自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

生命論弁証法~千島博士の論をベースに

2015年07月31日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

生きていること矛盾だらけ、それでも進む 前向きに     

2015・7・31

*****************************************************

 

前回から少し、間があいたが 再び千島博士の考え方を

ベースにして人の生命について考えてみたい。

私たちの生命は 常に躍動しているから寝ている時も

新陳代謝が行われ心臓や肺臓も休みなく動いてくれるから

命が保たれている。

 

躍動、動いている ということはどういうことか?

私たちが平面の図面でコンパスを使って描く完全な円も、

動きながら造るとどんなに正確に動いても、多少のほんの

わずかでも歪みを生んでいるという。

 

左右若干の歪みがある場合、それはアシンメトリー=不対象

といわれる。

不対象というのが それでは不完全で生命的、躍動的では

ないかというと、案外そうでもない。

 

躍動的だから美が生まれ、芸術で言えば、生け花の極意も 

左右不対象に生けられた空間(間合い)によって決められる。

有名なレオナルドダビンチのモナリザの絵も、彼女の口唇の

端はわずかな角度でずれているといわれるし、ギリシャ彫刻の

ヴィーナス像にしても、顔の部位はそれぞれわずかに左右

歪みがあるという。

 

その歪みやブレが 生きているような躍動感や生命感を人に伝える。

歪みといえば、

原子の世界でも同じで、1957年 中国人の物理学者 李政道らが 

コバルト60の原子核から出る電子は S極から出る電子のほうが、

N極から出る電子より多いという実験結果を得て、のちにノーベル賞

をとっている。

 

原子の世界でも左右不対象であることが証明され、自然界や宇宙

スケールの観方でも、アシンメトリーの規則を無視できなくなった

ようだ。

たとえば、ベルギーの物理学者 イリヤ・ブリゴージンは1977年 

ノーベル化学賞を受賞し、次のような言葉を残している。

 

“宇宙の起源が大きな爆発(ビッグバン)で始まったとしたら、

宇宙は単なる花火だ。

自然界はビッグバンで説明がつくほど、簡単単純ではない。

 

近くに寄れば寄るほど、複雑な世界がみえてくる。 その複雑で

豊かな想像力にあふれた宇宙ではすべてのものが流転する。 

そう考えると、確率の法則など、冗談にもならない。

 

本当の世界はもっとデリケートだ。 法則もあれば、例外もある。

時間もあるが永遠もある。 世界を自動装置の機械とする考えは古い。 

古代ギリシャの発想に戻ろう。世界は結局芸術なのだ。“

 

法則のみで問題を解決しようというのに無理があるのは 

人の体も同じだ。上記の言葉の中で、”ギリシャの芸術”とは、

何なのだろう?

躍動を現す、わずかなアシンメトリ―がアンバランスの中に

美をもたらし、動きをだすことで、絵や彫刻が、より生命的に

感じられるというその美的感覚を取り入れた芸術にほかならない

だろう。

 

一方、左右対称の差が大きくなればなるほど、不安定感は増す。

これは芸術に留まらず、私たちの日常生活の中での喜怒哀楽の

感情の起伏が激しければ周りは不安定だとその人を判断するし、

どちらかの手や足の指の末端を、誤って包丁で切ってしまい

包帯をまいているだけでも 物を取る動作一つ、ぎこちない

不安定感が伴う。

 

身体では、交感神経と副交感神経が上手に作動していれば

健康的だが、どちらかが働き過ぎれば、身体には何らかの症状

があらわれて不安定になるだろう。

 

こうしたことを踏まえて、

ここで千島学説の中から “生命弁証法”の項目を振り返って

みたい。

千島学説の研究家 枠山紀一氏はその著(*1)で10項目を

挙げている。

 

中でも、

すべての事物は矛盾対立を内包し、その葛藤が進歩や変化の

原動力となる”

さらに、

“生命の形態はアシンメトリーである。”

というのがある。

 

生命の形態とは言い換えれば大自然の形態ともいえるだろう。

電子の小さな極点の形態から 宇宙のしくみにいたるまで

左右対称、陰陽のエネルギーが上手にバランスを取りながら

全体として平衡状態を保っている。

 

分かりやすい例を言えば、

私たちが歩くとき、右足に全体重を預けるとき左足は上に

上がっている。

左足を前に一歩進めてそれから右足を挙げれば左足に全体

の重みがかかる。

こうして交互に 左右不対象の動きを続けることで前進できる。

 

