インドに行く直前の、フレッシュな日常生活体感 2018・3・30
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昨年の巡礼旅・・・釈迦牟尼が悟りを開いたブッダガヤの地で。
朝日を浴びる仏像(鎌倉の仏像にどことなく似てます。。?)
今日、朝10時半ごろ成田空港から、インド行の便に搭乗します。
今回は、家の整理と、いつもの巡礼が目的です。
家の整理というのは、実母を野辺に見送り、その関係の
実務が多くなり、現実的に物理的に、海を挟んでの
二つの拠点をメンテナンスしていくことが難しくなり、
そろそろ インド拠点地だった場所の片づけを~と
考えているからです。
そのための雑事をこなしてから、数日間、ある聖地を
訪れることに決めました。
そこは、デリーから車で15時間。
さらに、山を登ること数時間。
アリの行列のように、たぶん、富士山の頂上を目指して
上る集団のように、インドの多くの民が、その聖地を目指す
と聞きます。
そこは、”ヴィシュヌデヴィ” と呼ばれる女神の象徴、
聖蹟が祀られている場所。
ヴィシュヌ・デヴィとは、女性の原理、シャクティ
(生命力。創造力・破壊力)の三体の女神が一体に
なった姿だとか・・・?
日本式に言えば、観音様のような姿を自在無限に替える
ことのできる、女神らしいのです。
それは、とても大衆的であり、とても古い起源をもつ、
庶民にとって心のよりどころとなっている根強い信仰対象で、
キリスト教、回教、シーク教徒以外は、たぶんインド中
からこの山を目指し、多くの人たちが集まってくると
言われます
日本人の観光名所からはずれていますので、日本人ツーリストに
お目にかかることは、まずないと思われる聖地でもあります。
聖地に行こうと決めたときから、心から感じて、神妙で謙虚な
気持ちになっている私がいるのに気が付きました。
インドに人生活動期の半分の時間を過ごさせてもらい、
そろそろ、聖地巡礼もこれが最後かなと思ったときに、
心から湧いてきた、フィーリングです。
インドに、ご縁をいただいた私ですが、’ご縁’ というのは、
ある意味、大げさに言えば、’人生における奇跡的巡り合い’
だと感じたのです。
あと、何回、こうしたインド旅ができるかなと考えたとき、
ご縁があるまで~という答えが浮かびました。
人でも場所でも、ご縁があるから繫がっている、いずれは、
会えなくなったり、行くことがかなわなくなる時とは、
必ずいつかは、来ることでしょう。
”巡り合う”というのは、単に、会ってお話するのもそうですし、
家族として、友人として、知りあい接することができるのも
そうですし、本などの手段で知る知識もそうでしょう。
今、これを読んでくださっている 一面識もない、あなたとも、
この瞬間、ご縁があって、繋がっているといえるでしょう。
人間同士だけではなく、植物も、動物も、たとえば、家の中の
観葉植物や、ペットも、家族の一員のようなものですから、
巡り合った大切な仲間 といえるでしょう。
何しろ、日常生活の当たり前、それは人も仕事も、
事件も含めてですが、すべて、’巡り合い’なのだと、
強く感じているのです。
’ご縁があって、巡り会う’、その言葉の範囲は、とても、
広いように思います。
先にお話しした、聖地、ヴィシュヌデビの巡礼は、初めてです。
日本人のインドに住んでいる知人たちでさえ、なかなか、
足を延ばすことは無い場所のようです。
そんな所に最寄りの飛行場から、さらに、車で15時間かけて
いき、見知らぬ土地で何が起こるか分からない緊張感を
覚えるとともに、日本の生活、慣れている ’当たり前の事’
がとても、新鮮で得難いことのように、この数日間
感じながら生活していました。
それは、大げさなようですが、まるで奇跡のような輝きを
もって見えてくるのです。
インド・ニューデリーは4月5月が一年で最も極暑の時期です。
だから、このところ寒くも熱くもない日本の空気の動き、
風を朝晩、感じるだけで有難いなあとおもうわけです。
特に夜は、この数日は、最低気温5度~7度ほどですから、
肌寒さも遠のき、現在のニューデリーとの、30度の気温差を
想像し、天国みたい~と思うわけです。
不思議です。
これは、個人的主観的なメガネをかけた状態で感じている
ことなのですが、ある意味いつもは、当たり前すぎて何も
特段感じないで過ぎていることが、こんな風に惰性的
でなく毎分毎秒、尊い体験として自覚している自分に、
これまた、不思議な感覚になります。
余計な話になりました。
また、帰国しましたら、皆様にご報告させていただきます。
4月下旬帰国予定しています。
申し訳ありませんが、その間は、ブログはお休みさせて
いただきます。
どの辺あたりの上空でしょう。 インドに着くまでの上空から・・