自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

"病は気から"を振動数から再思考

2014年01月30日 | 健康のための心の波動

”食は医なり”の関連 2014・1・30

****************************

 癌などの増殖の速さは、一般的に良く知られている。

私たちの体の臓器は細胞から、細胞は分子から、

細微単位でいえば素粒子からできているといえる。


その振動が正常であるから、臓器が機能しているのだが

癌のような素粒子の乱れた波動が力を増すことで

本来の振動数が変わってしまうと言われる。


素粒子の波動の乱れは、細胞の波動の乱れとなり、臓器が正しく

働かなくなり、自覚症状が現れる。


痛みだったり、かったるさだったり、それぞれだがその症状にも 

波形があることがわかった。

 

江本勝氏は著書でこう書いている:


”痛みには痛みの波形があります。

それを治すためには その痛みの異常な波を消す波動を、

送るしかありません。


何種類かのケミカルな成分や生薬とが合成された薬が 

その症状の持つ波形を消す働きがあるから、傷みが

消えるのです。”

 

としたうえで、頭痛にアスピリンが効くには、頭痛時の

異常に増える山や谷の波動に対して、山には谷の波動

谷には山の波動を合わせる効果を持つ薬品を投与すれば

効果があがるという。


それが、いわゆる、アスピリンの効果で、痛みの波動に、

プラスとマイナス同等を加えることで、ゼロにするから、

痛みが消えるというのだ。


その実証のほどは、本の中では検証されていないようだが、

理論としては一理ある気がする。


さて、次の実例は興味深い。


想念がエネルギーであるということは、すべての物質から

発する ”想念”(その物質らしさを形作る本質的エネルギー)

が、他の物質に影響を与えるという実例だ。


 具体的に言えば、鉛が水道管を通して、心身にもたらす影響が

挙げられている。

 

ある家の、水道局の公的機関による、水質検査では その水には

何らの異常もなく、飲料水として適している”印をもらっている。


これは、検査の水の分子レベルでは 鉛は含まれていないと

いう証明だ。

ところが、江本氏によれば、素粒子(波動)レベルでは、

水道管の鉛の影響はデータには表されないが、影響力は

確実にあるという。


その影響力は、人体にとっても細胞の素粒子レベルで

悪影響を与えるほど、検出限界は超えている場合があるという。

 

具体的にそのお話を、著書から引用する:


”(友人の娘さんの髪の毛を)波動測定器で調べてみました。 

その結果

① 脳全体の共鳴値が異常に低い

② 体全体にわたって異常共鳴値が見られた

③ それらの原因と思われるものとして 鉛毒素

が脳および体全体に見受けられる知人はその分析を

聞いた後に、初めてその女性の情報を、私に明かしました。

 

それによると、彼女は10年間にわたってある大学病院

の精神科に通院。

入退院を繰り返してきたそうです。

何度も精密検査を受けても、一向にその原因も判明して

いないのだそうです”(引用終り)

 

この結果は 娘さんの家族に知らされ、家族は 自宅の

水道管がまだ、鉛管であることに思い当たった。

もし、それが何等かの関連性があるとしたら、体の鉛の

含有値は家族にもみられるはずだ。


そこで、家族と本人の体を波動測定器で計測すると(以下引用)

 

”御嬢さんの体からは、髪の毛による検査と同様に、

強い鉛の毒素が検出されました。


その割合は 12/21、分母が21は波動測定器の値です。

ということは、12/21は五割を超えているわけで、

かなり高い数値です。


御両親の場合は、9/21でした。

問題は水道水でした。

こちらを分析したところ、19/21という強烈な鉛毒素が

反応したのです”(引用終り

 

江本氏は その波動を打ち消す波動を水に与えて 波動水を造り

それを飲み続けてもらうことにした。


その結果、2か月後には 御嬢さんの鉛毒素の数値は2/21まで

減少したという。

 

この家庭の鉛の水道管を通って出る飲料水を。公的機関に

チェックしてもらっても”飲料可”の結果となった。


そこで江本氏は次のように結論づけている。(以下引用)


”水はたとえ直接的に毒を吸収しなくても、人体にとって

有害な毒を波動という形で吸収したのです。

いわば、毒の情報をとりいれてしまいました。


鉛毒素の情報が入った水を、飲み続けたせいで、御嬢さんは

体内の振動を狂わせてしまいました。

そのために原因不明の心の病に、苦しめられ続けたのでした。”

(以上引用)

 

毒の情報、という意味は 先回の拙ブログの、水の結晶の

ところで書いたように、言霊(エネルギー)レベル情報を、

水はキャッチする”という裏付け実験と同様、鉛の発する

毒素のエネルギーを、水が吸収したと考えられる。


こうした、想念レベルの情報を 江本氏は 

素粒子レベルの情報とも呼んでいる。

 

例えば、食は医なり という言葉。

これは、食事療法を行う場合のみにあてはまるのでない。


食材そのものも 細胞、分子、素粒子と細微レベル

でのエネルギーの振動で成り立っているとしたら、

良質のエネルギーの摂取こそ、

私たちの心と体を、健康に創り上げるということで

あるだろう。

 

改めて、自分の波動を高めるということは、こうした

周囲のすべてのものの波動とかかわっていること、

良い波動をキャッチして悪い波動に左右されないためにも

必要なことなのだと改めて思う。


こうしてエネルギーと波動、その互いに共鳴し合う

という事実を考えると、直接取り入れる食物の波動も、

大切であろう。


余談だが一言付け加えさせていただければ、インドでは、

大師は 食べ物の重要性について次のように教えている。


なぜ、食べ物が重要であるのかといえば 人間が

消化する食べ物によって心の根源の維持や発達を

促進すると 印度古代から続くヴェーダ哲学では

考えられているからだ。

 

食物の粗雑な部分、繊維や栄養外の物質は、排泄物

として体外に捨てられる。


もっとも微妙な部分(食物の生命体を構成している

エネルギー)は取り出され、われわれの心の形成に

使われる。 


清浄な水分の精妙な要素は、生命の中核に関与し、

これをサラーナマヤ・コーサと呼ぶ。

つまり、

① 心の中核=マノマヤ・コーサ 

② ブッディ(心)の中核=ヴィジナナマヤ・コーサ 

③至福の中核=アナンダマヤ・コーサ


という命の中核は水分と食物によって形づくられている。

 私たちが摂取する食べ物を心して純粋であるもの、

汚染されていないもの食品添加物や保存料を使っていない

もの、など気をつけてとらなければならない理由は

ここにある。” 

 

江本氏の述べる物質のもつ、素粒子レベルでのエネルギー

を考えるのなら、ここで大師が述べている 純粋な

食べものが体に良いという意味合いは、

少なからず、科学的な根拠をもって受け入れられかも

しれない

 

 

 

参考: ”水の真力”  江本勝著 講談社 2004年

 

 

 

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波動医学から見る”病は気から”の真実

2014年01月28日 | 健康のための心の波動

 おいしい水に変えるエネルギーの不思議さ   2014・1・28

******************************

 

引き続いて 江本氏の著書からご紹介したい。

波動医学についての話が今日のテーマ。


 小学生のころ音叉の実験をしたことがある。 

振動数の同じ音叉は、一つが音を出すと、共鳴して叩いて

いないのに、音を生じる。


私がシタールを弾くときも、共鳴音に関してはグルジー

(師匠)から、共鳴音をはっきり出すために、

シタールの絃の調音に 全神経を集中することを学んだ。


弦の張り方で 周波数が違ってしまうので、シタールの

共鳴音がきっちり振動するために微妙な調整が必要だった。

 

江本氏は 著書に共鳴音について、以下のように書いている;


同じ振動数であれば、共鳴するということは、音叉同士

でなくても立証できます。


440ヘルツの音叉、これはハ長調のラの音でもあります。

・・略・・

(人の声で)ラの音であれば 1オクターブ低い

(220ヘルツ)でも高いラ(880ヘルツ)でも、

440ヘルツの音叉は共鳴します。

 

このことから、人間も自由に波動を発し、ほかのもの

共鳴させることができることが解ります

・・・略・・・

総てのモノには 固有振動があります


ここでいう、モノ とは、物質を構成する分子、

分子を構成する原子、原子を構成する素粒子にいたるまで、

ありとあらゆるものを意味します。”(以上引用)

 

江本氏は モノレベルの波動の同調、の話から人間同士の 

文字通り

あの人と波動が合わないという、気の合わない人の例を

挙げている。


つまり、人間関係でも 素粒子レベルの波動の力が働いて、

お互いひきつけあったり、共鳴(共感)したりあるいは、

反発しあったりする関係がつくられると述べる。 


この考え方を ”病は気から” ということわざに当てはめると

どうなるだろう?


江本氏は 波動測定器なるものを開発された。

そして、数千人の波動を調べた結果、病を持っている人の波動に

共通性があることに気が付いたという。

 

その箇所を引用すると:

1995年に、100人の方を対象に波動チェックをしてみました。


彼らが一番強く持っている感情、ストレス、気苦労、プレッシャー、

いらだち、迷い、非常な恐怖など38項目を私が測定し、その感情が

体のどこの部位に共鳴しているのか調べて、まとめました。


たとえば、

ストレスを感じている人は、腸に問題を抱える傾向、

気苦労を感じている人は頸椎神経

苛立ちを感じている人は 自律神経特に、副交感神経

非情な恐怖を感じている人は 腎臓

配を感じている人は胃 

に問題があること多いようです。


明らかに、’病は気から’なのです。”

 

江本氏は そのほかにも感情と部位の波動関係を以下のように、

著書に発表している。

 

せっかち(早い、速い)~自立神経

怒り~肝臓

無気力~脊髄

短気~膵臓(糖尿病など)

寂しさ~脳の海馬 (老人性痴呆症に出る)

悲しみ~血液(白血病など)

怨み~皮膚


これらの感情は 現在の表層意識で起こるものだけを、

対象としているわけではない。


隠れた潜在意識に潜む、普段気が付かずにいる、

積み重ねられた過去の感情も含まれるだろう。

 

以前、拙ブログでもとりあげたブラシーボ効果も、

こうした心との関係がもとになっている。


同氏は、以下のように言及している。(以下引用)


 新薬の効果を調べるために、製薬会社は医師と

協力して臨床試験を行います。


古典的方法では、患者を二つのグループに分け、

一方の群には新薬を与え、もう一方の群には’新薬です’と

偽って(ビタミン剤など)飲んでもらいます。”引用以上)


その結果、偽の薬を飲んだ人達にも遜色なく、症状が改善

されているという結果が現れた。

これをブラシーボ効果という。


つまり、新薬を飲む、だから、きっと状況は改善されると 

患者がポジティヴに考えて 偽の薬を摂取すれば、

”病は気”から・・・のとおり、体は 患者が信じた度合いに

応じて、偽の薬にもかかわらず、症状が、良くなっていく

ということを示したものだ。


そこで江本氏は以下のような提言をする:(以下引用)

 

自分が感じている悪い感情の反意語を唱えましょう。


ストレスを感じている人なら、リラックス、

苛立ち なら 落ち着き とそれこそが、あなたの悪い波動を

なくすための元も基礎的な解決法なのです。


さらにそれを徹底させるために、その反意語(情報)

書いた紙を水に見せましょう。


そうしてその情報を水に与え、そのうえでその水を飲む様に

心がければ、それは立派な波動医学の実践です。”

 

話しが前後するが、先回ブログでとりあげた、水の結晶

造る際の 紙に書いた情報を水がキャッチするとは、

どういうことなのだろう?


それは二つの解釈が可能となるだろう。

 一つには、その言葉の言霊、波動エネルギーに 水が

共感するということ。


もう一つには その言葉を書いた人の想念にも

反応する可能性も考えられる。


感謝 と書くとき、”有り難い”という気持ちが、

無意識に書く人の心に喚起される。


その波動を少なからず 水がキャッチしていないとは

否めないだろう。

そうであるのなら、常に、容器に入れた水に”ありがとう”

と 言葉をかけても同様の結果がもたらされるのでは

ないかと思う。

 

知人は江本氏の提案を実行したところ、確かにアリガトウ水

は 無視された水 や バカ!と罵倒された水より、

美味であったと語った。

 

感謝と愛が一番の水の素粒子が喜びであり、この上ない

美しい結晶を作ることが証明された。


だとすれば、日頃から、意識的に 愛と感謝の心を持つ

ことによって、さらに、それを、言葉にだすことによって、

水のみならず、周囲の生きとし生けるものに 多大な

プラスの効果をもたらすことが、期待されて当然かも

しれない。

 

参考: ”水の真力”  江本勝著 講談社 2004年

 

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70%は水分・体にかけてみたい言葉

2014年01月26日 | 健康のための心の波動

感謝と愛の波動は水の結晶を変える   2014・1・26

*********************************************

水と人間の関わり合いは深い。

第一に私たちの体を構成している70%は水だ。


良質の水を摂取することに関心が高まり、水道水を

直接飲料水にするのは、よほど、恵まれた水質をもつ

地域だけかと思う。


少なくても、水道水でお茶をいれても、カルキ臭くて

いただけない。


良質の水というのは、何かというとまたこれも難しい

のだが、昨今は空も土壌も汚染されているから、

純粋な水というのは得難いのかもしれない。


かなり前に出版されて、話題になったので読んだ方も

多いと思うが、2003年に江本勝氏が”水の真力”

いう本を書かれている。


長年、水について研究してきた著者は ”人の意識が

水質を変える”ということを実験結果で導いた。


意識が波動であり 波動はエネルギーであるから、

そのエネルギーは水の粒子に影響を与え得るという

実証でもある。


どのような実験かというと、水を凍らせて結晶を作らせる

という方法だった。

 

”水は情報を記憶する”と、仮説をたてていた江本氏は、

雪の結晶がそれぞれ異なる形をしていることにヒント

得て、情報を与えながら結晶を作るという前代未聞の

実験に挑んだ。


 以下 氏の著書、プロローグから抜粋する:

”何度か撮影しているうちに、水道水では全く結晶は

できませんでした。

その一方で、自然水は(特に有名な名水といわれるもの

に限らず)結晶ができるのです。

・・・略・・・


次に私はある仮説をたてました。

’水がそれぞれ得た情報によって、その結晶は、異なる姿

を見せてくれるはずだ’


そこで、私は2本のガラスのビンに水を入れて、一方には

’ありがとう’ 

とワープロで書いた紙を水に向けて貼り付けました。


もう一本には ’バカ野郎’と書いた紙を。

中身はどちらも同じ水です。”

 

その結果できた結晶の写真が次ページに続いている。


’有難う’という想念エネルギーを感受した水の結晶は 

綺麗な6角形で、もう一方の罵倒する言葉の結晶は、

全く結晶として成立していない状況だった。


 同様、幸せ と言う情報を与えた水、不幸せ という

反対の情報を与えた水


”良くできたね”  ”駄目だよ”を比較すると、幸せの水は 

”美しくカットされたダイヤモンドを思わせる”結晶。


不幸せは ”くずれてしまったが、なんとか結晶を作ろうと、

がんばっているよう”にも見える姿の結晶。


”良くできたね” とホメた結晶は ”のびのびした悦び”。

”駄目だよ”いう想念を受け取った水の結晶は 

”ぽっかり心に穴があいたような”真ん中から崩れている 

そんな出来損ないの結晶になった。


これらの写真は、著書に添付され、まさしくその感ありと、

それぞれ明白に結晶の形の違いが見て取れる。


他に 水に与える言葉として、実験用に選んだ情報は

”好き”、と”嫌”、

”力”と”無力”、

”天使”と”悪魔”

”平和”と”戦争”

 

前者は,肯定的で後者は否定的な意味合い。

すると、どのペアーでも、前者のポジティヴな文字を

見せたときに 美しい結晶ができたという。


さらに その情報が ”想念エネルギー=言霊” として

伝わっているということを確かめるために,日本語に限らず、

外国語で書いた”有難う”に相当する言葉を,何か国語かで

示したところ、その感謝の言葉に対して、

'水' は例外なく美しい結晶を見せた。

 

こうして,思いつくまま,いろいろな言葉を紙に書いて,

水の前に置いて、結晶の具合を調べてみているうちに、

江本氏は、ある結果に感動させられる。


それは、今まで見せたどれよりも美しい結晶、目が

釘付けになるほど、完璧な力強い満開の花のような結晶、

その結晶に与えた情報(言葉のエネルギー)

”愛と感謝” にほかならなかった

 

江本氏は述べている。

”その後、水にどんな優しい言葉をかけても、どんなに

美しい写真を見せても、どれほど、心癒される音楽

聞かせても、この’愛・感謝’という文字を

見せた時よりも美しい結晶は見られません

 

私たちの成人の身体70%が、水分でできているとしたら、

やはり 愛 と 感謝の波動ほど、健康に、直接影響を

与えるものはないのかもしれない


 以前、拙ブログでご紹介したハワイの古典的な癒しの方法

を想いだしていただきたい。

愛しています、ありがとう。

この二つがキーワードだった。

 

子どもになるほど、胎児にさかのぼるほど、体に占める

水分の率は大きくなる。

ということは、子ども時代に愛情たっぷりかけられて

育った子供が、円満で健康である、というのも無関係では

ないかもしれない。


子ども時代に ”愛しているよ”というメッセージを、

周囲から多く受け取った子供ほど、情緒が安定するのは、

きっと、こうした体内の水分が十分それを悦び、

生き生きと活力を生み出すエネルギーに

変えるからかもしれない。


単なる心の反応のみならず、身体の反応が実際に言葉の

波動に影響するのもうなづける気がする。

 

 

 

参考: ”水の真力”  江本勝著 講談社 2004年

 

 

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13歳のムルティ、寛容を語る

2014年01月24日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

他者の信仰と儀式の尊重   2014年1月24日

*********************************************

 

数回にわたり 印度の哲学者・宗教家であるムルティ師が

13歳に書いた、小誌の翻訳からご紹介してきて

今日が最後になる。


私が感じることは魂の覚醒度は年齢に比例しないこと。

その理由は魂は何度も輪廻(生まれ変わり)を重ねて

そのたびごとに目的(悟り)に向けて確実に向かって

いること~をムルティ師の言葉を通して、実感する

ばかりだ。


悟りとは 輪廻の枠組み から外れて、自分自身の本性に

回帰したときをいう。

その時は病や健康、生や死、悲哀や歓喜という感情さえ

ない、静かな安堵に満ちた安寧と至福の境地に魂は

ただようだろう。


しかし、悟りの境地を待つまでもない。

本来の健康とは 今、ここで、そうした本来の自己を

想いだすことから始まるゆえに、少年ムルティ師の覚醒

の一旦をご紹介している。

 

寛容についてムルティはこう語る:

 

あなたはすべてのものに、寛容であるべきです

別の宗教の教義にも自分たちの宗教と同じように

関心を持つことも大切です。


他の宗教も、最も高いものに至る道を説いているのです。

このような完全な寛容さを得る前に、しなければ

ならないことあります。


それは、頑迷(がんめい)と迷信から自由になることです。

あなたは 何も儀式は必要でないということを知るべきです。


そうでないと、儀式を行わない人々よりも、自分のほうが

いくらかでも優れている考えてしまうでしょう。“

 

ここで言う儀式とは 宗教的儀式のことだろう。

あるいは 祀りであり、祈りの形式やそれに関する

決まり事に精通しているということかもしれない。


いずれにしても、決められたしきたりの中で行う、

厳粛な儀式に関連したことをさすと思われる。


人は儀式を知っているということだけで、自分が

優れているとか霊的だと、勘違いすることへの

戒めでもあるだろう。


そして、 頑固さ を一掃しなければいけないと

いうその意味に、他の宗教の排斥や信念への

中傷批判をしてはならないという意味が、含まれて

いるということだ。


だからといって、反対に 儀式に精通している人を侮っても

いけない。

だから ムルティは次のように言葉を続ける:

 

“まだ儀式にしがみついている人々を、非難してはなりません。

好きなようにさせてあげなさい。


その人が真理を知っているあなたの邪魔をするわけでは

ないのですから。


もし、その人があなたが生長して、もう必要なくなって

脱した儀式のようなものをあなたに押し付けてきても、

事情をくみ取って親切に接しなさい。“

 

ここで ムルティは 儀式と対角的に、真理を置く。

結局、儀式を行うにしても、究極の真理を知ることが

大事なのであり、儀式のみ、一生懸命行っても、本来の

意義があまり見いだせないということだろう。

 

儀式をすることで 自己満足に終わりがちだ。

“あなたの目は開かれたので、昔の信仰や昔の儀式は

ばからしいと思うかもしれません。


なぜなら、実際、それはほんとうにばかばかしいこと

だからです。


あなたはもう、それに関係することはありませんが

それがまだ、大切な意味を持っている善良な人々の

ために尊重しなさい。


古い信仰、儀式はその役目をもっているのです。”


此処でいわれる寛容とは、他者の信仰に対する寛容さを

さしているから、どんな宗教も、どんな信仰も、どのような

ステージに信者の魂がとどまっていても、寛容に、それぞれ

の意義を認め傲慢にふるまったり、不親切な態度で接したり

しないようと(13歳の)ムルティは 戒めている。

 

4番目は快活について述べている。引用すると

 

“苦しみがやってきたとき、自分のカルマの解消と知り、

えなければなりません。


どんなにつらくても、さらにいっそう悪いものでなかった

ことに感謝しなさい。


悪いカルマが除かれて、自由になるまで、まだ人のために

大師のお役にたっていないことを覚えておきなさい。

 

カルマはあなたが一番好きなものや、一番愛している人々

さえ取り上げてしまうかもしれません。


それでも、あなたはいつでもどんなものでも 手放す覚悟が

あれば快活でいられます。”

 

5番目に 専念 という項目があげられている。

引用すると

 

“心に留めておくべきただ一つのこと、

それは、大師(覚者)の喜ぶ仕事をするということです。


人の助けになる非利己的な仕事はすべて 大師の喜ぶ

仕事です。

小さな部分に最善を尽くし、心からそれを行うのです。


もし、大師(覚者)があなたの仕事を見に来るとしたら、

それを事前にあなたが知ったら、自分の今の仕事を

どのように整えるか想像してみなさい。


そのような時と同様に常に、仕事に対して接しなければ

なりません。

 

専念という意味は、自分が選んだその道から、瞬時も

方向を変えない事です。


誘惑からも、世俗的楽しみからも、その方向性を変える

力にならないでしょう。

あなた自身と道は一つです。道から離れることはあなた

自身から離れること、それをあなたは知っています。“

(引用以上)

 

以前 ブログで発表したタントラの伝道師のグルである

B師の言葉をここで思い出す。

B師は、ムルティを非難したという。

それは ここに掲げたような言葉、13歳にして厳格な

修道士を思わせる言葉、例えば、

 

“道を外れるな。

五官の楽しみの誘惑にはまって、道からそれてはいけない“

という かたくなに欲望を否定することへの

現実的な矛盾点を指摘したうえだった。

 

タントリックな教義では 五感の誘惑を手ではねのけても

意味がないとする。

なぜなら ますます その誘惑は手を変え品を変えて、

その人に接近するだろうから・・・


しかも、その人の誘惑に対する 魅了される心がなくなら

ないまではいかなる抵抗も無意味だとする理由からだった。

 

むしろ、五感の誘惑に陥る煩悩のエネルギーを昇華

させることによって、悟りへ近づくとも考えられている。

 

人は”~してはならぬ” の言葉をそのまま、

”はい、わかりました”~と納得するほど、単純では

ないということをきっと、大人へと成熟した時

ムルティは理解しただろうのだろうか?。


これまで読んだ13歳の少年導師の言葉は、大師に

教わった理念をそのまま、当時の自分の魂で咀嚼して

かかれたものだろう。

 

年を重ねて、行間に蘊蓄(うんちく)を含ませた

表現がみられるようになったのではないかと

察しているが、どうなのだろう?


しかし、ここに述べられている、様々な心の側面に対する

真理は、根本的に、いささかもぶれてはいなかった

ではある・・・

 

 

   参考) ”扉をたたくもの” クリシュナムルティ著 田中恵美子訳 

S・44 関西神智学研究所発行

 

 

 

 

 

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13歳のムルティと師

2014年01月22日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

13歳のムルティ、信仰と愛を説く   2014年1月22日

*********************************************

数回にわたり 印度の哲学者・宗教家であるムルティ師が

13歳に書いた、小誌の翻訳からご紹介してきて

今日は”師について”語る。

 

筆者が感じることは魂の覚醒度は年齢に比例しないこと。

その理由は魂は何度も輪廻(生まれ変わり)を重ねて

そのたびごとに目的(悟り)に向けて確実に向かっていること

~をムルティ師の言葉を通して実感するばかりだ。

悟りとは 輪廻の枠組み から外れて、自分自身の本性に

回帰したときをいう。

その時は病や健康、生や死、悲哀や歓喜という感情さえ

ない、静かな安堵に満ちた安寧と至福の境地に魂は

ただようだろう。

しかし、悟りの境地を待つまでもない。

本来の健康とは 今、ここで、そうした本来の自己を想いだすこと

から始まるゆえに、少年ムルティ師の覚醒の一旦をご紹介している。

 

 

ムルティは 自分のグルに対して忠誠を誓っている。

印度ではグル(師)なしに、覚醒することは難しいと教えられる。

それは、神と自分の間に、先達役としてすでに神に限りなく近づいた師

を介してこそ、容易につながりが得れると信じられているからだ。

それは ヒマラヤ登山に似ている。現地の有能なポーターと山と天候の変化

を見分け、判断できる人と一緒に登れば、安全に頂上を目指すことができる

のと似ている。

 

”人が登れるのなら、自分も登れる”と用意周到な準備

ぬきに登頂できると考える人はいないだろう。

グルは、何が健康と幸福のために用意周到な準備であるか、危険な雪崩に

合わないようにどこを通ったらよいか、その人の身体的・精神的修練度に

応じて、適切な方法を見極めて助言してくれる存在である。

 

したがって、ムルティのこの小冊子には 神に対して信仰を持つという

言葉の代わりに、“大師に信頼を置く”という言葉がしばしばみられる。

 以下引用する:

あなたは自分の師(大師)を信じなければいけない。

同時に自分自身を信じなければならない。

もしあなたに完全な信頼が無ければ、愛と力の完全な

流れを得ることができないのです。

自分を良く知っているとあなたは言います。

そういうことは、実は、あなたは自分自身を深く知って

いないのです。 

あなたはよく泥沼に落ち込む、外側の弱い殻を知っているのに過ぎません。

けれども、本当のあなたは神ご自身の火花なのです。

全能の神はあなたの中にいます。

あなたがしようと決心したなら、何一つなしえないことはないのです。

自分自身にこう言いなさい。

人間が成し得たことは私もできる。でも私は神が内にいることを知っている。

だから、それ以上のことを為すことが可能だ。‘

 

さて次に愛の項目についてムルティは語る。

すべての条件の中で愛が一番大切です

愛とは、生と死の輪廻からの解放を望み、そのため神と一つになりたいという

強い願いにもあります。

それは愛の意味合いの一部分です。

愛とは願いというより、一つの意思であり、決心決意といえるでしょう。

この決心がほかのどんな感情に勝つほど、残る余韻がないほど、強くなければ

愛の結果は生まれないでしょう。

神を愛するとは神を本当に一つでありたいという意思なのです。

悩みや苦しみから逃れたいから愛するのではなくて、神とともに働き、

神さされるように働きたいから神と一つになろうとするのが愛です。

神は愛ですから、あなたは神と一つになろうとするなら、完全に利己的な

ことを離れて 完全な愛で満たされるべきです。

日常で使われる愛には二つの意味があります。

まず、どんな生き物をも害さないこと。

次に、いつも助けてあげる機会を待ち構えていることです。“

 

とムルティは愛を、神への愛という至高の愛の概念から説明し、次に

一般的な日常的な意味合いの愛について語り始める。

 引用すると:

“害さないということについてですが、人の噂、残酷さ、迷信の三つが

この場合対象です。

なぜなら、この三つは愛に反する罪だからです。悪噂がどうなるか考えて

みましょう。

まず、悪意に始まります。一体、悪意自体が一つの罪なのです。

この悪意は 周りの人を善意ではなく、悪意で満たそうとしています。

それは悲しみを増します。もしその人の内にあなたが考えている悪が

あるとしたら、それを言葉でいうことにより、あなたはその悪を一層

強めてしまいます。

 

悪は実際存在しないのです。

あなたがあるように想像しているのに過ぎないのです。

あなたのその考え(想念)は、その人に悪いことを

するよう仕向けてしまいます。

その人がまだ完全でなければ、あなたの思った通りに

彼は仕上がっていくのです。

こうしてあなたが悪意を持っている以上

る人がみれば あなた自身は美しく愛らしいものに

見えずに、醜い、苦しみにみちた者として映るでしょう。

決してどの人の悪口を言ってはなりません。

誰かが 悪口を言っているのをきいても、耳を傾けず

穏やかにこう言いなさい。

たぶんそれは本当ではないでしょう。それに喩え本当だとしても、

言わない方が親切だと思いますが・・‘“

 

残酷さについて話が移る、

〝故意なものとそうでないものの2種類あります。

故意の残酷さはわざと他の生き物に苦痛を与えると言うことで一番の

大きい罪です。

人の業ではなく悪魔の仕業です。今でも行われています。

多数の宗教的な人々は自分の宗教の名でそれをしました。

生体解剖者もしました。

習わしや習慣だといって、自分たちの残酷な行為を弁解

しがちですが、カルマを創ることには変わりありません。

行為のみならず、言葉による残酷もあります。

不注意で言った一言が意地悪な言葉と同様、或る人にとっては

心に害として残ることがあります。

知らずに行う残酷さに注意しなければなりません。

思いやりがないために‘知らずに行う残酷さ’つながります。

非常に貪欲な人は、十分給料を支払わず従業員を働かせ、

妻子を半ば飢えさせても その苦しみを省みることも

ありません。“

 

最後にムルティは愛に対する罪として 迷信の悪

挙げる。

 

迷信はもう一つの大きな悪です。

迷信の奴隷になっている人は懸命な人を軽蔑して

自分がしているように行うよう、強制します、。

動物は犠牲になるのが当たり前だという迷信、

人は肉食を必要とする迷信、

印度のカースト制度の一番低い階級の人たちに

もたらした仕打ち、

これらの迷信は 多くの罪を作ってきました。

 

この三つの大きな罪、

人の噂、残酷さ、迷信 を避けてください。

愛に反する悪であり、対極の善をおこなう必要は

言うまでもありません。

奉仕する心、人間にとどまらず、動物や植物、周囲の

ものすべてに気をくばること。

奉仕する心に必要な 智慧、意思、愛、 この三つは

神の三つの側面でもあります。”

 

識別・無欲・善行・の4つの要素を十分に満たすことは容易ではないだろう。

それを 13歳のムルティがすでに知っていたというのは何度も言うが、

まことに驚異であり、人の霊性は、肉体年齢とは無関係である事実を

見せられる思いがする。

 

続く~

 

 

 

 参考) 

”扉をたたくもの” クリシュナムルティ著 田中恵美子訳 S・44 

関西神智学研究所発行

 

 

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