生命は動いているというのも こうした 足で前進する

動きに似ているのかもしれない。

立ち止まることもある。

休むこともある。

立ち止まれば左右両足に体重は二分されてかかり安定する。

それでも又、時がたてば ダイナミックなアンバランスを

無意識に行いながら歩く。

 

完全にバランスが保たれたとき、平衡状態になったとき、

それは死を意味するだろう。

ヴェーダ哲学でもいうところの、総ては一に帰結するという

ように、ひふみ神示でいうように、一が動いて二になり、

何かが生まれる三になるという、一、二、三、という数は 

生命弁証法にとっても、象徴的だ。

 

もともとすべては一である。 

一から始まる。 

それが二つに分裂したかのように見える。

物理的な意味ではなく、ここでは精神的な意味で使っている。

そうすると、二つの相反する価値観が生まれる。 

美と醜、善と悪、などなど・・

今の私たちの二極化された精神世界の中で 私たちは無意識

のうちに 二極化された価値観をもとに、判断を下す。

好きか嫌いか、良い感じ、悪い感じ、できるかできない、

楽しいか苦しいかなどなど・・・

 

この現象的な世界においては、確かに、この二極化された

価値観がある意味必要で、アンバランスの中の前進を

生む役目をするのだろう。

 

君子は豹の如く変化する~と言ったのは孔子だっただろうか?

マニュアル的に一つの意見に固執するのではなく、その時

その時、人は変わっていくのも生きている証なのだろう。

それがたとえ振り返ってみて、誤った選択だったとしても、

だからこそ得られたものもあるのだろう。

 

生命も同様で生物の中の矛盾対立とよばれるように、

完全な平衡状態というのはあり得ることではなく、多少なりとも

どちらかがより力を持ったり、無くしたりして、生体は保たれて

いる。

 

風邪をひくのもその一つの矛盾対立が引き金になる。

体の中のアンバランスが崩れて、より良い平衡をつくろうと、

熱や鼻水、咳や痛みが伴う。

体の自然治癒の働きの一つと生体を知る人は考える。

水がたまるといって、心配する人がいる。

癌患者は腹水がたまる。 末期的症状といわれる。 

これも、考えてみれば腹水をためて、芯の体温が上昇して

いくのを下げようと生体の自然治癒力が必要性に応じて

働いているからだ。

 

私たちが症状が出ていると即座に”どこが悪いのだろう?”

と不安になる前に生体はこうしてアンバランスを創りだして

体を整えようとする働きがあることを信じたい。 

生体の仕組みは研究室で研究を重ねても、わからないものだ。

 

物理的法則は試験管内では100%外れはないだろうが、

生命は 物理的法則を取り込みながら生命法則をつくりだして

いる。

たとえば、、外科手術で片方の腎臓や肺臓を切り取っても、

片方が大きくなって、その不足を補う。

そこには生命の力が動いているからで、こればフラスコや試験管

の中では知りえない生命の法則の一つだろう。

 

 

(*1)“ 蘇る千島学説 ”2004年 なずなワールド発行

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天照神が天の岩戸に隠れた真相 ~後

2015年07月28日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

スサノオの尊の暴挙と天照大神のお諭し   2015・7・28

**************************************

 

暴挙を辞めることのなかった

素戔嗚の尊に対し、天照大神が

どのような態度をとられたのか、

秀真伝えには次のようにある;

 

 其の後に素戔鳴尊の仕業

(しわざ)は味気(あぢき)なく、

天神地祗の御供田の苗代に

草の種を振り蒔(ま)き、

畔(あぜ)をこわすなり。

 

故に稲の実乘らず、また

御(み)稲(そろ)の新嘗

(にいなめ)の神御衣を織る

齋(いん)服(は)殿(との)に

汚物を投(な)げ入れ殿(との)

を汚すなり。

 

天日尊は勅宣りを以って

糺(ただ)されぬ。

素戔鳴尊の責(せめ)一人

(ひとり)に帰し身の置き処なし。

 

故に剣を提(さ)げて殿(との)

に昇(のぼ)り佇(たた)ずむ時、

各齋服殿の戸閉ぢぬ。

素戔鳴尊は怒(いか)りて

斑駒を逆(さか)剝(は)ぎにして、

殿の甍を穿(うが)ちて投げ入

(い)るる。“

 

身の毛がよだつような暴挙

がうかがえる。

天の神に供える稲穂の苗代

には 雑草の種をまき、

あぜ道を怖し、大事な新嘗

の祭りのための お衣装を

織る機織り所には汚物を

投げ込む。

 

天照大神は注意をされる

のだが、スサノオの尊は

自分ひとりを責めてをいわん

ばかりに馬を逆さにして

皮をはぎ、宮殿の屋根の

甍(いらか)をめがけて

投げ込むなどなど・・・

それだけにとどまらなかった。

 

