自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

インドへ行ってきます

2016年02月10日 | 協会ホームページ

インドへ行ってきます  2016・2・10

**********************************

いつもブログを読んで下さってありがとうございます。

2月末までインドへ行ってきますので、しばらくの間ブログを休ませて頂きます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

好きなことをしたいけど~罪悪感とどう向き合う?

2016年02月05日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方



運命をある程度察知していたはず  201625

*********************************

 

以前ブログで、人は自分で両親を選択して

生まれて来るということを書いた。


死んだ時 その人の、一生の行いが 善悪秤に

かけられて、それに見合った、環境の候補が

提示され、選んで生まれて来るということ。


その際の選定基準は魂が、その生で果たせなかった

“何か” に挑戦しやすいかどうかであるということ。

たとえば、親や育児環境、生活水準など背景が

自分の次の課題の完成のために、加担してくれそう

なところで折り合いをつけるらしい。


それでは、運命はある程度決められていることに

なるのだろうと誰かに聞かれた。


確かに、そうだが、でも、生まれてきたときに

明らかなのは、大まかなプロット、筋書きだけで、

大道具や小道具、登場人物を設定してくるものの、

その展開は、本人の新しい人生の中で造られていく

要素が大きいということらしい。

 

創造、これが 生きているうえでの証になる。


仕事や社会的な足跡が創造物になるだろう。

芸術家は作品が残り、文士は小説の中の世界を

作り上げる。


一方、先回のブログで見たように、マイナスの

創造、失うモノ、人、金、健康や命を体験する

場合もある。


プラスの創造、マイナスの創造、この違いは

何処から来るのだろうか?


創造とは、私たちが意図したとおりに造られる

ようには思えない。

こんなはずではなかったのに~と思うことは

よくあった。


が、賢人は言う。 

すべての環境、状況、遭遇する事件、人、物質的

な豊かさ、健康まで、もろもろは、“わたし達の

創造物で私たちに全面的責任がある”と。


私は、今でも金銭的なことの話題には疎い。

セラピーを2時間しても、3時間続けて行っても、

ビジネスのように割り切って、計算できない。


癒すことはできれば、チャリティーと割り切れば

さぞかし心が楽だろうと思う。

これは逆に、金銭へのこだわり がそうさせている

と誰かに指摘された。


どんな人でも金銭が少ないより、多い方が気分が

良い。

誰でも給料が良い方へ転職するのは、皆、お金

が好きなのだと言われた。


こういう感覚は宗教家とか、慈善家とかにみられる

らしい。

善い人でいたいから、金儲けのような金銭問題とは

一線を画していたい、物欲に無欲であるということ

を強調したいのだろう・・と。


鋭い指摘だ。

お金は、汚いもの、少なくとも、現生的なものだから、

精神的に生きる人は、それに、あまり、興味や関与を

持つべきでないという、一般的な通念が、まだ

あるように思う。


一方では、金は天下のまわりもの。 

執着なしに、人のために出していると、いつかは自分

のもとに利子がついて戻ってくるものだという人

もいる。

それは本当だろう。


金銭のみならず、普通の欲求が何故か罪意識ととも

に感じられるのは何故なのだろう?

賢人は指摘する。


“古くは神学のせい、原罪を持って生まれた人間は、

神に赦されるべき存在である。

本来、人は、罪深いのだ。”


という教えを受け入れてきた群衆意識の大きさ、

と、先祖代々それが伝えられて造られた文化の

ためだと。


原罪というのは、アダムとイヴが楽園を追い出

された聖書の話に出てくる。


イヴが蛇にそそのかされて、智慧の木の実を食べ、

裸でいることが恥ずかしいという羞恥心を

持つようになる。


それは神に禁じられていた事だったが、破ったこと

によって、楽園を追放される。

その罰として、女は産みの苦しみを味わい、出産

するようになった。 


裸でいることは恥ずかしい、セックスは恥ずべき

こと、秘密の園に隠すべきこと・・・こうして 

健康な発育を遂げ成熟した青年男女たちが持つ

自然な、種の存続のために、生き物に与えられた

性欲はどこかでうしろめたさを残す代物になる。


こうした原罪意識、罪、神からの罰、本来、

そのようなものはないのに、あるように洗脳された

のだとしたら、キリスト教の宗教組織の戦略だった

かもしれない。


その反対に、(真実を述べて)

“あなたは神の似姿として造られたのだから、

本来 罪もなく、贖罪すべきことは何もないのです。


あなた自身、人生を神があなたを創造したのと

同様に、彩り、形作っていくのです。 

さあ、好きなように始めてごらん。


あなたの魂が満足するように・・・“

と言われたら、教会へいって、懺悔(ざんげ)

する人は激減するに違いない。


罪深いとか、それは罰せられること、とか、

恐怖を与えられる~これは、支配する際の大きな

武器であるだろう。

宗教世界でも、政治の世界でも、あまり、変わり

ないらしい。


罪と罰、飴と鞭、こうして、一つの価値観が

組み込まれ、性、物欲、などのゆがんだ鏡が心に

はめ込まれたというわけだ。

では、何を基準に、人はいきていくべきか?

