自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

僭越ながら・・池見酉次郎博士と異なる”空”の解釈

2024年10月24日 | 健康と直結する”一元論”について



”空”は”何もない?”それとも、”何かあるのか?”

******************************************


池見博士の”空”観 については、

”まるごと健康法” という本に以下のように、
述べられています:


”般若心経は、わずか260の文字で、仏教思想の中心点
明らかにした。・・・

このお経には、すべてのものは因縁によって、成り立
っており、

因縁によってなにもない、空なるところから、

色や形が現れ、その因縁がとければ、色や形もまた、
もとの空に帰る。

すなわち、(これが)色即是空、空即是色という
有名な哲理”

と意見しておられます。


そして、因縁によって、色や形が現れる・・

幸不幸も、因縁で触発されて、自分の身の周りに
出現する・・・

が、そこに出現した不幸の糸は、
ほぐすことが可能だと、次のように、書いています:

”一見、複雑怪奇に見える不幸の、もつれ糸も、
それをほぐす術がわかれば、結局は一本の糸に
過ぎない


上の言葉の、’不幸’を、その現れとして’病気’という言葉で、
置き換えてみましょうか?

と、こうなります;

一見、複雑怪奇に見える 病気の、もつれ糸も、
それをほぐす術がわかれば、結局は一本の糸に過ぎない


つまり、池見先生は、複雑に見える ’病の原因’ を、
ねじれをほどけば、一本の糸に戻る=正常 ということで、
そのために、先生独自の、”ほぐす”を提唱しました。

それが、先月、ブログ内で見てきた、 意識の調和を
はかる、自己コントロールの方法です。

具体的には、心の中の、P(親の心)A(大人の心)C
(子供の心)の三つの意識の統制がはかり、心の円満を
自覚して、心身一如の原則から 心が円満、身体も
健康になるという考え方です。


では、今日の表題にあるように、自然治癒力セラピー
協会との、微妙な、相違点はどこにあるのでしょうか?

それは、池見博士の心療療法では、因縁でからんだ
糸をほぐすことで 健康を取り戻します。

私どもの自然治癒力セラピーでは、こんぐらがった糸は
観ないで、その糸の出ている原点、”空”に 意識を戻す
ことで、心が変り、身体が変る、と考えます。

たとえば、先ほどの、池見博士の言葉は

”病気は、因縁によってあらわれる” という意味に
なります。

一方、私どもは、空の本質から意識が、離れた時に、
不完全な状態(病)があらわれる、と考えています。

なぜなら、空とは、何もないのではなく、むしろ、
人の本質的な 神的エネルギー体 と考えるから
です

よって、空に戻るとは、無になることではなく、
”本来の人間の健康体(完全性)に帰る”ことと
なります。


確かに、因縁とは、その完全性が、現象界に
顕(あらわ)れる際の、”きっかけ”となるものです。

因縁によって、その完全性は、不完全に見えたり、
そうでなかったり、という様々な様子で現象界に
顕れます。

いわば、因縁とは、フィルターのようなもの。

曇りガラス(因縁)に光を近づけると、本来の光の
輝きは、消されます。

反対に、透明度が高いガラス は、光を多く通します。


因縁によって、現象・事象があらわれるとすれば、
因縁が無ければ”空”の状態であります。

因縁=この世の業(ごう)とも、解釈できるでしょう。


しかし、健康なる完全体は、すでに、業を超越した点に
この”空”の中に、種としてエネルギー体が凝縮され
存在しているのです。


ですので、空とは、池見博士の考える
なにもない、空なるところ”ではなく、むしろ、
大いなるエネルギが、最小単位に凝縮された、一点と
考えているわけです。


この空なる、エネルギーこそ、生命力、自然治癒力
の原動力であるのです。


私どもの、空 に対する、観方は、以前、お伝えした、
ホ・オポノポノ(ハワイの伝統的に継承されている
癒しの方法)で考える、故ヒューレン博士の、それに
近いものだとも、感じます。