” さらに 天照大神の

御怒りを誘うとどめは、

スサノオの尊が中宮の妹、

稚桜姫(和歌桜姫)花子内侍妃” 

 

と続く。こうした諸行で花子内侍妃を

驚かせたうえ、機織りをしている

最中に躓き(つまずき)、命が

絶えてしまった事件が起きて、

天照大神は最後のとどめのような

お怒りをあらわにされた。

 

秀真伝えによれば、

“ 天照大神は怒りまして 

素戔鳴尊に「汝は何ぞ

邪心を以って国を望むや」 

と宣給いて、天成道を以って

蒼生を猶子と為す御歌を

製られ給うなり。

 

あめがした やわしてめぐる

ひつきこそ はれてあかるき

たみのたらなり” 

 

この歌の解釈は

“(天(あめ)が下(した)  

和(やわ)して運(めぐ)る 

日月(ひつき)こそ 

晴れて明(あか)るき 

民(たみ)の親(たら)なり

 

意味は、~天(あめ)が下を

日月(ひつき)和合(わごう)

して運(めぐ)り昼夜を照らす。

潤(うるお)して万物を育成

する日月こそ、実(げ)に万民・

万物の君なり、父母なり。”

 

天下を正しく治める道 

人の生きる道 天成神道 

とはるかに 隔たったスサノオ

の尊の諸行に天照大神は

お怒りになり、上記の歌を

詠まれ、弟に対し自制心を

求められたのだが、スサノオ

の尊は反省するところか

益々怒り狂い、剣まで抜く

さまに天照大神は恐れられ 

とうとう、岩屋に隠れられて

しまった。

 

“天(あめ)の岩(いわ)窟(や)に

入り磐(いわ)を閉(と)ざし

隠(かく)れます。”

そしてその時、光は消え、

天下は真っ暗に

なってしまった。

 

“ 時に天下は常闇(とこやみ)と

なりて昼夜(ちゅうや)の区別

(くべつ)なし。

安河辺の宮に在る思兼神は

驚きて、松明(たいまつ)を

持ちて忽ちに伊勢路

を上(のぼ)るなり。”

 

そこで、思兼命(おもいかねのみこと)

がこの事件を宮殿のある、

伊勢へと、知らせるために、

向かった。

 

多くの神々がこの大事件を知り、

協議をはかり、天照大神を

岩戸からどのような方法で外に

出てきていただくかと、策を

めぐらす行(くだり)である。

 

以下、どのように岩屋から天

照大神に出ていただいたかが、

書かれている。

 

“子の手力雄命は、伊勢より

安河の宮に告(つ)げんと、

松明に馳せる途中(とちゅう)

にて父子往き逢い、手力雄命

に質問をなす。

 

手力雄命は具(つぶさ)に

有(ある)状(かたち)を

説明せば、思兼神は八百万神

を集(つど)えて相(あい)

議(はか)り「高天原にて

天照大神の御出現を議り

祈らんや」 と曰す。

 

兵主命(つわものぬしのみこと)

が真(ま)栄樹(さかき)の上(かん)

枝(え)に、瓊(に)玉(たま)を、

中(なか)枝(え)に真(ま)写(ふつ)

の鏡を懸(か)け、

下(しも)枝(え)に和(に)幣(ぎて)を

懸(か)けて祈(いの)らんとなせり。

 

天(あめの)鈿女(うづめ)命等は

日(ひ)蘿(かげ)を手(た)繦(すき)

とし、茅(ち)巻(まき)矛(ほこ)

を持(も)ち逑を庭火として

焚(た)き、笹湯花をなしながら

神楽(かぐら)の祝詞(のりと)

を奏し、神明の憑(かか)りを

請うなり。

 

思兼神は深く思慮をめぐらし、

細女命等に常世の踊(おど)りと、

長(なが)開(さき)雄鶏(おどり)

を集め鳴かせて踊(おど)り舞(ま)い、

俳優(わざおぎ)の謡(うた)うなり。

 

香(か)久(ぐ)の木(き)  

枯(か)れても匂(にほ)ゆ

凋(しを)れてもよや 

あがつまあわ

あがつまあわや 

凋れてもよや

あがつまあわや

 

諸神は磐戸の前にて祈り、

暁(か)花(し)表(ま)鶏(とり)を

鳴かす。

これぞ常世(とこよ)の長(なが)

開(さき)踊(おど)りと名付くなり。

 

