藤原銀次郎氏の体験と重ねて 平成25年10月30日
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手元に今、亡き父の愛読書が何冊か残されている。
その本の中から、ご紹介したい方たちがいる。
経済界の方をご紹介するにはいささか、当協会の主旨
とぶれるのではないかと感じる方たちもおられるだろう。
藤原銀次郎氏は経済界の当時、大御所であった(昭和30年)。
この方は福沢諭吉翁の言葉を座右の銘に、実業界を生きて
こられた。
福沢氏の言葉のご紹介とその実例を兼ねて、氏の著書から
福沢氏の言葉を少し読んでみたい。
“棄つるは取るの法なり。
浮世を軽くみて、浮世を棄つるは、すなわち浮世を撮るの
根本なりと知るべし。
内心の底に、これをかるくみるは、良く決断して、
よく活発なるを得べし。“
藤原氏の見解
~何事にもとらわれてしまってはいけない。
それがために、先生はよく、つかず離れずの心構えを
教えられた。
いろいろな大問題、難問題にぶつかると、人は皆慌て
ふためいて、正しい判断を誤るものであるが、そんな場合、
一歩しりぞいて、静かに考えれば、必ず判断も誤らない
だろうし、良い智慧も自然に生まれて来る。
一歩を退くと言っても、驚いた調子にあまり、飛びのき
すぎてもいけない。
いわゆる不即不離といったところで じっと問題を
見つめるのがよろしい~
藤原氏は、問題が起きても、事象にとらわれ過ぎず、
少し距離を置いて客観的に見ることで、対処する智慧も
わいてくるとして、その実例を以下のように、語る。
“わたしがやっていた頃の古い王子製紙で、
バルブの原材を尺メ幾らという契約で買っていた。
20年間の長期契約であったのに、岡田長官の時代に
なって、樺太庁の財政上の色々な困難から、50銭から
2円に値上げを要求してきた。
そうしなければ、この契約は無効として破棄するという
脅かしである。
私はその不法に驚いて、あくまでも争うと、三井の
顧問弁護士 原 壽道さんに相談した。
ところが、原博士のいわく
“この契約は決して無効にはならない。立派にこちらの
言い分が通せる。
しかし、考えてもみたまえ。
相手は君の方の事業と最も密接な関係のある樺太庁だよ。
この役所と喧嘩してしまって、スムースな商売ができる
と思うのかね。
向こうは樺太の王様、こちらは商売人、法律で勝っても、
ほかのことで仇を取られたら何にもならない。
ここは涙を呑んで、負けるが勝ち、負けるが勝ち“
さすがは、その方は大家だけあって、下手な弁護士だったら、
ここで気張るところを、法律で負けて、商売で勝てと
あべこべに諭されてしまった。
原さんも、一旦、棄てて、拾いかえすことをご存じで
あった。“
結局 藤原氏が新契約に従うことによって、その後
毎年毎年、値上げを攻められてもそれだけ、生産方法での
改善と工夫を続けて、結局は樺太庁との共存共栄で
利益を上げた。
ここで藤原氏は言う。
“何によらず、一歩を退いて、さらに改めての踏み出しには、
多くの誤りがないようである。“
エピソード2)
福沢翁いわく
“元来人間の心は広大無辺にして、よく物外に超然たり。
よく理屈の外に悠然たるを得べきなり。“
藤原氏のコメントが以下に続く:
“心を広くもって生きよ。
人生は戯れと観じて、その戯れを本気で努めよとは、
すでに、私も先生の言葉として紹介したところであるが、
なかなかそうはお互いにいかないのも、人間は物に捉われ
心をそれに縛り付けられてしまうからである。
儲かれば喜び、損をすれば、落胆する。
景気が良ければ ニコニコし、景気が悪くなれば
しかめ面にもなる。
これは人情として、ヤムを得ないことである。
しかし好景気に有頂天になるのも、不景気にしょげかえる
のも、つまりは物に捉われているからであって、物外に
心をあそばせる余裕を失っているからである。
そういうことでは、景気に引きずられるばかりで、
景気に善処することはできない。
良い智慧も分別もなかなか出てこない。
私の商売とお茶の師匠さんであった、益田孝さんは、
商売の神様のように商売に上手で、しかも、儲かっても、
儲からなくても、景気が良くても悪くても、決して
商売にとらわれて、立ち騒ぐようなことが無かった
人である。
三井物産時代の話で、
われわれは益田さんの決議を仰ぐため、
たびたびお宅へ伺った。
この忙しいのに 家へ引っ込んでいて、悠長にお茶なぞ
とは何事だと、半ば腹立ちまぎれで乗り込んだものであるが、
“急くな、騒ぐな、商売というものは・・・”
と、あべこべにミイラ取りがミイラにさせられてしまって、
すっかり、のぼせ上がっていた商売のことも客観的に
見直す場合があった。
そんな時は、いつもハタとひざを打つ手落ちの発見や
より以上の良い思いつきも浮かんできたものだ。
“チエの益田”といわれた益田さんの智慧も、
やはり、商売に熱中していて生まれてきたのではない。
物 外に悠然足り、忙中に閑然なりという余裕をもって、
ここに初めてわいてくる智慧だったらしい。
但し、これもただ、形だけをまねたのではいけない。
生臭坊主が一休の外面だけをまねたのでは、はなはだ
危険である。
益田さんの“急くな、騒ぐな”も 増田さんだけの打つ手を
すべて打っておいての、その上の “急くな、騒ぐな”
であったことをよくよく承知しなければならない。“
打つ手をすべて打っておいて~というのは危険を避ける
ためにその対策を講じることの大切さとつながるだろう。
”私の実相は神であるのなら、何も危害はないから、
超然としています“
と言う人がいるが、転ばぬ先の杖 という諺もある。
確かに、万全の注意をして、身を守るという努力も
必要な時があるし、戸締りをしないで開けっ放しで
外出して泥棒の被害にあったからといって、
誰も責めることはできないのと同じだ。
私たちの実相にはすべてが具わっている。
それは表面だけの言葉だけの字面の意味で終わらせては
藤原氏のいう、“生臭坊主が一休の外面をまねる”
ことと大差ないだろう。
その実相を顕現するためには、それなりの
日頃の心がけというのもやはりあるのだろう。
福沢諭吉 [1835~1901] 啓蒙思想家・教育家。大坂の生まれ。
江戸に蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設、
のち、独学で英学を勉強。三度幕府遣外使節に随行して
欧米を視察。維新後、新政府の招きに応ぜず、
育と啓蒙活動に専念。
著「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「福翁自伝」など
藤原銀次郎 [1869~1960]実業家・政治家。長野の生まれ。
王子製紙を再建。藤原工業大学(現在の慶応大学理工学部)を
私費で創設。
第二次大戦中、商工・軍需相などを歴任。
益田 孝(たかし) [1848~1938] 実業家。新潟の生まれ。
号、鈍翁。 大蔵省造幣権頭を経て三井物産に転じ、
三井財閥発展の基礎を築いた。
美術品の収集家としても知られる。
参考:
”福沢先生の言葉” 藤原銀次郎 実業之日本社発光、 昭和30年