ヒューレン博士は、空点を”神聖なる点”と呼び、
クリーン(浄化)によって、どんどんと、空(本質)
に近づくことで、病気のみならず、多々の不幸が、
消えていくと説きます。

本来の”空”に回帰すれば、雲が太陽の下で雲散霧消
するように、自然と、神聖なる完全性を表すと、
考えます。

雲 は、 様々な因縁 でもあります。

雲は、カルマでもあります。

ヒューレン博士の言葉を借りれば、”記憶”であります。

これまでの生まれ変わりの代々、自分自身の中に、
継承して、積み上げて、解消されていない、完全性を
隠す要因でもあります。

私たちの本然(ほんねん)が、どういうものか?を
突き詰めていくことは、真の健康と、幸せを、成就
するためには、とても大切だと思うのです。

****************

引用部分
”まるごと健康法”-セルフコントロールのルーツ
池見酉次郎著 日本文化科学社
1990年発行


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自然治癒力セラピーとアートマ意識の関係

2023年12月21日 | 健康と直結する”一元論”について
自分自身でできるアートマセラピー ・・2023年⒓月21日
ーーーーーーーーーーーーーーー
これから、御紹介するところは、ギータの2章です。 

ここでは、自然治癒力セラピー協会で施術している、セラピーの名前、
”アートマセラピー”の元になった、”アートマ”について、語られてます。

何故、”アートマセラピー”と名付けたのかといえば、施術中、アートマ意識 
を相手に投影させることが基本になっているからです。

そうすることで、同波動は響きあうので、クライアントの本来、持っている
完全性、つまり、アートマ意識が、(無意識に)引き出されます。

人は、誰でもアートマ意識で 心身ともに、つながっています。
だから、相手とつながったとき、その人の、身体の滞っている箇所が、
私の身体に 凝りや痛みとして投影されます。

そこに順追って、順気を当てていくと、相手の全身の気の流れが整われ、
ほとんどの方たちは、終了後、”軽くなった” ”息が楽になった”
”それまでの痛みが消えた” と感想を述べてくれます。

アートマとはサンスクリット語で、紀元前数千年に、記された、ヴェーダの
中の、”人間の純なる本性”を意味しています。
詳しく書くと、本題からそれますが、不二一元論が、ヴェーダの根底にあり、
あらゆる存在物は、人を含め、神であるという、徹底的な唯善質を説きます。

ですから、私は徹底的に、施術中は、相手の完全性、つまり、健康である
今を心で、念視しています。
これが、相手からアートマ性の波動を引き出す、方法です。
そして、自分自身で解くときも、同様の心持でセラピーを行えば’自己セラピー’
が可能になるはずです。

さて、小ヴェーダといわれる、’ギータ’の主人公のクリシュナが、アートマに
ついて、たびたび、アルジュナに語っています。
今日から二回ほど、そのテーマで書きたいと思います。

以前にもお話したように、アルジュナは、敵陣に向かう直前まで 自分の
尊敬する師や親類縁者に刃向かうことに、罪悪感を感じ 戦う意欲を失って
いました。

そんな彼に、騎馬車に同乗した、クリシュナは、このように言葉を
かけて、アルジュナの勇気を奮い起させました。
 
“This indwelling entity the Atoma, neither kills nor gets killed. 
This entity never takes birth and never dies. 
It is never absent. 
Therefore, it is not something that makes its presence felt 
out of a sometime-absent situation. 

It has no birth, undergoes no change, is ancient and is
 always present. 
It is not killed when the body is killed. 
Purtha! 
He who knows this entity to be Indestructible, permanent, 
without birth and changeless, tell me, whom will be kill or 
who will he takes to be the killer? 

The indweller discards old,
 used-up clothes and don’s new clothes. Weapons do not 
destroy this entity. Fire does not burn this. 
Water does not wet this. 
Wind does not dry it. 

This entity cannot be cut, burnt, wetted or dried. 
 It is Indestructible, always presenteverywhere without 
movement and is well established.

 It is beyond the ability of the senses to perceive and of 
the mind to capture. It cannot be changed in anyway 
whatsoever.  

Therefore, understand it as such.
Do not be disheartened.”
(2-17 to 2-25)
 
訳)人の心に住む神性、アートマは、殺すことも殺されることもない。
そして、生まれたり死んだりすることはない。

存在しないということが、無いのだ。
つまり、ある時はそこに在り、ある時は、そこに居ないという
ことがない。

古代から現代にいたるまで、生まれることなく、変化することなく
存在している(註:個人意識(アイデンティティ)ある魂のようなもの)。
肉体が殺されても、アートマは殺されない。

変化することのない永久不滅の実在、それがアートマの資質だと
したら、だれが一体、殺し、誰が殺されるのか? 

内在するこの資質(アートマ)は、古い服のように捨てられたりしない。
武器でアートマを破壊できず、火で焼き尽くされたり、水にぬれたり、
風に乾いたりするようなものではない。

傷つくことなく、自然の力に影響されることなく、あらゆるところに
実在し、移動せずとも、よく秩序を保ち、人間の五感を超えていて、
心(mind)でとらえることはできない。

そういうものだと知るがよい。
ゆえに、(アルジュナよ、戦うことに)心を落ち込ませることもなかろう。“
須田訳)
 
闘いは、現象における兵士の義務ではあるが 敵にも、味方にも、
本来すべての人間に備わっているアートマを見据えたら、そこには、
勝者も敗者もない” 断言するのです。

戦場で、肉体が殺されたと見えたその瞬、実は、生きとおしの魂の意識が復活
します。
死んだと思った自分は肉体より剥離して、生き通しの命を知る・・・わけです。
これが、アートマという不滅の魂でもあります。

残念ながら、クリシュナが述べているように、この娑婆の世界に生きている身は
肉体的感覚で、このアートマを感じえないので、その存在を気が付いていない
のです。

次回へと、そのあたりから、何故、生きている間に、このアートマ意識を、自覚
できないかというところから、書かせていただきます。





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悪戯な幼少期クリシュナの逸話のABC(ご紹介)

2023年12月17日 | 健康と直結する”一元論”について


付記::::2023年⒓月17日
**********************
ヴァカバッド・ギータは、インドの古代聖典の一つです。
といっても、ヒンズー教の教義の聖典だけではありません。

ギータには、世界最古の哲学、ヴェーダ哲学の真髄がクリシュナ(当時の王族で
あり、ヴィシュヌ神の化身とされる)の言葉にちりばめられているからです。

ギータの舞台はまさに、インドの黄金時代が衰退し始めてきたころ。

主人公は、クリシュナ神と、アルジュナと5人の兄弟たち(パンダヴァ兄弟)
です。彼らは、同族でありながら、敵対関係になり、闘いあうのです。

ギータが入っているMahabharata(マハバラータ)という一大叙事詩には、 
クリシュナ神が生まれる前から、3代にわたっての物語が、描かれています。

つまり、バガバッド・ギータは、”Mahabharata” という、18巻からなる 
叙事詩の一部であり、ギータが 小ヴェーダと呼ばれる所以もこのギータに
あります。

クリシュナ神がアルジュナに語る言葉の端々に、にじみ出る その真理性に
よるのでした。

その真理性とは、”ADVAITA思想”といわれ、ヴェーダ哲学の根本に流れる
普遍的哲学です。
日本語では、(不二一元論)と訳されています。

クリシュナは、実在していたといわれ、政治の陰謀と策略の罠にかかった
クリシュナの父、国王、Vasudeva は、生まれたばかりの王子、クリシュナ
の命を守るために、ヤムナ川に隣接する、ブリンダバンに幼子を置き去りました。
 