天照大神は笑み給いて、

磐戸を細(ほそ)く開(あ)けて

窺い給えば、手力雄命は素早

(すばや)く磐(いわ)戸(と)を

持ちて投(な)げ捨(す)て、

大神の御手(みて)を取りて

天(あめの)岩(いわ)窟(や)の

中より出し奉るなり。

 

兵主命は岩窟の前に注連縄

(しめなわ)を張(は)りて

「勿(な)帰(かえ)りましぞ」

と奏す。“

 

いわゆる古事記にも描写されて

いる 神々が天照大神を岩屋

から出ていただくために、

お神楽の原型となった、

踊りを 天の細女命(あめの

うずめのみこと)が舞い、

天照大神が岩戸を少しあけて

その様子をご覧になろうと

したときに、手力雄命(たじからおのみこと)

が岩戸を力づくでこじ開けて

大神を外に出す 有名な

行(くだり)である。

 

こうして天照大神は岩屋から

出られ、世の中は再び明るく

なったが、素戔嗚(すさのお)

の尊はその罪咎(つみとが)

のために、宮中から

放逐されて 世捨て人の格好で

出雲までたどりつく。

 

そして、そこで 出雲の国

と称する、宮廷をもしのぐ

ほどの物質的に

豊かな繁栄をもたらす土台を築く。

 

さらに、秀真伝えでは 

スサノオノミコトは 

自分の業(ごう)の深さを

清算するために、ヤマト

タケルの尊に生まれ変わった

と、後の綾(あや)に書かれ、

仏教誕生以前の前にすでに

このような輪廻の考え方 

カルマ(業)の認識などが

超古代日本にも存在して

いたことが 興味深いところだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の神話と精神文化と癒しの心

2015年07月25日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

天照神が天の岩戸に隠れた真相 ~前  2015・7・25

***********************************************  

 

これまでのブログの流れから少しはずれる今日の話題。

千島学説から 恐れが腰痛の原因であるという新しい説を

発表して話題になっているその二つの間にある 

生体論の共有性から話題を変えて 秀真伝えのお話しを

少しさせていただきたい。

*******************

 "秀真伝え"は 姑(はは)、須田麻紗子が 生涯の研究として

取組み,近年 ”完訳超古代史 秀真伝(ほつまつたえ)”として 

原文、対訳、現代仮名、漢字振り当て、大訳などの完訳を試みて、

出版した。


自然治癒力セラピー協会でも 有志が集い、秀真伝えの輪読会

を行っている。

なぜ、ここで 秀真伝え?とピンとこない読者もおられよう。

"秀真伝え"と自然治癒力の関連性といえば、 古代の同書を編纂

した血統をひく、スクナヒコの尊 (奈良大三輪神社に祀られている) 

が日本で最古の医術者 として 秀真伝えに登場して来る。


姑(はは)は 指圧学校で東洋医療を学びながら,秀真伝えの

研究を重ねていくうち,不思議な能力が開発され、新しい 療養術、

(後年 神気法と名付けた) を取得した

その際、霊能力者が施術する母の後ろに 医療箱を片手にもって

立っている十二単の姫君の姿を 霊眼で感知している。

 

姑(はは)は ”秀真伝えの中に流れる波動こそ、人の順気に

呼応して、魂と気、身体を浄化させる要素でもある”と実感して

いると、語った。

 

自然治癒力の一環として こういうわけで 私自身も、秀真伝え

に流れる言霊の波動と その内容そのものの深さを感じている。

たとえば、

輪読会当日、体調を崩し、数日寝込んでいた参加者も 一時間以上の

道のりをかけて、参加してくださる。

その理由は 秀真伝えを2時間 輪読しているだけで、体が軽くなり、

調子悪い症状も改善されていくということを何回か体験している

からだ。


皆さん活き活きとした面持ちとエネルギーで白熱した議論?を

重ねながら、超古代の神代に戻るこのひと時に、自分の心の中の

深奥に眠る原点にも、むすびついていくような安らかさと

心地良さを感じているのだろう。

 

さて、神話はどこの国でもその国の精神的遺産であると

考えている。

”秀真伝え”は ”古事記”と異なり、単なる神話ではなく、その

大元となる日本立国の超古代史であると編者の姑(はは)は

言う。

そう、捉えられる人には、秀真伝えから 深い日本人の魂の

ルーツを探ることができる。

 

今日は、古事記でも特に、有名な天の岩戸のお話しを、

取り上げてみたい。

”天照大神” が、天成神道 と呼ばれる 和の心 と日本人の

モラル観を 超古代において、民のために、そして、国を

司る神々のために、すでに創られていたというお話しでもある。


私たちが日本人固有の美的、道徳的、価値観が どのように

形作られてきたかも同時に知りうる。

そうした道徳観や価値観は、歴史的根底として存在してきたと

いう実感を持てる。

 

和の精神、赦しと寛容、正義、律儀、実直、正直 勤勉など、

他国と比べ 抜きん出ている日本人の特性は、超古代史の中で

どのように描かれているのだろうか?

 

さて、天照大神は女性神ではなく、男性神であったことは

すでに、過去のブログ記事でお伝えした。

秀真伝えでは 天照大神の弟君にあたるのがスサノオの尊

となる。 

古事記ではスサノオの尊の暴挙に対し、天の岩戸にお隠れに

なったことになっているが、”秀真伝え”第8紋(あや)でも

スサノオの尊の荒々しさは 以下のように形容している。

 

“其の後に素戔鳴尊の仕業(しわざ)は味気(あぢき)なく、

天神地祗の御供田の苗代に草の種を振り蒔(ま)き、

畔(あぜ)をこわすなり。


故に稲の実乘らず、また御(み)稲(そろ)の新嘗(にいなめ)

の神御衣を織る齋(いん)服(は)殿(との)に汚物を

投(な)げ入れ殿(との)を汚すなり。


天日尊は勅宣りを以って糺(ただ)されぬ。素戔鳴尊の

責(せめ)一人(ひとり)に帰し身の置き処なし。故に剣を

提(さ)げて殿(との)に昇(のぼ)り佇(たた)ずむ時、

各齋服殿の戸閉ぢぬ。


素戔鳴尊は怒(いか)りて斑駒を逆(さか)剝(は)ぎにして、

殿の甍を穿(うが)ちて投げ入(い)るる。 “ 

 

その諸行の猛々しく荒々しい様が具体的に述べられている

行(くだり)だが、“その後に”という言葉は何を指しているかと

いうと・・・・。


’その後’とは、”わけありの事件”が多々あり、特に、天照大神の 

妃(きさき)になった姉妹、“持子典侍妃と早子内侍妃” と

スサノオの尊の関係をほのめかしているという。

特に、そのうちの一人の妃と密通を犯してしまうスサノオノミコト。 


天照大神の正室(中宮)は、その怪しい気配に感づき、

二人の局(つぼね)をスサノオの尊から離した。

その下りが以下である:

“両妃は内宮より北の局に帰りて共に歎き居るなり。

素戔鳴尊はこれを聴き、生来短慮にして堪忍(かんにん)

のならぬ性格故、向(むか)津(つ)姫(ひめ)に対する

怒りに耐えかねるなり。”

 

それを聞いたスサノオの尊は 短気さ余って、中宮の向津姫に 

怒りを抑えきれなくなった。

短剣をかくして 密通相手、早子姫の部屋に隠れて、暗殺を企てる。 


しかし、早子姫に “出世を願うのなら今は辛抱を” 

と諭される。

その時現場の前を、中宮の妹、

“稚(わか)桜(ざくら)姫(ひめ)花子(はなこ)内侍妃”が 

通りかかり 二人の話を聞いてしまうのである。 


姉、中宮に伝えた稚桜姫だが、中宮は 夫、天照大神には

このことを秘めておく。

そこで、早子持子両妃を呼び出し、“筑紫国の宇佐に流罪”と

いう詔(みことのり)をだし、二人を九州現在の福岡県

に送った。


現在でも”宗像(むなかた)三女神”の祭りがこの地に

残っていると聞くが、この三女神こそ、早子が流刑になった

とき、連れて行った、三人の娘姫子たち、

“竹子・湍子(たきこ)・田奈子の三姫”である。

 

その後、竹子は 琵琶湖のちくぶ島神社のご祭神 

弁天様としてあがめられる。


湍子は 江の島の弁天様として、田奈子は厳島神社の

ご祭神となった。 


それぞれ 水場に祀られた、

なぜなら 母親は実は大蛇の魂を持っていたからだと

言われる。 

なぜ、大蛇に化身したのか?

秀真伝えには、筑紫の国に流された早子と持子は 

姫たちの待遇より自分たちの待遇が悪いのを恨み、

怒りが爆発して、”大蛇”に変身したとある。

 

“筑紫の国神赤(あか)椎(つちの)命(みこと)は姉妹(えと)の

二妃と三姫子を受け取りぬ。

宇佐(うさ)の古(ふる)宮(みや)を造(つく)り改(か)えて、

三姫子を置き、二妃は疜(あち)局(つぼね)に置くなり。


二妃は怒りて三姫子を養育せぬ故、赤椎命は此の由を

中宮に告ぐなり。

よって中宮より北の局の豊姫に「筑紫に降りて三姫子を

養育すべし」との詔(みこと)が下る。


二妃は怒りて遂に大蛇(おろち)に変化し、簸川(ひかわ)

に到りて世に蟠(わだかま)るなり”

 

 大蛇に変身した早子はその後、八又の大蛇と言われる、

”やまたのおろち” になる。

一方、持子は 九頭竜(くずりゅう) となる。 


箱根や戸隠神社に九頭竜神社があるが、この謂れ(いわれ)

は、この事件[筑紫流罪]に 少なからず、関連しているの
である。

 

こうして大蛇と変身してしまう、天照大神の側室たちと

関係を持ったスサノオの尊だが、姉妹達が、 中宮 

(天照大神の正室) セオリツ姫(向津姫)によって、

筑紫に流された後も、その荒々しい諸行は留まらず、

暴挙をとどめる手段はなく、ついに、天照大神は岩屋に

お隠れになってしまう。

 

続く~

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大医師たちの取り組み、痛みは恐れから・・・・

2015年07月22日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

恐怖がが与える病の症状

**********************

7月14日 正式には15日深夜1時半前後だったと思う。

認知症の母が、夜中テレビをつけっ放しにしておかないと

眠れない習癖があるので、テレビから流れる声を耳にながら

私は体を横たえていた。


母は、飲み物とお菓子が欲しいと起き出したので、一緒に

深夜のお茶をすることにした。 

テレビから流れる映像は面白い内容で注意が向いた。

 

メモしておかなかったので、画面に登場した医師の名前も

一種のプロジェクトである、東大ある研究室でなされている

取組の詳細もひかえておかず、曖昧なところで記憶を頼り

にブログを書かせていただくことを先にお許しいただきたい。

 

その番組の主題は ”痛み”の真の原因は

特に、日本人の4人に一人かかえている”腰痛の原因は?” 

というもので、画期的(今までの医学の常識からみると)

答えを引き出していた。


痛みの要因は、”精神的なもの”だということだった。

それは 恐れ だという。

恐れ、それがストレスを造りだす。

一度強烈な腰痛を体験すると、その人は、

いつ、また、あの痛みは襲うだろうか?”という恐れを、

潜在意識に溜め込んでいく。


すると、潜在意識の働きかけが、脳神経に作用して

痛みを鎮静させる成分の排出をおさえるため、”仮の痛みの路線”

を悩が創りあげて、その際、その人自身の感覚に、それが、”痛み”

と感じられる仕組みを説明していた。

 

このあたりを テレビで見ながら、

これまで、痛みが物理的な真の理由がわからないなか、

とりあえず、対処療法として、その痛みを取り除く鎮痛剤

などの処方が、生体への認識の薄さを感じさせたと同時に、

それに違う角度から切り込みをいれたこの医師たちの

取り組みの意義が見えた。


さらに、ある意味、自然治癒力的、心療的にとらえられる

分野がまた広がったという、感慨を覚えた。

つまり、腰痛だけではなく、すべての病は”心が造る”と

いっても過言ではない~と一元論的(形而上的)には考える。


”心の痛みが体の痛みになる”、

あるいは”恐怖がそういう状況を招く”という唯心所現の原理が 

現実的に、医療現場でも、取り入れられていく一歩のような

気もした。

 

さて、次のシーンでは、腰痛の持ち主の 著名な俳優

が登場した。 

整形外科にも通い、主治医からもその要因を指摘され、

治療しているがなかなか腰痛が治らないとの悩みを

訴えた。 


すると、その新しい説で、多くの腰痛患者を癒してきた

医師が、”恐れはないですか?”と単刀直入に俳優に聞いた。

”ええ、ありますけど。この痛みが始まると、周囲の

スタッフに迷惑かけるので 痛みが起こることを

恐れています。”


すると、その答えを聞いた医師が答えた。

それが原因です。”

俳優は呆気にとられた。

”え、でも、整形外科の先生にはきちんとその要因を

教えていただいていますので、精神的だけではない

と思いますが。。。。”

 

すると、その医師は 俳優にMRIをとって、実際

どうなっているのか調べましょうと提案。 

撮って検査してみると、すでに整形外科で言われた

ような症状はなくなっていた。


90%の人は、ヘルニアですり減った部分も、

自然作用で生体の力、つまり、自らの力で正常な形に

また、もどるのですが、それを皆さんは知らない。

恐怖で 幻の痛みの神経回路を創り上げてしまっている

だけなのです。”

 

それから、番組は実証的にその説が正しいことを証明する

場面へと展開。

任意で集まった ”腰痛改善セミナー” の受講生達に 

視覚的聴覚的に ”恐れが痛みの原因” ということを

理解してもらうためにあるプログラムを見せる。


すると、30%の人達が それを見た後、実際 腰痛が

軽減、もしくはなくなったと答えた。

しかし 残りの人達の中には、

恐れがなくなれば、腰痛がなくなるなんて、そんなこと

信じられない”と否定的意見を述べ、何も症状に変化は

なかったと答えた。


痛みがあって、腰痛が始まるのではなく、’恐れ’が

最初にありき~これは心の中の想念。感情が今の身体の症状を

造るという一元論(形而上的)な病の原因と同じ考え方

の土台に立つ。


千島学説を数回にわたり、ご紹介しているが、その千鳥博士

も晩年、出版にいたらなかったが ”気と病の働きの関係” 

に関しての著作を中途まで書き上げていたと聞く。


千島博士も、生物の自然発祥と エネルギー(気)の

関係が決して無縁ではないことをなんとなく感じ取って

おられたのだろうか?

 

千島博士の言うところの、”生物の自然発生”という考え方や

”癌細胞は40歳過ぎたら誰にでもある”という考え方も、

観方を変えれば、それを発生させたり、癌細胞に転換させたり

する原因は、心、あるいは、恐れ次第かもしれない。

 

癌細胞も もとはと言えば、ストレスを敏感に察知しやすい、

私たちの6億個の細胞の中の一種で、同調しながら、

共存してきたのだ。


しかし、心の乱れ、ストレス、罪意識、が重なり、

恐怖 が心に生まれたとき、その細胞は癌細胞へと異変する。

これが千島博士の説の根幹だとと、私は理解しているが、

このテレビ番組の ”痛みと恐怖との考え方” の原点も、

心の想念が生体に変化を与えるというところでは一致する。

 

痛みは恐怖心から来る。

番組の後半では 介護職につく腰痛に悩む人達を集めて

セミナーを行った。

ある体操を医師が参加者に教える。

それは腰を想いきり伸ばして反り返らせるために、手を

腰に当て、一定の動作を繰り替えす運動だ。


これを一日 決められた回数行えば腰痛が治まるという

設定だった。

しかし、医師の狙いは運動ではなかった。

それは一つのきっかけ、動機づけであり、この運動を行えば、

良くなるという暗示を心身に植えつける事であったという。

なぜなら、恐怖心が腰痛をつくるのなら、良くなるという想い

が、腰痛を改善するのだから。


さらに、腰を伸ばすということは、本当にそこにダメージの

ある体では摂り得るポーズではない。

だからこそ、そのポーズを痛みなくできる事態、何もその人

の腰痛の原因は腰にないのだということを、その医師は

知っていた。

 

こうして、セミナーに参加した人達の腰痛が、大きく改善

されたことを番組で伝えていた。

 

 

 

 

・・・

        

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パスツールの実験と自然界との矛盾性

2015年07月19日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

細菌生体の弱くなったところに自動発生するという千鳥学説            2015・7・19

*******************************************

パスツールは細菌は細菌から生まれる、という説を実験で証明した。

現代にいたるまで彼の意見は支持され 細菌学などの基礎を

築いたといわれる。 

そのパスツール理論に真っ向反対意見を述べたのが 千鳥博士だった。

その結果は、確かに実験室で証明できた事実であっても

実験室で使われた特殊なフラスコの中の出来事は、

大自然の中では当てはまらないと考えたからだった。 

 

そもそも、生命は自然発生したと仮説をたてた博士は 

そのさいの条件を以下のようにあげた。

①   適当な温度

②   水分

③   空気

④   栄養分

⑤   一定の時間的経過(自然の季節)

 

これに対して パスツールの実験では

①   スープ(肉汁)を摂氏100度の高温で煮詰める温度調整

②   このため、バクテリアの栄養素となるはずの有機物は

熱変性をおこしている

③   高温加熱されて酸素を含む空気も減少、または 変化

してしまっている

④   フラスコ先端に開けられた穴で、空気を流通させているが

それで自然界と同じように、十分な空気の流通が得られるか?

⑤   フラスコの内容物の高温の加熱と、冷却により空気は

ない状態になりがちであり、酸素欠乏状態の中では

バクテリアは発生できない

⑥   実験室は、人為的に管理された状況で自然状況下で

起こることは対象外である。

たとえば、気温の変化による食品の腐敗、それにともなう

有機物化合物変化、温度は自然界では一定であることは

あり得ないので、実験室では、こうした状況を無視し

機械論的結論を導き出しているに過ぎない。

 

よって、パスツールは、バクテリアの発生は空気の中に

混じっている細菌や、その芽胞がスープ内に溶け込んだ

結果とした。 


空気は、天地創造物語の’生物誕生編’という章があるのなら

とても大切な役割をしていることは言うまでもない。

 

太古の地球、生物が創造される以前の地球の空気には、

水素、水蒸気、メタン、アンモニアなどが豊富に

含まれていたと考えられている。 


これらの成分が太陽の紫外線、雷の放電、隕石落下の際

生じるエネルギーなど、種々のエネルギーに活性化され

反応しあい、アミノ酸でできている簡単な有機加工物が

つくられ、それらが集積して、タンバク質が合成され、

さらに、海水中でタンパク質粒子がぶつかり合い、

生命体の芽胞が形作られて行ったとされる説を 

ソ連科学アカデミー会員、アレクサンドル・オパーリン博士

が提唱した。

 

つまり、こうした大自然の大気の設定は、決して研究室の

試験管やフラスコの中では作りえないとするのが、千島博士が

パスツールの実験が完全でないとする理由の一つなのだ。

 

オバーリン博士と千島博士の意見は、だが、微妙に食い違っている。 

”有機化合物を経て自然的に生命が発生した”という

オバーリン博士は、現代においても千島博士が主張するように、

“生物の崩壊によってできた有機物から、細菌が発生する

という意見とは確かに異なる。


オバーリン博士は、今日の地球上には、生命がすでにできて

いて、地球は新しい生命を発生させる段階を過ぎている”

から 有機化合物を経て、自然的に発生した生命の

創造時代は ’過ぎた過去’ だという。

 

一方、千鳥博士は、”有機物から細菌は自然発生する。”と

いう意見を現代に発表して、バッシングを受けたことは

先日ご紹介した。

 

さて、生物の発生というのは神秘的な角度、神学的角度、

物理学的角度、生物学的、遺伝的角度からいろいろ論じる

ことができるだろう。

 

ここでは、自然治癒力と関連したところをとりあげてみたい。 

それは 生物(細菌)の自然発生という千鳥博士の学説を

もとに、次のような”細菌感染”とされている”病の発生”の

理由を仮定できると思う。

 

たとえば肝炎について。

輸血による肝炎ウイルスの感染については輸血した血液に

細菌がいたから 肝炎になったということが定説だ。

千鳥博士の考え方では、それだけが理由ではない。 


もし、輸血した血液にウイルスがなくても、肝炎になる

可能性があるというのだ。

なぜなら、 菌は自然発生する”と考えるからだ。


その仕組みは次のようにまとめられる。

“輸血による血清肝炎は、供血者の血液にウイルスが

混じっていなくても、輸血という不自然な影響によって

起こりうる。


血液は指紋同様、全く同じ型は存在せず、学術上 

適合血液と判断されても、厳密に言えば、自分以外の血液型

では不適合を生じる場合がある。 


新鮮な血液でも、異種タンパクが含まれていて、程度の

差こそあれ、供血者の生体は拒絶反応を示す。 

輸血を必要とする不健康な病人に体内では肝臓は 

拒絶反応により、充血する。 


充血すれば滞る。

血液が滞れば、肝細胞に変化するから、肝臓はさらに肥大する。”

 

肝臓が肥大すればどうなるのか? 

細胞の活力は弱まる。 

その弱まったところにウイルスが自然発生しがちであるという。

身体の弱くなったところに”病気”となって症状が現れる。


以前 風邪の症状の項目で、おなかに来る風邪、頭に来る

風邪、気管支に来る風邪、時には、関節に来る風邪などなど、

その人特有の弱い、部位に風邪は現れるという説を

ご紹介した。


風邪は自然治癒力の発動による、体のメンテのための、

調整作用である生体の活動が、症状になって出たものだ

ということも同時にお伝えした。


千鳥学説のように、病は、その人の弱くなった部位に

出てくるという説はそう考えると、納得ができるものだ。


その部位、どの体の部位も有機的に繋がり、有機的に

繋がっている6億の細胞は 人の心や念、想念や感情に

コントロールされる。

だから、マイナスの想念、恐怖や怒りがある体の部位に

影響を与えるとその部位の活力は弱まり、そこに、免役力

や順気、血の滞りなどを起こす経絡のつまりを引き起こし、

自然と病にかかりやすくなるというのは、東洋医学的に

見ても、自然治癒力的に見ても、とてもわかりやすいと思う。

 

続く~

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする