生きていること矛盾だらけ、それでも進む 前向きに
2015・7・31
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前回から少し、間があいたが 再び千島博士の考え方を
ベースにして人の生命について考えてみたい。
私たちの生命は 常に躍動しているから寝ている時も
新陳代謝が行われ心臓や肺臓も休みなく動いてくれるから
命が保たれている。
躍動、動いている ということはどういうことか?
私たちが平面の図面でコンパスを使って描く完全な円も、
動きながら造るとどんなに正確に動いても、多少のほんの
わずかでも歪みを生んでいるという。
左右若干の歪みがある場合、それはアシンメトリー=不対象
といわれる。
不対象というのが それでは不完全で生命的、躍動的では
ないかというと、案外そうでもない。
躍動的だから美が生まれ、芸術で言えば、生け花の極意も
左右不対象に生けられた空間(間合い)によって決められる。
有名なレオナルドダビンチのモナリザの絵も、彼女の口唇の
端はわずかな角度でずれているといわれるし、ギリシャ彫刻の
ヴィーナス像にしても、顔の部位はそれぞれわずかに左右
歪みがあるという。
その歪みやブレが 生きているような躍動感や生命感を人に伝える。
歪みといえば、
原子の世界でも同じで、1957年 中国人の物理学者 李政道らが
コバルト60の原子核から出る電子は S極から出る電子のほうが、
N極から出る電子より多いという実験結果を得て、のちにノーベル賞
をとっている。
原子の世界でも左右不対象であることが証明され、自然界や宇宙
スケールの観方でも、アシンメトリーの規則を無視できなくなった
ようだ。
たとえば、ベルギーの物理学者 イリヤ・ブリゴージンは1977年
ノーベル化学賞を受賞し、次のような言葉を残している。
“宇宙の起源が大きな爆発(ビッグバン)で始まったとしたら、
宇宙は単なる花火だ。
自然界はビッグバンで説明がつくほど、簡単単純ではない。
近くに寄れば寄るほど、複雑な世界がみえてくる。 その複雑で
豊かな想像力にあふれた宇宙ではすべてのものが流転する。
そう考えると、確率の法則など、冗談にもならない。
本当の世界はもっとデリケートだ。 法則もあれば、例外もある。
時間もあるが永遠もある。 世界を自動装置の機械とする考えは古い。
古代ギリシャの発想に戻ろう。世界は結局芸術なのだ。“
法則のみで問題を解決しようというのに無理があるのは
人の体も同じだ。上記の言葉の中で、”ギリシャの芸術”とは、
何なのだろう?
躍動を現す、わずかなアシンメトリ―がアンバランスの中に
美をもたらし、動きをだすことで、絵や彫刻が、より生命的に
感じられるというその美的感覚を取り入れた芸術にほかならない
だろう。
一方、左右対称の差が大きくなればなるほど、不安定感は増す。
これは芸術に留まらず、私たちの日常生活の中での喜怒哀楽の
感情の起伏が激しければ周りは不安定だとその人を判断するし、
どちらかの手や足の指の末端を、誤って包丁で切ってしまい
包帯をまいているだけでも 物を取る動作一つ、ぎこちない
不安定感が伴う。
身体では、交感神経と副交感神経が上手に作動していれば
健康的だが、どちらかが働き過ぎれば、身体には何らかの症状
があらわれて不安定になるだろう。
こうしたことを踏まえて、
ここで千島学説の中から “生命弁証法”の項目を振り返って
みたい。
千島学説の研究家 枠山紀一氏はその著(*1)で10項目を
挙げている。
中でも、
“すべての事物は矛盾対立を内包し、その葛藤が進歩や変化の
原動力となる”
さらに、
“生命の形態はアシンメトリーである。”
というのがある。
生命の形態とは言い換えれば大自然の形態ともいえるだろう。
電子の小さな極点の形態から 宇宙のしくみにいたるまで
左右対称、陰陽のエネルギーが上手にバランスを取りながら
全体として平衡状態を保っている。
分かりやすい例を言えば、
私たちが歩くとき、右足に全体重を預けるとき左足は上に
上がっている。
左足を前に一歩進めてそれから右足を挙げれば左足に全体
の重みがかかる。
こうして交互に 左右不対象の動きを続けることで前進できる。
生命は動いているというのも こうした 足で前進する
動きに似ているのかもしれない。
立ち止まることもある。
休むこともある。
立ち止まれば左右両足に体重は二分されてかかり安定する。
それでも又、時がたてば ダイナミックなアンバランスを
無意識に行いながら歩く。
完全にバランスが保たれたとき、平衡状態になったとき、
それは死を意味するだろう。
ヴェーダ哲学でもいうところの、総ては一に帰結するという
ように、ひふみ神示でいうように、一が動いて二になり、
何かが生まれる三になるという、一、二、三、という数は
生命弁証法にとっても、象徴的だ。
もともとすべては一である。
一から始まる。
それが二つに分裂したかのように見える。
物理的な意味ではなく、ここでは精神的な意味で使っている。
そうすると、二つの相反する価値観が生まれる。
美と醜、善と悪、などなど・・
今の私たちの二極化された精神世界の中で 私たちは無意識
のうちに 二極化された価値観をもとに、判断を下す。
好きか嫌いか、良い感じ、悪い感じ、できるかできない、
楽しいか苦しいかなどなど・・・
この現象的な世界においては、確かに、この二極化された
価値観がある意味必要で、アンバランスの中の前進を
生む役目をするのだろう。
君子は豹の如く変化する~と言ったのは孔子だっただろうか?
マニュアル的に一つの意見に固執するのではなく、その時
その時、人は変わっていくのも生きている証なのだろう。
それがたとえ振り返ってみて、誤った選択だったとしても、
だからこそ得られたものもあるのだろう。
生命も同様で生物の中の矛盾対立とよばれるように、
完全な平衡状態というのはあり得ることではなく、多少なりとも
どちらかがより力を持ったり、無くしたりして、生体は保たれて
いる。
風邪をひくのもその一つの矛盾対立が引き金になる。
体の中のアンバランスが崩れて、より良い平衡をつくろうと、
熱や鼻水、咳や痛みが伴う。
体の自然治癒の働きの一つと生体を知る人は考える。
水がたまるといって、心配する人がいる。
癌患者は腹水がたまる。 末期的症状といわれる。
これも、考えてみれば腹水をためて、芯の体温が上昇して
いくのを下げようと生体の自然治癒力が必要性に応じて
働いているからだ。
私たちが症状が出ていると即座に”どこが悪いのだろう?”
と不安になる前に生体はこうしてアンバランスを創りだして
体を整えようとする働きがあることを信じたい。
生体の仕組みは研究室で研究を重ねても、わからないものだ。
物理的法則は試験管内では100%外れはないだろうが、
生命は 物理的法則を取り込みながら生命法則をつくりだして
いる。
たとえば、、外科手術で片方の腎臓や肺臓を切り取っても、
片方が大きくなって、その不足を補う。
そこには生命の力が動いているからで、こればフラスコや試験管
の中では知りえない生命の法則の一つだろう。
(*1)“ 蘇る千島学説 ”2004年 なずなワールド発行