他者と共感しあえる世界を造るために 2024年4月29日
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五感の感覚器で感じられる 現象(今生きている)世界に
私たちは、今、生きています。
ところが、この五感(目、耳、口、鼻、触感)が、本当に、
事実を伝えているのか?というと、疑問なのです。
般若心経では、顛倒妄想の世界を造る と、喝破していて、
いうなれば、一種の錯覚の世界に生きているといっても
過言ではないようです。
感覚機能が、本当に正確な事実を脳に伝えているとしたら、
震度1程度の微振動を、私たちは、何故、感じられないの
でしょう?
今、この瞬間、地球が 時速何千マイルの勢いで移動して
いるのが事実なのですが、その速さと、動きを私たちの
五感は、感じ取れません。
目の前にある、すべての物質は、原子でできていることは、
小学生も知っています。
その原子は素粒子でできていることは、物理学で明かされて
ますが全く別の世界のように、実生活の中では無関係です。
それに付随して顕れそうなことが 今の今、ここにいて、
感じられないからです。
しかも、その素粒子にとって、原子空間は、巨大なスペー
であり、そこを、物質の大本である、素粒子は、ぐるぐる
回っていることなど、私たちの感覚では、全く、つかめません。
考えようによっては、むしろ、それは幸いです。
このようなことが感じられないほうが、良いのでしょう。
なぜなら、それほど、精密で正確な五感機能が働いていたら、
生活を普通に営むことは、私たちの神経が耐えられない
でしょうから。
そこで、学者はこう言います:
感覚機能は、上手に、私たちを催眠状態にさせてくれて
いるのだ・・と。
私たちの感覚が、ある事実には、まったく作用しないから
こそ、安定した日常を送っているのかもしれません。
たとえば、もし、モノの究極の本質を構成する、素粒子
同士の動きを過敏にとらえられたら?
素粒子同士の間にある巨大な空間は、この身体や物質の
ほぼ全域にあたり、つまり、私たちは、固体ではなく、
空間に占められた肉体であるというのが、理解できると
いうことでもあるのですから。。
だから、私たちの身体や目の前にある、物質は、硬い形状
ではなく、波動的な存在(素粒子自体)というほうが、
物理的には正しい表現でしょう
そして、それを、身体五感機能でなく、心で理解できた
とき、人は、スピリチュアル的存在であることも、
理解できるはずです。
細胞を構成している、分子の中の素粒子の性質、素粒子
同士の間の巨大な空間、そして、空間の中の生命エネルギー
から成り立っていることが、心で、(頭ではなく)理解
できたとき その人は、別の次元に飛翔するのです。
超越意識で理解できる次元へ・・・
そのとき、自分もあなたも、波動的存在なら、あなたと
私の身体の、境界線は実のところ 有って無きがごとし、
と、感覚でわかるはずです・・・
そう考えると、自分と他者という、厳密な区別が薄くなります。
自分と他者と境界を、設けているのは、エゴ意識です。
肉体の眼で見えないもの・聞こえないもの・臭いのないもの・
味わえないもの・触れる事ができないものは、エゴ意識は、
”存在”として認めようとしません。
エゴ意識で生きている人が多い現代ですから、科学が、
エビデンスとか、データという数値や、物的証拠に裏付けら
れないと、科学的ではないと否定されます。
“色彩”ですら、光の波長の断片に過ぎないのですが、
五感能力にそれを見抜ける能力はありません。
蝙蝠(こうもり)が電磁波を出して、真っ暗な中でも、
岩にぶつからずに洞窟を自由に飛び回る、その電磁波と
いう波動を自らの身体から発して駆使する力さえ、
人間にはありません。
’波長とか波動’という言葉自体、科学的ではないと
避けられる風潮はまだ続いているようです。
平和を地上に実現するのなら、まず、他者と自分の境界線
を限りなく取り去った境地、相手の苦しみは自分の苦しみと
映ってくるほどの距離感を実感して、相手の平穏は、自分
の平穏でもあるという一体感を持つことから始まるのでしょう。
外部世界も自分も、その実 波動エネルギー体でできている
とわかれば、外部世界と自分との境界線は無いと知りえます。
これこそが、新しい自分の覚醒意識なのです。
外部との境界線は、他者と自己、という意識は、“観察者”と、
”被観察者”という観方を生み出します。
その観方がある限り、お互いに、自分と異なる意見や行動に
対して非難や批判をしたり、相手を自分と同調させたいとか、
相手に謝罪を求めるとか、さらに、社会制度が悪い、環境が
悪い、という自分の境界線から外の事象に、非難をしがちに
なります。
それが、戦争の小さな火種となっていくのですね。
社会的、個人レベルでも、平和を求めるのなら、自分の
スピリチュアル的本質に気がついて、周囲と、理解と協力
と愛を協調にした関係を、自然に、身近なところから、
創り上げていくことから、始まるのでしょう。
”自分の本質に返って、相手の本質と同じ、エネルギー体
(生命)であることを、理解すれば、自他ともに、理解
と愛が深まります”
一人ひとりの覚醒が、カリユガ期(現代の物質中心の
光明のない時代)に求められているのでしょう。
それを、今ほど、求められている時はないのではないかと
思うのです。