自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

イスラムと神への全託 

2015年03月30日 | 神秘と神の大地”インドの香り”


 形而上的癒しの根源~イスラム教から(6)   2015.3.30

******************************

前書き)

30代の初めからインド生活においてのほとんど、

私はイスラム教に入信していた。

(あるきっかけがあり、イスラムの宗教的行事に

参加することはなくなった。)

その間、メッカに行き、ラマダンには、断食をし、

5回の祈りを捧げていた。

数年かけて 中東に各地に残されたイスラム教の

聖地といわれる場所(モスク)にはイスラエル・シリア

を含めすべて回ることもできた。

 

かつて、キリスト教、仏教、神道、ヒンズー教など様々

な宗教の門をたたいてみたが結局 どのような宗教も、

一つの心の宗教、に帰一するのだということを学びから

得た現在だ。 

 

イスラム教はヒンズー教同様、国内にいてはなかなか理解

できないのかもしれない。

外地でよりその真髄を体感出来うる宗教のひとつかもしれない。

イスラム教の愛、倫理、人生哲学、智慧、信仰と運命などを

これから数回に分けて簡単だがお伝えしたい。

そして、最期に 形而上的癒しとの結びつきを考え 

自然治癒力との関連に触れられればと思う

 

 

アザーンといって礼拝の時を知らせるモスクの人の呼びかけが

一日5回高らかこだまする。

 

アラブ人と約束事をしたとき、”神の御心のままに” 

と必ずつけ添える。

時間に遅れても 他の約束を反古にしても、アッラーの意思

ではなかったなどと、いわれて面白くないという話を

聞いた事がある。

 

先回のブログのテーマだった、天命とか定命 でも

このことを見てきた。

こちらからすれば、遅れたことは神の御心ではなくて、

単にあなたの”ケアレスミスでしょ”といいたいところだ。

イスラム教信者は 約束事にとどまらず、自分の希望を

口にしても、何事に対しても、”神の意思に叶うのならば” 

という一言を添える。

アラビア語では ”インシャーアッラー” という。

 

イスラム教聖典 クルアーンの33章3節には

“神にすべてを託しなさい。本当に、神は管理者として

万全であられる”という言葉がある。

このインシャーアッラーは、その心を言葉にしているのだ。 

全知全能の神に委ね、不安なく、どんな結果にしても受け入れ

ようという積極的な心持こそ、心の平常心と平安を保つ術

からだと考える。

 

神の御心に添う、そして、平安を感じる、このことを アラビア語

では“タワックル”という。 

先回のブログの内容と重複しそうだが、そのタワッフルは、

何もしないで状況の流れに任せていれば良いということでもない。

すべて努力をした上で、智恵を働かせ、周囲に愛を注ぎ、

バランスをとりながら自由意志に基づいて選択していく。

 

最善を尽くして、あとは、神意にまかせる。

そういう心持をタワックルと呼ぶのだ。

平安を求める心と裏腹に、私達人間は本来、顕在意識に、

あるいは潜在意識に、必ずと言ってよいほど、恐怖心を

持って生きているものだ。

未来に何が起こるかわからない、どんな事故に巻き込まれる

のか、災害が起こるのか、家族に不幸が見舞うのか、予測が

付かない上にさらにそれを思い過ごせば恐怖心となって、

心の片隅に水垢のように、根付く。

 

それに縛られないよう、タワックルの心持を持てば、

未来への不安が和らぎ、今与えられている幸福に気づき、

足元を見つめながら希望とともに明日への一歩を踏み出せると、

メヴァラーナは考える。

 

メスネヴィー3巻3105・3109には次のような寓話が

書かれている;

”一匹の雌牛が種々の甘い香草が生い茂る島にくらしている。

牛は一日中これらの草を食べ続けている。

日暮れ近く、彼女は満腹になり夜になれば体を横たえるが 

なかなか眠りにつくことができない。

明日もまた今日t同じように、満足のいく食事が出来る

だろうかと考える。

そしてもしできなければと悩む。

この悩みのせいで、彼女は一晩で針ほどにもやせ細って

しまわんばかりだ。

やがてまた、朝が訪れる。 

彼女は昨日より、さらに青々と牧草が生い茂っている

場所を見つける。

そこで安心して草を食べ、再び超え太るのだが、日が沈めば、

昨夜と同じ悩みに苦しめられる。

彼女は長い年月、このようにして過ごしてきた。 

実際に牧草が食べられなかった日は一日たりとして無かった

にもかかわらず、である。“

 

この寓話は筆者の心の中に潜む 不安な心持、感謝を忘れた心

などを浮かび上がらせた。

きっと、そういう体験をした方もおおいだろう。

その日与えられた食事や健康に感謝せずに、

これから煩わせるだろうと想うことに気をとられ その対策を

考えたり、ああしたらよかれ、こうしたら良かれと考え、

ついには、解決策も思い浮かべることなく、不幸がきても

居ないのに自分の不幸を嘆きたくなるようなブルーな気分で

眠りにつく。

反対に、良いことを感謝し、悪い事もいつかはもっと良くなる

為の手段と考え、結果的には善をもたらすと信じる。

そうした心持、積極的になるために、タワックルを身に着ける。

 

さらに一歩すすんで メヴラーナは 預言者ムハンマドの言葉

とともに 説明を加える。

“神に祈れ。だが、盗まれたり逃げられたりすることの無いように、

ラクダは繋いでおけ”

というムハンマドの言葉こそ、タワックルの根本にある原則でも

あるというのだ。

 

ラクダは砂漠では車以上の乗り物だ。 

ラクダを盗まれればたちまちに炎天下の熱の中で人間の小さな身は

一歩も進む事ができず、砂嵐に飲まれてしまうだろう。

自分の糧は自分で作り、その糧(かて)はきちんと管理して

守護するという生きる基本的な常識があってこそ、タワックル

が可能となる。

 

メヴァラーナは 続けていう;

【神の道を進むのに】ただやたらと歩けばよいというもの

ではない。

眼が見えぬわけでもないのに、見ようともしていない。

何の確信も根拠もなく、ただ漠然と歩みを進めているだけだ。

戦場で敵を信用すれば、どのような眼にあうか思いつきも

しないのか。

さいころの目にうつつを抜かす賭博人の自惚れのようなものだ

(メスネヴィー4巻・2921・2922

 

勤勉に働き労苦を惜しまないこと。

だから、クルアーン(クルアーン28章77節)には

“神が与えたこの世におけるあなたの務めを見出しなさい

人間はその努力したもの以外、何も得ることは出来ない

【同。53章39節】

“誰もがその稼ぎに対し、報酬を受ける

(同上・52章21節)

 

道を歩むときには手段と方法をしっかり考えなければならないという。

嘆きの道にも喜びを見出し喜びの道には油断なく目標を見据えて

歩み続けなければならない。

 

メヴァラーナは詠う;

“金銀財宝は常に人知られず 荒れ果てたところにそっと

隠されるもの。

誰しもが思いつくような場所に隠したのでは意味がない。

すぐに見つかる場所に宝を隠すものはない。

だからこそ、こうも言う。

‘歓びは常に嘆きの下に潜む’と。“

 

神の御心のままに、という言葉には、その行為に献身と

自助努力を惜しまない姿勢がある。

天は自ら助けるものを助ける ということわざにあるように、

精一杯努力をしたあとに神に任せるということをさすのだろう。

そのあとで神に委ねる、その感覚こそ、タワックル といえるだろう。

最後にメヴラーナは言う。

“神を信仰するのなら、代償として努力を惜しむな。

額に汗して、種をまき、その上で神に委ねなさい“

 

 

 

参考;“JALAL AL-DIN AL RUMI’  A Muslim Saint, Mystic and 

Poet Original title; Mevlana Celaleddin Rumi

Written by Prof.Dr.Emine Yeniterzi

Translated to English by Prof.Dr.A.Bulent Baloglu

日本語版 神秘と詩の思想家 メヴァラーナ トルコ・イスラームの心と愛

2006年 丸善プラネット株式会社 訳 西田今日子

 

 

 

 

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イスラム と 自由意志

2015年03月27日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

 

 形而上的癒しの根源~イスラム教から(5) 2015・3・27

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前書き)

30代の初めからインド生活においてのほとんど、私はイスラム教

に入信していた。

(あるきっかけがあり、イスラムの宗教的行事に参加することは

なくなった。)

その間、メッカに行き、ラマダンには、断食をし、日々5回の祈りを

捧げていた。

数年かけて 中東に各地に残されたイスラム教の聖地といわれる

場所(モスク)にはイスラエル・シリアを含めすべて巡礼した。

 

このように、キリスト教、仏教、神道、ヒンズー教など様々な宗教

の門をたたいてみたが結局 どのような宗教も、一つの心の宗教、

に帰一するのだということを学んだ。

 

イスラム教はヒンズー教同様、国内にいてはなかなか理解できない

のかもしれない。

外地でよりその真髄を体感出来うる宗教のひとつかもしれない。

イスラム教の愛、倫理、人生哲学、智慧、信仰と運命など

これから数回に分けて簡単だがお伝えしたい。

その目的は、その最後に、自然治癒力との関連性に触れられる と

思うからだ

 

 

イスラム教では 神の定めた道筋、定命 への信仰がある。

所謂 人は神の定めた運命によって生きているという。

すべては、神によって決定づけられ、用意されていると考えられた。

ならば、それ以外の道、つまり人が自由意志によって

決めることのできる範囲はあるのかどうかという問題になる。  

 

人間には行為を選択する自由意志はなく、

ある人物がたとえどのような振る舞いに及んだとしても

その行為の責任はその人物ではなく、神に帰される“と 

一般的イスラム教では主張する。

 

一方、人間の自由選択を主張する人もいて、

”この自由には、限界はない、時には神の予定を退けることが

出来る“ と反対意見を述べる。

前者をジャブル、後者の考え方をイフティヤールの能力と

それぞれ呼ぶ。

 

トルコの神秘主義のスーフィーの聖者メヴラーナは 双方の

意見を知った上で独自な意見を展開した。

二つの極論の間にある、中庸な道を説いた。

つまり、神の定めた道と人間の自由意志とは相反することなく、

両立するというように。

 

ルーミー物語には興味ある、次のような話を載せている。

“イブラヒーム・アドハム(#1)が狩猟に出かけた日の

ことである。

一頭のカモシカに眼をつけた彼は夢中で馬を蹴り

その後を追った。

いつの間にか側近たちも遠く離れて、一人きりになった。

うら若いこの王子とカモシカはやがて、寂莫とした

荒地にたどり着いた。

その時、カモシカが振り向き突如として、彼の心に

直接語りかけた。

あなたは狩猟のために創られたのではない。 

神の 意図はこのようなことにはないものを‘

 

この言葉を聴いてイブラヒーム・アドハムは

自らの創造の神秘と神の意思を雷に打たれたように

はっきりと知覚させられた。

たちまち、悔悛の感情が沸き起こり彼は馬から飛び降りて、

馬具も武具も身に着けていたきらびやかな外衣も

脱ぎ捨てた。

そしてたまたまそこを通りかかった羊飼いにすべてを与えて

代わりに羊飼いが着ていた粗末な衣を身に着け、彼は

そのまま神秘道を歩むものになった。“

 

 

 カモシカを追いながら、神に狩られた身の上を

メヴラーナはつづった。

これを例にとり、神の意思とは何かを描いたのだった。

もう一つ、面白い実話をとりあげている。

 

“ある晩 ファラオ(エジプトの王)は夢を見た。

彼と彼の王国が滅亡の日を迎えるという不吉な夢だった。

イスラエル人によって、それはなされることになっていた。

そこで、ファラオは国中のイスラエル人たちの夫婦の関係

を引き裂き、互いに合えぬようにした。

 

さらに、占星術師からすでに滅亡させる指導者、モーセが

誕生して居る事を知ったファラオはその年に生まれた、

何十万という男の赤ん坊を殺させた。

 

モーセの母は ファラオ軍の殺戮からわが子を守るため、

生まれたばかりの赤ん坊だったモーセを籠に入れてナイル川

に流した。

その籠は河の流れに運ばれて、やがて、ファラオの宮殿内部

に漂着した。 

赤ん坊を乗せたこのゆりかごに最初に眼を留めたのは、ファラオ

の妻だった。

彼女はこの赤ん坊が何故ここに、たどり着いたのか知る由もない

まま、彼女の庇護のもとに大切に育てられた。

この様にして、ファラオの策略は成就しないまま、彼の宮殿の中

育っていることを気づく由もなく、王国の滅亡の日を迎える事

になるのだった“

 

このエピソードの中でメヴラーナは神の意思と全能な力を人は

どんなに策略を施しても覆す事ができないと、私達に教えている。

同時に自由意志として、どの道を私達が選ぶかは判断と責任を

課して自由を与えたとする。

 

もし、アダムの時代から自由意志が与えられていなかったとしたら、

なぜ、アダムが楽園の禁じられた果実を食べ、罪意識を持ったか

矛盾することになるという。

 

“私達は、自らを裏切ってしまいました”

といって、悔悛の涙をアダブが流したとき、禁断のリンゴを口に

する誘惑を撥ね退けられなかったアダムの心情は、自由意志から

生まれたものだからだ。

がんじがらめに神が彼の心にまで蹂躙して、自らの意思に従わせ

ようと手足を縛ったのなら、むしろ、こうした罪意識を抱く行為

はしないですんだのかもしれない。

 

恥じる事、困惑すること、後悔すること、など、そうした、感情

神が定めた道で起きるはずはないとメヴラーナは想うのだ。

 

“自由意志は呵責の念として映し出される。 

もしも自由意志が無いというのならつきまとう、恥の感情をどう

説明するのか?

この悲しみ、罪の意識、困惑、羞恥をどう説明するのか?”

 

さらにユーモアに富んだ例も挙げている;

“泥棒が判事に向かって訴える。’判事様、私はただ、神の定められた

とおりにしたまでのことでして。。

 

判事もまた泥棒にこう応える

私もまた、神の定めるままにすべきことをしているに過ぎない’

 

双方は神の意思のままという言葉を使って自分の行為を正当化

したがるものだ。

もし、そこに自由意志がないとしたらだ。

しかし、神は自分の原型に基づいて人を創り出した。

神に意思があるのなら、人間にも同様に意思が与えられている

はずだ。 

最終的に、メヴラーナの考える自由意志と神の定命との関係は

次のように言えるだろう。

 

人間は地上において神の代理を務める力を与えらた。

多くの知識と智恵を与えられ唯一生物の中で神を賛美することが

できる能力を持つ。

人間は選択する力、自由意志でそれを行使する事が赦されている。

この特権を持つ以上、責任も負わされる。

つまり、自分で撒いた種は自分で刈り取るという因果の法則が

それである。

 

神に責任を負わして、自らは怠惰に、停滞を赦すことは自由意志

を有意義に使っている事にはならない。

するだけのことをして、最後には神の手に任せるという選択は、

日本語でいう、人事を尽くして天命を待つ“という態度にも匹敵

するのだろう。

 

 

 (#1)777年没。本来は、バルブの子だったが、悔悛し地位を得て

修行の道に入ったとされる伝説的なスーフィー

 

 

参考;“JALAL AL-DIN AL RUMI’  A Muslim Saint, Mystic and Poet 

Original title; Mevlana Celaleddin Rumi

Written by Prof.Dr.Emine Yeniterzi

Translated to English by Prof.Dr.A.Bulent Baloglu

日本語版 ”神秘と詩の思想家 メヴァラーナ 

トルコ・イスラームの心と愛”

2006年 丸善プラネット株式会社 訳 西田今日子

 

 

 

 

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イスラムと倫理~アダブの実践   

2015年03月24日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

 形而上的癒しの根源~イスラム教から(4)        2015・3・24

************************************

前書き)

30代の初めからインド生活においてのほとんど、

私はイスラム教に入信していた。

(あるきっかけがあり、イスラムの宗教的

行事に参加することはなくなった。)

その間、メッカに行き、ラマダンには、

断食をし、5回の祈りを捧げていた。

数年かけて 中東に各地に残された

イスラム教の聖地といわれる場所

(モスク)にはイスラエル・シリアを

含めすべて回ることもできた。

かつて、キリスト教、仏教、神道、

ヒンズー教など様々な宗教の門を

たたいてみたが結局 どのような宗教も、

一つの心の宗教、に帰一するのだと

いうことを学びから得た現在だ。 

イスラム教はヒンズー教同様、国内に

いてはなかなか理解できないの

かもしれない。

外地でよりその真髄を体感出来うる

宗教のひとつかもしれない。

イスラム教の愛、倫理、人生哲学、

智慧、信仰と運命などをこれから

数回に分けて簡単だがお伝えしたい。

そして、最期に 形而上的癒しとの

結びつきを考え自然治癒力との関連

に触れられればと思う。

 

ムハンマド(モハメッド)は数ある言葉をクルアーン以外

に残しているが、”伝承”、または、”ハディース”として、

後世に語り伝えられている。


たとえば、“宗教とは智恵を伝授しあうことである。”

とか、“イスラームという宗教は善行を薦める”とかいう

ような言葉がある。

 

善を行うために、智恵が不可欠だ。

智慧とは何か?、

それを分かりやすく詩の形で残したのがメヴァラーナだ。


だから、彼の詩は、イスラム教の聖典クルアーンを

わかりやすくまとめた、”聖典のエッセンス”とも

いわれている。


メヴァラーナは智慧と善行を行うための、智慧と倫理

(りんり)の関連性を次のように説く。


智慧ある人は倫理に優れる。イスラム教で倫理的な

言葉を意味するものは、アダブ(#1) といわれる。


善をなす、つまり、”アダブ”が実現されるための

唯一の条件、それは、心の底からそれを行う

”真摯な誠実さ” だとする彼は、まず、アダブ 

の実践に、ねたみ、うそ、偽善 中傷を慎む

事から始めよう” という。


具体的には善行を行うにあたって、避けるべき事を、

次のように定義している;

①*野心; 

野心はそれを持つものの目を曇らせ、耳をふさぎ、

理性の働きを鈍らせる。

その結果野心を持つものの心は外部から遮断され、

無知へと転落する。

②*嫉妬; 

嫉妬は習慣のうち最も悪いものであり、すべての欠陥

と過失の種である。

③*中傷; 

中傷、影口の類は、人の肉を食うも同然の忌まわしい

行為である。

それを行うものの口が、悪臭を放つ事を神はよく

ご存知である。

④*高慢; 

かつて天使であったものが罰を受け、永遠に神の

赦しを得ることなく、悪魔となって、さまよっている。 

すべて高慢さから来たものである


⑤*富への執着

富への執着とは、喉に詰まったワラである。

現世の名誉や財産に目のくらんだ人々の喉に

詰まっているこのワラは、永遠の至福の源

となる生命の水が、喉許を過ぎ体内に浸透するのを

邪魔している。

⑥*賄賂; 

賄賂がまかり通ると、正義は麻痺し、秩序は乱れる。

人々は混乱し、暴君と名君、圧制と善政の判別が

できなくなる。


⑦*他人の欠点をあげつらうもの

そもそも人間は、自分の短所の数々を、気に

病まずにはいられない。

一旦、気づけば、何とかして直そうと躍起になる。

そして、他人のことなど構っている余裕はなくなる。


それでも他人の欠点や短所をあれこれ詮索する

のは、結局は自分の欠点を受け入れらず、他人に

押し付けようとしている場合がほとんどである。

⑧*うそ; 

