自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

意識~想い~波動~が細胞に伝わる

2022年04月29日 | 健康のための心の波動

身体と心(波動)のつながっている実験結果     2022年4月29日

*******************************

ある代替医療センターで以下の実験が

1972年になされた。

もう半世紀も前のことなので、今ではもっと

科学的な実証がなされているとは思うが、

かなり具体的な事例なのでご紹介したい。

この実験の目的は”意識が細胞を動かす”

ことするか否かを計るものだった。

人の精子を試験管にいれて、電極を流し、

脳波計で精子の電磁作用を測定した。

一方、精子の提供者には実験室から

10mほどの距離にある部屋に待機してもらった。

そこでは、硝酸アミルガスをその実験者に

吸ってもらい、彼の提供した精子に、何か

変化が起こるかを見た。

すると、提供者がガスを吸った瞬間に、

10m離れたところに置いてある精子の電磁活動

が急に激しくなったのが、確認された。

 

さらに、この研究者は、白血球の研究に際し、

血液からそれを分離していたときにも同様の、

意識と自らの細胞との間の、

何らかのコンタクトが証明されている。

彼は、自分の唾液をとり、遠心分離機にかけた。

そこから、濃縮した白血球を採取して、試験管

にいれ、脳波計につなげた。

その時、自らの手の甲に刃物で傷をつけ、

その時のショックが採取した白血球に、

コンタクトをとるかどうかを確かめようとした。

刃物、とは、メスのことだが、そのメスを

探し始めた瞬間から、すでに、白血球細胞は

激しい活動を始めていたことが、電磁活動

記録に残っていた。

実際にまだ、傷をつける前から、傷をつけようと、

彼が意識し、行動をとったときに、彼の試験管に

入っている白血球細胞は、反応を示した。

この研究者の名前は、クリーヴ・バクスター。

チョープラ・センターの研究者の一人だ。

こうした離れた場所にある、細胞と意識との間の

コミュニケーションは、空の世界における顕著な

伝達方法といわれる。

時間と空間を超越して・・・三次元とは異なる

世界での、結びつきだから。

バクスターは、植物やバクテリア、あらゆる生物

の細胞には、伝達能力があることも証明している。

生きている細胞のすべてには、意識があり、

距離に関係なく、他の細胞体に、その意識を

伝達する能力も持っているという

ことが、その後の実験で立証された。

 

このバクスターの実験をさらに進めて、1987年、

グリンバーグとジルバーバウムが空間を超えて

物理的手段なしに、意思疎通ができるという

実験を行って立証した。

それは、二人の人間が同時に、黙想している

ときの脳波を測定。

いくつかのペアーの中で、何組かの脳波の型

には、強い相関関係があることを証明した。

黙想中でも、そのペアーは互いに、相手と

意思疎通をしているという瞬間を記録した

ところ、その瞬間は脳波計のグラフにも

はっきりと記録されていた。

さらに、別々の部屋に二人を離し、そこで

それぞれ、自分の意志を相手に伝えるよう

試みてもらった。

そして、研究者は、被験者の一人に強力な

光をあてて、誘発電位という脳波の小さな

上昇を確認したところ、同時に、別の部屋に

いるパートナー(被験者)の脳波にも同様

の誘発電位の上昇が、見られた。

つまり、光を照射されなかったペアーの一人

の脳波にも、光を照射された相手の被験者の

誘発電位の高まりに準じて、上昇が

みられたということ。

この二人の心の絆と、結びつきがそれを

可能にさせたということが、立証された。

 

これこそ、空(くう)という、実相領域

(三次元の物質界、量子界)を超えた世界で

起きている、すべての物は関連しあい、

結ばれて、同調、調和をしていくという、

全体的法則の関係が、現れたとする実験だと

言えると思う。

私はあなた、あなたは私、という感覚。

たとえると、海の中の波同志のような関係。

体を見ると、手のひらから出ている5本の

指のような、関係。

壱=無限、無限=壱、の関係。

壱即多、といわれる、関係。

そうした、空の世界で起きている、実相の

現れこそ、この実験でみられた、

コミュニケーション といえるだろう。

 

だからこそ、祈りは効力があり、

遠隔治療なる、波動療法が、効果を持つという

背景を、この実験から窺い知ることができる。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蛇足:前回の記事に・・

2022年04月22日 | 介護と自然治癒力

前回の記事に追記させてください。2022/4/22

*************************

 

ところで、冒頭の、”介護の中の空観”との関連付けとは?。

 夫は精神安定剤を、施設にお世話になる限り 飲まされる

ことになっていました。

もし、そうしていたら、夫との何気ない会話から、

感じられる心のつながりが、なくなっていたでしょう。

ぼーっとなるまで、飲んでいたら、普段の会話がどうなって

くるのか?

