自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

観察者と被観察者 のない世界

2024年04月29日 | 健康のための心の波動


他者と共感しあえる世界を造るために 2024年4月29日
*************************************************

五感の感覚器で感じられる 現象(今生きている)世界に
私たちは、今、生きています。

ところが、この五感(目、耳、口、鼻、触感)が、本当に、
事実を伝えているのか?というと、疑問なのです。

般若心経では、顛倒妄想の世界を造る と、喝破していて、
いうなれば、一種の錯覚の世界に生きているといっても
過言ではないようです。 

感覚機能が、本当に正確な事実を脳に伝えているとしたら、
震度1程度の微振動を、私たちは、何故、感じられないの
でしょう?

今、この瞬間、地球が 時速何千マイルの勢いで移動して
いるのが事実なのですが、その速さと、動きを私たちの
五感は、感じ取れません。

目の前にある、すべての物質は、原子でできていることは、
小学生も知っています。
 
その原子は素粒子でできていることは、物理学で明かされて
ますが全く別の世界のように、実生活の中では無関係です。

それに付随して顕れそうなことが 今の今、ここにいて、
感じられないからです。

しかも、その素粒子にとって、原子空間は、巨大なスペー
であり、そこを、物質の大本である、素粒子は、ぐるぐる
回っていることなど、私たちの感覚では、全く、つかめません。

考えようによっては、むしろ、それは幸いです。
このようなことが感じられないほうが、良いのでしょう。

なぜなら、それほど、精密で正確な五感機能が働いていたら、
生活を普通に営むことは、私たちの神経が耐えられない
でしょうから。

そこで、学者はこう言います:
感覚機能は、上手に、私たちを催眠状態にさせてくれて
いるのだ・・と。 

私たちの感覚が、ある事実には、まったく作用しないから
こそ、安定した日常を送っているのかもしれません。

たとえば、もし、モノの究極の本質を構成する、素粒子
同士の動きを過敏にとらえられたら?

素粒子同士の間にある巨大な空間は、この身体や物質の
ほぼ全域にあたり、つまり、私たちは、固体ではなく、
空間に占められた肉体であるというのが、理解できると
いうことでもあるのですから。。

だから、私たちの身体や目の前にある、物質は、硬い形状
ではなく、波動的な存在(素粒子自体)というほうが、
物理的には正しい表現でしょう

そして、それを、身体五感機能でなく、心で理解できた
とき、人は、スピリチュアル的存在であることも、
理解できるはずです。

細胞を構成している、分子の中の素粒子の性質、素粒子
同士の間の巨大な空間、そして、空間の中の生命エネルギー
から成り立っていることが、心で、(頭ではなく)理解
できたとき その人は、別の次元に飛翔するのです。

超越意識で理解できる次元へ・・・

そのとき、自分もあなたも、波動的存在なら、あなたと
私の身体の、境界線は実のところ 有って無きがごとし、
と、感覚でわかるはずです・・・

そう考えると、自分と他者という、厳密な区別が薄くなります。

自分と他者と境界を、設けているのは、エゴ意識です。

肉体の眼で見えないもの・聞こえないもの・臭いのないもの・
味わえないもの・触れる事ができないものは、エゴ意識は、
存在”として認めようとしません。

エゴ意識で生きている人が多い現代ですから、科学が、
エビデンスとか、データという数値や、物的証拠に裏付けら
れないと、科学的ではないと否定されます。

“色彩”ですら、光の波長の断片に過ぎないのですが、
五感能力にそれを見抜ける能力はありません。

蝙蝠(こうもり)が電磁波を出して、真っ暗な中でも、
岩にぶつからずに洞窟を自由に飛び回る、その電磁波と
いう波動を自らの身体から発して駆使する力さえ、
人間にはありません。

’波長とか波動’という言葉自体、科学的ではないと
避けられる風潮はまだ続いているようです。

平和を地上に実現するのなら、まず、他者と自分の境界線
を限りなく取り去った境地、相手の苦しみは自分の苦しみと 
映ってくるほどの距離感を実感して、相手の平穏は、自分
の平穏でもあるという一体感を持つことから始まるのでしょう。


外部世界も自分も、その実 波動エネルギー体でできている 
とわかれば、外部世界と自分との境界線は無いと知りえます。
これこそが、新しい自分の覚醒意識なのです。 

外部との境界線は、他者と自己、という意識は、“観察者”と、
”被観察者”という観方を生み出します。

その観方がある限り、お互いに、自分と異なる意見や行動に
対して非難や批判をしたり、相手を自分と同調させたいとか、
相手に謝罪を求めるとか、さらに、社会制度が悪い、環境が
悪い、という自分の境界線から外の事象に、非難をしがちに
なります。