その時、クリシュナを育てた養母が、Yasoda, 養父が牛飼いのNandaです。

そのあたりの背景をもう少し詳しくお話しすると・・・・

当時、ヤーダヴァ族と言われる豪族の頂点にたつ、王カンサは、多くの悪行
働いていました。

そこで、天上の神々は王カンサを打つべく、対策を協議し、ヴィシュヌ神
対して、 王カンサの妹、デーヴァキーの胎内に宿り、地上に生まれ出るよう、
願い出たのです。

そうして、ヴィシュヌ神の化身が、人の身体をもち、地上に誕生しました。
その名を、”クリシュナ”と命名されました。

ある時 悪党のカンサ王は妹のデーヴァキーと、その夫のヴァスデーヴァを
乗せた馬車に、御者として乗りました。

その都へ上がる途上、どこからか 「お前の妹、デーヴァキーの8番目の子が
お前を殺す」 という声が聞こえたのでした。

その予言に、恐れをなしたカンサ王は ヴァスデーヴァとデーヴァキーを牢に
閉じ込め、そこで生まれてくる息子達を次々と殺していきました。

デーヴァキーとヴァスデーヴァ は 7番目の子バララーマ と 8番目の子、
クリシュナが生まれると直ちに 皇子たちの命を救うために智慧を絞りました。
 
ヤムナー河のほとりに住む、牛飼いのナンダの娘 (同日に生まれた)と
すり替え、皇子2人をゴークラの町にかくまうために、牛飼いに預けました。

こうして、牛飼いの村で育った、クリシュナは、幼い時から その腕白さと
怪力を発揮し、後世に、彼特有のさまざまなエピソードを残してます。

たとえば、ミルクの壷を割る悪戯に、幼いクリシュナは、継母の ヤショーダー
大きな石臼に縛られました。

ところが、クリシュナは、その臼を引きずって、2本の大木の間にすり寄り、
その大木を倒すほどの、怪力を見せます。

また、ヤムナ川 に住む、竜王の カーリヤが悪事をなしたときは、クリシュナ
これを追い払いました。

さらに、インドラ(雷神)の祭祀の準備をする牛飼い達に、クリシュナは
インドラの代わりに、家畜や山岳を祭る事を勧め、それを見て怒ったインドラが
大雨を降らせたことがありました。 

その時、クリシュナはゴーヴァルダナ山を引き抜いて、1本の指に乗せ、
牛飼い達を その大雨から守ったと言い伝えられてます。

マハバラータ物語の中には、こうした、幼少期のクリシュナ神が。神としての
本領を発揮した逸話が、数々残されていて、絵画や彫刻のモチーフになって
います。

成長したクリシュナは、恋人のラーダと一緒にブランコに乗るのが、好きでした。

それが、’フルートを吹くクリシュナ神と、恋人のモチーフ’になり、絵や彫り物に
残されているわけです。



一方、カンサ王は クリシュナが生きている事を知り、すぐさま配下のアスラ達
刺客として送り込みました。
が、悉く返り討ちにされ、カンサは クリシュナとバララーマをマトゥラーの都
へ呼び寄せて 殺害を謀るも 失敗に終わりました。

ギータは、ヴィシュヌ神の生まれ変わりである、クリシュナ神が、パーンドゥ
家の5人の息子たちとともに、ドリータラ―シュトラ家の百人の王子たちと闘う
物語です。

ブランコに乗る フルートを持ったクリシュナとラーダ


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エディ夫人と宇宙飛行士の悟りと、般若心経(5)

2023年12月01日 | 健康と直結する”一元論”について

12月1日(金曜日)2013

**********************************************
前回の続きとしてお読みください。

その取り除かれる原因こそ,病を創りだしている要因である, 
滅びる心( mortal mind,) すなわち超越意識より離れた
ふらふらした心である。”(*1)
 
滅びる心、ふらふらした心、は、どんなか心か?
それは、”超越意識”(神とつながる心)から離れた心、
肉体の消滅とともに消える心
二次元的な感情を産む 現象世界に生きている人の心と
いえるでしょう。

このエディ夫人の”心”は、般若心経でいうところの、”顛倒夢想”
を創りだしてます。
そして、病も、その現れなのです。

故 無有恐怖遠離一切顛倒夢想、 
究境 涅槃 三世 諸仏 
依 般若波羅蜜多 故 得阿耨多羅三藐三菩提

訳文)
恐怖から遠く離れ、価値観のひっくり返った夢のような、一切
の想念をたちきる

この般若(バンニャー)の教えによって、三世にわたって、菩薩
は 

阿耨多羅三藐三菩提=アヌッタラー・サムヤック・サンボー
ディー(梵語原語)=すべての人が平等に到達できる至高の悟り
(意訳)を得ることができる

11月26日のブログ記事の最後に書いた、病の原因は、まさに、
超越意識(神)から離れた浮世の心が生む、想念感情が根源
だとエディ夫人は、言うのです。
それは、一言でいえば、”恐怖心”です。
わたしたちは、還るべきポートを失った船のように、不安の中に
大海をさまよい、その恐怖から自らの、神性(仏性)を忘れ、
心身の波動を低めて、細菌たちを呼び寄せて病になると、エディ
夫人は言っているような気がします。

ところで、宇宙飛行士という特殊な職業で、地球を丸ごと、
客観的に宇宙から観察して、”悟り”的境地を得た人がいました。

それが、アポロの宇宙飛行士だった、エドです。(*2)
エディ夫人が述べる”超越意識”的な心境をインタヴィーで答えて
います。

神とは宇宙霊魂(コスミック・スピリット)であると言っても
よい。
宇宙知性(コスミック・インテリジェンス)でもよい。
それは一つの大いなる思惟である。

その思惟にしたがって進行しているプロセスがこの世界である。
宇宙の本質は 物質ではなく、霊的知性なのだ。
この本質が神だ。“ 

エドは宇宙で、宇宙の知性を感じ、思惟があり、その考え
思いが、宇宙を運行させている、と感じ取りました。

その本質を、地球では、神と呼び、人々が崇拝してます。

が、実は、私たち自身が、その宇宙の知性で、造られたことを
忘れています。つまり、本質は、神ということをです。

エドは、そのことを、宇宙空間で、次のように体感しています。
(*2)

人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の
統合体だ。
前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた
動物に過ぎず、本質的には肉と骨で構成されている物質という
ことになるだろう。”

このエドは、人間の二つの側面を指摘します。
一つは、エディ夫人のいう、ふらふらした心の持ち主である
’エゴ的存在’、そして、もう一つが、’超越意識を知る存在’
(普遍的霊的存在)です。
私たちは、この統合体と、エドは解してます。

人が、”エゴ的意識”をとりはらっていけばいくほど、
もう一つの’無限の可能性’が、開かれていくというのです。

つまり、病ですら、その’無限の力を持つ自分の自覚’があれば、
消滅させることができるはずです。
引用します:

しかし、エゴに とじ込められていた自意識が開かれ後者
の存在を認識すれば、人間には、無限の可能性があるという
ことがわかる。
人間は限界があると思っているから限界があるのだ。

与えられた環境に従属せざる得ないと思っているから、従属
しているだけだ。”

これも、先にあげた般若心経の一節と、かぶります。

つまり、心経の”顛倒夢想”は、エドがいう、”人間は限界がある
と思う心”(迷い)であり、それによって、人は、結果的に
”環境に従属せざる得ないようになっている”という、真実と
逆転した’顛倒’状態を表しているというのです。
真実というのは、私たちは、本来、’無限の力’をもっていると
いうことです。
が、医師から、こう言われたから・・と無意識にその言葉と
その状態を甘んじて受け、’従属’すれば、そうなるだけのこと
なのでしょう。

ですので、エドは・・・:
  
