自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

福沢諭吉翁の言葉~1

2013年10月30日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

 藤原銀次郎氏の体験と重ねて   平成25年10月30日

****************************************           

手元に今、亡き父の愛読書が何冊か残されている。

その本の中から、ご紹介したい方たちがいる。

 

経済界の方をご紹介するにはいささか、当協会の主旨

ぶれるのではないかと感じる方たちもおられるだろう。

 

藤原銀次郎氏は経済界の当時、大御所であった(昭和30年)。

この方は福沢諭吉翁の言葉を座右の銘に、実業界を生きて

こられた。

福沢氏の言葉のご紹介とその実例を兼ねて、氏の著書から

福沢氏の言葉を少し読んでみたい。

 

“棄つるは取るの法なり。

浮世を軽くみて、浮世を棄つるは、すなわち浮世を撮るの

根本なりと知るべし。

内心の底に、これをかるくみるは、良く決断して、

よく活発なるを得べし。“                   


藤原氏の見解

~何事にもとらわれてしまってはいけない。

それがために、先生はよく、つかず離れずの心構えを

教えられた。

 

いろいろな大問題、難問題にぶつかると、人は皆慌て

ふためいて、正しい判断を誤るものであるが、そんな場合

一歩しりぞいて、静かに考えれば、必ず判断も誤らない

だろうし、良い智慧も自然に生まれて来る。

 

一歩を退くと言っても、驚いた調子にあまり、飛びのき

すぎてもいけない。

いわゆる不即不離といったところで じっと問題を

見つめるのがよろしい

 

藤原氏は、問題が起きても、事象にとらわれ過ぎず、

少し距離を置いて客観的に見ることで、対処する智慧も

わいてくるとして、その実例を以下のように、語る。

 

“わたしがやっていた頃の古い王子製紙で、

バルブの原材を尺メ幾らという契約で買っていた。


20年間の長期契約であったのに、岡田長官の時代

なって、樺太庁の財政上の色々な困難から、50銭から

2円に値上げを要求してきた。

そうしなければ、この契約は無効として破棄するという

脅かしである。

私はその不法に驚いて、あくまでも争うと、三井の

顧問弁護士 原 壽道さんに相談した。

 

ところが、原博士のいわく

“この契約は決して無効にはならない。立派にこちらの

言い分が通せる。

しかし、考えてもみたまえ。

相手は君の方の事業と最も密接な関係のある樺太庁だよ。

この役所と喧嘩してしまって、スムースな商売ができる

と思うのかね。

向こうは樺太の王様、こちらは商売人、法律で勝っても、

ほかのことで仇を取られたら何にもならない。

ここは涙を呑んで、負けるが勝ち、負けるが勝ち“


さすがは、その方は大家だけあって、下手な弁護士だったら、

ここで気張るところを、法律で負けて、商売で勝てと

あべこべに諭されてしまった。

 

原さんも、一旦、棄てて、拾いかえすことをご存じで

あった。“

結局 藤原氏が新契約に従うことによって、その後

毎年毎年、値上げを攻められてもそれだけ、生産方法での

改善と工夫を続けて、結局は樺太庁との共存共栄で

利益を上げた。


ここで藤原氏は言う。

“何によらず、一歩を退いて、さらに改めての踏み出しには、

多くの誤りがないようである。“

 

エピソード2)

福沢翁いわく

“元来人間の心は広大無辺にして、よく物外に超然たり。

よく理屈の外に悠然たるを得べきなり。“

 

藤原氏のコメントが以下に続く:

“心を広くもって生きよ。

人生は戯れと観じて、その戯れを本気で努めよとは、

すでに、私も先生の言葉として紹介したところであるが、

なかなかそうはお互いにいかないのも、人間は物に捉われ 

心をそれに縛り付けられてしまうからである。


儲かれば喜び、損をすれば、落胆する。

景気が良ければ ニコニコし、景気が悪くなれば

しかめ面にもなる。

これは人情として、ヤムを得ないことである。

 

しかし好景気に有頂天になるのも、不景気にしょげかえる

のも、つまりは物に捉われているからであって、物外に

心をあそばせる余裕を失っているからである。


そういうことでは、景気に引きずられるばかりで、

景気に善処することはできない。

良い智慧も分別もなかなか出てこない。

 

私の商売とお茶の師匠さんであった、益田孝さんは、

商売の神様のように商売に上手で、しかも、儲かっても、

儲からなくても、景気が良くても悪くても、決して

商売にとらわれて、立ち騒ぐようなことが無かった

人である。

 

