自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

インドに再び~ご縁が切れれば行くこともないかも・・・

2018年03月30日 | 協会ホームページ

 

インドに行く直前の、フレッシュな日常生活体感  2018・3・30

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昨年の巡礼旅・・・釈迦牟尼が悟りを開いたブッダガヤの地で。

朝日を浴びる仏像(鎌倉の仏像にどことなく似てます。。?)

 

今日、朝10時半ごろ成田空港から、インド行の便に搭乗します。

今回は、家の整理と、いつもの巡礼が目的です。

家の整理というのは、実母を野辺に見送り、その関係の

実務が多くなり、現実的に物理的に、海を挟んでの

二つの拠点をメンテナンスしていくことが難しくなり、

そろそろ インド拠点地だった場所の片づけを~と

考えているからです。


そのための雑事をこなしてから、数日間、ある聖地を

訪れることに決めました。

 

そこは、デリーから車で15時間。 

さらに、山を登ること数時間。 

アリの行列のように、たぶん富士山の頂上を目指して

上る集団のように、インドの多くの民が、その聖地を目指す

と聞きます。

 

そこは、”ヴィシュヌデヴィ” と呼ばれる女神の象徴、

聖蹟が祀られている場所。

ヴィシュヌ・デヴィとは、女性の原理、シャクティ

生命力。創造力・破壊力)の三体の女神が一体に

なった姿だとか・・・?

 

日本式に言えば、観音様のような姿を自在無限に替える

ことのできる、女神らしいのです。


それは、とても大衆的であり、とても古い起源をもつ、

庶民にとって心のよりどころとなっている根強い信仰対象で、

キリスト教、回教、シーク教徒以外は、たぶんインド中

からこの山を目指し、多くの人たちが集まってくると

言われます


日本人の観光名所からはずれていますので、日本人ツーリストに

お目にかかることは、まずないと思われる聖地でもあります。

 

聖地に行こうと決めたときから、心から感じて、神妙で謙虚な

気持ちになっている私がいるのに気が付きました。


インドに人生活動期の半分の時間を過ごさせてもらい、

そろそろ、聖地巡礼もこれが最後かなと思ったときに、

心から湧いてきた、フィーリングです。


インドに、ご縁をいただいた私ですが、’ご縁’ というのは、

ある意味、大げさに言えば、’人生における奇跡的巡り合い’ 

だと感じたのです。

 

あと、何回、こうしたインド旅ができるかなと考えたとき、

ご縁があるまで~という答えが浮かびました。 

人でも場所でも、ご縁があるから繫がっている、いずれは、

会えなくなったり、行くことがかなわなくなる時とは、

必ずいつかは、来ることでしょう。

 

”巡り合う”というのは、単に、会ってお話するのもそうですし、

家族として、友人として、知りあい接することができるのも

そうですし、本などの手段で知る知識もそうでしょう。 


今、これを読んでくださっている 一面識もない、あなたとも、

この瞬間、ご縁があって、繋がっているといえるでしょう。


人間同士だけではなく、植物も、動物も、たとえば、家の中の 

観葉植物や、ペットも、家族の一員のようなものですから、

巡り合った大切な仲間 といえるでしょう。

 

何しろ、日常生活の当たり前、それは人も仕事も、

事件も含めてですが、すべて、’巡り合い’なのだと、

強く感じているのです。

’ご縁があって、巡り会う’、その言葉の範囲は、とても、

広いように思います。

 

先にお話しした、聖地、ヴィシュヌデビの巡礼は、初めてです。

日本人のインドに住んでいる知人たちでさえ、なかなか、

足を延ばすことは無い場所のようです。


そんな所に最寄りの飛行場から、さらに、車で15時間かけて

いき、見知らぬ土地で何が起こるか分からない緊張感を

覚えるとともに、日本の生活、慣れている ’当たり前の事’ 

がとても、新鮮で得難いことのように、この数日間 

感じながら生活していました。


それは、大げさなようですが、まるで奇跡のような輝きを

もって見えてくるのです。

インド・ニューデリーは4月5月が一年で最も極暑の時期です。

だから、このところ寒くも熱くもない日本の空気の動き、

風を朝晩、感じるだけで有難いなあとおもうわけです。


特に夜は、この数日は、最低気温5度~7度ほどですから、

肌寒さも遠のき、現在のニューデリーとの、30度の気温差を

想像し、天国みたい~と思うわけです。

 

不思議です。

これは、個人的主観的なメガネをかけた状態で感じている

ことなのですが、ある意味いつもは、当たり前すぎて何も

特段感じないで過ぎていることが、こんな風に惰性的

でなく毎分毎秒、尊い体験として自覚している自分に、

これまた、不思議な感覚になります。

 

余計な話になりました。

また、帰国しましたら、皆様にご報告させていただきます。

4月下旬帰国予定しています。

 

申し訳ありませんが、その間は、ブログはお休みさせて

いただきます

 

どの辺あたりの上空でしょう。 インドに着くまでの上空から・・

 

 

 

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自己ヒーリングの根本にある意識の見つめ方 (下)

2018年03月25日 | 自然治癒力(生命力)セラピーの本質

 

奇跡的回復に見られる変容(transformation)について  

2018・3.25

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前回からの続き・・・・

ということは、3月16日の記事の続きとなります。

(間に協会からのお知らせが入ってしまいましたので。 )

 

 

心の扉を開けて、見つめてみると・・・・?

 

 

私は自己ヒーリングから、宗教心理学という学問を知った。

自己ヒーリングとは自分の持つ自然治癒力を、十分発揮させる

ことで可能になる施術だ。


そのプロセスには、様々な道があるのだが、共通していえる

ことは、以下の7つの段階を経ているようだ。

 

① 自分自身の潜在意識の浄化

潜在意識の浄化とは、自分が意識していない心

(全体の98%を占めると言われる)のマイナスの想念を

切り捨てていく。


私たちは、潜在意識とは反対の顕在意識=意識される心で

決断して行動していると考えがちだ。

だが、実際は、潜在的に隠れている心が、大きく今の自分の

言動を左右させていることは、深層心理学でも明らかに

なっている。

   

過去のトラウマやコンプレックス、マイナスの思い込みや

嫉妬や憎しみなどの想いが、潜在意識には、ため込まれて

いる。

それを浄化していくことが、健康になるための心持に

大きな影響を与える。

 

② 超自我的意識への目覚め

①を可能にする方法の1つが、自分の中にある、もう一つの

意識の層、つまり、超自我的な自分の存在に気が付くこと。


その超自我的自分と、今の不満のある自分との関係を考えて

整理する

例えば、自分の中にある、不完全さ、健康面でいえば、病や、

精神不安定、社会的に見れば、自分の周りの人間関係の軋轢や、

社会適応不完全さなど、は、今の自分の潜在意識がそうさせ

いるだけである。

だから、その自分を超越した第三の自分の意識の存在に

気が付けば、不完全さを克服できるということになる。


自己改善という希望があれば、そして、その希望が、

そうなるのだという、”決意”になり、それが、”目標”に代われば、

人はすでに変容し始めている。

 

③ 自分の深淵な“心の領域”を掘り下げる 

内側に対しての眼を大切にする

 

変容の第一歩、それは、”内側”を見る”心の眼”の視力?を

高めることだろう。

心の眼を使えば、心の中を顕微鏡で見るように、観察できる。

 

④ 感情を客観的に見つめる

そうして、心の中を観察し始めるようになると、次第に、

心の中のメカニズムとそれの要因となる”要素”に気が付く。 

つまり、心には理性と感情の二つがあるということだ。

さらに、自分の感情は、激情的な破壊的ものと、愛情や

慈愛のように、静かに包み込み育む優しさなどもある。


理性的に、達観視できる自分の心は、そうした ふり幅の

大きい、波がそこにあることを冷静に見て取る。


状況や状態などの、時々で変わるその感情の動きを、一歩、

離れた、内側の眼で見つめることは、第三の自分の意識(

潜在意識でも現在意識でもない、もう一つの自分意識)

につながる、一つの手段だろう。


そのように、客観的に見つめられるようになると、

自分の今の心持を冷静に俯瞰的(ふかんてき)に距離を

置いて眺めることができるようになる。

 

⑤ 二元的な価値観を否定して、最終的に容認すること。

 

内なる眼(まなこ)で心を見つめていると、その感情や理性は、

相対的価値基準に影響さて生まれることに気が付く。 


例えば、誰かと会って持つ印象、何となく良い人とか、

不愉快そうな人、相手の口調を通して、優しそうとか、

冷淡な人らしいというように、知らずの内に、瞬時に無意識

に持っている自分に気が付かされる。


会ってから5~6秒後の印象だけで、愉快になったり、

不安になったり、心が影響されていることがわかる。

もし、その時、マイナスのイメージを持てば、不愉快、

や不安な面持ちになるだろう。


第三の心の眼を生かして、その価値観は、幻想かもしれないと

中立的な審美眼を持つ試みを持つことをお薦めしたい。


なぜなら、ほとんのマイナスの感情は、個人的で主観的な、

五感機能から得た感覚だからだ。

さらに、潜在意識の仕業でもある。

過去のトラウマ、等、無意識の中に ため込まれた不透明な

原因が、感覚を支配していることが往々にある。

それらは、たとえれば、霧やスモッグのようなものだから、

それに、反乱射された光のように、まっすぐなものも、

ゆがんで見えることが、多いようだ


あるいは、その人の生活圏の場、住んでいる社会環境

の常識の中で、知らずに感化された価値観が大きく左右

していることがある。


その常識的価値観は、集団的に、それがしいと信じられて

いることだから、集団という、大きなエネルギー色に、染まった

自分自身が、自分の意見のつもりで、ある対象に湧き上がる感情

を抱くことも多い。


日本には、’出る杭は打たれる’という諺がある。

それは、周りの反応に順応するよう所作を慎まないと、周りから

反感を持たれるということだ。

こうして、小さいときから育てらていると、内側を見る眼識力は

なかなか、アップできないだろう。


さて、そう考えると、第一印象や、自分の下した判断と

いうのは、ほんとうに適切なのかどうかは、わからない。


⑥ 自己嫌悪や妄想的、独りよがり、被害者意識や思い込み

でかたくなになった心を解きほぐすこと。


往々にして、人は、不愉快なこと、受け入れたくないこと、

自分の価値観にそぐわな事態や相手に対して、独りよがり

な判断をしたり、思い込みでますます、自分を不

愉快にしていくという悪循環に陥りやすいようだ。

それが嵩じて、うつ状態になるケースもある。

心を解きほぐすという意味は、自分の陥っている心 
のそうした状態は、自分自身で、陥っているだけかも
しれないと、包括的に、眺めてみても良いかもしれない。

⑦ 自分を生かしている、生命力は”mortal being”(

死滅する存在)である、小自我ではなく、最終的には、

”the real Life”(実存する生命体)、実在する大いなる

命と同一であるという大我意識へ回帰していくという

最終ゴールを明確にすること。 

 

独りよがりな思い込みに陥った時、心を解きほぐすには、

再び、先ほど述べた、①の項目に還って、循環して

ゼロモードに心をリセットする必要があるだろう。

クラインアントさんの中でも、特に奇跡的回復と医師

言われるほど、劇的に変容した数人の方たちが 健康に

なった道のりを考えたとき、上に挙げた精神回路は、

身体が健康になっていけばいくほど、精神がそちらの

方向性に、変容していった。


⓻の項に挙げた、小我意識から大我意識へ~という

テーマは、難しい、理屈ではない。

実際、私たちの本質がそうであるから、それを求める

だけだ。


大我意識(たいがいしき)という大げさな表現を避けるのなら、

単に、私たちを生かしている”生命力”の本源と言葉を換えても

同じことだと思う。

 

(これからの医学や介護と宗教心理学の接点は?)

今までの医学界では、病を克服するという立場、“死は負け”

であるというスタンスと聞く。

“ガンと闘うな”という趣旨で慶応大学医学病院の近藤医師が、

それと対峙した意見を数年前発表して、世間に

反響をもたらした。


平均寿命が増すこれからの社会、ターミナルケア―では、

死を見つめる患者の心に寄り添い、不安や恐れをなくし、

心に平安をもたらすことで病の改善を図ることが必要

になっていくだろう。


あるいは、先に述べたような、心の持ちようが病の回復

につながる研究成果が一般的に認められるようになるだろう。

 

病院生活がどこか寺院生活にも似た、患者に優しい、

“不安から平安”をもたらす場になることも決して夢では

ないだろう。

 

すでに、EBM(evidence based medicine)から、

NBM(narrative based medicine)へと データ中心の薬投療法

から、患者との対話を中心に、異なる各人の

心の在り様にそったケアへのシフトが 医療現場や介護現場

では見直されているようだ。 

さらに、自分の体験でいけば、自然治癒力を応用して、

自己治癒が可能だと自信を持てれば、希望とともに、

自分への尊厳が生まれるだろう。 


最期の医療ケア―といわれる、ホスピスケア において、

こうした、自分の生命の尊厳、どんな姿になっても、

生きていること自体が、自分自身の生命の炎が燃えている

証拠であるという認識を持つことは大きな役目を

果たすことと思う。

 

さらに、魂の持つ普遍性 を信じることができれ死 は 

次へのステップとなり、決して、恐ろしいものでもなく、

怖いものでもないと感じられて、安らぎに満ちた最期を

迎えることが可能となるに違いない。

 

 

 

 

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意識と健康、自分を癒すということ(上)

2018年03月16日 | 健康のための心の波動

全託する意識の作り方、自己セラピーの下準備  2018・3.16

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前回の続きから)

 

病の奇跡的回復と心理)

 

'意識'が奇跡的回復を遂げるときの鍵とみなす学者もいる。

聖心女子大学元教授で国際コミュニオン学会名誉会長の

鈴木秀子女史は難治な病から奇跡的回復を

する人の特性として、

 

①  現実と運命の受容~大いなるものにすべてを委ねる心,

②  生されていることへの感謝、

③  人に尽くしたいという強い願望

 の三つを挙げている。 


①の”大いなるもの”とは、その人が信仰している神や仏をさす。 

宗教教義に無関心な人でも、’大いなるもの’の存在は感じる

ことがあるようだ。


宇宙の天体や 大自然を観察したときに、神秘的な力の中で、

心が充足し、癒されたという体験を持つ人は少なくない。


無宗教だという、私の知人のように、”神様はわからないけど、

登山して、自然の中にいると、何かそういう’もの’を感じる。”

と言う。

 

そうした 大自然の営みを育む”目に見えない”’大いなる力’に、

感動を覚えるわけだから、そのためには、決して宗教的で

ある必要はないのだと思う。

 

ここでは、鈴木女史がいうところの、そうした’大いなる力’

に自分の小さな考えや判断を捨て、’自分を安心して任せる’ 

という心持になったとき、奇跡的に難病が癒えることがある

という言葉には注目をしたい。


’すべてを委ねる’ ということは、なかなか言葉通りに

いかないものだ。 

 

なんやかんやと心配事が連鎖して、それらに理屈がつけられ、

悪循環でまた、次から次へと連続して不安材料が頭に

浮かんでくるのだから、それをストップすることは難しい。


ましてや、湧き出る想いが、ストップしていない中途半端な

状況で、’委ねる’などできるはずがない。

 

そこで、そうした感情の流れに栓をするために、”頭を空っぽ” 

にするということが肝心になるだろう。 

その頭を空っぽにするために、人は、瞑想をする

ひとまず、いろいろなもやもやした想いが雲のように湧き出て

くるのを、眺める気持ちになって、それにこだわらないよう

にしているだけで、だんだん、次から次に湧いてきた、

ろいろな想いの量とスピードが落ちて、心は、次第に

”空っぽ”になってくる。 

 

水蒸気で白くかすんだ風呂場のガラス窓が、窓を開けて

いれば、自然とクリヤ―になってくるのに似ている。

”空っぽ”になってくると、心がしがみつく対象である、

想いがなくなっていくので、無執着の気分に近づき

’お任せします’と全託する心の下地ができる。

 

全託したとき、女史の述べている②の’自分は

、’大いなる力に生かされている’という想いが

同時に湧き上がることだろう。

 

何もないはずなのに、今 生きている、心臓が鼓動

している、血流が体を駆け巡っている、

細胞が新陳代謝している、それってどうして、一体なぜ??


この自分が、自分の心臓を意識的に止めることが

できるだろうか? 

血液の流れを遅くしたり早めたりすることができるだろうか? 

 

考えてみると、自分の体でさえ、自分の思う通りに

ままならいのに、たとえば、髪の毛の一本を生やしたり

することなどできるはずもないのなら、誰が、

なんの力によって、そうした自律神経の司る体の仕組み

を動かしているのだろう?

と不思議に思うときがある。

 

’生かされている’という言葉は、”この身”を考えても、

実感できるはずだ。

生かされる自分という受容体があるのなら、それを

’生かしている何か’という能動的対象が

あるわけで、そう考えていくと、’委ねる’、’全託する’

という意味が、漠然とだが、実感できるだろう。

 

心臓の動きや肺呼吸の仕組み、血液の製造や栄養素が

運ばれていく仕組み、などなど、我々は無意識に、

’からだにお任せ’しているのだから、その全託して

いるものを、体だけでなく、心と身の回りの状況

の展開に広げれば、まさに、女史の言う②の’全託’する

という意味になると思う。

 

③の人に尽くしたい願望とは、人のお役にたって

喜んでもらいたい という誰もが持つ、人の善意の本質

だろう。 


与えて、その喜びを知る、ということは、他者に労力でも

物質でも、提供することで、受け入れられ喜ばれたときの

満足感だ。

 

”こんな私なのに・・”、と思うなかれ。

あなたの存在によって、元気を与えられたり、

大きな影響力を受けて繋がっているいた

いく)人達は あなたが気が付いていなくても、

きっと、いるわけなのだから。

 

それが、’私たちが、今、生かされている’ 一番の大きな

目的なのだろうから。

誰かの役にたっているから、自分は生きている と

断言して、どんな状態でも、生きている

ということは、地球のどこかの誰かに繋がっていて、

energyの交換をしながら、繋がって

影響を与え合っているということなのだから、

それを信じて、元気を出すことは決して不道

理な話ではないだろう。

 

例えば、前述の長堀医師は、自分の患者さんを通して

“心の持つ潜在力の神秘性と心のありよう

身体に影響を及ぼしている” ことを学んだと

同著に記している。


医者と患者の立場であっても、患者さんの癌との

向き合い方に対する姿勢、家族への愛情を

目の当たりにして、感動を与えてもらったと

著書の中で、記している。


認知症で、殆ど、意識が混濁する時間が長かった母でも、

母の人との会話の中で弾む、臨機応変の対応と、

楽しそうな高笑いが、周りをどんなに明るく

していたか亡き後、気が付いた~とグループホーム

職員さん達が口々に私にお話ししてくださるのを聞き、

認知症というハンディがあっても、母の存在の生きている

味が私の知らない所でもあったのだと思った。

 

自分の思う所や感じる事は、もしかしたら、とても

限定されたものなのかもしれない。 

生きている価値で思い悩んで、私に相談を持ち掛けて、

結局、自殺した友人もかつてはいた。 

 

話は飛んだが、’全託する意識’とか、’お任せする心持’ 

というのは、そこに信頼があって、効果が出てくる。 

その効果とは、やはり、次元を超えた大いなる何かの力が

必ず、後から振り返ったら、”苦しい今” でも、

有意義なものだったとして気づかせてくれると信じて、

目の前のなすべきことをしながら、希望をもつ

ことなのかもしれない。

 

 

こんなベランダに咲いた小さな花と視線があって、

その息吹に、安堵感が・・・・生きている事って?

 

 

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意識の持つenergyを科学的に考えたら・・・

2018年03月11日 | 健康と直結する”一元論”について

 メタフィジカルヒーリングが可能な意識分野と、科学との接点 

2018・3・11

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風車とチューリップと空と大地、つまり、風と空と土に育まれた命の象徴です。

 

・・・・・前回からの続き

 

エディ婦人の言う、聖なる科学とは?)

‘聖なる科学’とは、キリスト教科学でいう、‘実在なる心の法則’

でもある。 

メタフィジカルヒーリングによる、多くのセラピーもこれに

似た’心の法則’を利用している。 

共通して言えることは、それらの法則は、唯物論ではなく 

唯心論に根差し、究極の癒しには大いなる生命の力、つまり

神の心(Mind)”の関与を認めている。

こうした法則が働きかけようとする対象は “宗教心理”

の領域だろう。 宗教心理 という言い方は漠然としている

ので、少し理屈っぽく言い換えてみると・・・・

 

ここでの‘宗教心理の領域’は、表層的な(現世利益的な)もの、

つまり、参拝したとき、ぱちぱちと御拍手したあと、手を

合わせて、’~なりますように’と祈るときの心持ではない。 

むしろ、私たちが気が付かない意識の領域、”潜在意識”に

根をもち、時にはさらに奥深い、命が単一細胞だった太古の

昔から今の細胞に残されている “遺伝的意識”、に残された、

“小我を超えて大我の意識に向かう心理の領域” と私は考える。

 

単純に言い換えれば、”神聖なる完全なるもので満たされている

であろう”と直観する、自分の根幹ある“超越意識”を探ろうと

試みる(現状に満たされない)顕在意識と(神聖な自分の資質が

垣間見れる)超越意識の間” にある”自己探究の心理”をさす

のかしれない。

 

その領域からは、宗教や哲学のみならず、芸術が生み出される

土壌になった。

さらに、ヒーリングに枝葉が分かれて、メタフィジカル

ヒーリングが生まれる下地になった。

例をあげてみると、次のようなヒーリング施術は、この領域

に働きかけているといえそうだ。

 

気功施術’ は雄大な宇宙観を基軸としている。

人体を小宇宙として 大宇宙と重ねあわせ、経絡陰陽のバランス

を気功を通してはかる。

ハワイの伝統的ヒーリング‘である’ホ・オポノポノ’は、

現在意識と、神聖的超越意識の働きの協力より、潜在意識

(現在の行動を司っている無意識の領域)の洗浄をはかり、

これらの三つの意識の異なる働きを統合的に調和させることで、

ヒーリングを可能にしている。

 

真言や祈りを言霊波動として応用して、キリスト教でみられる

エクソシストや、原始的な魔術や土着的呪術などでヒーリング

が行われる。

神道においては、身禊払いの言霊や祝詞の言霊で意識下の

穢れを祓い、大きくは世の中を、小さくは家庭や個人の幸せを 

穢れを落とした曇りなき魂に反映させることから

ヒーリングが可能だと考えられている。

 

意識が発するエネルギーと量子物理学)

Metaphysical heelingに活用されるのは、人の意識の

持つenergyである。そのエネルギーは、最先端の量子物理学

からもっと明らかに説明されるようになるだろうし、すで

その扉は開かれている。

2016年3月に総持寺で来日したダライラマ師のお話を伺った。

ノーベル平和賞を受賞したダライラマ師は ほかの分野の

同受賞者たちと世界各地で開かれる会議やセミナーで同席し、

語り合う機会が多々あるご自身の体験エピソードから講話

が始まった。

 

ある会議のおり、一人のノーベル物理学賞を受賞した学者が、

“仏教は実はとても科学の最先端のことを説いているのですね”

ダライラマ師に話しかけたという。

ダライラマ師は、この最先端の知識を持つ物理学者の言葉の

意味を、理由を聞いて納得したという。

 

その物理学者が言葉を続けて、

“超ミクロ世界ではエネルギーである波動が激しく振動し、

固体と考えられてき粒子と分かちがたい状態になって

いると量子論で考えられています。 

エネルギーに満ちた真空から粒子は造られ 粒子は消滅

して再び、エネルギーに戻ります。

その場所、つまり、エネルギーと粒子が渾然一体になった

極微の場を 量子真空 と呼び、これは、仏教の空と

同じではないかと思います。

つまり、空から物質が生まれ、物質は空でもある

(色即是空、空即是色)という思想を科学的に裏付け

するものではないでしょうか? 

だから、多くの偉大な量子物理学者たちは仏教の教え

に今とても興味を持っているのです“ 

ということだった。

 

実際、ノーベル物理学賞を受賞した 量子物理学者、

ヴェルナー・ハイゼルベルクは 次のように述べている:

 

“原子や素粒子そのものは、固体として形を持っていない。

それらは、物とか事実というより、潜在性や可能性の世界

を形成している”*注1

つまり、細胞は、ミクロの形でいえば、原子、素粒子の

集まりとすると、人体は実は固体ではなく、空洞の中に

消えたり現れたりしているそれら素粒子の作り出す

エネルギーの塊ということになる。

 

江本勝氏によると、

”究極の物質の共鳴磁場レベルと人間意識のレベルの

共鳴磁場レベルは同等である“ という真理が最先端の

物理学ですでに証明されているという。*注2 

 

だからこそ、不可視の”意識”から放たれるエネルギー体は、

可視の身体のエネルギー体に影響を与えることができるの

だろう。

 

このような考え方を基盤に、プラス意識は、身体の健康を

もたらす半面、ストレスがもたらすマイナス意識波動は 

病の原因になると考えられ、九州大学の池見酉次郎博士が 

心と病の関係を基軸に、日本で初めて心療内科を設立

したことは知られている。

 

私たちは日常生活の中で、ややこしい理屈は抜きにして、

何が起きても、誰の中にもある、笑いに変えられるような

エネルギーを客観的に意識しようと努力するだけで、

プラス意識が旺盛になり、身心の環境改善が図れるだろう。

 

 

 

注1 ~“見えない世界の科学が”医学を変える“ 

長堀 優博士著 星雲社 2013) 

注2 ~”波動学のすすめ“ PHP研究所、1996)

 

 ヒマラヤの山々~チベット仏教を信仰する人々も

この麓領域に多く住んでいます。

 

 

 

 

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自然治癒力セラピーとクリスチャン・サイエンスとの接点

2018年03月06日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 

論より証拠 ’絵にかいた餅(’健康’)は意味がない!2018.3.6

 

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(活字から学ぶ宗教心理とヒーリング)~前回からの続き

 

その頃、本山博博士の“宗教と医学”

~副題:Psiエネルギー(気・プラーナ)

の生理学~ (宗教心理学研究所刊。昭和55年)

を読み、初めて‘宗教心理学’という学問

の存在を知った。

 

 博士は同著の中で、宗教の定義、

仏教やキリスト教の比較、

宗教とのかかわり方、多次元性、

無神論との関連性などを述べ、

次章で内臓―体壁反射(VCR)点

の身心機能に及ぼす影響実験からの

詳細なデータを様々な角度から

引き出し解析を試みた。

 

 博士の実証的な莫大な実験量と

結果は興味深いものであったが 

前章で解説された宗教の

様々な角度からの解析と、

VCR実験の結果とのあいだに、

密接な関連性を見つけることは

難しいように 感じた。

 

 学問を科学的にアプローチして

いくとき、普遍性、客観性、

再現性の条件を満たすための、

実験とデータ解析は必須だとは思うが 

宗教心理学においての、そうした

証明方法の難しさも同様に、士の

本から学んだ。

しかし、論理は しょせん論理だった。

 

 

 

臨床的効果がアートマセラピー

施術するなか、クライアントさんの

身体症状や 精神の落ち着きなど

の効果を目の前にしたとき、私にとっては、

”論より証拠” という気持ちのほうが

実証する方法を探ることより、勝っていた。

 

むしろ、そうした実例をあげて、

キリスト教教義を生かして、セラピーをする、

エディ―婦人の著書は、自分との体験に

照合させても重なり合う部分が多く、

ひきつけられるように読んだ。

 

それは、”Science and Health with

Key to the Scriptures”(1971)という本

で著者は、Mary Baker Eddy, 彼女は、

クリスチャンサイエンスの創始者であり

(*1) ,同協会から出版された本であった。

 

著者、クリスチャンサイエンスの

創始者エディ婦人は、徹底した

科学的キリスト教原理主義者の

場から、生理学、科学、医学、心霊論、

神学、贖罪論などの幅広い問題と真理

との関係性をこの本の中で、説いた。 

 

同著は、人間の本質論と神との関係、

存在論にまで言及している。

キリスト教徒ではない私だが、

そこに書かれた キリストの神性を

私たちの中に在る、仏性とかアートマ

という言葉で置き換えてみて、

違和感のない内容であり、生命力の

不可思議さを実地体験

とともに語る文章は説得力があった。

 

 彼女のヒーリングに関しては、たとえば、

以下のような姿勢が根幹に

なっているのでご紹介したい。

 

“We say man suffers from the effects of cold, heat, fatigue.

This is human belief, not the truth of being, for matter cannot suffer.

Mortal mind alone suffers, - not because a law of matter has been

transgressed, but because a law of this so-called mind has been disobeyed.

 I have demonstrated this as a rule of divine Science by destroying the d

elusion of suffering from what is termed a fatally broken physical law.

 

つまり、彼女はこう語る。

”科学的物理的原則(西洋現代医学的に認められる事)

に反すれば  ‘病になるだろう’と恐れるのは我々に、

(死に向かう肉体に属する)

心があるからで、(キリスト科学の)実在なる

心の法則の観点からいえば、それらの恐れは

妄想に過ぎない。

 

聖なる科学の法則を知れば 病は、物質的な

条件に関係ないこと、

恐れという幻想が打ち破られる

~”

 

私たちは毎日、活字で、耳で、常に、

西洋近代医学の進歩とそれによって

救われた多くの早期発見の体験

(特にがん患者)を通して、定期健診、

予防接種、人間ドッグでの健康チェック

の必要性を薦められている。 

 

同時に、それに従わない場合の、

生来のリスクの情報を与え続けられてる。

エディ婦人は真逆の立場を取る。

つまり、そういう恐れは、(死に向かう肉体

に属する)心があるからで、

(キリスト科学の)実在なる心の法則

観点からいえば、”それらの恐れは

妄想に過ぎない”と言い切る。

 

多くの人たちにとって、この言葉は、

狂信的に映るだろう。

だが、実際、難病を何らかのメソッド

西洋医学以外)で克服した

人々は、清水の舞台から飛び降りる覚悟を 

’分かれ道’ の選別時に、意識しているはずだ。

 

そうして、エディ婦人のいう、妄想を克服

しているはずだ。

その分かれ道とは、人類共通概念の

エネルギーに身をゆだねて、

’恐れ’をいだき西洋医学にまかせる道か、

己に内在している生命力、

信仰’ に委ねる道かに分かれていたはずだ。

 

私の例でいえば、実際、自分が6か月の

集中治療を受けるべきなのか、

自己セラピーで克服できる自信に

ゆだねるかという、二股の選択が

あったのは事実だった。

その意味で、エディ婦人の上記の言葉は、

多々持病を抱えていた

私自身が健康になってきた心理的背景を考えると、

その病が消滅していく精神的支柱と重なるほど、

共通するものがあった。

 

聖なる科学の法則を知れば 病は、物質的な

条件に関係ないこと、恐れという幻想が打ち破られる” 

という夫人の言葉は言い換えれば、

自分のアートマ、生命の法則を知れば、病は・・・”と

という我々の自然治癒力セラピー協会の主義に重なる。

 

みなさまに ここで、申し上げたいことは、エディ―婦人の言葉は、

私自身が、仮の余命宣告をされた身体でありながら、

西洋医学に頼ることなく新生したように元気になったこと、

さらに、多くのクライアントの方たちが、

自然治癒力セラピー協会を訪れ、ご自分の病体の改善の体験をしたこと、

まり、そうした少ない実例かもしれないが 実証済みの言葉として

受け止めていただきたいということかもしれない。

 

 この写真は実際は古木でできた古い南インドの建物の内部ですが、

まるで光線の具合で金色に輝いているのす。

私たちの体と心の関係もそうではないか・・・

つまり 心の光を自覚したとき、身体は輝く ということ比喩できそうです

 

 

*1~  Presiden of MassachusettsMetaphysical

College and Pastor Emeritus of The First Church of Christ

 

 

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