自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

”誠意”を問われた総選挙と、人の”生命力”への信頼

2024年10月28日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質


究極で絶対な癒し(ヴァイブレーション①)
****************
2024/10/28

アートマセラピーは、手かざしとは違う。
ツボを押さえる指圧でもないし、マッサージでもない。

アートマセラピーは、本来、誰でも自分自身で行える
施術。

それによって、癒されるか否かの ポイントは?

****************

”自分の本来もつ、聖なる完全性を、凝視できるか?
どのくらい徹底的に、疑いなく、それを思い続けるか?”

それによって、私たちの身体のヴァイブレーションが神
(生命力)のヴァイブレーションと直接、調和し、
融合し、一つとなり、癒しが完成されるから・・

誠意をもって、それを行うこと。

誠意とは、 ”integration "・・・つまり、統合の意味だが、
”思い・言葉・行動”が一致しているということ。

今回の総選挙で、自民党が大敗したが、その大きな要因は、
石破首相が 総理になる前と総理後の ”思いと言葉、そして、
行動” のずれに対する国民審判の結果だったのだと思います。

つまり、誠意がないところには、信頼がない・・

生命力への、究極な信頼があってこそ、誠意をもって、
自分自身を癒すことができるわけです。

生命力と癒しへの、信念があれば、自分自身の聖なる
ヴァイブレーションを引き出せます。


こうして、”癒された”ことは、実は、多くの奇跡として
これまでも、沢山の聖人たちに 証明されています。

たとえば、イエスキリストの、治病方法も、そうでした。

暗い想念に言霊で光を通し、意識の中に根差している
罪の観念にも、光を指し続けて、それを克服すると
いう方法でした。


真の癒しは、自分の聖なるヴァイブレーションとつながる
ことに始まるのです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハエのブンブンは 右から左に聞き流せば・・・

2024年10月25日 | 介護と自然治癒力
悟り(惑わされない空の境地)を得るためには、ハエが必要・・ 
********************************
昨日の記事の補足です。

”空”を知るとか、なんとか・・煩悩の俗界に、災害
続きの自然現象に、人間関係のしがらみに、悩み、
傷つくこの世界に生きている、自分が、実は、とても
意味がある・・という

矛盾したお話です。

そんな 煩悩に焼かれる私たちだからこそ、
気が付く何か・・究極には”悟り”があるというのです。

インド時代、大師から教わった言葉があります。

自然の元素、火と水、土と風、これらに共通した
ことが一つある。

それは、その元素自身、自分自身の強さを知らず、
火は火で焼き尽くされることなく、
水は水で溺れることなく、
土は土で崩すことはできず、
風は風によって、乾かすことができない。

人の本質のアートマもアートマがこれだと
言い切ることはできない。

つまり、人のアートマ[空なる本質]は
日々の物質的生活の中に見え隠れしているにも
かかわらず、

それ自身姿を現すには もう一人の自分(エゴ)がいる。”


”私はなんて、ダメなんだろう!”と ため息をつく前に 
そのダメな私・・の役割を認めてあげたら?~ と言います。

なぜなら、
エゴを取り去れば 本当の自分が見えると信じて、
それをとりさりたいとおもっているのに、

エゴがなければアートマが見えないから

昨日の続きでいえば、
”空”なる本質に、戻るためには、空でない現象や
そこでの苦しみを味わう、自分がいてこそ、可能に
なる::ということだからです。
 

この苦しいと思う私の胸の内には、苦しんでいる
エゴ意識があるわけです。

一言でいえば、エゴはおしゃべりです。
たわいのないことを、次々と独り言して、思い
出させてくれます。

そこで、その独り言や 無駄な考えを捨て去るために、
座禅行があるのですが・・

それを一喝して、竹刀で肩を僧にたたいてもらいながら
座禅を組んでも、頭の中はいろいろな想いや感情を止める
ことはまずできないでしょう。

次々と連想ゲームのように、最初の想いが次の想いを生み、
次第に枝葉を伸ばして、気が付いてみると、最初の想いから
はるか離れたところまで、妄想している自意識に気が付いて、
また、ハット 瞑想に集中しようと喝を入れられる始末。

追い払おうとしても余計気になるうるさい ハエのようだ
~と思います。

大師は、そこで、こう言い切ります:
”ハエはハエで顏の周りを飛ばしておけ”

