カプラ博士・ダライラマ師 2015・9・26
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竹本忠雄博士はある会議をレポートして、
フランス語原著の総括書を監訳して発表している。
そこには '量子力学と意識の役割' というテーマで
フリッチョフ・カプラ博士をはじめとして
その分野で著名な物理学者の発表が記されている。
それは、1979年 スペインのコルドバで行われた
‘科学と意識’の国際会議の開催記録だ。
その中から 興味深い ‘見えない世界の科学’ の
お話しをご紹介したい。
近年の最新量子学の分野で、東洋哲学が見直されて
いるのと同様、仏教界では最新量子物理学
の論説が注目を浴びている。
実際、今年の5月、鶴見総持寺本堂での、
ダライラマ師講演会で、師が、こんな言葉を口にされ
それが印象的だった。
“仏教と科学は融合しつつあります。
仏教での深遠な哲学は科学、
特に量子力学の世界のノーベル賞を受賞
したような科学者たちの意見にとても
興味をもたれています。
なぜなら、色即是空など、仏教の本質的概念は、
量子学の実験の中でも連動されていることが
わかってきたからです。”
東洋哲学に造詣深い、カプラ博士は拙ブログ
でも何度か登場している。
“あらゆるものの根底に存在する純粋意識と
進化した生物としての意識の間には相補性が
成り立つ”
というカプラ博士は、人の意識も科学的認識の
中に理解され、主観的(意識)であり
客観的(科学)に影響を与えるということを
主張している物理学者である。
実際、量子力学では、客観的世界と呼ばれる
世界は厳密には存在せず、
観察する人の主観がその被観察物に影響する
といわれている。
1903年ハンガリー生まれの数学者ノイマン(1957年没)
はアメリカの数学者で
量子力学を数学的に基盤づけた。
コンピューターの基礎概念を確立した学者としても
著名だが、‘意識’の存在意義を認めている。
量子力学の方程式を数学的に分析していくと、
物理的相互作用だけでは最新の物理学の説く、
‘不確定性’が成り立たないと論証した。
この場合の 意識 とは、観測主体の存在意識を
意味し、カプラ博士たちの意見と一致するところ
でもあるだろう。
ダライラマ師が感じ取ったように、カプラ博士の
理論では、東洋哲学独特の 空間 時間、対象物質
や因果関係のとらえ方を物理学的に 翻訳したもの
ととらえられるだろう。
その特質は東洋哲学の有機的関連性をもち、
すべての現象は、分かちがたいものであると
いう この物理学博士の自論と 仏教の本質とは
とても類似したものがある。
以下、カプラ博士の言葉*1である:
“物質の素粒子なる単位まことに抽象的な基質で、
観測の仕方いかんでは、
粒子として現れたり、波動として現れたりする。
物質のもつこのような二重性は、おおいに
面食らわせるものだった。
常に、空間内に広がった波動の像はシャープな
固定位置を示す粒子の像とは、根本的に異なって
いた。
このことによって、機械的世界観の基礎そのもの、
ならびに物質の実在性という概念は
崩れたのである。
素粒子レベルにおいては、決まった位置に確実に
存在するのではなく、ただ、‘存在する傾向’を
示すにすぎない。
このような‘傾向’は量子理論では確率として
あらわされ、これに対する波動関数という
数学的表現で示される。
すなわち、粒子が同時に波動でもあるという
ことの理由である。“
さらに粒子が波動であるということに対して、
もう少し具体的に述べている:
“粒子が波であるといっても、水波のような
実際の三次元的波動ではない。
つまり、波動がもつすべての特性を備えた、
抽象的数学両たる、‘確率の波’であり、これらの
波動の特性が空間の特定位置、
特定時間において、粒子を見出す確率と
関連しているのである。
つまり、個々の出来事は明確に定義された
原因というものを持たない。
ある原子軌道からほかの軌道への原子の遷移
や素粒子の崩壊などは、その起因となる事象
が無いに等しいにもかかわらず、即発的に
生じるのである。
そのような出来事の起こり得ることの確率を
われわれは予知し得るに過ぎない。“
物質のミクロ単位である、’粒子’は固体として
存在しているのではない。
波動体の特質を十分もった存在で、しかも、
確立の波、つまり、見えたり、隠れたりする
ような動性ある存在だ。
原子軌道上に存在するはずだが、或るときは
光りのように現れ、或るときは消える。
それは、確率論の世界であり、そこには
”観察者の主観が 影響を与えている”
ということはとても興味深いことだ。
それを見つめる人の想いが、エネルギーとして
相手に反応するのは、人間模様に
影響しているように、原子にもそういう
エネルギーが通用しているのかもしれない。
体は心を顕わす、とか、心が物質を作り出す
(唯心所現)とか、もしかしたら
イワシの頭も信心、心から敬服して拝みとおせば、
そこに原子の持つ神妙なる特性が
顕れて、有り難いものになるというのも
一理あるのかもしれない。
カプラ博士はすでにこのような考え方を
半世紀前に発表している。
ところが、私たちの日常生活に無縁の発見の
ように考えている人がなんと多いのだろう。
たとえば、私たちの身体は何億の細胞でできて
いて、その細胞の最もミクロな実体は波動体
である~
といわれて、はっと”何か”に ピンと、気がつく人
は何人いるかということだ。
波動体であり、しかも、われわれ自身の想念
(観察者として)自分の体を観たとき、
その実体は変化するということを、違和感なく受け
入れることができれば、体の調整は、
そんなに難しいことではなくなるのではないか?
体だけではなく、脳細胞~数回前のブログにある
ように~の資質もこうした細胞を変化させ、
脳からでる化学的分泌物をコントロールできると
すれば、人格や心にも大きな作用を果たすだろう。
実際、先日、あるタレントが仏像の話をしていて、
“仏様の頭部が盛り上がっているのは、修行されて悟る
とその部分が高揚するということから来ている”
という言葉が残った。
確かに高僧といわれる方たちの頭部の頭頂は、盛り
上がっているのも 脳内の細胞変化と考えて
よいのだろう。
意識が観測する電子に影響を与えるのが証明されて
いるのなら、
‘心はモノに影響を与える’と平易に表現することが
できるだろう。
モノとは、森羅万象すべて、人も木も、生きとし
生けるものすべてに対して、
心の波動、は影響を与えている。
それは仏教では唯心所現 というし、東洋的思想の
物心一如という考え方と等しい。
心が体に与える影響。
心が相手に与える影響。
心に強く念じる、祈り、善い想いは確実に対象に
伝わり、その波動の様相を引き出すだろう。
反対に、憎しみ、悲しみ、不安、怒りなどの
想いもつたわることは事実だ。
逆に、知らない間にそうした送られてくる想いや
念に、影響をうけていることもある。
愛か不安か?
どちらの想念を今まで選んでいたか?
選ぼうとしているのか?
どちらを選んだのか?
常に、心の内側を 二者選択しながら見つめて
いくところに、
一つの修行の路も有るのかもしれない。
*1”量子学と意識の役割” 竹本忠雄監修 たま出版