それが、戦争の小さな火種となっていくのですね。
社会的、個人レベルでも、平和を求めるのなら、自分の
スピリチュアル的本質に気がついて、周囲と、理解と協力
と愛を協調にした関係を、自然に、身近なところから、
創り上げていくことから、始まるのでしょう。

”自分の本質に返って、相手の本質と同じ、エネルギー体
(生命)であることを、理解すれば、自他ともに、理解
と愛が深まります

一人ひとりの覚醒が、カリユガ期(現代の物質中心の
光明のない時代)に求められているのでしょう。

それを、今ほど、求められている時はないのではないかと
思うのです。











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"幸せ"とhuman being それとも human doing?

2024年04月25日 | 健康のための心の波動



”この世の私だけに通用する手形” = EGO(エゴ)意識
***********************************       2024年4月22日

朝、出勤前には 誰でも、鏡を見て、そこに映る自分をチェックします。
そこに映っている”私”は誰でしょう?

私(わたし)と呼ぶ、その人のなかには、実は、二人の”私”がいると、
覚者は言います。

①一つは、この世に生きている間しか通用しない、”私”【アハンカーラ】
②もう一つは、永遠に生きとおしの(意識を持った) ”私”【アートマ】

①は 外見上の私として、映ります。
その私は、アハンカーラと呼ばれて、エゴ意識を持っています。

②のアートマ、つまり、魂の純粋性は、外からは 簡単に、わかりません。
心(魂)そのものなので、感じることはできても、物質的に、触ったり
することはできません。

ここで、問題です。
次の ”私” は、①と②のどちらでしょう?

ア)は、この子なしには、生きていけない
イ)この子が離れて行っても、幸せならば、はそれでよい
ゥ)の財産は、生きている間は、誰にも譲らない
エ)の年齢は、肉体的には、30歳ですが、本当は、永遠なので、
数えようがありません
オ)会社の同僚で、の意見といつも衝突する人がいて協力体制がとれない
カ)の意見と反対の意見を持つ友人だが、彼女の幼児時代のトラウマ
体験を聞いたら、彼女の考える背景が理解でき、は今では、反対意見
にも素直に耳を傾けられるようになった。

ア、ウ、オ、カの前者は、①の私です。

どうしてかと言えば、①の私は、エゴ意識が主体になっているからです。
エゴ意識の特徴は、執着を持つことです。

”~に執着する”というのは、”~が自分に所属している”、という自覚です。

”自分の子だから、子供は、自分のもの、自分のものなら、自分の身近に
置いておきたいから、離れて行ってほしくない”、という執着です。

”自分が寂しい想いをしないために、子供がそばにいることが必要だ” という
自己中心的な考え方も、エゴ意識の特徴です。

(ゥ)も同じです。
子供の代わりに、財産への執着です。
子供も財産も、しょせん、この世に生きている間の、関係と所有物。
この世にしか通用しない私(アハンカーラ)の言葉です。

(オ)は、同僚でも友人でも、知人でも当てはまりますが、自分の意見
と同調しない人に対して、一緒に、協調関係は作れない、自分と不適応
の人、とレッテルをつける私です。

比較や批判、というような、レッテルを貼るのは、エゴ意識の特徴です。
比較も批判も、自分自身の考えが、正当であるという意識が、そうさせて
います。

自分の意見の正当性を信じるがあまり、反対されると、相手が自分を
認めていないとか、尊重してくれていないとかの不満に発展する可能性
もあります。

エゴ意識は、”思い込み”で思考を重ねていくことが多いようです

そして、残る三つは、②の自分(純粋性の自分)を表しています。

この世だけに通用する自分とは違い、いつまでも、変らない、本質
の自分でもあります。

自分の物とか、自分が正しいとかいう、執着がありません。
相手の心を十分思いやっての、気持ちの表れから、わかります。

①と②の自分と、揺れ動く環境に置かれたとき、決定的に違う点が
あります。

それは、揺れ動く原因となっている、”他者の意見や、自分の感情や 
秩序のない環境”などに ”影響を受けることなく、振り回されない” 
かどうか、の点です。

①のアハンカーラの自分は、大いに、影響を受けやすく揺さぶられるのです。
人の目や評判を気にしたり、人に良く思われたいとか、嫌われたくない、
仲間外れにされたくないなどと、心が外因によって、動かされます。

②のアートマの自分は、大黒柱のある家に似ています。
地震が来ても、倒れない家のようです。
そうした、外的状況は、それはそれとして、受け入れる体制で、しかも、
自分自身を失わないという安定性があるからです。

その理由は、自分が神(大生命力・宇宙意思・光など)と直結して
いることが実感できますから、どっしりと構えていられます。

私は、この どっしりと構えた、揺らぎの無い境地が、幸せ感の最高峰
だと、思います。

なぜなら、そうしたとき、人は、必然的に”穏やかで、愛深く、冷静
叡智” に満ちていますから、周囲のどんな混乱状況の中でも、落ち着いて
行動対処できて、常に、自分らしく、そのままで、幸せだからです。

表題の”human being" は、人の①と②を組み合わせた言葉です。
①のhumanは、”塵(物質)からつくられた”ということ、beingは”そのまま
で 幸せな状態”を意味しているのです。 

二つ合わせて、人 を意味するhuman being となります。

human doing は、本来の自分に立ち戻ることのないまま、物質的要素や
環境に、気ぜわしく、時間をとられて行動する(doing)人、

human beingは、物質的環境の中でも、本来の自分自身に立ち返る時間を
もって どんな環境においても、自分の”幸せの実態(being)"を、
味わうことのできる人を指しているのでしょう。











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😀​😄 幸せと微笑みの練習は同じ

2024年04月23日 | 健康のための心の波動


一喝 (インスピレーション)のご報告     2024年4月23日
*****************

今朝、昨日の投稿記事への、一喝 が”上”より来ました。

”上” というのは、’ハイヤーセルフ’ または、’宇宙インスピレーション’、
又は、’パラムアートマ(アートマの根源)’、または、すでに天に上がった
’私の師匠’、などなど、言い方は様々です。。

その内容を、新たに書き添えさせていただきます。

このブログで数回にわたり、”幸せ”をテーマに、記事を書いているところ
です。
”健康と幸せ”は、きってもきれない心と身体の関連性があるからです。

昨日までは、”幸せ感”は、外的要因や、条件、物質的豊かさとは、無関係
であるという内容でした。

今朝の”気付き”は、こうです。

”’幸せ’は、心の創造物である”

なるほど!

全く同じ条件で生まれて、教育を受け、同じ親に育てられた双子を
例にとってみましょう。

二人とも、恵まれた環境にいて、どんなに”幸せ”だと傍から、羨まし
がられていたとしても、”幸せ感”の度合いは、二人とも違うということ
です。

なぜなら、二人とも、まったく違う、これまでの人生(過去生)を
体験して、その体験によって、培われた、精神性や、スピリチュアル性
能力や特技などは、明らかに、違う、”心”の素質をもっているからです。

自分の心が創造する幸せ・・・ならば、自分自身で、どんなに過酷でも
不自由な状況でも、”幸せ”になれるはずです。

私は、思い込みの激しい人間です。
が、弱点は、時によっては、ひっくり返して、強味になります。

思い込みを利用して、私は”幸せである”ということを、繰り返し
言霊(ことだま)を利用して、脳裏に叩き込んでいけばいいわけです。
それも、ただ”幸せである”というのではないのです。

”いつも幸せである”という言霊が必要だというのです。

それは、ちょうど、どんなに辛くても、ニコリと、口角をあげる
訓練と似ています。

辛そうな顔を見せないだけではなく、口角を上げる(微笑んでいるように)
意識的に努力していると、いつの間にか、本当に難なく、いつても
微笑んでいるように、幸せそうな表情でいれるというのです。

それが、幸せを造る。
なぜなら、そうすることで、同波長が引き付けられる、物理的法則が、
ここに適応されるからです。

微笑む=満足、嬉しいの表現ですから、物理的に宇宙から、嬉しいこと
その人に引きよせられてくるわけです。

”幸せ”と思う練習は、形には見えないので、微笑むこと以上に、
難しいのかもしれませんが、寝る前と起きたときの、数分、
”私はいつも幸せだ”と言葉で自分に言って聞かせることで、
30日たたないうちに 周囲の状況とともに、自分の心持が変ってくると
いうことです。

言霊のエネルギーは、その通りの状況を造る という法則をここで
思い出しました。
なので、補足ですが、健康も然り、人間関係も然り、自分を愛することも
然り、です。

”私は、いつも健康です。”
”私の家族は仲良く、家庭は天国、人間関係も、優しい人たちと共に
いつも上手くいきます”
”自分は、純粋な魂の持ち主で、過去にどんな失敗をしても、愛すべき
私なのです。”
というように・・・・・





😀😄 😀😄 😀😄 😀😄 
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4月18日の投稿記事の校正記事

2024年04月22日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム
本当は、”幸せな自分”こそ、あなた自身なのですから 2024年4月18日
***************************
前書き)
4月18日の投稿を書き直しました。
緑色の部分が、新しく書き添えたり、書き換えたりしたところです。
どうぞ、ご覧ください。   4月23日10時35分発信

心身健康のときは、幸せ感があります。
反対に、幸せ感があれば、心身は健康に導かれます。

あなたは、幸せですか?

”幸せ”は、人と比較したりして頭で考えて、出す結論ではないですよね。
人によって、幸せ感は、異なることでしょう。

幸せという表現は、本当に、曖昧です。

前回まで、”自由”って?を考えて、ブログに書いてきました。
その理由は、”本当の自由が、幸せをもたらす”と聞いたことがある
からです。

自由は、束縛がないことですが、一番、大きな束縛は、自分の心が
自分の可能性や能力、性格や習性、などを否定的に見る、その観方
そのものなのです。
なぜなら、”観方”は、”言葉”に翻訳され、”言葉”は、その通りに
未来(の自分)を創造するエネルギーだからです。


外因的要素も、束縛の中に考えられるでしょう。
たとえば、人間関係がぎくしゃくしていれば、誤解や、相手の考えが気に
なって、心はそれにとらわれます。
何かにとらわれていれば、自由ではありません。

私たちは幸せ感を味わうために、とかく、条件をつくりがちです。
たとえばこれが無ければ、この人がいなければ、幸せでない・・と。

皮肉で、求めていた”これ”が見つかり、離れがたい”この人”が、常に傍に
いたとしても、その結果が必ずしも、幸せの条件として長続きしないのが
世の中の常です。

 
ということは、”幸せ”って、こうでなければ、幸せではない、という条件
付きではなく、どんな条件下のもとでも、心が、満たされていること
をいうのでしょう。

そして、自分自身でかけている、”自分の資質を限定して束縛状態を造る”
という、言霊(観方)の呪術が解(ほど)けている時、ではないで
しょうか?

覚者は言います;
”幸せを求め続けているのなら、今ある、それに気が付かない
だけのことなのです。”

これは、メーテルリンクの“青い鳥”の童話(*1)の中のお話と同じです。
幸せの青い鳥は、自分の家にすでにいたというお話です。

自分自身、満たされていることを知る~というのは、今、恵まれている
些細な当たり前のことに、目を向けて、’有難い・自分は愛されている’と
感謝と、天からの恵みを、心から感じ取ることでしょう。
”今、あるそれに気が付く”というのは、当たり前の事象の、当たり前
でないことに、気が付くということでしょう。

そして、自分の”私はダメだ”と、”バカだよな”とか、とかく、否定的
に見る観方を一掃するには、本当の純粋な自分を自覚すること。

本当の自分とは、時空を超えて変わらない、自分自身です。

私たちは、数千年、数万年の歳月を、衣(肉体)を脱ぎ捨て、
あらゆる職業を体験し、様々な国に生まれ変わってきました。

その一番の目的は、私たちの肉体の衣を着こなしている、本物の
自分を見つけるためでした

本物の自分のことを、サンスクリット語で、”アートマ” と呼びます。
日本語では、生まれつき誰の心にも存在する、”仏性” のことです。

さて、話は少し、飛びますが、インド在住のとき、師のところへ
度々、足を運びました。
師から、あなたは誰ですか?と、聞かれたことが
あります。

”自分の名前” を答えると、却下されました。

なぜなら、自分の名前は、この肉体を持った時に、付けられたもの。
この肉体の分別のためのもので、本当の私とは異なるからです。

師は、こう続けました:
“自分の肉体の定義をしてみなさい。 
この肉体が自分だと思う理由も、考えてみなさい。 
肉体を構成している材料は、宇宙に存在する物質なのに、
どうして、それらは’あなた’だと、いえるのかね?
あなたは、その’物質’の構成された肉体に住む、アートマ。
その物質は、あなたではない。
だから、’あなたは誰か?’ の答えは、’アートマ’なのだ。”

“自分はこの肉体の中にある” と思う人は、少なくないでしょう。
心臓に、太陽神経チャクラに、もしくは、脳の中に’自分’
がいるから、この肉体が自分だ” というわけです。
それも否定できないのですが、魂の自分(アートマ)の純粋性
と、その純粋性の中にいることで、湧き上がる、愛とか、祝福感
とかが、何も物質的条件なしに、人を本当に、幸福に感じさせる
としたら?