”スピリチュアルな本質を認識すれば、無限の可能性を
現実化し、あらゆる環境条件を乗り越えていくことができる。“
 
と”スピリチュアルな本質”を認識することが、あらゆる
環境条件(不幸や病というマイナスの条件を)乗り越えていける
といいます。

ただ、これが一筋縄では、いかない、自己革命的なたいへんな
ことであることも、間違いありません。

スピリチュアルな本質 つまり、エゴ的自分を消滅させて、無限
の自分に近づくために、人は、計り知れない回数の生を生まれ
変わりながら、こうして、今の生でも、試行錯誤を続けているわけ
ですから・・・


**********
 
*1)"Christian Science " 創始者,マサチューセ
ッツ形而上学大学学長で,ボストン市所在第一
科学者キリスト協会名誉牧師の メリー・ベーカ
ー・エディ女史が残した,"Science and Health
with Key to the Scriptures",New York, in 2012

(*2)引用箇所: 
宇宙からの帰還  立花 隆 著   
中央公論社  1994年版




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エディ夫人と生命力と、般若心経(4)

2023年11月26日 | 健康と直結する”一元論”について

2023年11月26日 生命力を第一義に・・
*************************************

病(症状)が消えると,また再発するかもしれないのに,
私たちは癒されたと思う。

しかし本当に癒されたと言うのには,病気が再発する状態が
根こそぎ,取り除かれるまでは早い。”(*1)
 
このエディ夫人の、言葉。

これには逆説的な意味があります。

つまり、”症状があっても、病気とは限らない”という
ことです。

上の鍵かっこの中の言葉、
”癒された”という意味は、その病が
再発することなく”、完全に原因から根こそぎ治療
されたというのが、エディ夫人の定義です。

すると、現代医学の、対症療法では根こそぎ治療が可能か?
という疑問がわきます。

たとえば、風邪の例をとってみると、その根本原因が
どこか?というより、今の医療では、気管支などの炎症を
まず抑え、症状をなくすことで、治療が完了したことに
なります。

熱もなく、症状が出ていた箇所が、正常に戻れば、
風邪の完治と、なるのでしょう。


ところが、病が癒えた理由は、薬のせいか?といえば、
それだけではないと思います。

普段、健康を掌る”生命力”が、働いた、ことが、症状が
とりあえず、抑えられ、その後、健康になっていく
第一要因でしょう。

生命力がなければ、つまり、亡骸には、どんな薬も
効き目はありません・・・

生命力の神秘は、医学では、まだ、解き明かされよう
とされていないようです。

生命に、本当にメスが入れられていないのが現状と
云われます。

医師たちは、臓器の機能レベルを、正常数値に戻す
ことが、健康のバロメーターとしているかもしれません
が、本当のところ、患者自身の”生命力”が、その人を
健康に導いていく、源だと、私は思っています。

生命力は、細胞の微細な波動レベルの研究が必要です。

”波動レベルの医学”に関して、三上博士(*2)の言葉
が以下です:

”細胞は、原子よりまだ小さい素粒子、さらに 超素粒子
にまで連なっているのです。

人体は原子―分子ー細胞ー諸器官―組織の順で
成り立っていると普通考えられています。

ですが、原子のさらに小さな素粒子、まして超素粒子の
ことなど、医療の対象には考えに入っていないのが
現状です。”

ところが、生命研究となると、医療対象研究では
なくなるのわけです。

三上博士は、その研究が”病の真の原因根絶”のためにも、
必要だと次のように述べています:

”病気の治療は通常、諸器官の段階で診断が行われ、
薬が投与されます。

病気によっては、原子、分子、細胞、それ以上まで
掘り下げた治療手順が考えられなくてはなりません。

だが、そこまで手が及んでいなのです。

徹底した治療、健診のためには 原子より小さい
素粒子、超素粒子までさかのぼる必要があります。

超素粒子の段階はいわゆる、”波動”段階ですから、
全くといってよいほど、手が入れられていません。

このあたりのことは、医学の限界を超えた、手の
届かないものだと考えられているのでしょう。

しかし、このあたりの領域が肝心要(かんじんかなめ)
のポイントではないでしょうか。”


何故、この領域の研究が、必要であるか?
には、博士は、次のように回答しています;

”あらゆる病源は、このあたりの領域で生命体に侵入して
くるからです。”

”このあたりの領域”とは、言い換えると、心の想念波動と、
身体の量子波動が 密着関連しあっている領域です。


つまり、患者の感情波動は、肉体細胞の波動に影響を与え、
ある細菌の波動と似たものだと、細菌は、その肉体細胞
に入り込みやすいと考えられます。

音叉の共鳴増幅と同じ原理です。

周波数が同じだと、音が重なり合い、溶けあい、一体化
して、さらに大きな音が出るのと似ています。

さて、ここで、疑問が出ます。

それは、
”卵が先か? 鶏が先か?です。

この場合、卵は心の波動を比喩しています。

当然、今までの記事で述べてきた、エディ夫人の答えは、

”意識・想念(卵)が、🐤(現象)の前に存在していた”

となるでしょう。

つまり、冒頭の彼女の言葉の中にある、再発を防ぐための
根こそぎ取り外す必要があるのは、現象(病症状)ではなく、

患者の”想念”の中にある、病の真の原因を、知る必要が
あるということになります。


ここで、私は次の、般若心経の経文を思い出しました。

無有恐怖遠離一切顛倒夢想”(むうくうふおんりいっさい
てんどうもうぞう)
意味は、

恐怖心は、本来、人の心で想像されるものだと知り、
ないものだとわかれば、価値観のひっくり返った夢のような
一切の妄想をたちきれる。”

つまり、心が恐怖を手放すと、それによって現れている
夢のような、逆さまな(無いのに有ると感じるような)
現象は、消えるというわけです。

いいかえれば、心が恐怖を手放すと、それによって、あると
思われている病気の症状も、消えていくということになります。


私たちは、毎日、ネットやニュース、さまざまな情報機関から、
無意識に、あらゆる種類の恐怖を心に引き起こし、積み重ねて
生きています。

そして、それによって、”生命力”の噴射を弱め狭めていると
いえるのです。


続く・・・・


*************************
(*1)"Christian Science " 創始者,マサチューセ
ッツ形而上学大学学長で,ボストン市所在第一
科学者キリスト協会名誉牧師の メリー・ベーカ
ー・エディ女史が残した,"Science and Health
with Key to the Scriptures",New York, in 2012

(2)三上 晃(みかみ あきら)(1921年~2004年)                                   
 拓殖大学で中国語を学び、中国(昔の満州)に渡る。
帰国後、広島で県立高校教頭を経て、広島県立廿日市
養護学校校長就任。
「人間と植物との意思疎通」をテーマにした独自の研究
や著作をおこなった。
教職を退いたのちは昭和57年4月日本相対磁波研究所を
開設。
長年の研究を積み重ね「人間の問いかけに対して植物の
意思(Yes, Noのランプ表示)を
読み取ることができる」という機器(LBS-Leaf Bio Sensor)
を開発した。
著書「植物は警告する」や「植物の超能力」等に詳細が
述べられている。
一教員であった著者がこの研究に入ったきっかけや、
植物の「驚異能力を知る」過程は、最初の書「木の葉の
テレパシー」に書かれている。

また、著書の中で、「太陽には水がある」との説を発表。
この説は、当時奇異に感じられたそうだが、その後アメリカ
の科学雑誌「SCIENCE」に「Water on the sun」という
論文発表があり、研究成果の裏付けがなされたという。

著書に ”木の実のテレパシー” ”植物の超能力” 
”植物は警告する”(すべてたま出版)がある。
勲4等瑞宝賞受賞。 理学博士。





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