自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

望むこと

2024年10月19日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方



生きている実感

2024年10月19日
****************


”子育ての責任も終えて、両親を見送り、育児や介護生活
から自由になった今、 自分が望むことは、何なのだろう?

と改めて、自身に問いました
そしたら・・・。



①”自分が生き生き感じられてくる”時間を過ごしたい


②”どんな状況にもかかわらず、あたたかく、見守られて
いて、安心できる境地に達したい”


③ どんな問題に面しても、不安はなく、人間関係では
どんな相手に対しても、少なくても、優しい心持を
持っていたい


④”ここでこうしていたいという気分になれるほど、
安寧の心にひたりたい”


⓹”本当の自分に、還った気がすると思える相手や
その動機を大切に自覚したい

*****************

① の自分でいると、
心が軽い とか、 目が輝いているとか、何かに
挑戦したくなるとか、ポジティブになれます。

他者と一緒のときは、特に、相手の目が、輝いてきたり、
エネルギッシュな感じをうけるときは、お互い様で、
自分も、同様に リラックスしながら、活き活きしている
のだと思うのです。

自分だけ、輝いていたり、相手だけ、活き活きしていると
いうのは、あまり、無いようです。


②見守られている  という意味は、誰に?
必ずしも、人とは限りません。

信仰対象であったり 亡くなった人であったり、
でも、・・・自分が生かされている、護られている、
自分自身では左右できないプログラムを作る、
大きな力に、”見守られている” と感じるときも
あるでしょう。


③の”問題があっても”、それに不安感を、増上
させることなく、淡々と、受けていれ、目の前の
できることから片付けていれば、問題は、いつの間にか
解決していることがあるものですね。

それが、わかっていても、私の中の、不安や、怒りや、
不満などの感情で、マイナスエネルギー色に、意識を
染め変えてしまうと、なかなか、そうはできないもの
です。

わかっているから、それをコントロールするのは、
自分しかないから、これも、”修業”ですね。

人間関係でも、相手のイラっとする行為や言葉に、反応
したり、自分が振り回されたりせずに、淡々と、
受け入れてぶれない、自分を保持していきたいと、
せつに願う、今日この頃です。



④ ③で書いた、”精神的余裕”があってこそ、”安寧”な
境地に収まるのだと思います。


⓹ 本当の自分って?
先日、友達と山道を散歩してました。

名も知らない、小さな、雑草が、黄色い、五輪の花びらを
広げ、直径1センチほどの、小さな花を開花させていました。

”ああ、誰にも、観られないこんな処で、ただ、咲いている
・・・それも、完全な均整のとれた美しさで・・

この花のように、無言で、無抵抗に、無主張で、ひっそりと
生きている喜びを体現しているのを見て、自分自身になるって
こういうことなのだろうと、なんとなく、感じたものです。


****************


そして、最期に・・

この5つの目標は、たぶん、自我意識が芽生えたころ
から、私の心の奥に、いつも、あったと思いました。

あっても、生活の諸事、仕事、などに、追われて
言葉に出して反芻するゆとりがなかっただけ・・・

でも、私にとって、この5つの条件が 満足に
ならない限り、人生の、本当の私の目的が、完結
しないような気がします。







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理性と感情の、バランスをとるために・・・PACのまとめ

2024年09月09日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

ストレスフリーに近づくために:心の活用 2024/09/10
*****************

今日は、これまで数回に分けて、見てきた心療内科の、
池見博士の、心身相関性に関しての、最終回となります。
***********

病の主要原因は、大きな意味で、ストレスだろう。

ストレスは、心身に何らかの形で、過剰な負荷が
かかっている状態・・・

そして、心身一如(しんしんいちにょ)、つまり、身体は
心に、心は、身体に、直接影響を与え合い、同体的である
ことから、精神的な面から、ストレスを避けられれば、
身体への影響は、おさえられるはずだ。

それでは、どんな状況が、心にストレスを与えているの
だろうか?

それは、外部要因や、人間関係などで、平静でなくなり、
気持ちが昂り、感情的になっているときだろう。

感情的になれば、理性や抑制なしに、言葉や行動から
興奮気味な過剰なエネルギーが放出されている。

それを受け取った相手が、そのために、攻撃的になれば、
双方ともに、精神的な負の影響がでてくるだろう。

それを避けるためには、 感情的になりそうなときに、
言葉を発する前に、数秒の間合いをとることが効果的だ
といわれる。

間合いをとることで、少し、熱量が覚まされるはずだ。

そして、これから言おうとする言葉が、相手にどう、受け
止められるか? 誤解を生じさせないだろうか?
~といったような分別が よぎる余裕ができる。

このようにして、感情と理性のバランスを取ることは、
池見博士の提唱する(これまで見てきた)PACという
三つの心の要素を、無意識に、コントロールしている
ことになるだろう。

PACとは?
もう一度、簡単にまとめてみると、以下のようになる。

**********************
イ)P(parent) = 親の心~理想や良心を司る心、
周囲への思いやり、

ロ)A(adult)大人の心~主体的自我で、創造的な営み。 
現実的適応と、個性に即した自己表現を行う。

ハ)C(child)=子供のように、純粋で、悪い意味では
まだ体験を踏んでいない幼稚な心情も含む


上記のうち、上の二つは、脳の成長とともに人格を
形成していく。

池見博士は言う:

P(親の心)の道徳性についても、人間としての業(ごう)
への気づきが深まるにつれて、他人に対する思いやりの
かげには A(大人の心)の持つ、打算や 他からの愛情
を得たいというC(子供の心)的な 欲求がうごめいて
くることを自覚せざるを得ないであろう。”


複雑な人の心模様を、この言葉は言い表している。

一筋縄ではいかない心の複雑さが、ある。
他人への思いやりと同時に、計算があったり、要求が
出てきたりするという、P の感情の裏にある、複雑な
思いを示している。

”人間としての業(ごう)への気づき”

大人になって、いつか誰でも、自分の業の深さを
感じる時が来るだろう。

同時に、どんなに業が深くても、’鬼の目に涙’といわれる
ように、”他人に対する思いやり”という、P)の心は
誰にでもある。

が、その裏で、”A(大人の心)の持つ、打算”つまり、
’人にどう思われたいか?’ そのために、’どう行動
したら良いか?’というような、現実に即した
主体的自我(A)が、いろいろな主張を始める。

それに加えて、本来の、”他からの愛情を得たいと
いうC”(子供の心)~本能的な要求も、同時に、
存在しているのだから、私たちの精神の断面図は
複雑な模様を、実は呈している。


こうした、三つの自我の心まとまりつかなくなると、
ストレスとなる。

ストレスをかかえていては、(C)の持つ、本来の
自然治癒力が十分発揮できない。

が、一つ一つの心の特性を理解して、それを
バランスよくコントロールすることができれば、
状況は変わる。

それが可能になれば、自己統制をしながら、心身
ともに、健全で快適な生活を送れるだろう。


ところで、”Aの心”というわれる、”大人の心”を
もう少し、具体的にみてみたい。

池見博士によると、Aの心は、前頭葉で営まれる、
主体的で進歩的、 創造的な自己を生む心である。 

さまざまな欲求、たとえば、所有欲、自己顕示欲
競争意識が属している。

感情もそれに伴い、劣等感や妬み、嫉妬、恨みなど
の負の感情を生む。

こうした感情は、C(純粋な子供の心)にはない。

たとえば、“悔しい”という言葉は、6~7歳になると、
理解されはじめ、子供たちが、使い始めることから、
池見博士は、Aの心が、この頃から、発達していきて
いると、’言う。

”負けた/勝った”、”認められた/無視された”という
認識の芽生えでもある。

池見博士は こうした認識感情は、Cの心がもつ、
自然な、心と対照的にな 反自然で差別の心’と呼び、
’現代人の悩みの根源’、とも、言い切る。


社交辞令やビジネスの契約を取り付けるための手段
として使われるのは”A”の心意識だ。

現実に適応した対応のために、時には自分の本音を
殺さなけれなならない

池見博士は こうした、本音を隠した対人関係を
裏面的交流”と呼ぶ。

”自分の真の欲求や動機を表現せずに、意識的に
遠回しに伝えようとするコミュニケーション
のことでもある。

時には、”皮肉やあてつけ”などの言葉も、この関係
には、みられる。

営業的取引、政治的コミュニケーションには、無意識
にこうした、Aの心に主導権を渡した、会話が行われ
ているいのだろう。


他にも、巧みな詐欺犯罪(結婚詐欺、ビジネス詐欺、
オレオレ詐欺)など、相手を操り、こちらの思うツボに
誘導していく展開を牛耳るのが Aの心の特徴である。

Aの心が、精神的ストレスを生むきっかけになると
したら、どうしたら良いのだろう?

すべからく、この世は二面性でできている。
欠点は長所に、善きことも、一面では悪にもなる。

だとしたら、Aの心、誰もが成長すると共に、意識
し、助長させていく、この”大人の心”のストレスに
なる側面を、良い側面に変えることが、できるはず
だと思う。

先に書いた、A(大人の心)の持つ、主体的自我
の源として、”創造的な営み。 現実的適応と、
個性に即した自己表現” ができるように、
心の中にある、PやCとのバランスを図るという
ことに徹していけばよいのだろう。

内的ストレスをいかに、軽減させて、健康的
に生きていくかも、Aの心次第といえるだろう。

結局、出来事や他人の言動に振り回される
のではなく、Aの積極的側面を自分自身が意識
して、活用しようという決意と意思で、可能に
なるのと思う。




参考)
”セルフ・コントロールの医学” 池見酉次郎s・57年9月1日 日本放送出版協会
”ストレス健康法” S.50 池見酉次郎 ㈱潮文社
”セルフコントロールー交流分析の実際” 池見酉次郎 杉田峰康 2007年創元社
”続心療内科” 池見酉次郎 1973年 中央公論社
”心療内科” 池見酉次郎 1963年 中央公論社

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整体:野口先生の風邪の心的背景の考え

2024年09月04日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方
整体の神業師 野口晴哉氏の徹底した身心一如の観方
************************************ 2024/9/4


心と身体が一体であるということを 
心身一如(しんしんいちにょ)という。

池見博士の心身一如論による、心療内科の治療と
整体の野口晴哉氏の、心身一如論に基づく、整体指導
とは、表現は違っても、底辺は同じだ。

つまり、心身一如であるのなら、

’心の思い’、感情の流れ’、
’積極的か消極的なメンタルか?’、’受身的か能動的か?’、
’恐怖感か満足感のどちらかに傾倒しているか?

という心’の状態、が、病を造ったり、病を癒したり
する~ということでもある。

’想い=想念’が現象(健康面のみならず、自分の周りの
事象を含めて)のひな型になっているとも、
言えるだろう。

以下は、野口氏の本(*1)の中から、あるパラグラフ
を引用させていただきたい。

一端(心が)方向づけられたら、意志で
どんなに努力してもその空想には勝てない、結局、
空想が方向づけられた方向に、体の動きはいって
しまうということです。


寒いから風邪を引くと想って、厚着をさせている
お母さんの子供ほど、寒いと風邪をひく。

栄養が足りないと風邪を引くと思っている
お母さんの子供ほど、栄養が悪いと風邪をひく。

寝相が悪いと風邪をひく、こたつに入っていると
風邪をひく、ぬるい湯にはいると風邪をひくといって、
それを警戒している人たちほど、そういうことで
風邪をひく。

それでいて私どものように、風邪をひいたら、それを
機会に体を治そう、癌になるような鈍い体にならない
ように、上手に風邪を経過させようと思っていると、
今度は風邪のほうが意地悪をして、ついてこない。

意志の努力では風邪はひけませんね。
どこかで、俺はなかなか風邪をひけないのだと思い、
自分でそういう方向付けをしているから、なおさら、
風邪をひけなくなる。

’風邪の効用’などということを考え出したが最後、
風邪をひかないのです。

だから、予防注射をして風邪を防ごうというような
受身な心が風邪を誘発しているかもしれないという
ことをわかっていただきたい。(引用以上)


野口氏が、ここで”想像”と呼んでいるその意味は、
”心の想い”ということだ。 

心の想い強ければが、それは確信につながる。 

確信すると、それは念となり、健康でも人生問題
でも、人間関係でも、仕事でも、自分の身近な環境
に影響を与え、念じたような現象が現れる。 

そうかと思えば、人には ”私は~になる” と
いつも言っている人が、必ずしも、そうなる
とは限らない。

その理由は、口に出してみるものの、実質、
その人自身の確信が足らないからだろう。
念になるには、想いの凝縮が必要なのだ。

野口氏は、自著の中で、
クライアントたちに、アドヴァイスをしようとするが
相手を見て、そうしていると、次のように言う:

以下、(著書引用部分)
~だから、私は’風呂に入っても良いですか?’と
聞かれて、'大丈夫’と答えるときにも、この人は、
私のいう事を本当に理解してきいているのだろうか?
とよく考える。

そうでないと、’入って大丈夫’と思っていても
請け合えない。

その代わり、’用心した方が良い´などというときがある。

それは、私が相手を理解が足らないとか、いくら
話しても、わからない人だからと思っている時だ。
(引用終わり)

これは、野口氏の心理療法でもある。

もし、正直に思っている通り、風呂に入っても
大丈夫と答えようものなら、その相手には逆効果
になるからだ。

’自分の風邪を、評価されていない’、’心配されてない’
寄り添ってもらっていない’ 
と不足に思い、”少し残念に思う”ものだと野口氏はいう。 

その結果、余計、その人の風邪の症状が余計に重くなる
ことさえある。 

なぜなら、野口氏の心配を得たいという本人の想念が、
’大丈夫’と太鼓判を押されれば、おされるほど、
野口氏の関心をひくために、無意識の念で、本人の
風邪の状態を重くさせていくからだ。 

さらに面白い体験的エピソードを野口氏は語っている。
引用する。

(引用部分)不平とか不満とか、反抗とかそういう心の
状況で、風邪になることがあるが、だからといって、
それを除かなければ、風邪が治らないかというと
そうではない。 

周りの人達が、相手の心理状態とか、相手の風邪を
ひくような心に同調して、相手が嫉妬しているから
その嫉妬を除かなければならないとか、甘えたがって
いるから十分甘えさせてやろうというように、
同調する必要はない。

それに同調して 相手の風邪の原因を何とか除去しよう
と努力しても、それは風邪の治療にならない。

もし、その不平を満たしても、又、次の不平が出てくる。

それが叶えば、また、次の不満がでてくるというように
きりがない。

だから、それを除かなくては、風邪が治らないと
考えてはいけない。

むしろ、風邪によって、そういう不平や不満も治って
しまう、自分から気落ちしてしまうような心持ちまで、
治ってしまう、というように、空想の方向付けを
行うことが大切です。
(引用終わり)

”空想の方向付けを行う” とはどういうこと
だろうか? これは、風邪は自然治癒力の発動で、心身
がより、健康になるための調整症状だと、納得させて、
これによって、もっと、元気になるのだという、想いの
方向を持っていくことだと思う。

他に、野口氏は、心の出すエネルギーと脳との関係を
次のようにまとめている。

引用部分)疑似感冒がある。
心理的因子による。
風邪の人と接触したから、伝染したと訴える
人々の風邪がそれである。

人間には、こういう心理的因子が誰にでもあるのだ。
こういう心理的因子が働く背後には、過剰エネルギー
鬱散要求がある。

過剰エネルギーが性エネルギーになるのが、自然で
あるが、他のエネルギーに昇華することもある。

多いのは、感情、又大脳に昇華することで、
他人が転んでも笑い出し、花が散っても涙を出す
ようなのは明らかに感情昇華。

後から空想や妄想が湧きおこったり、頭の方が行動を
無視してはたらいて、前へいってしまうようなのが、
大脳昇華。

この他に過剰エネルギーが行動に昇華すれば、行き
過ぎ、やりすぎ、言い過ぎが生ずる。

こういう過剰エネルギーが、風邪となる心理因子
の製造に回ることもある。
一種の鬱散要求です。
心理的な抑制風邪というのがあって、癇癪でも、
不平でも、行動でも、抑制してしまって風邪になる。

いずれにしてもエネルギー調整の平衡現象と
みるべきで、風邪を病気扱いにする前に体の観察
心観観察が必要だということです。(引用終わり)

特に、心の持つ過剰energyを分類して、それが
結果的に風邪をひく原因と関係していると見た
野口氏の次の意見は、奥深く、興味深い。


**************
 (*1) "風邪の効用” 昭和53年 野口晴哉  
発行所:株式会社 全生


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理想の(心身共に健康の)自分になるための想念活用

2024年08月27日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方


本音と建て前
*************************

昨日の投稿を読んでくださってありがとうございます。

過去の記事を推敲していたら、以下の記事が出てきました。
2020年2月6日のブログです。

昨日の記事内容に被さっています。

(ただし、昨日の内容には、本音と建て前という、考え方
は微塵も触れてませんでしたが。)

本筋は、4年前も今も、変らない主旨があると思いました
ので くどくなりますが、投稿させていただきます。


*****************

誰にでも、本音と建て前の自分がいる。 

本音を出せば、相手に不快感や誤解を招くから、適当に
社会的な言葉に自分の本音を変換する。
とても、笑う気分でなくても、とりあえず、周囲と
同調して楽しそうに振る舞う。

本音と建前の、その”ふり幅”が大きければ大きいほど、
ストレスを感じる。

”建て前”=”本音”で、もし、他者と接して、相手に不快感
を起こすことないほど熟成した自分であれば、人生に
ストレスは大分、なくなるに違いない。

芸能人やスポーツ選手の間で時々、大麻の所持が話題に上る。
今日も女優のEやSのその裁判に700人近い人が傍聴席の券
のために並んだとニュースに出ていた。

女優や俳優は表舞台の顔だ。
生き生きとした魅力を保つために、どれほど彼らは努力を
しているだろう。

スポーツ界のスターも、公平で、さわやかさを期待される
のはやむを得ないだろうが、人間だから、絶対見られ
たくない、“本音” の部分はあるに違いない。 

たとえば、自信のなさや不安、心配や嫉妬などで
葛藤していても、すべて押し隠さなくてはならない。

それが建て前と本音のギャップになる。 

そして彼らのように、本音の自分と建て前の自分(公の
ステージで見せる顔)とのギャップが大きくなりすぎた
とき、コントロール不能になったとき、大麻などが、
”嫌な自分(負の感情)”を”ハイな自分(プラス感情)”
へと変えるための助けとなっていたのだろう。
 
皆さまはこんな経験をしたことがないだろうか?

誰かと電話で長話をしたくなる、お酒を無性に飲んで
みたくなる。
ショッピングで予定外のものをたくさん買う、
どこか、静かな自然の美しい場所に一人旅に出かけてみたく
なる・・・

当たり前の事かもしれないが、もしかしたら、その背景
には、このギャップに耐えがたい自分がいるから
かもしれない。 

”自分の本音の負の部分”が、強くなって、そのバランスを
取るための手段になっているかもしれない。

本音の負の部分 というのは、他人がのぞけない自分の
心の奥に潜む、負の感情だ。

他人が知っている自分は、“建前の自分”だから、彼らが描いて
いる“わたし”の像には、ドロドロの内面などは見えない。

バランスが崩れると、その“スマートに演じているわたし”を 
自分自身で、想いだすために、電話で友人と話したくなる。

そうすれば、“いつものイメージの自分”を確認できて、
何となく、ほっとする。

ショッピングは、好きなモノを手に入れると同時に解放感
をもたらしてくれるから これもバランス修正善い薬だ。

お酒は言う間でもなく、飲んで酔えば、本音の声を聴かなく
てすむから嫌な気分も一時的に忘れる。

芸能人が大麻に手を伸ばすのも、我々が日常生活で’健全な
手段で、”視たくない自分” に煩わされないようにする
ことも、同じ一つの目的から来ているのかもしれない。

本音の心の負の感情 に打ちのめされないため~という
目的だ。

本音の負の部分”が強くなっていくと、こうしたレメディー
をとりながら、“建前の自分”を強くしてバランスを取る。

“世間の人々が知っている自分” と “自分しか知らない内面
の負の感情”のギャップは、ストレスを生むと同時に、
それとどう向き合うかで、二つの異なる選択肢ができる。

一つの選択肢は、内面の負の感情に眼をそむけて、そのために、
外界に眼を向けていく生活。

趣味や交友、ビジネスやパソコンゲームや、楽しく没頭できる
ことに、集中するという選択肢。
外界には、刺激を与えてくれる対象はいくらでもある。
 
もう一つの選択肢は、そういう生活を余儀なくされているに
しても、自分の内面に目を向けようとする生活だ。

内面に目を向けるためには、静寂が必要だし、時には
一人だけの時間が大切だ。

田舎暮らしという言葉が使われるようになった。 

退職後、自然の中で暮らしたいという都会人が増えてきた。
“規則・ルール・の型にはまった、これまでの会社勤めから
解放されたくなった”というのが、人里離れた離村で86歳の
一人暮らしの理由。 

周りからは、彼を、“仙人”と呼んでいる。先日の放映番組の
一コマである。

現役時代は、数百人の部下がいたというほどやり手だったの
だろう。 
が、次第に、いつかは自由で解放された人生を楽しみたい・・
という夢があったと語っていた。

この老人は番組でこうも語っていた。
“こんなに好きなことをして最後まで楽しく生きられた
ことに感謝をしたい
あと数年で命が絶えたとしても、満足だ” と。

テレビでは語られない、この人自身特有の、自分の内面との
向き合い方 があったのだと思った。 

好きなこと~といっても一人で、家を修繕する、畑を耕し
自給自足の生活をする~というもの。

ヒトは一人でいればいるほど、否応なしに、“内面と向き合う
チャンスは多くなるはずだ。
 
若いのに命を絶つ多感期の子供たちは少なくない。
“何のために生まれたのだろう?” 
“生きている価値などない”、
“自分は生まれなければよかったのだ。
いじめられ、傷つくだけで。” 

この“自分の本音”と“建前”のギャップに悩むのは、大人
だけではないことは確かだ。

十代の彼らもまた、本音の自分と建て前の自分の“ギャップ”
の狭間で“助けて!”と叫びながら、周りの普通の大人たち
や友人たちに理解されない、内面の葛藤で苦しんでいる。
 
青年期、壮年期、殆どの人はこうした“ギャップ”に気が
つきながら日々の忙しさの中で、どうすることもせず、
見て見ぬふりをする。 

それは、ちょうど、夏休みになり、楽しさに宿題や課題を
忘れ、といっても、いつも心に気にかかっている状態に
似ている。

夏休みも終わりになりかけた最後の週に、慌てて、たまった
宿題に手をつけるのが、私自身も常だった。 

同様に、眼をそらしていた“ギャップ”に、向き合わなければ
“心の平和”が取り戻せない事に気がついていても
なかなか、どうにもならないものだ。

夏休みの宿題なら、1週間で片付くかもしれないが、人生の
終焉にこのギャップに気がついても、心の奥に何層にも
積み重なった“負の感情”は、固く定着してしまい、
一朝一夕にそれを色替えするにはあまりに強固になりすぎて
いる。
 
“こんな人になりたい” とだれにでも願う像があるだろう。 

“でも到底、自分は逆立ちしてもそんな風になれるはずない” 
と同時に諦める自分もどこかにいる。

どうして、そう否定しがちになるのだろう?。 

その大きな理由の一つには、建て前の自分 と 本音の自分の
ギャップを埋めることはできないと考えているからかも
しれないし、負の感情を積み重ねていくうちに、
コントロールが効かないほど、強く心の重荷になっている
からかもしれない。
 
心療内科を確立した池見酉次郎先生は、宗教学に精通して、
ご自身でも悟りのための修行を積んでいた。 

心の奥底に眠る“負の感情”を克服するために、さらに
深い次元に潜む“すでに悟っている自分”を
掘り起こす努力をされていた。 

それは心の内面に目を向け、深く、さらに深く、内面の
感情を見つめ、その感情と身体の器官の関連性を
見つけることでもあった。

私たちが“自分”だと思っているものは、ほとんどが、
外界(家族、職場、友人、趣味活動、仕事、運動、学校、
恋愛、チャリティー活動、など) の他人とのかかわり合い
ある日常生活でつくられたものだ。 

自分らしさ、アイデンティティーというのも、そうした外界
の社会生活の中で身に着いた、他者からみた“自分像”にすぎない。

池見先生のように、内面にさらに、奥深く内面へと、
凝視していくのには、他者の眼は役にたたない。

”本当の自分は?” という問いかけを、自分に、他者はできない。
自分が自分で、し続けていくほかない。


 
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心療内科池見博士の患者の例①

2024年08月21日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方


心のアンバランスが身体に表す症状 2024年8月21日
******************

ごく普通の現代人の日常で、余暇をレジャーとして楽しむ
際に、’隠れ蓑的(かくれみのてき)時間の過ごし方”と
池見博士は、語っている。

それは、心の真の要求に目を閉じて”隠れ蓑(みの)的” 
に、心の眼を、内側ではなく外側に目を向けていること
を指している。

人は、自然と、本質的な自己を求める” という意識を
持ち自覚し始めると、内側に、目を向けようとする。

が、それは、決して楽しいことではなく、自分の嫌な面や
現実を直視することが、煩わしくなることもあるだろう。

そこで、レクリエーションという、外側への注意と
楽しみを求め、日常の疲れを癒そうとするのが常だ。


本当の自分を探したい・・という欲求を意識すると、
”セルフコントロールの道”へ一歩、近づいていると
いえる。

そして、本当の自分=自分が誰にも何にも、頼らずに
自分自身で在る ということだけで、充足感を感じる
自分 と巡り合うきっかけは、 誰にでもあるという。

それは、物質的に恵まれた生活の中で、ふっと、何か、
心寂しさを感じ、満たされない想いをかみしめた時
かもしれない。

”自分のほんとうの資質は?”
”生きる目的は?”
”人生の意義は?”
  
人は、毎日、仕事や家事に追われ、日常生活の
ルーティーンで精いっぱいだ。
だからこそ、レクリエーションの時は、新鮮で、 
日常生活の”疲れ” と ”ストレス”を発散でき、
心に活力が戻ると信じている。
 
しかし、先ほどの、 “自分のほんとうに知りたい疑問” 
にはふたをしているままだ。

自分を見失っているような、虚しい感じは、”自問自答”
への答えが出ない限り、解決されないだろう。

そんな時、面倒くさい”自問自答”をする代わりに、
食べたり飲んだり、他の五感を喜ばす方法で その
落ち込みを一時的に解消することは、可能かもしれない。
 
心療内科第一人者の、池見博士はそんな状態の患者の
症例で、次のように言う:

“何かを食べていると、そのような心の苛立ちと
空しさを、ごまかせることに気がついてくる。 

やがては、食物を喉まで詰め込まないと落ち着
かなくなる。

食べては吐くという繰り返しになる。 

病的になっていく場合も、その根源には、心に
満たされない何かがあるからだ” 
 
こうした ”本当の自分の心の声”に蓋をしたとき
顕れた症状の実例を、いくつか、ご紹介したい。
 

B氏の場合)

42歳。係長。
病歴は、過去10年で16回の胃潰瘍で入退院を繰り
返してる。

頼まれるとNOと言えない。
素直に上司からは仕事を引き受け、自分の部下には
気遣いがあり、部下に回す仕事も 時には引き受け
るほど。

そのため、仕事はたまり、自宅で徹夜を幾晩かして、
仕事をかたづけることもある。

池見博士は、職場での人間関係を改善することを
助言。

が、本人は、なかなか実行にうつせなかった。

博士は、B氏のこうした性格の成り立ちの背景を
調べた。

B氏の性格形成の背景)

五人兄弟の長男。
両親がB氏に幼いころから、口癖のように言った
言葉が影響を及ぼしている;

”お前は長男だから、親のいう事は素直に聞き、
弟や妹をいたわり、りっぱな跡取りにならなければ
ならない”

忠実に親のこの言葉を守ったB氏は、先生には絶対
服従・
家庭では良い子で、兄弟に優しかった。

行動パターンの分析)

池見博士は、B氏が、幼児期から少年期にいたるまでの、
両親の教えといいつけを守ることで、基本的な行動
パターンができあがったと推測した。

その結果、B氏の、自然な感情C(子供の心)と冷静な
現実判断A(大人の心)のバランスが、 他人への心遣いP
(親心)が強くなり、圧倒されていた。

そこで、池見博士は、B氏に、’幼児の親子関係’、’兄弟関係’、
’職場での人間関係’を重ね合わせ、P,A,Cのバランスを
とりながら、”今、この”現実に即した生活’を指導して
いった。

特に、職場での追従型自己犠牲型の人間関係を変
えていく努力が見られた時には、一つ一つ、検証し
ながら、進歩とみなし、それを認め励まし続けた。

次第に、B氏は、職場で新しい適応方法を、身に着け、
胃潰瘍の症状は再発しなくなった。


B氏の例のように、今の人間関係の諸問題は、
幼児期の家庭環境、特に、両親との関係に端を発して
いることが少なくないようである。

*十分に愛情を与えられた意識があるか?

*ほかの兄弟と差別されていたという、不満足感
がないか?

*父親の頑固な片意地や、母親のヒステリックな
感情の波を避けるために、自分の殻に入る術を
身に着けていたかどうか?

*親から信頼されているという自信が 培われて
いたかどうか?

などの点は、成長してからも、その人の性格形成
の隠された要因になっていることが多いようだ。

家庭での教育は、学校の教育より先だって、すでに、
胎児のときから始まっている。

胎内教育は、母親の心と魂が、直に、おなかの赤子
に伝えられる。

戦前の日本では当たり前だった、大家族制度では、
祖父母が同居して、孫の面倒をみることは、
当たり前だった。

現代の、核家族では、夫婦が家事を分担しながら、
子育てをする。

保育園も増えて、他人に我が子の一日の大半を、
面倒見てもらうことも多いだろう。

それぞれ一長一短があるとは想うが、母親の子供に
対する、愛情と心構えや、向き合い方は、触れ合う
時間の長短ではなく、もっと、本質的なところで
子供の将来に、影響を与えていくようだ。

本質的なところ?

我が子といえども、独立した魂の持ち主としての
尊敬の念だろう。

私の子供、でも、私の所有物ではない。
過去生で、自分とは別な体験を積んで、沢山の記憶を
背負った、独立した魂としての向き合い方だろう。

自分とは個別の個性と、習性をもって、生まれてきた
我が子に対して、母親としての本能的な愛情のほかに
大いなる理解と、人間愛が、大切だと感じる。

両親の育児と、幼児教育にかかわる姿勢は、その子の
一生を左右する。

成長しても、その人の、基本的性格形成の一端を
になっている~といえそうだ。





参考)
 ”セルフ・コントロールの医学” s・57年9月1日 日本放送出版協会
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