”うそ”は言うものも言われるものも 心の疑念を

呼び覚まされ、気の晴れることはない。

だが、真実は常に心に平穏と安定をもたらす。

 

こうした簡単でわかりやすい言葉で 、人の陥りやすい

心のわなに注意の喚起を呼びかける一方、”善行”の資質を

次のように定義している:

①*謙虚さ; 

謙虚さはその人の価値を高める美徳である。

実を結ばない木の枝は空高く伸びる。

それにひきかえ、たわわに実る果実をつけた枝は

垂れ下がる。


果実が実れば実るほど、体はその重みで垂れ下がるが、

地面に触れて泥に汚れぬように、必ず添え木が差し

出され、支えてもらえる。

謙虚さについては、預言者ムハンマドがその好例である。

彼こそは、現世と来世双方の果実を一身に集めた、

世にも珍しい貴重な枝である。

②*寛大さ; 

心優しく寛大な者が貧者に救いの手を差し伸べる

とき、その手は楽園の木々に触れているのだ。 

彼が貧しい隣人たちのために費やしたものは

審判の日に再び彼の手元に帰される。


③ *約束の尊守

約束を実行するかどうかが、その人の誠実さを測る

物差しとなる。

誠実な人だけが賞賛するに値する。

④*怒りを鎮める

怒りの感情が湧き起こっても、それを抑制すること

が出来るものは、神の怒りをも免れるものたちだ。


⑤*忍耐

忍耐こそ、救済の鍵である。 

忍耐はあらゆる種類の困難を取り除く。



その他にも 勤勉、災難から学ぶ事、吝嗇を

避けること、暴飲暴食、惰眠を控える事、

つつしみ深くあることなどを 持つべき美徳として

挙げている。


その語り口は、これまでみたように やわらかく、

押し付けがましいものでもなく、わかりやすく説得力に

富んでいる。

 

こうした行為の基盤にある、アダブ を 頭だけで

理解して、智恵として心に蓄えただけでは、意味はない。

“それが実行されない限り、何の意味ももたない。

ただ、舌や耳で繰り返すだけであるなら、それは、

愚者が賢者から借りてきた衣装に過ぎない”

と言う。


これらの善行と悪行との違いを意識し、実践する

ことがセルフコントロールにつながり、自分の身

を外界の誘惑から守る事ができると考えた。


それを可能になったとき、アダブ と呼ばれる倫理的

美的所作と、善事の智慧を身に着けていると賞賛に

値する人物になれるのだ。

 

そして、その過程では アダブを、すでに身につけた

人を友人として選ぶ事の大切さも補足している。


“さあ、行くが良い。そして助け手となれ

あなたの助けを必要としているものがいる。

案ずるな、時は常にあなたに味方するだろう。


時は、決して恩を忘れたりしないから。

ずべてのものがいつかはこの世から立ち、去る富も

財産もあの世に持ってはいけない。


あなたも、いつかはこの世から去る日が必ず来る。

その時の、現世の置き土産には何より、喜ばれる

ものがある。

富よりもたった一つの善行、そのほうがはるかに

勝るのだ“(四行詩集 88)

 

 

 *1 、【礼儀作法、優雅さ、道徳を意味する

参考;“JALAL AL-DIN AL RUMI’  

A Muslim Saint, Mystic and Poet Original title; 

Mevlana Celaleddin Rumi

Written by Prof.Dr.Emine Yeniterzi

Translated to English by Prof.Dr.A.Bulent Baloglu

日本語版 神秘と詩の思想家 

メヴァラーナ トルコ・イスラームの心と愛 2006年 

丸善プラネット株式会社 訳 西田今日子

 

 

 

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イスラムと心と知識 

2015年03月21日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

 形而上的癒しの根源~イスラム教から(3)   2015・3・21

********************************

前書き)

30代の初めからインド生活においての

ほとんど、私はイスラム教に入信していた。

(あるきっかけがあり、イスラムの

宗教的行事に参加することはなくなった。)

その間、メッカに行き、ラマダン

には、断食をし、5回の祈りを

捧げていた。

数年かけて 中東に各地に残された

イスラム教の聖地といわれる場所

(モスク)にはイスラエル・シリア

を含めすべて回ることもできた。

かつて、キリスト教、仏教、神道、

ヒンズー教など様々な宗教の門を

たたいてみたが結局 どのような

宗教も、一つの心の宗教、に

帰一するのだということを学びから

得た現在だ。 

 

イスラム教はヒンズー教同様、国内にいては

なかなか理解できないのかもしれない。

外地でよりその真髄を体感出来うる宗教

のひとつかもしれない。

イスラム教の愛、倫理、人生哲学、智慧、信仰

と運命などを、これから数回に分けて簡単だが

お伝えしたい。


そして、最期に 形而上的癒しとの結びつきを考え

自然治癒力との関連に触れられればと思う。

 

 

”心”への向き合いかたは 多くの人達のテーマだが、

トルコ人にとっては、永遠のテーマであるという。

それを伺い知り得るのも古典詩や,民謡などの古典芸能

のテーマからだ。

それも、トルコの中世スーフィー聖者 メヴラーナの

影響が決して少なくないだろう。


メヴァラーナこそ、”心”について深く洞察して多くの

詩篇を残している。

 

イスラム教では 心をどうとらえているのだろう?

"心"は サウジアラビア・メッカにある、最大の巡礼地、

カアバ神殿 に例えられる。


それは

“神ご自身がご覧になる神聖な場所であり、神がその

計画の一端を知らせる神秘の座である”

と考えられているからだという。

 

10年以上前になるが、私は、”オムラ”と称する巡礼を、

サウジアラビアのメッカで行った。

カァバ神殿に 祈りを捧げる、それが最大の巡礼の行事

一つでもあった。


心は カアバ神殿に匹敵するというのなら、大切な尊い

ものであるということは疑いない。

もし、その心が、磨かれずに、埃にまみれていては、

その本質を発揮することはできないという。

心を鏡に喩え、埃のついた心であるなら、神の意思を

映し出すことができないと考えるからだろう。

その埃とは、イスラム教では、現世の欲望や嫉妬などをさす。

 

鏡が常に磨かれて塵埃で姿を完璧に映し出すことが

できるように、心も常に純粋で愛と誠実に満ちた

状態であることが望まれる。


戒律を守り、一日5回の礼拝をして、体を常に浄める。

とはいっても イスラム教では、心のその状態に重きを

置くために 決して行為そのもの、結果そのもの

に固執するわけではない。

 

ムハンマド(モハメッド)は そのことを簡単に、

“神はその姿や形をご覧にならずに、その心と意図と

をご覧になる

といい、野心や貪欲さを隠した善行、それは偽善に

ほかならならず、神が受理されるものではないと

言い切る。

 

同様の意味で、メヴァラーナはメスネヴィー5巻(874-886)

で次のように詠う;

 

“預言者 ムハンマドはこのように申された。

神は外に顕れるものをご覧にならない。

されば、何事かをなすときは、心を占めるものは

何か自問せよ。


だが自らの行為に満足したものは、それ以上の探求は

しない。

そして、自らの心を、心と称してはばからない。

7層の天のごとくに、7百もの無知のヴェイルに覆われ、

視界からも遮られているものを、そのような得体も

知れないものを、心 とは呼べない。


神はこのように、申された。

礼拝の際、どれほど深く頭を垂れたか、どれだけの金

を喜捨したかを見ているのではない。

あなた方の心の占めるものを通して、我はあなた方を

測る。“

 

愛は人と人との間で問われる資質だけではなく、神と

人との間にも重要性を持つ。

知性や論理で神を知ることはできずに、愛 という

確実な情感を持って知り合う関係が 神と人の間にも

あるという。

 

だからこそ、メヴラーナは 

“神の愛によって満たされた心は、神の太陽を照り返し、

光にあふれ豊かに繁栄する”、【メスネヴィー1巻・53】

と詠い神への愛を持つ事のない人との区別をしている。

 

神への愛を持たないということは、神以外の何かに

その心をゆだね、想いを注ぐこと。

そういう人達のことを、メヴラーナは”不信心“な信者 

呼び、神の庇護は受け付けない、かたくなさで

“戦場のごとく不穏な空気に包まれ、荒れ果てた

街のような心情に苦しむだろう”

という。【4行詩篇】

 

冒頭に述べたカアバ神殿は 、イスラム教信者は

一生に一度は、巡礼する、メッカの地にある。

そして、その神殿の周りを回り、神への信仰 を新た

にするのだ。

心をカアバ神殿に喩える一方、メヴァラーナは次のよう

に詩にした。

 

“カアバは聖者たち、預言者たちのための家。

そこには神の言葉が宿る。

しかし、それを理解する心なくして、カアバに何ほどの

意味があるだろう?“

 

心とは純粋に保たれるとともに、神聖なものに対する

純粋な愛と理解も同時に持たれるべきものだと、

メヴァラーナは言う。


さらに付け加えるのなら、愛とともに不可欠で、それを

補い合うものが 知性であるとメヴラーナは考えた。

 

知性には2種類あるという。

一つは 個別知性、個々人がそれぞれの体験や学びから

得ている知性であり、他方は普遍知性といわれ 宇宙の

すべての法則に浸透している、創造性のある知性である。

 

イスラムではこの普遍知性を ムハンマドの真実と言う

意味の言葉“ハキーカテ ムハンマディーイェ”

と呼んで区別する。

 

個別知性を獲得するために人は常に学び続ける。 


しかし、普遍知性は魂の奥底で真理を直観したときに

得られる。

預言者という言葉が良く使われる。


ムハンマドはイスラム教で最大の預言者であるが、

一般的には、預言者とは普遍知性と個別知性との橋渡し“の

役割を果たす”普遍知性の持ち主”をさす。

 

個別知性は、それのみでは究極的な救いを人に与える

事ができないから、普遍知性を述べ伝え、福音として

人々に自分の内なる神、全能者への愛を訴える役目を

預言者たちは持ち続けてきた。

 

メヴラーナはだからこう詠う。

“病人を医者の許へと連れて行くのは、知性【個別知性】

働きによる。

だが実際の治療には、この知性は何の役にも立たない

 

治療して治る ということはどういうことか?


究極的な癒しとは、その人の中にある普遍知性が

その人の体の管理能力を発揮することで完治できると

考えている。

 

ここに 彼の考える形而上的癒し根本的考え方がある。

薬や医者の言葉はある意味、その自主管理能力を発揮

するための、一つの動機や手段に過ぎないと考える。

 

だから、さらに続けてこう詠う;

“単なる知性が網羅できるのは良くても現世までのこと。 

だが、神の友の知性(普遍知性)は来世までをも

網羅する”

 

愛がこの世を渡る大海原に走る帆掛け舟だとしたら、

知性【個別知性】は自己意識過剰な、泳ぎ手の名手と

思い込ませる自我に似ている。

 

メルヴァーナはこう詠う;

知性の働きとは海を泳いで渡ろうとする判断に似ている

泳ぐのをやめよ。 

一時の見栄や敵意を捨てよ。


ここはただの海ではない。 

深い助け手もいない海。

知性を売り払い、直感を買い求めよ。


愛の帆掛け舟に乗り、愛を助け手とし、知性を捨てよ。”

 

個別知性は、部分に対する私見に過ぎず、

普遍知性は直感に連なり、全体を見渡すヴィジョンを

与える。


預言者は、個別知性をして普遍知性を与えた全能者、

つまり神へと 人々を導くが、その道には愛という

芳しい優しい花の香りにつつまれていることを

メヴァラーナは私達に教えてくれているようだ。

 

 

 

参考;“JALAL AL-DIN AL RUMI’  

A Muslim Saint, Mystic and Poet

Original title; Mevlana Celaleddin Rumi 

Written by Prof.Dr.Emine Yeniterzi

Translated to English 

by Prof.Dr.A.Bulent Baloglu

日本語版 神秘と詩の思想家 

メヴァラーナ 

トルコ・イスラームの心と愛 

2006年 丸善プラネット株式会社 

訳 西田今日子

 

 

 

 

 

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イスラムのいう、真の人間になるということ

2015年03月18日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

形而上的癒しの根源~イスラム教から(2) 

2015.3.18

*****************************

 前書き)

30代の初めからインド生活においてのほとんどの時間、

私はイスラム教に入信していた。

(あるきっかけがあり、イスラムの宗教的行事に参加する

ことはなくなった。)

その間、メッカに行き、ラマダンには、断食をし、

日々5回の祈り捧げていた。

数年かけて 中東に各地に残されたイスラム教の

五大聖地いわれる場所(モスク)にはイスラエル・

シリアを含めすべて巡礼した

 

こうして、キリスト教、仏教、神道、ヒンズー教など

様々な宗教の門を、真理を求めて、たたいてみたが結局、

すべての宗教は、一つの”心の宗教”、帰一するのだ

ということを学んできた。 

イスラム教はヒンズー教同様、日本国内にいてはなかなか、

理解できないのかもしれない。

外地(現地)でより、その真髄を体感出来うる宗教のひとつ

かもしれない。


イスラム教の愛、倫理、人生哲学、智慧、信仰と運命など

の考え方を、これから数回に分けて、簡単だがお伝えしたい。

そして、最期に自然治癒力との関連に触れられればと思う。

*******************************

 

スーフィーの聖人、メヴァラーナは、次のように言う。


“天地創造の精髄も、現世における、肉体もすべての創造物は、

当時と切り離されたものではなく、その本質で繋がっている。

つまり、愛のみが繋げているものである“


愛のない生は、意味がないとまで断言した。

“運は気まぐれ、友にもなれば敵にもなる。

けれど愛は常にあなたの友であり続ける。


愛なくして生はない。

それを生と呼ぶのなら、愛なくして生には何ほどの価値が

あるというのだろうか?“


先回のテーマとして、’愛とイスラム教’ついて触れたが

今日は’人間の本質’についてみてみたい。


イスラム教聖典クルアーン95章4節に以下の言葉がある。

 ”本当にわれは人間を最も美しい姿に造った ”

この一節を取って、メヴァラーナは次のようにうたう。

 

”創造の目的はただ一つ、人間のために他ならない。

人間の吐息一つにも、その魂ほどの価値がある。

抜け落ちた髪一筋にも秘められた財宝がある。”

・・略・・

時には天使ですら、われらの無垢をうらやみ、時には

悪魔ですら、われらの蛮勇を恐れて、逃げだす。


泥土で練られたわれらの肉体、だが、その内側には

神の信託がこめられている”


メヴァラーナは 人間自らの価値を確認して、内奥を探求

することで真の【人間】になる’と考えた。

続いて、メヴラーナはいう:


“生命の奥深くに眠る魂を探り当て、あなたの導きとせよ。

肉体という名の山奥深くに秘められた財宝を、探り当てよ。


探求者よ、能う限りの力を持って、必ずそれを見つけ出せ。

外ではない、あなたの内側、あなた自身の中にこそ

あなたの探し出すものが見つかる(四行詩篇22)

 

イスラムでは、ヒトには、地上における神の代理足りうる

能力が与えられていると、考える。

神の代理とはどういうことだろう?

 

神の地上における権限の”具現を任されたもの”と

言う意味だ。

一方、人は、朽ちる肉体を持って生まれる。

本質的人間をイスラムではどう見ているのだろう?


キリスト教でもイスラムでも人間は、泥土をこねて

作られた価値のない創造物であったとき、神自身が吐息

を吹き込み、創造の目的にかなう存在になしたと

信じられている。

しかし、”本当の自分”はそうした物質的なモノの中にないと、

中世トルコのイスラムスーフィー派では捉える。

 

だから、メルヴァーナはこう詠う。

あなたは水でもないし、石でもない。 

何か特別なものだ。


あなたは旅の途中、もはや、泥土の世界から遠く離れた。

その体には形作られた灌漑(かんがい)があり、あなた

の精神はその中を永遠に流れる水に等しい。

けれど、あなたはそのことに気がつかない。

自分の自我に固執している限りは。“

 

”小さな自我”と 神がご自身の精神性を、人型に託した

存在を”本来の自分”と思う意識は、違うという。


自我を滅せよ とはすべての宗教の教えの’根本的課題’。

メヴァラーナは、自分の本質に目覚めない限りは、

小さな自我から脱却することはないとする。


イスラムでは、自分自身の中を流れる永遠のスピリット、

泥土という現世的な価値観をはるかに超えた、本当の自分自身

見出すために、小さな自我を打破せよ説くのだ。

 

”外見に囚われれば、何を知ることもなしに一生を終える。

あなたは、ただ知ったつもりでいるに過ぎない、“

 

外の器に目をやる限り、器の内側にある真の価値に

気がつかないだろう。

だから次のフレーズで、メルヴァ―ナは再三、忠告する


 “自身の内側に還れ、あなたの内側を、良く見るが良い。

そこにあるのは、【真の人間】の姿だ。“

 

預言者ムハンマド【モハメッドの事】は、膨大な量の

ハディース(伝承された言葉)を残しているが、その中に、


“理性が欲望を制御できず、欲望に理性を蹂躙させる

であれば、その者たちは、獣よりなおたちが悪い”

と言う言葉がある。

 

メヴァラーナは、この言葉をさらに引用して、独自の

考え方に発展させた。

それは、あらゆる生命は次の段階のどれかに当てはまる

いうものだ。

 

*第一の段階 

完全なる理性、知識、純粋さをかね備えた領域。

天使の領域とも呼ばれ、ただひたすら、神を賛美し、

崇拝し、神の愛を感じ、それに感謝と喜びで答える

ことが彼らの一番の喜びである。

その他のことは彼らにとって、知る由も無いことであり、

知る価値もない世界であるのだろう。

 

*第二の段階

獣の領域。

与えられた餌 を むさぼり喰うことが唯一の楽しみであり、

家畜同然の領域である。

彼らには、その他のことは念頭にないため、神への崇拝、

畏敬、慈しみ、懐かしさなどの気持ちない。

 

*第三の段階

半分天使、半分獣の性質を兼ね備えたものの領域。

つまり、イスラムで考えられる アダムとその子孫で

ある人間の領域でもある。

 

獣としての彼は、低い欲望のレベルに引かれ、理性に

よって、軌道修正をしながら、残り半分を占める、

天使の領域の性質がなせる業といえよう。

 

イスラムの人間観、それは、動物、悪魔、天使、崇高な

慈愛のすべてを兼ね備えたものしながらも、

その魂の奥にある、神の息吹、つまり、神聖さを自覚する

ことが人生の大きな演目となっていることも見逃しては

いない。

 

人間の霊魂は、こうした悪と善、天使と悪魔の間を

揺れ動きながら、結局、“神へと引き寄せられずには

いられないいうわけだ。

 

だから、クルアーン27章72節が、それに呼応している。

“高貴な者とした~と神は告げた”とある様に、どの人間

にも必ず備わっている高貴な特質を、特に強調した。

 

メヴァラーナは その高貴な者として造られた人の

本源を 内面の本質と理解し、小さな自我を消滅させる

ことで 真の自分を見出そうとしたのであった。


 

参考;“JALAL AL-DIN AL RUMI’  

A Muslim Saint, Mystic and Poet 

Original title; Mevlana Celaleddin Rumi

Written by Prof.Dr.Emine Yeniterzi

Translated to English 

by Prof.Dr.A.Bulent Baloglu

日本語版 神秘と詩の思想家 

メヴァラーナ 

トルコ・イスラームの心と愛

2006年 丸善プラネット株式会社 

訳 西田今日子

 

 

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