それは、その人自身が一番よく、わかっている
はずだ。

生まれる前に、すでに、それを知り、それが実現
できるよう、再び、生まれ変わってきているの
だから・・・

”自分自身を知る” という意味は、ここにも活用
できるはずだ。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何を選ぶか?選べるか?運命と自由意思 

2016年02月01日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 自分の感情が欲するモノを人は選び、

選択の自由は保障される 20162・1

********************************************


生まれて、その人がその人生で得ようと

目標とするものは何だろう?

どの宗教でも 正誤の判断を誤らず、正しい

目標を置くようにと教える。


正誤の判断とは何だろう?

間違えれば、神に罰せられるのだろうか?

罰せられないとしても自業自得で“良からぬ結果”

をもたらして不幸になるのだろうか?


怖い~いろいろな予測しないことが起きるの

が常だから。 

結婚は周囲に祝福された。

が、夫は突然暴力を振るうようになった。 


子供が生まれれば、周囲が笑顔になった。

が、その子供は難病に侵されていた。 

子供の受験が受かり、周囲は感嘆の声を上げた。


が、その子はクラブ活動の事故で死んだ。

成功にみえた事実が逆転して、いつどん底の

気分を味わうかもしれない。

神の喜びとか安寧の境地とか求めたいが 

自分や家族がこうした窮地になったとき、神を恨み、

そうさせた社会や相手をののしりたくなる。


だから、正しい判断で不幸を防げるのなら、ぜひ、

聞きたい。

占い師や牧師や僧侶のもとで進言を受けたい。

そう思うのは常だ。 


私も、あなたも、みんな、不安を持っている。

“所詮、考えて行動したつもりでも、運命に翻弄

されているだけ”

と突発的な事故に遭遇した人は考える。


これも運命とあきらめるほかないと、自分の力が

及ばないところで人は考える。

選択云々といっても、そういうものだ・・・

と受け身的になる。

 

が、生き通しの生命が私たちの本質であると

したら、今まで人生にありがちな不条理も、

もしかしたら違う角度から見ることが

できるもではないだろうか?

 

ようやく、最近、何かが見え始めた。

今までの私は“~すべきだ”という物差しが

意識しない分だけ影響を与えていた。


この物差しがあるから、

判断できると考えていたが、それは判断ではなく、

裁く-つまり、ジャッジすること、にたけていた。


そして、今は変わった。

‘すべきだ’という考えは存在しないのかも

しれないとさえ感じるようになった。


たとえば、キリスト教信者の最古の掟である

モーゼの十戒(じゅっかい)。


~をするべきではない・・と10項目の掟。

盗むなかれ、姦淫するなかれ、などなど、 

その掟を守らなければ、家庭は崩壊かねないし、

社会の規律はなくなる。 


それらの掟が2千年の歳月を経た今もまだ、

語り継がれ守られ続けているからには

確かに社会生活に欠くべからざる常識的規範

なのだろう。


一方、姦淫するなかれ~といっても、アジア

の在る国は一妻多夫制度があり、姦淫の定義

が曖昧だ。


日本でも過去、通い婚は通常であったし、数回

情を交わして、そのまま途絶えて夫婦に至らない

例は多かっただろう。


一生の間、嘘をつかない人はいるのだろうか?

嘘も方便 という諺があるほどだから、

場合によっては嘘は赦されると考える人もいる

のだろう。 


過去の正しい規律は今、忌むべきものになって

いるのは珍しくない。 


“わたしは人殺したくない”と 戦地に赴くことを

拒むなら、直ちに家族ともども処罰を与えられた

時代があった。 


結局、正しいとか正しくない~というのは、

その国によって、時代文化によって、政治家の

エゴイスティックな野望を背景に、正当化されて

きたのではないのだろうか?


だから、“~すべきだ”という個人的レベルの

物差しは、言わずもがな、その人の主観で

決められているのだろう。


では 何をしても良いのか?

何を目標に置いても良いのか?


成功にまで、遠回りして、苦汁を味わうことを

覚悟なら、それもありではないかとふと思う。


苦い汁を吸わなければ、おいしい甘い汁も

わからない。

だとしたら、その苦い体験も考えようによっては

大切な体験となるだろう。

 

それは子を持つ親なら、理解できるものだろう。

子供は 世間知らずゆえに、傷つきやすく、

その上さらに、好奇心旺盛だから冒険をしたがる。

かわいい子には旅をさせろ~という諺はその意味

だろう。


冒険したり、難儀な機会に遭遇しながら、

子供が生長していくものだということを

親は知っている。


どんなときにも、きっと、うまく運ぶように

“渡る世間に鬼はなし”と楽観的に子供を

信頼して自由を与える。


うまく運ばなければ、解決策や妥協策を講じる

だろう。


これは、私たちと、私たちを生かしている”何か”
との関係性に似ている。
子供と親のような関係だ。


だから、私たちは、どんな変化が来ても、常に
その変化のプロセスを楽しむ余裕を思い出したい。
その変化がたとえ、苦しいものでも、プロセスに
過ぎない。

もう少し、進んでいけば、必ず、それは転回する
だろう。
放蕩息子でも、親は見捨てない。
同様、その体験の意味が、客観的に見つめられ
意義の重さが分かるときがくるに違いない。

最後は、必ず、”善きかな”で 終結するのが、
魂の旅路だと、私は信じたい。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする