自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

真の私は不生不滅・・ATMAだから・・

2025年02月28日 | 今朝の”インスピレーション”



それに興味ある人か、そうでない人か、どちらかです・・・
*****************

”今朝のインスピレーション”の臨時投稿です。
**************

自然治癒力を発揮すること。
自然治癒力に興味持つこと。
自然治癒力を信じられること。
自然治癒力って、ピントこないこと。
自然治癒力は、”絵にかいた餅”同様、関係ないと思う事。

人さまざまです。

10年間以上、このブログで、角度を変えて、お伝えして
きたことは、私にとっては、一貫性があり、ぶれない信念
でしたが、受け止め方は千差万別。

上にあげたように、自然治癒力を発揮することと、
興味をもつこととは、違うし、
信じられるか、仮に、信じてもその成果が出るか、は
違う話だし、
病は薬で治すのが一番早く、安全だと思えば、その人
にとって、自然治癒力 とは、絵に描いてある餅 を
食べたいと思わないように、まったく、意味がないこと
でしょう。

人は、本当に、一人ひとり、異なることをつくづくと
感じます。

私自身も、自然治癒力にゆだねることが、なぜ、当たり前
になったのか、言葉で説明はできません。

薬(生薬ではなく、西洋医学の成分)を 体に入れること
に、不快感と、違和感と、それを飲み続けるということは
一種の"拷問(ごうもん)に似た感覚があるだけです。

幸い、こうした感覚を知っているご家族のもとに
嫁として嫁ぎました。
須田家です。

そして、こうした、家庭内常識の中で育てられた夫の
おかげで、私は、自分の信念を貫きながら、生命力への
絶大の信頼を貫く生活ができました。

まだ、完結してませんが、ライラックのZ時代の
有名な歌を、ご紹介してます。

次回が、最後の、パラグラフですが
ここには、”自分を愛する”という言葉がありました。

私が彼らの 年の頃、こんな歌詞に出会ったことは
ありませんでした。
自分を愛する ことが 本当の自分のいる部屋の
扉をたたく、第一歩だと思ってます。

それが、自然治癒力が 十分に発揮できる部屋でも
あるのです。

以下の会話は、インドのヴァカバッドギータからの
下りです。
お釈迦様も必ず、読まれたと思う古い古い聖典でも
あります。
ここには、生命力~アートマ の事を、考える人
そうでない人の、クリシュナ神の言葉が出ています。


“真に内在する本来の自己、つまりアートマを
不思議な想いで見る人もいる。

不思議な想いで語り、その言葉を不思議な
想いで聞く人もいる。
が、誰も、それを本当に知っているものはいない。

アルジュナよ、アートマと呼ばれる、総ての人
に宿る真の体の居住者は死なないのだ。

だから、汝も、肉体に所属する事項に関して、
心を破られる思いをすることは
ないのだよ。”(ギータ 2章29~30節)

紀元前数千年前から、こうした事への興味が
ある人と、そうでない人が、存在してます。

すべての人に宿る真の体の居住者”への
憧憬となつかしさを感じる人と、

全く、そうでなく、不思議な思いでそれを
聞く人の二つのグループに分かれる、という
ことなのです。

どちらが良い悪いはありません。
それぞれの本分をこの生で全うすることが
大切だから・・・


ただ、救われる~という魂の安寧と、そこから
生まれる、真の健康生活(があるとしたら)
究極は、真の自分自身を探す旅に出る ことから
始まるのだと思います。

市井(いちい)の生活を送っていても、それは
可能なのですから・・・



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人生最期の 天秤の均衡

2025年02月09日 | 今朝の”インスピレーション”


