 体調不良 怪我 事故 ・・ これら
すべての出来事は、 マスター〈師〉は、
”偶然で起こるのではない”と、言います。

偶然ではないか、否か・・の命題は、苦しみに直面
している当人にとっては、どうでもよい問題でしょう。

その答えによって、苦しさや悲しみの軽減とは、関係ない
と思うことでしょう。

でも、その”偶然ではない”の言葉の裏に秘められた意味を
知ると、
苦しさも悲しみも、これからは、多少、軽減させることが
できそうな気がします。


なんで ”偶然ではないか?” の理由を 師に問いました。

答えは、 ”すべては、君を救済するために起きている”
というものでした。

救済?

何からの?


それは、”自分自身を忘れている”という問題を解決
させるために・・・


自分自身を忘れていることが、問題になるのですか?

”自分自身をぶれずに意識できれば、周りの事象は
自分がコントロールできるということに気づくから・・

全ての諸問題は、’本当の愛深き自分自身’を忘れている 
という一点から派生していると言っても過言ではない”

と師の答え・・・


そう、苦しさ、悲しさの波に揺られているときは、
’大衆意識’の波に溺れそうなっていくとき。

もし、その時に、自分のサーフインボードでそれを
乗りこなしていけば、 ”本当の自分”への自覚を持ちつつ、
それを逆手に、人生ゲームを乗り越えられるという
ことのようです。

自分のサーフィンボードに乗る・・それが ”本当の自分”
へ意識をむけるということ。


”自分を知る”ということは、
本当の自分がとても”強くて、愛深くて、欲しいものでも
なんでも自然と引き付けられるほどの力”を持っているという
真実を 素直に認め、それを心から、信じるだけのこと
なのです。


この世には、信じられないことは毎日起きています。

死の宣告を受けた患者が、一か月もしないうちに、全快し、

借金で首が回らなかった人が、いつの間にか、経済問題

が解決して、

昨日まで、自殺をしようと考えていた人が、180度
心変わりをはたして、自殺をしたいと思う友人を
止めようと努力していたり・・・

すべてのこうした例は、奇跡ではありません。

心の青写真を変えて可能になったと言います。

どういうふうに?


”自分が、最大の力を発揮したとき、成功が
好ましい関係が、理想の相手が、健全な身体が、
顕現する”

と心から、信じるだけです。


これも、”ヴァイブレーションの原理”のお話です。

ヴァイブレーション=心の出す波動、

それは、根本的に 今の実態を変える力です。

瞬時に変わるか、何度も生まれ変わりながら
変わるか、それは、人様々ですが、”変る”のは、

その人の、ヴァイブレーション=想念 の変化が
そこにあったからです。


前回の記事に書いてあるように、去年の私と
今の私では、肉体細胞は、生まれ変わっていて、
組織的には、別人であり、同時に、精神的にも
同じ、状態であることは ありえません。

人は、毎瞬、想いと感情を絶えず、出し続けて
います。

その一つの想いが、長い時間、維持され続けて
心に根をはるように、定着していき、その人の
精神波動の周波数を、創り出しています。

その精神波動が、”想念エネルギー”として、
今現在の、私が置かれている、立場、環境、
境遇、人間関係、経済状態、職場など、を
自分の創造で、創り上げた、と、いうわけです。

今の周波数は、過去の想いの結果。
今の想いは、これからの周波数の、源です。

だからこそ、今の自分を変える事で、これから
の自分の人生が変化するのですね。


今、この瞬間、感じる想いや考えを、常に
肯定的に、そして、’本当の自分’の資質に
焦点を合わせていれば、

将来、(明日か、来年か、来生か??)必ず、
それが、結果として、この実生活の環境に
現れるというわけです。

そのために、本当の自分 は誰か?に焦点を
当てていくことで、確実に、安寧と平和的な
(周りの状態がどうであるかにあまり左右されず)
心情を維持することが、次第に、できていくのだと
思います。













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ヴァイブレーションの根源(2)シーソーゲーム

2024年11月04日 | 健康のための心の波動




行動が波動を作る・・・11月4日(月)
*******************


今日は、11月1日の内容の続きで、ヴァイブレーションに
関しての内容は、(3)となります。

心がヴァイブレーションを生むようです。
(脳は?となると、感情は、直接は心の諸産物といわれるので)、
心が根源と考えます。

では、その”揺れの種類”はという話になります。
揺れは幾種類もあるように見えますが、根源の感情は
たった、二つのみです。

”愛と恐怖” です。

***********

恐怖の反対は、安心と考えますが、安心はどこから来るか?
といえば、”愛”です。

は、嵐の海に、舟を止めておくための、錨(いかり)
の役目をしますから、どんな状況でも、心は、どこかで、
落ち着いていられます。


は、難しく考えなくても、簡単に表現できるはずです。
それは、誰でも持っているし、自覚するかどうか、だけの
違いです

は、受けるものでは無く、与えるものだからです。

頼ったり、懇願したりして、得られるものではなく、自分から
率先して、相手に与えようとすれば、たとえ、笑顔ひとつでも、
それは  の表現です。

そうこうしていれば、常に、愛 を持ち続けることは可能です。


それが、’恐怖’に対して、対抗する大きな力になりうるか、は、
自覚していれば、理解できることでしょう。


の反対は、憎しみでは?と考えますが、憎しみは”恐怖”から
きます。

誰かから受けた言動が、憎しみのきっかけになる場合、
それは、相手を失う事への恐怖
急に変わったように見える相手への恐怖、
安定していたこれまでの関係の心のバランスを崩される
ことへの 恐怖
などが根底にあるからでしょう。


悲しみは? 

愛と恐怖しかないといわても、悲しみだって、大きな
感情の波と誰もが思います。

でも、結局、それは、”愛の不足感”から来ます。

一番の悲しみは、する人が逝ってしまうこと
でしょう。

その時、’死は表面的な次元の移行で、いつも、
その人の魂は、自分と共にある’という、互いのの確信が
あれば、 ’いつかあの世で会いましょう’と笑顔で語り掛ける
ことも可能でしょう。

悲しんでいては、亡き人は、あちらで、喜んでいないと
笑顔で、思い出してあげれば、その亡き人への最高の
愛”の表現だと感じます。


苦しみは?

恐怖も のどちらか?、その関係性はないように
思えますが、それは、恐怖”からきます。

同じ状況の中で、ある人は、”苦しい”と感じ、ある人は、
”挑戦し甲斐がある”と、とらえるのは何故でしょう?

しいと感じる反対には、それに連想させる、何らかの
恐怖心があるからです。

丁度、注射が怖いと泣く園児が、 打たれる直前に
’痛いのを味わう’という恐怖感に似ています。

過去にそれに似た体験や、苦しさを思い出したとき、
恐怖感の大きさと並行して、苦しいという思いが強く
なるのではないでしょうか。

しかし、どんなに、苦しい場面でも、””があれば、
思ったより、楽に、それを乗り越えられるはずです。

愛する誰かのために受ける苦労が 良い例です。

傍目で どんなに、’苦しそう’に見えていても 本人は、
その行為の中に、’喜び’すら感じているかもしれません。


愛に傾いているか
恐怖に傾いているか

心のシーソーは、今、その、どちらかに傾いて
いるはずです。


今の私は、どちらの割合このシーソーゲームをして
いるのか?
と、
私は、瞬間瞬間、心を見つめるよう、努力してますが
’恐怖’の連鎖は、強いので、難しい時が多々あります。