魂との対話を求めるのなら、このエゴのおしゃべりを
利用することができるのです

つまり、 エゴ意識に、十分話をさせて、それを、
じっと、聞き流している自分を意識するという方法です。

おしゃべりに耳を貸さず、ただ、流れていく雲を
みるように
そのおしゃべりが疲れて、エゴ意識が、口を閉ざすまで、
話をさせる方法です。

そうこうしているうちに、雲が途切れて青空が
心に広がるように静かな時が訪れるだろう~と大師は
教えてくれました
 
 

ここに、アートマ意識~higher self が見えてくると
いうわけです。

この空点に入ると、”誰も裁かず、何も選ばず”、そこに
意識を置く空点は、限りなく小さな点であると同時に

限りなく深淵で宇宙大にも広がる点ですから、それこそ
真の自由感のだいご味を味わえるでしょう。
 


もう一つの方法があります。
それは、他者のエゴを知ることによって
自分のエゴを抑制し、アートマを顕わす方法

誰でも、馬が合う人 合わない人、と感じたことが
あるはずです。

何となく、傍にいて、心が落ち着くという人もいれば、
妙にイライラさせられるという人もいるものでしょう。
 
性(しょう)が合わない~といわれるが、その性とは
何かといえば、相手のエゴ意識をさすのかもしれません。

相手の性分の何かが、何とも気になってカチンとくる
理由は、自分の中に そのカチンとくる要素と
同質のものがあるからです。

だからこそ、相手の中のそれを見出すことができる仕組み
になっているわけです。

そのカチンとくる性分は、自分自身の中にある要素で、
自分も不愉快で、引きずり出したくないエゴ意識である
からこそ、 今更、相手からも見せつけられたくない
という想いになるのかもしれません。
 
こうして考えれば、相手の嫌な面、それが、
自分の気づいていない自分自身のエゴの投影
あると気づけば、相手を責める前に自分を見つめる
謙虚さが生まれるでしょう。

こうした地道な、エゴ意識の修正が、自分自身の変わらず
常にある、”アートマ意識”という、心の原点(空点)に
到達させるのだとしたら、この娑婆世界の苦しさは、
決して無駄な体験ではない、と、感じる、今日この頃です。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僭越ながら・・池見酉次郎博士と異なる”空”の解釈

2024年10月24日 | 健康と直結する”一元論”について



”空”は”何もない?”それとも、”何かあるのか?”

******************************************


池見博士の”空”観 については、

”まるごと健康法” という本に以下のように、
述べられています:


”般若心経は、わずか260の文字で、仏教思想の中心点
明らかにした。・・・

このお経には、すべてのものは因縁によって、成り立
っており、

因縁によってなにもない、空なるところから、

色や形が現れ、その因縁がとければ、色や形もまた、
もとの空に帰る。

すなわち、(これが)色即是空、空即是色という
有名な哲理”

と意見しておられます。


そして、因縁によって、色や形が現れる・・

幸不幸も、因縁で触発されて、自分の身の周りに
出現する・・・

が、そこに出現した不幸の糸は、
ほぐすことが可能だと、次のように、書いています:

”一見、複雑怪奇に見える不幸の、もつれ糸も、
それをほぐす術がわかれば、結局は一本の糸に
過ぎない


上の言葉の、’不幸’を、その現れとして’病気’という言葉で、
置き換えてみましょうか?

と、こうなります;

一見、複雑怪奇に見える 病気の、もつれ糸も、
それをほぐす術がわかれば、結局は一本の糸に過ぎない


つまり、池見先生は、複雑に見える ’病の原因’ を、
ねじれをほどけば、一本の糸に戻る=正常 ということで、
そのために、先生独自の、”ほぐす”を提唱しました。

それが、先月、ブログ内で見てきた、 意識の調和を
はかる、自己コントロールの方法です。

具体的には、心の中の、P(親の心)A(大人の心)C
(子供の心)の三つの意識の統制がはかり、心の円満を
自覚して、心身一如の原則から 心が円満、身体も
健康になるという考え方です。


では、今日の表題にあるように、自然治癒力セラピー
協会との、微妙な、相違点はどこにあるのでしょうか?

それは、池見博士の心療療法では、因縁でからんだ
糸をほぐすことで 健康を取り戻します。

私どもの自然治癒力セラピーでは、こんぐらがった糸は
観ないで、その糸の出ている原点、”空”に 意識を戻す
ことで、心が変り、身体が変る、と考えます。

たとえば、先ほどの、池見博士の言葉は

”病気は、因縁によってあらわれる” という意味に
なります。

一方、私どもは、空の本質から意識が、離れた時に、
不完全な状態(病)があらわれる、と考えています。

なぜなら、空とは、何もないのではなく、むしろ、
人の本質的な 神的エネルギー体 と考えるから
です

よって、空に戻るとは、無になることではなく、
”本来の人間の健康体(完全性)に帰る”ことと
なります。


確かに、因縁とは、その完全性が、現象界に
顕(あらわ)れる際の、”きっかけ”となるものです。

因縁によって、その完全性は、不完全に見えたり、
そうでなかったり、という様々な様子で現象界に
顕れます。

いわば、因縁とは、フィルターのようなもの。

曇りガラス(因縁)に光を近づけると、本来の光の
輝きは、消されます。

反対に、透明度が高いガラス は、光を多く通します。


因縁によって、現象・事象があらわれるとすれば、
因縁が無ければ”空”の状態であります。

因縁=この世の業(ごう)とも、解釈できるでしょう。


しかし、健康なる完全体は、すでに、業を超越した点に
この”空”の中に、種としてエネルギー体が凝縮され
存在しているのです。


ですので、空とは、池見博士の考える
なにもない、空なるところ”ではなく、むしろ、
大いなるエネルギが、最小単位に凝縮された、一点と
考えているわけです。


この空なる、エネルギーこそ、生命力、自然治癒力
の原動力であるのです。


私どもの、空 に対する、観方は、以前、お伝えした、
ホ・オポノポノ(ハワイの伝統的に継承されている
癒しの方法)で考える、故ヒューレン博士の、それに
近いものだとも、感じます。

ヒューレン博士は、空点を”神聖なる点”と呼び、
クリーン(浄化)によって、どんどんと、空(本質)
に近づくことで、病気のみならず、多々の不幸が、
消えていくと説きます。

本来の”空”に回帰すれば、雲が太陽の下で雲散霧消
するように、自然と、神聖なる完全性を表すと、
考えます。

雲 は、 様々な因縁 でもあります。

雲は、カルマでもあります。

ヒューレン博士の言葉を借りれば、”記憶”であります。

これまでの生まれ変わりの代々、自分自身の中に、
継承して、積み上げて、解消されていない、完全性を
隠す要因でもあります。

私たちの本然(ほんねん)が、どういうものか?を
突き詰めていくことは、真の健康と、幸せを、成就
するためには、とても大切だと思うのです。

****************

引用部分
”まるごと健康法”-セルフコントロールのルーツ
池見酉次郎著 日本文化科学社
1990年発行


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

望むこと

2024年10月19日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方



生きている実感

2024年10月19日
****************


”子育ての責任も終えて、両親を見送り、育児や介護生活
から自由になった今、 自分が望むことは、何なのだろう?

と改めて、自身に問いました
そしたら・・・。



①”自分が生き生き感じられてくる”時間を過ごしたい


②”どんな状況にもかかわらず、あたたかく、見守られて
いて、安心できる境地に達したい”


③ どんな問題に面しても、不安はなく、人間関係では
どんな相手に対しても、少なくても、優しい心持を
持っていたい


④”ここでこうしていたいという気分になれるほど、
安寧の心にひたりたい”


⓹”本当の自分に、還った気がすると思える相手や
その動機を大切に自覚したい

*****************

① の自分でいると、
心が軽い とか、 目が輝いているとか、何かに
挑戦したくなるとか、ポジティブになれます。

他者と一緒のときは、特に、相手の目が、輝いてきたり、
エネルギッシュな感じをうけるときは、お互い様で、
自分も、同様に リラックスしながら、活き活きしている
のだと思うのです。

自分だけ、輝いていたり、相手だけ、活き活きしていると
いうのは、あまり、無いようです。


②見守られている  という意味は、誰に?
必ずしも、人とは限りません。

信仰対象であったり 亡くなった人であったり、
でも、・・・自分が生かされている、護られている、
自分自身では左右できないプログラムを作る、
大きな力に、”見守られている” と感じるときも
あるでしょう。


③の”問題があっても”、それに不安感を、増上
させることなく、淡々と、受けていれ、目の前の
できることから片付けていれば、問題は、いつの間にか
解決していることがあるものですね。

それが、わかっていても、私の中の、不安や、怒りや、
不満などの感情で、マイナスエネルギー色に、意識を
染め変えてしまうと、なかなか、そうはできないもの
です。

わかっているから、それをコントロールするのは、
自分しかないから、これも、”修業”ですね。

人間関係でも、相手のイラっとする行為や言葉に、反応
したり、自分が振り回されたりせずに、淡々と、
受け入れてぶれない、自分を保持していきたいと、
せつに願う、今日この頃です。



④ ③で書いた、”精神的余裕”があってこそ、”安寧”な
境地に収まるのだと思います。


⓹ 本当の自分って?
先日、友達と山道を散歩してました。

名も知らない、小さな、雑草が、黄色い、五輪の花びらを
広げ、直径1センチほどの、小さな花を開花させていました。

”ああ、誰にも、観られないこんな処で、ただ、咲いている
・・・それも、完全な均整のとれた美しさで・・

この花のように、無言で、無抵抗に、無主張で、ひっそりと
生きている喜びを体現しているのを見て、自分自身になるって
こういうことなのだろうと、なんとなく、感じたものです。


****************


そして、最期に・・

この5つの目標は、たぶん、自我意識が芽生えたころ
から、私の心の奥に、いつも、あったと思いました。

あっても、生活の諸事、仕事、などに、追われて
言葉に出して反芻するゆとりがなかっただけ・・・

でも、私にとって、この5つの条件が 満足に
ならない限り、人生の、本当の私の目的が、完結
しないような気がします。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識の飛翔(5)宗教とスピリチュアリズムの違い

2024年10月15日 | 健康のための心の波動


癒し は宗教から来るか?----
*********************** 2024/10/15


 
病気などで苦しむ人に対して、
"癒しは この宗教から来るからぜひ入信を"
と薦められて、入信する場合が多いと聞く。

あるいは、”奇蹟”をかかげて、
”多くの人がこのように救われている”と
事例をあげて、勧誘する某宗教の信徒さんもいる。

実際、それらの奇蹟は起きているだろうし、
その信仰で、病が癒されたということも
有り得るだろう。

では、その癒しはどこから来たのだろう?

*************

癒し は、その宗教の教祖や、”特定の神或いは仏様”
恩寵として与えられると、考えられている。

たとえば、キリスト教徒が、ルルドの泉に巡礼に行き、
病を癒す。

ご神水の波動で、気を整える。

が、私は、究極の癒しは、個人の持つ、生命力の源泉から 
もたらされると思う。
そう、考える方向性を、スピリチュアリティと呼びたい。

では、スピリチュアリティーとは? 
宗教との違いは何だろう?


前者は 自分の深い内面にある、純粋な魂や
生命力への強い信頼、

後者は 特定の神や教祖に対しての深い信頼
をさすのだろう。


病や不幸が、信仰で改善されることはある。

それは、一見、教祖や神に対して、一途な祈りが、
通じて、治ったと映るだろう。

が、宗教は、きっかけに過ぎないと私は思う。

宗教は、本来、神頼みのために存在するのでない。

宗教で病が癒されたとしたら、人が人の本質である、
神聖で純粋な資質に、気が付き、到達するための、
手段だと思うからだ。

どんなケースでも、病の改善は、薬や信仰がきっかけ
になるにせよ、人の内側にみなぎる、生命力という
本当の癒しの元が、発動したからにほかならない。

自分の生命力を掘り下げると、どこにたどりつくの
だろう?

最終的に自己の本質、にたどりつくのだと思う。
自己の本質を探って行っても、生命力を掘り下げて
いっても、コインの裏表のように、両者は、同じもの
なのだから。


だとしたら、生命力の本領が発揮されないと、人は
病になるのだろうか?

ある意味、YESだろう。

生命力は、三次元に通用する、エゴ意識とは無関係
だから、意識を変えないと、生命力を駆使することは
難しい。


生かす力・・・これは、言葉を変えれば、”神の資質”
”宇宙の本質” ”生死に関係なく存在するエネルギー”
でもある。

だから、神を、どこかのお寺や神社の像に、置き換える
必要はない。

自分自身の、魂に鎮座している、”私自身”が、生命力
であり、神の資質であるのだから、自分自身の魂の
奥宮にある廟を、開ければ、神はそこに座している。

以前、ご紹介したように、合気道の創立者、植芝翁
は、それに関してこう話している: (*1)

”人間の真実は神そのものであるのに、
小我の想い(業や執念)に邪魔されて、その姿を
深く奥に隠しているのです”


このことは、善き宗教の本質に説かれていること
でもある:

”人は神なり”(ホツマツタヱー超古代神道)
”すべての人に仏性あり”(仏教)


それが本当に理解されるとき、意識の変容が起こり、
奇跡が起きる。

その人の、人生そのもの、環境、考え、主義すら
変えてしまう。

自分が”神”の資質を、受け継いでいる力強い、愛深い
存在だと、分かったその瞬間、その人の心は、次元を
超えた、飛躍超越をするからだ


自分の内外の世界の観方が変わる。

観方が変わると、創造的エネルギーが生まれる。

創造的エネルギーに合った環境をひきつける。



さなぎが蝶になるように、地下の芋虫のようなセミの
幼虫が数年後 地上に出て、羽化して、木で生命の
歌を詠い始めるように、三次元のエネルギー態が姿を変えて
異次元に飛翔して、精神の変容(トランスフォーメーション)
が可能になる。

この変容が、古い常識を取っ払い、外部にも変革を与える
ことがある。

たとえば、今までの大いなる宗教の開祖たちも そういう
意味で、”変容”をとげて、 それまで存在していた既成宗教
を新しい宗教体系に変えてきた。

例えば、キリストは旧約聖書(ユダヤ教)の世界観から
トランスフォーメーションさせたキリスト教を開いた。

釈迦は、古代インドバラモン教を変容させて
仏教を開いた。

マホメッドは、当初は、旧約聖書のアブラハムを
コーランに登場させて、キリスト教と兄弟関係にあると
教えた。

が、其の後、自らの教えのアイデンティティを明確に
して、キリスト教とは完全に別な宗教である
イスラム教として、トランスフォーメーションさせた

この背景には、当初、マハメッドが岩屋にこもり、
トランス状態で様々な、言葉を受けた時、その伝え手が
キリスト教に登場する、有名な天使だったからである。


このように、現代も 多くの信者をもつ これらの 
世界的宗教は、当時の形骸化した既成の教えに 
新しい息吹を吹き込んで、その時代と場所に適した
教えに、古き教えを、変容させた。


現代はどうだろうか?

科学と精神主義との融合はあり得るのだろうか?

アインシュタインは、”精神性のない科学は傲慢になり、
科学のない精神性は おろかになりやすい” と
いうような意味の言葉を残している。

医学を例にとれば、心と肉体は二元化されてきた。

検査をすれば、それぞれの臓器や器官はそれぞれの
専門分野担当医師が行い、統括的な有機的な身体の
繫がりは、おろそかになっていた。

しかし、昨今は状況が変化してきた。

東洋的一元思想に影響を受け、心身一如を説く医学が
見直され始めた。

心と体は切り離して考えることは 難しいという
観方が受け入れられ、心療内科のように 心と病の関連性
に焦点を当てた 医療が、一般的になった。

創設者の、池見博士は、そういう意味で、西洋哲学と
東洋哲学を 融合させてトランスフォーメーションを果たした。

心身の関係を展開させ、心のバランスを整えて医療に実践した。


さて、話を戻すと、’宗教とスピリチュアリズム’の違いは
宗教では、”神頼み”という言葉があるように、ご利益を
求めるが、後者は、”精神の変容”を期待することは、
これまでの述べてきた通りだ。。

もっとも、精神が変容すれば、エネルギーが変るので、
期せずとも、ご利益は自然と得られる。

自分の欲するものや人、環境が、そのエネルギーに応じて
整うからだ。

スピリチュアリズムとは、そういう意味では、とても
現実的な 思いや願い事を実現させる手法のような気もする。 


*1)
昭和34年1月15日、鏡開きの日に合気道本部道場での講話




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする