自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

WHO(世界保健機構)の蛇の象徴する意味

2016年01月28日 | 健康のための心の波動

 

真理と存在しているということ  2016128

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先回のブログ、最後の部分に投げかけたそんな、本質的な疑問に 

beat around a bush~回りくどい言いかたをするようになっても、

文字通り、ぐるぐる(藪に隠れた)本質をまわりながら、

少しずつ円周を短くしつつ探っていけば、自動的にその質問の答え

ちかづいていくことができるだろう。 


事実、古今東西問わず、掘り下げられてきた質問は 真理とは何か?だ。 

生命力や存在、漠然としたものだが、一言でいえば真理でもあるのだから。

叡智あふれる古代インドの当時の言葉サンスクリット語で以下のような

言葉が残されている。

 “全宇宙は‘真理’から出現した。 そして元の‘真理’に還るだろう。”

サンスクリット語“サティアム・ジナナム・アナタンム・ブラハム”という

意味は、すべての存在物の大元は、‘真理’であるという・

真理、本当の理(ことわり)って何? 

実は、誰でも、その答えを知っている~と賢者はいう。 

人によって、信念が異なるように。 その人がそれが真理だと思えば、

真理だということでもある。

もう一つの答えは、

”真理とは、存在そのもの”~と ある哲学者は答える。私も貴方も、

彼も彼女も、生きている、つまり、存在している。 存在していること

自体が”真理”なのだと。

私たちが親を知っているように、真理は以外と身近に感じられるもの、

あるものらしい。

少なくても、真理は薄っぺらい言葉でつづられた概念ではない。

真理が欲しい~本当の事を知りたい~生きている以上 誰もがどこかで

求めながら、絶望し到達できない’何か’が真理だともいえるのかもしれない。

真理こそ、人によっては”神”と呼ぶ。あるいは、大生命力という。

宇宙意識とも、無限の愛 とか 偉大な智慧とか、大調和 とかいう

イメージを持つ人もいるだろう。

 

すべてのものが そこから生まれた~とインドの聖賢は考える。

そして人生舞台でいろいろな役柄をあてがわれ演じながら、結局のところ、

その源なる‘真理’にいやがおうにも還って行くのだとも。

”還る”というのは山手線が一周して元の駅にもどるように、”循環して”

返ることだ。

ぐるぐる堂々巡りをしているようでも、その一周は三次元的で螺旋状

(らせんじょう)のようでもある。

螺旋の回転運動は 物理学的に言っても生命の象徴でもあることが

わかってきた。

WHO (世界保健機構)の紋章には、蛇が螺旋状に中心軸を上っている

姿だ。

私たちの遺伝子もこの形状をしている。

螺旋状に回転すると大きな力、渦を呼ぶ。 それは空気を巻き込めば

竜巻となり、生きてすべてを飲み込む怪物のように、車も家もその渦に

吸い込まれてしまう。

そこにエネルギーがあるからだ。

真理とは存在そのものだ~という聖賢の言葉。

存在とは死人のように動かなく朽ち果てるものではなく、

“螺旋状に回転して上昇するプロセス”を指すのかもしれない。 

言い変えれば創造のプロセスだ。 

実際私たちの細胞は毎日死に、新たな細胞が次々と生まれ変わる。 

この身体をみても、じっと、変化しない細胞原子はない。 

刻々と変化している。 

地球の自転はかなりの高速だ。時速100kmの高速道路を風切るように

走るとき、その速度感覚はまだ感じ取れるが、新幹線で一瞬に在る

地点を通り過ぎる時、車両の中にいてはあまり、高速で走っている

実感はないだろう。

ましてや、地上1万mの空で新幹線の数倍の速度で移動している飛行機

の中では その速さも高度も知る由はない。

地球の地盤の上で誰が一体、飛行機の速度以上で回転していることを

“感じ”ているだろう。

私たちの感覚そのものがこれほど曖昧であるということだ。

生命体は身体の細胞が常に原子、粒子、光源体として変化している

ことは五官感覚では掴みようがないのと同様、“存在のプロセス”と

いう概念はなかなか理解することが難しいのだろう。

脳は単なる プロセッサーだ。 情報が五感でキャッチされ、それを

上手に選り分け蓄え、判断基準として行動の情報処理をする働きを持つ。 

が、真に科学的物理的な事実まで悩が判断することはできないだろう。

 

ET、つまり 地球外生物がいることは科学的に証明されつつあるのだが、

この宇宙には様々な進化した生物が存在するらしい。

彼らの中には地球人のように、戦争と破壊を繰り返すこともなく、

移動は瞬間移動で文字通りワープすることができ、経済の仕組みももっと、

シンプル。

すべての人々に均等な満足をもたらし、貧富の差という言葉すら知らない

生命体もいる。 

高度な科学と技術を持ち、衣食住は物質的ではなくエネルギー体として

利用し、植物も動物も存在するが、相和して、環境も清らかに穏やかで

平和な世界。 

一方、地球でも戦いを引き起こそうとする人たちがいるのと同様、

戦争好きな生物体がいることも事実のようで最近ヒットした宇宙を

舞台にした映画に見られるような戦争が、繰り返される世界もあるようだ。

 

私たち地球は宇宙からみると青く光り、素晴らしく美しい星の一つの

ようだが、その実、私たち人間の心は 進化している宇宙生体と比べる

と未成熟のようだ。

いずれにせよ、それらの生命体、すべてが ‘真理’より生じていると

いうのだ。

そして、帰還するところは決まっている。

‘真理’に還って行く。

どのようにして?

それぞれがそれぞれの生き方を今与えられた生の中で生きながら・・

その時に得られるものを積み重ねながら、何百回も何千回も生まれ

変わりながら、beating around bush (藪の周りを回りながら) 

藪の中にある隠された自分に戻っていく。


 

 

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超古代史に見る日本の精神

2016年01月20日 | 超古代日本の精神(ホツマツタヱ)

 

稲荷神社の本源と赦す心・調和の心

******************************* 平成28120

これまでの稲荷神社の本源を読まれて18

(上)の見出しになっていた,日本人に流れる

文化的精神‘許す’の意味“とのつながりを

感じ取った方もそうでない方もいらっしゃる

だろう。

 

夫が長崎支局で働いていたとき、長崎市で

開かれた原爆・平和の会に出席する機会が

あった。 そのレセプションで大使館関係

のアメリカ人と話をした。

 

そのとき、多くのアメリカ人たちは 広島

に原爆を落としたことで戦争が終結した

という教育?を受けていることを知った。

いまだに戦争中の慰安婦問題が,日韓の

外交問題に尾を引いていて、国民感情も

複雑に絡んでいる昨今、アメリカに二つ

もの原子爆弾を落とされた国民が、その

痛手を忘れたかのように、最も親近感を

呼ぶ国の一つにアメリカを揚げるのも

日本独特の国民性を感じる。

 

どうやら、日本人の持つ独特の“赦し”と

“和の精神”の無形遺産的文化のためで

はないかと 思うようになった。

 

そのことをふまえて 秀真伝えの“

はたれ魔退治”の話を読むと、納得がいく。

はたれ魔という、西洋的にいえば、

悪魔のような人間の心に悪の誘惑と

神に逆らうような行動をとらせる

存在は 秀真伝えの中では、

“人間の欲望に巣くる、それを餌と

して喰らいながら増長する癌細胞”

のような存在としてとらえられる。

 

だから ヒトは清めることが大切

になる。

自分の身と心を清め(心身一体であるゆえ)

そうした心持ち(穢れ)から離れ、

あるいはそうした心持を清め流す。

はたれ魔がつくか否か、それは心の

持ちよう如何というところだ。 

 

日本人はこうして神の時代から続く、

清らかな心に戻るための、禊(みそぎ)

のその大切さを知っている。

禊を行うことで、自分自身の穢れ

のみならず周囲を清めることが

できる。

 

天照大神は 民の世が乱れたとき、

自ら何千回も滝に打たれご自身を

清められた。

民の世の乱れは自分の責任であると

いう、“自覚”とともに、自ら清まれば、

世の中も清まることをご存知だった。

乱れる責任も自己に 不運を招くの

も自分の心次第だ。

 

はたれ魔が世に蔓延ったその一つの

きっかけに、しらひと・こくみ 

という輩たちが政治に賄賂を使い、

人としてあらざるべき悪事を

行い続けたことがある。

 

そこに はたれ魔は住み、人の心

に慢心や強欲を増長させて世の中が

乱れた。

そこで 天照大神の勅旨により、

はたれ魔は退治されるのだが、狐に

似たはたれ魔に関しては 荷田神

(かたのかみ)が彼らを生け捕りにし、

今にも首を落とされんとするところで

命乞いをされた。生かしてくれれば、

心を改め神様のために仕えますという

言葉を信じて赦した。(前回のブログ参照)

 

こうして温情を受けた ‘狐はたれ魔’は 

改心して神に仕える者たちになった。 

稲作を司る、“蒼稲魂(うけのみたま)

と保(うけもちのかみ)、及び荷田麿命

の三神”の、御用使いをすることになった。

ホツマツタヱには、

“この三神を合せ祭りて荷()()(かみ)

となす。(今日の荷稲(いなり)神はこれなり)“

と八綾にあることは先回ご紹介した。

 

ここで注目したいのは、首を切り捨てられる

ことなしに 狐顔のはたれ魔たちは赦されて 

“神の使い”になったと言うことだと思う。

鬼の目にも涙~ではないが、どんな人にも

仏心がある。

 

はたれ魔たちにも心あることを知り、

荷田神(かたのかみ)は赦した。

赦すこと、愛をもって許すとは、相手の

本性(仏性・神性)を信じて悪の因縁から

解放してあげることなのだろう。

 

さらに、猿沢の池 と名付けられた

所以が秀真伝えの中にあった。

(稲荷神社の本源()参照)では、

猿のはたれ魔たちは自害させられた。

その条件として、次の生では人として

生まれることを約束された。

彼らは納得して自害した。

 

ここには、命は生き通しで、再び、

生まれ変わることが前提になっている。

仏教で伝わったとされる輪廻転生の

概念は、すでに、秀真伝えに語られ、

さらに、どんな生命も生まれるたびに、

確実に進歩していく可能性を

示唆される。

 

より良い人生を生きるために私たちは 

今を生きているということがうかがえる。

8綾で出てきた、“まふつの鏡”は、

三種の神器の一つとなる。

真の姿を映し出す鏡は、人に似てるものの、

本性は はたれ魔であることを

写しだす。

この鏡によって、多くのはたれ魔が

捕えられた。

 

こうして秀真伝え8綾に描かれている、

“赦す精神”、“和の精神”は 

天照大神が三種の神器を定めるにあたり、

詔(みことのり)を与えた

言葉の中にもうかがえる。

 

“『勅宣(みことの)り、汝(なんぢ)

(おし)(ひと)()が代理(かわり)

(つね)の任(よさし)も御()(たたし)ぞ。

 

千々(ちぢ)の春秋(はるあき)(たみ)

()で、この八尺(やさか)()

勾玉(まがるたま)()が奇(くし)

()()(もち)ゆれば、中心

(なかご)()(すぐ)に保つなり。

 

八咫鏡は縦(たて)に振()れ、諸人

(もろと)の善悪(さが)(かんが)みよ。

(また)八重(やえ)垣剣(がき)は剣臣()

に預(あづ)け、荒神あらばよく()けて

恵み和せ』

 

と御手づから賜う三種神宝(みぐさ)を給え、

(なお)も思えよ宝物、見ること朕(われ)

を見る如く、娶(めと)る千乳(ちぢ)(ひめ)

相共に、常睦まじく情愛(みやび)なせ。“

 

この中で特に、“又(また)八重(やえ)垣剣

(がきのつるぎ)は剣臣()に預(あづ)け、

荒神あらばよく平()けて恵み和せ』の部分

に着目したい。

 

勾玉、鏡と剣を以て三種の神器となすのだが、

剣の項目では、荒荒しい鬼神などに対して、

この剣を使い、“平らかに恵み和せよ”という

天照大神のお心が述べられている。

 

切り捨てよとも、退治せよともなく、

恵み和す、しかも“たいらかに”というのだ。

読む人の解釈次第ではいろいろ取られる

ことだろうが、私は少なくても、この短い

一言に天照大神時代からの、日本人の

理想卿とする国は、お互いに、相和す心、

平和を愛する心で造られるということ、

ではなかったのかと思えた。

 

つづく

 

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ありてある処、対照の無い光一元の世界(病のない世界)

2016年01月04日 | 健康と直結する”一元論”について

 

新しき年のはじめに 禊と言霊と健康の話 201614

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先回の植芝氏の講演会のお話しの続きから~

 

“合気道とは至誠の道であります。 誠とは忠孝の道であります。

忠孝とは、宇宙天国建設の完成にむかっての御奉公、地上天国建設

精神に対しての御奉公をいうのであります。 

この道を進むには、まう、自己を完成しなければなりません。 

国をよくし、人類をよくし、人類を完成し、地球を良くして

いかなければなりません。 

合気道はまた、アオウエイの五つの声の働きでもあります。 

これは水火の結びの二元に密接な関係があるのです。“

 

“この二元は、また一元、即ち スの一元に還るのであります。

二つとは霊魂と物質の根源であります。 これはどこから生まれたかというと、

霊魂と物質はウの言霊より生じたのであります。 

ではウの言霊はどこより生じたかといえば、ス声の生長より生じた

のであります。

ス声とウ声の動きは霊魂の源、物質の根源なのであります。

宇宙万有の根源なのであります。


ではス声は何処から生じたのか?