前回書いた、大衆意識に自分の心が寄り添ってしまうと、
”恐怖”に傾いていくことが多いようです

厳密に言えば、怖い というより、何か、虚しさや、うつ的
などんよりした重い感情が、心に雲のように、覆っていくので
わかります。

あ、これは、よその人達の’恐怖感’の塊(かたまり)に、影響を
受けているかもしれないと感じたら

意識的に、の比重を足すようにします。

恐怖側の傾きが大きくなり、足が地につかなく
(新たな行動さえ億劫で起こせなく)なる前に、何とか、
愛側のシーソーの方に、意識をもっていくわけです。

意識を持っていくだけでなく、思いつく、何らかの
愛の行動を起こそうとします。

私の場合は、それでも、効き目がないときは、
身の回りの場所の、掃除を始めます。

掃除機をかけ、拭き掃除を終えるころには、
部屋の空気が一掃されるのと同時に、心も何か
軽くなります。

すると、自然と、新しい次の”愛”の行動へのヒントが
見つかることが多いものです

たとえば、誰かに喜んでもらえそうなことを
考える・・

これは、良い言葉を、身近な人に、かけたり、
笑顔で対応するだけでも、相手の心が和むことで
こちらも、共有できる、愛の表現の一つでしょう。

よく、天気が悪いから とか、気圧が変化するから、
今朝から気分が冴えない という人がいます。

それも一理はあるかもしれませんが、大体は、そんな日に
は、外からの、エネルギーに感化されやすいか
しれません。


こんな時は、自分に優しく、他人にも優しく、
自分が喜ぶこと、他人に喜んでもらえることを、
できるところから、見つけて、実行してみること
でしょう。

”波動は現実を作る” ということが真なら、逆さも真です。

”行動は、波動を作る” ということです。

の行動は、自然との波動を広げて、それが共鳴して
さらに、幾重にも、広がっていくことで、自分の心も、
いつの間にか、晴れやかに、嬉しくなって
いく・・ようです。





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意識の飛翔(5)宗教とスピリチュアリズムの違い

2024年10月15日 | 健康のための心の波動


癒し は宗教から来るか?----
*********************** 2024/10/15


 
病気などで苦しむ人に対して、
"癒しは この宗教から来るからぜひ入信を"
と薦められて、入信する場合が多いと聞く。

あるいは、”奇蹟”をかかげて、
”多くの人がこのように救われている”と
事例をあげて、勧誘する某宗教の信徒さんもいる。

実際、それらの奇蹟は起きているだろうし、
その信仰で、病が癒されたということも
有り得るだろう。

では、その癒しはどこから来たのだろう?

*************

癒し は、その宗教の教祖や、”特定の神或いは仏様”
恩寵として与えられると、考えられている。

たとえば、キリスト教徒が、ルルドの泉に巡礼に行き、
病を癒す。

ご神水の波動で、気を整える。

が、私は、究極の癒しは、個人の持つ、生命力の源泉から 
もたらされると思う。
そう、考える方向性を、スピリチュアリティと呼びたい。

では、スピリチュアリティーとは? 
宗教との違いは何だろう?


前者は 自分の深い内面にある、純粋な魂や
生命力への強い信頼、

後者は 特定の神や教祖に対しての深い信頼
をさすのだろう。


病や不幸が、信仰で改善されることはある。

それは、一見、教祖や神に対して、一途な祈りが、
通じて、治ったと映るだろう。

が、宗教は、きっかけに過ぎないと私は思う。

宗教は、本来、神頼みのために存在するのでない。

宗教で病が癒されたとしたら、人が人の本質である、
神聖で純粋な資質に、気が付き、到達するための、
手段だと思うからだ。

どんなケースでも、病の改善は、薬や信仰がきっかけ
になるにせよ、人の内側にみなぎる、生命力という
本当の癒しの元が、発動したからにほかならない。

自分の生命力を掘り下げると、どこにたどりつくの
だろう?

最終的に自己の本質、にたどりつくのだと思う。
自己の本質を探って行っても、生命力を掘り下げて
いっても、コインの裏表のように、両者は、同じもの
なのだから。


だとしたら、生命力の本領が発揮されないと、人は
病になるのだろうか?

ある意味、YESだろう。

生命力は、三次元に通用する、エゴ意識とは無関係
だから、意識を変えないと、生命力を駆使することは
難しい。


生かす力・・・これは、言葉を変えれば、”神の資質”
”宇宙の本質” ”生死に関係なく存在するエネルギー”
でもある。

だから、神を、どこかのお寺や神社の像に、置き換える
必要はない。

自分自身の、魂に鎮座している、”私自身”が、生命力
であり、神の資質であるのだから、自分自身の魂の
奥宮にある廟を、開ければ、神はそこに座している。

以前、ご紹介したように、合気道の創立者、植芝翁
は、それに関してこう話している: (*1)

”人間の真実は神そのものであるのに、
小我の想い(業や執念)に邪魔されて、その姿を
深く奥に隠しているのです”


このことは、善き宗教の本質に説かれていること
でもある:

”人は神なり”(ホツマツタヱー超古代神道)
”すべての人に仏性あり”(仏教)


それが本当に理解されるとき、意識の変容が起こり、
奇跡が起きる。

その人の、人生そのもの、環境、考え、主義すら
変えてしまう。

自分が”神”の資質を、受け継いでいる力強い、愛深い
存在だと、分かったその瞬間、その人の心は、次元を
超えた、飛躍超越をするからだ


自分の内外の世界の観方が変わる。

観方が変わると、創造的エネルギーが生まれる。

創造的エネルギーに合った環境をひきつける。



さなぎが蝶になるように、地下の芋虫のようなセミの
幼虫が数年後 地上に出て、羽化して、木で生命の
歌を詠い始めるように、三次元のエネルギー態が姿を変えて
異次元に飛翔して、精神の変容(トランスフォーメーション)
が可能になる。

この変容が、古い常識を取っ払い、外部にも変革を与える
ことがある。

たとえば、今までの大いなる宗教の開祖たちも そういう
意味で、”変容”をとげて、 それまで存在していた既成宗教
を新しい宗教体系に変えてきた。

例えば、キリストは旧約聖書(ユダヤ教)の世界観から
トランスフォーメーションさせたキリスト教を開いた。

釈迦は、古代インドバラモン教を変容させて
仏教を開いた。

マホメッドは、当初は、旧約聖書のアブラハムを
コーランに登場させて、キリスト教と兄弟関係にあると
教えた。

が、其の後、自らの教えのアイデンティティを明確に
して、キリスト教とは完全に別な宗教である
イスラム教として、トランスフォーメーションさせた

この背景には、当初、マハメッドが岩屋にこもり、
トランス状態で様々な、言葉を受けた時、その伝え手が
キリスト教に登場する、有名な天使だったからである。


このように、現代も 多くの信者をもつ これらの 
世界的宗教は、当時の形骸化した既成の教えに 
新しい息吹を吹き込んで、その時代と場所に適した
教えに、古き教えを、変容させた。


現代はどうだろうか?

科学と精神主義との融合はあり得るのだろうか?

アインシュタインは、”精神性のない科学は傲慢になり、
科学のない精神性は おろかになりやすい” と
いうような意味の言葉を残している。

医学を例にとれば、心と肉体は二元化されてきた。

検査をすれば、それぞれの臓器や器官はそれぞれの
専門分野担当医師が行い、統括的な有機的な身体の
繫がりは、おろそかになっていた。

しかし、昨今は状況が変化してきた。

東洋的一元思想に影響を受け、心身一如を説く医学が
見直され始めた。

心と体は切り離して考えることは 難しいという
観方が受け入れられ、心療内科のように 心と病の関連性
に焦点を当てた 医療が、一般的になった。

創設者の、池見博士は、そういう意味で、西洋哲学と
東洋哲学を 融合させてトランスフォーメーションを果たした。

心身の関係を展開させ、心のバランスを整えて医療に実践した。


さて、話を戻すと、’宗教とスピリチュアリズム’の違いは
宗教では、”神頼み”という言葉があるように、ご利益を
求めるが、後者は、”精神の変容”を期待することは、
これまでの述べてきた通りだ。。

もっとも、精神が変容すれば、エネルギーが変るので、
期せずとも、ご利益は自然と得られる。

自分の欲するものや人、環境が、そのエネルギーに応じて
整うからだ。

スピリチュアリズムとは、そういう意味では、とても
現実的な 思いや願い事を実現させる手法のような気もする。 


*1)
昭和34年1月15日、鏡開きの日に合気道本部道場での講話




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今 が苦しいとき、こんなふうに、意識を・・・(2)

2024年10月03日 | 健康のための心の波動


体質も、環境も 性別も、生まれる前の私の選択
2024/10/03
*********

おはようございます。

前回(9月30日)の記事の補足です。

***********
指導霊でもある天使たちと、これから生まれる生の
設定を、決めている・・・

私たちの 霊魂-意識態 には、死はない。

輪廻転生、何度も何度も、この三次元の地球界に
生まれて来ている。

生まれてくる前、”子は親は選べない”という、通説とは、
真逆なことが、起きている。

私たちの意識態は、今度生まれるときの、人生設定を
選んでいるのだ。

生まれてくる ということは、まだ、地球界で人間服を
まとって行うべき ”何か” が残っているからだ。

この”何か”を、カルマと呼ぶ。

過去の人生の決算書で、帳尻があっていないところを、
補う。

バランスシートの数字がゼロになれば、カルマ清算は
クリアーになり、もう、生まれ変わりからは、卒業する。


よく、天才児とか神童と呼ばれる子供たちがいる。

実年齢は、5歳だが、一つ前の′生’年齢を加えると、
98歳かもしれない。

その生では、彼は、偉大な科学者、音楽家、小説家
舞踊家、エンジニア・・・であったのかもしれない。

つまり、過去生で、為しえた偉業をそのまま、
遺伝子の中に残して、生まれてくるケースである。


彼らの抜きんでた才能は、幼児から開花される。

あるいは、人生のどこかの地点で、何かのきっかけで、
それが世に知られる設定になっている。

生まれ持った才能を生かすのは、’世のため、人の為’、
だけに限らず、もしかしたら、本人が、’慢心にならず、
謙虚さを学ぶ’ための、プログラムのためかもしれない。


② 
人生テストに点数がつくとしたら、火あぶりの刑など、
苦しみが大きいほど、得点が加算される

’人生テスト’ ということは、言葉を変えれば、
”この三次元の物質的生活の中で、魂を高めるための、
試金石” といえるだろう。

火あぶり だけでなく、火事で焼死したり、原爆や
戦争の’劫火’ の中で、亡くなる肉体は、とてつもなく、
深い、浄化の洗礼を受けることができる。

なぜか、水死より、焼死のほうが、魂の昇華点数が高い。


次回の生の 死に際はどちらかというと、暴力的な
ものにしかならない。

死に際 の ”死に方” も、生まれる前に決めた
シナリオに書き添えられる。

以前、南インドの聖者の子孫の守る、”アガスティアの館”
へ、自分の運命の葉を開いてもらいに、デリーから
飛行機を乗り継ぎ、半日かけて出向いたことがある。

同席した友人の 運命の葉から、”家族に見守られながら
最期を迎える”という一節が、読み上げられた。

これは、順調に、特別の背反的行為を本人が選ばないで
生きている限り、こうした穏やかな、死を迎えるという
予言でもあった。

’暴力的な死に際’、というのは 具体的には、さまざまな
予測があるが、これも、それによって、本人の魂の負債の
消化に貢献するなら、いたしかたない。


体力は 下、
美しさは 上、視力は 上、声質は 中、
カリスマ性は 特上、
ウイットは 下、
嘘つく才能は 上、
技術は 下(たとえば、洗濯機の操作が上手くない
とか運転が下手だとか)、
知性は 中、
誘惑能力は 上、
忍耐力は 下、
根気は 上、・・・etc. 

これらの’性格や性質’ もまた、産声をあげる
ときにはすでに、自ら、選び、決定している。

これは、でも、過去生の自分の性質や性格と無縁かと
いえば、そうではない。

どんな性格も性質も、長所は短所に、短所は長所
になりえるのだから、過去生から引きずってきた
短所を、今生では、長所にさせるという課題も
あるのだろう。

あるいは、過去生で、’気が長く鷹揚’だった人が、
今生では、’気が短く、怒りやすい’性質を選んでくる
場合も、あり得るかもしれない。

こうして、様々な、性質・性格の人間を演じることで、
他者への理解を深めるという、課題をもうけているの
だろう。











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