自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

チベット死者の書より(1)

2024年09月16日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)




エゴ意識と病   2024/09/16
******************

久しぶりに最近読み直した本は、チベット密教の名著、
”チベット死者の書” です。

私事で恐縮ですが、9月19日は 夫の三回忌にあたります。
彼が無事に”天の本宮”にたどり着き、活き活きとしている
ことを確信しながら・・仏教での亡き人の弔いの言葉を
読み直しました。

’死者のための書’と思いきや、現象界に現在、生きている
人間が この世にいながらにして、極楽浄土へ行ける法
を知れるような気がしました

それは、どの念(想い)によって、曼荼羅の中心層
織りなす、極楽浄土に 意識が移行できるかを 
説いている章です。

瞑想 しながら、次のように 念じるとあります。
 
私は、今まで 時のない時、永劫の間、
夢幻の沼地を 彷徨ってきたとは
なんと、嘆かわしいことだろう。

今までに、大我 の意識を悟って、ブッダフッド
(光明の境地)に解放されていないとは、
なんと痛々しいことだろうか!
 
この夢幻の妄想が 私に吐き気を催させ、
怖がらせ、病気にさせてきた。

今こそ、そこから 逃げ出る準備が整った。 

私は、ブッダ・アミターバ(阿弥陀如来)
足元のハスの花の間から 奇蹟的に、幸福な
西方浄土に生まれるように、努めんと欲する。
**

こうして、その浄土への想いを一心不乱に、
集中することで、その願いは必ず、成就されると
書かれています。

それとともに、日頃の大切な心持は、次のように、
’生まれる寸前の意識’の大切さとして、次のように、
書かれています。
 
 子宮の入り口を選択するとき、誤りがあるかも
しれない。

カルマの力のために良い子宮が悪く見え 
悪い子宮が 良く見えたりするかもしれない。  

そのような誤りはありうる。

子宮が良く見えても、眩惑されるな。

それが悪く見えても、反発を抱くな。

反発は眩惑だ、
あるいは、避けたい願望 
入りたい願望から自由であること。

完全に公平な心境にあることが 最も深淵な
心の統括技術である。
**

 
”子宮の入り口に入る”というのは、私たちが霊魂で
肉体を持つ前に、どの女性を母にするか、と決めるとき
の話です。

そのとき、

”反発は眩惑だ、
あるいは、避けたい願望 
入りたい願望から自由であること。”

”完全に公平な心境にあることが 最も深淵な
心の統括技術である。”

とあるように、反発や、魅惑に引き付けられる
ことは、偏った価値観があるからなので、
完全に 公平な心境をもって、しかるべき
”子宮”を選になさい、と、注意しています。

ここでいう ”子宮” というのは、文字通りですが、
読み方によっては、この世に生まれてきた後
なんの対象でも、自分が選ぼうとする時の、”新しい世界” 
をさすこともできるように思います。

どこの学校に入ろうか?
どのジャンルを選ぼうか?
職業でも、人間関係でも、選んで、自分がかかわる時は
ちょうど、霊魂が肉体を選ぶ(子宮に入る)ようのと同様
のような気がするのです。

その選択が正しいかどうか?

それは、その時の心持が、”完全に公平な心境”であるか
否か?ということなのかもしれません。

思い込みや、習癖による好き嫌いや、偏見、恐れなどを
取り除いた、透明な心で、あるかどうか?という
内省も必要でしょう。

さて、最初の引用箇所にもどります:

今までに、大我 の意識を悟って、ブッダフッド
(光明の境地)に解放されていないとは、
なんと痛々しいことだろうか!
 
この夢幻の妄想が 私に吐き気を催させ、
怖がらせ、病気にさせてきた。”


大我(たいが)とは、小我(しょうが)の反対語です。
小我は、エゴ意識です。

エゴ意識は、”自分が、自分は、自分の、自分を”という
”自分”意識ですが、これは、限定された”自分”です。
肉体意識でもあります。

肉体が消えれば、このエゴ意識も消えます。
その代わり、”大我意識”が、残ります。(個性を持ちながら)

一方 ”大我”は、他者と自分がつながっている一体感を
知った、’限定のない自分意識’です。

この意識は、悟りにつながります。
ここでは、”光明の境地” という言葉を使っています。

この意識に到達すると、解放感を得ると、ここでは
言っています。

”自由意識”のことです。

本当の自由とは、好きなことが思うようにできることで
なくて、小さな我の限定された意識から、羽ばたいて
文字通り、エゴ意識に特有の、執着や偏見、負の感情
から解放されることだからです。

”この夢幻の妄想が 私に吐き気を催させ、
怖がらせ、病気にさせてきた”

自分が限られた存在で、肉体の死滅とともに消滅する
小我(エゴ)だと信じていること(妄想)が、
執着や偏見、負の感情などを助長させていきます。

エゴ意識は、恐怖を生み出して、その恐怖心が病気を
作る・・・という、一つの心と身体のメカニズムが
ここにあります。

この言葉は、まさに、病の本質をついている言葉だと
思うのです。

チベット密教によって書かれている本ですが、真実の
本質は、何教であっても、変るものではありません。

日本語にもありますね。”病は気から”と。
その世界を、仏教的に述べているわけです。



引用箇所)
”チベットの使者の書”(バルド ソドル)
S56 
訳編者 おおえ まさのり
講談社






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自然治癒力とスキンシップ

2024年06月02日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)
前置き)
㋄31日に投稿した ”一元論”と、
6月1日に投稿したと”ストレスと病”の共通項は、
心身一如(しんしんいちにょ)である。

”すべてが善で、完全性をもって存在している”という、
”一元論”は、
”心と身体は、一体であるから 心がストレスフリー
になれば、身体は健全に向かうし、心がストレスで
苛まされれば、身体も病で苛まされる”という、
心と身体の一体性(”心身一如”)に被さる。

なぜなら、”心の完全な安寧が持てれば、病も癒され、
消える”という反対の理論が成り立つからだ。

そこで今日は、癒しについてのお話を・・。
癒されることは、結局、本来の自分に立ち戻ること、
つまり、愛や優しさに満ちて、安寧の心持にかえること。

その時、心が”自然の自分に回帰”するわけで、同時に
”身体も完全なる健康に戻る”という”心身一如”の
方程式が成立する。

*****************************


ところで、古い皮質がカバーしている、”本能的三大欲求”
いうと、皆様はどのような欲求を思い浮かべるだろうか?
 
体の維持補填のための食欲、種族保存のための性欲、もう一つ
は睡眠欲かと思っていたが、その代わりに、’集団欲’ という
本能的欲求がある事を、最近知った。 

集団欲とは?
人間の人格形成の礎(いしずえ)として、この’集団欲’が、
生後三歳になるまで、どのように満たされてきたかで、
その後の成長や人格形成に影響するほど、大切らしい。 

例えば、三つ子の魂100まで’ という諺があるが、医学的に
その意味が当てはまるという。 
これは有名なサルの実験でも明らかになった。
 
米国のH.ハーロー博士が子ザルを使ってスキンシップ研究
で行った実験だ。生まれてすぐの子ザルを親から隔離して、
6か月間、全く他のサルと接触させず育てる。

その孤独な子ザルを、普通に育っている子ザル達の中に
入れるとどうなるか? 

全く、仲間になじめず、一緒に遊ぶことができなかった。 
生後すぐでも、親との隔離期間が3か月以内だと、
話が違った。 

彼は、普通に育っている子ザルたちと距離を置いていた
が、一週間ほどで、普通の子ザルたちと遊ぶだけの
適応性を身に着け、何とか馴染むことができるよう
なった。
 
一方、6か月間、生まれてすぐ親猿と隔離された子ザルは、
成長してどう変化するのか? 

成長したメス猿、無理やりに交配させ妊娠させて見る。
子供が生まれても、生まれた自分の子供に対してすら、
警戒心をいだき、放り投げ、母親の自分に近寄せまいと
たり、中には、自分の子供をかみ殺すは母親もいた
いう。
 
このサルの実験を通して推測できることは、人間の幼児
生まれて3年の間、周囲の人たちとのスキンシップが豊富で
あればあるほど、身心ともに安定した成長を遂げている
という。 

特に、授乳期の母親との関係は大切でこの時期に十分、
抱っこされたり、あやされたりとスキンシップとともに
愛情をうけることができるかどうかが、健全な成長の鍵
のようだ。

もし、この隔離された子ザル同様に、スキンシップや
親からの優しい扱いを受けることなく
育てられるとどうなるか? 
 
