自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

クリスチャンサイアンスと癒し

2013年07月30日 | 健康と直結する”一元論”について

形而上的癒しとは?   平成25年7月30日

***************************

昨日の続きであるが、死の淵から 或る種の悟りを得て

自分自身の健康と奉仕の生活を取り戻した

エディ夫人は 多くの人にヒーリングを行っている。

それを、形而上的i癒し (metaphysical in healing the sick)

と呼んでいる。

 

どういうものかというと、以下のように記述されている。

引用すると:

"After a lengthy examination of my discovery and its 

demonstration in healingthe sick, this fact became evident 

to me, - that Mind governsthe body, not partially but wholly.

 

I submitted my metaphysical system of treating disease to 

the broadest practical tests.

Since then this system has gradually gained ground, 

and has proved itself,

whenever scientifically employed, to be the most effective 

curative agent in medical practice" (111)

 

セラピー協会訳)

私は、病人の癒しを行い、自分自身が発見した事柄を

長きにわたり検証した結果、次の事実が明らかにした。

それは、心 が 体 を支配しているということであり、

しかも、部分的の支配ではなく、全体的な意味で、司って

いるということだ。

 

この形而上的方法で広範囲にわたり、実際の患者を治療

してみた。それ以来、この方法は、成果を少しずつ上げ

始めて、科学的に試行されることで、医学的療法のなか

でも最も効果的な方法であることを証明してきた。

 

私どもの自然治癒力セラピー という原点も、エディ夫人の

形而上的要素を共有する。

なぜなら、それは、共通真理が原点となっているから・・

その共通真理を知るということは、宗教・人種・イデオロギ

ーを超越したすべてに万民に働きかける、心の法則と、生命

の力共通認識でもある。

 

”誰の発明した”、あるいは”発見した”という ~教や、~

団体組織の中で主張される、特定枠内にある真実でなく、

”心が体を包括的に コントロールしている”

”私たちの本質は大生命であり、神の資質にほかならない”

という 真理を、共有しているに過ぎない。

 

もう少し、具体的に、エディ夫人のいう 形而上学癒し

を説明するのなら、仏教の中にある、一元説(空観)、

ヒンズー教にある万教一元(エカム・サット)或いは、

ヴェーダ哲学の 不二一元論の真理と同一な真理を、

忠実に、厳密に、徹底的に不調和な体と精神に

適応されたときに、起こりうる癒しともいえる

だろう。

 

さらに、エディ夫人の言葉を引用する。

”The fundamental propositions of divine metaphysics

 are summarized in the four following , to me, self-evident 

propositions.

Even if reversed, these propositions will be found to agree

 in statementand proof, showing mathematically their exact 

relation to Truth.

De quincey says mathematics has not a foot to stand upon 

which is not purely metaphysical.

 

1. God is All-in-all.

2. God is good Good is Mind.

3. God , Spirit, bbbeing all, othing is the matter.

4. Life, God, omnipotent good, deny death, deny good,

omnipotent God, Life.

 

Which of the denials in proposition four is true?

Both are not, cannot be, true.

According to the Scriputure, I find that God is true,

'but every (mortal) man a liar.'"(113)

 

協会訳)

聖なる(神聖な)形而上学の基本的原理として次の4点に

要約できる。

これは私にとって、自明の命題でもある。

これらの命題は順番を置き換えても言明と証明は一致して 

真理との関係を数学的に表していると言える。ド・クウィンシー

は 数学は純粋に形而上的でなければ樹立することはないと

言っている。

 

即ち、

1.神は すべての全てである

2・神は善そのもの、善 は 実相の心である

3.神 と その神霊は すべてのすべてだから、何物も物質

ではない。

4.大生命・神・至上なる善、は死を否定し、同様、悪・罪・病

否定する。

~病・罪。悪。死 は 善、全能の神、大生命の力を否定する。

 

第四の命題で、どちらの否定が 真実なのか?

双方の否定が真実であることはありえない。聖書によれば、神が

真実であることがわかる。

’だが、あらゆる(滅びる肉体的)人は、偽りを言う”とある。

 

 エディ夫人は キリスト教、あるいは、メシア キリストを

主体に形而上的癒しを述べているが4つの命題は、優れた真理を

含む宗教や哲学を研究すれば、特定の宗教観ではないことが

わかる。

 

即ち、キリスト教信者だけではなくても、もっと、広範囲に

わたり、普遍的な真理 を 信じる人すべてが、この形而上的

癒しを理解できるし、また、体験できると思う

 

キリスト教の神を信じている人しか体験できないのなら、

キリスト教の神様の能力が そこで限定される矛盾を生じる。


真理は一つ、真理は様々は様相で、時代と場所に応じて

述べ示されてきた。それを、エカム・サットと

サンスクリット語でいう。


万物の現象の中に、統一された一つ を観る事、浪の形は

様々だが海は一つ、星は無数にあるが 宇宙は一つ、

真理は様々な言語で語られるが、その内容は一つである

~これを エカムサット という。

 

 

参考)

Science and Health With Key to the Scriptures

by Mary Baker Eddy

published by The First Church of Christ, Scientest,

in Boston, Massachusetts, U.S.A, 1982 edition

 

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エディ夫人の悟りと心経

2013年07月29日 | 健康と直結する”一元論”について

クリスチャンサイアンスの意味  平成25年7月29日

****************************

以前に、エディ夫人の考え方をご紹介している。

クリスチャンサイアンスの創設者である。

 

キリスト教科学 と訳する人もいるようだが、

ここでは あえて、原文の Chirtiacn Science 

とエディ夫人が命名した創立時ままの、

キリスト教の分派の呼び方をそのまま使っている。

 

なぜ、Science、科学 という言葉をキリスト教と

組み合わせているかということであろう。

 

そこで、

原著から下記の言葉を、改めて、引用してみたい。

”The term  Christian Science was introduced 

by the author to designate the scientific system 

of divine healing."(123)

セラピー協会訳)

クリスチャンサイアンス という言葉は、

divine(人間の神性) に基づく 癒し に関して 

科学的な体系を与えた著者(エディ夫人)が導入した

言葉である。

 

 

 

ここでいう科学とは 少なくても 日常私たちが

物質の法則の上で使う科学とは 若干、意味を異にする。

視点を変えて、癒し の方法と手段、その解釈に、

合理的な観点を与えているようだ。

 

たとえば、1000人の人が瞑想して、

たった、一人が座布団から体を

浮かして 瞑想していたとする。

残る、999人の人が 空中に浮遊することが

なかったから これは 錯覚だと、考える

人もいるかもしれない。

 

しかし、たった1%でも、そこにある事実を

形成していれば、

偶然 とか、錯覚 として片づけるのでなく

その事実を もっと掘り下げて 調べて行こうとする

考え方もあるかもしれない。

 

エディ夫人の場合、”人間の実相から くる癒し” を 

臨床的に具体例を集め、究極的な自然治癒力 を証明して

いる。

一般には、たぶん、”無い、迷信だ” と否定されたとしても、

実際に、その実例が在る以上、それを掘り下げて、体系的に

して、その可能性を明らかにするという科学的アプローチを

試みている。

 

実際 エディ夫人は 自分が 肉体的に、死の淵に

たたされてこの、”心の神性の科学”に 気が付くことが

できて、再起をはかることができた。

 

その経験を、以下のように述べている:

”Whe apparently near the confines of mrotal 

existence,standing already within the shadow of

the death-valley.

I learned these truths in divine Science:

that all real being is in God, the divine Mind, 

and that Life, and Love are all-powerful and 

ever-present; that the opposite of Truth,- 

called error, sin, sickenss, disease, death, -is

the false testimony of false material sense, 

of mind in matter; that this false sense evolves,

 in belief, a subjective state of mortal mind 

whichthis same so-called mind names matter,

 therby hutting out the true sense of spirit."(108)

 

セラピー協会訳)

生死の境に近づき、まさに、死の谷の影に立っている

と思われたとき、 私自身、”聖なる科学” の中の、

次のような真理を学んだ。

 

それは、すべて実在(実存)するのは神であり、

それは実相の、心の中にあり、

生命・真理・愛は あらゆる力のうちで

もっともすぐれていて、滅することはないこと。

さらに、真理の反対に坐する、偽り、罪、病気、病

死と呼ばれるものは、迷妄の物質的感覚による

偽りの証言に成り立っている。

 

言い換えれば、

心は物質的要素で成り立つとする証言に

基づく迷妄の感覚が、滅びゆく一過性の心

に主体性を持たせ、

さらに 人の心は、いつかは消滅するという

誤った物質的心 を生み、

真の実存する実相たる自分、神性を

覆い隠してしまうことになる~

そのことを、私は、死の淵で私は学んだのだ。”

 

これは、一種の悟りであると筆者は思う。

ここで、一言添えるのならば、般若心経のある

フレーズとこのエディ夫人の悟りは重なるのでは

ないか・・

それは”

是諸法 空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 

是故 空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 

無色聲香味蝕法 無眼界 乃至 無意識界 無無明 

亦 無無明尽 乃至 無老死 亦 無老死尽 

の部分だ。

  

諸法は、真理の法則の意味で、この場合、

エディ夫人の体得した法則をクリスチャンサイアンスと

定義するならば、

その法は、空相 不生不滅 = 生命と愛は、最大の力

をもち、生きとし、永遠であり、( that Life, and 

Love are all-powerful and ever-present)

 

 

その法則の、空の様相には 感覚器官が感受する

ことはかなわず、=空中 無色 無受想行識 無眼

耳鼻舌身意 (error, sin, sickenss, disease, death, - 

isthe false testimony of false material sense, )

 

 

無明 は無いからこれにとらわれる必要もない

=無無明 亦 無無明尽 

(false sense evolves,in belief, a subjective state 

of mortal mind)

 

 

死 もないから、老死を患う必要なし

=無老死 亦 無老死尽 

(death, -isthe false testimony of false material 

sense) 

 

ということではないだろうか・・・・

 

 

 

参考)

Science and Health With Key to the Scriptures

by Mary Baker Eddy

published by The First Church of Christ, Scientest,

in Boston, Massachusetts, U.S.A, 1982 edition

 

 

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エミール大師と共に:母堂から貴方へのメッセージ

2013年07月28日 | 健康と直結する”一元論”について

すぐそばにいるのに・・・・   平成25年7月28日

*******************************************

著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた11人の調査団の

一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに

接触した。大師は私たちが 偉大なる法則の働きを

実証されるのを実際に見るために、大師がたの生活の

中に親しく入り込むことを許してくれた。

私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの

生活と教え”と題して、発表するが、そこに盛られた

内容をそのまま受け入れるか、否認するかは、読者の

自由である。

******************

大師からもっとも愛されているという400歳の老齢で

18歳の若さを保った麗人である、彼女は語る。

 

”私たちは低い意識から高い意識に映ることの意義を

もっとよく理解したいという望みをもっています。

・・略

私たちが摩訶不思議なことをやってきたわけでなはい、

貴方がたはわかっています。

本当の霊的側面から働く心は、常に一切の物を観ずるに、

その奥にある完全なる実相を持ってするのであります。

 

その時、偉大なる奥深き意義が啓示されるのであって、

何も、特別な神秘というものはなく、したがって、

摩訶不思議も奇蹟もないのであります。

 

この低い意識から高い意識に映っていくということは

不調和のみが支配している物質的なものを排除し、

すべてが調和され完全である、実相意識に還ることを

意味するのです。”(232)

 

最後にエミール師の母堂が完全な英語を使いこなし

澄み切った声で調査団に次のように語った。

 

”私たちは、世間の人々なら、不信と嘲笑いで観られる

ような、特殊な能力を与えられ、人々にそれを使って、

出来る限り 理解してもらうよう努力しています。

 

しかし、人々は誤った考え方のために、(そういう能力は)

生活圏の外にあるものと疎外して見向きもしません。

 

これらの力が特殊な力でなく、すべての人々が利用

するようになれば、これまで俗世間で死にもの狂いに

しがみついてきたものよりも、はるかに真実ではるかに

活き活きしたものがあることに気がつくでしょう。

 

人間は有限な卑俗な五官で見て、感じて、触れて、

物質的な物にしがみついて生きています。

この部屋やあなた方の居心地の良い部屋の照明や温熱の

仕組み、あなたたちが食べた物ですらこの力で生まれだ

されたものです。

 

貴方たちはそれを 光線と呼ぶでしょう。

私たちは、それを偉大なる普遍な力とみなしています。

この力に 人間が触れたとき、蒸気や電気、ガソリン

石炭などのエネルギーより、はるかに、効率の高い

ことがわかるでしょう。”(233)

 

これこそが自然の生き方、神が見給う生き方であり、

かつ、あらゆる善き宗教の指導者たちが導いた道でも

あります。

 

そのほかのものは、すべて不自然であり、利己的道で

あり、困難な道[霊的に)であります。

・・・略

 

今、目の前に料理が並んでいます。

これは私たちが出会いを悦び、寿ぐ機会でもあります。

俗な心の人たちが考えるものと違い、実は悟りと成道の

祝典の一つです。

 

この集まりは、 人間的エゴの象徴の小我から

実相意識の大我の変換への象徴です。

。。。略

肉体が完成されると、肉体そのままで昇天し、天界に

入ります。

こうして、天界に入った私たちがまた、再び、ここに

集まり、ある限られた時間の間、肉眼に映る形で存在

します。

 

それから、再び、限界を去り、肉体のままで

俗な人たちの眼には見えない、意識の中の場所に映って

いきます。

 

こういう機会を持つために、私たちは 自分の意識

を実相意識に切り替え高めなければなりません。

同時に、肉体を完全に浄化して、天界にそのまま

昇っていく大師たちは 意のままに、その姿を私たち

の前にあらわすことも可能です。

 

 

姿を現す目的・・それは、

この現象界に来て、自分たちの教えに感応する人々に

(インスピレーションなどで)教えを教示するためです

私たちがその教えを受ける心構えが整ったとき、

貴方たちの直観を通して、ときには、個人的に接した人

との会話から、あるいは、本で読んだり、聞いたりして、

必要な、その人への 実相の教えが与えられるのです。

 

この話はまだ不可解に思えたので、隊員の一人が

そのようなエネルギー、言い換えれば、

想念やコトバの持つ力について尋ねた。

応えがあった。

 

”この小石を水の中に落とします。すると、波紋が広がり、

時間の経過でその力を失い、波紋は止まります。

 

しかし、本当のところはこうです。

波紋が水の端までゆくと、すぐにもとの中心に向かって

戻りだすのです。 

 

そして、戻りつくまで決して速度をゆるめることはあり

ません。これは私たちが考えたり、逝ったりする想念や

言葉を正確に象徴しています。

 

想念や言葉は 波紋に相当する波長を引き起こし、

円を描いて次々と波及していきますそして、ついには

宇宙を巡って、再び、その発信者に還ってくるのです。

 

良かれ悪しかれ私たちのカンガエや言葉は、

それを発した時とおなじように、確実に私たちに

帰ってくるのです。

・・・略

種子を植えておけば、太陽と地球とが協力して

巨大なボダイジュでも、小さき花にでも 造りだす。

 

同様に、魂や霊も、人間の求めに応じて、言葉や観念

によって求めるものを人間に与えるのであります。

せっかくの天界に、物質的考え方を霞のように

張り巡らしたため、そのために、人間は天界から

離脱してしまっただけです。”(235)

 

天界から離脱した(と思い込んでいる)から、

あるいは、そんなことを考えたことすらないから、

こうした 能力すら忘れてしまったということなの

だろうか・・・・

 

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

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エミール大師と共に。。。齢400歳の美女

2013年07月27日 | 健康と直結する”一元論”について

 半年近く一緒に暮らす  平成25年7月27日

******************************* 

ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

 著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた、11人の調査団

の一員であった。3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤ

の大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きをが、実証される

のを実際に見るために、大師がたの生活の中に親しく

入り込むことを許してくれた。

私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活

と教え”と題して、発表するが、そこに盛られた内容を

そのまま受け入れるか、否認するかは、読者の自由である。

 

**********

 

日、調査隊は この村を出発した。3日間、山の多い、

でこぼこ道を歩いた。

人口も少ない地帯で、宿舎も見つからず、毎夜、テントを

張って就寝した。

今回は、エミール大師が同行しているので、あの無限の供給

技を目にした以上、特に食料には危機感もなく、食べ物が

ほしい時は、自然に出てくるということに慣れっこになって

しまった。

著者はそのあたりの体験を次のように、記している;

 

”食べ物がほしいときは、自然に出てくるのであった。

食事の支度が終わると、もう、食べ物がすぐにでも食べら]

れるように、チャンと手元に現れて出てくるのであった。

その上、食べても食べても、尽きることがなく、いつも

少し残るほどの分量だった。”(224)

 

こうして、三日目に広い谷の入り口につき、この谷を通過

すると、目的地の村だった。冬の宿営地としたいきさつは 

悟りを開いた大師たちの多くが この村付近の出身で,これ

までであった大師たちからも 遊びにくるようにとお誘い

を受けていたからだった。

 

ここに、冬の間、泊まることができれば、そういう大師たち

の日常生活をもっと、身近に観察できる機会が持てると

期待をしていた。11月20日に 村に到着した。

これから降雪が深く、旅行は困難になるが、それまで、この

村を中心にして、探検隊は回れるところへ短い旅を計画して

いた。

 

村の人たちの家には錠がかかっておらず、探検隊の人たちが

いつ、家に来てもよいよう、解放して歓迎してくれた。

 

すると、ある 村の女性が自宅を隊員達のために解放するので、

緒に生活してもよい提案してくれた。

そこで、宿から荷物をその女性の家に移し、残りの滞在期間

の足場にすることにした。著者は以前、この女性にあったこと

があると次のようにいう。

 

”私は決して忘れることはあるまい。それは国境近くの小さな

町であった。初めて紹介されたとき、私たちは彼女を18歳

ぐらいだと思った。それにしても、なんと美しい女性である

ことか。

 

ところが実は 彼女の年齢は400歳を超えていること、そして

多くの導師たちの間でも一番 人々に愛されている方だという

ことを聞かされた時の私たちの驚きは大変なものだった。

彼女はこの仕事に 全生涯を当てている。

 

実は、私たちは それまでに2週間もの間、毎日彼女と接触

していたのであるが、彼女の家で会って、初めて彼女の本当

の人柄が判ったのであった。

その家に住んで毎日接触してみて初めて 人々に愛されて

いる理由がすぐわかった。

 

どんな人でも彼女を愛し、敬せずにはいられないのである

結局、12月21日から翌年 4月まで、私たちはこのご婦人

の家に住み、彼女の食卓で食事をした。

 私たちは彼女の過程生活や、この村の数人の人々の家庭生活

を観察する機会を十分に与えられたが、その生活は誠に、

理想的だった。

これらの人々すべてを観ればみるほど、一層私たちは彼らを

愛し敬していくのだった。

 

彼らの年齢などもすべて戸籍で証明する機会は十分あった。

この土地の戸籍もまた、私たちの戸籍同様、間違いや矛盾

の記載など、一つもなかったのである。”(225)

 

 

ヒマラヤの山に咲く シャクナゲ

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

Copyright : NPO Spontaneous Healing Therapy Japan: All Rights Reserved.

 

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エミール大師;”この世の差別について”

2013年07月26日 | 健康と直結する”一元論”について

天国・地獄は自分が造りだす    平成25年7月26日

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 ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

 著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた

11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、

ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 

偉大なる法則の働きを

実証されるのを実際に見るために、

大師がたの生活の中に親しく

入り込むことを許してくれた。

私のノートを今ここに、

“極東における、大師たちの生活と教え”

と題して、発表するが、そこに盛られた内容を

そのまま受け入れるか、否認するかは、

読者の自由である。

 

**************************

 

 

理想を実現する

ヴィジョンを顕現する・・という話のあとで、

それらを現実化する時にみられるこの世の 差別について大師は語る。

 

”私たちの種々の差別や 

 仲間我が出てきて、地上どこに行っても

 つきまとうようになったのは

 どうしてだと思いますか?

 それは、’我’の心が出て、私たちが

 持っている神より与えられた力を

 二元的に考えるようになった。

 この力を誤用して、二元が出現した。(*1)

 それは、人間がもともと自由意思を持ち、

 自分が見た通りのものを造りだすものだからです。

 

 ここから、種々の差別や大きな仲間割れが

 出てきたのです

ヒマラヤ無料画像 に対する画像結果

 

 しかし、それも改まる時期が来つつあります。

 雑多な対立はその極限に達し、

 人間は一切のものが 唯一の根源から出てきている

 ということを認めつつあります

 天国とは 今この地上で人間の醸す平和と調和とで

 あることを改めて悟るでしょう。

 

 したがって、人は自分の選ぶがままに、

 天国も地獄も造りだすということがわかります。

 天国という考え方は正しいが、

 それを一定の場所としたのは、誤りであった

 

 神はわがうちにある、否、わがうちだけではなく、

 自分の周囲すべてのもの、すべての岩

 すべての気、すべての花、およそ、

 一切の被造物に存在すること、

 

 自分のお灸する空気の中に、

 自分の飲む、水の中、自分の使う金銭の中に、

 神がましますこと、

 

 神は一切の本質であることをしるでしょう。

 人が呼吸する時、彼は空気とともに、

 神を吸っているのである。(*2)

 人が食物をいただくとき、彼は食物とともに

 神をいただいているのです。

 私たちは別に新しい今日はを造ろうなどとは

 望んでいません。

 現在ある宗教で十分であって 

 宗教はすべての人々に近づいて、

 すべての人の内在する神を知ることが

 できるようにしてあげる真理の場であると、

 私たちは考えています。(*3)

 

 貴方がた、クリスチャンは教会と関係あり、

 教会とはただ一つのこと、即ち、

 人類すべての中にあるキリスト意識を象徴する

 ものであるということです。

 

 これがわかれば、もう、今日の差別などいらなくなる。(*4)

 一体人間の '我’の考え以外にどこに

 差別があるというのでしょうか。

 

 一つの教会、または、宗教団体と 他のそれは 

 どこが違うというのでしょうか?

 

 いまどき、存在すると思われる差別は、

 ことごとく、人間の我の心だけにしかないのです。

 

 この差別が人類を導いて、今日に至らしめた結果

 というものを見てください。

 国民と国民 家族と家族、いや個人と個人の間にさえ、

 大きい憎悪が生み出されてきたではありませんか。

 

 それも、全部 教会がめいめい自分たちの心情、

 あるいは、教義こそが、ほかのものより、勝っていると

 考えてきたからです。

ヒマラヤ無料画像 に対する画像結果

 

 しかし、本当は全部同じことなのです。

 なぜなら、究極において、同じところに至るからです。(*5)

 

個人が自分だけの天国を持つということはできないでしょう。

もし、持てるというのなら、あらゆる教会会員は、自分の

’何々教’という名札のついた、教会生活を地上ですまし、

天上でその報いを受ける段になっていくつもの天国と

いう迷路の中で自分専用の天国を探すために、余生を

ついやすことになるでしょう。

 

差別の過ちはどこにあるのでしょうか・・?”(214)

 

又、他人があなたのためにあなたの生命を表現する

ことはできないのです。又、なん人も 他の人に、

その人自身の生命をいかにして表現すべきか教えて

あげることもできないのです。(*6)”(215)

 

少し 言葉を補足させていただくのなら、

二元が出現した。(*1)”、この二元の考え方とは

良い悪い、浄・不浄 増減 のような、二つの相反する

対象をもった考え方といえるだろう。

 

本来、実存するのは 神の資質のみであるというのが

一元、現象世界では当たり前の考え方は二元論に基づい

ているといえるだろう。次に、

人が呼吸する時、彼は空気とともに、

神を吸っているのである。(*2)

 

この ことはヨガの呼吸法でも重要な真理として捉えられて

いる。so-hum (ソーハム)の呼吸法がその一つである。

息を吸う時に、神の叡智や愛、生かす力(プラーナ)が

身体に取り入れられて、小我意識は 吐く息とともに

排出されると観想しながらの呼吸法である。

 教会の意味、それは、

  人類すべての中にあるキリスト意識を象徴する

  宗教はすべての人々に近づいて、すべての人の

 内在する神を知ることができるようにしてあげる

 真理の場であると、私たちは考えています。(*3)

宗教は排斥すべきものではないが、その意義は私たちの

内在する 大いなる力 の意識に目覚めること、

あるいは、自己の真実に気づくこと、その一環の手段に

すぎないはずだ。

 

教祖を神様のように拝んだり、その宗派だけが真実だと 

他を排斥するのは、本来の宗教の姿ではない~と大師は

ここで述べている。

 

 

教会とはただ一つのこと、即ち、人類すべての中

にあるキリスト意識を象徴する”ことがわかれば、

私たちはすべて兄弟姉妹、地球家族であるという

言葉の実感がわいてくるがゆえに、差別はなくなる

だろう。

 

総ての人の本質は 皆等しいのだから・・・

なぜなら、究極において、同じところに至るからです。(*5)

究極においては、ゴールは一つだ。遠回りしても、どんな

道をどのような方法で歩いていても私たちの行きつく

山の頂上が 一つであるように・・・

 

又、なん人も 他の人に、その人自身の生命をいかに

して表現すべきか教えてあげることもできないのです。(*6)”

自分の心の奥の気づき以外に、その人を変えることは

神様すらできないという。

 

人の心を変えることは、他者の力ではまず無理である

と考えていた方が無難だ。

 

でも、今の世の中、思う通りに相手を動かしたいと

いう気持ちが先行している。自覚していなくても、

相手が自分の期待に沿えないからといって、腹を

立てる人がいかに多いことか・・・

 

怒りとは相手が自分の期待通りに行わないとき、

生まれるという。

 

神様も天界でつぶやいておられる

”人の心を動かすことほど難しいものはない”~と。

 

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

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