三井物産時代の話で、

われわれは益田さんの決議を仰ぐため、

たびたびお宅へ伺った。 


この忙しいのに 家へ引っ込んでいて、悠長にお茶なぞ

とは何事だと、半ば腹立ちまぎれで乗り込んだものであるが

“急くな、騒ぐな、商売というものは・・・”

と、あべこべにミイラ取りがミイラにさせられてしまって、

すっかり、のぼせ上がっていた商売のことも客観的に

見直す場合があった。


そんな時は、いつもハタとひざを打つ手落ちの発見や 

より以上の良い思いつきも浮かんできたものだ。

 

“チエの益田”といわれた益田さんの智慧も、

やはり、商売に熱中していて生まれてきたのではない。

物 外に悠然足り、忙中に閑然なりという余裕をもって、

ここに初めてわいてくる智慧だったらしい。

 

し、これもただ、形だけをまねたのではいけない。

生臭坊主が一休の外面だけをまねたのでは、はなはだ

危険である。

益田さんの“急くな、騒ぐな”も 増田さんだけの打つ手を

すべて打っておいての、その上の “急くな、騒ぐな”

であったことをよくよく承知しなければならない。“


打つ手をすべて打っておいて~というのは危険を避ける

ためにその対策を講じることの大切さとつながるだろう。

 ”私の実相は神であるのなら、何も危害はないから、

超然としています“

と言う人がいるが、転ばぬ先の杖 という諺もある。


確かに、万全の注意をして、身を守るという努力も

必要な時があるし、戸締りをしないで開けっ放しで

外出して泥棒の被害にあったからといって、

誰も責めることはできないのと同じだ。

 

私たちの実相にはすべてが具わっている。

それは表面だけの言葉だけの字面の意味で終わらせては

藤原氏のいう、“生臭坊主が一休の外面をまねる”

ことと大差ないだろう。

 

その実相を顕現するためには、それなりの

日頃の心がけというのもやはりあるのだろう。


*******************

 福沢諭吉 [1835~1901] 啓蒙思想家・教育家。大坂の生まれ。

豊前(ぶぜん)中津藩士。大坂で蘭学緒方洪庵に学び、

江戸に蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設、

のち、独学で英学を勉強。三度幕府遣外使節に随行して

欧米を視察。維新後、新政府の招きに応ぜず、

育と啓蒙活動に専念。

明六社を設立、「時事新報」を創刊。

著「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「福翁自伝」など

 

藤原銀次郎 [1869~1960]実業家・政治家。長野の生まれ。

王子製紙を再建。藤原工業大学(現在の慶応大学理工学部)を

私費で創設。

第二次大戦中、商工・軍需相などを歴任。

 

益田 孝(たかし)  [1848~1938] 実業家。新潟の生まれ。

号、鈍翁。 大蔵省造幣権頭を経て三井物産に転じ、

三井財閥発展の基礎を築いた。

美術品の収集家としても知られる。

 

参考: 

”福沢先生の言葉” 藤原銀次郎 実業之日本社発光、 昭和30年

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心の仕訳~アハンカーラ(エゴ)

2013年10月28日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

誰でもかかえる矛盾した弱さ  平成25年10月28日

***********************************                     

ある人が聖者に尋ねます。

“わたし達は感覚器官のおかげで見たり聞いたり話したり

しています。

死人にもそれらの器官が具わっているのにどうして、見たり

聞いたり話したりできないのですか?“

すると、聖人は答えます。

“それは感覚器官を活気づける力がそこにないからです。”

 

身体は懐中電灯のようだといいます。

目は電球で、理性はスイッチ、電池は私たちの血液のように

エネルギーを運ぶもの。

しかし、血球があっても、それに生命がなければ、

感覚器官は動くことができないし、

身体の分解を繋ぎとめる こともできないでしょう

すると さらに、この人は質問をしました。

 

“そうです!大生命こそ、神です。

しかし、私たちはこの世界を実質が幻影であるにも

かかわらず、実在するかのように、知覚して、多くの

物質を享受して、執着しています。


それらは迷妄であると聖者たちは説きますが、

どのようにしてその迷妄を知り、断ち切ることが

できるでしょうか?“


すると、聖者は

“現象世界が’実在か 非実在’か、という問題は

世間に任せておくがよい。

まずあなた自身が実在か非実在か実相か非実相

かどうか それを探りなさい。“

と答えました。


つまり、他者や現象世界を知る前に ”自分を知ること”

そして、そのために、必要なのは、自分自身の本性が

何か知ること、そう聖者は 答えました。 

そのうえで、自分自身を変えること、が次の目標、になる

わけです。

 

それがなかなか、できないのは、私たちの心の弱さであり、

どうして、”そうなるの?”が今日のテーマです。

 

私たちの心は弱い道具であるという言い方を

サンスクリット語では カラナ・アバータヴァム”言います。

そのサンプルケースを聖者は次のようにあげます・・・。

 

デリー郊外の村に富んだ農夫が住んでいました。

村長として村人を指導していました。


ある日、この村長と小作農の村人の牛たちが草原で

草を食べていました。すると、この牛たちの間で

喧嘩が始まり、一頭が死んでしまいます。

れは 村長の牛でした。


小作農は驚き、その事実を村長に 慌てて、報告に

行きました。

そして、慌てていたあまり、言葉の主語と目的語を

取り違えてしまったのです。

“たいへんです、村長。あなたの雄牛と私の雄牛が喧嘩して、

あなたの牛が私の牛を殺しました。  

                     

すると、富んだ村長は、冷静に この知らせを受け止め

次のように言いました:

“知能のある人間同志が殺し合う世の中、

自分の雄牛が あなたの雄牛を殺したのは不思議ではない。

すべての動物は 知性を持っていないのだから

何かの事故だと考えて欲しい“


その間、この農夫は自分の言い間違いに気がついて

再び、慌てて 言い直しました。


“村長、申し訳ないです。私は 言い間違えました。

実は、あなたの雄牛を殺したのは 私の雄牛でした。“

 

(これを聞いて、冷静だった、村長がどのような

反応をしたが想像できるでしょうか?)


村長はそれを聞いているうちに形相が変わり

怒りで我を忘れました。

彼は それまでと打って変った、強い調子で 農夫を

責めたて、その上に多額の弁償金まで要求したのでした。

 

この話が カラナ・アパータヴァム(弱い心のからくり

の 一例です。

村長の弱い心は 私たち誰にでも潜んでいます。


その弱さが、

自分の感情を、状況によって一転させ、主張がひっくり返り

首尾一貫しないという結果をつくるのです。


この心の弱いからくりを最大限に保守するために

私たちの心には  ブッディ が与えられています

 

ブッディは、”内部の声” ともいわれ、啓示を与えてくれる

心に備わった”智慧の声”でもあります。


良心 とも言い換えられるでしょう。心の仕訳をして

みたいと思います。

心(こころ) と私たちは何気なく 使っている言葉ですが、

何層にも分かれています。

 

ブッディ と区別するために、感情に揺れる心マナス 

サンスクリット語でいいます。

 

マナスの波動より ブッディ は 精妙な波動を

持っています。

だから、人は本音と建て前を使い分け社会生活

送れるのです。

感情をおもむろに出さず、ブッディ(知恵・理性)で

抑えることを知っています。

  

知性=ブッディ より、精妙な心の層は、ブッディ

覆い隠します。

その心の層は、私たちの 小我エゴ意識、アハムカーラ

です。

とても精妙な波動ですから、良心をも覆い尽くすことが

できます

 いつのまにか、エゴ意識は、私たちの あらゆる行為や

想念に滲透します

それが、”私”、”私の” という意識の正体でもあります。

 

アートマ という私たちの実相や大生命力を なかなか、

認識して、悟ることができないのは、この 小我意識

つまり、アハンカーラ が私たちの心を覆っているから

言われます。

 

アートマに もっとも近いアハムカーラの波動は精妙です                      

次に、心の中のブッディを分解してみましょう。

ブッディ は、鳥 に喩えられます。

ブッディ~智慧 を上手に使うと 自分の本体=アートマ 

を知り、そこへ飛翔することができます。


心を、高次元に、飛翔させてくれるから、 鳥 に

喩えられています。

その 智慧のトリのにあたるものが、信仰と信念

右翼にあたるものが、想念と言葉と行為の調和と統一

左翼にあたるものが、自分の言葉を行動に移し、その行動を

ありのままに、言葉で言い表す能力です。

 

胴体は 真理を支える原理を理解する心、具体的にいえば、

”我は神なり” という真理を体験させるための 智慧 

となります。

 

この智慧は、現象界の知恵とは大いに異なり、世間的な

才能や知性、賢さとは全く次元を異にするものとして

位置づけられます。

そして、 は、両翼のバランスを取るための

心と感覚の統御役をします。

 

信仰と信念というのは 頭に喩えられています。

信念がなければ意思が生まれないから 頭に位置して

全体をコントロールしているわけです。

英語の、Spirit は 精神ですが 

R を L に変えて、Split と綴ると、 裂く と

言う意味に変化します。

同様に、この鳥の頭、 信念と信仰 を維持すると

高い統一された、精神 になり、

それを 裂こうとすると 精神の分裂 になります。

精神の分裂は、物質文明によってもたらされる

唯物的考え方に発展していきます

 

頭に象徴される信仰・信念が、大切な理由は、意思が

堅固になって不動心になり、不動心で飛翔していけば、

鳥の身体に象徴されるそれぞれの智慧の徳をもってして、

アートマ(生命の実相、真の我)へと 心(人生)全体を 

向かわせ、昇華させてくれるからです。

 

 意識, コスモス, 神様, 宇宙, 現実, 仮想現実, 精神的です, 夢, 精神

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:”医師へのお任せ主義”への近藤医師の進言

2013年10月26日 | ワクチンと健康

 慶応大学病院近藤医師の語る免疫療法・ワクチン療法の神話    

平成25年10月26日

****************************************

 

免疫力という言葉が良く使われる。大学病院では 

免疫細胞療法’が行われ、免疫力を強化することが、

癌を防ぐ条件にもなっているようだ。

近藤医師はその著の中で、免疫療法=詐欺師という、書き出しで

以下のように見解を述べている。

                        

欧米の医学界では

がんに対して、免疫力を強化しても無意味だ。効果無し。’

というのは常識です。

免疫細胞療法は,見向きもされないどころか、免疫と

名前のつく療法で患者を集める医者は詐欺師扱い

にされます。


なぜなら、免疫細胞は外から入ってきた異物を敵と

認識してたたくのですが、癌は自己細胞が変異した

ものです。”(引用以上)

 

と述べ、人間の持つ免疫システムが、癌細胞を敵とみなさない

ところに、癌の発生する理由があるとしている。

 

だから、免疫を強化するという意味合いが癌に関しては

成り立たないというのだ。

 

私たちの体には約2万3千個の遺伝子を持つ細胞がある

という。

その中で、複数の遺伝子の突然変異によって、癌化された

ものを癌細胞と呼び、その病巣には、直径1mmに育った

時点で約100万個の癌細胞を持っているという。


癌と診断されたらホットケ療法を主張する近藤医師の

その理由がここにある。


”本物の癌なら、それ以前に血液にのって、あちこちに

移転している。”

と近藤医師が言う理由は、ガン細胞1mmになる前、

たとえば、0、1mmでも”移転”する能力があるほど

癌細胞は強力だからだという

 

それが、医師の提唱している、癌のホットケ療法 

一番の大きな理由でもある。

近藤医師が言うように、”がんは当初から、移転する能力

がある。


癌が大きくなってから移転するという説は間違い”

という説は、最近の分子生物学の研究からも判明して

いるようだ。

世間でいうところの ”早期発見” は癌の一生の中では

すでに熟年に差し掛かっている時期にあたるというのも、

その理由からだ。

 

早期発見と意味に近藤医師は疑問を次のように示す。

”今の医学ではどんあに、早期にがんを発見しても、

直径1センチ前後からその時すでに、癌細胞は最低でも

10億個に増えて、とっくに移転もし終えています。”


としたうえで、

 ”こうして、癌が10億個に増えている理由は免疫力が

云々という前にすでに、NK細胞が、癌細胞を敵として

見分けられなくなっているという証拠でもあるわけです。”

と免疫療法の矛盾点を指摘する。

 

現在、免疫細胞療法に 患者のがん組織を採取して、

大概で樹状細胞や 細胞障害性リンパ球と反応させたり、

癌細胞の構成タンパクの断片(ペプチド)と反応させて、

体内に戻す療法があるという。

 

それによって、樹状細胞や 細胞障害性リンパ球が

体内の癌細胞を、敵と認識、攻撃して減らすように

させるというのがその狙いであるが、近藤医師は

これらの療法も ”焼け石に水”としている。

 

追跡調査データでは”実際、胃癌手術をしなかった患者

の生存率の複数のデータでは、抗がん剤を使った人、

免疫療法やった人の5年先の生存率は どちらも

20%以下で低いのだが、

”治療を何もしなかった人のほうが、はるかに長生きで、

50%” と このデータによれば 何もしない人の生存率

のほうが、高率を示している

 

近藤医師は子宮頸がんワクチンの世間的常識に対しても 

次のように述べている


”最近、子宮頸がんワクチンと称し、バビローマ・ウィルス

予防ワクチンの接種が、小中学生の女子たちにも強く

すすめられています。

これもがんの予防には無意味です。

子宮頸がんの原因は、性行為で感染する、

ヒト・バビローマウイルス。 


このウイルスは子宮頚部の上皮を増殖させ、イボを生み、

粘膜も増殖させて、がんとまぎらわしい病変

つくります。

これはDNAの異常ではなく、感染が原因の、単なる、

上皮細胞の慢性変化、慢性感染症です。”