成長していくにつれて、社会不適応、人間関係不全、
家庭を持っても育児ノイローゼや育児拒否などを
こしやすいと考えられる。

反対に十分なスキンシップや親の愛情の中で育った子供は、
成長ホルモンの分がよくなり、身心健全に育つ傾向がある” 

と心療内科創設者、見酉次郎博士は述べている。(*1)
 
 

そういえば、ジプシーと呼ばれるボルネオオラウータン
をご存知だろうか?

多摩動物公園(園長 永井清)に彼女が2歳のとき
日本にやってきた。 
飼育員さんたちの暖かい愛情を受けて大切に飼育され
成長していくうち、いの間にか、人間を慰める大きな
存在になっていたという有名なオラウータンだ。

2017年9月に推定年齢62歳で亡くなったが、多くの人間の
ファンを持ち、彼女の持つ癒しの力には定評があった
ようだ。
 
どのようにして、2歳まで不遇な境遇で野生の中にいた
ジプシーが、その瞳で見つめるだけで無言の愛情を人に
与えるという稀有な”セラピスト”的存在になったのだろう? 

ここにも、”三つ子の魂百まで”の諺を彷彿とさせる、
彼女の幼年時代の話があった。 

それは、ジプシーを飼育することになった職員の方たちと
のスキンシップ、そして、心の通いあう暖かい、相互交流
だった。
 
次の言葉がそれを物語っている。
幼児期のジプシーの受けた心暖かい世話がよく伝わってくる。
 
ジプシーは)叱られた後に眠るのではなく慰められた後 
眠りました。
叱られた後眠るのではなく、抱きしめられた後、眠りました。

無視されたあとではなく、見つめられた後眠りました。

恐れの中眠るのではなく、安心の中眠りました。

あきらめて眠るのではなく、満たされて眠りにつきました。
 
今日のブログ冒頭の話に戻ろう。
どんなに優秀なロボットの子守がいたとしても、
人間の子供を抱きしめるときのように、愛をこめるこ
ができるだろうか? 
 
人間が心から悲しいとき、愛情のこもったまなざしで人間を、
見つめることができるだろうか?

そして、安心や慰めや力を与える”癒しの言葉”を状況に
合わせて投げかけてくれるだろうか? 

冷たいロボットが冷たい人間の心を満たすために、
その人の体に、暖かい息吹をふきかけるとができるの
だろうか?
 
否、何も言わなくてもいい。

ただ、その存在を感じるだけで、心を慰めることの
できる存在もいる。

自然といわれる、山川湖、森や海などであり、樹木や花、
ペット~犬、猫、鳥、魚、爬虫類 etc. であったり、・・・・

人によっては、ロボットのように、生命の無いモノ、車や
電車などの乗り物や、~マニアとして夢中になれる
対象物だったりする。 

そう考えてみると、人の心から、そうした対象物への
愛情や優しい興味を引き出してくれる=そのこと自体がすでに
”癒し”としての役目を果たしているのかもしれない。
 
’心身一如’の話題からずいぶん離れた話になってしまったが、
心と体が一体であるということ考えていくと、
医学的だけではなく、色々、深い意味合いがあるようだ。 

 
 
 在りし日のジプシー
 
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一元論

2024年05月31日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)
エディ夫人のクリスチャンサイエンスに興味の或る方達
は意外と多いようだ。
薬と病の関係などをどうクリスチャンサイエンスで
扱うかなど以前 数回 ブログで取り上げた。
”読まれている記事の解析”によると、いまだに
エディ夫人の記事を読んでくださる方は少なくない。

以前、クライアントのMさんの投稿記事をご紹介させて
いただいた。
Mさんがどのようにして、8年間、体を横たえて寝る
ことができない状態から、医師も驚くほど、短期間に 
限りなく健常者に近いところまで元気になったのだろうか?
様々の要因があるとは思う。

その中で、大袈裟に聞こえるかもしれないが、
Mさんの死をかけての自分の本質的心との対話こそ、
最もそれを、決定づける要素だと私は信じている。

Mさんは、半年かけて、アートマセラピーの論理も学ばれ、
薬と病と心は、一元論的な関係であることを身をもって
”知って体感して信念として”持つまでの 2年半だったと
いえるかもしれない。

エディ夫人の形而上的癒しについて たびたびご紹介して
いるのも、アートマセラピー他、究極の癒しには、一つの、
共通点があるからだ。

それは 共通した真理に基づく。

神(仏、創造主 生命力)という完全なエネルギーが
人には流れているから、不完全な状況は、
屈折した鏡に映る姿に似て、心の歪みをただせば
元気、円満、幸せが必ず、身体に反映するということだ。

病や罪は だから、”本来無いもの”だ というエディ夫人の
徹底した人間観につながる。

あるいは、すべての存在の中核にある、空 は、不生不滅 
という般若心経の智慧にもつながる。

私たちの生命は”完全なまま、永劫に実在している”
のだから、肉体的物質要素は腐っても、本質の私たち魂と
ともに、生まれたとか死ぬ(滅する)というものではない。

さらに、エディ夫人は”クリスチャンサイエンス”と
名称をつけているが、そこに述べられている神(キリスト)
を仏(ほとけ)に、あるいは、Atma(古代インド哲学書
の中のアートマの概念)という、言葉に置き換えてみても、
”一元論思想”を基盤とする考え方に矛盾することは、ない。

私が こうした一元論に触れたのは、
アトピー性皮膚炎や、自律神経失調症で苦しんでいた
高校生時代に読んだ谷口雅春師の著書”生命の実相”だった。

薬や心、体と心、生命、死 そうした問題点が師の説く
一元論の展開ですべて論理的、かつ直観的に心に浸透して
いった。

さらに、それから二十年後にインドに居住することになり、
15年の勉学と生活の中で学んだ一元論の真実を確定的に
信じられる基盤が、谷口先生の”一元論”の学びに集約していた。

さて、薬物療法に関して 師は以下のように述べている。
著書から抜粋して引用させていただく:

”薬物治療法は’迷い’を持って’迷い’を制する治療法と呼ぶ。
病は神が造らないから本来無い、
無いものをあると思うのが、’迷い’である。
物質は生命でないから治す力は無い。
治す力のない物質たる医薬に治す力があるように思う。
だから’迷い’である。
この二つの迷いは、根本は一つの迷い~’物質に生命あり’
との迷いから出発したのでありまして、この一つの
’元の迷い’から人間は肉体と称する物質だという
’迷い’が出てくる。

この二つの迷いの力が互いに 衝突して、中和したような
状態になる、これが薬物治療そのの他の物質的治療によって 
病気が一時 消滅したように見える理由なのです。”

ここで、エディ夫人の薬物に対する考えを想いだして
くださる読者もいるだろう。

’薬物は一つの病気を治すためにまた別の病気を造る’
(Medicine cures disease byproducing another) 
と言う言葉である。

ほとんどの薬の成分は毒物を含んでいる。
それが 薄められて服用することで何故病気を制するか
といえば、結局は’その薬は効く’という心理的な安心感
によって、自然治癒力が活発に働くからと エディ夫人
は述べている。

日本のみならず世界中の多くの心或る医師達が 追跡
調査などを行い、薬を飲まずに、安心感を与えて
放っておいた方が、その後の経過も体の回復も早く、
副作用がない分、健康的になっている多くの実例を
発表している。

とは言っても、現代の薬業界や医学協会との関係
から 学会で発表することを含めて、一般的になかなか
それを認められることは難しいと思う。

谷口師は、半世紀も前に すでに、世界各地からの
こうした報告をまとめて著書に記している。
引用する:
”かつて、米国のアラバマ州の名医 エームズ博士
はニューオルシアンの’内外科医学雑誌
(Medical and surgeon journal )に自己の臨床上
の経験と観察とを公表して、
’肺炎の治療において、普通の薬物治療を用いた場合
かえって、患者は苦痛を訴え、病気を増悪し、
治癒を完全にすることを遅らせた。
かかる患者は突如衰弱したり、余病を併発したり、
快方に赴いたような兆候を見せつつ、突然死の
転帰を見た’といい’肺炎の治療にアンチモニー剤を
用いて死せるものにつき、その死体を解剖せる
所見によれば、胃および小腸に致命的な炎症を
起こして、薬物中毒の兆候 歴然たるものが
あった。 

で、かくのごとく、激烈な薬物を排して、単に
自然療法を喚起するだけの、温和な治療法を行う
ようになってから、患者は決して余病を併発しなく
なり、死の転帰を見るものひとりもなかった。’
と告白しているのであります。

もっともこれは、サルファ剤やペニシリン在の発見
せられなった当時の肺炎の治療でありますが、
サルファ剤には、’第九日事件’と称される副作用が、
服用または注射後、いつかかなり後に原因不明の
症状として現れる。 
’病気の転位’ということは有名であり、ペニシリン
は無害と言われていますが、毒性をともなう、安息
香酸と併用されるのであります。

ともかく、激烈な薬物を用いて 自然治能力を
混乱させるくらいならば、無薬と 信仰による精神
の安静が最も良いと言わねばなりません”

次に掲げられている例は エール大学医学部教授
ウィリアム・チューリー博士の講演筆記に基づく。

かつてコネチカット河付近の部落に チフス性肺炎が
流行して医者にかかった患者はすべて死亡して医者は
患者を治しているよりも殺しているに相違ないという
外観を示したことがあった。
実際その部落の住民は医者こそわれわれの病気を悪く
するものといって、こぞって、医者の治療に反対して
州の法規にもかかわらず医療を拒絶した。

博士のレポートによると、
”ところが、その部落の住民が医療を受けないに
至って以来、患者にして、死の転帰をみるものは
全然なくなった”と報告されているという。

この報告をもとに、谷口師は当時バキューム・オイル
会社に勤めていた同僚の事務員を救っている。
その女性は、3か月の安静加療を要する肋膜炎と
いわれ落胆していた。どのように 見舞いに行った折
励まして、病状が改善したかというと、

”心の法則を知り、人間の生きる力の神秘を語り、
どうせずとも 病気は治らざる得ないという真理
を語り”心の薬を与えたと記されている。
この女性は 師の話を聞いて納得し、それから
三日目に入浴しても疲労を感ぜず、一週間後には
”医師が 病患のあった肋膜は左側か?右側か?
判断に苦しむほど治っていた” という。

谷口師はチューリー博士のレポートに基づいてこう
述べる。
”私はあえて、この種の診断を下して患者を意気阻喪
させる医者に問いたい。その患者は肋膜炎であった
かもしれない。
しかし、あなたが患者に与えた精神的打撃はその投薬
の治す力の数十倍も病気を増悪する効力をもっている
のである。

心で病人を殺しつつ、薬で病気を治すと称しつつ
多額の訳代や治療費を徴収しているのが、
心の法則を知らない医者の常套手段といえる。
米国コネチカット州の住民と同様、医療に反対して
立った時の方がかえって、病気が長引かない。
しかし、心の法則を知る名医はすでにその間の
真理を知っていて、心にも光明の薬を飲ませてくれる
のでその場合はその限りではない”

初期に書いたブログに、内田医師の生命医療現場
からの報告とともに 同医師が心と体の研究が
これからもっと進んでほしいと感慨を深くされて
いることをお伝えした。

内田医師の体験では 癌患者でさえ心の持ちようで
癌を体外に喀血とともに排出した実例を挙げていた
が、当時はまだ、心との相関関係が癌患者に適応
され得ないとする意見が主流で内田医師も自分の
考えを主張することはできなかったと著書に書いて
いる。

しかし、近年では、物理学の研究とともに、
物質の根本的研究がすすみ、現場にも そうした
これまでの考え方に変化が生じているようだ。





参考文献)生命の実相 第三巻 日本教文社 昭和37年初版


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マツコさんが言う”自分なんか愛せないわ”

2024年01月20日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)


嫌いな自分、失敗した自分を 赦し、カルマ(業)を消す
2024年1月20日
**********************************

昨年のTVで、マツコ・デラックスさんと、テレビに顔を
出したことのない女性歌手との間で、対談がありました。

今日のタイトルは、その中の言葉です。

”自分を嫌でしようがない”・・・
自己嫌悪のことですよね。
それは、繊細で、やさしく、理想が高いゆえでも
あるのでしょう。

自分の醜さ(精神的な意味でマイナスの部分)を
嫌悪する・・・ほうが自己陶酔するより、むしろ、
好感的に受け入れられるようです。

きっと、多くの人がこの感覚に、慣れているから
かもしれません。

具体的には、弱い自分自身を、ジャッジ(価値判断)
して、欲望に振り回されたり、
利己的な、自分のエゴ意識に、苦々しさを感じます。

時には、自分への怒りとなり、落ち込むことになります。

私自身も、つい最近まで、そうでした。
無性に、不安定になり、自信も失いました。

過去の未熟な自分の、家族や知人への振舞いを、思い出し、
反省後悔することが多くなると、
”バカは死ななきゃ直らない’
という古い、何かの言いまわしを思い出して、一生かけても
自分改造は難しいのだろうと、ため息をついたものです。

一方では、人間の本性は、神とつながっている完全円満
な実相であることを”知って”いる自分もいて、こうした
自己否定観に落ち込んだときは、自分の書いた過去の
ブログを読むことで、気持ちを立て直すこともありました。

ところが、最近、あることで、次の祈り(意宣り)を
知りました。

それによって、そうした自己否定をされた自分を、
愛する大切さも知りました。

自己否定が、何度も、繰り返されると、潜在意識の中
積もります。

すると、自己否定の対象の自分から、結局、抜け出せ
ないどころか、想いが現実に現れるという、言霊法則
から、昔の自分の”マイナス”の殻をより強固に
していくことが分かったのです。

それを防ぐためには、蛹(さなぎ)が蝶になるように、
変容させることが必要だということもわかりました。

そうでなければ、どうなるのでしょう・・・

次の生に、持ち越しされてしまいます・・・
憎しみや、悲しみ、苦しみや、嫉妬の感情は、残念ながら、
業(ごう)として浄化しておかない限り、次の生への、
要らないお土産包みになってしまいます。

人が生きとおしの魂であることは、誰でも
(このブログを読んでくださる方たちは)ご存じです。

魂が、肉体衣を脱ぎ捨てて、次の旅(死)に旅立つとき、
何も持たずに逝くというわけではありません。

今の生で造った、”業(カルマ)”と、自分の
”アイデンティティー”(”性格の特性”)は、一緒にあの世に、
持ち越しです。

そうだとしたら、カルマは軽いほうが良いし、’性格”も
変容させて、すっきりした顔で旅立ちたいと思いました。

回りくどい前置きが長くなりました。

以上、お話した理由から、
次の のりと(祈り=意宣り)を、静かな気持ちで、
声をだして読んでみてくださいませんか?

これを毎日、寝る前や起きたとき、など、まだ、
日常のしがらみの忙しさに心が振り回される前に、
唱えられると、本当に、活力が違います。

一定期間にこれを唱えていると、自分の潜在意識が
変容せざる得ません。
アートマ意識(本当のあなたの強いご自身)の自覚が、
自然と整ってくるためです。

”私は、貴方(嫌な自分)を愛します。
私は、貴方に寄り添っています。

貴方は、私にいつでも頼ってください。
私はいつも、貴方に寄り添っているのです。
私は、無私の愛で、いつも、貴方を包んでいます。

私は、無条件で、貴方のお世話をしています。
あなたは、誰も他の人に期待する必要はありません。
私があなたの期待に応えます。

いつでも、どこでも、あなたを一番理解し、愛しています。

昔の失敗は、あれは、ほんの間違いでした。
もう、忘れましょう。
もう、今に尾を引くこともありません。
誰にでもあることです。

今のあなたは、愛されています。
大切に思われています。
あなたの一番の身近で、貴方を一番知っている’私’に・・・”

ここでいう”私”は、”アートマ意識”の私です。
アートマ意識は、宇宙意識とつながっています。
宇宙意識は、すべてを 生かそうとする善意で愛の
塊です。

第三の眼に象徴される、誰でも持つ、神聖な眼をもった、
”私自身”のことです。

自己嫌悪をなくせば、自己を愛せる感覚を思い出せば、
自然と、他者への愛が芽生えます。

言い換えれば 自分を愛することなく、他者を愛する
ことは、あり得ません。
自分を愛せたとき、自然と、相手との確執や、問題も、
溶けていくようです。

私たちは つながっているのですから・・・





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ヴァカバッド・ギータ インド聖典から(1)

2023年12月06日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)
”🙈見ざる聞かざる言わざる   2023年12月6日
*********************************
 

ヴァカバッド・ギータは、インドの古代聖典の一つです。
といっても、ヒンズー教の教義の聖典だけではありません。

ギータには、世界最古の哲学、ヴェーダ哲学の真髄がクリシュナ
(当時の王族であり、ヴィシュヌ神の化身とされる)の言葉
にちりばめられているからです。

私は、これらの言葉は、すべての善き宗教の真髄に共通
すると考えています。

これから、御紹介するところは、ギータの2章です。 
 
背景からお話いたしましょう。
ここは、戦場です。
親戚同士の闘いが控え、緊張するアルジュナがいます。
彼は総大将にもかかわらず、これから繰り広げられる、親類縁者の
殺傷を想うだけで、士気がなえていくのでした。
そこで、自分のチャリオット(騎馬車)に同乗することになった
クリシュナ(神)との、会話が繰り広げられます。

敵陣には、自分の親類や師匠などの面々の顔が見えます。 
彼らに、刃を向けることに罪悪感がつのっていきます。
アルジュナ心は萎えて、戦う意欲を失っていきました。

ここで、彼の車(騎馬)に同乗している、クリシュナ神は、アルジュナ
に言葉をかける場面が、今日のそれです

”今、闘うのは 増悪の感情や、私利私欲からではない。
ダルマ(正義)とは、いかなるものか?
それを後世の人たちに、身をもって示し、規範になるために、
戦うのだ。

人には、アートマ という心の主体的主(あるじ)が備わって
いる。
それは、別名、人間の神聖なる本性、内在する神であり、生きと
おしの魂の別称。死んで消えゆくものではない。

殺し殺されという行為ですら、アートマを破壊することはできな
だよ。
だから、アルジュナよ、闘い、殺し合うという目先のことで、心を
折るな。” 

感情に揺れる心、
それが、人をアートマから離し、迷いに落とす、根源だと、アルジュナ
に、クリシュナはその仕組みをこう話しました:
 
 Look, my dear son of Kunthi! 
The senses touch the sense-objects, as per their nature. 

These sensory contacts give rise to the feelings of cold, heat,
 pleasure, misery etc. 
These feelings come and go, appear and disappear. 

They are transitory. 
My dear Bhaaratha! Develop fortitude.  
Bear them, unconcerned! 

Arujuna, you are a man of excellences! 
Remember, he whom the pleasures and miseries of life do
 not disturb and whose intelligence is firmly established in 
the constancy among the changes – only he can be blissful 
always. (2-14,15,)


訳)クンティの息子よ!(アルジュナの事)
感覚器官はそれぞれの役割によって、外部の対象の情報を与える。
寒い、暑い、喜び、悲しみ、などの感覚は、やってきては消えて
いく。常に変化している。

だから、アルジュナよ、不屈の精神を養え。
感情・感覚に左右されるな。
お前にはそれができるのだ。
覚えておくがよい。

喜びや悲しみに流されない者は、そうした変化の中で絶えず知性
ゆるぎない状況に置いている、ただただ、彼は、そう知ること
で、至福を与えられることができるのだ。”(須田訳)

不屈の精神とクリシュナが言う言葉は、五感感覚の対象に
微動だにしない、という意味で、心の平安を得るために必須な
精神状態をさしているのがわかります。

そして、
That which is not (the “seen”), can never be; that which is 
(the “seer”), can never not be. 
Those who have understood the Truth, experience the 
finality of these two observations. “16) 
訳)
認識されなければ、そうならず、反対に、認識する人には、
(認識されたものが)実現しないということはない
この真理を理解したものは、この二つのものの観方を体験する
ことができる。”【須田訳)

これは、禅問答のような言葉です。 
See という言葉・・これは単純に’見る’というより、’認識する’
というニュアンスでしょう。’I see'=わかりました、のように。

つまり、the seen とは、認識されていること、その前にnot
が付いているから、’認識されないこと’となります。

認識する、の意味を、心の眼で見る、と考えると、心の目で
観ていないと、それが実現することは難しいということです。

反対に、the seer 、つまり、認識する人 にとっては、その人が
認識したことは’そうならないということは無い’、つまり、認識
したことが現実化する~という意味になります。

ここで、”🙈見ざる聞かざる言わざる”の言葉を思い出しました。
この意味は、悪いものを観る、聴く、言うことを極力さけて、
その中に在る、善きものを見て、聴いて、言うことが、懸命だと
いうわけです。
つまり、クリシュナが言うように、そうしているうちに、幸せが
実現するのでしょう。
すべての事象には、二面性があるから・・
善きことのみ抽出して、心の眼で見続け認識すること・・がその
実現を可能にしてくれるのでしょう。


次回に続きます。



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