ス声とは大虚空に一点のポチ(・)が忽然とあらわるる、で大虚空より

生まれたのであります。

大虚空は何処から生まれたかといいますと、一切があって、一切がない、

()から生まれたのであります。

 

私が言う 無 とは、虚無ではありません。 

ありてある処、対照の無い光一元の世界であります。

この世はこの無よりの生長であります。 聖賢語るを得ず、いわく、言い難し

という境涯にあるのであります。

では植芝は、どうしてそれが分ったかといいますと、私は日々一切の

執着を取り除く修行をして、自分の光身を見たりしたこと、即ち、

或るときは大光明火炎を背負った不動王明に、あるときは観世音菩薩

などに見えたりしたのでありますが、植芝は植芝自身にきき、

そして知ったのであります。


この私の中に宇宙があるのであります。すべてがあるのであります。

宇宙が自分なのであります。宇宙そのものでありますから、自分も無い

のであります。

また、自分が宇宙であるから、自分ひとりのみあるのであります。“

 

“霊も物質も言霊であるし、宇宙の実体も言霊であります。 

しかしこれは、普通の宗教者には分らないのであります。

これを生かす言霊の妙用が合気道であります。

合気道は宗教あらずして、宗教なのであります。かくのごとく合気道は

今までの武道とは違うのであります。 

あらゆる真理をことごとく身に行じてゆくのが、合気道なのであります。“


と昭和34年の一月鏡開きに合気道道場で氏は語っている。

 言霊について語っている。 

ウ声について・・・

“霊魂と物質はウの言霊より生じたのであります”


ウの言霊は霊魂と物質を作ったというが、生まれるのウ、生むのウ、

海(生物が生まれた)のウ、ウ声には口びるをすぼめて息を吹き

かけるような形を取る。それは土くれだった肉体に神が命を

吹き込んで人間を作ったとされる創世記の話も想いだされる。 


息は生きだ、

口呼吸するとき、この息を吐き出すときがウ声発生時の

口びるの形をとることも面白い。

そのウはスから発生したという。

寝息は“スースー”と表現する。想念が現象世界で人の感覚器官に

働きかけて、行動を起こす前の就寝時、私たちは“スー”と生き()

しながら、寝ている。


サンスクリット語(梵語)でも、スーは物質の始まりという概念があてはまる

ようだ。

太陽の光で生物は育成される。 

その太陽を スーリアと呼ぶ。

永遠の命を与える不老長寿の蜜を、アムリッタというが、もともとは 

スダとサンスクリット語で呼んだ。 

須田の姓を持つ私は、友人や教授たちに、スダ―とインド特有にみられる、

女性の名前として呼ばれていた。

 

‘スダ’それを語幹として、スダーラットなどという名前はインドのみ

ならず、仏教とともに梵語が伝わったタイ人女性にも比較的多い名前だ。

神道では ○ (まる)の中心に ・(てん) を中心にいれて、

スの一元世界を現す。


御(み)スまる’という言い方もする。

生きとし生けるもの、在りとし在るものの中心帰一した姿に他ならない。

私たちはここに還ろうという。

 

生命の中心に還る~そのために、今どんな状況が肉体や環境に顕れて

いても、その○(まる)+(プラス)・(中点)の みすまるの中心に自分自身を

置くための過程だと知る。

そこには、病や不幸、悲しみや怒りは無い、

植芝翁が言われたように(1229日、15ブログ参照)“わたしは宇宙の中心

の心境以外にないからだ。

 

すべてを作り出す中心点、そこから、物質(眼に見える状況やもの)を生み

出す中心にいるわけだから、病や不幸を生み出そうとすることもないわけだ。

一年の初め、今年一年の指標、○ス の自分を より深く表現できるよう

に祈った。

 

 

 

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