なぜ、その時に、幸福を感じえるか?
それは、私たちを限定しているエゴ意識を飛び越え、私たちの本質
と宇宙の本質と、繫がり、自分が無限に愛されていること、祝福
された存在であることを、自得できるからです。




次回に続きます
************

(*1)幸福の青い鳥はどこだろう? 
クリスマスの前夜、妖女に言いつかって青い鳥を探しに出た兄妹、
チルチルとミチルの夢と冒険の物語。

 
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健康=幸せ感(前編)

2024年04月18日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方


本当は、”幸せな自分”こそ、あなた自身なのですから 2024年4月18日

***************************

心身健康のときは、幸せ感があります。

反対に、幸せ感があれば、心身は健康に導かれます。

あなたは、幸せですか?

”幸せ”は、人と比較したりして頭で考えて、出す結論ではないですよね。
人によって、幸せ感は、異なることでしょう。

幸せという表現は、本当に、曖昧です。

前回まで、”自由”って?を考えて、ブログに書いてきました。
その理由は、”本当の自由が、幸せをもたらす”と聞いたことがある
からです。


確かに、人間関係がぎくしゃくしていれば、誤解や、相手の考えが気に
なって、心はそれにとらわれます。
何かにとらわれていれば、自由ではありません。

これが無ければ、この人がいなければ、幸せでない・・というのも
皮肉で、”これ”が見つかり、”この人”が、いたとしても、その結果が
必ずしも、幸せの条件にはならないのが世の中の常です。

 
ということは、”幸せ”って、こうでなければ、幸せではない、という条件
付きではなく、どんな条件下のもとでも、心が、満たされていること
をいうのでしょう。

常に無条件でも、幸せな自分になれる?

覚者は答えます;
”はい、幸せを求め続けているのなら、今の中にある、それに気が付かない
だけのことなのです。”

これは、メーテルリンクの“青い鳥”の童話(*1)の中のお話と同じです。
幸せの青い鳥は、自分の家にすでにいたというお話です。

幸せに”気が付かない”というより、”いろいろ問題を抱えている”と考え

ているのは、”錯覚ボート”に乗っているからだと、覚者は、さらに、

言います。

誰でも、”錯覚”しながら生きている。自分のそのままで、幸せだという
ことに気が付かないのは、、’小さなエゴ意識(アハンカーラ)’と、生まれ
持って生まれたの気性(サンスカーラ)のためだというのです。

”本当の純粋な自分”を、サンスクリット語で、”アートマ” と呼びます。

日本語では、生まれつき誰の心にも存在する、”仏性” のことです。

エゴ意識は、自分を、肉体に属していると思わせ、身体の五感感覚に
したがって、感情を揺り動かして、常に、頭(脳)をフル回転にして
そこで、考えたことや悩んでいることが、”自分自身”と、思わせます。

サンスカーラは、過去生の何万年以上にもわたり、この世に生まれ、
培ってきた自分自身の、キャラクターのことで、短気とか、疑り深い
とか、もちろん長所も含まれますが、明らかに、人とは、違う、個性を
創り上げている要素です。

この二つが、アートマという魂の純粋性を、隠してしまっています。

さて、話は少し、飛びますが、インド在住のとき、師のところへ

度々、足を運びました。

師から、あなたは誰ですか?と、聞かれたことが

あります。


”自分の名前” を答えると、却下されました。

なぜなら、自分の名前は、この肉体を持った時に、付けられたもの。
この肉体の分別のためのもので、本当の私とは異なるからです。

師は、こう続けました:

“自分の肉体の定義をしてみなさい。 

この肉体が自分だと思う理由も、考えてみなさい。 

肉体を構成している材料は、宇宙に存在する物質なのに、

どうして、それらは’あなた’だと、いえるのかね?

あなたは、その’物質’の構成された肉体に住む、アートマ。

その物質は、あなたではない。

だから、’あなたは誰か?’ の答えは、’アートマ’なのだ。”


“自分はこの肉体の中にある” と思う人は、少なくないでしょう。

心臓に、太陽神経チャクラに、もしくは、脳の中に’自分’

がいるから、この肉体が自分だ” というわけです。

それも否定できないのですが、魂の自分(アートマ)の純粋性
と、その純粋性の中にいることで、湧き上がる、愛とか、祝福感
とかが、何も物質的条件なしに、人を本当に、幸福に感じさせる
としたら?

その純粋性を求めたほうが、はるかに、幸福への近道だと
思うのですが・・・


次回に続きます
************

(*1)幸福の青い鳥はどこだろう? 

クリスマスの前夜、妖女に言いつかって青い鳥を探しに出た兄妹、

チルチルとミチルの夢と冒険の物語。


 

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