自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

インドへ行ってきます

2016年02月10日 | 協会ホームページ

インドへ行ってきます  2016・2・10

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いつもブログを読んで下さってありがとうございます。

2月末までインドへ行ってきますので、しばらくの間ブログを休ませて頂きます

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好きなことをしたいけど~罪悪感とどう向き合う?

2016年02月05日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

運命をある程度察知していたはず  201625

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以前ブログで、人は自分で両親を選択して生まれて来るということを書いた。

死んだ時 一生の善悪の実を秤にかけられて、それに見合った、環境の候補が

提示され、選んで生まれて来るということ。

その際の選定基準は魂が、その生で果たせなかった“何か”に挑戦しやすいか

どうかということを、親や育児環境、生活水準など背景が加担してくれそう

なところで折り合いをつけるらしい。


それでは運命はある程度決められていることになるのだろうと誰かに聞かれた。

確かに、そうだが、でも、生まれてきたときに明らかなのは、大まかなプロット、

筋書きだけで、大道具や小道具、登場人物を設定してくるものの、その展開は

本人の新しい人生の中で造られていく要素が大きいということらしい。

 創造、これが 生きているうえでの証になる。

女性なら家庭を作り上げ、男性は仕事や社会的な足跡が創造物になるだろう。

芸術家は作品が残り、文士は小説の中の世界を作り上げる。

一方、先回のブログで見たように、マイナスの創造、失うモノ、人、金、健康や

命を体験する場合もある。

プラスの創造、マイナスの創造、この違いは何処から来るのだろうか?

創造とは、私たちが意図したとおりに造られるようには思えない。

こんなはずではなかったのに~と思うことはよくあった。

が、賢人は言う。 すべての環境、状況、遭遇する事件、人、物質的な豊かさ

健康まで、もろもろは、“わたし達の創造物で私たちに全面的責任がある”と。

私は、今でも金銭的なことの話題には疎い。

セラピーを2時間しても、3時間続けて行っても、ビジネスのように割り切って、

計算できない。

癒すことはできればチャリティーで行えれば、さぞかし心が楽だろうと思う。

これは逆に、金銭へのこだわり がそうさせていると誰かに指摘された。

どんな人でも金銭が少ないより、多い方が気分が良い。

誰でも給料が良い方へ転職するのは、皆、お金が好きなのだと言われた。

こういう感覚は宗教家とか、慈善家とかにみられるらしい。

善い人でいたいから、金儲けのような金銭問題とは一線を画していたい、

物欲に無欲であるということを強調したいのだろう・・と。

一方では、金は天下のまわりもの。 執着なしに、人のために出していると、

いつかは自分のもとに利子がついて戻ってくるものだという人もいる。

それは本当だろう。

金銭のみならず、普通の欲求が何故か罪意識とともに感じられるのは何故

なのだろう?

賢人は指摘する。

“古くは神学のせい、原罪を持って生まれた人間は、神に赦されるべき存在

である。罪深いのだ。”

という教えを受け入れてきた群衆意識の大きさ、代々それが伝わってきた

ためだと。

原罪というのは、アダムとイヴが楽園を追い出された聖書の話に出てくる。

イヴが蛇にそそのかされて、智慧の木の実を食べ、裸でいることが恥ずかしい

という羞恥心を持つようになる。

それは神に禁じられていた事だったが破ったことによって、楽園を追放される。

女は産みの苦しみを味わってそれから出産するようになった。 

裸でいることは恥ずかしい、セックスは恥ずべきこと、秘密の園に隠すべき

こと・・・こうして 健康な発育を遂げ成熟した青年男女たちが持つ性欲は

どこかでうしろめたさを残す、欲望とされ、

その他、物質的な欲望は執着のもととして スピリチュアルな生活を送り

たいという一方の心の領域から外されてきた。

ここでいう神学とは、西欧社会を凌駕したキリスト教文化の礎になる聖書

の解釈をさしている。

 

こうした原罪意識、罪、神からの罰、本来、そのようなものはないのに、

あるように洗脳されたのだとしたら、キリスト教の宗教組織の戦略だった

かもしれない。その反対に、(真実を述べて)

“あなたは神の似姿として造られたのだから、本来 罪もなく、贖罪すべき

ことは何もないのです。

あなた自身、人生を神があなたを創造したのと同様に、彩り、形作って

いくのです。 

さあ、好きなように始めてごらん。

あなたの魂が満足するように・・・“

と言われたら、教会へいって、懺悔(ざんげ)する人は激減するに違いない。

恐怖を与える~これは、支配する際の大きな武器であることは、政治の世界

でも宗教世界でもあまり、変わりないらしい。

罪と罰、飴と鞭、こうして、一つの価値観が組み込まれ、性、物欲、などの

ゆがんだ鏡が心にはめ込まれたというわけだ。

 

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何を選ぶか?選べるか?運命と自由意思 

2016年02月01日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 自分の感情が欲するモノを人は選び、選択の自由は保障される 20162・1

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前回からの続き)

生まれて、その人がその人生で得ようと目標とするものは何だろう?

どの宗教でも 正誤の判断を誤らず、正しい目標を置くようにと教える。

正誤の判断とは何だろう?

間違えれば、神に罰せられるのだろうか?

罰せられないとしても自業自得で“良からぬ結果”をもたらして不幸になるのだろうか?

怖い、いろいろなことが起きるのだから。 結婚は周囲に祝福された。

が、夫は突然暴力を振るうようになった。 

子供が生まれれば、周囲が笑顔になった。が、その子供は難病に侵されていた。 

子供の受験が受かり、周囲は感嘆の声を上げた。

が、その子はクラブ活動の事故で死んだ。

成功にみえた事実が逆転していつどん底の気分を味わうかもしれない。

神の喜びとか安寧の境地とか求めたいが 自分や家族がこうした窮地になったとき、神を恨み、

そうさせた社会や相手をののしりたくなる。

それが人間。 私も、あなたも、みんな、そうだ。

だから、正しい判断で不幸を防げるのなら、ぜひ、聞きたい、占い師や牧師や僧侶のもとで進言を受けたい。

そう思うのは常だ。 

私も、あなたも、みんな、不安を持っている。

“所詮、考えて行動したつもりでも、運命に翻弄されているだけ”と突発的な事故に遭遇した人は考える。

これも運命とあきらめるほかないと、自分の力が及ばないところで人は考える。

選択云々といっても、そういうものだ・・・と受け身的になる。

 

私たちは存在している。

存在していること、生まれ死に、又生まれて、人生を生きて、又死んでいくというプロセスを繰り返しているとしたら

生き通しの生命が私たちの本質であるとしたら、今まで人生にありがちな不条理も、

もしかしたら違う角度から見ることができるもではないだろうか?

 

ようやく、最近、何かが見えた。

今までの私は“~すべきだ”という物差しが意識しない分だけ影響を与えていた。この物差しがあるから、

判断できると考えていたが、それは判断ではなく、裁断、つまり、ジャッジすること、にたけていた。

そして、‘すべきだ’という考えは存在しないのかもしれないとさえ感じるようになった。

たぶん、キリスト教信者が守る最古の掟、それは モーゼの十戒(じゅっかい)かもしれない。

~をするべきではない・・と10項目の掟。

盗むなかれ、姦淫するなかれ、などなど、ほぼ誰もが、それに逆らうことない常識的戒律だ。 

その掟を守らなければ、家庭は崩壊かねないし、社会の規律はなくなる。 

それらの掟が2千年の歳月を経た今もまだ、語り継がれ守られ続けているからには

確かに社会生活に欠くべからざる常識的規範なのだ。

一方、姦淫するなかれ~といっても、アジアの在る国は一妻多夫制度があり、姦淫の定義が曖昧だ。

日本でも過去、通い婚は通常であったし、数回情を交わしてそのまま途絶えて夫婦に至らない例は多かっただろう。

一生の間、嘘をつかない人はいるのだろうか?

嘘も方便 という諺があるほどだから、場合によっては嘘は赦されると考える人もいるのだろう。 

過去の正しい規律は今、忌むべきものになっているのは珍しくない。 

“わたしは人殺したくない”と 戦地に赴くことを拒むなら、直ちに家族ともども処罰を与えられた時代があった。 

結局正しい、正しくない~というのは、その国によって、時代文化に、時には政治家の

エゴイスティックな野望の理由によって、正当化されるのが常ではないのだろうか?

だから、“~すべきだ”という個人的レベルの物差しは、言わずもがな、その人の主観で決められているのだろう。

では 何をしても良いのか?

何を目標に置いても良いのか?

遠回りと苦い汁を吸うことを覚悟なら、それもありではないかと近年ふと思う。

苦い汁を吸わなければ、おいしい甘い汁もわからない。

だとしたら、その苦い体験も考えようによっては大切な体験となるわけだから。

 

それは子を持つ親なら、理解できるものだろう。

子供は 世間知らずゆえに、傷つきやすく、その上さらに、好奇心旺盛だから。冒険をしたがる。

かわいい子には旅をさせろ~という諺はその意味だろう。

冒険したり、難儀な機会に遭遇しながら、子供が生長していくものだということを親は知っている。

どんなときにも、きっと、うまく運ぶように“渡る世間に鬼はなし”と楽観的に子供を信頼して自由を与える。

うまく運ばなければ解決策や妥協策を講じるだろう、それが彼らの生長なのだからと不安にかられながらも、

心の片隅で知っている。

だから、

“わたし達が欲しいと思うもの”を求めれば、きっと、神()も納得してくれるだろう・・・

それぞれの人がそれぞれの欲するモノを求めればよいのだ。

精神的智慧、富、性欲、物欲、欲からの解放、などなど 相反するようにみえても、最後は矛盾するものは一つもないという。

なぜなら 最後に帰結するところは 、帰結したいところは、 それぞれの魂がわかっているから・・・

放蕩息子でも ‘助けて’と親の元に返ってきたとき、冷たくまた、突き放す親はいるのだろうか・・・?

親のもとに還ってくることを親は信じて、子供の長い一人旅を見つめているのだろう。

 

存在は 常に変化するプロセスを楽しむことともいわれる。

私たちは自分の欲するモノを得て、それを楽しめばよいのだ。

規律で‘それは悪いものだから、求めるのは良くない’と忠告しても、

心が向いている限り、無駄だろう。

欲しいものも、もう飽き飽きするほど、楽しめば、空しさに変わるのも体感するだろう。

そしたら“これなら空しくならないだろう”と思える何かを追求すればいいのだろう。 

そんなことを 一通り、悪いと言われる事を自分なりに通過して

感じる昨今だ。

とりあえず、今日は、これまで・・・

 

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