 

実際、近藤医師が何人かの、子宮頸がん患者に対し、

治療せずに、放っておき 様子を診ていると、ゼロ期

と思われた数人の病変は自然に消えたとしている。

 

近藤医師は言う:

”国が診察をしきる、スウェーデンの統計などを見ると、

子宮がん検診で発見されたゼロ期のがんは 99%が 

モドキ です。” 

 

したがって、ワクチンによって、本物の子宮頸がんを

防いだという実証例は一つもないばかりか、副作用の

不安のほうが強いと 著書に記している。

 

”子宮頸がんワクチンは、肩近くの筋肉に注射するので

痛みが強く、失神・意識消失・発熱・頭痛などの訴えが

続出しています”副作用について述べている。

 

さらに、癌のみならず、予防接種と称して、ワクチンは 

赤ん坊の時から、ほとんど義務付けられて打つべきものだ

という常識がある。


は、自分の息子の 幼年時代に、ワクチンは施すことを

やめた。

その理由は、ワクチンによって強烈な副作用が、種痘ワクチン

接種後、息子にみられたからだった。

 

種痘を摂取させたあと、高熱が出て近くの町医者に行くと、

川崎病 の疑い有りと言われ大病院の紹介状が出された。

しかし、私は、どうにか、自宅で自然治癒力セラピーを

姑の応援を受けて施術することで 難を逃れた。

 

それ以来、幼い息子には、予防注射は受けさせなかった。


無謀のようで、人様にお勧めできるような話でないと

思っていたが、あれから30年近くたって、専門家から、

さまざまな”ワクチンの効用疑問性”が指摘されるとは、

当時は想像だにしていなかった。

 

近藤医師は 予防接種ワクチン効果についても、

以下のように記している

”インフルエンザ、はしか、日本脳炎、なども含む

すべての予防ワクチンには、脳症や急死を含む、

重い副作用のリスクが伴います。”

 

近藤医師は これらのことを踏まえた上で

”医師の説明をうのみにしないという心構えと、

”セコンドオピニオン、場合によってはサードオピニオン”

を求める”慎重さを薦めている。

 

もし、入院後でも、”しまったと思ったら、転院する権利

があります”

として”病院は、うかうかしていると命をとられます。

決してお任せにしないことです。”

と、患者の、”お任せします”態度に対して、要注意と、

進言している。

 

この近藤医師の言葉を読みながら、命は 薬任せ、

医者まかせではなく、自分で守るもの~とつくづく 思う。

 

 

 

参考文献) ”医者に殺されない47の心得” 近藤誠著 2013、 株)アスコム

 

 

 

 

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内なる自分と繋がった時・・・・

2013年10月24日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

神秘体験再考   平成25年10月24日

******************************

 

 トンネル, 床, 暗い, ランプ, 光, 照明, 暗闇の中, ブラック, ホール

 

内なる自分と繋がったときにそれとわかる 指標は

あるのだろうか?

ジェームズ氏によると、

・”与え合うことの重要性”を知っているかどうか~

・”直観”に信頼がおけるか

・”偶然の一致”が意識して起こり始めているか?

・共時性のプロセスへの理解

などを挙げている。

 

最初の*与えあうことの重要性については、ジェームズ氏は、

”与えることと受け取ることの間には 宇宙的法則がある。

蒔いた種は刈らねばならないという聖書の言葉や

カルマの法則に見られるように、自分の行いや想いは,善いこと

も悪いことも必ず、自分に返ってくる。

・・略・・

すべては偶然でないことの気づき、生長しようとする

人々がお互いに与え合う。

そうすることで、新しい世界が生まれる。”

と記している。

 

*直観 に関しては,

直観とは、将来起こる出来事のイメージであり、科学的にも、

人間の能力であると証明された超能力である。 

自分に関することもあれば、他人に関することである場合もある。

ほとんど常に、このイメージは肯定的で、生長のためになる

性質のものだ。

 

反対に、否定的であるものである場合は、事故が起きそうとか、

行ってはいけないような場所など、と感じるものだが、それは、

コントロールドラマ(自分の思い込み)から発した恐怖心に

すぎないか、本当に直観的な警告なのか、見極めなければ

ならない。”としている。       

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*”偶然の一致”と”共時性については重なり合っているので

厳密な境界線は難しい。

 

たとえば、関心ある、講演会に出かけたとする。

そして、講師 にとても興味を覚えたとする。

もっと話を聞きたい。すると、夕食を食べに行ったレストランの

隣のテーブルで 講師が一人で食事をしている。

これは、偶然の一致でもあるし、共時性ともいえる。

 

”その人物と もっと、話したい”という願いが 叶ったの

かもしれない。

 

共時性を高めるためには直観も必要である。

その講演会に行く方が良いだろうというのは ほとんど直観、

もしくはふとした思いつきで決められたのだから。

仕事で行く以外は別として、自由行動では、自分の意思と感情が

それを決めるが、最終的には 直観だ。

”~したほうがいいだろう”

”~は今しないと、後では遅すぎるだろう”

とか感情想念でいろいろ思っても、いざ、足を前に出してみよう

としても、運ばないときがある。

 

”やっぱり、やめよう”

あるいは、計画がなくても、フト感じて”行こう”になるかもしれない。

この ”フト” が肝心で、直観が作用する。

 

”自分の想いに良く注意していると、何をなすべきか

どこに行けばよいか、直観を受け取るようになる。

それは最初は曖昧でわかりにくいかもしれない。

しかし、将来、起こりうる出来事に関する予感でもある。”

とジェームズ氏は語る。

 

講演会の場合、直観で、すでに、行くということは決定

されていた。

そして、講演会に行って、偶然的な出会いをし、

共時性体験を可能にする。

必然の偶然であることがわかれば、講演者と個人的な話を

したい願望が 夕食で立ち寄ったレストランで可能になるかも

しれないわけだ。


さらにジェームズ・レッドフィールド氏は内なる自分と

繋がった指標の一つとして、”輝きを増す”ことを挙げている。

*”輝きを増す”というのは、特定の場所や物が、

”特に 目だったり注意を引いたりする現象” のごとく、

輝いて見える のだ。


ジェームズ氏は、この体験を重ねると、旅の途中で

どちらの方角に行くか迷ったとき、方角を決めることに

応用できると言っている。

 

そのルートが魅力的に見える、それだけでその感覚を

信じていくと、強力なエネルギーで自分をひきつけて

いることも感じられるという。

それは、大自然の中で 自分のニーズにかなった行動に

適応できる方法だと付け加えている。


そこに行くことで人はパワーを感じ、瞑想したり

神秘体験(自分の内なるパワーとつながる)をすることが

できると自らの体験をもって、ジェームズ氏は述べる。

 

このようにして真の自己を知り、結びついて、変容が

もたらされる。

最後に、こうして結びつくとどんな自分の意識変化があるのか

氏の著書から抜粋してみる。

 

大いなる自己の意識レベルには否定的な出来事はない

もし 否定的に見える物事があっても、それは 挑戦を

意味している。

 

善悪の状況の中には、必ず、生長のチャンス があるのだ。

私たちが成長する上での危機や行き詰まりは

それまでとは、別の方向に行きなさいというメッセージに

過ぎないと考えられるようになる。

大いなる自己は その試練の中に新しい計画が

芽生えているのを知っているのだ。”

 

こうして内なる自分とつながったときに神秘体験を

人は経験するかもしれない。

 

アートマセラピーのことで恐縮だが、

セラピーが終わると、ほとんどの方が”ああ、体が軽い

いわれる。 

”なんだか体の重さがあまり、感じられない。

このまま、どこまでも走っていけそう”

とか、

”終わった後は、重力があまり感じられない。

階段を下りていてもフワフワした感じだった”

とか言いながら、帰って行かれる。

 神秘体験の一つの表現が”軽くなる感覚”といえそうだ。

内側からあふれるエネルギーを感じ、

筋肉の緊張やストレスがほぐれていく体感でもある。

手足を動かすと、そのエネルギーが

体の中心から伝わるために

動作所作が軽くなったようにも思えるだろう。

 

 フェルナンド, の, ノロニャ, 3 月, 島, パーフェクト, ボート, 風景

 

先日の超常体験の中でもふれたように、

神秘体験は 運動、たとえば、ゴルフや武術の動きからも

感じることができるかもしれない。

それは、人間が自らの”内なる存在の源とつながった”

という 何らかの自覚を感じられた時でもある。

 神秘体験を待つまでもなく 日常の生活の中で

自分自身の源と離れないよう、生活する術を

レッドフィールド氏は紹介している。

”朝、ベッドから起きたときに 指標を想いだす。 

私たちはそうすることで神秘体験に近づくことができるだろう。”


標や指標 というのは、自分の本質が

愛と供給と喜びの存在であるということを、魂から心に語りかけ、

思い出させる

ことである。

 

”今日一日、私は、誰にも 不快な思いを与えない。

私の本質である、愛 を与え、相手に安らぎを

与えることが私の本来の喜びだからだ。”

というような 積極的な言葉がけを行う。

 

或いは、

ソーハム呼吸ブログ10月2日 ハヌマン神と孫悟空:

ソーハム呼吸の極意 参考

をする方法もあるだろう。

 

自分の本質に繋がる、ぶれないでいるためには

潜在意識に 畳み込んで真実を植え付けることを

短いひと時でも、毎日、練習していく方法が一番だ。

寝る前のほうが、心理学的に効果的だという説もある。

ならば、寝る前と起き掛けに行えば一層効果は倍増

するだろう。

愛がある限り、私たちは 内なるエネルギーと繋がれる。

誰がどうだ、こうだ という前に、自分自身が自分の本質

と繋がっているかどうかを内省する機会になるかもしれない。

 

究極の”平和の心持”とは そこに行きつくことだろう。

一人ひとりが 各自そのような指標を毎日の日課として

行えば、仮面劇や弱肉強食の定理が必要でなくなり、

個人の意識変革のみならず、自分の周囲にその輪が広がり、

家庭から社会への変容が試みられるのでは

ないだろうか・・・

 天使, 守護天使, 心, バレンタインデー, 愛, かわいい, 波, 面白い

 

参考:

ジェームズ・レッドフィールド 

”聖なる予言” 角川文庫ソフィア、1996

 ”第十の予言” 角川文庫ソフィア、1997                         

”聖なる予言 実践ガイド” 角川書店、 1995

 

 

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科学の限界と医学の限界

2013年10月22日 | 健康のための心の波動

免疫作用を阻む”歪み”とは?   平成25年10月22日

***************************************************

 

内田医師の場合、ご自身が多くの疾病で次から次へと、

病気に襲われ苦しんだ。

著書によれば,扁桃腺炎、慢性盲腸炎、痔の痛み、

萎黄病(いおうびょう),先天性肺動脈弁・弁膜症肝炎、

子宮内爆炎、関節炎、心不全、等々の疾病を抱えて

療養途中、勤務先である医局を 辞職までした。

 

次々にこうした病の治療を余儀なくされた、体験をもとに

内田医師は身をもって、薬や手術の副作用を知る。

近藤医師は、胃癌は、切り取る手術せず、温存療法を

すすめている。

その理由は、術後の生体機能が弱まるのを多く見て

こられたからだ。

 

リンパを含めて 癌の部位とともに、摘出してしまうと

体は弱る。 

術後の副作用が尋常でないことを、内田医師自身も 

体験している。

 

”扁桃腺炎で、摘出したのちも、扁桃腺炎の原因が除かれて

いないために、今までは、扁桃リンパ腺に限局されていた

炎症が、周囲に広がり、咽喉全体から口腔内にまで腫れ、

首から肩へかけて板を張ったような筋肉の懲りに 長い間、

悩まされ、細菌感染防御の役目をしているリンパ腺を

成人になって、摘出することは間違いであることを、

わが身を持って納得できました。

                                   

盲腸の手術や、肛門全周にわたる、内痔核の手術後は、治って

縮んだため、便が細く、痔の痛みも依然としてなくなりません

でした。”

 

内田医師は、生命の不可思議な働きも 同時に知る。

 

”肝炎で障害を受けた肝臓細胞は、修復や再生が難しく、

慢性肝炎は肝硬変に移行することが多い” 

と専門医学校で教えられた内藤医師は、自分の 肝臓機能

検数値が次第に悪化してくるにつれ、悲観的になったという。

体力もおち、学位の研究も中断した。

                           

その時、担当教授から、

”人智を超えた内臓の巧妙な働き” が生体には備わっている

という自信に満ちた励ましを聞き、内藤医師は、深い感銘を

受けたという。

 

”病気が悪化すれば、必ず、死へつながるものだと思い込んで

いた 恐怖心から何となく救われるような思いがしました” 

と記している。

 

”医学だけではなく、その道の達人、専門家といわれるような

人は、人間知を超えた、何か偉大な自然の力直観していられる

のではないだろうか、とその頃の私にもおぼろげながら感じた

ものです。”

 

内藤医師が 次に、敗血症になったときは、発熱の効用自ら

体験する。

 

”私が敗血症になったときも、発熱について自ら貴重な体験を

しました。

40度の高熱が続き、往診の医師が毎回解熱剤の、注射をされま

したが、注射のたびに多量の汗とともに35度まで下がりますが、

間もなく悪寒戦慄の後に40度に上がるといった繰り返しの内に、

ついにショック状態となって、緊急入院になりました。

 

この時、院長先生の声が意識モウロウとなっていた私に強く

聞こえたのです。


’熱は出しっぱなしにするのが良いのだ。解熱剤で一時は

下がっても原病が治っていないからまた上がる。

そのために心臓衰弱を強めるばかりである。熱型をくずすな!’

 と、どなっていられたのです。


このような発熱の考え方を体得した私は其の後の受け持ち

患者さんに応用して、全例好結果を得ていますので、発熱は

生体の不可思議な、自然治癒力の大切な要素であると確信し、

断言できるのであります。”

 

自然治癒力の一つ、免疫力についても内田医師は次のように

言及している。

 

”細菌やウイルス、カビなどは、自然界に存在しているもの

あり、たとえ、感染しても健康体には、殺菌作用’があるので、

発病せず、しかもその菌に対する免疫ができるというような

不可思議な生理作用が働いているのです。”

 

ですから、感染し発病するためには、これらの生理機能

停滞し、菌を受け入れ増殖させるに適当な生体側の歪み 

がなければならないはずです。”

 

その生体の歪み とは何なのだろう?

”癌の問題にしても同様のことが言えるのではないでしょうか?”

と内田医師は問うている。

 

つまり、癌細胞に変化する際、何等かの原因があるから、

あるいは何らかの歪みや障害を生体がもっているから、

増殖を許すということ・・・

 

その真の歪みの原因は、まだ、明確ではない。

学者や医師たちは簡単に”免疫異常”説を説いても、

根本的要因にまで触れ得ることはない。

 

根本的要因とは、元来、正常に営まれている生体の免疫力が 

何を持ってして異常になるかということだ。

病気になるには、免疫異常を起こす それ以前の根本的要因

があるはずだ。

内田医師は、研究の段階ではその根本的要因を探るより

現象面の研究に終わってしまっているという。

 

”世界中の学者が現在、癌の免疫学的・生化学的研究

取り組んでいるのですが、肉体医学の研究はあくまで、

現象面に現れた事に対して、つまり、結果に対する研究

になっているのです。”

 

内田医師の生化学的研究の方向性が確信の原因をつかむまで

至らないという話はアポロ宇宙飛行士、第4期生ギブスンの

言葉と その理論上、重なる。

 

ギブスンは言う。

科学にできること は、さまざまの事象が、いかにして

生起するか説明することだけだ。

そして、説明というのは、実はある’レベルの無知’を別の

レベルの無知に 置き換えることでしかない。

 

その先は、まだ、誰も、説明できない。現代物理学は 

この意味では、無知なのだ。

根源的な “なぜ?” という問いかけを、いかにして?”

に置き換えて、説明をひねり出してきた。

 

根源的 な なぜ?”、存在論的 な ”なぜ?“に科学は

答えることができない。”

科学は、エネルギーなどというものが、なぜ存在するよう

になったのか?物質とはそもそも何なのか?

こういった、問いに 何一つ答えられない。

 

科学にできることは、ただ、物事をよりよく定義すること

だけと言ってよいのではないか? 

科学の根本的限界はここにある。”(*1)

 

このギブスンの言葉の中で、”科学” というところを

”肉体医学科学的研究” にエネルギー”を”癌細胞”に、

物質”を”肉体”に、置き換えると、こうなる。

 

”医学は癌細胞がなぜ、存在するようになったのか?

肉体とはそもそも何なのか?こういった問に何一つ

答えられない。

医学にできることは、ただ、病気をよりよく定義すること、

医学の根本的限界はここにある。”

 

さて、内田医師は ”生体の歪み”を造りだしている原因の

未知の領域に関して、次のように、述べる。

 

”肉体と精神との相関関係を考えますと、生きている人間

の新陳代謝には精神作用が影響していることは無視できない

と思います。


我々は、どのような最近やウイルスが侵入しても健全な

生理作用さえ営んでいれば、これを防御する作用が,

人間の体にすでに備わっているのですから、常に

生体の自浄作用が完全に営めるようにこれを主導する

精神面、つまり 心の持ち方を健全にすること、

大切であると考え、この方面の研究が

今後発展することを願ってやみません。”

 

現代では心療内科の研究も進み、心身一如の医学論は、

一般的に受け入れられ 定着してきた感がある。

心の持ち方~と内田医師は述べている。心の持ち方を健全に

すること。

それは、常に希望を持って、良い方向にすべては進んできたし 

進んでいるし、これからも進むほかないと確信もてる状態

もあるのだろう。

 

 

参考: 

1”宇宙からの帰還”  立花 隆 著 中央公論社1994年版

2”生命医療を求めて”   

心とからだの不思議なしくみ” 内科医 内田久子著 

平成7年日本教文社発行

 

 

 

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