動物たちのように自由に感覚と欲求にそった自由な生き方が、なぜ悪い? 2021・9・30
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久しぶりに、インドの聖者、サイババ師の登場です。
今日は、感覚について。感覚というのは、
五感の機能でいろいろ刺激を受けた際に、
生じるものです。
欲望や感情、自分ではコントロールが難しい
激しい波に、どう、聖人たちは対処して
いったのでしょう。
なぜ、コントロールが必要なのでしょう?
そんなところから、今日のお話をお読みに
なってください。
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ここからサイババ師の講和になります(*1):
”他人の畑の作物をこっそり食べるという、
悪い癖がついた動物がいます。
どうやって、その動物の悪癖を止めさせる
ことができるでしょう。
その答えは、その動物に、畑の作物よりも、
もっと美味しい緑の草を厩で
たべさせるのなら、だんだん厩(うまや)
で食べるほうが安全で、美味しいと
いうことがわかり、それに慣れるにつれ、
畑の作物を、危険を冒してこっそり
食べるという悪い習慣から離れられるでしょう。
これと同じように、人間の感覚の
コントロールもなされるのです。
感覚は’バス”という動物に,たとえられてきました。
’バス’という言葉の意味は、その視覚が
外側に向いたものという意味です。
内面的資格をもったものは、’バスパティ’、
つまり、’動物たちの主’(シヴァ)
と呼ばれます。
人間は’バス’ではなく、バスパティとして
の自覚を本来持っているものです。
ところが、現代人の多くが、感覚の奴隷に
なってしまったことは、嘆かわしいことです。
もし、あなた方が、感覚的楽しみが生まれる
場所を注意深く調べると、その起因して
いるところは悲しみにある、ということが
わかるでしょう。
あらゆる、感覚の楽しみには、悲しみの
刺し傷がついて回っています。
感覚から引き出した楽しみは、
一時的なもので、結局は悲嘆に
終わることが多いのです。
欲望がある瞬間に起こると、
次の瞬間には激減します。
たとえば、ラッドゥ(インドの有名な甘いお菓子)
を食べたいという欲求が、今あなたに起こります。
それをかなえて二個食べます。
が、その時には、甘いものはもう沢山、
という嫌な感覚がよぎります。
これが、欲望が起きてかなえると、
次の瞬間には、満足したと同時に、嫌悪感
が生じる例です。
つまり、楽しみと苦しみは、連続して起こります。
いわゆる感覚的楽しみの、瞬間的でその結果、
人を欺く性質をこのように、
観想するだけで、識別と欲望に無関心な心
を養うことができるでしょう。
そして、諸感覚を常に忙しく活動させている
ことも、感覚からの余計な面倒を
起こさないようにするには良い方法でしょう。”
(以上引用)
サイババ師はこの講習を、サイ大学の大学生を
受講者として行っている。
まさに、青春の真っただ中、感覚は研ぎ澄まされ、
欲望もエネルギィシュに自然と満ち溢れる
年代である。
感覚の奴隷になるな、という言葉は、
その欲望に振り回されるなということだろう。
振り回されて自分に戻ったとき、そこには、
喜びに見えていた光景が、一瞬にして
味気ないものに変わっていたということが、
大いにあり得るからだ。
さて、ここで、サイババ師はインドの
古代聖者である、クリシュナについて語る:
”クリシュナ(神)は、常にシスバラや、
ダンタヴァクラのような人々から、ひどく
悪口をいわれていました。
ある時、高名は人々でぎっしり詰まった
ダルマラジャの大集合場で、尊敬と栄誉の
第一の捧げもの、すなわち、アグラ・
タンポーラム(*2)を誰に与えるべきかという
問題が起こりました。
ビシュマや、ドローナのような傑出した
人々たちも列席していましたが、
パンダヴァ家の人々はこの無比の栄誉は、
当然、クリシュナだけに与えるべきだ
と決めました。
そこで、ダルマラジャは、クリシュナの
足を洗い、彼に尊敬と栄誉の第一の捧げもの
を与えました。
しかし、それを見ていた、心の狭いシスパラは、
それに嫉妬を感じ、痛烈に罵倒を
し始めました。
偉大な賢者たち、傑出した人々の真ん前で、
邪悪なシスパラはクリシュナに対して、
毒を含んだ悪口を浴びせ始めたのです。
たとえば、クリシュナは、他人の家から
バターを盗んだことがある泥棒で、
無邪気な牛飼いの娘たちからサリーを
奪ったり、娘たちのしとやかさを踏みにじって、
悪ふざけを仕掛けたりするような過去が
あるのだから、第一の栄誉をクリシュナに
与えるのは、この尊厳な集会に対しての、
侮辱に値すると、クリシュナを罵ったのです。
シスパラによるこうした、罵り罵倒、悪口が
限界を超えたと思われたとき、クリシュナ
は突然、ダルマラジャがクリシュナに
捧げものをした皿を、シスパラめがけて
投げつけました。
クリシュナは、その時、彼のスダルシャナ・
チャクラ(*3)を投げつけたという人も
います。
しかし、それは正しくはありません。
クリシュナが、シスパラの首をはねる結果になった、
この皿はその時受け取った栄誉ある皿であったのです。
ダルマラジャは、これを目のあたりにして、
悪い輩である、シスパラの息絶えたことに
安堵しました。
しかし、次の瞬間、彼の安堵は、極度の驚愕
と狼狽にかわりました。
なぜなら、シスパラの切断された首から
出る血が、クリシュナの聖なる足に落ちたとき、
シスパラの胴体から立ち上る生命の炎が、
クリシュナの身体の中に同化し溶け込むのを、
はっきりと目撃したからでした。
この奇妙な現象に仰天したダルマラジャは、
ナラダ(クリシュナ)に、シスパラの
ような裏切り者で、クリシュナに敵対して
いた人間が、その魂をクリシュナの中に
溶け込ませるような、輝かしい最期を
とげられたのか、その理由を聞きました。
このような最期の達成は、ごく稀な、
神に全託した帰依者でさえ、ほとんど、
望めないものなのに、不思議でたまらなかったのです。
これに対して、クリシュナはこう答えました;
’暴言でも賞賛でも、悪口でも尊敬でも、
それは肉体にだけ、属するものです。
あらゆる、二元的対立を超えたアートマ
には属していないのです。
一つの至高な、パラーアートマだけが
あらゆる存在物の中に住んでいます。
そういう場合に、だれが罵るもの、
また、罵られるものでしょうか?
だれが友達でだれが敵でしょうか?
皆、同じです。
神を絶えず思う気持ちに浸された血は、
神への捧げものです。
動機が、憎悪でも愛でも、欲望でも
嫉妬でも、自我でも全託でも、感情がどんな
種類のものであっても、神を絶えず
覚えているもの、心に口ずさんでいるもの、
言葉に出しているものならば、
それで十分なのです。’(以上引用)
これはどういうことだろう?
シスパラは多くのクリシュナの帰依者以上に、
クリシュナの名前をしばしば
思い起こしていた。
帰依者たちは寺院や、クリシュナの絵姿を
見たときに、手を合わせて思い起こす
ものである。
が、シスパラは、クリシュナへの激しい
憎悪のために、あらゆる場所で寝ても
覚めても、常にクリシュナに恨みつらみ
を覚え、思い詰めていた。
矛盾しているようだが、このように、
クリシュナのことをシスパラは、間断なく
思い浮かべていたために、最期の死の瞬間、
クリシュナに同化し、融合しえたのだと、
サイババ師はいう。
さらに、サイババ師は話をつづけた:
”世間の人々は、物事や行為の表面的な
外観だけしか見ていません。
しかし、神はそのような見方をしない。
神は嫉妬や憎悪、好き嫌いから、離れています。
神は澄んだ鏡のような存在です。
微笑には微笑、挨拶には挨拶というように、
返ってきます。
神にとっては、作用・反作用はありません。
神はだれに対しても罰を与えたり、褒美を与えたり
しないのです。
あなたがたは、自分の行為によって、罰せられたり、
報われたりするのです。
したがって、だれも神に向かってだれかを
ひいきするとか、無関心だとか、責めたり、
神の行為を疑問に思う資格はありません。
どんな人々の中にも神は存在しています。
神の行為は常に愛に満ち、利己性から
完全に離れてますから穢れなきものです。
神には多種の呼び名が古代からされてきました。
たとえば、’無属性、無垢、すべてのすべて、
永遠、照らされた究極の意識、自由、
など’です。
神の目には不浄や淨すらありません。
それはすべて、あながたの視覚の中にだけ、
あるのです。
あなたが思うとおりに、あなたは成るのです。
感覚のせいにしている、欠陥も、実をいうのなら、
あなた自身の思考過程と感情にある、欠陥です。
もしも、諸感覚を正しく扱うのならば、
その感覚はあなたに、正しい印象を
提供することでしょう。
賢いと思っている学生は次のように
論じるものもいます。
’鳥や牛や野獣を見るがよい。
彼らは好きなものを食べて、気に入った異性と
交わり、思うように飛んだり、さまよったり、
している。
なぜ、人間には、これらの低級な動物が
楽しんでいるような自由が否定される
のだろう?’かと。
まったく、まことしやかな議論です!
しかし、この賢者ぶる若者に、動物たちは、
どういう種類の自由を楽しんでいるのか?
と聞いてみればその答えは、間違いなく
’動物的自由です’となるでしょう。
動物は、動物的自由を楽しんでいます。
それには不都合なことはありません。
しかし、人間であるからには、動物の自由
を楽しみたいと思うのは不都合では
ないでしょうか?
人間にはふさわしくないからです。
あなたがたは、’自由’という言葉に、
いくつかの、間違った意味と人を迷わる解釈
を与えようとしています。
あなたがたの努力の目的とするべきものは、
感覚からの自由であって、感覚の自由
ではないはずです。
真の自由とは、高次の(本来の自分に
到達して、アートマの永遠の至福
(アートマナンダ)を体験するために、
諸感覚と低次の自分を、制御することです。”
(引用以上)
(*1)サティアサイババ師の1990年、
夏期講習会、インド・プッタパルティ
アシュラムに於いて
(*2)パン・スパリと呼ばれる、キンマの葉の捧げもの
(*3)神の円盤の意味
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