相手の心のパンドラの箱をあけたとき・・
*****************                   
  
自分の言った”つもり”の通りに、相手が
自分の言葉を、受け取るとは限らない。

たまに、反対の意味合いで受け取られる
ことがある。

言葉だけでなく相手によかれと、為した行為
が 侮辱されたとか、尊厳を傷つけられた
とか、試されたとか、不当な評価で、怒り
とともに帰ってくることもある。


話の内容が伝わるかどうかは 受け手側の
心情の状態に左右されるから・・ということだろう。

相手の心持が良く理解できれば、不当な怒りを
招く言葉も出ないはずだと、人は言う。


が、その ”相手の心持ち” を理解することは
決して簡単ではない。

心というのは、 自分自身の心でさえも、
操縦が聞かないほど、時に、気難しいものだから・・


心 の持つ感性は、千差万別だ。

なぜなら、この人生以外の、過去生の、体験
から、特有の感性は、出来上がってしまって
いる”ものだから。

それぞれ、別々の人生を、今も昔も歩んできて
いる以上、
”感性の一致”などあり得ない と私は思っている。


弁慶の泣き所 といわれる部分が、誰の
心にも存在している。

古傷のようなもので、それに、少しでも
当たると、痛みを覚える”記憶”につながる。


誰もが、その部位は違うから、それに当たらない
よう、配慮しても、不完全だ。

それに触れてしまえば、相手の心は、閉ざされる
とわかっていても、親しくなればなるほど、
その、アキレス腱に 触る確率が増える。


誰もが、そこに触れられると、無意識に、
傷ついた箇所に当たらないよう、防御反応が
働いて、距離を置かれてしまう。


その ”トラウマの古傷”の主成分が、
サンスクリット語で、”アハンカーラ”と
言われる、”エゴ意識”と、
”サンスカーラ”といわれる、独自の感性だ。


自分の感性«サンスカーラ≫を頼りにして、
良かれと思い接していると、冒頭に書いた 
相手からの“思いがけない反抗”で、相手の心の、
”パンドラの箱”を、開けてしまったことに
その時、気が付く。

これまで、幾度となく、そうした、体験を
重ねてきた。


そのたびに、私は、なまじっかの親切心や
助言を言ったりするよりは、心を閉じていた
ほうが分別的と思い、貝殻のようになる。


が、反対に、いまだに、自分を信頼してくれて
いる人たちも存在している。

が、いつ、どんなきっかけで、こうした事態が
起こるのか?と そのたびごとに、人の心の
危うさをいぶかしく思い、その覚悟も必要だと
感じる。


さらに、これは、私(過去の)の行為そのもの
だと反省のよすがにしている。

自分の古傷のトラウマ”に触られたと、
機嫌を損じ、同様の態度や言動を他人にぶつけた
ことが、これまで、あったに違いない。

こうして、他人からそうされるのは、合わせ鏡
なのだろうと、想うようになってきた。


その時、相手は善意で行動し、私に接していた。

が、相手の善意を信ぜず、理解しない、”私” が
きっと、相手に対してとった、”言動”で
そのときの、相手は苦汁を飲んだに違いない。

そして、その痛みを、今、自分がこうして
味わっているのだろう・・・


人生とは、結局、死ぬ時、天秤にかければ、

自分がしたことと、相手にされたこと、
幸せな時期と、不幸な時期、
愛と憎しみ、
喜びと悲しみ、
などなど、

すべて、二次元的な価値は、±【プラマイ】0(ゼロ)
なるように、錘(おもり)が用意されて
いるのだと、あらためて、想う。





 
 
 
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不快な想いの源泉は、自分の自我の独りよがりの判断から【推敲版】

2025年01月24日 | 今朝の”インスピレーション”

自由の境地というものは・・・・2025/01/24
*****************************

あなたの言葉に傷ついてます・・

いいえ、私の言葉に反応したあなた自身が
あなたを傷つけているのです・・・


誰も、”本当のあなた”を傷つけることはできない。

傷つけるのは、相手の言動 でなくて
それを翻訳した自分自身の想いと感情のせい・



たとえば、私が、”A" と言っても、
その”A” を 私の”A" の意味で
真に理解するのは、誰にも不可能でしょ?

なぜって、感性がみな、それぞれ、違って
いますから 言葉のニュアンスが皆
違います。

****************

だから、私のいう”A" を、あなたなりに 
”B" と 
誤って解釈して

それによって、苦しむとしたら、私の”A"
が原因ではないでしょう?


”B" と、思い込んだあなたが、その誤解から
生まれる様々な、妄想や、思い込みで、
マイナスの感情の空回り・・

そして、
私の言葉で、傷つく”という言葉で
表現してますね・・
******************


”A"を”B" と誤解してうけとりそうなとき、

相手の真意は、自分には
理解できない範疇として、受け流せれば・・


それほど、
”自分”を傷つけることは無いかもしれません。


”誰も私を傷つけることはできません。”
”誰もあなたを傷つける人はいません”


"自尊心が傷つけられた"・・・と
よく人は、いうけれど、


その自尊心 が 曲者(くせもの)ですね。

自尊心の、”自” は、 自我の ”自” ですから。

”自我” と ”本当の自分” とは、違います。

*************

自我 は、死んだら消えるけど、
本当の自分 は、死んでも 意識として
はっきり、残り続けていますから・・


魂意識の自分、こそ、 本当の自分であります。

”魂意識” は、地球上の、正反対の二つの事象を
知りません。
知るのは、優しさ、思いやり、相手との共感性
だけですから・・・

だから、

本当の、自分の存在 を信じている限り、
本当の、相手の存在 を信じていれば、

私 も あなた も、誰かの言葉に、
傷つくことはありません。


傷つかないというのは、
無駄な思考エネルギーの堂々巡りで、
眉間に皺(しわ)を寄せることも
ないし、

自尊心という、自我の変形にしがみつく必要
もなくなるから、

心は、軽いものです。

自由という境地に、最大に近づいた心持
(地球に居る限り、完全な自由はないので・・)
というのでしょうか・・






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今日のインスピレーション

2024年09月24日 | 今朝の”インスピレーション”




自然災害【地震・津波・洪水・山火事・火山噴火‥】

世界破滅を思わせる地域紛争の核使用危機‥の昨今を
生きる私たちへ。


*************9月24日(火)

多くの人達の想い・・
たとえば、
*こんなつらい世の中に、生きているのは何故?
*次々に、わが身に降りかかる不幸は何故?

災害復興といっても、そのさなかに、台風でつぶれた家
を目の前にして、どうする術もないとうなじを垂れる人達

ウクライナとロシアの戦争も、ニュースではマンネリ化
した感覚になり、当初の反感も、今は、核が使われ、
地球破滅のきっかけとなりはしないかという、恐怖感になる

それだけではない・・まかりとおる、不条理の数々・・

オリンピックでは、中東地域の戦争当事国のうち、
イスラエルだけ、参加可能?
何故?

アメリカ選挙にも、イスラエルの関連票が、結果を大きく
左右させるほど・・で、

傷ついて泣く幼児をかかえたアラブ女性と
親を失い慟哭するパレスチナの難民男性の映像・・

兵士も傷つき、一般人も巻き込まれ、慟哭と失望のほかに
何がそこにあるの?

いえいえ、まだまだ、ニュースに取り上げられないほど
沢山の緊張した武力紛争が、数知れず、この星の上には。

そんなことは、”自分とは関係ない”と言っている人たちへ。

本当に関係ないと感じられますか?


肉眼には見えない、恐怖と苦しみと悲しみが、そうした人たち
から、音波のように、周波数をもって、間断なく、波のように
押し寄せてきている毎日・・

それは、知る知らざるにかかわらず、誰もが、心に受け止め
いる 周波数のはず。

平和な日本にいても、心のどこかで、落ち着かず、
理由なく不安で、わけなく恐怖心をいだいて、余計な心配
が とめどなく湧いてくる時ってないですか?

たまに、一人になったとき、その静けさに向き合うことが
怖いと感じたことないですか?

・・それも、世界中から”ヘルプ!”を求める人達の、どうしよう
もない、逃れらない狭い場所で、弾丸を避ける余地がない恐怖

母親と子供の、分かれの悲鳴の周波数が、届いているからだと
したら?

つまり、彼らの、やるせない無力感の中の苦しさに、繫がって
私たちの心が、共鳴しているのかもしれません。



その反動でしょうか?

TV番組 や、情報誌に満載されている、’ご当地グルメ’や、
’しょくレポ’’の氾濫。

それだけで、もう、満腹でゲップが出そう・・・

食感を刺激させ、食べたくないのに食べ続ける、うつ的
ストレス発散の個人的方法が、社会的に、こうして、
活用されているのかもしれません。

その証拠に、一日のニュース番組以外のどのチャンネルを
ひねっても、”グルメ紹介番組” ばかり・・。

人々が、”自分とは関係はない”と思って、生活を送っている
以上、当然、政治にも、反映されないでしょう。

地球規模で、日本の立ち位置を見定めることは、あまり、
必要ないこと

税率引き下げ、経済強化、女性の地位向上、助成金など、
口にでる 実生活的公約は、かの、安倍首相のアベノミクス
の公約と、其の後の、日本の経済発展を考えると、また、
絵に描いた餅になるのかな?


先にのべたような、地球に、今起きている非人道的な
血で血を洗う現実と、
自分とは、”関係ない”と美食に舌鼓を打つ、一見平和な、
”ひととき”の謳歌は、イル―ジョン=illusion のような
気がしてくる・・



私たちは何のために存在しているのか?

だからといって、特に、何か、大きなこと たとえば、
革命や人々を啓蒙することなどのためではないだろう。

以下の会話がそれを象徴しているような気がする:


D: それでは、この世の中に、存在理由のない人
などいないのでしょうか?

C: 誰ひとりいない・・生きていればそれが愛の証明だ・


ピンクの言葉、これが、本来の私たちの姿。
生きていれば、それが、愛の証明~それが 自然体のわたしたち。

その言葉をかみしめると、
本当にかみしめたいと思うのですが、

できれば、会ったことのない、悲しみと苦しみの声を
どこかで、あげている人たちの心を、想うだけでも
意味がありそう・・

想うとき、少しの、’平安の想い’を、混ぜて発信すると、
意義がありそう・・

慟哭している人たちはもちろん、

まず、狂気に満ちた闘いを支持している国の指導者たちへ、

自分の知る限りの愛”の想いを 彼らに届けたいと願うだけ
でも、何かが、違ってきそう・・

たとえ、それが、ほんのわずかな周波数の微力なものでも、
自分の発信した想いは、そこに、到達するはずだから。

それが”祈り”というものだろう。


一人ひとりの、その”祈り”が、必ず、この星の将来を
決めていくような気がします。

だから、美食グルメを楽しむ余裕がある人達は、その
”平和”な”今”を感謝しながら、

そうした”愛”の想いを、
”関係ない”と思われる人々にほんのわずかでも、
むけてみませんか?

ほんの、数秒でも・・
毎日、すこしずつ・・

一緒に、是非、気の向いたときに、発信していきませんか?
アットランダムに
気軽に、
でも、必ず、届くという確信で・・

生きているのですから・・

最後に一言・・

”愛って、どういうことでしょうか?”

その答え:

”人をいとしく思う、その気持ちのさらに奥にあるもの・・

誰もが持っていて、人とともに分かちあって、創造して
いくもの・・温かいもの・・・”
 






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どのReactionを選ぶか?8月31日の投稿の補正をして

2024年09月12日 | 今朝の”インスピレーション”

生まれ変わる人、そうでない人 2024/8/31
****************** 
・・ **************2024/9/12

地球での生活、は、二つに分けられます:

この生で、もう、生まれ変わりが無い人と、
また、次に、生まれ変わってくるべき人です。


生まれ変わらなくてもよい人にも、二つの選択があります。
言い換えれば、生まれ変わらなくてもよいのに、あえて
生まれてくる場合です。

それは、
誰かのため(主に不特定多数の他者)に 平和や幸せを導く
目的意識を強くもち、敢えて、この地球に、生まれ変わって
来るのです。

本来、生まれ変わらなくてもよい人というのは、すでに、
カルマをすべて清算してますから、肉体を脱いだままで、
意識態(幽体)として、存在し続けることができるわけです。


一方、この娑婆世界に、生まれ変わらなければ
ならない人は、これまで地球で着用していた服(肉体の心)
にしみこんだ 頑固な汚れやシミ(カルマ)を取ろうと、
これも、魂的には、意識して今の環境を選んで生まれてきて
いるのです。

カルマは肉体を脱いだら、無くなるというのは、違います。

生まれ変わるか否かは、このカルマ(シミや汚れ)の度合い
によるからです。

そもそも、カルマは、Reaction = 物理的法則です。
球を壁にぶつけたら、はねかえってくる、あの法則です。

Re と Action, の二つの文字の意味は、Actionに対して
反応=Re することから、カルマが生まれることを意味
してます。

私たちの魂は、幾度とない過去の生き様で、Reactionを
繰り返し、生まれ変わるたびにその、清算をしてきている
わけです。

Reactionを作るという行為は、キャッチボールにも似ています。

球を投げられて、良い球を反せば、お互いに、気持ちよく
プレーが続きますが、もし、どちらかが、きつい球や
届かない球を投げれば、相手がそれを拾いにいったり
相手も、それは、決して、楽しいものでは無いでしょう。

とくに、投げた側の、イライラ感や怒りなどが、その球に
込められていたら、素直に、良い球を投げ返せるでしょうか?
この投げ返すという行為が、ここでいう、Reactionになります。

人から受けた球は、行為の喩です。
それを、投げ返す反応(Reaction)には、三つの
タイプがあります。

①投げられた球と同じ球を反す人
②投げられてきた球を 受け止めて投げ返さない人
③投げられた球に、愛をこめて投げ返す人

①は、普通の人です。
それ以上に、強く痛いボールを投げ返す人もいます

②は、憎しみや、不合理な言葉や行動を相手から受けても、
それを心に吸収したまま、”良い人”にして、波風たたせず、
自分の反応を敢えて示さない人です。

③は、そうした相手に対して、むしろ、反対に、愛をもって、
祝福とともに返す人です。


カルマを造らない方法は、③です。
今までのカルマを消去する方法も、③です。
一見すると、②の方法が良いように、思えますが、結局
はその人の心の奥にまだ、感情のしこりは残っている
ままなので、これもまた、カルマの種です。

解消しない限り、この世の地球服(肉体)を脱いだ後も
きちんと、カルマバランスシートには、つけられている
でしょう。


愛をもって返すとは、どういう仕草でしょうか?

それは、その球を自分の’アートマ’という、魂の本髄で
(グローブ)で受け止めることです。

そして、相手の’アートマ’にめがけて、投げ返すこと
です。

そのときは、憎しみや、悲しみとは違う次元の
変化球が、きちんと、相手に返っていくのです。

アートマとは、魂の本性(純粋性、愛)をさします。
誰にも、共通の、魂の本髄です。

どちらかしかありません。
アートマで受け止め、相手のアートマに返すか?

あるいは、肉体の心の次元で、受け止め、自分の肉体の心
の次元でそれを反すか?

どちらか一つの方法を、人は、どんな言動においても、選択して
いるわけです。

*****************

今日は、私の他者へ投げかける言葉や行為が、どんな気持ちの
球なのか、考えて投げてみることにします。

自分のアートマを、この地球の肉体次元レベルに、折り重ねる
ことは、結構な修行です。

でも、一度、その行為を知ると、次からは、容易に、変化球
を投げることができていきます。

なぜなら、その時、自分が一番、幸せな何かを、感情として、
味わっているからです。












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