想像がつきません。

 

心のつながりこそ、当たりまえの生活への第一歩だと感じた

のでした。当たり前の生活の中に、空の世界とつながる、

道があるということも。

 

たとえば、こんな、昨日の会話です。

寝具が、軟便のウンチで汚されていました。

明け方、私が知らない間に少し、排泄され、手を入れて、

汚れたので、それをシーツで拭いた跡でした。

素直に私は 毎日こんなだったら、洗濯が間に合わない、

と、愚痴りました。

トイレで用が足せたら良いのに・・・

 

それを聞いて、素直に彼は、一生懸命 車いすから立ちあがって、

トイレの方向に行こうとしていました。

そして、2年ぶりに、私の肩を支えに、10歩、トイレまで

よちよちと、歩きました。

いろいろな意味での、大きな第一歩でした。

そしてそして。。。。。

 

こうした当たり前のありがたさを 再確認させていただけることは、

私の中の足りなかった何かに、気が付くことだと思いました。

多くの方たちが介護で、心身疲弊していること、介護が必要ない

かたでも、ベッドの上で部屋の天井だけしか見れない状況で、

治療を続けているかもしれない。

健康体であっても、心だけ、死にたくなるほど疲れ切っている

人もいる。

五体満足でどこでも行けて自由が与えられていても、家の中で、

こもって外に出れない人もいる。

その人たちを見守っている家族の心の重さや、いたわりや、愛情や、

寄り添いや、さまざま・・

人間模様ーーー

他人事のように、客観的に、頭で想像し、頭で理解していた自分

がいたことに気が付きました。

本当に、そういう中に飛び込むことは、私自身が、そうした体験

をしなければ到底、味わえないこと・・・そこに、新しい何か・・

自分・・がまた、生まれてくるような気がしています。

 

夫は血圧正常、健康診断でもAマーク。

それでもなぜ?

なぜ、こんな状態なの?

 

きっと、私にこうしたことを気が付かせてくれる、お役目が

あるのかもしれません。

大きな、お役目をもって今の状態に、なってくださっている

のかもしれません。

合掌

感謝

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の人生最後の総仕上げの、介護というお役目

2022年04月19日 | 介護と自然治癒力

こんな大きな浣腸の代わりに、波動セラピーの効力で

便秘を治したい    2022 4/19

************************************************

 

ここで、量子力学的世界とか、空的世界 という

机上の空論の聞こえるお話を、超現実的なお話に

戻して、関連づけてお話させてください。

 

今、私の前に、3年間の月日、専門家にそのケアー

をお任せしていた、夫がいます。

コロナの前の市役所の専門家から 要介護4を

いただいていた夫でした。

 

その夫が、今月の4月のはじめに、自宅に戻りました。

歩けない・トイレに自力で行けない・極度の便秘・

食欲が無い(施設の食事は、ほとんど手つかず状態

が半年続く)、便秘以外の日は、軟便が垂れ流し

状態でした。

 

そういう状況下に自宅に戻った大きな理由は、

簡単に言えば、施設側で、夫の下の世話が、

非常に厄介であることに対して、

精神薬投与をすることに主治医が決定した

からでした。

具体的に言えば、寝ているときに下剤で処理

した大便が紙パンツの中にたまったとき、夫は、

それをシーツや、壁に塗る行為が毎日のように

続くので、職員の手に負えないと

判断され、精神抗うつ剤を与えることで、

そうした行為を防ぐと判断したことによります。

昨年11月のときに、そのことを医師に呼ばれて

知らされ、”夫の精神状態が不安定だから安定

させるために薬を飲ませて、そうした、不安定な

からくる行為を抑えたい”という話でした。

 

そしてその答えを引き延ばしにしていた私に、

今年1月4日に、その結論に対しての、家族側の

合意か否かの結論を、施設長、看護師長、ケア

マネージャー、他、数名のスタッフが並ぶ中、

求められました。

そして、その理由として、医師は、本音を

言われました。

 

”どんなに、職員たちがご主人のことで想像以上

の負荷がかかっているか、奥さんわかりますか?”

