自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

量子物理学と仏教と自然治癒力

2015年09月26日 | 健康のための心の波動

カプラ博士・ダライラマ師     2015・9・26

**********************

 

竹本忠雄博士はある会議をレポートして、フランス語原著の総括書を監訳して発表している。

そこには'量子力学と意識の役割'というテーマで フリッチョフ・カプラ博士をはじめとして

その分野で著名な物理学者の発表が記されている。

 

それは、1979年 スペインのコルドバで行われた‘科学と意識’の国際会議の開催記録だ。

その中から 興味深い‘見えない世界の科学’のお話しをご紹介したい。

近年の最新量子学の分野で東洋哲学が見直されているのと同様、仏教界では最新量子物理学

の論説が注目を浴びている。

実際、今年の5月、鶴見総持寺本堂での、ダライラマ師講演会で、

師が、こんな言葉を口にされ それが印象的だった。

 

“仏教と科学は融合しつつあります。 仏教での深遠な哲学は科学、

特に量子力学の世界のノーベル賞を受賞したような科学者たちの意見にとても

興味をもたれています。

なぜなら、色即是空など、仏教の本質的概念は、

量子学の実験の中でも連動されていることがわかってきたからです。”

 

東洋哲学に造詣深い、カプラ博士は拙ブログでも何度か登場している。

“あらゆるものの根底に存在する純粋意識と

進化した生物としての意識の間には相補性が成り立つ

というカプラ博士は、人の意識も科学的認識の中に理解され、主観的(意識)であり

客観的(科学)に影響を与えるということを主張している物理学者である。

 

実際、量子力学では、客観的世界と呼ばれる世界は厳密には存在せず、

観察する人の主観がその被観察物に影響するといわれている。

1903年ハンガリー生まれの数学者ノイマン(1957年没)はアメリカの数学者で

量子力学を数学的に基盤づけた。

コンピューターの基礎概念を確立した学者としても著名だが、‘意識’の存在意義を認めている。 

量子力学の方程式を数学的に分析していくと、物理的相互作用だけでは最新の物理学の説く、

‘不確定性’が成り立たないと論証した。

この場合の 意識 とは、観測主体の存在意識を意味し、カプラ博士たちの意見と

一致するところでもあるだろう。

 

ダライラマ師が感じ取ったように、カプラ博士の理論では、東洋哲学独特の 

空間。時間、対象物質や因果関係のとらえ方を物理学的に 翻訳したものととらえられrだろう。

その特質は東洋哲学の有機的関連性をもち、すべての現象は、分かちがたいものであると

いう この物理学博士の自論と 仏教の本質とはとても類似したものがある。

 

以下、カプラ博士の言葉*1である:

“物質の素粒子なる単位まことに抽象的な基質で、観測の仕方いかんでは、

粒子として現れたり、波動として現れたりする。 

物質のもつこのような二重性はおおいに面食らわせるものだった。

常に空間内に広がった波動の像はシャープな固定位置を示す粒子の像とは、根本的に異なっていた。

このことによって、機械的世界観の基礎そのもの、ならびに物質の実在性という概念は

崩れたのである。

素粒子レベルにおいては、決まった位置に確実に存在するのではなく、ただ、

‘存在する傾向’を示すにすぎない。

このような‘傾向’は量子理論では確率としてあらわされ、これに対する波動関数という

数学的表現で示される。 

すなわち、粒子が同時に波動でもあるということの理由である。“

 

さらに粒子が波動であるということに対して、もう少し具体的に述べている:

“粒子が波であるといっても、水波のような実際の三次元的波動ではない。

つまり、波動がもつすべての特性を備えた、抽象的数学両たる、

‘確率の波’であり、これらの波動の特性が空間の特定位置、

特定時間において、粒子を見出す確率と関連しているのである。

つまり、個々の出来事は明確に定義された原因というものを持たない。

ある原子軌道からほかの軌道への原子の遷移や素粒子の崩壊などは、

その起因となる事象が無いに等しいにもかかわらず、即発的に生じるのである。

そのような出来事の起こり得ることの確率をわれわれは予知し得るに過ぎない。“

 

物質のミクロ単位である、’粒子’は固体として存在しているのではない。

波動体の特質を十分もった存在で、しかも、確立の波、つまり、見えたり、隠れたりするような

動性ある存在だ。

原子軌道上に存在するはずだが、或るときは光りのように現れ、或るときは消える。

それは、確率論の世界であり、そこには”観察者の主観が 影響を与えている”

ということはとても興味深いことだ。

それを見つめる人の想いがエネルギーとして相手に反応するのは、人間模様に

影響しているように、原子にもそういうエネルギーが通用しているのかもしれない。

体は心を顕わす、とか、心が物質を作り出す(唯心所現)とか、もしかしたら

イワシの頭も信心、心から敬服して拝みとおせば、そこに原子の持つ神妙なる特性が

顕れて、有り難いものになるというのも一理あるのかもしれない。

 

カプラ博士はすでにこのような考え方を半世紀前に発表している。

ところが、私たちの日常生活に無縁の発見のように考えている人がなんと多いのだろう。

たとえば、私たちの身体は何億の細胞でできていて、その細胞の最もミクロな実体は波動体である~

といわれて、はっと”何か”に ピンと、気がつく人は何人いるかということだ。

 

波動体であり、しかも、われわれ自身の想念(観察者として)自分の体を観たとき、

その実体は変化するということに違和感なく受け入れることができれば、体の調整は、

そんなに難しいことではなくなるのではないか?

体だけではなく、脳細胞~数回前のブログにあるように~の資質もこうした細胞を変化させ、

脳からでる化学的分泌物をコントロールできるとすれば、人格や心にも大きな作用を果たすだろう。

実際、先日、あるタレントが仏像の話をしていて、

“仏様の頭部が盛り上がっているのは修行されて悟るとその部分が高揚するということから来ている”

という言葉が残った。

確かに高僧といわれる方たちの頭部の頭頂は盛り上がっているのも 

脳内の細胞変化と考えてよいのだろう。

 

意識が観測する電子に影響を与えるのが証明されているのなら、

‘心はモノに影響を与える’と平易に表現することができるだろう。

モノとは、森羅万象すべて、人も木も、生きとし生けるものすべてに対して、

心の波動、は影響を与えている。

それは仏教では唯心所現 というし、東洋的思想の 物心一如という考え方と等しい。 

心が体に与える影響。

心が相手に与える影響。

心に強く念じる、祈り、善い想いは確実に対象に伝わり、その波動の様相を引き出すだろう。

反対に、憎しみ、悲しみ、不安、怒りなどの想いもつたわることは事実だ。

逆に、知らない間にそうした送られてくる想いや念に、影響をうけていることもある。

愛か不安か?

どちらの想念を今まで選んでいたか? 選ぼうとしているのか? 選んだのか?

常に、心の内側を 二者選択しながら見つめていくところに、

一つの修行の路も有るのかもしれない。

 

 

*1”量子学と意識の役割” 竹本忠雄監修 たま出版

 

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集合意識と自分

2015年09月23日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

ヒットラー意識の片鱗は誰の心にもある       2015/9/23

****************************

ヒットラー意識が自分にもある~?

そんな馬鹿なと思う方もいるに違いない。

もう少し、‘神様’(*1)の言葉を続けたい。

“あなた方の星で起こる出来事は、もう三千年も続いてきたわけだが、

あなた方の‘グループ’、つまり地球という星のすべてのグループの集合意識の反映だ。

ヒットラーという経験が可能になったのも、グループ意識の結果だ。“

つまり、ヒットラー意識の片鱗があるからこそ、ヒットラーが現れたとき、

多くの支持者が彼に権力を持たせていったという。

“ヒットラーは何百万人の人たちが協力し、支援し、積極的に

服従しなければ何もできなかった。

だから、ドイツ人と呼ばれる小グループはホロコーストの大きな

責任をになうべきだ。

しかし、ある意味では人類という大きなグループにも責任がある。

人類は、どんなに冷酷な孤立主義者でも無視できないほど、

惨事が広がるまで、

ドイツ国内の苦しみに無関心で、鈍感だったのだから。”

 

‘神様’の言葉には、ナチスに権力を持たせホロコーストの惨事を

招くまで、ユダヤ人迫害を進めるためには集合意識の存在が否めない

という。

もともと、アウシュヴィッツの強制所などは ユダヤ人に対して

ヒットラーの抱く弱点を矯正させるための収容所として造られたという。

もともとは、ユダヤ人問題を“解決させるための”手段として考えられた

のだった。

ところが、時を経て、ガス室へ彼らをいざない死に至らしめる結果

を招く。

 

神様は言う。

“ヒットラー経験の恐ろしさは 彼が人類に対して罪を犯したという

ことではなく、人類が彼に罪を犯させたということだ。”

 

人は何か失敗があると、自分が不幸になると、環境を他人を責める。

ヒットラーのような独裁者の存在がユダヤ人の迫害を招いたと言う前に

私たち人類がそれを生み出す潜在的な意識を持っていることに、

気づくべきなのかもしれない。

私たちの環境は私たちの心の鏡といわれるのなら、それは家庭と

いう小さな単位から、世界というグローバルな単位にいたるまで

同様の法則が働いているとみえるだろう。

あなたの世界、そして、世界のありようは、そこに住むすべて

の人たちの集合の反映だ。 

周りを見回せば、やるべきことがたくさんあるのがわかるだろう。

もちろん、今の世界で満足していれば、別だが。 

驚いたことに、大抵の人は満足している。だから世界は変わらない。”

 

いまだに内紛や戦争が世界のどこかで起こり、罪もない市民や

女性子供が犠牲になる。

医療に対しても、宗教に対しても、政治に対しても、経済の

仕組みに対しても、何か釈然としないものを感じていても、人々は

自分の小さな意見を言うことは、あえて反撥や反感を招くだけだと

あきらめ、大勢の人たちのあとに、誰かが決めてくれた結論の

もとに‘自分の幸せ’の中に満足し、差しさわりのない生活を

良しとしているものだ。

 

“大抵の人は、適者生存で力はせ意義なり、競争は不可欠、

勝利が最高の善とされている世界で満足している。 

そういうシステムが‘敗者’を生むとしても、自分が敗者で

なければ、それでよいと思っている。”

敗者になれば、社会からはじき出されたり、ホームレスになったり、

非難の的になり、世間から相手にされなくなる。

自分は少なくてもそうはならないし、人並みに幸せな生活で

満足していることが幸せである~と信じる。

大勢の人たちの苦しみ、他者の、敗者の悲しみに想いを

馳せる機会も少ないから、弾圧されている少数派の人たちの

意見に耳を傾ける余裕もない。

こうした普段 何気なく抱いている私たちの意識こそ、

マイナスの集合意識が成長する下地になるのかもしれない。

“集合意識というのは、きわめて強力で注意しないと、

個人の意識をはるかにしのいでしまう。 

だから、地球上の大きな人生経験が調和のとれたもので

あってほしいなら、どこにいても、何をしても、自分自身も

集団意識を創りだそうと努力しなければならない。”

と神は言う。

 

ヒットラーが出現した意義があるのならそれは何か?

“人間性を示すこと”と神は答える。

人間とは?

崇高な意識を持てる反面、どれほど、矮小な偽善者に、

そして、利己的幸せで満足できる可能性を示すための神の

演出した‘リーラ’~ 演劇なのだ。

“歴史を通じて、注目すべき教師たちが現れては、

あなたたちの本当の姿を思い起こさせる目覚しい機会

を提供している。

人間とは何かについて、彼らは息をのむような生々しい

手本を示した。

自覚的な意識があれば、その経験をもとに多くの物は

どこに到達でき、どこに到達するかを教えてきた。“

 

その経験をもとに新たなグループ意識が生まれる。

その集合意識が自分に相応しいか、納得できるか、

それは個々で判断して選ぶ。

私たち一人ひとりの意識、それを、自分で確認して行動

していくこと、それが大切だと、ヒットラーの出現した

背景にはその意義が隠されている。

 

ところで、

私という言葉、世界中の言語にこの言葉だけは無い言葉

はないだろう。

同様、私たちという言葉も必ず、どの言語には存在するだろう。

私が、私の、と言う間は、相手という他人を認め、もし相手が

好ましくなければ離反や分離を生むだろう。

でも、私たち という言葉を使うようになると、そのグループ

に入っている人たちが単位になるから、

分離はよほどのことがなければ起こらないだろう。

そこには理解と愛が基調になっているからだ。

私たちの~と言葉を替えるだけで、次の言葉も少し変わってくる。

考え方も変わってくる。

ほんとうに私たちのために平和で健康的な生活を送るために、

主語を 私 から、 私たちに置き換えて考えて行くだけで、

何かが違ってくるような気がする。

 

*1~ここでいう、

神様とは以下の本の中に

出てくる主体の言葉です。

’神との対話’ 

ニール・ドナルド・ウォルシュ  

吉田利子訳  サンマーク出版

 

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ヒットラーと神の意思

2015年09月20日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

私たちの自由意思と神の自由意思

***************************

 

生まれつき病弱な人がいる。

一生、医者にかかることなく、元気で終わる人もいる。

災難続きにあったり、自然災害に見舞われたり、一方、平穏に過ごす人もいる。

一見不幸に見える環境でありながら、幸福感を味わる人もいれば、

恵まれた環境の中で、人知れず嘆いている人もいる。

そういう意味で、ヒットラーが地獄に行かず天国へ行った、

などと聞かされると、納得のいかない感情がわく。

今日はそのことについて・・・

 

先回、ヒットラーが地獄に行かず、天国に行ったという記事に続き、

人の自由意思について考えてみたい。

自然治癒力と関係がないかといえば、実は、人の心に相応して、

体の調子は変化するので人の意思はとても大切な要素といえる。

 

先回に続いて、神様(*1)の対話という形式で引用しながら

ご紹介したい。

“ヒットラーに関すること・・あれは神の意思ではなかったと思うか?”

と神は人に問う。

むしろ、ヒットラーは、神の意思を踏みにじったのではないだろうか?

~と普通は考える。

愛と調和に満ちた神が、そんなことを意図するわけがないのだから・・・

 

神はさらに聞く。

“わたしを全能だと思うか・・”“全能なのに、どうしてそんなことが

起こったのだろう?”

そう神に聞かれた人は、”あなたは、ヒットラーの行動を放置して

おいたのかもしれない。”と答える。

すると、神は答える;

“わたしが全能なら、そしてヒットラーの行動を自由に放置

させておいたのなら、それが私の意思だろう?”

 

なるほど・・・一理ある。

だとすれば、神の意思とは、人間が自由に選択することを良し

とする、あるいは、選択させる、そこにあるというのだろうか?

 

ここで神はこう、言葉を続ける;“ヒットラーは誰もがそうだが、

自由に選択することができる。 

そして、私が望む選択をしなかったからといって、その人を

未来永劫に罰するという意思を私は持っていない。 

もし、そうだとしたら、どうして、誰もが自由な選択を

できるだろう?”


“わたしの望みに反したら、言語に絶する苦しみを味わうと

わかっていたら、あなたは自分のしたいようにするかね? 

それが自由な選択と言えるだろうか?”

 

もし、神が罰しないのなら、誰が罰するのか? 

誰も、ただ、自分自身を除いては。

そして、因果応報という形で自分のカルマ()を清算する形で

罰せられるような苦しみが帰ってくる場合を除いては。自業自得、

ということだろう。

それは、神のせいではなく、他人のせいでもなく、あくまで

自分が蒔いた種の結果を刈り取るだけの話だ。

ヒットラーの例でいえば、彼は最後は追い詰められて恋人と

ともに、自殺を遂げる。

それは自業自得の結末であっても、神は決して罰していない。

あの世で彼は天国にいるのだから・・・

 

さて、再び、ヒットラーが自由選択したというその大虐殺に

ついて話を戻すと、神のコトバは続く:

“彼の行動は、あなた方に言わせれば‘過ち’未発達なものの、

行動だ。

しかし、過ちは非難して罰するべきものではなく、修正する

チャンス、発達するチャンスを与えるべきものだ。

ヒットラーが起こした過ちは、彼が死にいたらしめた人々を

なんら害することも、侵すこともなかった。 

あの人々の魂は地上の束縛から解放された。 

さなぎから蝶となり解放されるように。“

 

これは先回の“死”の現実がもたらす“福音”であるというところ

と重複する。

体を持っている私たちの知らない(忘れている) 喜びの世界が

そこにはあるのだと神は言う。

さらに、言葉は続く:

 

“彼ら(拷問を受けたユダヤ人)は時ならぬ死をとげたの

だから、‘間違っている’とあなたは言うが、

それは宇宙では起こるべきでないことが起こりうると

言っているのと同じだ。

だが、私が何者でどのような存在であるかを考えれば、

それは不可能だよ。

宇宙で起こることはすべて、完全に起こるべくして起こっている。“

 

私たちは自分で決めて、行動する。それを自由意思の選択行動

というのだが、ほんとうに私たちは自分の意思を尊重した

選択をしているのかどうか? 

社会が許さないから、親が反対するから、常識に反するから、

嫌われるから、問題を起こしそうだから…

無難なところで、手を打つ。それも、ある意味、神の意思

なのだろうか?

自由意思を効ししているという点では。

自由意思・・神の意思・・

ここで神が伝えたかったことは、“人は何を選択しても自由だが、

それから学びを得て、次第に本来の自分に近づいてくる”

“そうした様々な体験も身体を持っている内だからできることである”

ということに他ならないような気がする。

 

 

*1~ここでいう、

神様とは以下の本の中

に出てくる主体の言葉です。

’神との対話’ 

ニール・ドナルド・ウォルシュ  

吉田利子訳  

サンマーク出版

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天国と地獄の存在、ヒットラーの場合

2015年09月17日 | 健全生活のために”死”の常識を反転

ヒットラーは天国へ行った?!

********************

神との対話(*1)の中のお話しのひとこまをご紹介したい。

“死ぬ”ということを考えて初めて“生きる”ということの意味が

わかると私は常々思っている。

ところで、今、私たちは本当に“生きて”いるのだろうか?

機械のように、何も考えずに、感覚の赴くままに美味しいものを

食べるのを生きがいに 様々な欲求を満たして 寝て起きて、

惰性的に常識的に生きていれば 無難(ぶなん)だと

当たり前のルーティーンで毎日を送る。

 

深く考えたりすることは野暮、まして死についてなんて・・・

たった一度の人生、とにかく、楽しく悔いなく生きなければ、

損じゃない?と、ワイワイガヤガヤの楽しいグループの中で

美味しい店はどこか?なにが一番の流行か?と気にかけ

社会的に安全だというレールの上を、漠然と安穏と生きて

いるのは本当に“生きている”といえるのだろうか?

 

こんなことを考えるのも、特攻隊の人たちの番組や映画が

戦後70年ということで今年は、たびたび、メディアにとりあげ

られたせいかもしれない。

彼らの死に行く前の気持ちを綴った手紙を読み想いを馳せても、

想像ができないほどの範疇であることを知る。

紙切れ一枚で戦争に駆り出され、消耗品のような扱いを受けて

死の片道切符の飛行機へ乗る~その前日、前夜、彼らは

悲痛な面持ちで一睡もできず、しかし、翌日、まるでカラリと

晴れた青空のような笑顔で上官たちに敬礼をして、杯を

酌み交わして足取り軽く飛行機に乗っていく映像が残されていた。

 

死とは? 生の重みを感じるための片方の天秤に乗せられた

重石のようなもの。そんな事に思いを馳せながら次のの言葉

を読んだ。

皆様はどんな感想を持たれるだろうか? 引用する・・・

 

“ヒットラーは天国に行ったのだ・・・

(地獄に行かないのか?という質問に対して)

第一に彼は地極にはいけない。地極というものが無いからだ。 

だから、彼が行けるのは一か所しかない。

そこで、問題が起こる。本当の問題は、ヒットラーの

行動が‘悪’かどうかということだ。 

ところが、私は、宇宙には‘正’も‘悪’も無いと

繰り返していっている。・・・”(引用終わり)

 

正邪は無い。それは

“文化によって、時代によって、宗教によって、

地域によって、・・家庭によって、一人ひとりの

個人によっていくらでも変わる対象にすぎないという。

 

ある時代に大勢の人が‘正しい’と考えたことがたとえば、

魔女だと思った人を火あぶりにするといったことが、

現在は‘間違っている’とされる。”ように。

 

ヒットラーが地獄に行かないもう一つの理由。 

それは、死によってもたらされる魂への恩恵を、

体をもって生きている私たちには理解できないからだという。

神”は説明する。

 

“あなたは、地上の暮らしのほうが、天国での命よりも

良いものだと思っているのかね?

いいかね、死の瞬間にあなたは、かつて味わった最大

の自由、最大の平安、最大の喜び、最大の愛を知るだろう。”

 

この言葉がピンとこない方も大勢いるに違いない。

以前ブログで 生と死 のジャンルの中で、臨死体験を

した人たちの多くの言葉を取り上げた。 

臨死体験車の皆が一応に 言う決まっているフレーズが

あったが、その中にも上記の神様の言葉に相応する内容があった。

死ぬまで気がつかなかったが、死んでみて、愛のような

あたたかいものに取り巻かれている気持ちになる~と表現した

自殺者の魂(‘生きがいの創造’の中の事例)もあった。

 

ところで、ヒットラーが何百万人ものユダヤ人たちの命を 

狂気のような独裁政治下で奪ったという事実は誰もが

知っている。

それは決して許されるべきものではないことも

西ドイツ政府は、国民たちに学校授業を通して教育し、

当時の収容所に関する様々な歴史的建物などを保存して、

自ら戒めていることを世界に表明している。

しかし、当時は、ヒットラー自身を総裁として熱烈

な支持をしたのは国民であり、誰ひとり、そうした

ユダヤ人への迫害事実に抗議をしたドイツ国民は当時

いなかったに違いない。

つまり、ヒットラーの行為を責める前に、そうした

集団意識、”ハインリッヒ・ヒットラー!”と

ヒットラーに忠節を尽くす意思表示、右腕を前に突出し、

ヒットラーを称えた群集心理こそ、実際問題にされる

ところだったに違いない。

 

平和・・・今私たちが聲を挙げるべきことはないのか・・・?

何か、今、できることはないのか?

あきらめと人任せをする前に、何か・・・? 

いずれにしても、ヒットラーの魂は天国 (地獄は無いとしたら) 

に行って、愛の光に満たされているのだろうか・・?

 

ここでいえることは、生命は身体が消えても、

なお、魂として個性をもって生き通しであるということを、

神はメッセージで伝えている。信じるかどうかは

あなたの自由意思ではあるが・・・続きは次回に譲りたい。

 

 

*1~ここでいう

、神様とは以下の本の中に出てくる主体の言葉です。

’神との対話’ 

ニール・ドナルド・ウォルシュ 

吉田利子訳  サンマーク出版

 

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心療内科の目的と暗示訓練法

2015年09月14日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

リラックスする時の暗示法を加味すると・・・・   2015・9・14

*******************************************

 

”九大医学部全国で最初の心身医学の研究所(現在の心療内科)が発足して以来、

私どもがただ一筋に求めてきたものは、人間の心と体の結びつきを追求することによって、

心身一如の健康と幸福を実現するための医学的方法を見つけ出すことだった。”

と 池身酉次郎博士は自著に書いている。(*1)

心と体の結びつきに着眼した博士は、すでに日本より先を越しているこの分野での

先進国の自律的療法などを紹介している。

 

ドイツのシュルツ博士の創案である、標準練習は基本的に暗示法の学習は

6段階の暗示のステップからなる。

目的は頭部、心臓部、消化器系等などの自律促進である。

 

第一段階の暗示)

①   できるだけ、静かで、明るすぎない落ち着ける場所を選び、仰向けに横になる

(布団など敷いてよい)

②   目を閉じて“気分が落ち着く”と心でゆっくりと、反復する。

③   気分が落ちついたら、次に、“右腕が重たい”と暗示をかけて右腕が重くなってくる様を感じる。

④   次に同様に“左腕が重たい”と暗示をかける。

⑤   両腕が終わったら、同様にして右脚、左脚と行う。

⑥   時間は5分ぐらい。朝昼晩と行う。

池見博士によると、こうして、両足両腕が重くなるように感じられるには、3週間ぐらいかかるとしている。

 

第二段階の暗示)

①   第一段階の暗示の要領で 重たさの代わりに “これからどんどん暖かくなる”という暗示をかける。

順番は、右腕、左腕、右脚、左脚 の順序で行う。

 

第三段階の暗示)

①   これまでの暗示を一通りかけた後、“心臓がとても静かに打っている” とか、

“心臓は規則正しく打っている” とか、心臓調整の言葉を付け加える。

②   但し、心臓に持病がある人や、血圧の高い人はこの訓練は避けた方が良い場合もある。

 

第四段階の暗示)

①   これまでの暗示を一通りかけた後、“楽に呼吸している”という言葉を添える。

②   その際、意識して呼吸の数や、仕方を変えようとしない事。

③   但し、喘息、肺結核、呼吸器系の障害在る人は専門家と相談して行う方が良い。

 

第五段階の暗示)

①   上記の暗示をかけた後、“腹部が気持ち良い”〝胃のあたりが温かい“と、付け加える。

②   但し、糖尿病、消化器系病気を持つ人は訓練の最後に回した方が良い場合がある。

 

第六段階の暗示)

①   最後に頭部への暗示である。〝頭が涼しい“と付け加える。

②   但し、てんかん、頭痛もち、の人で深いな症状が 起こった場合は、別の手段を専門家に相談する。

 

この六段階の訓練をマスターするためには、早くて2~3か月、通常6か月ぐらいかかると言われている。

この訓練方法を利用して体をリラックスさせる法もある。

これはセラピー協会で行っているもので、心療内科とは関係はない。

最初の第一段階の暗示、もしくは、第二段階の暗示をかけて、重くなる と想定して

そう”思い込んだ意識”を造る集中力訓練、そして、それによって、腕や脚の重さ 、

あるいは、温かさを感じる体験をするのはそう難しい事ではない。

その次に、第三段階の ”心臓の自律を計る暗示”をかける代わりに、

“わたしの体は今リラックスしてくる。” と目を閉じた状態で 

頭部、頸部、肩、胸、腹、臀部、腿、脹脛、足 と徐々に下に向かいながら、力を抜いていく。 

力が抜けているかどうか確かめるのに、一時的にそこに瞬間力を入れてみるのも方法だ。 

体の力が抜けるのと同時に、暗示の力も加わって、その部位の細胞が

休息状態で落ち付いてくるのがわかる。

体を横たえていると、筋肉への付加がないので、やりやすい。

寝る前とか 疲れがたまったとき、こうした方法を取って見ると、

深い眠りに心身誘導されやすい。

 

次に少し、異なる要素を加えたリラックス方法もある。

(これは、スピリチュアル的興味ある人以外にはおすすめできないが)

先の要領で体を上部から解いて行くと、どうしても、なかなか、緊張が高く、緩んでも

すぐ力の入る部位が在る場合に有効だ。

例えば、頸椎(首付近)の力を抜いても、緊張が取れない場合、そこに利き手を置いてみる。

そして、静かに気を流す。

大体、人は無意識でこうした動作を 日常、何気なくしているものだ。

これは、フランスのヨガの指導者だった、Mさんから実際手ほどきを受けた体験があるが、

その手を当てながら、心の中にあるどんな緊張がこの状態を創りだしてみるか、

その部分に尋ねるのである。

すると、“友達”とか、“仕事”とか何となく、直観が伝わる場合がある。

嘘だと思ったら、一度試していただきたい。

 

そして、その時、それをあれこれ詮索することなく、ただ、

“友達、OK.リラックス”とつぶやくのである。

“仕事OK.リラックス”、

“~さん、OK.リラックス”

“金銭問題OK.リラックス”、等・・・・

そしてその部位が次第にリラックスしてきたら、次の部位に移る。

 

次の部位の力が抜けているかどうか心で感じて行く。

こうして 頭から足まで リラックス状況に持っていき、体の緩みを図る。

暗示 というのは、非常に強い影響を心に及ぼす。 心がそう思い込むと

 

実際、そのような状況がつくられるからだ。

ここでは自分の体であったが、この暗示を利用すれば、よくも悪くもいろいろな応用が見られる。

俗に言う、呪い もそうだし、能力開発に用いる手法にも使われているし、

自分の心を縛るのも暗示の一種(思い込み)だし、解放するのも暗示(希望)である。

それを体と心が一体であるという、池見博士の冒頭の信念、心身一如の法則を基に

健康を医学的に造るという原則に暗示力が応用されているのは最もなことだと思った。

 

 *1 ”セルフコントロールの医学″ 日本放送出版協会 池見酉次郎著 昭和57年

 

 

 

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