 

”ですから、こちら側としてはそうした行為を

安定剤で抑えます”

どの位の期間に、どのくらいの量を与えていくか

尋ねると、”頭の働きを緩(おだ)やかにさせ、

少々ぼーっとするぐらいで、

リハパンの中の便に神経質にならなくなるまで

増量させてきます”と言われました

 

私は答えました。

”仕方がありません。でも、それって、肉体的

拘束ならぬ、知的拘束といえませんか?”

 

肉体的拘束が施設で、禁止されているのなら、

目に見えないところの拘束は?”という疑問でした。

 

そして、翌日1月5日、私は、施設長に電話を入れて、

夫を自宅介護にする旨を伝えました。

勿論、そうした背景には、私を支えてくださる方たち

がいたからできたことであり、介護保険を使いながら、

昼間は介護所へ、夕方戻り、晩御飯を食べ、寝ると

いう、当たり前のリズムが確保されることを、

ひと月ほど前から事前に整えてのことでした。

極度の便秘症を 自分自身がこの自然治癒力セラピー

協会を立ち上げた主旨のもとで、何とかできるはず

という、かすかな自信と、私の人生の総仕上げの

最後の仕事のような気がしてきたのも事実でした。

そして基本的に、自分の信じる方法で、精神薬を

飲ませなければならないと判断された、夫と向き

合いながら、彼の、アートマ(魂の純粋性)を

感じる共同生活を、覚悟とともに

真摯に願った私でした。

 

そう決意してまもなく、オミクロン変異種の

コロナが、再び、

猛威をふるい始めたので、退所するはずだった、

施設の施設長が、電話を下さり、こうおっしゃい

ました。

”私の采配の元で、精神薬を投与しないから、

コロナが落ち着くまで、もう少し、ご主人を

置いてあげてください、

こちらも、安心してお見送りしたいので”・

 

その言葉をありがたく受け止め、退所の時期が

4月にまで、伸びたというわけでした。

 

さてさて、こうした紆余曲折を経て、夫は、

自宅にもどり、介護生活がスタートしたばかり。

この短い間に、私の覚悟が問われる瞬間が、

何度も訪れました。

 

まず、施設で重度の便秘のために、毎日飲んで

いた、下剤はどうするか??と、

排便に必須だったといわれる、巨大な120㏄の

大きな浣腸を捨てられるか??

捨てて、自力で排便がさせることが、私には、

これまで培ってきた信念でできるのか?・・・

 

この3年間の間、下剤や浣腸で、腸に与えられた

刺激で本来の力を失った状態で、自力で排便

しないで、定期的に薬でコントロールされて、

垂れ流しに便を出していた習慣と、

どう、対峙していくか?

腸を正常に戻すにはどの位の時間がかかるのか?

それまでどうやって、排便させるのか?

食欲は戻ってきた分、よく食べるようになっただけ、

その不安が募ってきました。

本当に未知の領域への挑戦に思えました。

 

案の定、5日間、便の徴候はなく、本来なら、

施設では定期的にしていた、浣腸をする日も

迫ってきました。

幸いにほとんど、食事を食べなかった夫は、

自宅で、食欲は健康時に近いものとなり、

晩御飯は完食するようになりました。

このまま(3年前にそうであったように)

最悪の状態、薬なしで、一か月も大便が

でなければどうしようか?という不安でした。

 

そこで、本来、毎日15滴ずつ飲ませられていた、

ピコと呼ばれる液体の下剤を、不定期に10滴

だけ飲ませました。

徐々にこれも、止めていこう思いながら、

対処療法に頼ることも、仕方ないと判断しました。

その晩は、大量のウンチが出そうだったので、

私は添い寝をしていました。

施設では、そうして出たものを、指で触り、

壁や寝具に塗るという毎日だと聞いていたからです。

その晩でした。

隣で寝ている夫は、唸り声を上げ始めました。

同時に、半身をのけぞり、折り曲げるように、

ベッドの上で、3時間近く、エビのように体を

折って、左右に動いて、唸り声をあげて、

やっと、ウサギのウンチのようなコロコロした

硬い便を出しました。

彼は、つかさず、それを手をリハパンの中に

入れて、出してベッドの外に放り投げました。

慌てて私は起きました。

その後、大量の水便が出ました。

正直、嬉しかった・・・糞詰まりにならなかった

こと、そして、彼の自力で排泄しようとする

神経が、働いているのを目の前で

見たからでした。

 

コロコロウンチは、十分に腸で栄養素が

吸収された証でもありました。

本人曰く、初めて こんなに力んだと、

いうことでした。

 

数か月前、精神薬の投与を必要性を私に説いた、

施設医局の医師の意見が脳裏を横切りました。

”奥さん、どう、考えても、自分の排泄した

ウンチを、床に投げ捨て、壁に塗り、シーツ

で手を拭くという、その行為は精神が正常では

ないでしょう、” という言葉。

 

”いえ、正常なゆえの行為です。

ウンチの感触が気になり、それに手がいき、

指が汚れたから、手短なところ(シーツなど)

で拭いてしまうのは、むしろ、神経が正常

だからだと思います。”と、私。

 

その答えが、たぶん、間違っていないと

いうことが、もう少しで

証明されることを期待しています。

 

波動療法が私は根本的な、改善方法と

思っています。

このブログにもそうした原理で診察なさって

いる医師のお話を、とりあげてきました。

言霊波動や、想念波動、食べ物波動や、環境

波動など、健康を左右させる、波動要素は

沢山あり、すべてが、自然治癒力

発動のためのエネルギー源となります。

 

私自身のアートマセラピーも、それを根幹に

おいてきた方法ではあるものの、今回は、食物、

飲み物、雰囲気、言葉、ふるまい、夫の周囲

を取り込む、空気の波動を考えながらの、

とても大きな挑戦になりそうです。

やっと、闘いの第一日が明けただけのこと

です。

長期戦の忍耐強い、闘いの始まりでもあります。

介護に興味の無い方、特に他人のウンチの話

などは、あまり、楽しい話題ではないと思います。

でも、こうした経緯が薬を減らしていくうちに

改善されるとしたら、この話は、他の病の改善

にも、共通した何かを、提供できるかもしれない

・・と思い、これから時々、ご報告をさせて

いただきたいと思います。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の様相を半世紀前の神示から

2022年04月13日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

ひふみ神示 8帖より  2022 年4月13日

*********************************

青文字部分が原文より、黒文字が解釈となります。

自動書記という、私利私欲を離れた世界から、

特定の人に対して、自動で筆を運ばせる

という形で書かれたこの神示に興味あるかたは、

”ひふみ神示”(2011年 岡本天明著 太陽出版 )

を参考になさってください。

 

”新人と生まれ、新天新地に住むとも、

その以前の自分の全ては失わない。”

新人というのは、新たに生まれた人という意味で

悟ったり、肉体の衣を脱いだり、それぞれの状況で

現在とは異なる次元の自分になったときを指す。

                                           

”唯 その位置を転換されるのみである。 

地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を

脱ぎ捨てるが、その根本的なものは

何一つとして失わず、生活するのである。”

肉体を脱ぎ捨てるとき、それを、天明は”物質的に

濃厚な部分”と呼んでいる。

肉体を脱いでも、根本的なところは何も変わらない

とここでいう。

 

”その状態よりも、なお一層、そのままであって、

何らの変化もないと思えるほどである。

蛆が蝶になるごとく 弥栄えるものであって、

それは大いなる悦びである。

なぜならば、大歓喜なる大神の中において、

大神のその質と性を受け継ぎ呼吸しているからである。”

エミール大師やエディ夫人が再三述べているように

在って在るものは、大いなる大生命の力であるゆえに、

私たちの肉体はなくなっても、その大神(大生命)の中

で息づいていることは、なんら、変わらないという

ことだろう。

            

”全ての物は歓喜に向かって 歓喜によって、行為する。

歓喜がその目的であるがゆえに、歓喜以外の何物も

意識しえない。

 

ゆえに、歓喜より離れたる信仰はなく、真理はなく、

生命はない。

生前の霊人が地上人として生まれてくるのも、

死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた、死ではなく、

弥栄なる誕生であることを知らねばならない。”

 

そこには、言い換えれば歓喜という本質的性質しか

存在しない。

 

だから、もし、私たちが信仰したり、真理の勉強を

したりしても、その中に悦びが見出されなければ、

何かが、違うということでもある。

自分の向き合い方が違うのか あるいは、目指している

そのもの真理ではないのかもしれない。

                                                   

”歓喜は行為となる。

行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。

只、考えたり、意思するのみでは萌え出ない。

生命しない。

只 意思するだけで行為しないことは、

まことに意思することではない。

霊界に於いては、意思することは直ちに、

行為となるのである。

地上人にありては、物質によりて、物質の中に

その意思を行為することによって、初めて

歓喜となり、形態をなし、弥栄えるのである。”

 

地上の私たちが何かを実際行動して、形にして

いくとき、意思が表面化し、想いが現実化する。

霊界では、思えば、それが現れたり、そこに一瞬の

うちに辿りついたりすることが可能なようだが、

現象の物質界では常に、意思を行為する ということが

意味を持つという。

 

”生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、

美の歓喜の四段階とその中間の三段階を加えて

七つの段階にまず区別され、その段階に於いて、

その度の厚薄によりて、幾区画にも区分され、

霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしいところに

集まり、自ら一つの社会を形成する。”

 

唯心所現、類は類を呼ぶ、朱に交われば朱くなるの

諺は、地上界のみならず、霊界にもあてはまるのだろう。

 

”自分にふさわしくない環境に住むことは許されない。

否、苦しくて、住み得ないのである。

もし、その苦に耐え得んとすれば、その環境は

その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。

例えば、愛の歓喜に住む霊人は、

その愛の内容如何によって、同一方向の

幾百人か 幾千、幾万人かの集団の中に住み、

歓喜を中心とする社会を形成する。”

 

現在 苦しいからあの世に行けば救われる と

思っているのは甘いということか・・・

今ここに、愛を顕わすことが、あの世に行っても

同様、愛を形成する世界に住めるということなのだろう。

 

”ゆえに生前の世界では、自分の周囲、自分の

感覚しえるもののごとくが最もよく自分に似ており、

自分と調和する。

山も河も癒えも田畑も、そこに住む霊人たちも、

動物も植物も鉱物もすべて自分自身と同一線上にあり、

同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの全てが、

大きな自分自身と映像する場合が多い。(*1)”

 

私たちの周りの環境も、人間環境も、動植物や、

自然環境にいたるまで、すべて、自分の心の鏡だと、

先人は教える。

すべて 自分の遭遇しているあらゆる物、人、事象、

それらは、”自分自身と同一線上にある”ということ、

”同一の呼吸”をして、自分をさらに拡大化した”、

大きな自分自身”であると理解することができる。

                             

”自分は他であり、他は自分と感覚する。

ゆえにその性質は生後に基づき、地上人もその周囲を

自分化しようとする意思を持っているのである。

しかし、地上世界は物質的約束によって、想念の

ままには動かない。

死後の世界もまた、生前と同様であるが一度、

物質世界を通過したものと、しないものとの

相違が生じてくるのである。

だた、いずれにしても、物質世界との密接なる

呼吸のつながりを断ち切ることはできない。

物質は物質的には永遠性を持たず、霊は永遠性を

持つが、霊的角度から見れば永遠性を持たない。(*2)”

 

ここに言う、”物質には永遠性がないということ、

霊はそれを持つが、霊的角度から見れば永遠性を

もたない’とはどういうことだろうか?

霊的角度から見るというのは、きっと、霊性ある

ものも、さまざまな段階があるがゆえに、必ずしも、

永遠性を自覚している霊だけではないということだろう。

 

しかし、物質のような儚い震動物体よりも、緻密で

硬固な霊的震動をもったものを比べれば、はるかに

永遠性が理解される対象といえるだろう。

                              

”しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、

遠から永遠に弥栄してゆくものである。

しかして、永遠性をもつ事物は 地上的物質的事物を

自分に和合せしめる働きを内蔵している。

無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、

その融合の上に生命が歓喜するのである。(*3)

無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を

知得しなければならない。”

 

”無は有を生み、有は無を生み出す” という表現

は含蓄深い。

無といっても、この場合、空の概念にも似て、

何もないところから大生命という唯一の存在波動が

ある空点が 動いて、有 になり、

物質的現象として現れている 有 がまた、原質に

戻って、目に見えない空点に戻る と繰り返し、

生成が行われ発展がみられ、醍醐味と悦びがある

ということなのだろう。

この無と有が混然一体となって、まとまったもの

に形を作っていくとき、空の方向性に遠心力が

働いていることがわかる。

人の健康も、同様であって、そうした遠心力に

敏感になると、心身がおのずから整ってくる。

 

昭和30年11月3日、文化勲章を授与した、二木博士

がそのことを、独特な表現でこう表している。

その遠心力は、西洋的な、外に向かって引っ張られ

拡散力と違い、対角線上にあるという。

博士は、これを、典型的な”日本方式”と呼ぶが、

それは、一体、どのようなものなのだろうか? 

 

“われら日本式は、求心的帰一的研究である。

どういうことかといえば、個々の現象を一つの中心

まとめてしまう方法である。

医学で言うのなら、その中心というのは、生命である。

生命には 空気も 日光も 水も 草も 木も必要である。

そして、空気も日光も水も草も木も すべて生命に

帰一するのである。” 

(引用終わり)

 

物質ではない、量子の世界でもない、空なるすべての

中心点に、”生命”を位置づけて

いるのが 興味深い。

生きるためには、空気、日光、水、草、木、という、

自然の要素は必須だ。

そしてまた、それらの自然の要素は、生命という、

まことに不思議で、どんなに進んだ文明の機器も、

コンピューターでも、”生命”だけは、創造すること

はできないし、超一流の科学者も、実験室の中で、

生命を複製することだけは不可能だ。

なぜなら、生命は、”空”なる存在だから・・

 

どうして、そう言えるか? 

それは僭越ながら、自分の心の、空の波動がそれと

同調して教えてくれる、というのが、正直なところで、

でも、この考えに同調してくださる読者の方が必ず、

おられると、私は考えている。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

波動が治す場を考える(2)

2022年04月08日 | 健康のための心の波動

直観が生きる量子世界と波動の場 2020年4月8日

******************************************************************

量子世界は、肉体レベルで、見たり聞いたり、触ったり、

匂いを嗅いだりして判断する領域と異なり、この物質

次元の奥の、本質的世界を、直観的に、把握できる

繊細なセンサーが必要です。

 

そこでは、物質の構成要素の最小単位でとらえられる

実質は、質量があるかと思えば、質量のない波動にも

なりうるものです。

いわゆる、電子自体がそういう実態なので、電子領域

と、この世界を読んでいます。

ここでは、肉眼で認める’物質’の奥にひそむ、本質的な

構成要素の電子(エネルギー体)を、繊細な心のセンサー

感じ取るということになります。

 

それは、決して難しいことではなく、誰でも、無意識

にしていることです。

たとえば、職人さんが数ミリの単位で、製品を手で削る

ときその、繊細な微粒子のようなセンサーが働いています

し、芸術家が作品を仕上げるときの、微妙な色合いを

つくるときにも、このセンサーが働いています。

母親が赤子の世話をするとき、このセンサーがあるから、

わずかな赤子の普段と異なる容体がわかり、素早く

それに対応することができるし、距離が離れていても

胸騒ぎがして、連絡を取ると、相手が困窮して救いを

求めていたということもあるでしょう。

 

この、第二の量子の世界に、”自分の心”を置くと、

物質世界の心が見る世界と異なり、現象の奥にひそむ、

微妙に振動しながら動き続けている’エネルギー’

感じることができるわけです。

 

風邪をひいても 因果関係の物質法則の世界と異なり、

時間と空間を超えることができる、この量子の世界では 

さまざまな、’多様’の角度で、その事象をつくっている

(風邪をひいたこと)に、その要因を探ることでしょう。

 

風邪をひいたのか? オミクロンなのか? 花粉症

なのか?と考えるときも、ウイルスが引き寄せられた

その時の、自分の身体のエネルギー状態や、心身関係

振り返りながら、もっと高い波動に高めることで、

病を癒すことが可能になるわけです。

 

身体と心は、一体ですから、それは身体の波動だけで

なく、心のエネルギー波動レベルを高めるように、

心の持ち方をかえるかもしれません。

それが、究極的な、癒しとつながるのですが、これは、

物質世界において、感情に振り回される心の状態では、

到達できないことです。

 

心配が高じて”不安になるという自分の感情すらも、

エネルギー態である・・と、ワンクッション置いて

客観的に見ますから、その感情に振り回されることは、

かなり、少なくなるでしょう。

 

病気にかかるときは、物質的原因、量子学的世界の原因、

と二つの世界の要因があります。

ウイルスが原因とするのは、物質的原因になります。

また、自分の放つエネルギー波動とウイルス波動が一致

したから、それをひきつけたと考えれば、量子論的世界

の答えとなるでしょう。

 

この世界には、ヒトの考えや想念波動が、時と場所を

超越して行きかっています。

波動エネルギーは、まるで、たばこの煙のようです。

知らず知らずのうちに、その煙を、周囲の人達は吸い

込んで共有しているものでもあります。

たばこの煙は、実は、喫煙者の息とともに、空気中に

出されますから、ある意味”息”そのものです。

他人の息を、数メートル離れた人も、知らずの間に、

吸い込んで自分の体内に入れているわけです。

 

それと同様に、その人の感情や想いは、たばこの煙

のように、息とともに、外に吐きだされているとすれば、

すれ違った瞬間、その人は感じが良いとか、悪いとか、

感知できる理由も、わかります。

無意識に、その人のエネルギーを共有するからです。

吐き出されたたばこの煙のように、そうした相手の

エネルギーの情報を、直観的に瞬時に知ることが

できるのでしょう。

 

このように、量子レベルのお話というのは、結局、

エネルギー態にすべての事象を変化させて考える

ことが可能です

 

私たちの存在自体が、エネルギー態ですから、

さっきの私と今の私では異なるし、それをどこかで

知っているから、”明日は、明日の風が吹く~”と、

どん底まで落ちても、どこかで、ケセラセラで生きる

ことが、ヒトは可能なのでしょう。

 

人は、どん底におちても、自分の深い心の状態、

つまり、量子レベルのエネルギー体戻って、

新たに振動しているエネルギーを自分の中

に自覚して、次の一歩を踏み出す強さが自然と

でてくるのでしょう。

次に三番目の世界、空の世界のレベルのお話を、

次回させていただきます。

さて、空のレベルが第三の世界です。

ここに、心の視点を置くことは、私たち誰もが、

本質的なところで、とても深い魂の奥底で常に片時も

離れることなく、行っていることなのです。

なぜなら、この世界と私たちの魂は、離れることは

できないからです。

 

そこの世界に、自分の心を置いている人は、無碍自在

になります。

病であっても、病に苦しまない。

不幸であっても、不幸と思わない。反対にとても、

世間から羨ましがられるほど、裕福であっても、

財にとらわれることが無いから飄々としていること

でしょう。

 

この世界に、心を置いている人は、エネルギーがすべて

の実態であることを、熟知していますから自分の人生も、

願う通りに、必要な事象を生み出せるはずです。

甘いものが食べたいと思うと、数日内に、友人から

菓子箱が届けられたり、会いたい人にばったり会ったり、

様々な偶然の姿で、なるようになってしまう・・のです

 

般若心経に書かれている、色即是空(しきそくぜくう)

の世界です。

色、つまり、物質は、本来、空(くう)なる世界に

その実態はあり、時空を超えたエネルギー態なのですが、

実際、私たちの五感の器官で、認識できる姿になっている

ときは、空に本源を持ちながらも、異なる

次元の姿で目に映っているというわけです。

 

風邪をひいている人は、空の世界でいえば、風邪と

いう実態はないのですから、空の次元にとどまる心の

人は、風邪をひいたり、コロナにかかったりすることは

無いでしょう。

受け付けないし、あちらからも寄ってこれないわけです。

違う異次元の世界の中のもの同士ですから・・・

 

ここまで書いてくると、とても抽象論の世界になって

しまいそうです。

でも、一つ言えることがあります。

空の世界にある心には、それでは、苦しみ悲しみはない

としても、喜びもないのでしょうか?

はい、ありません。

喜びとか楽しみは、悲しみや苦しみの裏返しだからです。

あるのは、ただ、静かな穏やかな心のみです。

そして、周りの事象に対しては、傍観的な態度をとりつつ、

必要な時は、人間である以上身体と感情を持つ宿命に

あるので、自然発願的に、行動がでるでしょう。

その行動は、思うまま行為しても則を超えず、

さながらに、調和を乱すことなく、むしろ、周りの

調和と平穏を高める働きをするのみでしょう・・・

 

なぜ、そうわかるのか?

それは、それこそが、神の心と行為そのものだからです。

空の世界につながっている私たちは、誰もが、本質は、

神や仏とつながっているわけですね。

 

今日の表題の、波動医療の本質とは、だから、その空

の世界に、患者の心と身体をいざなう、それを波動に

よってできることが、私は、真の意味での波動医療だと、

おもうわけです。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする